17.孔子の弟子子路の地、濮陽(9/26) 濮陽も、宮城谷昌光著「孟嘗君」によく登場する地であり、また「三国志」でも濮陽の戦いなどで、よく登場する地となっているが、それほど日本では著名ではないこの地を訪問先の候補に入れたのは、やはり「孟嘗君」の影響と言えるだろう。
モクゲンジの実がたわわとなった濮陽の街路(写真1)についたのは、11:30頃であった。先ず、ガイドの牛潞さんに、「ここには孟嘗君に関係した名所旧跡があるのですか?」と尋ねてみた。 しかし、「そんなものは有りません。」とそっけない返事であった。
ところで、この街路樹として使われているモクゲンジ、洛陽でも、鄭州でも開封でも目にしたが、日本では、槐に勝るとも劣らないほど珍しい。花から実(種)は想像できないし、また実(タネ)から花は想像できない。 花の状態は背高泡立ち草のような黄色の花で、実(タネ)は袋のようになって垂れ下がり(写真1b、1d)、かなりの大木の街路樹である(写真1c)。当然ながら中国原産であり、木欒子と書き、モクガンジがモクゲンジとなったのだそうだ。
実は金剛子と呼ばれる黒く硬く丸いので数珠に使われるらしい。そもそもこの“欒”という漢字は“らん”と読むのだが、調べてみると、春秋時代、晋の国に晋公室から分かれた名門・欒家というのがあり、晋が戦国時代には、韓、魏、趙に分かれ、濮陽は、戦国時代末期になってからつけられた地名らしい。従って、この欒家と、この一帯に木欒子が多生していることとはなんらかの関係があるように思える。
濮陽に関する他のキーワードは、孔子の弟子の子路の戦死地、濮陽の戦い(三国志)程度であった。地理的には河南省で最も東北部にあり、山東省に接していて比較的臨淄(りんし)に近いということくらいの予備知識であった。
最初にガイドの牛潞さんの後について入って行ったのは寺院にしては、これまで拝観して来た寺院と比べ地味な感じのする寺院というか廟であり、°どちらかというと日本的な佇まいと言える。門をくぐると、骨董市が開かれていた(写真2a、2b)。 規模は大きくないが、揃えている品物は本当に骨董品という香りプンプンのものばかりで、特に小物の陶磁器、古銭、掛け軸などが多く見られた。
中国で骨董市は初めて目にしたが、もともとこの地は商売が盛んな地であり、宮城谷「孟嘗君」で重要な役割を果たす白圭はこの地で商人になり、同じ宮城谷著『奇貨居くべし』の主人公呂不韋(りょふい)の出身地となっていることでも有名である。 『奇貨居くべし』とは「掘り出しものだ、買っておこうという」という意味である。骨董市(写真2a、2b)の正面に見える建物は、「子路祠」と呼ばれる建物で、子路の像(写真2c)や子路にまつわるエピソードが堂内の壁一杯に描かれている(写真2d)。
子路は孔子の一番弟子顔回に次ぐ高弟と言える。中島敦著「弟子」に孔子と子路の師弟関係が生き生きと描かれている。 子路が遊侠の徒」として師を試し、即日孔子の門に入ってから、ついにここ衛の政変に巻き込まれ、死ぬまでの約三十年間の歴史(紀元前五世紀)を挿話的に追い描いている。 中島敦著「弟子」は孔子と子路の性格や運命を書いたとは言え、門下第一の勇士である子路一人の性格や運命が描かれていると言っても良い(以上新潮文庫版「李陵・山月記」の解説(瀬沼茂樹)より)。
五十を過ぎて、初めて治世を行ったのが、この地、衛の国であり、三年後に孔子と再開した時の子路の善政ぶりに対する評言、そして政変に巻き込まれて悲劇的な死をとげる場面が記されている。 これらのことは、「孔子物語」、「論語」にも載っているが、中国各地にある孔廟に子路の紹介として堂内の壁絵などに示されていることが多い。 生地の魯でどの様に祀られているか分からないが、死地のこの地で大切に祀られているというのは余程語り継げられる程の善政を行ったのだろう。
