槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/06/06 19:29:13|旅日記
山水絶景の街  6)月亮山、7)カジュマルの大樹


6)月亮山
6)月亮山はただ遠望しただけであった(写真1)。石灰質の山で、侵食されやすく、山の中腹少し上に大きな円が貫通した様に出来ている。そして、その山(月亮山)のすぐ向こう隣にある山の尾根の稜線が、その貫通円を横切る様に位置し、稜線下方は陰になり、上方は明るい空になり、結果として明るい部分が下弦の月の様に見えるのである。ただそれだけである。

月 亮山という意味は月の光がさす山、月亮門儿(ユエリャンメンル)というのは、中国風の庭園内の塀に満月の様にくり抜いた門のことであり、中国寺院を見学するたびに見てきたことのある円形の門で,今回初めてその名を知った。

 月亮門儿は日本には少ない。中国旅行をして、目にする門や窓は円形が多い。ガイドさんには、「日本では四角い窓を“迷いの窓”、丸い窓を“悟りの窓”と呼んだりすることがある。最近の中国の急速な経済発展はまさしく丸窓文化に基づいているようですね。」と言って煙にまくことがある。その月亮山を背景に二枚ほど写真を撮っただけの観光であった。

7)カジュマルの大樹
 7)カジュマルの大樹は、それに比べ、直近で、その大榕樹を目にし、樹の周りを一周すると、観光した気にはなり、「中国人はなんでも観光の名所、名物にしてしまう。」と思いかけた気持ちを少し後戻りさせることが出来た。

  入門(写真2a)すると、正面に横広がりのこんもりとした樹木が目に入った。殆どが中国人だが、観光客はまあまあ目につく(写真2b)。
  樹の幹は曲がりくねり地上に今にも接するようにのた打ち回り、複雑に絡まっているようである。
  そののた打ち回っているかのような太い幹をつっかえ棒が支えている(写真2b)。また不意に地中から突き出したような幹もある。同じ樹木の根から生え出た支幹とのことである。

  大樹には霊力が宿り、その霊力に願を掛け、何かを祈るのだろう、その印の赤い布札がいくつもとりつけられていた(写真2c)。
  日本のおみくじと似たようなものであるが、この赤い布札はお墓など中国国内のいたるところでみかける。

  沖縄県ではガジュマルの大木にはキジムナーと言う妖精のようなものが住んでいると伝えられているそうなので、霊力を感じるのは中国人に限ったことではないようである。
  ガジュマルというのは沖縄の地方名で、漢名が榕樹である。また沖縄では、門のところに建てて、中があけ広げにならないようにするものという意味で、もともと魔よけとして使われていたそうである。

  葉は槐(えんじゅ)や楷(かい)に似ていて、双子葉植物に属するが、葉の色は、槐や楷よりも濃い緑で、硬い感じがするが、いずれも霊力を持つという点では似ている。

  少し目を遠くに遣ると、池、又は川があり、その向こうに石舞台の様な佇まいが見えた(写真3a)。
  風食されて自然に出来たものか、人工的に造られたものかよく分からないが、造形美を感じさせるところである(写真3b)。

  人が見上げているところを見ると、そこも観光ポイントなのかも知れない(写真3c)。そう思いながら、大榕樹を後にして、その川沿いにしばし歩くと、その川の向こうに、まるで長髪の文士が左方向に向かい、多少こちらに背を向けて正座したような岩像が目に入った(写真4a)。そして橋に差し掛かった。橋の袂にはピンク色の花をつけた樹が妙にアクセントじみていて目を楽しませてくれた(写真4b)。

  そして川面にはたくさんの筏が浮かんでいた(写真4c)。高田という地名の郷(又は鎮)であるが、ここでも多くの石灰地形が見られ、その景観(写真4d)にしばし、見とれてしまった。









2010/05/14 10:32:29|旅日記
山水絶景の街 桂林 5)少数民族の桃源郷・世外桃源

5)少数民族の桃源郷・世外桃源
  桂林のある広西チワン族自治区に住む少数民族はチワン像だけではない。瑶族(ヤオ)、苗族(ミョウ)、瓦(ワ)族、回族(カイ)などもいる。

