槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/01/17 1:30:42|その他
12中原五古都を行く 山陝甘会館、関亭廟(9/25)

山陝甘会館、関亭廟(9/25)

 当初、予定に入っていなかった開封の関亭廟、というのは間違いで、正確には「山陝甘会館」といい、その一角に「関廟」があるというのが正しい。「山陝甘会館」は「会館」などと呼ぶくらいなので、歴史的な価値以外の価値あるものがあるのだろう。関羽の名前以外は馴染みがなく、この稿を記すのに難渋した。
 その割りに撮った写真の枚数は、開封では、次に訪問した鉄塔十三塔開封寺に次いで多かった。写真を撮るに値する見事な造型物が沢山眼に映ったからである。

 観光案内書(「World Guide:中国、開封(p106〜p107)には記事が無い、地図にも載っていない。当然、特にARACHINAに拝観の希望を出したのではなかったが、ガイドの牛潞さんの好意であろう。瑠璃瓦の釉薬がまだ剥げ落ちていないところを見ると、なるほど、それほど時代は流れていない様に見えた。旅行後、ウェブで調べると、「贅を尽くして造られた民間建築物:山陝甘会館は、清の乾隆年間(1736〜1796年)に開封に住んでいた山西省、陝西省、甘粛省の商人が資金を出しあって建てたもの、とある。「山陝甘」という意味は単なるソレかと納得。

 塩の売買などで莫大な財産を築いた商人たちが建てたものなので、細部まで贅を尽くしていて、清代を代表する建物となっている。木や石の彫り物は多いのが特徴で、建物の上には関羽にまつわる「三国演義」のなかのシーンが彫られていたり、また、建物の屋根の先が反り返り、その上に鳥や動物たちが飾られて、なかなか興味深い。「だが、現在は関帝廟だけであり、障壁、戱楼、鐘、鼓楼、碑坊、正殿などが残る。」

 一方関帝廟だが、この河南の地や河北地方は、曹操の魏の国なのに、何故こうも関羽ばかりに人気があるのだろう。この関亭廟はとにかく屋根瓦の造型と軒下の造型が見事であった。関羽像が本尊の寺とも神社ともいえる。関羽を神格化した寺、または神社としての存在で、関羽を讃え、誰でも斯くあるべき、ということを民衆に知らしめるために、富豪が私財をなげうって建立したとも思える。

 関羽像が安置されている堂于(写真4b)の入り口には、「関帝聖君像」とあり、像の説明を以下の様に行っている。「関羽を崇敬し、信仰する称号は次の如し、...儒教であれば聖君(孔子)と並び、仏教であれば仏と並び、道教であれば天尊と並ぶ。 帝王達は関羽をしばしば加封し、他に次の様な呼び方をしてきた。...将而候、候而王、王而帝、帝而圣、圣而天、褒封不尽、廟祠无垠、香烟不絶、...。更に人々は関羽を信仰する精神として、“忠、義、仁、勇”を挙げる。忠義仁勇は、炎黄子孫の道徳であり、華夏民族の品格であり、人の規範であり、社会の楷模であり、しからば、関羽信仰文化は老いにも若きにも深く浸透し、至るところに及ぶ」。

 確かにこれまで中国寺院観光して、関羽が、釈迦、老子とともに並んで祀られている光景を度々見ている。そのたび毎に、現地中国人日本語ガイドさんに、「何故、孔子が一緒に祀られていないのですか?」と聞くと、孔子の儒教は宗教ではなく、哲学だから」と言う答えが返ってくる。我々日本人は、関羽を芳川英治、北方謙三、伴野朗らの小説「三国志」を読んで知っているが、忠義仁勇は認めるが、釈迦や老子と肩を並べるほどの人物との印象は無い。

 多分日本の場合の菅原道真の天満宮、源氏の八幡宮と似たようなもので、神格化されて廟に祀られることになったのだろう。

 関廟と書かれた扁額がぶら下がった門(写真1a)は色彩といい丸窓といい見慣れた構えであった。そして入門すると、すぐ白壁に「忠義仁勇」と大書された文字(写真1b)が眼に入った。  「三国志」に描かれた関羽像そのものである。劉備に対する忠義と、仁を備えた勇気が両輪となった強烈な存在感。敵方とも言える曹操が自分の配下にしようとして適わなかったほど忠義に厚かった武将は中国の歴史でも稀であったのだろう。そして張飛の荒くれた勇に対比されることが多いが、夫婦仲は張飛の場合の方が好ましい関係の様だったらしい。

 「忠義」というのは、自分の主君に全精神を向けることであり、その分自分の妻君へ注がれる精神は浅いものとなる。劉備は関羽の夫婦関係を心配していたようだ。三国志時代の最高の武将と言えば、蜀の関羽と呉の周瑜であるとされているが、周瑜が病気で死んだのに対し、関羽は戦場で死んだということも神格化されることに繋がっているのであろう。門内は、篤志家が寄進したにしては、建造物が多く、中庭も広い。観光客は多くはないが、一様に建物の上方を見上げている(写真1c)。

 建物の屋根を見上げていることに気がついた。自分も見上げて見ると、屋根は皆黒瓦であり、賑やかなまでの多彩で多くの屋根飾りが配備されている(写真1d)ことに気がついた。

 これまでの経験だと、屋根飾りが豊かな建造物は軒下の造型も鮮やか、ということになっている。そこで、この観光地見学を、歴史的遺跡と見なさず、時の流れとは別次元の芸術品、謂わば、「翰園碑林」の石碑と同じ位置づけで、屋根飾りと軒下の造型を鑑賞することにした。

