槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/07/02 20:43:46|その他
山水絶景のまち桂林 13)歩行者天国で昼食 14)七星公園、15)独秀峰、16)夜の両江四湖クルーズ

13)歩行者天国で昼食 14)七星公園、15)独秀峰、16)夜の両江四湖クルーズ

13)歩行者天国で昼食
  あまり空腹ではないが、昼食の時間である。街中に戻り、洋風のレストランに入った。恐らく桂林で最もハイカラな街区なのであろう。メモには歩行者天国とある。店内もウィンドウ(写真1b)も店員写真1c)も中国らしくない高級感溢れる店であった(写真1a右下)。
  しかし、量が多いことは変わらない。メニューを見ながら青菜猪肉湯米粉(写真1a右上)、漓江虹(写真1a左上)、外婆菜○○斗(写真1a左下)の3品+コーラを注文してもらった。三つ目の料理は、文革時代によく食されたもので、今の人は殆ど食べないとのことであった。王さんは好きではないと言う。饅頭にひき肉のようなものを詰めて食べる肉まんである。青菜猪肉湯米粉はビーフンでありこれも食べやすかった。店内は英文字があちこちに踊っていて、外国人観光客や富裕層相手の店なのであろう。周りの客を見ると、欧米人が父親、母親が中国人、息子、娘がハーフの家族ずれが目に入った。日本の銀座のホコテンを一桁スケールを小さくした街区で、今後はこの様な店が富裕層の象徴的レストランとして増えてゆくのであろう。

14)七星公園
 40分程度で食事を終えて、七星公園に向った。入場門をくぐると、すぐ開けた広場が目に入った。少し行き、左折すると正面に見事なカルスト山が見えた。形はらくだが横たわっている姿だ(写真2a)。
  ここはクリントン大統領が訪中したときに立ち寄ったところで、演説した石の演台が記念に残されている。前の人に習って、演説ブリッコをしてみた(写真2b)。クリントンは一体何をスピーチしたのだろうか。

  そしてただでも暗そうな木々の間の小道をパンダのいるところへと向った。途中カジュマルの種を拾っているおばさんがいた。また掃き集められた葉ゴミの中にも種がありそうで、「2,3粒貰えないか、聞いてもらおうと思って歩いているうちに、パンダ園の入り口に着いてしまった。

  別料金が必要ということを知り、王さんは係員にブツクサ言っていたが、仕方ない。20元前後のお金を払って入場した。丁度パンダは高い木の天辺に登っていて身動き一つしない(写真2c)。今度はパンダ舎の反対側に行き、直近でパンダの姿を見た(写真2d)。

15)独秀峰
  かつて、明代には王城があり、朱元璋の甥朱守謙が城主だった。現在では広西師範大学となっている。また王城時代の石碑(写真3a)が残っている。石碑には「桂林山水甲天下、・・・」という南宋の詩人王正功の言葉が引用され、王さんはメモ用紙に、「陽朔山水甲桂林、程陽風雨橋 馬安寨 馬安鼓楼 侗寨」と書き繋いだ。陽朔の山水は桂林、程陽風雨橋などよりも素晴らしい、と言いたいのだろうか。

  登り口に来たところで、入り口に、「心臓病を持病として持っている者は注意のこと」と書かれた立て札が目に飛び込んだ。計306段の急な階段である。しかも石段は濡れている。一瞬躊躇ったが、今の体調では問題ないだろうと思い、手すりを案内に王さんの後ろを、ハーハーいいながら登っていった。

  頂上付近だけが僅かな面積で平坦になっていて望楼らしき建物、あるいは土産物屋、があり、その傍らにきれいな露草の様な植物が花を咲かせていた(写真3b、3c)。本来天気がよければ一望できるはずの桂林の街が霞んで見えた(写真3d)。

16)夜の両江四湖クルーズ
  地下に鍾乳洞のライトアップあれば地上には両江四湖のライトアップがある。両江とは漓江と桃花江の2つの河であり、四湖とは杉湖、榕湖、桂湖、木龍湖のことで、夜8:00頃に出発ということだったので、独秀峰観光で疲れた体を休める為に一度ホテル(写真4a)に戻り、時間になるまでホテルで待機することになった。

