槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2009/06/03 22:18:22|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(16.喜州三道茶)

16.喜州三道茶

それはともかく、周城を後にして喜州に向かう。喜州は周城より4kmほど大理古城よりの洱海西岸に位置するペー族の村である。大通りから逸れて、ペー族独特の住居に挟まれた路地を行くうちに、中国人観光客らしき一団が蠢いているあたりに車は止まり、そこで下車し、一団の後に続く。その建物の入り口を飾る門(写真1a、1b)には、左右に大きく湾曲した屋根が二層からなり、その層間の飾りや彩色が見事であった。門をくぐると、四合院作りとなっていて(写真2a)、そのうちの一面をなす屋内はステージが設けられ、その前には既に多くの人が座っていた。白族式茶道(三道茶,欣赏白族歌舞表演)は、今回の大理観光の目玉であったが、歌舞の方(写真2b)はともかく、三道茶はやや期待はずれであった。観光案内書には三道茶の意味を以下の様に紹介していた。

「ペー族に古くから伝わる「三道茶」は人生を表すお茶と言われ、苦いお茶、甘いお茶、こもごも混ざったお茶を三回に分けて味わってゆく、一杯目の第一道は苦いお茶で雲南省の緑茶を用い、人生のつらさと厳しさを表している。第二道は、甘いお茶。緑茶にチーズ、クルミ、白砂糖、黒砂糖を混ぜたもので、人生の慶びを表す。そして第三道は、思い出のお茶で、蜂蜜、ごま、ショウガ、黒砂糖を入れた複雑な味になり、人生の最後に、つらかったこと、楽しかったことをこもごもと思い出す意味だ、とある。

しかし、そんな情緒は微塵も感じられなかった。お盆に20個ほどのお茶(といえるほどのものではない)をお盆に載せ、歌舞に登場する踊り手が配りまくるのであった。三道茶を飲みながら人生を噛み締めるどころの話ではなかった。
楽しみにしていた三道茶の喫茶が期待ほどでもなかったので、その日の夕食時に、メニューにあった三道茶を注文した(写真4)。
歌舞では、踊り手が帽子を持って踊っている演目(写真2c)が、YouTubeの映像を思い出させる。しかし両肩を小刻みに振る独特のポーズは見られなかった。

欣赏白族歌舞表演を観賞後、細い路地(写真3a)を先導する葛さんの後をついて言った。細い路地にかぶさる背丈のある石塀は高く、上辺には屋根瓦付きの小壁がついていた。更に、その小屋根には草やサボテンが大きく成長し、花まで付けていた(写真3b)。民居の栄枯盛衰を思わせ、一年中春のような陽気ということが頷けるような光景であった。その路地を更に先に行くと、豪華でも、派手でもない生活臭漂う民家に案内された。木戸門をくぐると果たしてこの民居も四合院づくりであり、ガイドの葛さんはここで生活しているというおばあさんに親しげに話しかけている。ここのおばあさんは子供用の靴を作って、生活の糧に役立てているのだそうだ。このおばあさんにとって曾孫の世代の子供用ということかもしれない。

あとで葛さんが、「ここには何度も観光客を案内しているので、顔見知りになっている」のだそうだ。

***** つづく *****







2009/06/03 21:56:19|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(15.周城藍染)

15.周城藍染
胡蝶泉から洱海に沿って大理古城へ戻る途中に周城、喜州があり、周城までは車で10分もかかっただろうか、すぐだった。大理国の時代は国王の花園があった場所とのことであった。この花というのはブーゲンビリアのことに違いないと思うほど、どこにでも植樹され、しかも日本でみる鉢植えされたものではなく、背が高く、天に向かって勢い良く咲いている感じであった(写真1)。

ペー族のおばあさんが藍染の下ごしらいをしていた(写真2a)。しばらくして葛さんが、白い布をつかんでおばあさんの真似をし始めた(写真2b)。結構似合っている。手つきを見ると初めてではないことが分かる。葛さんだってペー族の娘なので、中高生くらいの時に学校で学んだのかもしれない。目の先は布と針に向かっていたが、心は違うところへ飛んでいたのかも知れなかった。

