槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/03/18 17:54:22|旅日記
17.孔子の弟子子路の地、濮陽(9/26)

17.孔子の弟子子路の地、濮陽(9/26)
 濮陽も、宮城谷昌光著「孟嘗君」によく登場する地であり、また「三国志」でも濮陽の戦いなどで、よく登場する地となっているが、それほど日本では著名ではないこの地を訪問先の候補に入れたのは、やはり「孟嘗君」の影響と言えるだろう。

モクゲンジの実がたわわとなった濮陽の街路(写真1)についたのは、11:30頃であった。先ず、ガイドの牛潞さんに、「ここには孟嘗君に関係した名所旧跡があるのですか?」と尋ねてみた。 しかし、「そんなものは有りません。」とそっけない返事であった。

 ところで、この街路樹として使われているモクゲンジ、洛陽でも、鄭州でも開封でも目にしたが、日本では、槐に勝るとも劣らないほど珍しい。花から実(種)は想像できないし、また実(タネ)から花は想像できない。
  花の状態は背高泡立ち草のような黄色の花で、実(タネ)は袋のようになって垂れ下がり(写真1b、1d)、かなりの大木の街路樹である(写真1c)。当然ながら中国原産であり、木欒子と書き、モクガンジがモクゲンジとなったのだそうだ。

  実は金剛子と呼ばれる黒く硬く丸いので数珠に使われるらしい。そもそもこの“欒”という漢字は“らん”と読むのだが、調べてみると、春秋時代、晋の国に晋公室から分かれた名門・欒家というのがあり、晋が戦国時代には、韓、魏、趙に分かれ、濮陽は、戦国時代末期になってからつけられた地名らしい。従って、この欒家と、この一帯に木欒子が多生していることとはなんらかの関係があるように思える。

  濮陽に関する他のキーワードは、孔子の弟子の子路の戦死地、濮陽の戦い(三国志)程度であった。地理的には河南省で最も東北部にあり、山東省に接していて比較的臨淄(りんし)に近いということくらいの予備知識であった。

  最初にガイドの牛潞さんの後について入って行ったのは寺院にしては、これまで拝観して来た寺院と比べ地味な感じのする寺院というか廟であり、°どちらかというと日本的な佇まいと言える。門をくぐると、骨董市が開かれていた(写真2a、2b)。  規模は大きくないが、揃えている品物は本当に骨董品という香りプンプンのものばかりで、特に小物の陶磁器、古銭、掛け軸などが多く見られた。

  中国で骨董市は初めて目にしたが、もともとこの地は商売が盛んな地であり、宮城谷「孟嘗君」で重要な役割を果たす白圭はこの地で商人になり、同じ宮城谷著『奇貨居くべし』の主人公呂不韋(りょふい)の出身地となっていることでも有名である。   『奇貨居くべし』とは「掘り出しものだ、買っておこうという」という意味である。骨董市(写真2a、2b)の正面に見える建物は、「子路祠」と呼ばれる建物で、子路の像(写真2c)や子路にまつわるエピソードが堂内の壁一杯に描かれている(写真2d)。

  子路は孔子の一番弟子顔回に次ぐ高弟と言える。中島敦著「弟子」に孔子と子路の師弟関係が生き生きと描かれている。
  子路が遊侠の徒」として師を試し、即日孔子の門に入ってから、ついにここ衛の政変に巻き込まれ、死ぬまでの約三十年間の歴史(紀元前五世紀)を挿話的に追い描いている。
  中島敦著「弟子」は孔子と子路の性格や運命を書いたとは言え、門下第一の勇士である子路一人の性格や運命が描かれていると言っても良い(以上新潮文庫版「李陵・山月記」の解説(瀬沼茂樹)より)。

  五十を過ぎて、初めて治世を行ったのが、この地、衛の国であり、三年後に孔子と再開した時の子路の善政ぶりに対する評言、そして政変に巻き込まれて悲劇的な死をとげる場面が記されている。
  これらのことは、「孔子物語」、「論語」にも載っているが、中国各地にある孔廟に子路の紹介として堂内の壁絵などに示されていることが多い。
  生地の魯でどの様に祀られているか分からないが、死地のこの地で大切に祀られているというのは余程語り継げられる程の善政を行ったのだろう。

  孔子は、その善政ぶりを、先ず領内に入ったとき、
「治者恭敬にして信なるが故に、民その力を尽くす。だから耕作地は悉く治まり雑草が生い茂った地がなく、灌漑用の溝も深く整っている」と言い、邑に入ったとき、「治者忠信にして寛なるが故に、民その営みを忽せにしない。だから民家の垣根は完備し、樹木は繁茂している。」と言い、子路の屋敷に入ったとき、「治者の言、明察にして断なるが故に政治が乱れないので庭は清閑で従者僕僮一人として命に違うものがいない。」と評したとのことである。
  今の政治家も治者と同じ立場のはず。「恭敬にして信」、「忠信にして寛」、「言、明察にして断」の三言を志してもらいたいものだ。
  そして、最後に子路の墓地の入り口から鳥居越しに墓墳を眺め(写真2e)、そこを後にした。