  その前に夕食としてホテルのすぐ隣にある簡易レストランでビーフンを食べることにした。疲れていたのと、食欲がそれほど無かったのとで、食はあまり進まなかったが、ビーフンは食べやすく一杯食べることが出来た。

  そして、クルーズ用ボートが発着する船着場に間もなく到着した。既にライトアップは開始され、船着場からライトアップされた9層の金塔、7層の銀塔が見え、クルーズ用ボートが行き交っている(写真4b)。
  金塔、銀塔は観光目当てに建造された建物で、仏塔とは全く関係ないが、高さがあるので、どこからでも目立つ(写真4c)。ボートは屋根つきで日本人の団体もいる。屋根つきキャビンにはテーブルつきの椅子があり、全て指定席であった。

  隣に座ったのはマサチューセッツ出身の米国人夫妻であり、窓越しに写真を撮ろうとしたら席を代わってくれた。欧米人は親切で、あつかましいところが無い、二人だけの旅らしく騒々しくも無い。日本人は団体だからか気炎をあげるところが見られる。集団心理かも知れない。

  どうも今回の中国旅行は隣席するのは中国人でもなく、日本人でもなく欧米人ばかりである。

  キャビンから甲板に出て窓越しにではなく直接ライトアップを観賞した。建物と言い、橋といい、木々までもがライトアップされ、それらが水面に反射してまぶしいくらいである(写真4d)。夜の上船上だ。写真に収めるのが極めて難しい(写真4e左右)。

  またキャビンに戻ってしばらくすると、二胡を持った寛いだ風体の人が、にこやかに現れた。弾き始めたのは日本人団体観光客向けに「北国の春」、「支那の夜」などを、欧米人観光客には聞いたことのある曲を奏でた。しかし、残念ながら中国の有名な民歌は聞くことが出来なかった。

  両江四湖クルーズが終わり、再び船着場に戻り歩き始めたら、たもとが小刻みに引っ張られている。迷子なのだろうか。五、六歳の子供が袖を引っ張っているのである。
  船に子供は乗って居なかったはずだが、それとも親を間違っているのかと思っていたら、そこいら中に同じ光景が見られた。王さんが、知らん顔しろと目配りをする。すでに状況を察している欧米観光客もいる。その場から逃れるように早足で、次の場所に向った。

  次の場所とは、王さんいわく、「世界最大の人口滝」である。百聞一見にしかず、とはこのことである。10階はあると思える鉄筋ビルの屋上から一斉に流れ落ちる滝である。おりしも小雨が降っていて、まるでその滝の飛沫がかかってくるようであった。

  しかし、先ほどの子供達がまたしても袖を引いたり、花を差し出し買ってくれとせがむ。なかには口角泡を飛ばし大声で怒り出す欧米人もいる。観光客にとって「世界最大の人口滝」どころではない。
  何故この様な日常的な状況を市は取り締まらないのだろう。観光客にネガティブな印象を与えるだけである。中には根負けして買ってしまう観光客もいるのだろう。

  陽朔西街のしつこい物売り、ここの子供達、中国人の本性とは思いたくないが、中国人の資質が疑われることは確かである。なんとか改善をお願いしたいものだ。







2010/06/30 23:55:39|旅日記
山水絶景のまち 11)芦笛岩(鍾乳洞)
11)芦笛岩(鍾乳洞)
4月18日は桂林近郊の観光である。先ず最初に芦笛岩という名の鍾乳洞である。桂林の街中に鍾乳洞の入り口があるという感じである。とにかく鍾乳洞の中のライトアップがすごい。鍾乳石の形状をうまくマッチさせて、映像と音のカクテルであり、幻想的であった。解説、感想なしに、計8景を展示する。