葛さんは、今年の一月に結婚したばかりの新婚さんである。「どこで知り合ったの?」と聞くと、友達の紹介で喫茶店で出会った」とのこと。また、「料理はご主人の方が上手」とのことだった。また、日本語は大理に日本語専門学校が無かったのでm黒竜江省まで出向き、そこの日本語学校に入学し勉強した」とのことであった。また、どの様な話の流れからか忘れたが、「大理には
仏教寺院が多いが、葛さんは仏教を信じているの?」「今は大理
の若い世代は仏教を信仰している人は少ない。ただ自分のおばああさんは、仏教を信仰していて線香づくりをしている」とのことであった。しからば時折かかってくる携帯電話の相手は、「ご主人?」、ときくと、「そう!」との答え。

庭の一角に、人の背丈ほどある丸い大きな樽(写真3a)が置いてあり、中を覗いてみると藍染用の染料が一杯に入っていた。太陽光線が当たっている表面近くは染料の粒子によって乱反射される為か、少し、赤紫っぽい色に見えた(写真3b)。目を移してレンガ囲いの草ムラを見ると、茎が濃い紫色をした草の群れ見えた(写真3c)。これこそ藍草であるとすぐ察しがついた。

そして、色々な模様の、完成品と思われる藍染め布がそよ風に揺れていた(写真4a)。軒下にも藍染め製品が吊るされていた(写真4b)が、いずれもその色は紫色を全く呈していず、完全な青と言える。「青は藍より出でて藍より青し」
という『荀子』勧学篇の言葉を思い出す。

この言葉は、「優れた才能を持って生まれてきても、先人の著作や同時代の人の説に学ぶことをしなければ、せっかくの優れた素材に磨きをかけることができずに終わってしまう。(藍が藍のまま青にならず、水が水のまま氷にならない)」
というのがその論旨らしいが、この言葉は現代社会においては益々意味を持つ言葉になっている。

***** つづく *****







2009/05/31 14:11:44|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(14.胡蝶泉)

14. 胡蝶泉
很徳全が葫芦絲で奏でる「胡蝶泉辺」は何度聞いたか分からない。特にYouTubeで、「胡蝶泉」にアクセスし、連鎖的に手繰り寄せ視聴を続けているうちに、「五条金花」という連続の映像番組が次々と現れる。多分かつて中国でTV放映された番組のビデオ映像であろう。映像があるため中国語であってもストーリーは大体分かる。

第一話では「胡蝶泉辺」とペー族民族舞踏がふんだんに出てくる。また主人公の一組の男女が出会うきっかけが映像となっている。第二話では対歌(対話形式の歌)を歌っている場面が出てくる。全篇レトロチックな雰囲気が漂う。またこの第二話で金花(黄色い花)の園の場面が出てくる。

一方、胡蝶泉の由来については次のような伝説がある。蒼山の雲弄峰のふもとに若い男女がいて、名を男性は霞郎、女性は雯姑といった。二人は互いに深く愛し合い、よくこの泉のほとりで対歌(対話形式の歌)を歌っていた。雯姑は美貌の持ち主で、領主虞王の目に留まり、連れ去られて妾にされてしまった。霞郎は策を練って雯姑を助け出したのだが、虞王はしつこく追ってきた。二人は追い詰められて泉の中に身を投じ、死んでしまった。後に二人は一対の蝶になって、泉の上をひらひらと舞ったという。このことから人々は無底潭を「胡蝶泉」と呼ぶようになり、数々のすばらしい詩篇が生み出された。

ビデオ映像の方は、最終回を見るとハッピーエンドの様で、二人が一対の蝶になって、泉の上をひらひらと舞ったという場面は出てこない。また、最終回の映像を見ると、1959年に制作されたものであることが分かる。50年も前の映像であり、どうりでレトロチックな雰囲気が漂うはずである。

