| 9月25日、朝起ると、まもなく外で物売りの声がしているのに気がついた。年配の女性の甲高い力強い声で、繰り返し同じ言葉を張り上げている。「○○は要らんかね?!」と言った調子であっろう。時折、その発声を停止する。物を買ってくれる人が現れたのだろう。部屋の窓をあけ、その様子を垣間見ようと思ったが、既に去った後なのか、その光景は確認できなかった。 二階の部屋だったので、電線とそれにまきついた黄色い花つきの植物が眼に入った。キュウリ、カボチャ系の植物であった。そして見る方角を変えると豆系の紫色が鮮やかな花が眼に入った。いずれも昨日の雨の恩恵があったのか、生き生きとしている。花の姿は別途、「中国五古都に咲く花」というコラムで紹介する。 ホテルの朝食を済ませ、最初に向かったのは、空海も訪れたと言われている大相国寺であった。
京都にも相国寺という寺があるが、この相国(しょうこく)と言う意味は何か。Wikipediaには、「漢代に於いて、現代の総理大臣に相当する官職。この官職は、戦国時代以前から「相邦」と呼称されていたが、劉邦(高祖)が帝位に即いたことで、避諱に触れることとなるので、「邦」と同じ意味を持つ「国」の字が用いられることとなった。相国として初めてこの職に就いたのが高祖の功臣の筆頭とされた蕭何であり、次いで就任したのが、蕭何に次ぐ功臣とされた曹参であったことから、相国職はこの二人に匹敵するだけの功績のあるものしか就任出来ない、否、この二人だけのものである、とする考えが、ある種の不文律として漢代を通じて存在することとなった。」とある。
京都の相国寺は、足利義満の開基であり、自分を“相国”と見なして、時の栄華を誇って建立したのだろうか。武家の頭領=宰相、という意味になり、帝位は天皇にあることを認めていて、自分は宰相という位置づけをしていたのかもしれない。寺院を誰がどの様な意味をこめて命名したのか、天との境界にある屋根の瓦をどの様に装飾しているかは興味が尽きない問題である。
大相国寺は、魏の皇太子の信陵君の邸宅後に北斉時代555年に「建国寺」が建てられ、唐代に「大相国寺」と改名された。唐の睿宗が西暦712年に自分が相王から皇帝になったことを記念して大相国寺という名前をつけたことになっている。戦火や黄河の大洪水の被害を受け、寺域は大きくなったり小さくなったりしたが、盛時には1000人以上もの僧侶を抱えていたこともあったらしい。
寺は数日後に控えた「中国建国60周年」の祝賀ムードに包まれていて「山門」から多くの旗が飾られていた(写真1a)。 山門の屋根は瑠璃色の瓦から出来ていて、その軒下に「大相国寺」と書かれた扁額が架かっていて、門に連なる外壁は薄あづき色で、両側に丸窓が位置している。建国記念日には「中国建国60周年」記念行事がここで行われるのではないか、と思うほどの飾りつけである。山門の向こうに、大書された“60”の文字が見えている(写真1b)。山門をくぐって中に入っても、旗飾りが張りめぐらされている(写真1c)。“60”の文字は緑の台座に支えられていて、その緑は鉄筋のやぐらに取り付けられた葉であり、その作業が進行中のようだった(写真1d)。
この寺院の境内に入って先ず最初に気づいたのは、瑠璃色や黒色瓦の大きな屋根であり、屋根飾りと色彩の壮麗さであった。快晴の青空に映えて美しかった。屋根の稜線には鎮守の動物たちが鎮座し(写真2a、2b)、その稜線は大きく反りかえっていて稜線の先端の軒下には法鈴がぶら下げられている(写真2a,2b。2c)。 後日、撮った写真を分析すると、稜線の反り返り曲線の曲率と、稜線に居並ぶ動物の種類と姿勢が異なっていることが分かった。軒丸瓦や軒丸瓦間に垂れた軒三角瓦の模様も鮮やかである(写真2d)。建物の色彩は瓦が緑、瓦の下の台木は薄あずき色。軒下の飾りが青を基調としていた(写真2e)。