  次に向かったのは同じ、戚城遗址、俗称孔悝城内にある建物(写真3a)であり、軒下飾りの代わりに白壁作りで、日本の寺院と同じ佇まいである。
  灰色瓦の天辺には今にも羽ばたいて飛び立とうとする鳳凰の飾りが据え付けられている(写真3b)。遠方から見るとまさに城という姿である(写真3c)。
  春秋時代には各国諸侯の会盟が行われたところであるのだそうだ。この孔悝(こうかい)というのは子路の直接の上司であった人の名である。
  この孔悝の家老欒寧(らんねい)からの孔悝脅迫の報から子路が助っ人として駆けつけたが、多勢に無勢、老いた子路はあえ無く居合わせた二剣士の刃に倒れることになる。

  そして最後に、顓頊玄宮と表示された屋根瓦つきの鳥居(写真4a)をくぐり、中華の始祖黄帝の次帝昌意に次ぐ、中国神話三代目の顓頊(せんぎょく)帝を祀った堂(写真4b)を拝観した。

 濮陽は中華民族発祥の地と言われ、中国神話時代の帝で、『史記』五帝本紀によれば「人柄は物静かで奥ゆかしく、常に深謀を備えている」とある。
   顓頊は、民間の人々が神と関わる事を厭い、曾孫の重、黎に命じて天へ通ずる道を閉ざさせ、神と人との別を設けさせたという。また顓頊は帝丘を濮陽に遷都したという言い伝えがある。

  白川静著「中国の神話」(中公文庫版)によると。洪水神である共工(康回とも言う)と戦い、これに勝った。破れた共工は怒りのあまり頭を不周の山に触れて天柱を折ってしまい、地が東南に傾いたという説話があり、このため黄河は西から東南に向かって流れているという話に落ち着くのだそうだ。

  °堂内には、「顓頊功徳」と書かれた説明書き(写真4b)があり、「三皇五帝」の「五帝」の一人であり、在位78年、98歳まで生きたと記されているが、すごい長寿であることが分かる。
  また、「顓頊世系表」という顓頊の子孫の系譜が示されている。これを見ると孫に禹がいて、六代目くらい後に、殷を築いた舜がいる。更に八代後には槐がいて、五代あとには、昆吾氏、安(曹)氏、季連氏などが名を連ねている。これだけの記録が残されているだけでも凄い。
そして本当に最後に戚城城壁の盛り土の部分を歩いてみた。

  また、この稿のこれまで、あまり触れなかった「三国志」の場面を思い出してみると、「濮陽の戦い」が有名である。これは、曹操と呂布との戦いで曹操が敗れたことになっているが、蝗が大発生し両者撤退で終わったのである。矢ではなく、蝗が飛んできて兵士達が右往左往する様が滑稽であるが、堪らず撤退というのは、停戦の口実にするのに格好の出来事だったのかも知れない。

時刻は13:30を回っているので、約2時間の見学となった。いよいよ次は邯鄲に向かうが、その前に、響堂山石窟寺院を観光することになっていた。








2010/03/12 17:41:25|旅日記
16.開封〜濮陽〜邯鄲 大黄河を越えて、大広高速を北へ、ムムッ、透明マント?

