槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/04/02 11:44:43|旅日記
22.商代遺跡(9/27)

今回の最終訪問地の商代遺跡の裏門だったのか広々とした駐車場がなく、裏口の様なところから、中に入った。
  3m程度の高さの土手のような城壁に登り、といっても、15段くらいある石段を上った程度の感覚だったが、土の感覚がなんとなく良い。土手には槐の樹やモチの樹が、植樹されているというより、自生し、いつの間にかそのまま成長したという趣である(写真1)。
  時折すれ違うカップルがいるが、殆ど人とすれ違わない。閑静で、草木に囲まれた公園という感じであった。時折花の姿が眼に入る(写真2)が花の名前は分からない。そしてしばらくして、こちらが正規の入場口と思われるところへ出た。そこに、「鄭州商代遺跡」と石板に記された表示があった(写真3)。
  中学時代中国の歴代王朝の名を暗記したのは「イン・周・秦・漢・・・・」だった。{商}という王朝の名を初めて聞いた時、「殷」のことであることを知ったとき異様に感じたのを今でも覚えている。
  中高年になって宮城谷昌光の著書を読み、「沈黙の王」の商の湯王、「天空の舟」の-商の伊尹、あるいは「商周革命」というようにむしろ「商」という字のほうを眼にする機会が多くなった。
  ということは商代遺跡というのは、かつてその発見が日本の新聞にも大きく取り上げられた「殷墟」かも知れない、という気持ちになるが、全く別物で、「殷墟」は邯鄲と前日ちまきを食べた高速道路のパーキングエリア鶴壁の中間地あたりにある安陽市にある。
  安陽市は最近(2009年12月末頃のニュース)では、河南省安陽市安陽県で、三国時代の英雄で魏の国の基礎をつくった曹操の墓を発見した。墓から60歳前後とみられる男性の遺骨が見つかり、中国の考古学者や歴史学者らが鑑定した結果、曹操本人のものと断定した。三国時代の魏の曹操の陵墓である」と報じられている。
  しかし現代では鄭州の方が遥かに中国では中枢的な役割、特に交通の要所を担っている地となっている。
  北京(一泊)経由で鄭州空港に降り立ち、ここを起点として、「中国中原五古都を行く」が始まり、車で、鄭州から洛陽、開封、濮陽、邯鄲を巡った旅はこれで終わりである。
  翌9/28に北京経由でその日のうちに成田へ帰着し、成田で後泊し、9/29に帰宅となった。
  鄭州からの北京行きの便は建国60周年記念式典が数日後(10/1)に開催されるということで、手荷物チェックが厳しくなっているという情報があったが、実際には極めて順調に通過できた。 
  今回の中国旅行で手配等で世話になったArachinaの沈慧香さん、観光ガイドをしてくれた牛潞さん、車を運転をしていただいた趙志剛さん、ありがとうございました。(完)







2010/04/01 21:10:28|旅日記
21.京港澳高速を南下S邯鄲〜鄭州(9/27)