  世外桃源(写真1a)は西街から車で20分程度桂林の方へ戻ったところにある少数民族村であり、桃の木が咲き誇る光景(写真2c)があるため、そう呼んでいるのだろう。

  入園すると、船着場があり(写真1b)何艘かの小船(モーターボート)が操舵手(おばさん)とともに待機していた。早速、一番先頭に待機していた小船に乗り込むと間もなく動き始めた。

  25人定員のところを、操舵手以外にはガイドさんと二人だけである。この村は観光用に作られてまだ年月がたっていないようであるが、漓江下りで見かけた山々を借景した美しい光景(写真1c)が、どの方角を見ても目にはいった。まさに桃源郷と言える。

  日本の借景庭園は、窓枠、縁台、枯山水、石庭とセットになって、特異的な方向の借景が生きてくるが、ここのは360°どこを見てもこの少数民族村という公園にマッチしている。
  即ち遠近感は日本の寺院庭園に勝らないが、逆に、少数民族の住居(写真2a)、橋(写真3a)、そして墓(写真2b)までが調和している。

  しばらくゆくと、ガイドの王さんが、「あれは瓦(ガ)族です。体が黒いのが特徴です。」と教えてくれた。

  25人乗りの観光ボートが近づくと、ショーとして瓦族の伝統的な踊りをみせてくれる。男女数名づつが横一列に並んで体を折り曲げる様なダンスを見せてくれる(写真2d)。なんとなく見覚えがあるこの体を前後の折り曲げるダンス、しばらくして思い出した。很徳全の葫芦絲(フールシ:瓢箪の形をした中国の伝統楽器)VideoCD全集にあった魅惑的なダンスであり、「  」という曲であったはずだ。そう言えば、踊っていた男女は確かに色黒だったかも知れない。

  旅先で、耳慣れた、あるいは聞きなれた民族的なダンスや音楽に触れるとなんとなく嬉しくなる。ということは、瓦族は雲南省にも広西チワン族自治区にも分布しているということだ。

  しばらくして、船着場に戻り、陸に上がった。振り返って水面をみると、まさに絶景、王さんに「この景色を背景に一枚撮って下さい。」と言って撮ってもらった(写真3b)。

  そして、見る方角を変えると、今度は風雨橋(写真3c)が目に入った。勿論、本物ではない。本物は三江にあり、侗族(トン)の伝統的建築様式であり、翌日行くことを希望しているが、この時点ではまだ決まっていなかった。

  今回の桂林の旅は、中国の旅行会社Arachina(本社 桂林)に余程信用されたか、国内航空運賃以外は旅行代金の支払が桂林に到着してからであり、非常にフレキシブルな旅程となっているのだ。実際には、ガイドの王さんが、まだ良い、まだ良い、というので、
Arachinaの担当者らとの会食(4/19)の直前の支払となった。

  そしてその風雨橋を渡り、行き着いたところは、恐らくこれも侗族(トン)の伝統的建築様式である鼓楼の内部を模した居所(写真3d)で、彼らの集会所の機能を発揮している佇まいである。
  男女10名が囲炉裏を囲み、縫い物をしたり、時折観光客のために、歌を歌っている。完全にとはいえないが、ハモッていてなんとなく惹かれてしまう調べである。

  そうだ、聞いたことがあるゾと確信し、ガイドの王さんに「この調べは聞いたことがありますヨ。」と話掛けてみたら、「何度か雲南省に行ったことがあるとのことなので、そこで聞いたのでしょう。侗族は雲南省にも居ますから。」との返事だった。
  しかし、この調べは雲南省で聞いたことがあるのではなくて、YouTubeで中国民歌を聞き漁っているうちに何度と無く聞いていたもので、あとで調べてみたら、「白族 三杯酒」と同じメロディーなので民族種が違うではないか、と疑問が出てきた。
  しかし、この近辺の少数民族共通の調べの可能性もあるのかも知れないが、それ以上のことは分からない。

