槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2010/11/27 20:44:33|旅日記
SAIKAI2010 3)広島平和記念資料館 原爆ドーム

SAIKAI2010
3)広島平和記念資料館 原爆ドーム

  広島駅新幹線口空港リムジンバス停留所近くに14:30頃を目安に集合し、すぐ駅近くのレンタカー店で車を借り、その足で、平和記念館 原爆ドームに行くことになっていた。自分が集合場所であるそこに着いたのは、15:00近くなっていた。それからレンタカー店に行き、車を借りる手続きをして、ドライブを開始し、広島平和資料に着いたのは、15:30を過ぎていた。

  東館入り口から入場し、観覧券代50円と音声ガイド借用代300円を支払い中に進む。観覧券代の安さから、この資料館が何を目的としているかが分かる。  
  月曜日の昼下がり、だからか、館内がごった返しているのには程遠い。中高年が多いこと。対象は分からないが、信仰に深く関わっていそうな人相といでたちの一行、観光バスでの和気を断ち切れないままに、急ぎ足でここにやってきたことが一目で分かる一行、そして、日本の観光の途中で立ち寄ったと思われ、る若い外国人カップル。様々な思いでここを目指したのに違いない。  自分達の様に、広島に来たついでに立ち寄った連中、最初からここへ立ち寄ることを一番の目的として、ここに立ち寄った人達、世界中の世界遺産めぐりをして、その一環としてここに立ち寄った人もいるかもしれない。日本人として避けて通れない、世界人として避けて通れない場所、そしていずれは人間として避けて通れないところとなるであろう。

  そして、ここを訪れる人は誰でも何故広島に、そして何故この原爆と言う極限の兵器を使わねばならなかったかという疑問を最初に持つのではないか。戦争に終止符を打つことが目的ということは、誰にでも分かる。だが何故広島が標的にされたかは殆どの人が知らない。

  その戦争が何故おこってしまったか、それとて十分に知らされてはいない。その問いと答えが、二度とこの悲劇を起こさせないで済む知恵に結びつくのだろう。
  被爆の悲惨さを学び、知り、そこから、二度とこの惨状を繰り返してはいけない、と肝に銘ずる方法もあるし、終止符を打つために原爆を使わざるを得ないと思わせてしまったこの戦争がどうして起こってしまったのか、そのプロセスを知り、そのプロセスが二度と繰り返されないようにと根源的なところで、自己規制する精神を持たねばならないと肝に銘ずる方法もある。

  最初の東館の展示はこの後者の思いを遂げさせてくれる展示であり、第二次世界大戦の歴史や、原爆投下予定地が絞られてゆく様子が分かり易く展示してあった。東館1階では、ガイダンスから始まり、被爆までの広島、原爆の開発から投下までの歴史が展示されていた。

  @何故原爆が開発されたか?A何故それが日本に投下されることになったか?Bそして投下候補として何故広島が選ばれたか?その答えが説明されている。

  被爆までの広島の佇まい、投下された時刻8:15を指したままでとまっている大きな時計。その時刻は多くの人間の生の終わりと同時に核兵器時代の始まりの時刻でもある。その核兵器時代の終わりを人類は見ることが出来るのか、それとも見るまでもなく人類は滅んでしまうのか、それは誰にも分からない。

  階段を上がり、二、三階へ行くと今度は1945年8月6日午前8時15分以降の占領下での広島と広島市民の惨状収拾の様子や生活の再建、そして平和への取り組みが写真、模型、パネルを使って紹介されている。
  「平和への歩み」のところでは、「原子爆弾は戦争で使われた兵器だが、三たびさく裂させないためには核兵器を地上からなくし、他国と戦わない決意が大切だ。平和への歩みはどんな小さなことでもそこから始まる」とあった。
  確かにそうである。そのためにはどうしたら良いか。人類はこの答えを無条件には未来永劫出せないかもしれない。答えを出そうとする強い気持ちになるには、被爆の悲惨さを体験、または疑似体験するしかないのだろう。本館はまさに、その悲惨さを疑似体験できるようになっている。
  本館では、遺品や被爆資料を展示して1945年(昭和20年8月6日、広島に何が起こったのかを伝えている。動員学徒のボロボロになった学生服、黒こげになった弁当箱、焼け焦げた女子学生の夏服、原爆被災者のジオラマ、8:15を指したままの懐中時計などが展示されていた。これらを見ていると人間が持っている両極端のおろかさを強く感じざるを得ない。仕掛ける愚かさと報復する愚かさである。

