槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/07/08 1:09:30|その他
山水絶景のまち桂林 20)Arachina スタッフとの 歓談
20)Arachina スタッフとの 歓談
  2007年の雲南省昆明の旅行以来今回まで連続5回世話になってきた中国旅行社CITSのArachinaの日本語スタッフと歓談をすることになった。

  AraChinaの本社が桂林にあり、またこれまで世話になってきたこと、特にスタッフの沈慧香さんには当初から世話になっていて、麗江で発熱してホテルで養生しているとき見舞いの電話をくれて、心細さに花を咲かせてくれた沈さんには会って一言礼をしておこう。
  また彼女が学校を出たばかりの初々しさのある時からの付き合いということもあり、またこの3年間で随分変わってきたなという印象を最近もってきたので、本当はどうなのだろう、という好奇心から沈さんからの提案に賛成して歓談する運びとなった。

  AraChinaの本社には日本語対応スタッフが5名いて、当初それにガイドさんと自分をいれて5〜7名の懇親会ということになっていたが、他の1〜3名は繁忙と見え、結局Arachinaの二名の日本語スタッフと今回の旅行の世話になった王さんと自分の計4名の会となった。

  今回の旅行スケジュールを決めるにあたって、桂林旅行を直前に中止するのではないかと思われるくらいの苦情を言わせてもらったのである。桂林旅行の計画は昨年の秋に一度検討し、そのときに大体の日程と旅行費用を見積もってもらったことがある。
  実際には、洛陽、鄭州、開封、邯鄲、濮陽(ぼくよう)の中原にしたので、桂林には行かなかったのだが、そのとき見積もってもらった代金との乖離があったので、それを問題にさせてもらった訳であるが、その時のメール内容をすっかり忘れているようなのである。

  しかし、そうではなくて、多分、沈さんは上司と相談し、上司はこちらの要望を呑めない対応を指示したに違いない。だとすれば、彼女の上司は出てこないだろう、と読んでいた。
  しかしながら、もし全員出席になって、土産(簡単なものだが)が不足するとまずいと思い、ガイドさん含め計6個の簡単な土産を準備していた。宿泊ホテルの桂林環球大酒店(=桂林ユニバーサルホテル)からもAraChina本社からも歩いて行ける距離にあるレストランに着くと、既に、沈さんと、同僚の馬さんの二人が座を暖めてくれていた。

  馬さんは漢中の出身とのことであった。三国志では馬超や、五斗米道の張魯や張衛の活躍した舞台である。馬超は一時、劉備の武将として大きな存在感を示したが、本人は出世欲や権力に対しては無頓着で、北方謙三版「三国志」では呂布に近い性格の持ち主として好意的に描かれている。劉備や関羽よりは、張飛と気心を通わせあった、という人物であり、魅力的に描かれている。

  劉備軍の将軍には、他に馬岱、馬良、馬謖と馬姓の武将がいる。そして、AraChinaの馬さんは馬 慧明さんで、好青年であった。名前だけ見ると慧香さんと慧明さんで、まるで、兄妹の様な名前の組合せであった。この日は、冠岩、草坪郷、大墟古鎮と結構ハードだった為か疲れが残っていて、食欲がなく、折角の料理(AraChinaのおごりであった=写真1)をしっかり食べ損なってしまった。後で写真を見るとおいしそうで失敗したという思いが残ってしまった。最後に参加者一同の写真(写真2)を撮ってお開きとなった。記念品に馬超の勇姿を表現した「京劇人物造形芸術」をいただいた(写真3)。謝々!
  彼ら両慧さんは、これから会社に戻って仕事をするのだそうだ。日本の高度成長時代と同じだ。







2010/07/05 1:04:07|旅日記
山水絶景のまち桂林 19)大墟古鎮

19)大墟古鎮
  大墟古鎮という地名は絵葉書の中裏に刷り込まれた地図には大墟古鎮と表示された地点は無い。その代わり、大圩(土ヘンに于)古鎮とあり、冠岩もそこに属している。

  大墟古鎮は桂林南東部の郊外に位置し、桂林から約18キロ。明の時代から続く広西省の四大古鎮の一つで、既に 500年以上の歴史を持っている古鎮、古い村である。明は、元の後、清の前の王朝で、約300年永続した王朝である。
  日本で言うなら足利義満から江戸時代、徳川家綱からの時代に対応し、この間、日本では応仁の乱や、信長、秀吉、家康の活躍する時代である。
  儒教の精神が重んじられ、六諭とともに人民教化のためのツールとして用いられたことになっている。最後の漢民族支配の王朝でもあり、「西遊記」、「金瓶梅」、「水滸伝」、「三国志演義」などの庶民文学が栄えた時代でもあった。
  また、日本と同様ポルトガル人による干渉が始まった時代でもあり、その上陸地が広州であり、広州に近い桂林にもなんらかの影響があるはずで、建築物、道路などにその余韻が感じられるかもしれないと、急ごしらえの期待を持って訪れた。