孔子は、その善政ぶりを、先ず領内に入ったとき、 「治者恭敬にして信なるが故に、民その力を尽くす。だから耕作地は悉く治まり雑草が生い茂った地がなく、灌漑用の溝も深く整っている」と言い、邑に入ったとき、「治者忠信にして寛なるが故に、民その営みを忽せにしない。だから民家の垣根は完備し、樹木は繁茂している。」と言い、子路の屋敷に入ったとき、「治者の言、明察にして断なるが故に政治が乱れないので庭は清閑で従者僕僮一人として命に違うものがいない。」と評したとのことである。 今の政治家も治者と同じ立場のはず。「恭敬にして信」、「忠信にして寛」、「言、明察にして断」の三言を志してもらいたいものだ。 そして、最後に子路の墓地の入り口から鳥居越しに墓墳を眺め(写真2e)、そこを後にした。
次に向かったのは同じ、戚城遗址、俗称孔悝城内にある建物(写真3a)であり、軒下飾りの代わりに白壁作りで、日本の寺院と同じ佇まいである。 灰色瓦の天辺には今にも羽ばたいて飛び立とうとする鳳凰の飾りが据え付けられている(写真3b)。遠方から見るとまさに城という姿である(写真3c)。 春秋時代には各国諸侯の会盟が行われたところであるのだそうだ。この孔悝(こうかい)というのは子路の直接の上司であった人の名である。 この孔悝の家老欒寧(らんねい)からの孔悝脅迫の報から子路が助っ人として駆けつけたが、多勢に無勢、老いた子路はあえ無く居合わせた二剣士の刃に倒れることになる。
そして最後に、顓頊玄宮と表示された屋根瓦つきの鳥居(写真4a)をくぐり、中華の始祖黄帝の次帝昌意に次ぐ、中国神話三代目の顓頊(せんぎょく)帝を祀った堂(写真4b)を拝観した。
濮陽は中華民族発祥の地と言われ、中国神話時代の帝で、『史記』五帝本紀によれば「人柄は物静かで奥ゆかしく、常に深謀を備えている」とある。 顓頊は、民間の人々が神と関わる事を厭い、曾孫の重、黎に命じて天へ通ずる道を閉ざさせ、神と人との別を設けさせたという。また顓頊は帝丘を濮陽に遷都したという言い伝えがある。
白川静著「中国の神話」(中公文庫版)によると。洪水神である共工(康回とも言う)と戦い、これに勝った。破れた共工は怒りのあまり頭を不周の山に触れて天柱を折ってしまい、地が東南に傾いたという説話があり、このため黄河は西から東南に向かって流れているという話に落ち着くのだそうだ。
°堂内には、「顓頊功徳」と書かれた説明書き(写真4b)があり、「三皇五帝」の「五帝」の一人であり、在位78年、98歳まで生きたと記されているが、すごい長寿であることが分かる。 また、「顓頊世系表」という顓頊の子孫の系譜が示されている。これを見ると孫に禹がいて、六代目くらい後に、殷を築いた舜がいる。更に八代後には槐がいて、五代あとには、昆吾氏、安(曹)氏、季連氏などが名を連ねている。これだけの記録が残されているだけでも凄い。 そして本当に最後に戚城城壁の盛り土の部分を歩いてみた。
また、この稿のこれまで、あまり触れなかった「三国志」の場面を思い出してみると、「濮陽の戦い」が有名である。これは、曹操と呂布との戦いで曹操が敗れたことになっているが、蝗が大発生し両者撤退で終わったのである。矢ではなく、蝗が飛んできて兵士達が右往左往する様が滑稽であるが、堪らず撤退というのは、停戦の口実にするのに格好の出来事だったのかも知れない。
時刻は13:30を回っているので、約2時間の見学となった。いよいよ次は邯鄲に向かうが、その前に、響堂山石窟寺院を観光することになっていた。
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