| 19.槐の古木Q武霊叢台(9/27)<武霊叢台>(ぶれいそうだい)
高校時代の東洋史で中国の戦国の七雄を丸暗記した。「セイ・ソ・シン・エン・カン・ギ・チョウ」を,45年経た今でも覚えている。そして、そのシン(秦)ではないシン(晋)が「カン・ギ・チョウ」の三王朝に分かれた時が、春秋時代から戦国時代への移行の時ということを記憶に残していた。
その「チョウ(趙)」の当時の都が邯鄲である。そしてその趙武霊王が軍事操練と歌舞の観閲のために築造したのが、ここ武霊叢台である,と言われている。
武霊王は趙第14代目の王であったが、初代は春秋時代のシン(晋)の文公(重耳)に仕えた趙衰であり、それから数えて14代目ということであり、諸候に加えられて(前403年)からは、七代目(前325〜前299)と言われている。
趙はこの武霊王と恵文王の時代が最も隆盛を誇ったとのことである。武霊王は「胡服騎射」、即ち馬にまたがって矢を射やすい服装である北方遊牧民族が着る胡服を兵士達に着させるという政策を執ったことで知られる。
「叢台」という名称は、『漢書』高后記で、高后元年(187)の「夏五月丙申、趙王宮叢台災ゆ」とある。顔師古(581〜645)の注に「聚を連ねて一に非ず。故に叢台と名づく。蓋し本もと六国の時の趙王の故台ならん。邯鄲城中に在り」と記述されているのが始まりであり、築造当時は邯鄲城の一画にあった台であり、「お台場」の「台」と同じ意味であろう。
黒地に金色で右から「叢台公園」と記された扁額を軒下に構えた中華模様豊かな彩の門(写真1a)をくぐり、少し歩くと、お堀とお堀に囲まれた城と堀の水面に反射したお城の全景が目に映った(写真1b)。 そして、堀を跨ぐ円弧橋(写真1c)が堀の水面に映り、併せて円形の橋脚を描いている。場内に向かう為にその橋を渡るとき、橋の袂から見た城も堀の水面に、明瞭な輪郭で、城全景の反射像が目に入った(写真1d)。
橋を渡って、城の外壁のところまで来ると、外壁に描かれた白龍と白鳳の見事なタイル絵が目に入った(写真2a、2b)。龍の足元に描かれている川は黄河だろうか、鳳凰が止まっている松の木が何を象徴しているかは分からない。花札には「松に鶴」というのはあるが・・・・。
城入り口に叢台の紹介が石碑(写真2c左)に刻まれていた。「叢台集序」というタイトルで、「叢台」という命名の謂れや遺物についての説明のようだ。簡体字ではないので、70%程度の漢字はよみ取れる。先記した『漢書』や「顔師古」あるいは「4000年古物存在」とか「孔子」の文字も見られる。 おそらくこれが彫られたのは現代、ここ一帯が公園とされた時であろう。その石碑の上に更に「古踏」と二文字だけ刻まれた石碑が載っているのに気がつく。 こちらは石質も異なり古さを感じさせた貫禄のあるものである。よく見ると、「古踏」と二文字だけ刻まれたその石碑に何かの影が投影されていることに気がついた。 振り返って見ると槐の大木が城に寄り添う様に立っていた。300年は経ていると思われる貫禄ある姿で、枝には赤い布札が沢山まかれていた(写真3a、3b)。 日本の神社や仏閣でおみくじをまじないのように枝に結ぶ習慣と同じようだ。ただし、日本のおみくじの様に枝先に軽く結ぶという風情ではなく、槐の比較的太い枝に巻き結んでいる。 ともに「願かけ」には違いないが執念の強さが違うように思えた。槐の枝先には、枝豆の様な実がたわわになっていて、そのために枝が枝垂れているようにも見えた。
城楼に登ると武霊王の塑像(写真2d)や14個の青銅製の鐘が据えられていた(写真2e)。これについて、先ほどの石碑では、「鐘鼎彜器(しょうてい・いき)」と記されたものに相当するだろう。大きさが全て同じなので音を鳴らすものではないことは確かだ。 後日、調べたところによると、「群雄が割拠し、戦乱に明け暮れた時代、王侯部将の階級制の成立、命令伝達、軍功褒賞などから文書(木・竹簡、帛)に封印をしたり、印綬を与えるなどの必要から生れたのだろう。」とある。祭祀に使う印が「彜器」であり、刻印された文字を金石文字と言うのだそうだ。これが14個あるというのは、武霊王が趙家14代目ということと関係していないだろうか、と推量してみたくなる。
城楼から窓越しに外を眺めると、いかにも中国らしい風情をかもし出している景色が目に入った(写真3c)。今にも中国服を着て、丸髷をした女の子が飛び出して来そうな場面であり、実がたわわに実った槐の大木が、この景色に重要なアクセントを与えている。 そしてもう一枚も、槐の大木が、この景色に重要なアクセントを与えているが、相方はやはり同じ位の大木となった柳の樹である(写真3d)。 柳の枝垂れた枝は、悠久の邯鄲の歴史をなびかせてきたようにも感じられるが、300年も経ってはいないだろう。 春になって、柳絮(りゅうじょ)を飛び散らす様子はどの様な風情となるのだろう。 また花が満開になった槐は雪冠を被ったようになるのだろうか、いずれにしても、たいした景色になるだろう。そしてもう一枚の写真(写真3e)も、槐の大木が主役のスナップである。
以前、今回も世話になっているArachinaの沈慧香さんに、自分のブログ名に「槐の気持ち」という名前をタイトルにした位に槐に関心を持っているということを話したことがあり、今回の「中国中原五古都をゆく」でも、洛陽近辺に槐庄という地名があるのを見つけ、そこへも行ってみたいというリクエストを出している。 方向が違うので行くことは叶わなかったが、槐に異常な関心を持っていることをガイドさんに伝えてくれていたのかも知れない。そんな気持ちを抱いた叢台での槐の大木との遭遇であった。
城楼から出て少し歩いて振り返るとくと、城楼を隠すように槐の大木が茂っている全景をキャッチできた(写真4a)。そして更に歩くと、手にカスタネットのような拍子木を鳴らしているところ(写真4b)に出くわした。
拍子をとる楽器で「拍板」と呼ばれる拍子木で、拍子をとるために用いる2,3枚の竹板または紫檀板製の打楽器,カスタネットに該当するもので、以前NHK BSの番組で、長江を長時間かけて辿り、船上から衛星を使って周りの景色を映し続けるという放送があり、景色の合間に、この拍子木でリズムを取りながら歌う民歌歌手を映し出していたのが、目というより耳に印象に残っていて、一度生で聞いてみたいものだと思っていたことがある。
演奏するというより、先生に演奏のしかたを教わっている小、中学生という感じであったが、伝統楽器を子供達に伝承しようとしているボランティアのようにも見えた。 そして更に歩くと、今度は遊園地のようなところへ出くわした。しかし、そこで遊具に戯れているのは子供ではなく、中高年の人達であった(写真4c)。 遊具も良く見ると、リハビリ機具のようにも見えた。中国の公園を午前中覗いてみると、中高年の人達がグループで太極拳をやっているところをこれまで何度となく見てきたが、これも新しい中国の高齢者対策かと、興味深い光景を見てしまったという感じであった。
そして出口に近いところで、「趙武霊叢台遺址」と彫られた石碑(写真2c右)が目に入った。時刻は中国北京時間11:30近くになっていた。いよいよ次は「枕中記」で有名な「黄梁夢呂仙祠」に向かう。
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