開封のホテルの朝食をとりに、ホテルのレストランに入ろうとした時ガイドの牛潞さんとバッタリ顔を合わせた。これから外に食事に行くのだということだった。一般的には、ガイドさんは旅行者と食事をともにすることは少ない。旅行者は朝食つきのホテルを利用するので、殆どの場合、朝食は共にしない。宿が異なることことがあるかも知れないが、その辺の事情はいつも聞きそびれる。
 「これから屋台に朝食に行くのですが、一緒に行きませんか?」と声をかけてくれた。
  朝餉の時間に、出発時間まで間があると、屋台の密集した一帯をほっつき歩いたことはあるが、言葉が通じないのと、何を食べさせられるか分からないという恐怖から、常に横目に見て過ごしてばかりいたので、牛潞さんのお誘いは渡りに舟であった。
  運転手の趙さんが姿を見せるのを待って徒歩で出かけた。ホテル前の大通りを渡り、5分ほど歩いた向こう側の路地に多くの屋台が並んでいて、既に人で賑わっていた。牛潞さんの配慮だろう、結局屋台ではなく、屋台で隠れていたこぎれいな店に入った(写真1)。
  シシカバブやナンが山積みされ、シュウマイや饅頭が店頭で蒸され、その湯気が屋台や店頭から立ち上っている。対面する店には、清真・・・と屋号が表示された店が見えた。「このあたりはイスラム系の店が多く、シシカバブやナンを常食する人が多いのです。」と牛潞さんが教えてくれた。シュウマイはほかほかしておいしく、ミルクと一緒に10個ほど食べた。運転手の趙さんは体格が良いだけあって、朝からパクパクと食が進むようだ。牛潞さんは自分と同じ程度食べ、しばらくして、店を出た。
  時計を見ると北京時間で、朝九時であった。ホテルに戻り、九時半に出発することになった。ホテルのチェックアウトを済ませ、九時半少し過ぎた頃にホテルを後にした。
  一路大広高速を北へ走り、濮陽を経て、響堂山石窟寺院を見学してから、邯鄲に入る、というのが、その日の予定のコースであった。
  大広高速の大は大連かと思いきや、北は、北京を通過、はるか黒龍江省大慶の大であり、南は広州に至る全長3234kmの国道で、九本の南北縦貫高速国道の一つである。
  更に中国国道事情を調べると、2005年に、中国交通部によって公布された「国家高速公路網規画」で採用された「7918網」のうちの一本でもある。ちなみに、「7918網」というのは、7918本という意味ではなく、首都北京からの放射状高速道路7本と、9本の南北縦貫線、18本の東西横断線という意味である。2005年以前は、“五縦七横”という1992年に立案された高速道路網があり、鄭州から洛陽へ行くときに利用した連霍(レンカク)高速は、“七横”の一つであり、中国でも重要な幹線高速道路と言える。数字の前につく“G”は、「国道」(Guodao)の頭文字をとっているのだそうだ。
  40分程して、黄河を渡る橋に出た。広大な黄河で、静かに厳かに水をたたえ、中国4000年の歴史を滔々と見つめてきた川である。その大河を渡るとあって、写真を撮りつづけた。こういうときに動画モードが良いのだが、いつもそれを忘れ、今回もAUTOモードで撮り続けてしまった。
  そして後日、その写真を見ると、走行しながら撮った写真なので横に流れる写真となる。今回もその写真(写真2)をまざまざと見ていて不思議な映像に気がついた。
  高速道路の欄干越しに黄河の写真を撮った中の数枚である。その欄干は、横に青塗りした円柱状の横のバーが延々と連続して続き、それを支える青塗りした円柱状の地面に鉛直に縦柱が10mおきくらいに横のバーを支えるように直立している。
  この縦棒が写真では、青い塵屑の様に霧散し、透明になり、その縦棒の向こう側が透けて見えるのである。そして遠方の縦棒になるほど霧散の程度が減り、透明度が低下しているのである。  車は普通は時速100kmを越え、150km近くまで上げることもあるが、自分が写真を撮る気配を感じると、運転手の趙さんは時速80km程度まで下げてくれる。
 なので、この時も時速80kmくらいであったと記憶している。その状況で何故、縦棒が完全ではないにしても透明に見えるのか?

  最近の物理分野でトピックスになっている「透明マント」と同じ現象(マクロ版)でないかと思わず固唾を呑んでしまい、この様に見えた理由を考え込んでしまった。
  「透明マント」というのは、芯または中心部分が中空となった柱状,あるいは塊状の物体で,ある周波数の電磁波の平面波を当てると,平面波が中空部分をう回して物体の後ろ側に抜けていく性質を備えるもの。
  特に,物体を抜けた電磁波の波面が再び平面波に戻り,物体がない場合の平面波と振幅や位相が完全に一致する場合に,この物体は「完全な透明マント」であると呼ばれる。
  その周波数の電磁波を当てても何の反射も位相遅延も起こらず,物体の向こう側の景色がそのまま見えるためである。こうした物体の中空部分に何かモノを隠すと,その周波数の電磁波にとっては隠したモノが透明マントごと視界から消えることになる。(日経TechOn 2008/04/16記事「これが完全な透明マント」,日英の研究者らが設計図を完成)の記事から抜粋。
  因みに電磁波ではなく超音波でも同様の現象が存在しうることが検証されているらしい。透明マントは人工的にナノスケールで制御して製造したメタマテリアルという材料で起こりうる現象と言われて、電磁波の場合は負の屈折率、音響の場合は負の音速(密度や負の弾性率)という分かりにくい概念が出てくるが、幾重にも偶然が重なると、マクロな世界でも観察しうる現象なのかもしれず、その場面に遭遇できたなどとしばし考えてしまった。
  富山県立大学 工学部 情報システム工学科落合友四郎氏が説明に使った図(写真3)を見てもその理屈は分かりにくいが、この現象が少し親近性のあるものに変わってきた様に感じた。
  しかし、少し思考をめぐらすと、そんなことではなくて、単にデジカメのシャッタースピードと視野角、車のスピード、及び欄干の縦棒の太さ、デジカメレンズから欄干の縦棒まで及び遠景までの距離の関係から起こりうる現象(見え方=デジカメ像)であることが分かった。
  即ち、シャッターが開いた瞬間から、閉じるまで車が移動しているので撮る位置が少しづつずれる。そのずれたそれぞれの位置から、レンズの視野に対応した光景が見える。そのそれぞれをS1、S2、・・・・Snとすると、それらを加算した画像を同じレンズが認識をする。そしてその加算画像が時間に対して平均化される。遠景になるほどS1、S2、・・・・Snの各画像間の差異はなくなるので、コントラストがはっきりしてくる。
  欄干越しに見える景色はかなりの遠景であったので、コントラストは比較的はっきりとし、かつ平均化画像で欄干の縦棒は霧散したような画像になるので透明のように見えたのであろう。
ア〜、疲れた。久しぶりに物事を考えてみた。
 しばらくして、黄河を渡る橋を通りすぎ、20分ほどたったところで撮った写真である。なんの変哲もない高速道路からの写真であろが、目を凝らしてみると、写真の上空にあたるところに「雷朋」の文字が浮かびあがっているのに気がついた(写真4)。  一体なにかと思って後日、「雷朋」の文字を日中辞典で調べてみたが、載っていなかった。
  もしかしたら黄河は渇水状態というので、「雷さ〜ん、雨を降らせておくれ〜。」という雨乞いの気持ちを天に吊るして願かけているのかも知れない。
 しかし、それを吊るしているアドバルーンの様なものは全く見られなかった。不思議な話である。車の中にあるものが映っているのなら、その方角にレンズを向けた写真には常に写っているはずなので、そうではないことは確かである。