邯鄲の観光を終え、京港澳高速を南下して鄭州に戻る。黄梁夢呂仙祠を後にしたのが、丁度北京時間で、11時くらいであり、ひたすら鄭州に向い走りつづけ、北京時間13時くらいになって、高速道路の鶴壁という地点の休憩所に立ち寄り、そこで昼食となった。昼食は全行程通して自前普通食であり、この様な場合便利である。そこで、かなり食べ答えのある“ちまき“(写真1)とインスタントわかめスープを皆で食べた。
“ちまき“は笹の葉に包まれ、赤い糸で縛られているのは同じだし色も殆ど同じだったが、餅の中は、餡が入ったものと野菜ひき肉様が入ったものとがあり、アンマン、ニクマンの揃えと同じである。車に揺られつづけて来た為かあまり食欲が無かったので、アンマンタイプにした。なつめの味がしたが、おいしかった。
代金は、牛潞さん達のおごりにしてくれた。中国人相手の普通の店なので、安価であったに違いない。そしてまた車に乗り続けた。京港澳高速はG4、即ち国道4号線、一桁番号の高速道路であり、以前は京珠高速と呼ばれていたらしい。北京と香港・マカオ(澳門)を結ぶ高速道路である。
  途中、道路標識には、焦作、滑県衛輝、晋城、延信、長垣などの地名が眼に入る。高速道路から外れて向う先々の地名であったり、これから向う先、あるいは通過地なのだろう。更に八星鎮、関山、新郷などの地名も見られたが、まもなく武漢、鄭州、原陽・許昌方面への分岐点に差し掛かり、鄭州まで37kmという表示もあった。原陽は現在は鄭州の衛星都市との位置づけになっているのだそうだ。
 そして、往きにも通過した焦作あたりで黄河を跨ぐ橋に差し掛かった。そして、橋の欄干越しに見える黄河の佇まいを写真に収めた。
  すると、やはり写真で、擬似「透明マント」体験が前よりも鮮明に見られたのである(写真2)。黄河はやせ細り(とは思えないが)河岸が広大な砂糖黍畑となっていて、その砂糖黍は既に刈り取られ、地肌が見えている(写真2)。そして4秒ほどすると、広大な黄河がほぼ全視野に入ってくる(写真3)。そして更に1秒後の写真(写真4)では大黄河を渡り終わりはじめている。河南省鄭州はまもなくで、着後、最後の訪問地「商代遺跡」を残すのみとなった。因みに前回「透明マント」をとりあげブログに公開した後、写真を見てもらいながら、コメントを求めたところ、半数の人は「透明マント」そのものを知らず、また知っている人は、皆シャッター開放時間と車の速度と欄干縦棒の太さ、及び縦棒のすぐ背後に近接して建物や樹木が無いことの相乗効果の結果であると言うことで意見が一致した。







2010/03/28 2:53:24|旅日記
20.一睡で50年分の夢、邯鄲の夢「枕中記」R黄梁夢呂仙祠(9/27)

20.一睡で50年分の夢、邯鄲の夢「枕中記」R黄梁夢呂仙祠(9/27)

いよいよ旅程も残り少なくなってきた。昨日の響堂山石窟から邯鄲市内までの悪路には閉口したが、今日の「趙武霊叢台遺址」から「黄梁夢呂仙祠」までも昨日ほどでないにしても悪路のうちに入るだろう。非舗装道路はデコボコと言うだけでなく埃もすごい。石炭を積んだ大型トラックが雨の日に頻繁に通行するうちにこうなってしまうのだろう。運転手の趙さんはこともなげに運転しているが、大変だろう。しかし、今度は40分程度で、到着した。

今回の旅で、これまで訪れたところは春秋戦国時代、またはそれ以前という時代の遺址であった。しかしながら、この「黄梁夢呂仙祠」は唐の時代の物語の舞台になったところであり、陳舜臣氏は、これら唐の時代の不思議なものがたりを集め、「ものがたり唐代伝奇」中公文庫に収め、元の「枕中記」と、日本での能楽「邯鄲」との違いを比較して、日本の「一足とび」愛好の心理と、中国の「プロセス尊重のリアリズム」の違いという見方を紹介している。

邯鄲が趙の都だったころは栄えても、唐の時代には、そのときほど繁栄してなく、また現在も「黄梁夢呂仙祠」のあるところは河北省磁州邯鄲県の田舎町にひっそり佇む小さなお寺という感じであった。

 ここを訪問することにしたのは、「このまちの名を耳にすると、幻想的なイメージを抱く人が多い。」と陳舜臣氏が書いている通りで、「邯鄲の地名にそんな響きを与えたのは、これから紹介する「枕中記」のおかげであろう。・・・」と続けている。あるいは「邯鄲の夢」というタイトルで、いつか、どこかで話を聞いたことがあるような気がしている。