2010/06/30 22:04:44|旅日記
山水絶景のまち 10)三江「程陽風雨橋」、「鼓楼」

10)三江「程陽風雨橋」、「鼓楼」
建築の民、侗族の里、三江は是非とも訪れたい地であったが、行けるかどうか、直前まで決まらなかった。王志達さんに強く要望したのだ。日を改めるのではなく、龍脊からだったら、半日かけて、その日のうちに桂林まで帰着できる、と言うことを聞き、「そうしましょう。」大変なのは運転手さんであるが、いやな顔もせず、OKしてくれた。三江は桂林市にあるのではなく、柳州市三江県であり、桂林からだとバスで4時間の距離にある。
  龍脊を後にしたのが13:00であり、日本の温泉街に佇まいがよく似た龍勝温泉を、右手に見て、その先のT字路を左折したのが13:53、そして「程陽風雨橋」に着いたのが15:25だったので、約2.5時間かかったことになり、運転手の見積もりぴったりであった。
  行きは、その先の馬鞍鼓楼前での世界遺産「侗族大歌」のショーの時間に間に合わせるため、「程陽風雨橋」の内部等の写真は帰途ゆっくり撮ることにした。「程陽風雨橋」の入り口へは、木製の手すりのついた傾斜の緩い2,30段の階段を登ってゆく(写真1a)。

  侗族の風雨橋や鼓楼は一箇所だけではないのだそうだ。この風橋橋は単に橋の上に風雨を凌ぐ屋根がついていることだけでなく、建物に一切釘が使われていないのだそうだ。川と川岸に計5本のコンクリート製で、太さのある円柱状の橋脚が打ち込まれ、その直上の位置に計5棟の四層の建築物とそれらを接続する屋根つき廊下からなっている。
  これらの屋根が線状に並ぶアングルからの眺めは造形美を感じた(写真1b)。長さ67.5m、幅3.4m、高さ17mとの王さんの説明で、事前に観光案内書で調べていた、長さ77.76m、幅3.7mと若干異なる。
  この風雨橋は永済橋とも呼ばれ、侗族地区最大の風雨橋である。この地域は雨が多く、雨の日の子供達の遊び場や老人たちの井戸端会議の場となるのだそうだ。人が集まれば、物売りも寄ってきて簡単な市も開かれるのだろう。今は観光客が通り過ぎるので、老人達がもの売りと化し、民族服や竹細工などが陳列され販売されていた(写真1c、1d)。日本の様な野外生活者がいない証拠だ。
  ガイドの王さんが、「もう始まっているかも知れません。いそぎましょう。」と先を急がされた。階段を上がって行くと、「鼓楼」がすぐ右手に見えた。「馬鞍鼓楼」と呼ばれる屋根が七層の建造物であった。ガイド本で見ていた鼓楼は屋根が九層で、名前も「馬胖鼓楼」と呼ばれるもので、これとは違った。
  ガイドの王さんが、「間に合った様です。間もなく始まります。」と教えてくれた。その「馬鞍鼓楼」と、侗族の住居とショーの舞台や土産物売り場の建屋とでコの字を形成して、コの字の縦棒Tの位置に鼓楼、コの字の上棒―の位置に侗族の住居、コの字の下棒―の位置に舞台や土産物売り場の建屋が配置されている。そしてコの字の開いている位置に、座椅子が二列ほどに並べられて、これら全てで口の字になっている。
  雨の多い地域なので、雨が降っている時は、ショーの舞台のある建屋で、雨が降っていないときは、口の字の中の囲まれた空間でショーをやるのであろう。王さんに、「そのあたりに座って下さい。」と言われ、座ると正面に鼓楼が見え、観光客が少しづつ椅子に座り始めていることが分かった。欧米観光客が両側に座った。座った途端に次から次へと現れたのは、侗族の民族衣装をまとった土産物売りのおばあさん達だ。男性と若い女性の物売りは決していない。かなりしつこい土産物売りのおばあさん達で両側に座った欧米観光客も閉口していた。
  「ブーヤオ」といい続けているうちに、若い男女も含まれる民族衣装をまとった一団が現れた。手にはお盆と、その上にお猪口の様なサイズのカップを載せている。「油茶」である。一瞬大理の「三道茶」を思い出した。「油茶」はナッツや野菜に油茶(オオシマサザンカ)の種から採った油を混ぜた飲み物。侗族の正式な席では、揚げピーナッツときざみネギ、餅と炒りゴマ、乾飯と、おこわ、ゆで野菜、甘い味のクルミの5種の器に油茶や干飯を加え湯を注いで飲む。のだそうだ。少し甘い味がしたが茶という味ではない。
  中国では茶というと椿や山茶花のことであり、そういう植物の種を絞って採った油であり、椿油(ツバキアブラ)である。葉から採ったものとはまるで違うのだ。
  そして、一通り観客に配り、その茶碗を回収し終わると、二拍子の軽快な楽の音にあわせて赤い番傘を手にした若い侗族の女性(写真2b)が歩み出てきた。民族衣装をまとい、髪飾りをつけた彼女ら(写真2b)は、左手で傘を捧げ持ち、あるいはグルクルと回し、右手ではハンカチのような布切れを腰のまわる。
  そして、そのあとから、笙の様な楽器を吹きながら黒い民族衣装をミニつけた男の吹き手(写真2c)が、拍子をとりながら、右に左にジグザグと酔歩しながら演奏する。更にホルンの様な長い楽器を、その一端を地面につけ、他端に口をつけ、女性達が吹き鳴らす。ガイドの王さんが、この踊りと鼓楼とがセットになって世界遺産になっている、と耳打ちしてくれていたが、天気のせいか、いささか物足りない。
  そして、彼ら、彼女らは、楽器を置いて、交互に隣の人に手をおきながら輪になってゆく。その輪に入らないかと手招きする。そして何人かの観客が、輪に溶け込んでゆく。その輪の大きさ、音楽のボリューム、踊りのリズムが最高潮になって終了した。
  後日YouTubeで検索してみたら、音楽はより豪壮で、スケールが大きく、民族衣装も多様で、顔つきも多様で、あった。YouTubeの演出(リンク)は、現代風にアレンジされたもので、より華やかさが表面に出され、受け容れやすいものになっているのだろう。