  そして、約、40分後、その様な不思議なことのあった、大広高速からそれていよいよ濮陽である。







2010/03/10 20:46:12|旅日記
15.伝説の夏王朝の帝王N禹王台(9/25)  伝説の治水王を祀った丘

言い伝えによれば、春秋時代の晋国の盲楽師師昿(しこう)が、よくここで楽器を吹奏でていたという(写真2b)。そのため人々はこの丘を吹台と呼んだのだそうだ。確かに最初に、「禹王台」と書かれた石碑(写真1a)の次に現れたのは、「古吹台」と書かれた色彩豊かな門(写真1b)であった。

背景の木々に負けない鮮やかな瑠璃色の瓦と、瓦の上には守り神である、これも鮮やかな緑色に化粧した神獣が鎮座している(写真1c)。そして、その門前には一対の戯れている獅子の石像が配されていた(写真1d左、同右)。
漢代には梁孝王(りょうこうおう)が梁園(りょうえん)という庭園を造り、以後、時代ごとにさまざまな別邸が造られたのだそうだ。

そして、時代が下がって明代になると、開封の地はたびたび洪水の被害に遭うようになり、夏の時代に治水に功績を上げたとされる禹を守り神とすることにした。そして、この丘に銅像を建て、名を禹王台と改めた。現在は風光明媚な公園となっていて、大殿には禹が、三賢祠(写真2a)には唐代の詩人である李白、杜甫、高適の3人が、師昿祠(写真2b)には師昿が祀られている。また、4月に開催されるお祭り、東京禹王大廟会のときに、いろんな催し物があるとのことである。

更に歩を進めると槐の大木が現れた(写真3a)。樹標には「国槐 樹齢305年 2000年5月」とあるので、1695年に植樹されたのだろう。1695年と言えば、すでに明が滅び、清の時代(1661年〜1795年)に入り、金庸の小説「鹿鼎記」に登場する康煕帝の時代と言える。

康煕帝は文武を兼ね備え、61年の在位中は酒、煙草を飲まず、陣中でも一日に300通の上奏文に目を通したと伝えられているらしい。そして次の雍正帝は朝4時から夜12時まで政務を行い、食事の時は最後の一粒のごはん粒も残さなかったほどの賢帝で、更にその次の乾隆帝の三帝の時代は政治が安定し、泰平の世の中だったらしい。従って、中国の人口は、明の時代の人口の3倍に急増している。それでも2億人には至っていない。

その様な中国の歴史を見つめてきているのだ。国槐を見上げる(写真3b)と、葉はたわわに茂り、まだ少なくとも100年はこの先の中国の歴史を見続けるに違いない。

そして槐の枝先は、禹王廟の入り口門の建物(写真3c)に触れるところまで伸びていた。入り口門は丸くくりぬいた出入り門を配したレンガつくりの塀壁と、その上には黒瓦の屋根が築かれ、その軒下には色彩豊かな模様が刻まれていた(写真3c、3d)。そして拝観を終えて帰途についた。

歩いていると、中国で見慣れた光景が目に入った。マージャンに興じる老人達の姿である(写真4a)。実際はどうか分からないが、彼らにとっての時間は、自分達よりもゆっくりと動いているのではないか、この光景を見て感じるのは、先ずこのことである。

次いで気になるのはマージャンのルールである。その好奇心から、少し近くで見させてもらうと、トイトイだけで上がろうとしている手であり(写真4b)、ドラなんてあるのだろうか。先ず面子が揃うだけでも羨ましい。またこの様な屋外で、自然に触れながらマージャンに興じる環境があるのが羨ましい.