  田舎まちにひっそり佇む手入れの行き届いているとは言えない小さな寺で、門構えも、村の庄屋さんの家の門と言う感じで、まったく由緒というものを感じなかった。
  門をくぐるといくつかの小さな堂于が正面と左右にあり、これらに囲まれた庭も大きくはない。人も見当たらない。寂れているかというとそうでもなく、土着信仰の対象としての寺と言う感じで、観光客目当てとはとても思えない。

  しかし、こういうところこそ、信仰の証が見つかるものだと、考え直し、一つ一つの堂の中を覗いてみた。先ず、「三霄霊姑」と表示されたきらびやかな衣装をつけた三人の女神像である(写真1a)。三人とも青地に、牡丹、おしどり、そしてハートのマーク、そして驚いたことに、I love you と英語でかかれたスカートにピンクのブラウス、その上に黄色のマントを着ていて、頭にはきらびやかな飾りのついた冠をつけている。  天空に漂うエンジェルのつもりかも知れない。

  その隣の堂には「無生老母」と表示された女性像が治まっていた(写真1b)。「老母」と言うだけあって。髪や眉毛は白く、やはりきらびやかな服装である。
  像の下の台には、月餅が五つと、袋入りの菓子が置かれ、よく見ると袋には、「なるべく早めにめしあがり下さい」と日本語で書かれている。日本人観光客が来ている証拠である。

  その堂の前で母子が赤い蝋でできたローソクを焚いている。何の願をかけているのか分からないが、良い光景であった。

  そして、次は「眼光菩薩」であり、懐に眼を抱いている(写真1c左)。そして左右に男女一人づつの子供を従えている。「眼光菩薩」というのがどういう存在(信仰の対象)か分からないが、供物は何も置かれていなかった。

  今度は、「三皇姑」と表示された塑像(写真1c右)で、これも初めて聞いた名前である。千手観音の塑像であるが、何故この様な名前がついているのか全く分からない。

  更には麦の苗を左手にかかえ、両側に男女の子供を従えた「麦奶奶」の塑像(写真1d)は「麦おばあさん」とでもいう意味か、あるいは収穫の神かも知れない。

  そこを出るとき再度寺の全景(写真2a)を振り返って見てみたが、どうみても邯鄲の夢「枕中記」黄梁夢呂仙祠とは関係のない祠堂であった。

  門から出て少し歩くと、今度は本当の黄梁夢呂仙祠の様である。入り口には小豆色の壁に「黄梁夢呂仙祠」と表示された案内(写真2b)と建物の配置案内及び(写真2c)呂仙祠の簡単な紹介が、中国語と英語でなされていた。

  山門は伽藍の西側にあり、そこをくぐって入ると、右手に照壁とよばれる壁があり、文字が彫られているが、「蓬莱仙境(ホウライセンキョウ)」と無理やり読んでみた。きっと、盧生が仙人に借りて居眠りをして夢見た50年間の栄華を言っているのだろう。

  その枕を貸したのは、立ち寄った飯屋(邸店)の女あるじという説と、盧生が立ち寄る直前に通りがかり一服していた呂翁という説があるようだ。
  先ほどの案内(写真2b)には呂仙祠とあるので、ここでは後者の説をとっているのかも知れない。主役が、自分の惨めさに嫌気がさし、枕を呂翁から借りて、黍飯が長けるまでの間に50年分の栄華の夢をみた盧生にするか、盧生に枕を貸し、栄華と屈辱の運命、成功と失敗の理由、生と死の真相、限りない欲望の果て、それらの無常さを悟らせた呂翁にするか、難しいところである。

  照壁手前には花壇があり、60という文字が浮き上がっていた(写真2d)。「建国60周年」なのである。間違って50としたところで、ここでは通用するはずだ。

  そして左手に参道があり、いくつかの堂が直線状に配置していた。参道は蓮の池を突っ切るようにもなっていて、開花した蓮の花がところどころに咲いていていた。

  蓮池に架かる橋を渡り、八角亭(写真3a)、午朝門、鉵离殿(写真3b)を突き抜けると、先ず、呂祖殿が、次いで、盧生殿(写真3c)が現れる。殿内には、盧生が見た50年分の夢が、順を追って壁一面に図絵として描かれている(図3d1〜3d4)。その絵図の最初には呂翁ではなくて女性がその枕を手にしているが、とても、飯屋のおかみとは見えず、あくまで、如来にしか見えない。