  古鎮から見える漓江の流れは急で、時々ちぎれた枝の大小が流れに乗って浮き沈みして見える。河は霧がかかり、靄って見える。空は重く垂れ下がっていて、そのためか人影が少ない、というより殆ど見ない。
  人が住んでいるので、廃墟とはいえないが、この曇天のもとでは、それに近い感じがする。道路は濡れ、屋根瓦も濡れていることが、逆に空気に潤いを与え、その潤いのある空気の中で生活する住人達いることを感じさせる。

  メイン道路と思われる通りに足を踏み入れる。道路は一応舗装してあり、人の生活臭を感じる。らしい光景として、最初に目に飛び込んできたのは赤い円柱に龍が絡まっている飾りだった(写真1a)。家々の軒下には一戸に一個づつ赤い提灯がぶら下がっている。

  屋根は、瑠璃瓦ではなく、黒灰瓦で、軒下飾りも、あることはあるが中国で見慣れた彩色豊かなものではなく、落ち着きを感じさせるものだ。軒丸瓦の模様は対象紋ではなく、動物の顔である。中国建築独特の軒先の反りもないことはないが、目立たない。

  屋根は長屋の様に連結しているが、各戸の境界には“卯立つ”の様なものがある(写真1b)。屋根の造形が美しい。“軒下飾り”も派手ではないが時折目に出来る(写真1c)が、金塗りされた
地味なものである。
  また軒先の裏板が塗装されずそのまま木目が露出していて、飾り気が無い(写真1d)。舗装かと思ったが石畳のようである。とすると通路も当時からのものかも知れない。レンガもところどころに使われているが、赤レンガではなく瓦と同じ黒灰色である(写真1e)。
  木製の軒先には、金色に塗られた小動物がへばりついている。屋根瓦の稜線に火災や水害から家を守る紙獣が列をなして鎮座している光景は良く見るが、この様に軒先に小動物がへばりついている光景はあまり見たことがない。
  落雷とか兵火といった火災は雨の多いこの地域では問題なく、すぐ脇を流れる漓江の氾濫による水害の方が恐ろしいのだろうか。

  二ヶ月ほど後にこの地域が水害に見舞われ大きな被害がでたというニュースが日本にも聞こえてきたが、雨季には大変だろう。途中でトイレを借りた家(店?)では、そこの主人が、河の氾濫で水位がここまで来たと柱を指差し教えてくれたのが、記憶に新しい。
  
  そして更に雨の中、歩を進めると、石橋があり、それを渡ろうとすると、前方にその先の民家の佇まいが一望できる(写真2b)。  晴れていれば、民家の向こうにはカルスト山が見えるはずだが、天気が悪いのでそうは行かない。

  屋根の高さはマチマチだが、各戸ごとにぶら下がっている赤提灯の高さは一定で、きれいに列をなして見える。また道路は先ほどの石畳から、石をコンクリートに押し沈めて固めたようなものになっている。
  よくすべり防止に使う材質だ。これは歴史的な遺構ではなく、今住んでいる人たちのため、あるいは、そうは言ってもここは観光地のはずで、観光客が歩きやすいように造られたものであろう。

  横流れする雨水に靴を濡らさないですむ工夫だったら凄いと一人ごちたが、まさかっと言って、もう一人の自分が打ち消した。(写真2c、2d)。

  ガイドの王さんについて更に歩を進めてゆくと、やっと住人と思わしき人に出会った(写真3a)。通過するところをアーチ状にくりぬかれた石門のあたりである。
  そして視線を近いところに引き寄せると木戸に赤く四角い紙票が一対、その対角線が鉛直になるように貼られているのに気がついた。おなじみ「逆さ福」、即ち、“福”という文字が逆さになるように貼られているのである。

  同じ様な赤札があちらこちらに貼られている。先ほどのスゲ笠を被ったおじいさんの歩いてゆく方に再び目をやると、もう一つアーチ状にくりぬかれた石門が見える。
  そちらの方に歩いてゆく途中みやげもの屋があったので品定めをしていると、中から女の子が出て来た。気に入らないと見るや、奥から違う商品を持ち出して来ては見せてくれる。

