槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2009/05/24 13:04:18|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(10.崇聖三塔寺(1))

10.崇聖三塔寺(1)
大理で最も有名な観光地と言える。大通りに面した崇聖寺正門をくぐると、すぐ右手に配置図と名称が中国語、英語、フランス語、韓国語、日本語で紹介されていた(写真1)。大理古城の北に位置し、西に蒼山、東に洱海の景色、仏教文化、リゾート地を一体化している中国国内で有名な観光風景区と認められ、ISO9001-14001国際質量/環境管理体系認証に合格して、大理の目印とシンボルとなっている、と観光案内に紹介されている。ISO9001-14001の認証をとった寺院は国内外通じて初めて目にした。ISO9001-14001の認証取得の意義、取得の実務、取得後の運用について理解し、実行することは容易なことではない。この寺院が現代に生きていて、仏心の厚い人達にとっての聖地として生々しさを持っているからだろう。本来、寺というのは観光の対象ではなく、心のよりどころとしての宗教に触れる場(聖地)であるはずで、中国寺院を訪問するとそういう感じがすることが多い。とりわけ、ここ崇聖三塔寺は、境内が広大で、寺院の建築物も巨大で、しかも景観はダイナミックであり、象徴的な聖地としての条件が揃っていて、その聖地を訪れる意義が増幅されるのではないか。

すぐ正面に三塔が聳え立つのが目に飛び込む。
崇聖寺三塔と左から書かれた5枚の額を軒下に備えた門(写真2)をくぐると三塔が眼前に聳え立っていた(写真3)。葛さんが、「三塔のうち二塔はピサの斜塔と同じ様に傾いているのです。」と説明してくれた。そう言えばそうも見えるが、そうでもない様にも見える。この三塔を西から見たとき、傾いているのが左側(写真では右側)の塔であることが後で分かった。

主塔は千尋塔と呼ばれ、唐代に建てられた。方形の密檐式16層のレンガ造りで、中は空洞になっている。上に行くほど細くなり、高さは69.13m。塔の基礎部分は上下二層になっていて、下層部分の一辺の長さは33.5m、上層部分は21m。正面には、「永鎮山川」の文字が大きく書かれ、明の沐世階の書とされている。塔の中の二層目には東西両側にそれぞれ仏龕が置かれ、中には仏像が納められている。さらにその仏龕の両側にも小さな龕が一つずつあり、その中にはサンスクリット文字で刻まれた経文が置いてある、とのことである。

主塔の裏側の南北に位置する小塔(写真4a)は宋代に建てられ、八角形の密檐式レンガ造り(写真4b)、10層で高さは43m。主塔からの距離はそれぞれ70m。小塔の各層の屋根は上に向かって反り返り、梁や柱、斗組みなどは使っておらず美しいシルエットを作り出している。中は各層違った仏像や蓮華、花瓶などのレリーフ(写真4c)が彫られ、八層目までは空洞になっている。小塔間の距離は97mで、三つの塔の位置関係はきれいな二等辺三角形を作っている。偶数階の塔は珍しいナ、とつぶやいていたら葛さんは、「中国南部、特に雲南省にある寺院の塔は偶数階が多く、北部では、奇数階が多い」、のだそうだ。「日本は殆どが奇数で、特に五重の塔が多いですよ」と応じた。

その小塔に指を指しながら、ガイドの葛さんは、「塔の高さは、42.19mあります。」というので、「もしかして、42.195?」と応答し、「マラソンの距離が42.195kmでしょう。何か意味ある数字なのですかね?42.195というのは」と付け加えた。そうしたら「42.19mです。」とすげない答え。最初に葛さんを見た時、マラソンランナー野口みずきに似ていると思ったのだが、それを伝えるきっかけを狙っていたのだが、またもやタイミングを失った。

この三塔は中国の重要文物保護単位に指定され、ペー族文化のシンボルにもなっている。この二つの小塔の少なくとも一塔は。ピサの斜塔なみに傾いている(写真4d)との葛さんの説明であった。これら三塔は蒼山を背景としたときと、洱海側を背景にするかで(写真4e)、見え方がまるでちがっていた。