入場門(写真1a)をくぐると、すぐ竹の並木道(写真1b)が現れる。
竹の並木道が終わると、左から胡蝶泉(ただし、胡は虫篇がつく)と書かれた石鳥居(写真1c、1d)が現れる。筆跡は郭沫若によるとあり、公園内のあちらこちらに同じ筆跡の表示があった。郭沫若は,すぐれた詩人・劇作家・学者・政治家であった。文学作品をヨコガキにしたのは彼であり,戦前から文字改革に熱心であったのは,かれと魯迅とであったと言われている。日本とも関係が深く、日本各地に足跡を残している。
文化大革命発生直後の1966年4月14日、全人代副委員長として常務委員会に出席した郭沫若は、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い」との自己批判を行ったことでも知られている。

その鳥居(とは言わないだろうが)をくぐって暫くすると、胡蝶泉(写真2a)が現れた。水は透き通っているが、必ずしも化学組成的には清澄とはいえない透明で、比重が1gr/cm3をはるかに超える観を呈している(写真2b)。近くの石製のステージではペー族の民族衣装を身につけた若い男女が、民族舞踏を開始したところであった(写真2c、2d)。バトンを手にしてリズミカルに踊るのが特徴である。

そして、近くには胡蝶大世界という温室世界があり(写真3a)、その中では無数の紋白蝶とアゲハ蝶の中間くらいの大きさの蝶が乱舞又は花弁にとまっている。ランタナやくちなしの花にとまっているのだが、よく見たら驚いたことに、少なくともくちなしの白い花は白い布で出来ていて織布であることが分かった(写真3b)。ランタナは本物で、蝶はランタナにとまっているが、白い布製のくちなしの花には決してとまっていないのが確認できた。

後ろを振り返ると、アヒルが佇む静かな池(写真4a)が目に入った。また近くの草むらでは蝶が羽を休め、その近くには中国旅行で訪問した観光地でよく見かけるモニュメントがあった(写真4b)。恐らく民族舞踏をしていたときに聞こえていた音楽はここから聞こえていたのだろう。池の周りには細い道があり、ところどころで、ペー族の民族かぶり帽(あるいは髪飾り)を手にしたおばあさん達がいた。同伴の女性に被ってもらい写真を撮ってあげる商売である。葛さんに、「葛さんはペー族ならば、ああいうきれいな髪飾りをつけて民族衣装を身につけることもあるのですか?」と聞いてみた。「正月にはあのような身なりをします。」と言って、身分証明書を見せてくれた。そこには綺麗なペー族の髪飾りをつけたペー族である葛さんの写真があった。

帰途に向かう途中木の枝をみると無数の赤いペンダントの様な飾りものがぶら下がっていた(写真4c)。何かのチケットについていたストラップみたいなものを宙にほっぽり投げて木の枝に引っ掛けたものとのこと。まるで樹に咲いた花やおみくじを連想した。その下をくぐり、広場のように天空が開けたところに出ると、黒い大理石に金色で胡蝶泉と書かれた石碑が現れた。そこで三脚にカメラを据え、葛さんとのツーショットを撮った(写真4d)。

***** つづく *****







2009/05/30 21:06:51|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(13.崇聖三塔寺(4))

13.崇聖三塔寺(4)
金製阿嵯耶観音立像(写真13)は、千尋塔出土文化財にある高さ24aの金製阿嵯耶観音をまねて作ったのである。大理地域で流行っているのは大乗仏教の密宗である阿咤力教で、観音への崇拝は仏より強い。

阿嵯耶観音は大理地域で最も崇拝されている観音であり、大理の主尊観音である。“嵯耶”とは、梵語で「聖」と指し、阿嵯耶観音が「聖観音」である。南詔王隆舜は信仰の誠意を表示するために、国号を「嵯耶」と改名した。崇聖寺主尊観音として崇拝する「聖」はすなわち阿嵯耶観音のことである。造型はかなりと独特で、中原の観音と違った。中原観音は慈悲深い女性の顔で、阿嵯耶観音は男性観音から女性観音までの過渡期に存在していた観音像であり、男性の身体に女性の顔がある特殊な造型を持ち、大理地域で特有な観音である。「雲南福の神様」も呼ばれている。