  きりが無いので、「また戻る時に寄ります。」と王さんに言ってもらって先を急いだ。そのもう一つのアーチ状にくりぬかれた石門に近づくと王さんが、「これが太平門ですよ。」と教えてくれた。通り過ぎて振り返ってみると、たしかに「太平門」と刻まれた石額が嵌め込まれてことに気がついた(写真3c)。

  また門のたもとに石標があり、イロイロ書かれているなかに“大墟”という文字が混じっているのを見つけた。そして、少し歩くと、また木戸に整然と貼られた札を見つけた。二人の武将の絵と、幼児の絵として両側に対聯で文字がかかれている。
  秦淑宝と蔚遅恭である。確か「隋唐演義」に登場する人物で、ともに唐が中国を統一するのに貢献した24功臣(凌煙閣二十四功臣)の二人であり、後世には門神として信仰の対象になったと言われている。だから門に貼られているのだろう。
  それ以外の意味は無さそうだ。その下に「恭賀新嬉」、[出入平安]と言う言葉を二組の幼児が抱え、それらを挟む対聯には、それぞれ「家慶萬喜紫気来」、「門盈百福○○彩」と書かれていた。

  来た道を戻り先ほどの土産物屋に寄り携帯ストラップを10個と魚を模した飾りを一つ購入した。エジプト旅行でパピルスの土産を買ってきてくれた友人への土産で、最もサイズの大きい土産物となった。

  店の奥では煌煌とTVがつけられていて、その女性の家族と思われる人たちが、もの憂げにTVを見ていた。
  王さんに、昼間から仕事もしないでゴロゴロしていて、よく生活できますね」と聞いたら、「国から手当てが出ているから贅沢さえしなければやっていけるのです。」との答えだった。


  そして、今度は木戸を開き、そこで、焦点定まらぬ様な目つきで外を伺いながら座っている老人の姿を目にした。
  90歳は越えているだろう。被っている帽子からイスラム教徒と推察できた。もしかしたら回族の老人かも知れない。

  草坪郷が回族の村であるなら、そこからさして離れていないこの地にも居ておかしくない。そして来た道を戻り、バス通りに出て、バスに乗った。
  途中雨のため休園していたが、園の前で販売されていたイチゴを王さんが買ってきてくれた。かなりの量で日本まで持ち帰るのは厄介なので、今日明日中に食べてしまう必要があるが食べきれるか。

  バス停といったはっきりした目印など全くなく、乗りそうなそぶりの人がいれば速度を落とし目が合えばドアを開いて乗せるという、かつて日本にも田舎にはあった光景ではあった。







2010/07/04 13:55:33|旅日記
山水絶景のまち桂林 12)象鼻山 

12)象鼻山
 
小雨が朝からパラつき観光日和とは言えない。鍾乳洞は関係ないが、地上の水上に浮かぶ景色など霞んでしまい、絶景からは程遠いのではないかと予想した。
  ガイドの王さん(写真1a左)は、そんなことお構い無さそうに颯爽とガイドを続ける。北京時間で11時頃「象山景区」と書かれた入場門(写真1a右)をくぐった。
  天気のせいか、観光客は少なく、閑散としている。休日の市民のいこいの場所、といった感じがする。
  王さんに「象鼻山を背景に写真を撮りましょう。そこに立ってください。」と言われ、ポーズを取ってワンショット撮ってもらった。液晶画面で確認したが、やはり遠景となった象鼻山は霞んで
いる。

  王さんは、ガイドの仕事をする前はカメラマンをしていた、とのことであったが、この天気では仕方がないだろう。中国人は自然に出来た景観に名前をつける時、動物の名前をつけるのが好きだ。  そもそも架空の動物“龍”の国柄であり、堂々とした動物や早く駆ける動物“馬”はすぐ地名になったり、岩や山の名前になる。直感的に閃いた名称をつけるのが上手いのかも知れない。
  最後にこの公園を出る時に目にした案内図(写真2)を見ると、雲峰寺とか舎利塔、普賢亭などの風雅な仏塔、亭があった。日本人が命名したらこの様な名前をつけなかっただろう。

  日本は今後観光産業を復活させ、特に対象を欧米観光客よりも中国、韓国、台湾に置く施策が報道されている。特にどうとも思えない景観に名前をつけ観光地とする、中国人の感性としたたかさを見習っても良いのではないか。