 そして、写真を撮りまくり、後に写真を拡大し、隅々まで眺めまわし、何らかを発見する楽しみをとっておくことにした。肉眼で見えなかったものが見えるのである。これが、ブログの記事を詳細に記す助けとなっていて、それが旅行後の楽しみにもなっている。

 ここでは、これら見事な造型の説明は割愛し、写真をできるだけ多く掲載することにした(写真2a〜2f)。ただ、
 唯一つ、書き副えるとしたら、屋根瓦の稜線の反りについてである。屋根の稜線がこの様に大きく反るのは中国の寺院には少なくないが、反りがなす円弧の曲率はさまざまの様な感じがしていた、ここのは曲率は大きいが、左右の稜線(写真2a(向かって左)と写真2c(右))で、その曲率が異なる様に見えて仕方がないのである。この反り曲線をどの様に計算して設計し、どの様に測量しながら組み立てているのかは以前から気になっていたことであるが、いまだ、その解を得ていないのである。

 軒下飾りも見事な色彩、構成である(写真2d〜2f)。更に軒下には例外なく法鈴がぶら下げられていた(写真2d)。そして、軒丸瓦の模様である。いずれも回転対象の模様でない(写真3a)神獣の顔であり、花の模様であるが、いづれも菊紋、卍紋、巴紋などの回転対象の紋様ではない。

 稜線の端部を飾る龍の鉾(写真3b)、軒下の複雑で多彩な造型とともに配置された額絵、絵の内容は関羽が負傷しているのを治療しているところとみられる(写真3c)。宝塔や舎利壷を背に乗せた神獣(写真3d)、更には神獣たちを従える導師像(写真3e)の姿が見られた。ただし、この導師はどうみても北方民族、例えばモンゴル族の武装であり、寺院によっては道教の仙人のことがある(例えば京都仁和寺、金堂の屋根飾り)。

 そして、時々法鈴のぶら下がっている位置に、なんと呼ぶのか知らないが、造形美豊かな軒下飾りが建造物の四隅に見られた(写真4a)。

 また、ここを寺院としたら本尊とも言うべき関羽像が安置された堂于(写真4c)へ至る門(写真4b)には、雲間に漂う鮮やかな龍の姿を描いた額絵(写真4d)が架かっていた。門が落ち着いた構えに見えるのは、その彩色に、淡い小豆色、深緑、空色、くすんだ青、金色という色彩を施しているためだろう、と勝手に思い込んだ。

 尚、この稿を記している最中、北方謙三著「三国志」は第八巻を読んでいる途中で、周瑜が病死したところである。ところが、つい最近、愛読書の一つ、金庸ものとして、「天龍八部」という文庫本(徳間書店刊)が新刊された。
 裏表紙の筋書きを読むと、主な舞台が、雲南省(特に大理)であるが、時代は北宋時代であり、見開きの「天龍八部 関係地図」を見ると舞台のいくつかに「東京開封府」や「西京河南府」、「西京大同府」という地名が出ている。

この稿を書く前に、「天龍八部」を読むと、開封の別の見え方が現れそうであるが、この稿を書き上げることを最優先し、次いで北方謙三著「三国志」を最後まで読み上げ、その後、宮城谷昌光著「三国志」にするか、金庸著「天龍八部」にするか、その時の気分で決めることにした。







2010/01/06 23:58:19|旅日記
中国五古都を行く 11.空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)

 9月25日、朝起ると、まもなく外で物売りの声がしているのに気がついた。年配の女性の甲高い力強い声で、繰り返し同じ言葉を張り上げている。「○○は要らんかね?!」と言った調子であっろう。時折、その発声を停止する。物を買ってくれる人が現れたのだろう。部屋の窓をあけ、その様子を垣間見ようと思ったが、既に去った後なのか、その光景は確認できなかった。
 二階の部屋だったので、電線とそれにまきついた黄色い花つきの植物が眼に入った。キュウリ、カボチャ系の植物であった。そして見る方角を変えると豆系の紫色が鮮やかな花が眼に入った。いずれも昨日の雨の恩恵があったのか、生き生きとしている。花の姿は別途、「中国五古都に咲く花」というコラムで紹介する。
 ホテルの朝食を済ませ、最初に向かったのは、空海も訪れたと言われている大相国寺であった。

 京都にも相国寺という寺があるが、この相国(しょうこく)と言う意味は何か。Wikipediaには、「漢代に於いて、現代の総理大臣に相当する官職。この官職は、戦国時代以前から「相邦」と呼称されていたが、劉邦(高祖)が帝位に即いたことで、避諱に触れることとなるので、「邦」と同じ意味を持つ「国」の字が用いられることとなった。相国として初めてこの職に就いたのが高祖の功臣の筆頭とされた蕭何であり、次いで就任したのが、蕭何に次ぐ功臣とされた曹参であったことから、相国職はこの二人に匹敵するだけの功績のあるものしか就任出来ない、否、この二人だけのものである、とする考えが、ある種の不文律として漢代を通じて存在することとなった。」とある。

 京都の相国寺は、足利義満の開基であり、自分を“相国”と見なして、時の栄華を誇って建立したのだろうか。武家の頭領=宰相、という意味になり、帝位は天皇にあることを認めていて、自分は宰相という位置づけをしていたのかもしれない。寺院を誰がどの様な意味をこめて命名したのか、天との境界にある屋根の瓦をどの様に装飾しているかは興味が尽きない問題である。

 大相国寺は、魏の皇太子の信陵君の邸宅後に北斉時代555年に「建国寺」が建てられ、唐代に「大相国寺」と改名された。唐の睿宗が西暦712年に自分が相王から皇帝になったことを記念して大相国寺という名前をつけたことになっている。戦火や黄河の大洪水の被害を受け、寺域は大きくなったり小さくなったりしたが、盛時には1000人以上もの僧侶を抱えていたこともあったらしい。