観光客はある者は土産物屋へ、ある者は帰途につき、またあるものは、正面の鼓楼に向って歩き始めた。自分はというと、王さんに、「写真は撮らないのですか?」と聞かれ、
「先ほどから撮り続けている。」と答えようとおもったが、咄嗟にツー・ショットを撮ることを意味していることに気がつき、「いいですね。」と答えるか答えないうちに先ほどショーに登場していた女性に王さんが交渉してくれていることが分かった。
そして交渉がうまく行ったと見え、一人の若い侗族の女性を連れてきた。すでにショーの舞台になった石畳の広場のあちらこちらで、ツー・ショットやスリー・ショット撮影会が繰り広げられている。そして、自分は王さんが連れてきた侗族女性とのツー・ショットを撮った(写真2a)あと、正面の鼓楼に向った。入り口前の板壁には、「馬鞍鼓楼(Ma’an Drum Tower)と記された表札がかり、入り口脇には膝を抱えて座り黙然している老人が左手に、右手には「湘黔桂侗族芸龍旅行」と書かれた垂れ幕の下で老婆が土産物らしきを売っていた。ちなみに湘黔桂というのは鉄道柳州駅につながる湘桂線と黔桂線のことである。湘桂線はは湖南省衡陽市と広西チワン族自治区憑祥市を結ぶ中国国鉄の鉄道路線である。また、黔桂線は貴州省貴陽と柳州駅を結ぶ中国国鉄の鉄道路線の名称である。多分これらの地域を対象とした旅行会社の案内なのかも知れない。
鼓楼内部に入ると、片隅に囲炉裏があり、そこからモクモクと白煙が立ち上っていた。外からもこの白煙が立ち上る様子は認められていたが、内部では思いのほか煙は立ちこめていなかった。囲炉裏を囲んで数名が居たが、全く気にしていないようだった(写真3a)。
内部には小さなブラウン管TV、毛沢東の肖像写真が飾られていたが、昔からそうなっているから、今もそうしているだけ、といった飾り方であった。小さな太鼓も見えたが、常時使われている様には見えなかった。
本来は鼓楼は太鼓が置かれた楼、即ち建物と言う意味で、かつては一番高い梁に吊るされ、緊急時に鳴らして村民を集めたとのことであるが、今は、村の集会所程度にしか使われていないのだろう。鼓楼の設計図はなく、修築、改築の際は一本の棒をものさし代わりにして、村の指導者を中心に村ぐるみで関わるのだそうだ。木材は杉を用い、釘は一切使わないのだそうである。建築の民といわれる所以である。
天井は吹き抜けで一本の梁が横にかかっているだけで、あとは完全な吹き抜けであった(写真3b)。使われている木材は黒光りしているようなのもあったが、それが逆に壮重さを漂わせていた。
そして、鼓楼を後にして、来た道を戻った。衣装から建物から全てが黒灰色が基調の村に咲いていた白い花を満開に咲かせた樹(写真2d)が眼に入り、印象的であった。