  主役は実際には盧生とされているらしいが、その盧生は旅人としてその飯屋に立ち寄ったのか、地元の人間として立ち寄ったのか、原作と能「邯鄲」とは設定が異なるらしいが、「ものがたり唐代伝奇」の中で、陳舜臣氏は、主人公の盧生を旅人にしたほうが日本人の好みに合い、中国人は地元の人間を主役にしたがる」と書いている。水戸黄門や宮本武蔵を見るとそうかも知れない。

  そして、盧生が50年の夢を見ている黒い塑像(写真4a)を横目に見て、殿から外に出た。
  そこには夢と大書された石碑があり(写真4b)、字の中に物語が要約されて、ぎっしり書かれている。そこには枕を貸したのは呂翁であることが夢の字の草冠の最初の部分に刻まれ、夢の字の最後には飯屋の主人が黄梁、即ち黍飯を炊き上げるまでの時間のこと、と刻まれていた。

  殿の屋根先を見ると、そこには身じろぎもしない鳩が一羽、羽を休めていた(写真4c)。まるで居眠りをしているようだ。

 もとの蓮池に差し掛かった時、あまりにも見事に咲いているピンクの蓮を遣り過ごす気になれず写真を一枚撮り(写真4d)、いよいよ出発地鄭州に向かう車中の人になった。







2010/03/25 20:59:23|旅日記
19.槐の古木Q武霊叢台(9/27)<武霊叢台>(ぶれいそうだい)

19.槐の古木Q武霊叢台(9/27)<武霊叢台>(ぶれいそうだい)

 高校時代の東洋史で中国の戦国の七雄を丸暗記した。「セイ・ソ・シン・エン・カン・ギ・チョウ」を,45年経た今でも覚えている。そして、そのシン(秦)ではないシン(晋)が「カン・ギ・チョウ」の三王朝に分かれた時が、春秋時代から戦国時代への移行の時ということを記憶に残していた。

 その「チョウ(趙)」の当時の都が邯鄲である。そしてその趙武霊王が軍事操練と歌舞の観閲のために築造したのが、ここ武霊叢台である,と言われている。

  武霊王は趙第14代目の王であったが、初代は春秋時代のシン(晋)の文公(重耳)に仕えた趙衰であり、それから数えて14代目ということであり、諸候に加えられて(前403年)からは、七代目(前325〜前299)と言われている。

  趙はこの武霊王と恵文王の時代が最も隆盛を誇ったとのことである。武霊王は「胡服騎射」、即ち馬にまたがって矢を射やすい服装である北方遊牧民族が着る胡服を兵士達に着させるという政策を執ったことで知られる。

 「叢台」という名称は、『漢書』高后記で、高后元年(187)の「夏五月丙申、趙王宮叢台災ゆ」とある。顔師古(581〜645)の注に「聚を連ねて一に非ず。故に叢台と名づく。蓋し本もと六国の時の趙王の故台ならん。邯鄲城中に在り」と記述されているのが始まりであり、築造当時は邯鄲城の一画にあった台であり、「お台場」の「台」と同じ意味であろう。

  黒地に金色で右から「叢台公園」と記された扁額を軒下に構えた中華模様豊かな彩の門(写真1a)をくぐり、少し歩くと、お堀とお堀に囲まれた城と堀の水面に反射したお城の全景が目に映った(写真1b)。
  そして、堀を跨ぐ円弧橋(写真1c)が堀の水面に映り、併せて円形の橋脚を描いている。場内に向かう為にその橋を渡るとき、橋の袂から見た城も堀の水面に、明瞭な輪郭で、城全景の反射像が目に入った(写真1d)。

  橋を渡って、城の外壁のところまで来ると、外壁に描かれた白龍と白鳳の見事なタイル絵が目に入った(写真2a、2b)。龍の足元に描かれている川は黄河だろうか、鳳凰が止まっている松の木が何を象徴しているかは分からない。花札には「松に鶴」というのはあるが・・・・。