 寺は数日後に控えた「中国建国60周年」の祝賀ムードに包まれていて「山門」から多くの旗が飾られていた(写真1a)。
 山門の屋根は瑠璃色の瓦から出来ていて、その軒下に「大相国寺」と書かれた扁額が架かっていて、門に連なる外壁は薄あづき色で、両側に丸窓が位置している。建国記念日には「中国建国60周年」記念行事がここで行われるのではないか、と思うほどの飾りつけである。山門の向こうに、大書された“60”の文字が見えている(写真1b)。山門をくぐって中に入っても、旗飾りが張りめぐらされている(写真1c)。“60”の文字は緑の台座に支えられていて、その緑は鉄筋のやぐらに取り付けられた葉であり、その作業が進行中のようだった(写真1d)。

 この寺院の境内に入って先ず最初に気づいたのは、瑠璃色や黒色瓦の大きな屋根であり、屋根飾りと色彩の壮麗さであった。快晴の青空に映えて美しかった。屋根の稜線には鎮守の動物たちが鎮座し(写真2a、2b)、その稜線は大きく反りかえっていて稜線の先端の軒下には法鈴がぶら下げられている(写真2a,2b。2c)。
 後日、撮った写真を分析すると、稜線の反り返り曲線の曲率と、稜線に居並ぶ動物の種類と姿勢が異なっていることが分かった。軒丸瓦や軒丸瓦間に垂れた軒三角瓦の模様も鮮やかである(写真2d)。建物の色彩は瓦が緑、瓦の下の台木は薄あずき色。軒下の飾りが青を基調としていた(写真2e)。

 「大相国寺の注目は八角琉璃殿(写真2b)。八角形の屋根の頂部には法鈴が付いており、殿内に安置されている高さ約7メートルの千手千眼仏(せんじゅせんがんぶつ)(写真3b)は、一本の銀杏の木をくりぬいて、全身に金箔が貼られている木彫像である。正面から見れば、ふくよかな顔立ちで、頭の上、胸の前などで印をむすび、胸の横には手が無数に伸びて、その手には眼が描かれている。四面にわたり同じ姿が彫られている。清の乾隆(西暦紀元1736-1785年)年間に彫られたこの千手千眼仏は、制作に50年余りかかった。技術の精密さ、造型の美は、世に並ぶものがない、きわめて貴重なものである。」と河南の旅:
http://jp.hnta.cn/Htmls/Scenic/Scenic_348.shtml 
に詳しく紹介されている。

 大師堂には空海の銅像が建てられている(写真3C1)。蔵経楼には玉仏のうつくしい観音像が安置されている(写真3a)。そして寺庭には開封大相国寺と京都相国寺との友好の記念碑が建てられている(写真3C2)。そして、他の寺庭には、先に触れている魯智深の像があった(写真3d)。大相国寺では、菜園の番人を任じられ。魯智深は持ち前の腕力で菜園付近のごろつきを懲らしめ、これを手なずけた、という話が伝わっているということを紹介している。

 そして、更に別の寺庭に石灰石系の奇岩があり、そこには口へんばかりの漢字が無造作に散りばめられていた(写真4a)。唵(アン:感嘆詞で、えっ?仏教の呪文に使われる。)、嘛(マ:これが事実だ、本来こうあるべきだ、という感情、気分を表わす)、呢(ネ:疑問文の文末に用い、答えを催促する気分を表わす)、叭(バ:乾いたもの、細いもの、堅いものが折れるときの擬声)、嗹(レン:?)、吽(ホン:サンスクリット語のhumの音訳で、仏教の呪文に使われる。口を閉じて発する)。いずれも“IMEパッド-手書き”で活字として表示できる。
 意味を中日辞典(小学館)で調べると、上記のカッコ内の様に解説されていた。寺を訪れた観光客に禅問答を仕掛けているのかも知れない。 日本の相国寺もこの大相国寺も共に禅寺であり、それは大いにあり得ることである。

 ところで、日本の鎌倉仏教、臨済宗、曹洞宗に大きな影響を与えたのが唐、宋時代の中国仏教と言われている。その中国宋代の禅には、看話禅(カンナゼン)と黙照禅がある。前時代の優れた禅僧の言葉や行為を記したもの(古則)を用い、参究の課題として師から弟子に与えられる公案によって悟ろうとする修行を「看話禅」という。このような方法を確立したのが、五祖法演とその弟子で碧巌録を著した「圜悟克勤」である。

 「黙照禅」は宏智正覚が唱えたもので、インド伝来の坐禅を重んじ、公案の参究によらず、ただ坐禅によって修行をしていくというもの。こうした流れが鎌倉時代日本に伝えられ、黙照禅は曹洞宗が、看話禅は臨済宗が今もその流れを伝えている、と言われている。

 上記の口へんの漢字は、呪文や、口を閉じて発する無音の言葉、即ち“気分”を表わす漢字であり、物がぶつかったり、折れたりする時に発する自然の擬音を表わす漢字である。
 そう考えると、この石灰石系の奇岩にこれらの文字を刻んだ気分は、“黙照禅”に属するのかも知れない。であれば、この大相国寺は臨済宗の京都の相国寺のルーツと言っても良いのではないか。