  小学生の頃、丁度三年生のときだったと思う。武蔵野市立第一小学校の三石館だったと記憶している。そこで聞いた「原爆許すまじ」のメロディーがいまだに耳に残っている。歌詞も覚えさせられたのではと思う、覚えるために何度も何度も繰り返し復唱したので、54年経た今でもメロディーを覚えているのだと思う。あの時、この歌に接することが出来てよかった。

  メロディーもきれいだし、こういう歌は学校で教材として取り上げるべきではないかとつくづく思う。日本人だからこその歌である。「原爆資料館」は視覚に訴える展示が殆どだが、聴覚に訴える展示があっても良いのではないかと思った。吉永小百合の朗読よし、この歌しかりである。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
1 ふるさとの街焼かれ
  身よりの骨埋めし焼土(やけつち)に
  今は白い花咲く
  ああ許すまじ原爆を
  三度(みたび)許すまじ原爆を
  われらの街に

2 ふるさとの海荒れて
  黒き雨喜びの日はなく
  今は舟に人もなし
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの海に

3 ふるさとの空重く
  黒き雲今日も大地おおい
  今は空に陽もささず
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの空に

4 はらからの絶え間なき
  労働に築きあぐ富と幸
  今はすべてついえ去らん
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  世界の上に
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

  原爆の想像を絶する凄まじさは、熱、風圧、放射線ということで、熱線による被害、爆風による被害、放射線による被害の被害の様子を3つのコーナーに分けて展示してあった。
  石仏や瓦、一升瓶、などが熔けて形を変えてしまった姿の展示は物凄かった(写真。特に熱線に関しては、爆発の瞬間、爆発の中心温度が1000000℃を超え、巨大な火球が発生し、1秒後には最大直径280mの大きさになり、表面温度は5,000℃に達した、とパンフレットに紹介されている。
  展示ブースの最後に「禎子さんの折り鶴」が展示されていた。手偏を示偏に変えただけの両文字である。本当の祈りというのは、本来指を折ってするものかも知れない。12歳のはかない命、その原因となった被爆。痛々しい。ひとつひとつ折っては念じ続けたのは、自身の健康の回復だけだったろうか。

  平和記念館から出て原爆ドームの方へ歩いてゆくときに、振り返って、それを眺めてみると、まるで、鶴が羽を広げているように見えた(写真1a)。







2010/11/15 1:41:05|旅日記
SAIKAI2010 三段峡

SAIKAI2010
1)三周忌 三段峡

  2008年9月8日に、最初に社会人になったときの会社で、同期だった友人の一人(以下S氏)が波乱万丈の生涯を閉じた。同じ同期の友人で、自分以上に親しかったのではないかと思われるもう一人の友人(以下O氏)から電話が入った時、悪い予感がしたが、果たして悪い知らせだった。

  当の本人は肺の病気で、入退院を繰り返し、自宅に戻っても、側に酸素ボンベを引きずりながらの生活であった。肺に穴が開いて肺の外(胸腔)に空気が漏れてしまう気胸という病気だ。そして、同時に肺気腫と肺炎にも罹っていると本人から聞いたことがあった。彼は自分と最初の会社では一緒だったが、その後、脱サラをして陶芸家の道を、目指し、萩焼で修行して、最後は、広島県山県郡安芸太田の自宅に「深入(しんにゅう)焼」(写真1c)という窯を開き、永く作陶の世界に身をおき、最近は広島県でも「深入焼」ブランドが浸透してきて地元産品(写真1d左、右)としての地歩を築きつつあった。
  皇陛下が來広した時に、展示されていた「深入焼」に目を留められ、その印象的な青に魅かれ、後日皇室に献上したことがあるという話を葬儀の時に姉上から聞いたが、我々にはそのような晴れがましい話を一切してくれなかった。きっと人に自分を自慢するのが得意ではなかったか、そういうことが嫌いだったのだろう。

  実はその年、体調の優れないS氏の見舞いを目的に、S氏の家のある広島で、何年か毎に行っていた再会の集いをやろうかという話があったのだが、結局喪服姿の再会になってしまったのだ。