そして、時刻は既に午後7時なのに、まだ外は明るくまだしばらく遊べそうである。というのは間違いで、デジカメの表示時間は日本時間のままで、現地時間では午後6時なのである。







2010/02/06 2:03:30|旅日記
14.かつては六角九層80mの巨大塔M繁塔、(9/25)

14.かつては六角九層80mの巨大塔M繁塔、(9/25)
なかなか分かりにくい所にあり、そこに至る直前のところで、運転手の趙さんは車の窓をあけて、通行人に場所を尋ねていた。少し行ったところを右折すると正面に荒れ果てた瓦礫の山と、その先に、変った風体の建築物が現れた(写真1a)。
事前に、観光案内書や他人のブログに掲載されている写真などに比べると、塔の周囲はかなり荒れている。それだけに、たった一輪純白の花弁をつけた花が目立ち、気高く見えた(写真1c)。

この建造物「繁塔」は、原名は、興塔寺(こうとうじ)と呼ばれ、977年(北宋の太平興国2年)に建造されたとのことである。平面6角のレンガ塔は開封に現存する建築物の中で最も古い。
 黄河の氾濫により塔の土台は地下に埋まっており、現在の高さは36.7メートルとなっている。文献の記載によれば、もとは9層の塔であったという。現在は、残留した3層の塔身に7段の小塔がある。塔身にはさまざまな姿の仏が彫られている(写真1d)。
 南門側の塔内には、金剛般若波羅蜜経や十善業道経要略、十二臂観音等などの石碑がはめ込まれているとウェブの観光案内に書かれているが、石碑ではなく、磚仏、即ち硬いレンガではなかろうか。塔の外壁には無数の仏像が、同じ顔、表情、衣装が同じものは二つと無いと思えるほど様々な表情、容姿をしている様に見えた(写真2a)。

 入場門から入るとき、その入場門(写真1b)の屋根を見上げると異様な佇まいを感じさせていることに気がついた。屋根は灰色瓦であり、コンベックス形状即ち、表側に向かって凸ではなく、コンケーブ形状即ち表側に向かって凹に積み重ねられているのである。初めて見た瓦積み形式であり、どのような意図でこのような積みかたをしたのか気になった。
 入場門の屋根の下には、扁額というより表札が掛かっていて、「繁塔文物保管所」と表示されていた。左側から書かれているので、この門そのものは古いものではなく、それほど特別な意図がある瓦積みでは無い様な気がしてきた。

 ところで、この稿を書くにあたって、後日、「繁塔」を撮った動画(YouTube)があることをたまたま知り、それを見ると、赤レンガで囲まれた狭い迷路のような通路を、映像が追いかけて「繁塔」の入り口にたどり着いているのが見えたが、その様な構えは全く見られなかった。ということは、その赤いレンガの一角は取り壊され、それが瓦礫の山に化したのだろうと思いついたのである。

 中国の近代化はこんなところへも足を忍び寄らせていることになるのだろうか。その様に考えるとレンガ壁を取り壊す鎚の音が聞こえるような気がしてくる。
 繁塔は長い歴史の中で、さまざまな災害に見舞われながらもその独特な形を保ち、また、その彫刻技術は世界的に有名であり、国内外の観光客も大勢ここを訪れている、ということなので、観光客の安全を考え、赤レンガで囲まれた狭い迷路のような通路を改修させている最中なのだろう。そう思うことにした。

 塔の外壁には一辺50cm程度の正方形(厚さは分からないが)のレンガの表面に凹半球面のくりぬきがありその表面に、小さな仏像の立体像が形どられていた(写真2a)。仏像は先記したように同じ顔つきをした佛像の顔つきは二つとなく、いずれも柔和で、落ち着きがある感じがした。
 その様なレンガがまるで結晶格子の様に整然と並んでいて、壮観であった。
 仏像のどれもが落ち着いて柔和に見えるのは、繁塔が建造された宋という時代が安寧な時代だったからかも知れない。