 八角瑠璃堂(写真4b)を後にし、みやげ物を売る店を両側に配した参道(写真4c)を抜けて帰途に着いた。山門を出た通りには多くの店が並び、どの店にも建国記念日を祝う大小の国旗が掲揚されていた(写真4d)。更に遠ざかったところから大相国寺の方角を臨むと、今にも崩れ落ちそうな古い店舗、屋台、二階建ての茶楼などがひしめき合う様に立ち並んでいた。

 大相国寺の市は古くから名高く、毎月、日を決めて市がたち、開封に住むものの取引市になっていた。大相国寺にあったいくつかの山門ではペット、家具や道具、日用品から季節の果物まで、盛りだくさんの商品が売られていた。
 その伝統は受け継がれ、この寺の横にはテント張りの大きな市場があり、人波でごった返していた。「夕刻になると、屋台が道路脇にひしめく。広場といっても道路の交差点であり、狭いところは車、自転車、荷車、人がごった返して身動きすらとれなくなる。熱気にクラクションや怒り声が飛びかって、混沌とした活気を帯びてくる。」とのことで、北宋の時代は、今よりも賑わっていたとのことである。







2010/01/02 23:33:08|旅日記
10.中原五古都を行く 開封:龍亭公園(9/24)

中国翰園碑林の次に、龍亭公園を訪れた。雨は依然として降っている。開封は自分にとって、洛陽に次いで知名度の高い街である。「孟嘗君」宮城谷昌光著に頻繁に登場する地名であり、鄭州が河南省の省都になるまでは交通の要衝であり、中華人民共和国が誕生するまで、河南省の省都であったことを知っていたからかも知れない。

 ところで、「孟嘗君」宮城谷昌光著は主人公は「孟嘗君」であるが、物語の前半では、こちらが主人公ではないかと間違えるほどの人物「白圭」が登場し、「孟嘗君」を幼少時代から育て、補佐し、協力し、重要な役を果たす。「白圭」という人物を知らなかったので、旅行前に、「白圭」が歴史上実在した人物か気になり、ALACHINAの沈さんに、中国人が「孟嘗君」をどの様に見ているかの疑問とともに質問してみた。沈さんとの問答は以下の通り。

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1)中国戦国時代に活躍した孟嘗君という人知っていますか?
→→→孟嘗君は歴史中の名人について、一番知っている事は、この方は猫も杓子も全部友達になり、同じ待遇されます。ですので、孟嘗君の友は3000以上いるの噂もあります。

2)白圭という名前の人は知っていますか?孟嘗君に強い影響力を与えた仁義の厚い人物です。今度の訪問先のあたり(中原)の地図をみると、”孟”という字と、”白”という字がついた地名が沢山あります。孟嘗君や白圭と関係したところなのか、ご存知ですか?
→→→インタネットで調べると、白圭は古代有名な商人であることが分かります。孟嘗君は前279年の方で、白圭は前370年の方なので、二人は関係があると思いませんけれど、有名すぎで、いろいろ物語が今まで流れています。

3)孟嘗君が、函谷関を通って臨湽から咸陽までを往復した街道は、現在鉄道に沿っている道でしょうか?
→→→はい、鄭州から西安までの高速鉄路、今年の年末に催行可能になります。全長484.5キロメートル、2.5時間/片道で宜しいです。とても便利な交通と思われます。

4)中国戦国時代に活躍した孟嘗君と白圭が活躍した地(邯鄲、洛陽、濮陽、大梁(今の開封?)、新鄭(今の鄭州?))とそれを結ぶ街道を訪ねること。三大石窟寺院の龍門石窟寺院を拝観すること。
→→→そうですね、古代の大梁は今の開封、新鄭は今の鄭州です。時間的に余裕がありましたら、街でゆっくり散策可能です。龍門石窟を見学可能です。スケジュールに含みます。もし鄭州から洛陽までの途中に「石窟寺」(入場券30元/人)に興味がありましたら、現地でガイドと相談いただき、立ち寄り観光可能です。追加専用車代が必要であれば、現地で支払いお願いします。
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「孟嘗君は前279年の方で、白圭は前370年の方なので、二人は関係があると思いません」という返事と、「鄭州から西安までの高速鉄路」に関しては知らなかった情報であり、新鮮かつ意外な情報であった。ついでながら、最初に槐(えんじゅ)という樹の存在を知ったのは、「孟嘗君」宮城谷昌光著の最初の場面においてであり、この樹の不思議さにとりつかれて行くのはその後になる。

 さて、開封であるが、明代の開封は、実は現在の開封市の地下に埋もれていて宋代の都はさらにその下に埋もれ、更に、・・・・と数えてゆくと、全部で六層に積み重なっているらしい。黄河の大氾濫がたびたびあり、繰り返し砂泥に埋もれてしまったのだそうだ。
 龍亭への訪問は。今回の旅行で唯一雨降りの日にぶつかってしまい、「雨に煙る龍亭」となってしまった。

 龍亭公園は宋・金代の皇帝の御苑で明代の周王府の跡地である。とくに、北宋の都、東京(トンキン)城の遺跡の北側を「皇城北墻遺跡」と呼ばれ整備されている。現在の建物は1948年に修復された建物となっている。
 公園内部に入ると、池と柳の大木が植えられている極普通の公園であった。雨の為、緑の柳葉の湖のむこうにある奇岩の連なる小山は灰色がかっていた(写真1a)。湖の手前側の広場は、まぎれもなく極普通の公園であり、とても宋城遺跡には見えない(写真1b)。 更に眼を湖に転じても、日本のどこにでもある光景であった(写真1c)。しかし、ここが、『清明上河図』を模した「清明上河園」かもしれないと一瞬焦ってしまった。