  そして隣の部屋に進むと、若い侗族の娘が機を織っているところ(写真4a)が目に入った。「こんなに薄暗いところで目を悪くしませんか?」と思わず言ってしまいそうな薄暗さである。もしかしたら侗族には視力の悪い人はいないのかも知れない。
  前の部屋にいた10人のうち眼鏡をかけているのは一人も居なかったし、翌日の三江鼓楼でも見かけなかった。こういう人達は近くのものを凝視する必要がなく、比較的遠方の自然や人の動きを識別できれば良いのかもしれない。

  そして、侗族の色の好みは黒を基調に、空色をちりばめるという諧調であり、新撰組に似ている。また女性の髪形も他の少数民族とは異なりバンド状の被り物をつけるというより、かんざしを鉛直に挿しているという感じである。日本人に近い。

  また瓦の色や形も日本の灰色瓦に近く、親近感を感じた。更に隣に足を運ぶと新婚女性の寝台が展示されていた(写真4b)。マホガニー色の囲いの箱の様な空間で、出入り口の垂れ幕は赤主体の牡丹模様であった。

 以上で、世街桃源の観光は終わり、次いで、月亮山、カジュマルの大樹見学、そして西街で夕食を摂った後、夜間の劉三姐のショー見物へと続く。

         つづく







2010/05/14 0:16:02|旅日記
山水絶景の街 桂林 4)陽朔散策

4)陽朔散策、
西街は歩行者天国(写真1)。通りの両側には旅客向けの多種多彩な店舗が並んでいる。道路は石畳で、その両側に、少数民族による工芸品や民族服、服飾品の販売(写真2)、お茶や漢方薬を売る店、喫茶店、竹笛等の楽器販売。喫茶店やレストランにはアルファベットがひしめいている(写真3a)。

他人のHPの中に、“裏道を歩くと、風情を感じる”と紹介されていたので、ガイドの王さんに、「西街の裏道を歩きたい」旨希望を出したが、「危ないので止めたほうが良い。」、と断られた。
  どの様に“危ない”のか王さんに聞く間もなく、付きまとわれていることに気がつく。高齢のおばさんの様にみえるが、小物の土産物をぶらさげながら、「20元、20元」とうるさい。
  いくら、「不要(ブーヤオ)」と言ってもついてくる。西街の喫茶店(写真3b)で、コーヒーで一服しているときに、観光案内書「桂林風光」と「桂林名勝100景」の二冊を20元(言い値の半値)で買わないか、というので、装丁はきれいだし、後で、ブログ記事を作るときに役に立つだろう、ということで買うことにした。  カラフルな写真と説明(名称)が中国語、日本語、韓国語、英語、スペイン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語で紹介され、桂林や陽朔、龍脊(棚田)の四季おりおりの風情が紹介されている。DVDもついているので、2冊で20元(約300円)は安い、という気持ちに日本人であれば思ってもおかしくない。
  そこまでは良かったが、そのあと1時間ほど、自由行動ということで、1時間後の集合場所を決めてガイドさん無しでの自由散策となった。ところが、しつこい物売りに付きまとわれ、如何に振り切るか知恵比べとなった。
  そこで先ず考えたのは正規の土産物店の店内に入り、そこで時間潰しをすることである。確かに物売りのおばさんは店の中には入ってこないが、出てくるまで待っているのだ。もともと桂林のお茶を買い求めようと思っていたので、お茶を売っている店にはいり、じっくり10分以上粘って「桂花王茶」を二缶購入した。
  店の外には、待ち構えていた例のおばさんがまだいた。次に考えたのが、彼女らの縄張りは西街のメイン通りだけかも知れない、そこを外れれば、ついてこないかも知れない、ということに気づき、メイン通りに直交した道に入り、さらにその通りと直交した、即ちメイン通りに平行に配置している通りに入って行った。

  それが正解であった。付きまとわれないだけでなく、散策の気分も味わうことが出来た(写真4a、4b)。メイン通りに平行に配置している通りに沿って小川が流れていて(写真4a)、それを跨ぐ太鼓状の橋の中央には立派な龍のレリーフが彫られていた(写真4b)。
  こんな立派な龍では、中国の象徴でもある龍の上を踏み歩くわけにも行くまい。橋の端を歩いて渡るしかないだろう。と多少ゆとりのある独り言が出てきた。
  でもそんな心配を掛けまいと、ちゃんと橋の両端に階段上の歩道専用の通路が作られている。また更に散策的な気分が強くなったところで、奇妙な屋根の形式をみつけることが出来た(写真c)。