千尋塔を南側から迂回し、その裏側へ出て二つの小塔の間を通り抜け暫くすると、建極大鐘という鐘楼に至った。階上に登り、鐘が吊るされている楼台から三塔寺が先ほどとは違う表情で見えた。彼方に薄っすらと洱海の湖面のきらめきがなんとなく見えた。また西の蒼山側を見ると、黄土色の甍が見えた。

***** 続く *****







2009/05/24 12:51:30|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(12.崇聖三塔寺(3))

12.崇聖三塔寺(3)
弥勒殿(写真9)は宋代7間続きの単軒式棟をまね、造ったもので、荘厳、典雅の璽彩を放っている。前に弥勒菩薩(写真10a)、後ろに韋駄天像があり、両側には天龍八部(写真10b)が構えていた。弥勒は体が肥満、はだけ、大きい腹が出て、にこにことうれしそうな顔をし、人をリラックスさせるから、中国人の心中に最も穏やかで親しみやすい宗教人物として住まっている。

弥勒菩薩と言えば、日本では広隆寺の弥勒菩薩半跏像が国宝第一号ということで有名で、国語の教科書で見た事がある弥勒菩薩はスリムで優雅で、どちらが本当の姿なのだろう、と困惑してしまう。

ある対聯に“大きい腹は許し難いことを許し、口が開くと笑い始め、世の中のおかしい人を笑う”と記載されている。とのことであるが、“おかしい“ と ”笑う”にどのような意味を持たせているのか。世の中の問題児にも微笑みかける、という意味か。
行動がおかしい人をあざ笑う、という負のイメージでないことだけは確かであろう。

更に西に歩を進めると十一面観音殿に至る。
十一面観音殿は垂直に立ったレンガ壁に“南無阿弥陀仏”と書かれ、両翼に石段があり、これを上ると正面に大きな色彩豊かな建造物が現れる(写真11)。
この殿の屋根瓦は中国でよく見る黄土色であり、屋根の稜線に珍しく八体もの走獣が鎮座している(写真12)。崇聖寺山門より西側の建造物の屋根瓦は皆この色であり、この色の瓦屋根の稜線には必ずと言って良いほど走獣が鎮座している。

他の殿の屋根瓦の稜線に鎮座する走獣は五体なのに対して、何故かここだけ八体であった。体数が多い程、重要な意味を持つ建造物であるということを聞いたことがある。それに従うと、この十一面観音殿は崇聖寺の多くの殿の中でも一、二を争う重要な建造物ということになるのであるが本当にそうであろうか。

「観音」とはもともと「大慈大悲救苦救難観世音菩薩」と長たらしい尊称だったのが、「観世音菩薩」と略称され、さらに、唐の建国の祖、李世民の“世”を省き、「観音」となったのだそうだ。ここ大理地域では観音信仰は人心に深く入り、観音への崇拝が仏を乗り越え、観音建国論、観音布教論、観音救助論等の3論が観音と大理人の淵源を表わした、と言われているということなので十分ありえる。

十一面観音は聖観音、千手観音、如意輪観音などとともに六観音と称し、六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、十一面観音は修羅道を担当している。ちなみに他の担当は、地獄道−聖観音、餓鬼道−千手観音、畜生道−馬頭観音、人道−准胝観音、天道−如意輪観音という組み合わせになっている。修羅道とは修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界となっている。

民族雍和、融和、大同といった願いに結びつけるのは考えすぎか。そこまで考えなくても、南詔国時代に天宝戦争が起こり、このとき観音は閣羅鳳を夢知らせ、敵軍を撃退し、南詔国を救ったそうだ。

そう言えば日本では今阿修羅展が開催されている。現代版修羅道は、環境破壊との戦い、新型インフルエンザとの戦い、貧困との戦い、エネルギー問題との戦い、そして間もなく情報過多との戦いが登場するだろうが、これらの戦いに疲れた人の心を癒すために、そろそろ十一面観音が登場しても良いころかも知れない。

