槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2009/05/17 20:49:06|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(5. 昆明から大理へ)

5)昆明から大理へ
予定の昆明10:35発の便CZ3481(中国南方航空)に間に合う様に、朝8:30に宝善大酒店にガイドさんに迎えに来てもらいタクシーで昆明空港に向かった。途中、これが完成すれば東洋一の高層ビルになるという造成中の更地を右手に見て、中国の限りないパワーを感じ、日本の20年前とそっくりだと思っているうちに、空港についた。チェックインをした後、出発ゲートに向かった。空港内売店には果物、漢方薬、書籍が目についたが、その光景は昨年3月と変わらない。ここで「雲南行知書」という本を買ったのを思い出した。搭乗ゲートは1Fにあり、遠くを見ると聞いたことの無い中国国内航空の飛行機が見えた(写真1a)。搭乗予定の便が間違いないか確認し(写真1b)、更に搭乗ゲートの待合室の片隅に果物等を販売している店があったので写真を撮った(写真1c)。去年3月来たときには、西遊記にも登場する「人参果」という果物があったが、今回は見ることが出来なかった。

中国南方航空は初めて利用させてもらう航空便であるが、自分のブログの広告提供社となってくれたことが何度と無くあったので、親近感を感じていた。しかし、機内に入ってもその名はどこにも見られず、もしかして中国南方航空の下請け便?などと勘ぐってしまったが、離陸後少しして、雲を破って青空に出たところで、主翼に中国南方航空と表示されている(写真2a)ことが分かった。

昆明から大理までは上空にあるのは30分程度であろう。機内サービスのペットボトルの水と餡パンが配られて間もなく、窓下に洱海が見えていた(写真2b)。そして高度を下げた飛行機からは見事な段々畑が次々に目に入る(写真3a、写真3b、写真3c)。秋に作物が実る頃黄金色に輝く棚田を想像したが、いつも思うことは四川、雲南省は赤土が多く、本当に実るのだろうか、実るとすると、鉄が含まれた造血に良い米が採れるのかも知れない。などと想像をめぐらしているうちに、棚田にすれすれになりながら大理空港へ着陸、到着した(写真4a、写真4b)。

到着ロビーには自分の名前が書かれたプラカードを持った現地の日本語ガイドさんが待ち受けてくれている予定で、男性のガイドさんということになっていたので、それほど多くない待ち受け人を探したが、目に入ったのは小柄な女性のガイドさんだった。何か手違いが有ったはず、と一瞬思ったが、思っても仕方のないこととガイドさんの後についていった。

**** つづく ****







2009/05/11 21:03:02|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(6. 蘭林閣ホテル)

6.蘭林閣ホテル
大理に着いたのは、昼まじかであったが、予定ではホテルのチェックインを済ませた後、大理古城を散策することになっていた。空港からホテルに着くまでの車の中で、なんとなくマラソンランナー野口みずき似の小柄な女性のガイドさん、葛 洪俊さんのことについていろいろ訪ねてみた。必ずガイドさんに聞くのは、@漢民族か少数民族か? A日本語をどの様にして勉強したか、B血液型は?である。

@に対しては、「バイ族です。」というのが最初の答えだった。車の騒音でよく聞き取れず、「タイ族?」と聞きなおしたが、「バイ族です。」と同じ答え、バイ族なんてあったかなア、と腑に落ちない顔をしていたら、「ハク族です。シロという漢字の。」と言いなおした。なんと憧れのペー族ではないか。ARACHINAの沈さんには、「出来たら大理のガイドさんはペー族の女性だと嬉しいのですが、」と希望を伝えていたのだが、まさか実現するとは。Luckeyであった。

大理は中国雲南省の中部に位置するペー族自治州である。中国雲南省大理州の東部は楚雄イー族自治州と接し、南部はプアール市、臨滄市と接し、西部は保山市、怒江リス族自治州と接し、北部は麗江と接している。中国雲南省大理州の総面積が29459m2、うち山地が83.7%を占める。大理州都は昆明から338KM離れた下関にある。ちなみに、ガイドの葛さんに「お住まいはどちら?」と聞いたら、「シモノセキ」との答え、更に「親の代から?」と聞くと、「そうです。」。ついでに日本語はどこで勉強したの?」と聞くと、「黒龍江省の日本語専門学校」との答えであった。大理には日本語専門学校はないそうである。