  日本にもこういう形式の屋根は見たことがない。
屋根の稜線部分に、鉛直に低いコンクリート製の欄干の様な壁が立てられている。動物でもない、何かのお守りでもなく、何かのおまじないとしか言いようのない模様である。
  
  夜間の劉三姐のショー見物の前の腹ごしらいの為、再度この西街へ戻り夕食をとることになった。そこでビール煮の魚料理(写真4d)を食べることになるのだが、食欲は殆どなく、少しついばむ程度で箸を置いた。

     つづく







2010/05/05 23:54:48|旅日記
山水絶景の街 桂林 3)【4/16】漓江下り

3)【4/16】漓江下り
ホテルから車で30分程度のところに、漓江下りのスタート地点の竹江船乗り場があった。
  そこは、外国人観光客専用で、中国人観光客用には別の舟乗り場が用意されていて、料金も船室の出来も違うとのことで、王さん曰く、「外国人観光客用の中でもこの舟が一番なのですよ。」と案内された舟に乗った。天井以外、全面ガラス張りの船室内は二列5行配置で細長いテーブルが配置され、一つのテーブルには前後に4,5人の乗客が座り、そこで船内バイキングの食事を取ることになる。
  全席指定席となっているようで、王さんに、「ここがトイレですよ」と言われた階の上層の階に登って行き、その指定席についた。まもなく係員に案内されて同じテーブルに座ったのは、スペイン人夫婦と、アルゼンチンの女学生のグループであり、通路側の席に座っていたため、彼女らが席を外す度に立ったり座ったりしないといけなくなった。
  それも煩わしいと思い、舟が離港後、まもなく船室から脱出し、景色を観賞用のデッキに出た。すでに数100mは離れたと思われる視線の先に、竹江船乗り場が映った(写真1a)。
  船足は速く、風を切るように進行する。その風はやや冷たい。王さんが、「寒くないですか?」と気遣ってくれた。「大丈夫です。」というと、「もう一層上に見晴らしデッキがありますよ。」と教えてくれたので、階段を上って、そのデッキに上って行った。

  そこは、既に欧米人観光客で一杯で、特に進行方向の先端部はカメラを構えた欧米人が最高のアングルを確保しようと必死になっているが、我先というほど秩序がなくなってしまっているわけではない。

  王さんが、ヒソヒソと「実は私はガイドになる前はカメラマンでした。」と打ち明けてくれた。一人旅のデメリットは自分の姿が映った写真がない。だから、言ってくれれば、いくらでも写真を撮ってあげますよ、と言いたかったのだろう。いつもは、もう一台ガイドさん用のコンパクトデジカメを準備しているのだが、何故か今回はそうしなかったのである。

  王さんが教えてくれた。「漓江には両岸を結ぶ橋が一つもない。観光船が引っかからないようにする為である。」「最初の30分はたいしたこと無い、次の一時間がハイライト、更に30分がスパーハイライト、最後の30分はたいしたこと無い。水量が多い時は短時間の運行となる。」そして小型で、客が操作するような船が目に入ったときは、「他に、地元民用、いかだ舟下り、というのがあるが、過去インド人新婚夫婦がいかだの転覆で亡くなったことがあり、危険で、観光客には勧められない。」とのことであった。

  両岸を眺めていると、ところどころに、白い灯台の様な人物大の塔が見られる。また鮮やかな色とは言えないが、明らかに満開状態の薄紫色の花をたたえた花が見られる(写真1b左)。

  まだ、最初のたいしたことのない時間帯ではあったが、すこしづつ光景が変わって行くのが分かる。「長い歴史の桂林の奇岩、奇峰だが、漓江くだりの際に観察すれば、断層の断面や隆起の痕跡をかいま見ることができる。」ということだったので、見逃すまいと構えていた視線に最初に現れたのは、断崖絶壁の露出面は赤茶けたものであり、どこにでもある景観であった(写真1b右上、中)。
 