 『清明上河図』は、張択端の作品とされ、北宋末期の翰林待詔であり、画家としても著名であった。清明の時節の、都の東京開封府の内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いている。季節は、春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、当時の市街図や風俗図として、極めて資料的価値も高いものである、とWIKIPEDIAに紹介されている。

 そして更に眼を他の方向に向けると、やっと、万寿宮大殿と思われる瑠璃瓦の巨大な建物を右手に、そして左手に向かって、直線状に連なる建造物群が見えた(写真1d)。ただし直近に見える数羽の鶴は置物で本物ではない。
 中の建造物で最も知名度の高いのは万寿宮大殿であろう。瑠璃瓦を被った万寿宮大殿は高さがあり、そこから眺める楊家湖と潘家湖という人造湖を両側に配した通路を見下ろすと、朝門が見える(写真2b)。そして更に遠方には雨のベールに輪郭をなくした中門、その先に龍亭公園入り口がうっすらと見えた(写真2c)。

 楊家湖は水がきれいで、潘家湖は汚い。潘さんは大臣、楊さんは将軍で、楊さんが金と戦い手柄を立てたことを潘さんがねたんで皇帝に楊さんの悪口を言ったので後々まで悪い人と言われるようになり汚い水の湖を潘家湖というようになったそうであるが、雨でそんなことは分からなかった。

 日に数回万寿宮大殿で宋代の劇が行われる。演目は毎日変わるらしいが、今日は潘大臣(写真3b)、と楊将軍(写真3d)の話の様ではあったが、詳しくは分からなかった。スピーカーからの大音声に合わせて出演者が口を動かしていて、時折合っていないのがわかるが、宮廷を模した絢爛豪華な飾りつけ、王と王妃の派手な衣装、冠(写真3c)、音楽に合わせて舞う舞姫達も宮廷の雰囲気を十分醸しだしていた。そして、「碑亭」と書かれた扁額を抱いた門(写真3a)の横を通り、互いに隣接した龍亭公園と翰園碑林を後にした。







2009/12/27 19:11:35|旅日記
9.開封、雨にけむる文字、硯絵の洪水、翰園碑林(9/24)