霧雨に咽ぶ光景に鮮やかな花はホッとした気持ちを抱かせる。花木の名前は分からないが木蓮の花に似た花木(写真3a)であった。  更に公園内を進むと売店が所々にあるのが目に入ったが、この天気では仕事にならん、と言っているかどうかはわからない。
  しばらく歩くと、繍球が多数絡まった木が見え、木の根元には黄色の龍が伏せていた。繍球は桂林の特産の一つで観光中あちらこちらで目にした。
  使い方は女性が思い人に向って投げるのだそうだ。観光案内地図には、「愛情島(表演場地)」とあり、恋人達のパフォーマンスの場と英語で書かれていた。その近くにある店は繍球を売る店であろう。こんな天気でもオープンしていた(写真3b、3c)。

12時少し前にここを退散した。街中まで戻って食事である。







2010/07/04 0:44:16|旅日記
山水絶景のまち桂林 18)草圩郷

18)草圩郷
  田舎料理をゆっくり味わったあと、店と目と鼻の先の近さに数頭の馬が幌つきの荷車に繋げられていて待機しているところまで歩き、そこから、その運送手段の世話になる。
  四人掛けの馬車の前列に自分、後列に王さんが乗り込み間もなく発車した。
  前列は馬の匂いがして堪らないなア、歩きながら糞をされたり、小便でもされたら大変だと思いながら席についたが、意外と馬は清潔で、その被害は蒙らなくて済みそうだ。

  草圩郷は少数民族回族の村で、冠岩からすぐのところにあり、地図には草圩郷というより草坪回族郷となっている。最初は農道のような両サイド開けたところを走行していたが、そのうち、家が建て込んだ路地に入ってきた(写真1a)。

  家の壁や柱に白を使うのが特徴。それは、回族の歴史が関係し、西暦7世紀頃、アラブとペルシアの商人が中国南東部沿海の広州、泉州などに居住し始め、13世紀初め頃、戦争のため中国西北部に移住させられた中央アジアのペルシア人とアラブ人が、ウイグル族、モンゴル族の人々と融合した民族で中央アジア人の気質や嗜好を持ち続けているのだろう。
  その嗜好や気質を表す色が白と言える、のではないかと自分なりに考えていた。確かにアラブやペルシアの商人は白い衣装を身につけ、砂漠を移動する姿を容易に思い浮かべられる。草圩郷では白を基調とした建物を幾度か目にした。

  しかし、窓や扉にはしっかりと中国的なデザインを見ることが出来る(写真1b)。最初は道路にゴミは散らばっていなかったが、路地の奥に行くほどゴミが目だってくる(写真1c)。

  住人達は何人かが集って、紙マージャンに興じている(写真2a)。トランプであったら立っている人は居ず全員ゲームに参加している筈だ。それに、ガイドの王さんは、あれは紙マージャンだと明言していたので、本当に紙マージャンなのだろう。
  ジャラジャラ音がせず、はばかり無く遊べるのだろう。月曜日のPM2時頃(北京時間)である。恐らく毎日これをやっていても、贅沢を言わなければ暮らして行けるのだろう。

  他の、二階が白壁の建物の1階でも紙マージャンに興じている住人の姿が見られた(写真2b)。その建物の全景を見ると、城壁どころか、二階にバルコニーがあり、どちらかと言うと欧風イメージを漂わせている。
  1階の表壁は漆喰でもレンガでもなく石タイルを散りばめたもので、およそ中国らしくない。そしてその屋根のすぐ上には、カルスト山が覆いかぶさるように迫ってきていた(写真2c)。

  そして、引き返した場所はバス停であり、そこでバスに乗り込んだものの、発車まで時間があったし、王さんは何か買いに行ったので、バス停の周りを眺め回してみると、その郷で最も立派な建物が目に入った。
  やはり中国人の建造物とは異なる白亜の、その場にそぐわない近代的な贅沢な建物で、平屋根で大きなアンテナが立てられている。誰が住んでいるのだろう。

  その建物にもその屋根のすぐ上には、カルスト山が覆いかぶさるように迫ってきていた(写真3b)。王さんはミカンを買ってきたらしい。ミカンを二つばかり手渡してくれた後、すぐに空いていた最後部の席に座ったので、「もしかしたら、あの建物は清真寺かもしれませんね。」と確認することは出来なかった。そしてバスに乗り込む人が少しづつ増えてきて、ほぼ空席が無くなったところで、バスは発車した。
  地元の人半分、旅行客半分と思っていたが、大墟古鎮に着く頃にはバスには5、6人しか乗っていなかったので、乗客の8割ほどが地元の人だったことになる。地元の人にとっての足なのであろう。