そういうことで、ここ大理では民族衣装を着たペー族の女性はどこにでもいるのである。先ずホテルの受付嬢が民族衣装を着たペー族であった(写真1)。このホテルは元ペー族の民家だったところを改造してホテルにしたということであったが、ホテルのいたるところにその香がした。中庭を囲う白壁にはペー族民家に独特の模様がほられている。そしてその白壁には「紫気東来」と大書きされていた(写真2)が意味は分からなかった。

また、至るところに花木が植えられていて目を楽しませてくれる。紫陽花(写真3a)、あやめ、君子蘭、ブーゲンビリア(写真3b)などがあった。二階に位置する部屋はゆったりと広く、調度品は重厚でありながら柔らかな明るさが漂い(写真4a)、バス・トイレは水回り、清潔感ともに申し分なく(写真4b)安心感が持てた。

何気なく窓の外を見たら、隣の建物は学校の様で、登下校する生徒達が行き来していた(写真4c)。行き来する生徒を最も大勢見かけた時間帯は夜7:00頃であり、通路はいっぱいだった。

聞くところによると、中国の特に田舎の方では、二部や三部授業が普通で、夕刻登校して、学校で数時間自習して帰る生徒達もいるのだそうだ。生徒の服装に乱れは殆どなく、授業の乱れなど到底引き起こしそうも無い生徒の澄んだ顔つきであった。日本の教育現場の先生からみれば、きっと羨ましいと言うに違いない。20年前に日本の教育現場に普通に見られた光景であっただろう。良い景色を観たという感覚になった。そんなこともあって、自分の中では、これまで宿泊した中国のホテルでは最上級ホテルというランクづけをした。

***** つづく *****







2009/05/11 19:49:27|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(4.民族舞踏ショー)

4)昆明吉鑫民族舞踏ショー
北京観光を午前中に終え、HU7111(1525/1900)中国海南航空機に乗り込んだ。チェックイン後空港内食堂で、黄金大排麺(写真1)を38元払って食べ、空路3.5時間の旅で昆明に向かった。昆明は昨年3月に来た時の印象と随分違ったが、そのときは成田から成都(四川省)経由で、昆明に着いたのは、その日の夜遅くであり、着陸直前に見た昆明の街はネオンに飾られていて、着陸後もネオン輝く街路の間を縫ってホテルに着いたからであろう。

今回はまだ明るい19:00頃に到着して、ちょうど帰宅に向かう車のラッシュ時間で、しかも道路工事中だったことも違う印象を受けた理由となった。ガイドさんの話では、雲南省の省都昆明市の人口は600万人で車の登録台数は100万台とのこと。一世帯の構成を夫婦+子供二人+祖父母二人の6人家族を平均とすると一世帯につき一台の所有率と言える。そういえばここ昆明では、多いのは自転車ではなく車かバイクであり、経済成長とともに人々の移動速度もアップしているのだろう。バイクもガソリンではなく
ヘルメット不着用が認められている電動バイクが多い。

空港に迎えに来ていてくれた日本語ガイドさんの趙咸涛さんの出迎えを受け、一路繁華街の方へ向かった。目指すは「吉鑫民族舞踏ショー」をみせるレストラン吉鑫○味城である(○はサンズイに真)。夕食をしながらの見学であるが、ARACHINAからの推奨ではなくて、旅行ガイドブックに掲載されているのを見てリクエストして実現したのであった。向かうタクシーの中で、「鑫」というのはどう発音するの、どういう意味?」と尋ねてみた。「キン、と読みます。意味はお金が沢山あるという意味です。」と答えてくれ、「確かに。」とすぐ納得できた。「「吉鑫」という名前は店に吉があって、お金がいっぱい儲かりますようにという願いでつけられている」という説明にも「確かに。」とすぐ納得できた。