  漓江両岸には少数民族のチワン族が主に生活しているが、水上生活しているものも多い(写真1b右下)。
 両岸の光景に気を取られている内に、正面に本格的に、これぞ桂林、と言える絶景が見え始めた。水量が多く、流れも速いので、予定より早くハイライト領域に踏み込んだ様である(写真1c)。

  また両岸のところどころに平原が現れ、水牛が遊んでいる光景が目に入る(写真1d)。
  また岩肌も鍾乳洞の石質に近くなり、色は白っぽく、また侵食され、洞窟が出来上がっている様子が見られるようになってきた(写真2a、2b)。

  岸上にはチワン族の住居が見え隠れもしている(写真2c)。特徴を一言で言うのは難しいが、瓦は共通して薄い黒瓦であった。  また岸辺には、竹が鳳凰の尾のように見えるが、防風林的な要素もあるのかも知れないし、あるいは食用として栽培されているのかも知れない。

  再び進行方向に目を向けると、次ぎから次ぎへと景観がこれでもか、これでもか、と現れては後方に消えて行くようになってきた(写真2d、2e)。シャッターを切る音が忙しくなってきた。

  ここから漓江下りのハイライトに入る。最も桂林らしい(テレビや雑誌でよく見られる)風景が目の前にある。また、河の両岸に生えている竹が鳳凰の尾のように見える。中国人民元紙幣の裏、サントリー烏龍茶のコマーシャル等 普段は緑色の水の色だが、水量の多い時は濁って茶色がかる。また、千切れた木々の枝が流れている。

  岸壁に2羽のコウモリが羽を広げて観光客を祝福しているようみえる蝙蝠山、岸壁に穴があいていて、中は鍾乳洞になっている。  ここを通り抜けると、桃源郷に行けるという伝説がある冠岩幽洞、若い母親が子供を背負って夫の帰りを待ち望んでいる姿に見える望夫石、川のなかに暗礁があって、それが起伏する波のように見える浪石煙雨、水面に山の影が映り、船が通るとき、まるで船が水面に映る山の頂上を航行しているように感じられる。

  中国人民元の20元札の裏面の美しい風景は実はこの場所をモデルにしている黄布倒影、前方の山の岸壁に斑紋のような色の濃淡ができて、それが一幅の巨大な馬の壁画のように見える。縁がある人は九匹の馬の形が見えるという伝説がある九馬画山、ガイドさんですら6頭の馬しか分からないのに、周恩来は9頭全てが分かったとのこと。

これらの景観が次から次へと繰り出す(写真3a〜3e、写真4a〜4k)。

  どの景色がどれそれと確認している間に、スーパー・ハイライトも終盤に入り、いよいよ陽朔船着場へ到着である。

  舟から降りるとき王さんが物騒な話を教えてくれた。「スリに気をつけて下さい。特に物売りには気をつけて下さい。(日本円で)千円、千円と言いながら民芸品を売りつけてきますが、それはおとりの話で、近づいてきてはスリをするのですよ。たとえ現場を押さえても、警察もぐるになっているので駄目です。気をつけて下さい。」とのことであった。
  王さんが過去案内した日本人観光客が実際に被害にあっているのかも知れない。船着場で舟を後にして西街に向う時が特に酷かった。治安の悪さを取り締まろうとしない市当局の怠慢が伺い知れる。
 
  船を降りると、陽朔の田園山水を満喫することができる。「桂林山水は天下に甲たり」、「陽朔の山水は桂林よりすぐれている」という格言があるのだそうだ。南宋時代の詩人、王正功が、「桂林山水甲天下 陽朔山水甲桂林」と、ガイドの王さんが自分のメモ用紙に書き下してくれた。
      つづく