 宋代の文化は絢爛豪華であると同時に、町並みの賑わいは、前に触れた「清明上河図」の絵(「改訂新版 最新図説 世界史」浜島書店刊 より)のように、唐の長安をも凌ぐものだったらしい。
 いま、この絵を見ながらこの稿を書き進めているのだが、その絵の説明には「汴河(ベンガ)にかかる虹橋(コウキョウ)では江南から運ばれてきた穀物が陸揚げされようとしている。橋の上では、衣類、骨董、玉、薬、食べ物などの露店が並び、客寄せをしている。場内には各所に、酒楼、茶館、芝居小屋があり、繁盛した。唐の長安では西市、東市の坊の中にしか市場がなく、夜間営業は禁じられていたが、宋代では坊制も崩れ、商店は通りに面し、昼夜を通じて営業が行われた。」とある。
 茶器や花器として著名な、曜変天目茶碗や、青磁はこの時代に開発された名器であったし、北宋の徽宗は政治よりも書画に没頭し、自ら「桃鳩図」を描くなどもして、書画作家の保護奨励も行ったとのことである。
 印刷術、火薬、羅針盤の三大発明がされたのもこの時代である。また、科挙により官僚となることを期待された士大夫階級が支配階級になって行くが、かれらにとって理想とされた人間像は、琴、棋、書、画、詩文に秀でることとされた。
 そして、これら士大夫層に支持されたのが、仏教 禅宗だったのである。

 この様な時代背景で創られる仏像は、自然と柔和にならざるを得なかったのだろう。
 目を一層目と二層目の境界に移すと、勢い良く草木が茂っているのが目に入った(写真2c)。そして再び結晶格子に目を戻すと、まるで別世界を感じる(写真2d)。そして、この結晶格子は何故か、安らぎを与えてくれた。

 内部に入ってみて、この塔がまさしくレンガ造りの塔であることが実感できた。側壁は外壁と同じように結晶格子のような、仏像が彫られた正方形レンガが規則正しく並び、部屋は六角にレンガ壁で囲まれていて(写真3c)、重苦しいが何故かなごみが感じられる。ピラミッドパワーではなく、繁塔六角壁パワーとでも呼んでおこう。
 レンガに鉄が混じっていると考えれば、鉄の磁気作用がそうさせているのかも知れない、などと考えながら目を上方に持ってゆくと、次第に六角形の一辺の寸法が小さくなってゆき(写真3b)、最後は、六角形の天井で終端しているのが分かった(写真3a)。
 更に別室に歩を進めると光が差し込む構造の窟になっていて、そこにも黒光りする仏像群が目に飛び込んできた(写真3d)。仏像全てが光の方に向かって座しているように見えるが、正面を向いているのである。
 残念なのは手の届くところにある仏像の顔の多くが、取り崩され首から、下だけになっている(写真4)、ということで、中国の石窟寺院ではよく見られる光景である。
 この空間は先ほどの空間より更になごみをが感じることが出来、座椅子があれば、そこにへたり込んでしまいたい気分になる程であった。レンガが先ほどの部屋のレンガに比べると黒さが増し、鉄の含有量が増えていて、その分磁気が強くなっているのでないかなどと妄想して歩いているうちに塔から外へ出た、そして再び瓦礫の山を見つつ、繁塔を後にした。







2010/01/28 0:48:55|旅日記
13.中原五古都を行く−傾く十三塔 L開封寺 鉄塔公園(9/25)

 9月25日、「山陝甘会館」の次に向かったのは、開封寺 鉄塔公園であった。天気は昨日とうって変って快晴のままであった。12時を少し過ぎていたが、平日のせいか人影は少なく、絶好の観光日和、デジカメ撮影日和となった。
 事前に確認した観光案内書には、「見事な13層八角柱の高さ55.8mの塔で、表面には、仏像や50種の文様を刻んだ鉄色の磚(セン=レンガ)が嵌めこまれていて、一見鉄製かと見間違えることから鉄塔と呼ばれる。
 何度もの戦乱にも耐えて原型のまま残る」とあった。鉄色というのが、どの様な色を言うのか興味があったが、鉄錆び色というのが正解であろう。「磚は人々の生活の様子などを型押しして描いた画像磚や、仏を彫り出した磚仏なども存在し、主として墳墓や仏塔などに用いられた。」と先記しているが、この十三塔には、少なくとも磚仏は見られるだろうと期待していたが、肉眼では磚に施された模様や仏像は見えない。帰ってから、望遠で撮影したデジタル写真をさらに拡大してそれを確認することになるのだ。好天なので凹凸のある模様に影がつき、輪郭がはっきりする。後の写真整理作業が楽しみになる。