ちなみにこの様な漢字の使い方は中国に多く、身近なところ(人名)では、中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲家は聶耳(ジョウジ)だし、矗(チク)、森林(シンリン)などもこの部類だろう。驫(ヒョウ)、蟲(チュウ)晶(ショウ)など数しれない。もっと身近な漢字として品などもある。

空港から20分ほどでそこに到着したが、到着した時にはすでにショーは始まっていた。料理は昆明の定番料理の「過橋米線セット」30元を注文した。席は二階テラス席であり、見晴らしは良いが臨場感が乏しかった。女性進行役の説明(写真1)で少数民族のショーが展開される。目当ての白(ペー)族は既に出た後なのか、結局姿が見られなかった。あるいは、日替わりで登場する少数民族が異なるのかも知れなかった。

この日は中国雲南チンポー族(写真2)とプイ族(写真4)の出番のようだった。チンポー族は人口約13万人で主に中国雲南省徳宏タイ族チンポー族州に住んでいるとのこと。またプイ族は人口約300万人で、チワン族と同一祖先をもっており、百越(古代の江蘇、浙江、福建、広東一帯に分布していた)の一部。今でもプイ族の人びとは古代越人の風俗習慣を残しており、例えば欄干式の家屋に住み、銅製の太鼓を打つなどがそれ。前漢の頃の夜郎国と現在のプイ族のルーツの関連性を認める人もいる。

中国雲南省プイ族は水稲の栽培に従事していたながい歴史をもつ農耕民族だ。プイ族の人びとがつくったろうけつ染めは長い歴史があり、図案が美しく、国内外で知られている工芸品と収蔵品とのことである。

プイ族の人びとは柿の葉を使って綺麗なメロディーを奏でる(写真3)。もう一つ髪被り飾りに特徴がある少数民族が出た(写真4)が、以下のwebを参照しても分からなかった。本来の民族衣装をデフォルメしてショーに出ているからだろう。
  http://www.allchinainfo.com/ethnic/jingpo.html
**** つづく ****







2009/05/11 19:34:57|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(3.更に北京・国子監)

3) 国子監
国子監(こくしかん)とは、中国における隋代以降、近代以前の最高学府で、各王朝の都(長安・洛陽・開封・南京)など)に設けられた。明代には南京と北京の二都に設けられた。元・明・清三代に渡って置かれた北京国子監は現在、北京市東城区の国子監街にある。その建築物は現在に至るまで残されており、全国重点文物保護位となっている。と観光案内に記されている。

しかし自分にとってもっと重要な情報は、孔廟と隣合わせていて、同じ拝観チケットで両方を見学できるということだった。両所をつなぐ門があり、そこを使って、国子監から孔廟へ、または孔廟から国子監へと通り抜け出来るのである。だからと言って損をしたという気は全く無く、国子監なりの良さを感じ取ることは出来た。国子監も孔廟と同様に南北に建物が配置されている(写真1)、孔廟の大成門を横目に見て更に歩を進めると、同じ側に、国子監の入り口「集賢門」(写真2a)があり、門をくぐり、「澤教○園」と書かれた太学門(写真2b)を通り、また藤(写真3b)やガイドさんの勇姿(写真3c)を撮りながら「辟雍」と呼ばれる建物に至った(写真3a)。

「辟雍」は太学門をくぐって最初に現れる大きな建物であり、国子監の主堂である。学生は全国各地から送り込まれた優等生で監生と呼ばれ、科挙の会試受験準備に明け暮れた。監生はこの「辟雍」に入って講義を受けた。「辟雍」は乾隆帝が自ら講義した講堂とのことである。

乾隆帝の名は中国観光の行く先々で聞く。大清帝国の象徴的な皇帝だったのだろう。康熙帝、雍正帝、乾隆帝は姓を愛新覚羅(あいしんかくら)といい、本来の満洲語ではAisin gioro(アイシンギョロ)と発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味するのだそうで、名はそれぞれ玄Y、胤メA弘暦、廟号をそれぞれ聖祖、世宗、高宗というのだそうだ。