***** つづく *****







2009/05/18 21:41:46|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(9.大理古城(3))

9.大理古城(3)
北に少し歩くと五華楼(写真9a)があり、暗くなるとライトアップ(写真9b)される。
南北に伸びたメインストリートの両側には、ペー族の民族衣装を売る店(写真10a)、普洱茶を売る店(写真10b)、銀製品を加工し販売する店(写真11a、11b)、葫芦絲(フールシ=楽器)を売る店(写真12)などがぎっしり並んでいた。

葫芦絲(フールシ=楽器)を売る店からは絶え間なく、「月光下的凤尾竹」という曲が流れている。この曲、とくに很徳全演奏の曲はお気に入りで、CDや中国サイト“百度”からダウンロードしたものを所有している。その話をガイドの葛さんに話したら、「あの人は葫芦絲の演奏第一人者だったが、二年前に亡くなった」とのことだった。それを聞いて急にむなしい気持ちになった。

ここ雲南に魅かれたのは、第一に、司馬遼太郎の「街道を行く 蜀の道、雲南の道」、第二が很徳全による葫芦絲演奏曲に触れたことである。特に今回の大理、麗江は司馬遼太郎の書には触れられていない地域であり、そうだとすると、今回この地域訪問の動機は100%很徳全による葫芦絲演奏曲の影響と言っても過言では無いのである。そして映像つきのこのCDに登場する少数民族の舞踏、とりわけペー族、ナシ族、タイ族の舞踏には魅惑された。それがむなしい気持ちの根源だったと思う。

この様に大理は代々王朝が栄え、あるときはその王朝の主府となり、ある時は支配者集団の一員となり、この地、雲南を代理統治する府となり続けたのだろう。その府を城壁が囲み、侵略しようとする外敵から守る砦となったのであろう。城壁の東西南北には城門がある。古城は日本語の“シロアト”という言葉が最も似合う。 

日本の城壁が庶民の生活を城壁の外の城下町に置く場合が多いのに対し、中国では、庶民の生活の場が城壁内にある場合が多く、従って城壁の総延長長さが数キロメートルに及ぶ場合が多いようだ。日本には山城が多く中国には平城が多いのも城の性格がもともと違うからだろう。中国には山城が少ないので石垣は殆どなく、その代わりレンガを積んだ厚い城壁が長大に延びるのであろう。

【付録:YouTube 很徳全 葫芦絲演奏】
阿○人民新歌(○はにんべんに瓦)
http://www.youtube.com/watch?v=rYYQ52KnAUs&feature=related
竹林深処http://www.youtube.com/watch?v=pkYC4GI8I5I&feature=related
弥渡山歌http://www.youtube.com/watch?v=45Ys-tOKD9g&feature=related
小河淌水http://www.youtube.com/watch?v=k6CTdJjdxPA&feature=related
芦笙恋歌
http://www.youtube.com/watch?v=jwip8vI0Hn0&feature=related
大理三月好風光http://www.youtube.com/watch?v=Qngmdlrbeyk&feature=related
婚誓http://www.youtube.com/watch?v=vrjeNYQqV_w&feature=related

***** つづく *****







2009/05/18 20:57:02|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(8.大理古城(2))

8.大理古城(2)
今でこそ雲南省の省都は昆明で春城などと著ばれているが、それまでは大理が雲南国の政治、文化の中心であり、その前は南詔国であった。

大理国は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔にかわって樹立し、現在の雲南地方を主たる領域として統治していた国家。集権的ではなく、王権はそれ程強くなかったとされる。1254年、大理は元の世祖クビライに降伏し、その地はクビライの庶子フゲチに与えられ、雲南王国(のち梁王国)となった。

大理の旧王家の段一族は、フゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせるなど、この地における支配者集団の一員としての地位を保ち続けた。

1390年に明朝が梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切り、明に取り入って大理国の復活を目論んだが、領内にあった東アジア有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を拒否、この地を中国に併合し、南詔以来の独立王国の歴史はここに終焉を迎えた。