ところで、話が脱線するが、自分が黄河文明発祥の地とも言える地域を旅行した2ヶ月ほど後に、親友のMさんはエジプトを旅行し、ピラミッドを見て、その壮大な建設方法にいたく感銘を受け、「ピラミッドの謎を垣間見た気がします。人間の頭に進歩は意外と遅いのではないか改めて感じた次第です。」という感想を吐露してくれた。
 そして、後日顔を合わせた時に、再びその話題が出て、「階段状ピラミッドというのはレンガを積み上げて作りあげてゆく。そのレンガは赤茶けているので、ピラミッドの外観もその様な色になる。」と言い、それに対して自分は「確かに中国にも磚と言う名の赤っぽいレンガが作られていて、墳墓や家屋に使われていた。赤レンガは古代文明に必需な建材と言えるかもしれない。」と話をあわせた。
 翌日写真を添付して送信してくれた(写真1a:M氏掲載了解済み)。確かに階段状ピラミッドは赤みがかったレンガが積まれて四角錐の外観となっている。古代文明と赤レンガの関係は以下のように推理できるのではないか。
 文明の発祥は定住から始まる。定住は固定住居を必要とし、固定住居は移動式でないので、頑強な構造とすることが出来、分解を不要とする。したがって先ずしっかりした土台を築き、その上に壁を築き、屋根を設ける。これに最も手短な建築材料はレンガと言える。
 では何故赤レンガが好ましいか、赤レンガの赤は鉄である。富士山の噴火によって堆積したと言われている関東ローム層の赤土と同じである。
 この赤土の主成分は“ラテライト”と言われる物質で、成分として鉄分の多い赤土からは、鉄を取り出すことが出来るのだそうだし、アルミの多い赤土は、「ボーキサイト」とよばれ、アルミニュームの原料鉱石となるのだそうだ。
 この「ラテライト」には、大変便利な性質がある。地下にある「ラテライト」は、湿っているときは、普通の土と同じように軟らかいが、いったん乾燥すると鉄分の影響で非常に硬くなり、元には戻らないらしい。すなわち「不可逆性」なのだそうだ。そんな性質を利用して、「ラテライト」から「日干しレンガ」が作られる。
 エジプトの階段ピラミッドの日干し煉瓦、黄河文明の磚(セン)に限らず「アンコールワット」や「スコータイ」の遺跡の建造物をはじめ、ふるい仏教遺跡のほとんどが、この「日干し煉瓦」造りだそうだ。中国版が、磚(セン)なのである。
以上の様に古代文明−定住−固定住居―頑強な建材―成型しやすく、乾燥すると硬くなる―赤レンガーラテライトー酸化鉄 という連想に真実味が増してくる。

 さて、十三塔鉄塔開封寺に話題を戻す。
駐車場を後にして、まもなく入り口門(写真1b)に出会う。初めて見る形式の門であり、門が縦に串刺しにされている様な門であった。串は計12本、全てコンクリート製で竹のような節が二箇所にあり、表面に、模様が施されていた。門から両翼に展開された門壁も串と同じコンクリートで、両側に“景”、“一“と淡い小豆色で書かれている。門の瓦は鉄錆び色をして赤黒く、日本の瓦には多い色であるが、中国ではあまり見たことのない色である。一言で言うと備前焼の色であった。

 備前焼は、鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれ、鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれるようになっている。
 また、焼成を最初酸化焔で行い、最終段階に大量の燃料を投入して焚き口をふさぐように焼成すると、この結果、窯内は酸素不足となり還元状態になる。
 この還元作用と燃料の不完全燃焼による煤煙によって、青灰色の色調に焼きあがる、須恵器はこの様に作られるが、赤茶になったり、青くなるのは鉄イオンが三価(酸化炎)になったり、二価(還元炎)になったりするからである。
 因みに、フェライトという物質は、三価と二価の鉄イオンが共存し、色は黒である。従って、還元炎が強まるに従って、赤茶→黒→青と色が変化してゆくことになる。同じ窯で温度と雰囲気調整によって、この三色やこれらの中間色を得ることが可能となる。
 そして、さらに焼成温度を上げると、還元性雰囲気が強くなり焼きしまった黒色の陶磁器がえられるようになる。黄河下流域(現山東省)の竜山に青銅器出現以前に栄えた竜山黒陶文化はまさにこれであり、須恵器の源流と言われているとのことである。
 入り口の門の屋根の色は、三価と二価の鉄が共存した色と言える。ただし、青までは至っていない。