そして、再び「程陽風雨橋」であり、今度はゆっくりと観賞させてもらった。先ず梁構造で、柱の組みあがりの幾何学的構造に合理性を感じた、多すぎもしない、少なすぎもしない、必要最小限の組み立て構造であることが、建築学に疎いものでもすぐ分かる(写真4a左)。高さ方向にも、奥行き方向にも横方向にも吹き抜け構造となっていて外の様子が容易に観てとれる。
橋の両端には必ずしも民族衣装だけではない今様の服や日用品も販売されていて、地元民の生活の場としての存在意義が今も残っていることが分かる(写真1c)。木製の長いすに腰を下ろし(写真1d)、下を流れている川の川岸のほうに目を遣ると、水車が目に入った(写真4a右)。水車の回転速度はゆったりとしていて、自ら回転にブレーキをかけているようにも見えた。それこそ自分の心象というものかも知れないと思った。最初の入り口である「程陽橋」と金文字で書かれた扁額の下で写真を撮り(写真4b)、「程陽風雨橋」を後にした。「程陽風雨橋」の全貌を写真に撮るため、少し離れたところまで行き、その姿を写真に撮った(写真4c、4d)。







2010/06/21 1:01:38|旅日記
山水絶景の街 桂林D龍脊棚田と少数民族

D龍脊棚田と少数民族

  前日から天気は崩れかけていたが、この日は更に雲は厚くなっていた。少なくとも出発時点では雨滴を肌に感じるところまでは至ってなかった。

  龍脊は桂林の北約100kmにある龍勝という街の手前にある山間地である。標高が高くなるほど、霧が濃くなり、時折、雲間を車が走っているという感じになる。路上には山肌から崩れ落ちてきたと思われる10cm前後の岩石が、転がっていることもあり、運転する方は大変であろう。

  対向車のフォッグ・ランプも数10mの近さになってやっと確認できる。そんなヒヤヒヤし通しの濃霧も山の峠を過ぎる頃からやっと和らぎ、蛇行する道路から直線状の道路の長さの方が多くなった頃、金竹杜寨という地点に差し掛かり、そこで入境票をもらった。

  入境するのにお金を払ったかは分からないが、絵葉書と連結した龍脊観光案内パンフレットをもらった。ここはかつては宿場だったのだろう。道路の両側に木造の建物が連なり(写真1a)、建物には見慣れた赤い提灯が二段になって連なっていて、道幅が急に狭くなる。

  ガイドの王さんが、やりとりをしている間、車から降り、背伸びをして、濃霧行の緊張をほぐした。傍らには名前は失念したが、幅30m程の川が流れていた。

  来た道を振り返ると白壁の瓦屋根の建物があり、瓦屋根には山の方に向って伏せている龍の飾りものが見えた(写真1b)。色はくすんだ紫で鉄イオンの色である。

  そして、王さんが戻ってきたので、また車に乗り込み、龍脊の棚田に向けて出発した。まもなく「平安杜族梯田游○区」という案内額がかる入場門は先端が反りあがった屋根ではなく、また派手な彩色も施されていない簡素な感じのもので、漢民族スタイルよりも日本人スタイルに近いものであった。

  その入場門をくぐり、坂を上ってゆくと、木造の旅館らしい建物が目にはいってきた。景観によくマッチした建物で、建物の前には藤だろうか、紫色の花をつけた樹がアクセントとなっていた(写真1c)。