  今年は三周忌であることをO氏が思い出して、線香を上げに行こうではないか、ついでだから、広島の代表的な名所にも寄ってみないか、という話にまとまったのである。
  どうせだからということで、二泊三日として、中日をS氏にお邪魔して、線香を上げさせてもらい、その近くにある三段峡の観光を、初日は、広島まで来て、常識のある日本人であれば誰だって寄られずにはいられない世界遺産の原爆ドーム、平和記念館を、そして最終日には、これまた世界遺産となっている厳島神社を観光することに決まった。

  O氏、T氏、自分Aで、つなぐ“OTA”となり、S氏の地元安芸太田(OTA)そして、原爆ドームの近くを流れるのが、太田川(“OTA”River)なのである。なんとなく因縁を感じたのであった。

  O氏が事前に、S氏の奥方と連絡をつけていてくれて、自宅を訪問するときは、奥方がいてくれることになっていた。この奥方にしても波乱万丈の人生を生きてこえられたに違いない。
  今回(3年前)ご主人を亡くし、その前の何年か前には娘さんを亡くされているのである。それだけに、今回はS氏の供養もあるが、奥方を元気づける、ということも大きな目的となった。
  特にO氏はかつてS氏宅を訪れ、宿泊させてもらったこともあるということで、なおさら、奥方への労わりの気持ちが強かったのだろう。

  S氏は同じ会社に勤務していたときは、東京育ちの自分から見ると、眩しいくらいにワイルドであり、“OTA”の三人とも参加した猪名川の川下り、ゴムボートを浮かべての海釣り、O氏とカヌーによる琵琶湖一周、などあげるときりが無い、また良く走っている姿も記憶に残っている。

  とにかくビートルズが好きだった。彼らの結婚の祝賀会では、本人の希望で最初から最後までビートルズの曲を流しっぱなしであったことを記憶している。

  S氏自宅に着くと、足の調子が良くない奥方ではあるが、申し訳ないことに玄関の外まで出迎えてくれた。室内に上がらせていただくと、すでにストーブが焚かれていた。
  このあたりの初秋から初春にかけては山の中なので(写真1a)、かなり冷え込み、雪も積もり、肺を患っていたS氏にとっても足を悪くしている奥方にとっても、かなり厳しいものがあったに違いないし、これからも奥方にとっては大変なことだろう。

  そんな奥方は我々の為に、三名に対しては半端ではない数のおはぎ、おにぎり、おこわを作ってくれていた。その場で食べきれない残りはタッパーに入れてみやげにしてくれた。普段おはぎというと殆ど、スーパーやコンビンニで買うのが普通になってしまっていて甘いお菓子を食べる、という感じだが、この出されたおはぎはそういうものとは異なり、奥方の心のこもったものであり、昔自分の母親とか祖母が一生懸命作ってくれたのと同じ味がした。
  我々の訪問が歓迎されていることを強く感じ、我々も嬉しく感じた。S氏の思い出話など一時間くらいしたであろうか、家の前で全員の記念写真(写真1b)を撮り、S氏宅をおいとました。

  2)三段峡
  S氏の自宅から車で15分もかからない至近距離に、紅葉の名所として名高い三段峡がある。シーズンになると東京のTVのニュースにも紹介されるくらい知名度が高い。しかし今年は紅葉には全く早いということで、山歩きの感覚での観光となる。うまく行けば、季節の野草に出会うことができるかもしれない、という期待もあった。

  車を駐車場に置き、少し歩くと、早速峡の入り口に至る(写真2a)。山側の細い道を徐々に登って行くと、目を落とした先に渓流が流れるのが見える。その川を覆うように、もみじの緑の枝がたなびいている。シーズンになると、この緑葉が紅葉して、絶景となることは容易に想像がつく。

  少し歩くと、枝越しの眼下に透明度の高い水流とそれに射す木漏れ陽とのコラボが素晴らしく何度も足を止めては写真を撮った(写真2b)。
  段状にもみじの緑葉が重なり、これが紅葉したときの光景は想像を絶する(写真2c)。更に歩いてゆくと、黄葉しようか迷っている葉をたたえた木が目に入った(写真2d)。
  更に登ってゆくと、県の観光課の職員だろうか、来たる紅葉のシーズンに備え、観光客のために細い山道の均し作業の途中のようだ。その内の一人にO氏が写真を撮ってくれるように頼んだ(写真3a)。

  登るにつれて足場が悪くなる。倒れ掛けた木が歩きを邪魔したり、大きな落石があったり、昇り坂の連続であったりだが、それらが上手く調和して景色を造り出している。
  川中に横たわる石は時に大きく、形状も立方体に近いものが時々現れる(写真3b)。
  まさしくお城の石垣用に最適である。癖開して三面が互いに直交している。