 歩を進めるうちに、鉄塔十三塔を背後に控えるかの様に立ちはだかる「接引殿」の正面に出た(写真1c)。屋根瓦は黒瓦であり、ところどころに秋草が茂っていて。黒瓦を背景に目立ったが、愁旧さを感じさせて眼に焼きついた。わざとそうしているのか、手入れを惰っているのか分からないが、観る方は無責任に悠久の歴史を感じることが出来て良かった。
 接引殿の手前には池があり、白蓮一輪と水面に投影された接引殿の屋根が、静寂質素さを醸し出していた(写真1d1)。そして接引殿には、ピンクのマントをはおった阿弥陀仏の立像が安置されていた(写真1d2)。ピンクのマントとは派手であるが、現在も観光以外で活躍しているのだろう。地域の仏教徒の信仰の対象となっているのであろう。しかし拝礼している姿は見られなかった。そして、壁面を覗いてみると、多くの飛天が楽器を奏でていたり、舞っている姿が描かれていた(写真1e)。色褪せていないので、まだ新しいのだろう。古くても清の時代のものであろう。場合によると、鉄塔公園として公布された1961年かも知れない、とあとで思った。
 接引殿を後にすると、いよいよ鉄塔十三塔が正面に見える(写真2a1)。
 宋代1049年に創建され、幾度かの戦禍を免れ、そのまま現存しているというのだから、日本で言えば、平安時代に建立された東寺五重の塔が、戦禍にめげず現存しているのに等しい。
 十三塔鉄塔開封寺は中は木造であるが、周囲全面がレンガによって覆われていて、鎧を身につけているも同然なのである。
 十三塔各層の屋根の軒下には法鈴がつらされている。また、屋根のところどころに接引殿のそれと同じ様に雑草が生い茂っていた。少しづつズームアップしてゆくと、各層の屋根の稜線が見えてきたり、瓦やレンガの色やレンガの表面に描かれている模様、レンガに入っているヒビなどが見えてくる(写真2a1、2a2、2b1、2b2、2c1)。
 勿論、、ちょび髭のように、ところどころに生えている草も見え、同じ十三塔鉄塔でありながら様々な表情を呈している。各層の屋根の稜線にはそれぞれ二頭の神獣が控えている。八角形の塔で十三層なので、合計で、2(頭)×8(稜線)×13(層)=208(頭)もの神獣がこの塔を守っている計算となる。法鈴は計104個となる。
 そして、反対側に回り、少し距離をおいた全貌が見えるところまでくると、ガイドの牛潞さんが、「この十三塔は少し傾いているのですよ。」と話かけてきた。確かにその気になって見ると傾いて見える(写真2d1)。大理の三塔寺の十三重の塔にもそんな話があった。しかし、ここのは通路の方向による目の錯覚の様にも見える。近づいて見上げてみても傾いているようには見えなかった(写真2d2)。
 光線の影響か、塔の色は陰影を帯び、確かに金属鉄の渋さが滲み出てみえた。昔懐かしいベーゴマの色に近い。そして、後日写真を拡大し、レンガの模様を覗いてみた。

 レンガの寸法や模様は多種多彩で、飛天あり(写真3a右上)、神獣あり(写真3b)、蓮の模様、唐草模様あり(写真3a右上、写真3c)、いくつかのレンガ分の大きさで、家型の五角形の掘り込みがあり、そこに小さな仏像が浮き彫りされている(写真3a左)。その色は黄土色であり、浮き掘り仏像は、「アレ、絶景かな、絶景かな」と悦にいっている機嫌の良い表情にも見える。
 この仏像を含め、これらの模様や造形は繰り返えし使われているので、同じ模様の磚は、法鈴の10倍は下らないだろう。おそらく、千枚づつはあるだろう。型を使って粘土の状態で型押し、乾燥、硬化させるという製法をとらざるを得なかったに違いない。
 住み心地が良いのは、仏像や神獣だけでないらしい。仏像がはめ込まれている家型の五角形の掘り込みの軒下にあたる窪みには大きな蜂の巣があり(写真3a右下)、そこを根城にした蜂どもも同様であろう。後日、この稿を書くために、デジカメ写真を拡大表示して、初めて気がついたことであった。
 そして、レンガの色といえば、黄土色から始まって、あずき色、茶褐色、黒褐色、灰色、青、緑と多彩で、黄土色は特に目立ち、仏像もその目立つ色の色彩となっていた。おそらく金色を模したのであろう。
 神獣の目つきは下に向いていて、いかにも下界を見下ろし、下界に何か不穏な動きあれば、一躍して、地上に降り立ち、不穏な動きをする存在を成敗する、と言うような目つきと姿勢であった(写真3c)。
 そして、神獣が納まっている位置はいかにも門構えをしているように見え(写真3b)、門の両側には鋲模様の柱が並び、その両翼には単純な点状模様の壁が展開されていて(写真3d)、この柱や壁は一枚の細長いまたは一枚の大面積のレンガつくりとなっていた。そう観てみると、門内に侵入しようとする闖入者を阻止する門番にも見えた。

 そして鉄塔を後にして、奥の池の方に向かった。池の向こうに眼を遣ると、東京宋城の古城壁が見えた(写真4a)。1000年の風格を感じなかったが、少し違うところに眼を移すと、壁土が露出した荒れたところもあり、壁土が脱落しているような箇所もあった。
 壁の向こうには、住居がうっすらと見え、この壁が1000年の時空を区画しているようにも見えた。
 後ろを振り向くと、鉄塔が小さく見え、塔影が池に映り、木々の緑とともに、絶好のコントラストをかもし出していた(写真4b左、右、写真4d)。
 池には中ノ島があり、長廊水樹と呼ばれる浮き道が岸からそこへと誘っている。そこを通って、中ノ島まで行き、数呼吸してから戻ることにした。帰り道、開封寺塔(鉄塔)と刻まれた石碑があり、1961年3月4日公布と碑が据えられた日付が示されていた(写真4c)。公園化された日付でもあったのだろう。