779年に南詔国の王が、都をこの地(大理)に移したのが始まりで、その後南詔国、大理国の都として政治、経済、文化の中心として栄えた歴史のある街で、城内に残る主要な建物は、かつての南詔国王の王宮と高級官吏の住宅である。かつて、古城の東西南北には4つの城門があり、東には洱海、西には蒼山、北には三塔がある。

大理古城の楼閣の高さは、7.5メートル、厚さ6メートル、周囲6キロで雄大な姿をしている(写真5a)。 1382年に創建された城内には、南北にメインストリートが走る。その南端の城壁には南門があり、多くの人、多くの人種でごった返していた。

少数民族(ミャオ族(左)とチンポー族(右)と記念写真を撮ったが、後日、視野内にメキシコ人らしき人が近くにいないか思わず確認してしまった(写真6)。この時点では新型インフルエンザのニュースは耳に入っていない。

城壁には、複数の張子の蝶がへばりついていた(写真5b)。高楼の屋根は黄土色であり、屋根の稜線にはお決まりの様に、お守りの走獣が鎮座していた(写真7)。その数は5頭で平均的な数であろう。故宮の数には及ばないが、大同の寺院の屋根にあったよりは多い。

清時代には例えば康煕帝には煙たがれた雲南の存在のようだったが、走獣の数で北京と覇を競うことがあっても良さそうなものだが、そうはさせない清朝の威圧がここまで及んでいたのだろう。そして大理、麗江とも軒下には必ずと言って良いほど赤提灯が整然と配列して吊るされていた(写真8)。この提灯は古城のかもし出す荘重な雰囲気を乱し、現代を灯す灯のようにも見えた。現代風アレンジと言ったところであろうか。

***** つづく*****








2009/05/17 20:57:46|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(7.大理古城(1))

7.大理古城(1)
宿泊に使ったホテルの客は殆どが外国人で、欧米人とりわけフランス人が多いとのことであった。ホテルは大理古城の中にあるのであり、大理古城、特に洋人街を散策する外国人は確かにそれに比例してフランス語を話している人が多かった。

当初ARACHINAのコース案内ではガイドも車も無しで、一人で散策し、夕食も自分で摂るようになっていた。中国語会話力の無い自分には無理ということで、日本語ガイドは必要ということでお願いすることにしたが、この様な街であれば、もしかしたら英語が通用して、なんとかなったかも知れないと後で思うほど街並みは中国らしからぬ風情を醸しだしていた。

通りの両側には多くの喫茶店が並んでいて店の前には野天のテーブルや椅子が並べられ(写真1)、洋人たちが、そこにたむろして談笑したり、食事をしたりコーヒーを啜っている。また耳に飛び込んでくる歌は、カーペンターの歌うメロディーであったり、シャンソンであったりビートルズであったりで、聞きなれた中国民家や日本のメロディーはここではきけなかった。

昼食はこの洋人街の一角にある喫茶店で摂った。料理の注文は、旅行代金に入っているので、ガイドの葛さんが、辛いものは大丈夫か、などと確認してから注文してくれた。

相変わらず、皿の数と盛られた料理の量が多く(写真2)、食べるのに難渋する。最近の食事の摂り方の特徴はすぐ満腹となり、すぐに空腹になる。この様な状態は加齢とともに顕著となってきているので、中国料理を食する場合すぐ弊害が出てくる。最初2、3皿出てきて、それを食べて満腹状態に近くなったところで追加の皿やスープが出てくるのである。
それらに対して見た目美味しそうでも、箸が進まなくなってしまっているのだ。

喫茶店は中国人より欧米人、日本人が利用し易いのだろう。店内には欧米人客の姿を多く見かける(写真3)。

ところで、中国の観光地には、“○○老城”という地名と“○○古城”という地名がある。
前者は旧市街と言われるが、後者は何? 日本には古城という言葉があるが、老城は聞いたことが無い。古城と老城との違いは、大理の歴史を遡るといくらかは推測できる。

***** つづく *****