  城入り口に叢台の紹介が石碑(写真2c左)に刻まれていた。「叢台集序」というタイトルで、「叢台」という命名の謂れや遺物についての説明のようだ。簡体字ではないので、70%程度の漢字はよみ取れる。先記した『漢書』や「顔師古」あるいは「4000年古物存在」とか「孔子」の文字も見られる。
  おそらくこれが彫られたのは現代、ここ一帯が公園とされた時であろう。その石碑の上に更に「古踏」と二文字だけ刻まれた石碑が載っているのに気がつく。
  こちらは石質も異なり古さを感じさせた貫禄のあるものである。よく見ると、「古踏」と二文字だけ刻まれたその石碑に何かの影が投影されていることに気がついた。
  振り返って見ると槐の大木が城に寄り添う様に立っていた。300年は経ていると思われる貫禄ある姿で、枝には赤い布札が沢山まかれていた(写真3a、3b)。
  日本の神社や仏閣でおみくじをまじないのように枝に結ぶ習慣と同じようだ。ただし、日本のおみくじの様に枝先に軽く結ぶという風情ではなく、槐の比較的太い枝に巻き結んでいる。
  ともに「願かけ」には違いないが執念の強さが違うように思えた。槐の枝先には、枝豆の様な実がたわわになっていて、そのために枝が枝垂れているようにも見えた。

  城楼に登ると武霊王の塑像(写真2d)や14個の青銅製の鐘が据えられていた(写真2e)。これについて、先ほどの石碑では、「鐘鼎彜器(しょうてい・いき)」と記されたものに相当するだろう。大きさが全て同じなので音を鳴らすものではないことは確かだ。
  後日、調べたところによると、「群雄が割拠し、戦乱に明け暮れた時代、王侯部将の階級制の成立、命令伝達、軍功褒賞などから文書(木・竹簡、帛)に封印をしたり、印綬を与えるなどの必要から生れたのだろう。」とある。祭祀に使う印が「彜器」であり、刻印された文字を金石文字と言うのだそうだ。これが14個あるというのは、武霊王が趙家14代目ということと関係していないだろうか、と推量してみたくなる。

  城楼から窓越しに外を眺めると、いかにも中国らしい風情をかもし出している景色が目に入った(写真3c)。今にも中国服を着て、丸髷をした女の子が飛び出して来そうな場面であり、実がたわわに実った槐の大木が、この景色に重要なアクセントを与えている。
  そしてもう一枚も、槐の大木が、この景色に重要なアクセントを与えているが、相方はやはり同じ位の大木となった柳の樹である(写真3d)。
  柳の枝垂れた枝は、悠久の邯鄲の歴史をなびかせてきたようにも感じられるが、300年も経ってはいないだろう。
  春になって、柳絮(りゅうじょ)を飛び散らす様子はどの様な風情となるのだろう。
  また花が満開になった槐は雪冠を被ったようになるのだろうか、いずれにしても、たいした景色になるだろう。そしてもう一枚の写真(写真3e)も、槐の大木が主役のスナップである。

  以前、今回も世話になっているArachinaの沈慧香さんに、自分のブログ名に「槐の気持ち」という名前をタイトルにした位に槐に関心を持っているということを話したことがあり、今回の「中国中原五古都をゆく」でも、洛陽近辺に槐庄という地名があるのを見つけ、そこへも行ってみたいというリクエストを出している。
  方向が違うので行くことは叶わなかったが、槐に異常な関心を持っていることをガイドさんに伝えてくれていたのかも知れない。そんな気持ちを抱いた叢台での槐の大木との遭遇であった。

  城楼から出て少し歩いて振り返るとくと、城楼を隠すように槐の大木が茂っている全景をキャッチできた(写真4a)。そして更に歩くと、手にカスタネットのような拍子木を鳴らしているところ(写真4b)に出くわした。