「関林」の見学を終え、洛陽市内に戻る時に、道路に覆い被さるように、地名表示と道路案内板が掛けられた橋楼があった(写真1a)。 中国では良く見かける橋楼であり、日本では先ず有り得ない光景である。こういう光景を見るのも中国旅行の楽しみである。
洛陽の宿泊ホテル、「洛陽雅香金陵酒店」(写真1b)には15:00頃に着き、まだ明るかったので、ホテル前の運動公園を散策した。前夜は、この運動公園にある体育館で、コンサートがあったらしく、照明と、騒音とも感じられるハイボリュームの音が窓越しに見え、聞こえた。しかし、翌日になると、その余韻は全く感じられず、清閑さ漂う公園という佇まいであった。
 運動広場から後ろをふりかえると、てっぺんに、「雅香金陵」と書かれた宿泊ホテルが遠景に浮かぶのが眼に入った(写真1c)。洛陽という古都にはマッチしない新しさであった。この位置で正面にホテルをみた右手には高層のビル群が見られ、中国における近代化が肌で感じられたようであった。
 公園には種々の季節の花が咲き、ベンチに座り、花(写真1d、1e)に眼を遣ると、なぜかホッとした気分になった。ホッとしてみると、耳にセミの鳴き声がかすかに聞こえた。気こえる方角に歩いてゆき、ついにセミの姿をキャッチした(写真1f)。まさか洛陽のセミの姿を写真におさめられるとは思っていなかったので、拾い物をした気分になった。他に、オナガやカケスの姿は眼にしたが、カラスを見ることはなかった。いまだ中国で一羽のカラスをも見たことがない。
 そして次の日、朝から一路開封を目指した。鄭州から洛陽へは連霍(レンカク)高速を使ったが、戻りは、鄭少洛高速を使った。“少”というのは少林寺に最も近い地を通るという意味のようだ。途中から雨になり、雨の中のドライブということになった。
 車中でいろいろ中国旅行していて気になっていたことをガイドの牛潞さんに聞いてみた。
@中国料理に使われる食用油の原料は?
以前から、自分だけでなく、家内にも聞かれたことがある。牛脂等動物油であれば好きな中華料理を控える必要がある。魚油であれば、DHAも含まれているのでOKどころかベターということになろう。植物油だとしたら、コーンか蓮の実、あるいは椿あたりだろう、と予想していた。
 答えは、「ひまわりの種」と「スイカの種」とのことだった。「スイカの種」は意外で、予想には全く無かった。確かにスイカは中国ではいつでも、どこのホテル食にも出てくる。別の通りを通行していた時に、路肩でスイカを売っている光景に接したが、そのとき、「いまだに(9月下旬)スイカが収穫できるのですか?」と聞いたら、「今はもう取れません。地下に保存していたものを取り出して売っているのです。」
A留余(リュウヨ)の精神
 「中国旅行をすると、食べられない程多量の料理が出て、中国人ですら残してしまっているのを見ますが、皆勿体無いと思う気持ちは無いのですか?」と聞いてみた。今回の中国旅行では、夕食は、ツアー料理ではなく自前発注の注文料理としたが、この食べ残しの無駄を痛感していたからだ。
 事前の情報では、出てきた料理に手をつけないと、料理人、すなわちもてなす人に失礼になる。また出されたものを全て食べつくしてしまう、というのは、出された量が足りない、ということを言っているのと同じなので、これも無作法なのだ、という考え方が浸透しているということであった。
 ガイドの牛潞さんの答えは、果たして意外なもので、「中国には、『留余(リュウヨ)の精神』があって、これに従い、残すことが好ましいと、子どもの頃から仕込まれる精神です。“留余”と言うのは、何事もやり尽くさないところに美徳がある、という考え方です。」
 それを聞いて、即座にひらめいたのは、北朝鮮の核実験に対する国連決議で、中国が制裁決議に賛成しなかったことである。「これは、深い思惑があったのではなく、単に中国の歴史的な哲理である『留余の精神』に単純に従っただけだったのですね。」と思わず口に出しそうになってしまった。
 帰国後、辞書で調べてみたら、正確には「留余地」というのだそうで、その意味は、(話や事をする場合に)余地を残す、ということ、とあった。言葉を替えて言うと、“相手を追い詰めない」ということになるので、北朝鮮の話はまんざら的はずれな話ではないかも知れない。
 車中の時間が長かったので、他にも魅力的な話題があり、これまで知らなかった中国の歴史を知ることとなり、尚且つ中国人が好む歴史上の人物を知ることによって中国人気質が分かり、旅の妙味を味わうことが出来る。
 今回の車中での、「食べ残し」に関する質問に端を発し、次々にこれまで知らなかった、この地にちなんだ三人の英雄の話を聞くことが出来た。程咬金、魯智深、花木蘭の三人であった。日本では、「三国志」、「水滸伝」ばかりが有名で、英雄としては関羽、張飛、諸葛孔明といった群像や、鶏鳴狗盗の孟嘗君ばかりが有名だが、地元の英雄たちと、その人物の何処が慕われているか知ることは中国人気質を知る上で大変参考になる。何しろこのあたりは漢民族発祥の地と言われているのだから。
 もっとも、花木蘭以外は「隋唐演義」田中芳樹著や「水滸伝」吉川英治著でわずかに記憶があるが、どの様な人物かは全くと言って良いほど記憶が無い。以下に知りえたことを略記する。
B程咬金(テイコウキン)