「大相国寺の注目は八角琉璃殿(写真2b)。八角形の屋根の頂部には法鈴が付いており、殿内に安置されている高さ約7メートルの千手千眼仏(せんじゅせんがんぶつ)(写真3b)は、一本の銀杏の木をくりぬいて、全身に金箔が貼られている木彫像である。正面から見れば、ふくよかな顔立ちで、頭の上、胸の前などで印をむすび、胸の横には手が無数に伸びて、その手には眼が描かれている。四面にわたり同じ姿が彫られている。清の乾隆(西暦紀元1736-1785年)年間に彫られたこの千手千眼仏は、制作に50年余りかかった。技術の精密さ、造型の美は、世に並ぶものがない、きわめて貴重なものである。」と河南の旅: http://jp.hnta.cn/Htmls/Scenic/Scenic_348.shtml に詳しく紹介されている。
大師堂には空海の銅像が建てられている(写真3C1)。蔵経楼には玉仏のうつくしい観音像が安置されている(写真3a)。そして寺庭には開封大相国寺と京都相国寺との友好の記念碑が建てられている(写真3C2)。そして、他の寺庭には、先に触れている魯智深の像があった(写真3d)。大相国寺では、菜園の番人を任じられ。魯智深は持ち前の腕力で菜園付近のごろつきを懲らしめ、これを手なずけた、という話が伝わっているということを紹介している。
そして、更に別の寺庭に石灰石系の奇岩があり、そこには口へんばかりの漢字が無造作に散りばめられていた(写真4a)。唵(アン:感嘆詞で、えっ?仏教の呪文に使われる。)、嘛(マ:これが事実だ、本来こうあるべきだ、という感情、気分を表わす)、呢(ネ:疑問文の文末に用い、答えを催促する気分を表わす)、叭(バ:乾いたもの、細いもの、堅いものが折れるときの擬声)、嗹(レン:?)、吽(ホン:サンスクリット語のhumの音訳で、仏教の呪文に使われる。口を閉じて発する)。いずれも“IMEパッド-手書き”で活字として表示できる。 意味を中日辞典(小学館)で調べると、上記のカッコ内の様に解説されていた。寺を訪れた観光客に禅問答を仕掛けているのかも知れない。 日本の相国寺もこの大相国寺も共に禅寺であり、それは大いにあり得ることである。
ところで、日本の鎌倉仏教、臨済宗、曹洞宗に大きな影響を与えたのが唐、宋時代の中国仏教と言われている。その中国宋代の禅には、看話禅(カンナゼン)と黙照禅がある。前時代の優れた禅僧の言葉や行為を記したもの(古則)を用い、参究の課題として師から弟子に与えられる公案によって悟ろうとする修行を「看話禅」という。このような方法を確立したのが、五祖法演とその弟子で碧巌録を著した「圜悟克勤」である。
「黙照禅」は宏智正覚が唱えたもので、インド伝来の坐禅を重んじ、公案の参究によらず、ただ坐禅によって修行をしていくというもの。こうした流れが鎌倉時代日本に伝えられ、黙照禅は曹洞宗が、看話禅は臨済宗が今もその流れを伝えている、と言われている。
上記の口へんの漢字は、呪文や、口を閉じて発する無音の言葉、即ち“気分”を表わす漢字であり、物がぶつかったり、折れたりする時に発する自然の擬音を表わす漢字である。 そう考えると、この石灰石系の奇岩にこれらの文字を刻んだ気分は、“黙照禅”に属するのかも知れない。であれば、この大相国寺は臨済宗の京都の相国寺のルーツと言っても良いのではないか。
八角瑠璃堂(写真4b)を後にし、みやげ物を売る店を両側に配した参道(写真4c)を抜けて帰途に着いた。山門を出た通りには多くの店が並び、どの店にも建国記念日を祝う大小の国旗が掲揚されていた(写真4d)。更に遠ざかったところから大相国寺の方角を臨むと、今にも崩れ落ちそうな古い店舗、屋台、二階建ての茶楼などがひしめき合う様に立ち並んでいた。
大相国寺の市は古くから名高く、毎月、日を決めて市がたち、開封に住むものの取引市になっていた。大相国寺にあったいくつかの山門ではペット、家具や道具、日用品から季節の果物まで、盛りだくさんの商品が売られていた。 その伝統は受け継がれ、この寺の横にはテント張りの大きな市場があり、人波でごった返していた。「夕刻になると、屋台が道路脇にひしめく。広場といっても道路の交差点であり、狭いところは車、自転車、荷車、人がごった返して身動きすらとれなくなる。熱気にクラクションや怒り声が飛びかって、混沌とした活気を帯びてくる。」とのことで、北宋の時代は、今よりも賑わっていたとのことである。
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