辟雍の藤(写真4a)を後にして、通用門(写真4b)をくぐって孔廟に足を伸ばした。ここにも見事な藤の老木が今盛りと花を咲かせていた(写真4c)。老木に咲いた藤はまるでちょび髭のごとく点々と老木の小枝にぶら下がるごとく咲き、国子監のたわわに咲いた枝垂れた藤の花(写真4a)とは対照的であった。孔廟大成門の前に笑顔で立っている孔子の髭を連想させる。

**** つづく ****








2009/05/11 19:17:43|その他
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(2.次いで北京・雍和宮)

2)雍和宮
雍和宮は法源寺とは全く異なる趣で、観光者向けの寺という趣だった。北京で最大かつ保存状態の最も良いチベット仏教(ラマ教)の寺院というだけあって、寺域は広大で、建築物としても一級で、漢、チベット、満州、モンゴル各民族の建築様式が混じりあい独特の雰囲気を醸し出していて見ごたえがあった。今丁度読んでいる最中の金庸作の「鹿鼎記」の一方の主人公である康熙帝が息子の胤禎(雍正帝)のために1694年に建てた貝勒府が元となっているとのことで、親しみを感じて拝観できた。特に南北に一直線に配置した伽藍のスケール(写真1)や、魔除けとされる走獣の屋根飾りの見事さには目を奪われた(写真2)。

 各門に掲げられた門の名称を表す扁額のいずれにも、漢字、チベット文字、モンゴル文字、女真文字が並列して縦書き記載されていた(写真3a、3b、3c)。北京という地がいかに多彩な民族によって作られてきたかが実感された。それぞれの民族間の対立と融和(大同)の歴史が刻まれている。雍は、むつましい、穏やか、という意味なので和とともに用いられると、むつましく協調するという意味になり、それを象徴する宮殿(写真4)ということになる。

多民族国家中国にとって「民族雍和」は永遠のテーマなのであろう。ついでながら、ガイドの李さんから、一人っ子政策は少数民族に適用されないこと、両親がともに一人っ子政策の該当者であるときは漢民族であっても、子は二人まで許可されることなどを聞き、中国の人口政策の根底に、「民族雍和」の精神が横たわっていることを感触した。

金庸作の「鹿鼎記」では、紫禁城が一つの重要な舞台となっていて、そこで一方の主人公の少年韋小宝ともう一方の主人公である少年康熙帝が偶然の出会いをし、その後、康熙帝の過大な庇護のもと、大活躍をして、清朝の重要なポストについて行くが、その過程で、あるときは満人の風を装い、ある時は滅満興漢に雷同し、明の末裔に寄り添い、またある時は邪教の売国組織にかかわり、またラマ教徒あり、ロシア、台湾、雲南平西沐府 呉三桂が出てきたりする。それぞれの組織で、バレないから良いものの、バレたら死に至ることは歴然としていて読者をヒヤヒヤさせながら物語が展開して行く。

対立した組織の境界の壁をかいくぐって活躍するのだが、そこに必ずと言って良いほど美女が登場する。少年韋小宝にとっては、年長者ばかりだが、自分の妻にしたがる。いずれの場合も成就しないが、この美人というのは、異境世界における善きことの象徴ととらえると、文字が読めず、風采も上がらない、少年韋小宝が生まれながらにして「雍和」を身につけ、誰の中にもある長所、美点を感知できる術を備えているからこそ活躍できることを描き出しているように思えてならない。

対境的な立場にある者同士、あるいは対境的な立場にある組織同士が互いにうまくやって行くには相手の中にある美点を先ず見つけることが重要ということを言っているようにも思えるのである。ARACHINAの窓口の沈さんに「鹿鼎記」のことを聞いてみたら、以下の返事があった。(原文のまま)
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P.S
「鹿鼎記」の本を読んたことも、ドラマとか、ビデオとかを見たこともありました
金庸的小説は好きです、同じ仕事してる先輩はほとんど金庸様の作品を読み済みました。私は感心されます。鹿鼎記ドラマなら、陳小春と言う俳優演劇したのは一番です。
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金庸作の文庫本「鹿鼎記」は,現時点(2009.5.6)で、まだ第六巻に入ったところであり、まだ続きそうであり、展開を楽しみにしている。

***** つづく***** 前へ