  山歩きに適した靴を履いてきたのが正解であった。途中滝が見えるところ(写真3c左、右)で一服すると同時に、三脚を使って記念写真を撮った(写真3d)

  更に登ってゆく。途中雨がパラつくこともあったが、陽光が射すこともある。川の水の透明度が高いこと、陽光の射す方向、水かさ(深さ)が、条件を得ると、干渉縞が見え(写真4a)、この自然の作り出す光学現象はなんとも言えぬ模様を作り出すが、なんと呼べば良いのか困る。

  そして山野草もいくつか目に入ったが、名前は分からずじまいであった(写真4b、4c左、右、4d)。
                 つづく







2010/11/02 0:50:50|旅日記
万葉の夢 奈良 興福寺 *** 阿修羅像  *** 

万葉の夢 奈良 興福寺 *** 阿修羅像  *** 

前回奈良を訪問した時にも興福寺の横を通った時に、五重塔を見上げたりライトアップを撮った。しかし、内部の観覧は行わなかった。
今回は阿修羅像を観覧する目的で、国宝館に入り、仏像群を拝観した。家内の強い希望であったのだ。東京での展示会に行くチャンスが無かったからである。主催者が大々的に宣伝していることもあるが、他にも何か惹きつけるものがあるに違いない、それは何か、ということを知りたかった。

  「阿修羅は、天部の中の仏を守護する「八部衆」の一人であり、三面六臂の姿は仏法に帰依してからのもので、それまでは無限に続く戦いの世界、修羅の世界、修羅道の主であったのだ。仏法の世界は、天道、人間道、畜生道、餓鬼道、地獄道、修羅道の六道に分けられ、その修羅道の主であった。

もともとは古代インド神話に登場するアスラが仏教に取り入れられたものと言われている。善神と戦ううちに、邪悪な闘神のイメージが強まってゆくが、根は善神であり、帝釈天に破れ、後に仏法に帰依して、その使徒となった。一度悪役にされた善神が仏によって復権した存在と言える」と、「天使と悪魔がよく分かる本」吉永進一監修、造事務所編著(PHP文庫)に解説されている。

  「八部衆」は乾漆(かんしつ)造という技法で造られているので、正式には、乾漆八部衆立像(かんしつはちぶしゅうりゅうぞう)と言うのだそうだ。
  乾漆(かんしつ)造というのは、まず心木(しんぎ)を立てて、塑土(そど)を用いてだいたいの形を造り、その上に漆で麻布を数枚貼り重ね、ある程度乾燥させた後、背中を切り開いて、中の土を取り出す。このように空洞になった内部に板や角材を補強材として入れ、その後、木粉(もくふん)などを混ぜた漆で表面を整え、金箔や彩色を施して仕上げるのである。

  そのせいか、金銅製の仏像に比較して重量感や荘厳さは無いが、いずれも、150cm前後の背丈なので、顔の表情を自由に細工できるのであろう。いずれも表情に特徴があり、まゆ間を寄せた表情は、経験したことの無い出来事に遭遇し、不安を抱きながらも、立ち向かってゆく姿勢を感じさせる。
  仏教を保護し、仏に捧げ物をする役目を与えているので、阿修羅以外は皆武装している。

  先ず@阿修羅であるが、ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になる。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになる。

  次に、A五部浄像(ごぶじょうぞう)で、八部衆の「天」に相当する神で、興福寺では八部衆の最初にこの神を置くことによって天部像を総称する。

  そして、B沙羯羅像(さからぞう)である。前二者とは異なり、烏天狗を思い出させる。八部衆の「龍」に相当する。水中の龍宮に住み、雨を呼ぶ魔力を持ち、釈迦誕生の時には清浄水をそそいで祝ったといわれている。八部衆を天龍八部といわれることがあり、金庸の小説にもなっているが、五部浄像(ごぶじょうぞう)と、この沙羯羅像とで八部を代表させているのかも知れない。

  そして、C鳩槃荼像(くばんだぞう)。八部衆の「夜叉」に相当する。梵天(ぼんてん)が造った水を守る神とも、死者のたましいを吸う悪鬼で人を苦しめる神である。髪は逆立ち、形相はすさまじく、前3像の表情に比べ、かなり過激である。