2010/05/03 23:11:05|旅日記
山水絶景の街 桂林 の旅 1) 序 2)中国南方航空
山水絶景の街 桂林 の旅(2010.4.15〜2010.4.21)
1) 序
桂林は、3億年前は、海の底だったそうで、その時代に石灰質を多く含んだ物質が少しずつ海底に堆積していった。そして、2億4千万年ごろから、地球の地殻変動とともに海底が隆起し陸地になり、6千4百万年前ごろ、桂林は熱帯地方に属していたので、気温も高く、湿潤な 気候の中植物が生い茂り、その植物から放出される二酸化炭素を豊富に含んだ雨水が、石灰岩層を急速に侵食したと言われているらしい。石灰岩は、比較的硬い岩石だが、二酸化炭素を多く含んだ雨水には簡単に溶けてしまう。この溶かす作用を「溶食」といい、溶食された石灰岩層には、無数の溝や、鍾乳洞ができ、陥没や侵食を繰り返し、地殻変動による褶曲や断層も加わり長い年月を経て円錐状の峰になったとされている。
200万年前ごろ、地殻は隆起し続け、それとともに、陸地が削られて低下する限度である侵食基準面がさらに低下し溶食作用を促進させた。
 このような、長い歴史の桂林の奇岩、奇峰だが、漓江くだりの際に観察すれば、断層の断面や隆起の痕跡をかいま見ることができる。

桂林は、悠久の歴史を持つ街である。市区の宝積山と甑皮岩の洞窟は、今をさかのぼることなんと一万年前からの大量の古代人類(甑皮岩人)の遺跡として発見された。歴史の舞台に桂林という名前が登場するのは、紀元前214年、秦の始皇帝が広東、広西地方を統一し、現存する霊渠という名の運河を完成させた時まで遡る。この頃の桂林は、街中を漓江が流れているため、”南連海域、北達仲原”と呼ばれる軍事上の基地として栄えた。

 さらに宋の時代になると、広西地方の政治・文化の中心地として賑わいを見せた。その後、1921年孫文が北伐をする際には、独秀峰城内を拠点として構え、後には、広西省の臨時の省都にもなった。 1940年の抗日戦争の時には、中国各地から文化人たちが集まり、”文化の城”と呼ばれたときもあった。1949年の解放以降、桂林市は広西壮族自治区の直轄市となった。そして1998年9月8日に、中国の国務院から、許可され、桂林市と桂林地区はひとつになり、新たな桂林市になった。
 以上が旅行前に、中国の旅行会社によって、日本人向けに紹介された桂林の姿で、いくつかの文章を繋ぎ合わせるとそうなるのである

しかしながら、中国旅行の直前のいつもの高揚した気分になれていない自分が気にかかった。自分にとって、焦点を絞りにくい観光地なのである。もしかしたら観光客によって造られた観光地ではないかという先入観からなかなか逃れられないと言ったところだろうか自分が旅行するに値する観光地なのだろうかという想いが消えず、途中で断念しようかと、何度も考えた。中国旅行社との交渉も順調ではなかった。日本の観光会社のツアー内容と殆ど同じで、料金がかなり高いのである。団体と個人の差異を考慮しても尚且つ、高いと言わざるを得ない。結果を先に書くと、天候不順ということもあり、これまでで、最悪といえる中国旅行となった。事前に気が進まない思いに囚われたのも虫の知らせというものだったのかも知れない。友人達はその様に慰めてくれるのであるが。とにかく「旅物語」を始めることにする。

2)中国南方航空
【4/15】今回は利用しなれた中国国際航空(Air China)ではなく、初めて中国南方航空(CZ386成田15:55発 広州着17:40(北京時間))の利用となった。中国南方航空は自分のブログのアフィリエイトに時々なってくれていて、親近感があった。中国最大の航空会社とは迂闊にも、これまで知らなかったのである。広州白雲空港で乗り継ぎ、国内便も中国南方航空で、桂林には、1時間近く遅れ、日付が変わりそうな時刻に到着した。着陸直前に飛行機から見下ろした光景は、車のライトでつながれた幹線、建物のライトで街全体がライトアップされた感じであった(写真1)。桂林空港には、王志明という日本語ガイドと張さんという名の運転手が迎えに来てくれていた。
ホテルに向かう途中二つの塔が見えた。日月双塔というのだそうだが観光目当てに建てられた新しい塔である。ライトアップされたこの観光目当ての塔がきれいと観るか、けばけばしいととるか、気分の問題だが、けばけばしいとしか受け取り様が無かった第一印象が今回の旅を象徴していたのかも知れない。