  似た建物があちらこちらに見られたが、雰囲気のある建物(写真1d)は王さんに尋ねたところ殆どが旅館であった。そして、その建物の軒下には必ずと言って良いほど、赤い提灯が一列にぶら下げられていた(写真1e)。

  後で聞いた話であるが、このあたりの少数民族の民家は3階建てが多く、1階を家畜、2階を住居、3階を穀物倉庫にする場合が多いのだそうだ。

  時々その様な民家があり、その軒下の路地を、階段状の小道を通り抜け、どんどん上って行く。天気はパラパラという小雨であったり、雲がすぐ側を漂っていたり、雲の中を進んで行くという行進となってゆく。傘を差したり、すぼめたり忙しいことである。

  最初の見晴らし台に来た時、棚田の様相はあっという間に変貌してゆく(写真2a1〜2a4)。この見晴らし台で見える景観を「七星伴月景観」といい、北斗七星+月に見えるのだそうだ。
  ここには少数民族の若い女性がツーショット写真のモデルを有料で店開きしていて、日本人の団体観光客が値引き交渉をしていた。

  更に上に登って行き、次の見晴らし台につくと、刻々と変貌する雲行きの向こうに見え隠れする少数民族チワン族の古寨(写真2b、2c)が見えた。

  日本のどこかにもありそうな景観である。棚田(梯田)は「平安杜族梯田」と「金坑・大寨紅瑶梯田」に分かれていて、後者は瑶族の梯田であるが、この後、三江まで足を伸ばす予定でもあり、長髪の瑶族の土産物店で瑶族の長髪を見た(写真3b)後、来た道を引き返した。

  聞きなれた瑶族民歌(リンク)をそのあたりで耳にすることを期待したが、年齢42歳の姉妹おばさんとのスリーショットを撮って、来た道を引き返した。

  写真3a〜3eは下りのとき立ち寄った見晴らし台で撮った少数民族とのツー・ショットまたはスリー・ショット集であり、上から、搖族(莫ト涵 18歳)、搖族(姉妹おばさん 42歳)苗族(何丹 20歳),杜族(陶雨胮 19歳)、三江鼓楼での侗族(氏名、年齢は聞き忘れた)。

  そしてかなり下ったところの茶店(レストラン)での昼食となった。店の入り口から振り返ると建物の陰の向こうにピンクの花をつけた樹と更に遠方には杜族の寨(村落)とがきれいな構図を成していることに気がついた(写真4a)

  その店で、もち米を竹につめて炊いた竹飯なるものを食べた。おかずも筍料理であった(写真4b)。その花を咲かせた樹を正面から撮った(写真4c)。

  そして店を出て、山道を歩くうち、飾りをつけた筍が目に入った(写真4d)。王さんに、「これはなんのおまじないですか?」と聞いたら、「これは最初に自分が発見した自分のもの、という所有権を主張するための印です。」とのことだった。そして最初の入場門(写真4e)にたどり着き、龍脊棚田を後にした。







2010/06/06 20:00:05|旅日記
山水絶景の街   8)劉三姐 華麗なる水上ショー

8)劉三姐 華麗なる水上ショー
は楽しみにしていたものであったが、当初予想していた舞台でのショーではなく、水上ショーということがわかり、どの様な演出となるのか興味が更に増した。
  なにしろ、北京五輪の開会式の総監督だった中国の映画監督 張藝謀(ジャン・イーモウ)による演出なのである。製作に5年半かけ、2004年春に公開された桂林特有の地形、音響、照明を使って演出された水上の超巨大野外ショーというフレコミなのである。

  会場の入場門近くについた時には、すでに人の波であった。「中国漓江水上劇場」と書かれた入場門(写真1)がライトアップされ、会場内広場の街路灯はすでに点灯されていて、通路は既に世闇に包まれていた。会場に向う列は何列にもなっていて途切れることが無いほど多くの人が同じ方向に向って歩いている。それが、次第に大きな二群の流れになってゆく。A席とB席と言った具合で、外国人観光客は良いほうのA席に流れてゆくようであった。