  その他、D乾闥婆像(けんだつばぞう)。そして、インド神話上の巨鳥で、ビシュヌ神が乗る鳥、すなわち金翅鳥(こんじちょう)で、龍を常食とすると言われ、害を与える一切の悪を食いつくし、人々に利益をもたらすE迦楼羅像(かるらぞう)、さらには、財宝神毘沙門天(びしゃもんてん)の家来、または帝釈天(たいしゃくてん)宮の音楽神でもあるF緊那羅像(きんならぞう)。これは「何か(kim)人(nara)」の意味で、人なりや何なりやで、半神とされるらしいが、なんとなくキム(金)姓の多い朝鮮民族の顔つきに心なしか似ている。

  そして、最後がG畢婆迦羅像(ひばからぞう)であり、大蛇ニシキヘビを神格化したともいわれる。音楽をつかさどる神で、横笛を吹き、諸神を供養する役割を担っている。

  興福寺の阿修羅像は、司馬遼太郎の「街道を行く、近江散歩、奈良散歩」にも取り上げられていて、阿修羅の表情を、修羅道の主であったことを紹介した上で、「阿修羅にはむしろ愛がたたえられている。少女とも少年ともみえる清らかな顔に無垢の困惑とも言うべき神秘的な表情が浮かべられている。...まゆのひそめ方は自我に苦しみつつも聖なるものを感じてしまった心の戸惑いを表している。...阿修羅は私にとって代表的奈良人なのである。」と言わしている。
  異議なし、である。

  ところが氏は、五重塔に対しては、「この塔は遠望すると、奈良風景に欠かせぬアクセントになっている。」と持ち上げながら、「造形的には、奈良に残る様々な古塔に比べ、優美の点で、やや欠ける。例えば天へ舞いたつ力学的な華やぎ、あるいは軽快さという点で劣り、無用に重々しすぎる。」といっている。
  「廃仏毀釈」の有様を苦々しく思う氏の気持ちが行間に溢れている。

  興福寺の五重塔は有名で、司馬遼太郎にその様に言わせているが、興福寺伽藍には、そのもっとも西に三重塔があることはそれほど知られていない。
  その手前(東側)にある華やかな南円堂の陰になって隠れてしまっているためかも知れない。前回興福寺を訪れた時は夕刻であり、夕焼けに浮かんだ南円堂はことの他目立ち印象に残ったが、その後ろに三重塔があることにはついぞ気がつかなかった。

  そして、荷物を預けておいたホテルサンルート奈良に戻り、帰途に着いた。
       完







2010/10/23 23:42:51|旅日記
万葉の夢 奈良 ならまち 元興寺 *** 本家世界最古の木造建築  ***

9.万葉の夢 奈良 ならまち 元興寺 *** 本家世界最古の木造建築  *** 

  宿泊していたホテルサンルート奈良から徒歩で6分のところにある元興寺は今回の訪問先では三指に入るくらいに楽しみにしていた寺である。
  何時ごろかはっきり覚えていないが、法隆寺よりも古い世界最古の木造建築物というニュースがあったからだ。そんな重要なことがどうして今頃わかったのだろうか不思議な思いをもっていたのだ。
  まだ9時を少し過ぎたくらいで、観光客は他には殆どいない。入場券売り場で、窓口にそのニュースのコピーをみつけ、「あ、これだ、これだ!」と口走ると、発券の係員は、「以前から知られていたことです。ただマスコミが取り上げてくれなかっただけなんです。」との言い訳をしてくれた。

  傍らに“元興寺gango-ji”と書かれた石標(写真1a)のある東門をくぐると、正面にいかにも古さを感じさせる宝形造の屋根瓦の堂宇が見えた(写真1b)。極楽坊本堂、通称“極楽堂”である。
  堂手前には大きな蓮の葉と萩の葉が青々とした帯が左右に展開し、「ここから上がって下さい。」とばかりに、緑の帯が前面中央部が途切れている。この中央前面外から堂内をズームアップすると、柱等に使われている木材は所々黒く炭化していて並大抵ではない古さを醸し出している(写真1c)のが分かる。

  それもその筈、名称と性格を変えてきた元興寺の歴史を遡ると、ナント、→飛鳥大寺→法興寺→飛鳥寺と、日本最古の本格的伽藍を持つ飛鳥寺にいたる。
  蘇我馬子が飛鳥に法興寺の工を起したのが、仏教伝来の50年後の588年、塔が完成したのが596年、法隆寺が建立されたのがその11年後、同じ年に遣隋使の派遣が開始されている。