 隋唐時代の人物で、斧を使い、攻撃するときは始めだけがやたら強いが、あとが続かない。単純で荒々しく、やたらうるさい人物だが、愛すべき、好運に恵まれた将。ただ現在では、まるで「トラブルメーカー」の代名詞のように使われるらしい。
 また、ある一定の計画や予定を立てて物事を進めていた時に、突然予想もしない人物などが現れて、計画をぶちこわしにしてしまう。という意味で使われ、一般名詞的に「予想外」「台なし」という風に、いろいろなシチュエーションで使用されるとのこと。自分も会社での仕事で、程咬金(テイコウキン)を演じてしまったことはないか、思わず苦笑いであった。
C天孤星 花和尚 魯智深(ロチシン)(写真2a左、2a右)
 今回の訪問予定に入っている、開封(都:東京(トンキン)にある大相国寺との因縁が有名らしい。最後は梁山泊の一員となるが、それまでが波乱万丈で、五台山で得度を得た巨漢の僧であり、弱きを助け、強きを挫く人物であったが、それゆえに追われる身となる場合が多かった様だ。大相国寺では、菜園の番人を任じられ。魯智深は持ち前の腕力で菜園付近のごろつきを懲らしめ、これを手なずけた、という話が伝わっているそうだ。
 旅先メモには、同じページに、「梁山泊と祝英台」と書かれた牛潞さんの文字と、「梁祝」、「中国版ロミオとジュリエット」とメモした自分の文字が残っていた。以前(2005年)、中国杭州を旅行した時に、行く前から知っていた、「梁祝」という曲が行く先々でスピーカーから流れ、心地よい思いをしたことを思い出した。
 当時中国の音楽ダウンロードサイト、「百度」から異なる演奏スタイルのものを5曲ほどダウンロードしたが、「ロミオとジュリエット」の主題歌から感じられる“切なさ”は感じられず、むしろ高揚心を煽るような音楽という印象を受けていた。中国人は“切なさ”と“高揚心”を混交できるのだろうか。
D花木蘭(ホアムーラン)(写真2c左)。
この人物は全く耳にしたことがなかった。旅先メモには、北魏時代、河南省、おじいさん、男装、軍隊、「木蘭辞」、詩、という自分の書いたキーワードが記されている。木蘭(モクラン、現地語読みでムーラン)は、中国における伝承文芸・歌謡(詩)文芸で語られた物語上の女性主人公。木蘭の姓は「花」「朱」「木」「魏」など一定していないが、京劇では「花木蘭」とされる。
 老病の父に代わり、娘の木蘭が男装して従軍。異民族(主に突厥)を相手に各地を転戦し、自軍を勝利に導いて帰郷するというストーリー、とのこと。京劇にもなって親しまれている物語ではあるが、北魏時代、河南省 商丘県志 では木蘭の故郷を丘花宋村とする説が妥当のようだ。河南には女偉丈夫をつくり易い素地があるのだろうか。三国志 張飛 の妻、薫香は男勝りの剣の達人であったし、戦略的に劉備の妻となった孫権の妹、孫夫人も、もの凄いじゃじゃ馬と言われている。この両名のモデルとなっているのが、「花木蘭」ではないかとも思ってしまう。
眼と耳を車内から車窓に移すと、雨は本格的になってきて、車が緩行するとタイヤがピチャピチャと音を立てているのが聞こえる。眼には先ほどから何度となく、道路わきに、「大閘蟹」と書かれた垂れ旗を眼にする様になった。牛潞さんに聞くと、「雁鳴湖」で取れる(写真2b右)食用蟹の中国モクズガニで、上海蟹の一種です。」とのことだった。「雁鳴湖」とは随分風流な名前だが、「河南省中牟県の黄河湿地に位置し、面積約700ヘクタールで、中国北部最大の湖(写真2c)で、中国モクズガニ(「上海ガニ」と同種)の産地となっている」のだそうだ。「毎年、国慶節(10月1日、建国記念日)の連休期間中には「雁鳴湖グルメフェスティバル」が開催される。」のだそうだ。残念ながら、雨に煙っているせいもあり、車窓から湖は全く見られなかった。また、雨の路上で、スイカが積まれているのが見えた。「売っている。」のだそうだ。
そして、まもなく雨の開封に入った。正面には北宋の都、東京(トンキン)の城門が見えた(写真3a)。最初の訪問は、翰園碑林(カンエンヒリン)(写真3b)であり、車を止め、トランクから取り出してもらった傘をさし、入門した(写真3c)。ここは、碑林というくらいだから、石碑が林のごとく展示されているのだろう、という程度の予備知識しかなかった。黄河遊覧区にあったのが屋外展示だったのに対し、こちらは室内展示(写真3d)であり、書から画、また書画混交といったさまざまな石碑が、三階建ての豪奢な建築物に展示されている。
 中国翰園碑林は、個人の投資で作られた中国最初で最大の民営碑林である。敷地面積は6.7ヘクタールで、書道技術を中心とした詩集・書物・絵画等の碑石が3700基も展示されているとの説明。 展示は、現代名人の碑廊・歴代書法碑廊・中山碑廊・絵画碑廊・篆刻碑廊・少数民族文字書道碑廊・国際友誼碑廊等の“十大碑廊”に分かれていた(写真3d)。書には造詣が深くないので、眼に留まったのは、主に絵画碑石の方で、競い合うかの様に展示された多数の碑石と芸術性の高い絵画碑に圧倒された。各碑石ごとの写真(写真4a1〜4a4)の解説は割愛する。外から見る碑廊は八角形の望楼があったり(写真4b)、雨に煙る景観の良い池が接していた(写真4c)。帰途、横切った庭園には演奏用のステージがあり、スピーカーからは、「彩雲追月」の演奏が流れていた。最も好きな中国民歌の一つであり、歓迎されていると感じた。







