万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***
この時代、即ち日本では天平、奈良時代、中国では唐の時代、に仏教の進展に貢献したのは、日本人では空海、中国人では玄奘、そして両国の架け橋になったのが鑑真と言える、というのが自分の認識であるが、それは後世の著作物(小説)に影響されているところ大である。玄奘はご存知「西遊記」、空海は「空海の風景」司馬遼太郎著や、最近では「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」夢枕 獏著など、そして鑑真は「天平の甍」井上 靖著である。
鑑真は、聖武天皇の命を受けて渡唐した、僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。鑑真は渡日の意義を熟慮し、遣唐使船の帰国便に乗り込み、倭の国に仏教を流布することを決心した。5度の渡航が天候によって妨げられ、6度目の航海でようやく倭の地を踏むことが出来たのである。
時の皇帝玄宗皇帝は現在で言えば、知能流出を憂い、渡航妨害を行った。鑑真は渡航を失敗し、漂着した地、例えば海南島においても、現地の民に、数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。
また戒律を重んじる仏教を広めるだけでなく、鑑真は彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。
名実ともにこれほどの高僧を何故日本に招聘することが出来たか、その任を受け、くどき落とした栄叡、普照らも相当の苦労をしたはずである。
小説「天平の甍」は第九次遣唐使で大陸に渡った留学僧たち。高僧を招くという命を受け、後に鑑真と会う普照と栄叡を軸とした若い留学僧たちの運命を描いたものである。
薩摩坊津の秋目に無事到着した鑑真は、太宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。
鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒のはしりである。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
唐招提寺は鑑真が僧綱(僧尼を管理する僧官)を解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。その翌年、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。
その唐招提寺である。
駐車場に車を止め、歩いて行って最初に目に入るのは、南大門(写真1a)である。南大門通路の向こうには金堂が見える。入場券600円/人を払い、南大門をくぐると玉砂利敷きの参道があり、この猛暑の中、玉砂利を踏む観光客は多くはない。
砂利道の両側には視界に被さるように葉のみの萩が茂る(写真1b)。そして玉砂利参道の突き当たり正面に威風堂々とした金堂がある。この金堂は前年11月に平成大修理落慶法要が行われたばかりである。
更に進むと草木に邪魔されない金堂全貌が見えた(写真1c)。金堂内部は拝観せず、すぐ右手に曲がり、金堂を斜め手前から見る位置に立ち、そこを支点として視界を扇状に走査すると、伽藍の全体配置を見ることになる(写真1d)。
即ち金堂の裏側に講堂、その右手前に鼓楼、その右手に礼堂、東室が南北に並んでいる(写真1e)。その更に右手に日本最古の校倉造りの宝蔵、その手前に経蔵が見える。但し、受戒のための戒壇と、鑑真和上坐像を納めた御影堂はそれらの建物に隠れて見えない。
奈良は萩の花が似合う。唐招提寺の萩(写真2a)はまだ早いが、注意してみるとピンクの萩の花がところどころに開花している(写真2b、2c)。そして、更に注意してみると、白い萩の花が咲いていることに気づく(写真2d)。
金堂と講堂の間の西の端には鐘楼(写真3a)が、東側には手前に鼓楼、その後ろ(東側)に、礼堂、東室が南北に並んでいる。いずれも黒ずんだ柱と白壁のコントラストが心地よい(写真3b)。ここの軒丸瓦には”唐“、”招“、”提“、”寺“の文字が記されている(写真3c)。法起寺の形式と同じである。
瓦が埋め込まれ、瓦屋根のついた貫禄のある土塀に沿って歩いて行き(写真(写真4a)、境内の最も東北部に位置する鑑真御廟まで行ったが門が閉ざされていて見学は出来ず、来た道を戻り、校倉造りの宝蔵(写真4b)の前を通り、先ほどのポイント(写真4c)に戻り、玉砂利参道を南大門に戻った。入るときには気がつかなかった、世界文化遺産記念碑(写真4d)前に少し佇んで、南大門をくぐり駐車場に戻った。
鑑真は76年の生涯のうち最後の10年(753〜763)を日本で過ごしたことになる。そして最初に日本の僧、普照と栄叡に渡日の懇願をされたのが、その11年前(743年)で。その年に第1回目を試みている。この11年は渡航準備などというものではなく、渡航を実施したが5度の渡航船の転覆や渡航妨害によるものであった。
皇帝の反対をも押し切って、日本に来た理由について、様々な推測がある。「小野勝年は日本からの留学僧の強い招請運動、日本の仏教興隆に対する感銘、戒律流布の処女地で魅力的だったという3点を挙げている。それに対して金治勇は、聖徳太子が南嶽慧思の再誕との説に促されて渡来したと述べている(「聖徳太子敬慕説」)。」という紹介が掲載されている。
そのほか、一部の研究者は中国の政治情勢と社会背景にも目を配って、「鑑真スパイ説」や「鑑真亡命説」などの論を展開してきた。これらに対し、王勇氏による「鑑真渡日と唐代道教」(2008)という
論文には、鑑真が渡日した動機について、唐における道教と関係づけている。
即ち、この時代(玄宗皇帝時代)道教は最も興隆していて、一方日本では天皇による道教の崇拝は無く、様々な文化様式として、遣唐使によって伝えられた可能性はあるが、唐から道教が宗教コミュニティや伝道僧によって伝えられた形跡は無い、として、前記の説には根拠が乏しく、鑑真は道教を日本にもたらさなかったどころか、道教の勢いに押されて来日した節さえある、としている。
前日訪問した談山神社には道教の香り(道観)がすると、そこの稿で紹介したが、日本にはじわじわと道教文化が浸透し始めたのかも知れない。しかし、66歳という高齢で、道教に染まらず、道教忌避という立場を貫き、多くの犠牲を払ってまで、文化的未開国の倭国に向うという意思を持ち続けた執念は凄まじいとしか言い様がない。
全く素人的な発想であるが、以下の見かたもあるのではないか。
鑑真は、玄宗皇帝の過大な道教政策に嫌気がさしていたところに、日本から留学層による渡日招請があった。
日本では、税を免れるため仏僧になるというふらちな僧がいて、これらの僧に戒めを与える制度を必要としていた。
制度化の為にはそれを運用する授戒僧が必要で、その授戒僧を中国から招聘することが目的で、その目的に最もかなう僧として、鑑真をみつけだした。
鑑真は18歳で菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年、登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶという経歴を持っている。
そして鑑真は、玄宗皇帝の過大な道教政策に嫌気がさしていたという環境にもあり、最初に渡日の約束をしたのであろう。
受戒の“戒”の中には“不妄語戒(ふもうごかい)即ち うそをついてはいけない、という“戒”があり、約束してしまった渡日を実現せざるを得ないという気持ちを、時と共に熟成していった。
この約束を破ることは、鑑真のアイデンティティである“戒律”を自ら破ることになると自らの心に問い続けてきたのではないか。
“戒”とは自分を律する内面的な道徳規範であるので、玄宗皇帝による慰留や栄叡の死があっても、曲げられぬ鑑真のアイデンティティに基づく意志だったのではないか。念じて、念じて、更に念じて、その意志を熟成させて行ったのではないだろうか。
その意味で、現今の東西の政治家は鑑真を見習わねばならない。
そして、人民の生活に強く影響を及ぼす司法、立法、行政を行うものは、今こそ一人残らず受戒が必要と思われる。
つづく