  この元興寺の前身、飛鳥寺の創建に関し、元興寺のホームページには、「飛鳥の地にはじめて正式の仏寺建立に着手しました(588)。この寺がこの元興寺の前身である法興寺で地名によって飛鳥寺とも言われる寺です。
  百済の国王はこの日本最初の仏寺建立を援けるために仏舎利を献じたのをはじめ、僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣してきました。そのときの瓦博士が造った日本最初の瓦は、その後この寺が奈良の現在地に移った際も運び移されて、現在の本堂・禅室の屋根に今も数千枚が使用されています。
  特に重なりあった丸瓦の葺き方は行基葺きともいわれて有名です。」と紹介されている。

  本尊は、仏像ではなく、奈良時代の終わりに出たこの寺の僧、智光が遺した浄土変相図を示した“智光曼荼羅”となっている。その曼荼羅に描かれた阿弥陀如来が本尊だ。
  しかし、浄土変相図は儀軌に基づき整然と描かれた密教曼荼羅とは異なるものである。浄土変相図は、@釈迦如来を中心に霊鷲山の様子を描いたもの、A薬師如来を中心に東方浄瑠璃世界の様子を描いたもの、B阿弥陀如来を中心に西方極楽浄土の様子を描いたもの、など様々な浄土変相図があるが、元興寺の浄土変相図は阿弥陀如来を中心とした聖衆と極楽浄土世界のようすを細密に描いたものと言われている。

  ところで、わが町、埼玉県入間市の隣に狭山市があり、そこに智光山公園がある。智光山という山も地名もある訳でないのに、どうしてこの名前がついたのか気になっていたところである。もしかして、僧、智光が行脚した地の一つにあたるかも知れないと思い、近隣の寺院等、ウェブ・サーフィンしてみたが、残念ながら関係付けられる情報は皆無であった。

  堂内には彩色豊かな“智光曼荼羅”が配置されているが、これは伝えられてきた板絵をリメイクしたものであろう。
  その寸法は、縦217cm、横195cmとなり、その隅々まで見飽きない多くの仏や建物が描かれた構図になっている。

  極楽坊の西側には、同じく国宝の、極楽坊禅室が棟続きかの様に配置されている(写真2a)。

  ところどころに桔梗の花が点在した浮図田(ふとでん=仏陀、仏塔の意味)(写真3a、写真3b)を添えて、極楽坊と極楽坊禅室を取ると、曇天が相まって、益々建物の古さを感じる(写真2b)。

  浮屠(ふと)という言葉がある。仏のこと。梵語(ぼんご)のBuddhaを漢字に直したもので、“浮図”はこの言葉の類義語であろう。インドの“ブッダ”は まず中国で漢訳されて“浮屠”(フト)と表音化される。 浮図=浮屠とすると、この語に出会ったのは三回目である。
  最初は、洛陽白馬寺の対聯の中にこの語を発見した。
  二回目は、北方謙三版「三国志」の中で、曹操につき従う配下に浮屠を信じるものが居て、曹操に忠誠を誓う見返りとして、浮屠を信じることに対する迫害を行わないことを約束させる。そして今回が三回目である。

  さて、ホームページを見ると、極楽坊と極楽坊禅室とは、棟続きのように見えるが、ホームページ掲載の見取り図を見ると、完全に分離されている。
  それを、より明確に表しているのが軒丸瓦の模様である(写真2c)。極楽坊側が右三つ巴模様、極楽坊禅室が蓮華模様で異なっている。瓦も成分鉄の錆びが古代瓦に貫禄を与えていて、中には赤レンガ色に変色しているものがある(写真2d)。また、白色化した瓦も見られる。 一部には飛鳥時代・奈良時代の瓦が今もなお使われている。

  極楽坊禅室を北側からみると、花には少し早い萩がベルト状に垣根を構成している(写真3c)。これが一斉に咲くとどんなに壮観であろうか。
  一番北西部にある 石舞台 に登り、ここから極楽坊禅室を観た(写真3d)。ここにも今回の旅で、どこにでも見られた百日紅の花木があり、その根元には、俳句(又は詩)が記された木片が立てかぇられていた。
  この萩のベルトは東側にも(写真4a)展開されている。