阿嵯耶観音が大理でいかに尊崇されている観音かは、崇聖寺の伽藍配置からも伺える。

この先には、更に西に歩を進めると、北に高僧殿、南に祖師殿を従えた崇聖寺の本殿とも言える、最も巨大な建物の大雄宝殿が現れ、更に、その先にも阿嵯耶観音閣や、望海楼といった建造物があるはずだが、Uターンして、来た道を戻ることにした。阿嵯耶観音閣という殿は、まるで多重になった宝箱の一番中の箱に大切にしまわれているかの様であることからも分かる。

戻る道すがら、低木の緑陰のあちこちから心地良いメロディーが、絶え間なく聞こえてきた。非常に心地よく、癒されるメロディーで、どこか懐かしい所で聞いたことが有る様な曲である。本当に崇聖三塔寺は視聴覚に訴えた立体感のある寺院と言える。葛さんの話では、「崇聖三塔寺は中国で最も大きな仏教寺院です。」とのことだったが、z軸方向を含めて立体的な大きさ、即ち容積的にその大きさを計り、なおかつ、音のメロディーが時間軸の広がりを持つとすると四次元的には確かに葛さんの言う通りかも知れないと思えてきた。

戻る途中、崇聖寺三塔の西北側にある聚影池に寄り、水面に映る三塔の美映に堪能した(写真14)。また、南側にある「三塔寺倒影公園」では大きな池に三塔が映り、その景観は見事(写真15)であった。「三塔寺倒影公園」では運転手さんを含めて三人の写真(写真16)を撮った。この運転手さんには、大理だけでなく、大理から麗江までの道中、麗紅での観光、更には麗紅から空港までの送迎までず〜っと世話になった。

***** つづく *****








2009/05/25 20:13:43|旅日記
雲南省大理及び麗江、そして北京への旅(11.崇聖三塔寺(2))

11.崇聖三塔寺(2)
鐘楼を出て、西に進むと先ず雨銅観音殿(写真5)に至る。雨銅観音殿の外観は灰色の瓦と朱色の柱壁から出来ていて周囲の住宅の屋根瓦に溶け込んでいる。
雨銅観音殿にある雨銅観音像は南詔中興二年(唐昭宗光化二年)、すなわち紀元899年に出来あがった。大理崇聖寺に一名の高僧が一生銅観音像を勧進し、国が泰平で民の暮らしも平安であることを祈願した。像は高さが約9.9b、荘厳、静止状態が美しく、細い腰と素足、造型が精美で、南詔の遺物である。とのことである。

雨銅観音殿から更に西に歩くと、崇聖寺山門に至る。それをくぐると、宝生池に出会う。この池には赤い鯉が群泳していた(写真6)。

崇聖寺山門は蒼山を背後に従え、翼を広げた様にどっしりと構えていた(写真7a、7b)。山門には門が三つ設置してあるので、「三門」ともいう。仏教の「三解脱門」、すなわち「空門」(仏門)、「無相聞」、「無作門」を象徴し、凡人がいったん仏門に踏み込むと、俗世を解脱し、“四大空(シダイクウ)に帰す”ことができる。とある。四大とは物質界を構成する四つの元素、すなわち地・水・火・風のことで、物質界にとらわれる気持ちから開放されると言う意味ととれるが、この広大な境内を歩いていると確かにそんな気持ちになれる。

日本にも京都万福寺等に同名の池があり、毎年重陽の節句の頃、稚魚を放流することが知られている。“放生”には「(特に他人の捕らえた)生き物を逃がして功徳を積むこと」する意味があり、人間としての道を示している。人民を迫害せず、衆生を愛護したうえで、災いをなくし、長生きできることになる。

宝生池にかかる小橋を渡ると天王殿(写真8)、更には弥勒殿に至る。

***** つづく *****