2)雍和宮
雍和宮は法源寺とは全く異なる趣で、観光者向けの寺という趣だった。北京で最大かつ保存状態の最も良いチベット仏教(ラマ教)の寺院というだけあって、寺域は広大で、建築物としても一級で、漢、チベット、満州、モンゴル各民族の建築様式が混じりあい独特の雰囲気を醸し出していて見ごたえがあった。今丁度読んでいる最中の金庸作の「鹿鼎記」の一方の主人公である康熙帝が息子の胤禎(雍正帝)のために1694年に建てた貝勒府が元となっているとのことで、親しみを感じて拝観できた。特に南北に一直線に配置した伽藍のスケール(写真1)や、魔除けとされる走獣の屋根飾りの見事さには目を奪われた(写真2)。
各門に掲げられた門の名称を表す扁額のいずれにも、漢字、チベット文字、モンゴル文字、女真文字が並列して縦書き記載されていた(写真3a、3b、3c)。北京という地がいかに多彩な民族によって作られてきたかが実感された。それぞれの民族間の対立と融和(大同)の歴史が刻まれている。雍は、むつましい、穏やか、という意味なので和とともに用いられると、むつましく協調するという意味になり、それを象徴する宮殿(写真4)ということになる。
多民族国家中国にとって「民族雍和」は永遠のテーマなのであろう。ついでながら、ガイドの李さんから、一人っ子政策は少数民族に適用されないこと、両親がともに一人っ子政策の該当者であるときは漢民族であっても、子は二人まで許可されることなどを聞き、中国の人口政策の根底に、「民族雍和」の精神が横たわっていることを感触した。
金庸作の「鹿鼎記」では、紫禁城が一つの重要な舞台となっていて、そこで一方の主人公の少年韋小宝ともう一方の主人公である少年康熙帝が偶然の出会いをし、その後、康熙帝の過大な庇護のもと、大活躍をして、清朝の重要なポストについて行くが、その過程で、あるときは満人の風を装い、ある時は滅満興漢に雷同し、明の末裔に寄り添い、またある時は邪教の売国組織にかかわり、またラマ教徒あり、ロシア、台湾、雲南平西沐府 呉三桂が出てきたりする。それぞれの組織で、バレないから良いものの、バレたら死に至ることは歴然としていて読者をヒヤヒヤさせながら物語が展開して行く。
対立した組織の境界の壁をかいくぐって活躍するのだが、そこに必ずと言って良いほど美女が登場する。少年韋小宝にとっては、年長者ばかりだが、自分の妻にしたがる。いずれの場合も成就しないが、この美人というのは、異境世界における善きことの象徴ととらえると、文字が読めず、風采も上がらない、少年韋小宝が生まれながらにして「雍和」を身につけ、誰の中にもある長所、美点を感知できる術を備えているからこそ活躍できることを描き出しているように思えてならない。
対境的な立場にある者同士、あるいは対境的な立場にある組織同士が互いにうまくやって行くには相手の中にある美点を先ず見つけることが重要ということを言っているようにも思えるのである。ARACHINAの窓口の沈さんに「鹿鼎記」のことを聞いてみたら、以下の返事があった。(原文のまま)
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P.S
「鹿鼎記」の本を読んたことも、ドラマとか、ビデオとかを見たこともありました
金庸的小説は好きです、同じ仕事してる先輩はほとんど金庸様の作品を読み済みました。私は感心されます。鹿鼎記ドラマなら、陳小春と言う俳優演劇したのは一番です。
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金庸作の文庫本「鹿鼎記」は,現時点(2009.5.6)で、まだ第六巻に入ったところであり、まだ続きそうであり、展開を楽しみにしている。
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つづく*****
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