2009/12/15 23:26:58|旅日記
8.三国志の舞台、G関林廟(9/23)

8.三国志の舞台、G関林廟(9/23)
当初、今回の中国旅行の主題は龍門石窟と孟嘗君の世界を味わうこと、であった。ところが、映画「レッド・クリフ」が話題となり、関連した戦地が話題となり、旅行先の地、洛陽、鄭州、開封、邯鄲(カンタン)、濮陽(ボクヨウ)が三国志の舞台になっていたことを知った。
これまで「三国志」は吉川英治版と、伴野朗版の呉・三国志〜長江燃ゆ〜(全十巻)であったが、急遽、旅行直前に北方謙三版を読み始めた。現在も読んでいる最中であり、やっと第七巻で赤壁の戦いのあたりへ読み進んだところである。これが終われば宮城谷昌光版を読もうと思っているところである。
北方謙三版(文庫)を読み始めたのは、表紙見開きに詳しい地名図があったからとも言える。その地名図を眺めていて不思議に思っていたことをガイドの牛潞(ニュウロ)さんに聞いてみた。「中原には“陽”という文字の付いた地名が多いですが、“陽”とはどの様な意味があるの?」。答えは「河の北側にあって、南に面している、という意味です。」
であった。三国志には多くの“陽”付きの地名がでてくる。武陽、濮陽、黎陽、南陽、平陽、襄陽、洛陽、・・・・。不思議なことに、黄河流域または黄河の支流域には多いが長江沿いには少ない。
そして登場人物の描き方。特に呂布の人物像の描き方は、北方謙三版は好意的で、赤兎に向き合う姿や、妻に向き合う姿勢は印象的で叙情的に扱っている。また、曹操、劉備、孫権の性格づけも楽しい。
そして彼らには名将と(軍師)がついている。曹操には夏候惇、(荀或)、劉備には関羽、張飛、趙雲、(諸葛亮)、孫権には周瑜、(魯粛)。
これらの群雄の中で現在でも高い人気があるのが、関羽であり、神格化されているとさえ言える。中国を旅行すると、道教、仏教とともに同じ祠に関羽像が祭られている寺院を何度と無く見ている。今回訪れた関林は単独で関羽が祭られているのだ。
小豆色の外壁に瑠璃瓦が形良く乗っている南門をやや離れたところからみると(写真1a)、門前に一対の獅子の石像が鎮座し、外壁の小豆色の一部が白抜きされ、向かって右手のそこに、「忠義」、左手に「○○」と吉相体で書かれている。この門をくぐるときに「由緒」を簡単に紹介している看板に目が行った。その最初に、「関林はわが国唯一の、家、廟、林の三祀が一体になった、驚くべき古代建築群。・・・・・」とあった。
 更にもう一つ門をくぐる(写真1b)。配色は同じで屋根瓦は今度は瑠璃瓦ではなく、日本の民家の屋根瓦と同じ灰色をしていて、それに瑠璃色をしたひし形の輪郭が捺されている。じつは最初の門にもこのひし形のマークはあったが、そこでは瑠璃瓦に黄土色のものであった(写真1a)。このひし形模様が何を意味しているか、いまだに分からない。そしてこの屋根瓦の稜線の両端には二頭の龍がからみあった複雑な造形の鉾が被さっていて見とれてしまう(写真1c)。家であり、廟であり、林であるが、寺ではないのであるが、趣は完全な寺であった。「関林」と書かれた扁額と、「気壮万高」と書かれた編額が架かった堂于の正面手前にはろうそくや線香を焚く灯篭が配置され、線香から煙が数条立ち昇っていた(写真2a、写真2b)。
 更に進むと、建物の入り口に薙刀と太鼓が飾ってあって、その説明書きの様なものがあった(写真2c)。関羽が生涯手にしていた武器は青竜偃月刀という薙刀で、劉備と知り合った直後、張飛の武器(蛇矛=ジャボウ)とともに作らせたもの、と北方謙三版三国志には紹介されている。薙刀の刃の部分はきめの細かい錆びかたをしていて、研磨によってすぐに鏡面が現れそうに見えた。 更に奥に進むと、次の堂于が現れた。色の組み合わせはいずれも同じであった。小豆色、白、灰色である。良く見ると建物の前に瓦が積まれていて、飾り瓦も置かれていた(写真2d)。そして屋根瓦の稜線に眼を移すと、建物を雷等の災害から守る走獣の像も五体立った姿で縦列を組み、その前に仙人が建っている(同図)。見慣れた光景であった。
 そして寺なら本堂であろう。関羽を中心に、向かって左に張飛(と思われえる)、右手に趙雲(と思われる)を従えた三体のカラフルな塑像が安置され、垂れた布製の位牌(と言ってよいのか)には、『関聖帝君神位』と標されていた(写真3a)。
そして、その両側には二人の子供、あるいは若者が立ち会っている。三国志の主要な登場人物には彼らの世話をする若者も多く登場する。彼らの仕事は、最初は彼らや、彼らの乗りこなす馬の世話役であったりするのだが、世話をするうちに、自分の意志で家来になったり、養子になったりする。
張飛の馬の世話から始めて、張飛の厳しい調練で、張飛の従者にまで成長し、最後は、赤壁の戦いの前哨戦ともいうべき江陵の戦いがあり、戦略的敗北で30万の曹操軍をおびき出すのであるが、この時、10万人の民をも襄陽から江陵へ移動させることになる。その際、民と劉備夫人らを護衛することになり、護衛の最中に傷つき、江陵に入城した直後に死ぬことになる。また、呂布には、胡郎が、諸葛亮には陳礼、そして関羽には関平がいる。彼らはいずれも血縁が全くなく、曹操や孫権、周瑜を取り巻く若者は皆血縁の濃い者達である。史実とは異なり、物語り上での登場人物かも知れないが、彼ら若者の存在によって、関羽、張飛、諸葛亮が人間的に魅力的な人物像に色づけされ、関羽、張飛、諸葛亮が、慕う劉備が更に魅力的な将に描かれるのである。
将と部下との関係だから、部下は将に付き従ってゆくという関係が曹操軍には強く、劉備軍では将の人間的な魅力(人としての志)に付き従っている.更に孫権軍は周瑜の天才的能力に付き従っている、というように見える。会社での上司と部下の関係も同じ様なものだろう、その集団(部、課、係)の置かれている状況やミッションによって異なり、研究開発指向の強い集団ほど劉備的な人間関係が好ましいと言えよう。
 この林では関羽を最高の神位とするために、劉備や諸葛亮の像はない。しかし、これらの塑像の前に金属製のミニ像が横一列に配置されていて、これらは関羽の生涯で深い関わりを持った群雄をモデル化したものであろう。これらの中には、劉備や諸葛亮と並んで、曹操もいるのではないか。関羽は曹操にとって自分の配下にしたいと思った筆頭であったのだろう。この関林が、かつての蜀の国にあるのではなく、かつての曹操の魏の国にあることが、不思議であったが、最初の入り口に有った関林の案内板には、「・・・・、東漢建安二十五年正月(219)曹操以王侯之礼葬関羽灵首于、・・・・」という一文があり、この関林の建立に関わった。 即ち、劉備と孫権は赤壁の戦いでは協力したものの、後の劉備と孫権との争いでは、関羽は呉の孫権と戦い、湖北省の宜昌近くにある当陽で敗れた。孫権は曹操に関羽の首を贈るが、たたりを恐れた曹操はその首を手厚く葬ったという言い伝えに相当する文であろう。
 そして建物の裏手には、兄弟の契りを誓った柏の木、と表示された樹があった(写真3b)。関羽は洛陽と長安の中間にある河東郡解県の出身で、劉備は逐県、桜桑村出身で、兄弟の契りを誓ったのは劉備の住地とすれば、ここにあるというのが不思議だ。しかし、三人が義兄弟の契りを結んだのは張飛の家というのが「三国志」原作者の羅貫中の設定であり、史実としてどの説が正しいのかを詮索することは意味の無いことと言えよう。
 そして次にたどり着いたのは、関羽の首塚で先ず祀堂(写真3c)、そして、レンガで縁取りされ、盛り土されたような一周370mもの首塚(写真3d)が現れた。
 そして石廊下の通りを通って帰途になった。この石廊下と境内を区画する壁が交差するところには、人一人くらいがくぐり抜けられる通用門があり、中国では円形をしているのが一般的であるが、ここのは四角形の門であった(写真4a)。
 それをくぐりぬけ、しばらく歩くと、二重の塔が現れた(写真4b)。中国には二重の塔というのは無いはずなので、二重の塔ではなく鐘楼、鼓楼、望楼の類かも知れなかったが確認をし忘れた。仏教寺院でも。道教寺院でも無いので、そんなこと関係ないのであるが、「空海 塔のコスモロジー」武澤秀一著を読んで以来、偶数の多重の塔を見るとつい気になってしまうのであった。 そして再び同じ門(写真4c)をくぐって帰途についた。行きには背面だったため、気がつかなかったが、帰途には、関林全域を鎮護しているかのようないくつかの像がへばりついた様な瓦屋根(写真4d)が正面に見えた。
     つづく