  更に目を転じると、やはり秋に咲く花 芙蓉 が目に入った(写真4b)。一通り極楽坊の内部を見学し、さらに、極楽坊と極楽坊禅室の東西南北の周りを植栽された萩のベルトライン越しに観て、次に、第一収蔵庫(宝物殿)と第二収蔵庫を拝観した。宝物殿に入り、すぐ左手に小さな五重塔が設置されていた。
  あまりにも小さいので、てっきり、かつて元興寺伽藍に存立していた五重塔の模型とばかり思っていた。しかしながら、後でれっきとした国宝ということが分かりびっくりした。
  五重小塔の高さは5.5メートル。天平時代に造られたが室内で保管されていたので、直接に強い日差し、雨風にさらされることがなく、そのため、時代、時代の建築様式で修理されることがなく、天平時代の建築様式を知る貴重な資料となっている。天平時代の五重塔が一塔も残っていないだけに価値の極めて高い遺構と言えるもの、と紹介されている。
  この第一収蔵庫には他に、赤茶けた古代瓦が展示されていたが、何故か、極楽坊と極楽坊禅室の屋根瓦、軒丸瓦の前記模様とは異なり、菊紋であった。

  約1時間掛けて見学をし終わり、今回の旅行の最終観光地興福寺に徒歩で向った。
              つづく







2010/10/12 23:10:05|旅日記
万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 *** 

万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***
                
この時代、即ち日本では天平、奈良時代、中国では唐の時代、に仏教の進展に貢献したのは、日本人では空海、中国人では玄奘、そして両国の架け橋になったのが鑑真と言える、というのが自分の認識であるが、それは後世の著作物(小説)に影響されているところ大である。玄奘はご存知「西遊記」、空海は「空海の風景」司馬遼太郎著や、最近では「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」夢枕 獏著など、そして鑑真は「天平の甍」井上 靖著である。
  
  鑑真は、聖武天皇の命を受けて渡唐した、僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。鑑真は渡日の意義を熟慮し、遣唐使船の帰国便に乗り込み、倭の国に仏教を流布することを決心した。5度の渡航が天候によって妨げられ、6度目の航海でようやく倭の地を踏むことが出来たのである。

時の皇帝玄宗皇帝は現在で言えば、知能流出を憂い、渡航妨害を行った。鑑真は渡航を失敗し、漂着した地、例えば海南島においても、現地の民に、数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。

  また戒律を重んじる仏教を広めるだけでなく、鑑真は彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

  名実ともにこれほどの高僧を何故日本に招聘することが出来たか、その任を受け、くどき落とした栄叡、普照らも相当の苦労をしたはずである。

  小説「天平の甍」は第九次遣唐使で大陸に渡った留学僧たち。高僧を招くという命を受け、後に鑑真と会う普照と栄叡を軸とした若い留学僧たちの運命を描いたものである。

  薩摩坊津の秋目に無事到着した鑑真は、太宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。

  鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒のはしりである。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

  唐招提寺は鑑真が僧綱(僧尼を管理する僧官)を解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。その翌年、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。

  その唐招提寺である。

  駐車場に車を止め、歩いて行って最初に目に入るのは、南大門(写真1a)である。南大門通路の向こうには金堂が見える。入場券600円/人を払い、南大門をくぐると玉砂利敷きの参道があり、この猛暑の中、玉砂利を踏む観光客は多くはない。

  砂利道の両側には視界に被さるように葉のみの萩が茂る(写真1b)。そして玉砂利参道の突き当たり正面に威風堂々とした金堂がある。この金堂は前年11月に平成大修理落慶法要が行われたばかりである。

  更に進むと草木に邪魔されない金堂全貌が見えた(写真1c)。金堂内部は拝観せず、すぐ右手に曲がり、金堂を斜め手前から見る位置に立ち、そこを支点として視界を扇状に走査すると、伽藍の全体配置を見ることになる(写真1d)。

  即ち金堂の裏側に講堂、その右手前に鼓楼、その右手に礼堂、東室が南北に並んでいる(写真1e)。その更に右手に日本最古の校倉造りの宝蔵、その手前に経蔵が見える。但し、受戒のための戒壇と、鑑真和上坐像を納めた御影堂はそれらの建物に隠れて見えない。

  奈良は萩の花が似合う。唐招提寺の萩(写真2a)はまだ早いが、注意してみるとピンクの萩の花がところどころに開花している(写真2b、2c)。そして、更に注意してみると、白い萩の花が咲いていることに気づく(写真2d)。