  拍子をとる楽器で「拍板」と呼ばれる拍子木で、拍子をとるために用いる2,3枚の竹板または紫檀板製の打楽器,カスタネットに該当するもので、以前NHK BSの番組で、長江を長時間かけて辿り、船上から衛星を使って周りの景色を映し続けるという放送があり、景色の合間に、この拍子木でリズムを取りながら歌う民歌歌手を映し出していたのが、目というより耳に印象に残っていて、一度生で聞いてみたいものだと思っていたことがある。

  演奏するというより、先生に演奏のしかたを教わっている小、中学生という感じであったが、伝統楽器を子供達に伝承しようとしているボランティアのようにも見えた。
  そして更に歩くと、今度は遊園地のようなところへ出くわした。しかし、そこで遊具に戯れているのは子供ではなく、中高年の人達であった(写真4c)。
  遊具も良く見ると、リハビリ機具のようにも見えた。中国の公園を午前中覗いてみると、中高年の人達がグループで太極拳をやっているところをこれまで何度となく見てきたが、これも新しい中国の高齢者対策かと、興味深い光景を見てしまったという感じであった。

  そして出口に近いところで、「趙武霊叢台遺址」と彫られた石碑(写真2c右)が目に入った。時刻は中国北京時間11:30近くになっていた。いよいよ次は「枕中記」で有名な「黄梁夢呂仙祠」に向かう。







2010/03/22 1:44:32|旅日記
18.石炭の街、河北省邯鄲 轍が残り、ほこり舞う舗装道路、ささやかな石窟、P響堂山石窟寺院(9/26)

  濮陽から車で3時間足らず、途中酷道に迷いながら、やっと石窟が山の上の方に姿を現した(写真1a)。
 この響堂山石窟は北と南に分かれていてややこしいことに、北響堂山石窟は河南省に、南響堂山石窟は河北省邯鄲市にある。到着したのは南であり、従って、ここは河北省邯鄲市なのである。

 3時間足らずだが車の中でじっとしていたので、手足が伸ばせるのと外の空気を吸えるのとで、ホっとした気持ちで車を降りた。
  入場門(写真1b)には、「冀南名○响堂山」(○は月ヘンに生でキョウと読み響と同じ意味)と記されている。北斉時代(550年―577年)につくられた仏教の石窟寺院と言われている。

 丁度北魏が滅亡したあとの南北朝時代の北朝側で東魏の後、北周に統合されるまでの間の27年間の短期王朝であった時代で、丁度日本に仏教が伝来した頃である。

 長い石段をガイドの牛潞さんはスイスイと登ってゆくが、還暦に消費税がついた様な年齢の自分にとってはかなりきつい。行き交う他の観光客も殆どいないので、こちらが喘いでいる雰囲気がしない限り、快調なペースで歩を進める牛潞さんの後についてゆくのはしんどいのでマイペースに切り替えた。

 山(天宮峰)の中腹ほどまで上り、後ろを振り向くと、眼下に常楽寺の遺跡がうっすらと見えた(写真1c)。天宮までの途中にある石窟の見学に留め、その先や、北響堂山石窟には足を伸ばさなかった。

  この稿を記す為にウェブでキーワード検索したところ、南響堂山石窟は北に比較すると保存が悪く、スケールも小さいと紹介されているが、それでも仏像の顔や頭は残っているものも多く、その率は龍門石窟や、雲崗石窟より良いように感じた。
  また風食も比較的少なく仏像の顔面の平坦化も感じられなかった。

  最初に見学した窟は刻経洞と呼ばれる窟で、仏像の人相は柔和さが無く、北方民族の武士の様なしかめっ面に見えた(写真2a)。一方同じ仏像でも目玉は崩れ落ちているが、大仏坐像は色彩と立体感豊かであり、柔和な面差しが感じられた(写真2b)。  そうかと思うと橙色と黄色がメイン色の比較的のっぺりした感じの塑像もあった(写真2c)