2010/07/03 14:23:27|その他
山水絶景のまち桂林 17)冠岩

【4/19】 17)冠岩

  19日は専用車が融通できないということで、タクシーの乗り継ぎと乗り合いバスでの観光であったが、これはかなりの一興、中国人の普通の人の生活に触れられる。これは絶対団体旅行では経験できない、ということで興味津々の一日であった。

  19日の予定は、三江同様、前日まで決まっていなかった。Arachinaのオプショナル・ツアーガイドを見ながら、前日まで決まらなかったのである。その中から大墟古鎮を希望したところ、同じ方向の漓江沿いにある鍾乳洞冠岩、回族の村草圩郷、いちご狩りをセットにしてくれた。

  ホテル前からタクシーに乗っていったが、途中で他のタクシーに乗り換えるのだ、といわれ、待機していた他のタクシーに乗り込んだ。タクシーはテリトリーが決まっていて、日本の様に客の言うままどこまでも、というのとは異なっていた。乗り換えたタクシーはどんどん田舎道に入ってゆく。
  途中茶畑や水田、といった田舎の風景を目にすることが出来た。いずれも桂林から陽朔に向う漓江沿いにあり、歴史を旅する雰囲気を味わえた一日であった。

17)冠岩
タクシーが止まったところは、遊園地みたいなところで、乗り物に乗ることになる。但しこの乗り物速度は自分で加減するのである。この子供だましの様な乗り物で冠岩の入り口まで行くのである。次から次へと乗り物に跨って出てゆく。線路つきゴーカートと思えば良いのかもしれない。

  乗ってみると、子供だましとは言えずカーブでは遠心力に対応した傾きをし、そこで停止すると横倒れてしまうかんじで、スピードに緩急をつける必要がある。
  前を行く人と距離を置かねばならない。ゆっくり過ぎると後ろに迷惑をかける。子供や老人では危険かも知れない。しかし緑の中を走行するので極めて気持ちが良い。

  そんな気分に浸っているうちに冠岩入り口に着いた。降車したところはすでに鍾乳洞に入っている暗がりである(写真1a)。ここもまたライトアップが凄まじい。先ず黄色の光である(写真1b)。

  そして、しばらく歩くと、「世界最奇特自然景観 灵亀洞瀑布」と案内板が掛けられた脇洞があり、そこに入っていった。
  確かに鍾乳洞の中の「瀑布」という言葉が相応しい水量である(写真1c)。冠岩は漓江沿いにあるので、漓江の川の水が流れこんでいるのだろう。

  そして、次から次へと光の洪水、色合いは赤や黄色と言った暖色系が多く(写真1d組)、青色系の光が多かった芦笛岩とは趣が異なり、またスケールも大きい。更に奥へ進むと地底川があり、そこからはボートで川を下って行く。

  ボートに乗り込む時、後ろの中国人が腕を支えてくれた。余程ぎこちない歩の進め方をしていたのだろうか。中国人は割り込みが凄いと言われるが、これまでの中国旅行でその様な体験は一度も無い。むしろバスで席を譲られたり、今回の様に手助けされる。中国人には白髪の人が少なく、あるとすると老人で、敬老の精神は厚いのかも知れない。こういうことが日本でも増えてきたので、そろそろお礼の言葉を準備しておかねばならないのだろうか。

  ボートには15人ほど乗船しただろうか、船頭が岩にぶつからない様に竿を巧みにあやつり、色彩豊かに鍾乳石に投影された光景を前方に、頭上に、左右にとあきさせない。ここは動画に限る、と考え静止画写真は撮らなかった。動画の投稿のしかたが分からないので投稿はしない。そんなのが溜まってきている。

  そして最後まで続いた光のページェントも終幕に近づき前方にエレベータが見えた(写真2a)。そのエレベータにのり地表に戻った。

  エレベータから降りた地点からの景色も素晴らしく漓江下りで目にした山々を違う角度から遠望できた(写真2b)。
  そこからは幌つきの乗り物(電気自動車)に乗り(写真2c)、次の観光地草圩郷への出発地点へ向う。そこで昼食を摂ることにもなっている。この乗り物からも飛ぶように、うつりゆく絶景が見られた。右手には山並の絶景が、左手にはここ数日の雨で濁流となった漓江の流れが目に入った。

  昼食は「農家苑」で、田舎料理(写真3a、3b)を味わった。店の屋根を時折強い雨が打つ。そのたびに物売りのおばあさんが雨宿りのために店の軒を借りる。雨が病むと、鳥達が木々を頻繁に行き来する。見たことのない大小の鳥が、すぐ近くの花木(写真3c)に来ては飛び去ってゆく(写真3d)。更にこれから草圩郷に向うのに使う馬乗り場が見える。