  金堂と講堂の間の西の端には鐘楼(写真3a)が、東側には手前に鼓楼、その後ろ(東側)に、礼堂、東室が南北に並んでいる。いずれも黒ずんだ柱と白壁のコントラストが心地よい(写真3b)。ここの軒丸瓦には”唐“、”招“、”提“、”寺“の文字が記されている(写真3c)。法起寺の形式と同じである。

   瓦が埋め込まれ、瓦屋根のついた貫禄のある土塀に沿って歩いて行き(写真(写真4a)、境内の最も東北部に位置する鑑真御廟まで行ったが門が閉ざされていて見学は出来ず、来た道を戻り、校倉造りの宝蔵(写真4b)の前を通り、先ほどのポイント(写真4c)に戻り、玉砂利参道を南大門に戻った。入るときには気がつかなかった、世界文化遺産記念碑(写真4d)前に少し佇んで、南大門をくぐり駐車場に戻った。

鑑真は76年の生涯のうち最後の10年(753〜763)を日本で過ごしたことになる。そして最初に日本の僧、普照と栄叡に渡日の懇願をされたのが、その11年前(743年)で。その年に第1回目を試みている。この11年は渡航準備などというものではなく、渡航を実施したが5度の渡航船の転覆や渡航妨害によるものであった。
  皇帝の反対をも押し切って、日本に来た理由について、様々な推測がある。「小野勝年は日本からの留学僧の強い招請運動、日本の仏教興隆に対する感銘、戒律流布の処女地で魅力的だったという3点を挙げている。それに対して金治勇は、聖徳太子が南嶽慧思の再誕との説に促されて渡来したと述べている(「聖徳太子敬慕説」)。」という紹介が掲載されている。

  そのほか、一部の研究者は中国の政治情勢と社会背景にも目を配って、「鑑真スパイ説」や「鑑真亡命説」などの論を展開してきた。これらに対し、王勇氏による「鑑真渡日と唐代道教」(2008)という論文には、鑑真が渡日した動機について、唐における道教と関係づけている。
  即ち、この時代(玄宗皇帝時代)道教は最も興隆していて、一方日本では天皇による道教の崇拝は無く、様々な文化様式として、遣唐使によって伝えられた可能性はあるが、唐から道教が宗教コミュニティや伝道僧によって伝えられた形跡は無い、として、前記の説には根拠が乏しく、鑑真は道教を日本にもたらさなかったどころか、道教の勢いに押されて来日した節さえある、としている。
  前日訪問した談山神社には道教の香り(道観)がすると、そこの稿で紹介したが、日本にはじわじわと道教文化が浸透し始めたのかも知れない。しかし、66歳という高齢で、道教に染まらず、道教忌避という立場を貫き、多くの犠牲を払ってまで、文化的未開国の倭国に向うという意思を持ち続けた執念は凄まじいとしか言い様がない。

  全く素人的な発想であるが、以下の見かたもあるのではないか。

  鑑真は、玄宗皇帝の過大な道教政策に嫌気がさしていたところに、日本から留学層による渡日招請があった。
  日本では、税を免れるため仏僧になるというふらちな僧がいて、これらの僧に戒めを与える制度を必要としていた。
  制度化の為にはそれを運用する授戒僧が必要で、その授戒僧を中国から招聘することが目的で、その目的に最もかなう僧として、鑑真をみつけだした。

  鑑真は18歳で菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年、登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶという経歴を持っている。

  そして鑑真は、玄宗皇帝の過大な道教政策に嫌気がさしていたという環境にもあり、最初に渡日の約束をしたのであろう。
  受戒の“戒”の中には“不妄語戒(ふもうごかい)即ち うそをついてはいけない、という“戒”があり、約束してしまった渡日を実現せざるを得ないという気持ちを、時と共に熟成していった。
  この約束を破ることは、鑑真のアイデンティティである“戒律”を自ら破ることになると自らの心に問い続けてきたのではないか。
  “戒”とは自分を律する内面的な道徳規範であるので、玄宗皇帝による慰留や栄叡の死があっても、曲げられぬ鑑真のアイデンティティに基づく意志だったのではないか。念じて、念じて、更に念じて、その意志を熟成させて行ったのではないだろうか。

その意味で、現今の東西の政治家は鑑真を見習わねばならない。
そして、人民の生活に強く影響を及ぼす司法、立法、行政を行うものは、今こそ一人残らず受戒が必要と思われる。

                  つづく