  丁度仏教が篤く保護された北魏時代の様式からこれから移り変わってゆく髄唐時代の様式への遷り行く過渡期だったことのなせる業であったのかも知れない。
  そして壁面に象られたレリーフ(写真2d)は何の模様か分からないが、バランスが良く取れ、見事に光の影を創っていた。もしかしたら地上に降り立った宇宙人の姿かも知れないと思うほどであった。
  この様な完成された忍冬模様があちらこちらの窟に見られた(写真3a)。忍冬(すいかずら)模様の発祥は古代エジプト、オリエントから、東方はシルクロードをとおり飛鳥時代に日本へ伝わり、西方は、古代ペルシアの教会、ギリシャ、ローマへと広がったといわれているグローバルの模様といわれている。

  日本でも寺院などに良く使われる模様で、唐草模様というのは、中国(=唐=カラ)から伝来してきた紋様という意味でつけられたのだそうだ。
  仏像の世界、金剛界と俗世界、胎蔵界を区画する塀に、仏像達がよく下界を見渡せる様に真円の出入り口が作られている(写真3b)。
  そして、釈迦洞には、左右に2大弟子を従えた釈迦が鎮座していた(写真3d)。堂内に佛が三つ横に並び、その下に経文が彫られた石碑があったが何が書かれているのかは分からなかったが、最初の十二部経という文字、“伽”という文字が多く使われていることと、達磨という文字が認められた。

  修多羅(しゅたら)、
  祇夜(ぎや)、
  記別(きべつ)、
  伽陀(かだ)、
  優陀那(うだな)、
  如是語(にょぜご)、
  本生(ほんじょう)、
  方広(ほうこう)、
  未曾有法(みぞうほう)、
  尼陀那(にだな)、
  阿婆陀那(あばだな)、
  優婆提舎(うばだいしゃ)
の十二部があるということを紹介しているのだろうか。

  この石碑を見つめていて気がついたのは、石窟の石質が明らかに龍門や雲崗とは異なり岩肌は緻密であり、岩肌に亀裂が見られるところは殆どない。砂岩や礫岩ではなく赤土肌で粘土を乾燥した
  ような土質なので、削りやすく、鉄成分を含んだ赤レンガ、もしくはアルミをも含んだラテライト質に違いない。

  石窟周り全景を写真に撮った(写真4a)。そして、下りはじめる前に、ズームアップして常楽寺の全景を写真に収めた(写真4b)。

常楽寺は北斉時代の創建だが1945年に破壊され白塔以外は墓や建物の跡が残るだけとなっているらしい。その白塔は、八角九層の大塼塔(だいせんとう)ということになっているが、7〜9層は半分ほど既に崩れ落ちていて、舞飛ぶ鳩達の格好の棲家になっている(写真4c)。

  この塔で崩れ落ちない年数だけ、この地に大きな地震がないことを意味すると言ってよいような貫禄である。日本であれば、安全対策の面からもここまで放置することは許されないだろう。  中国当局の文化財保護政策のいい加減さを感じてしまうが、それともこの程度の文化財は山ほどあり、まだ手がつけられないのだろうか。

  多層塔の各層の屋根に草が生え茂っている光景(写真4d)は何度も見ているが、レンガがこれまで崩れ落ちるのを放置しているというのは初めて見た。

  日本に仏教が伝来した頃に建立された建築物である。法隆寺や薬師寺の塔の屋根瓦が崩れおちそうなのを放置しているのと同じである。亡き平山郁夫さんがこれを見たらなんと言って嘆くだろう。

  この白塔のすぐ側を通り過ぎ、後ろを振り返って見ると、その白塔のかなたに石窟の姿が見えた(写真4e)。

  今回、南響堂山石窟だけだったが、そのときは南北二箇所にあるということを知らなかったし、知っていても時間の余裕がなく見学は出来なかったかも知れない。あとでウェブで調べると、北響堂山石窟には千仏洞など立派な仏像がより多くあると言うことを知り、残念であった。

  南響堂山石窟を後にしたのは現地時間でPM5:00を過ぎていて、いよいよ邯鄲を目指して走行を続けることになる。