  川岸に階段状の座席があり、そこに案内された。プロ野球のすり鉢状座席に似ていて、それを直線状に展開した形をしている。すり鉢の底部に、川があり、そこが水上ステージになっていると思えば良い。
  着席したときにはまだ空席があったが、しばらくすると満席状態になっていた(写真2)。「陽朔の美しい山水画の世界をそのまま自然の舞台とし、さらに伝説の歌手「劉三姐」を融合させた大掛かりなショーの舞台は、2キロにわたる漓江水域とその背景にある12の山で構成されている。
  その自然の舞台に国内最大規模の照明技術、音響、演出効果を加え、さらにエキストラとして出演する600名ほどの地元の漁民、少数民族の娘たちが華を添える。
  演出のテーマは伝説の歌手「劉三姐」をメインとし、広西の少数民族風情、漓江のいさり火の風景などを組み合わせ人と自然の調和をあらわしている。
  座席は緑色の棚田に見立てられており、180度全景を見渡すことが可能」と今回世話になった桂林国際旅行社ARACHINAのウェブに紹介されている。
 
  荘重な音楽とともに、舞台となる水上舞台を囲む山々が白くライトアップされ幻想的な光景をみせてくれる(写真3)。

  先ず川の左手からライトアップされた一艘の屋形船が水上を滑る様に右手へと移動してゆく。あるいはその館船に乗っている人物こそが伝説の歌姫“劉三姐”その人という設定なのかも知れない。  その館船が去ると、次には、川の両側から、一メートルくらいの幅のピンク色の布が次から次へと途切れることなく繰り出されて来る。布が川に沈み込まないのは、一定の間隔毎に舟に乗った人が支えているからである。この布が数十行、川の奥行き方向に並んでいる。
  舟に乗った人は舟を操舵しながら布を上下に揺らしている。従って、ピンクの川が波打っているように見えるのである。ライトアップされているが、光源がどこにあるか分からない。あるいは川底に配置されているのかも知れない。
  布の上には川靄であろうか漂っていて、布のピンク色が靄に投影されている(写真4a)。
  一人が一灯持っているとして、その灯は20行8列として160人前後の人がこの演技に参加している勘定になる。ショー全体で600人ほどの少数民族が参加しているとのことなので、この類のマスショーが四つほどある勘定になる。

  歌声も素晴らしかった。メロディーはなんとなく聴いたことがある。少数民族侗族による大合唱である(写真4b)。あとでYouTubeで「侗族民歌」で検索してみて分かった歌の名前が「蝉の歌」(←YouTubeにリンク)であることが分かった。
  歌っているのは小学生から成人の女性、マイクを使っているのかも知れないが、高音でのハーモニーで水上劇場に響き渡る。

  更に、点灯する点光源が一つまた一つと直線又は蛇行して列をなして右手手前から右手向こう側へ、そして途中で左折して今度は手前に折れて更に左折して左手へと、点光源は進む。そして、左手からもいつの間にか点光源は列を成して行進して、ついには完全に連続な一つの列へとつながる。一つの点光源を一人が持っているのか、身につけているのかいずれにしても、
  点灯する点光源の数は300は下らないだろう。張藝謀(ジャン・イーモウ)はこの点灯する点光源にどの様な意味を込めたのだろうか。蛍であろうか、灯篭流しだろうか。そして、更に三日月の出し物があった。三日月の外弧が水面側に接した状態で左に傾いたり、右に傾いたり揺動する。そして、天側の内弧の上には一人の薄衣の女性が三日月の右手頂点が持ち上がれば、そちらに移動して、その持ち上がりを抑し、そちらが女性の体重によって沈みこむと、今度は相対的に持ち上がった三日月の左手頂点に移動し、その持ち上がりを抑する。まるで三日月シーソーである。
  中国には月を題材とした民歌が多い。二泉映月彩雲追月月牙五更月光下的風尾竹弯弯的月亮城里的月光春江花月夜、・・・・。
いくつかのセグメントに分かれていたが、その順序については極めて記憶が曖昧だ。
YouTubeに「印象劉三姐」というタイトルの映像をリンクしておく。「印象劉三姐1」はこの出し物の解説と要約紹介である。弯弯的月というのが三日月という意味だろうか。