槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2011/01/03 20:49:57|超音波技術
1)超先端動物「こうもり」と超音波診断技術
1)超先端動物「こうもり」と超音波診断技術

  ある夏の夕暮れ時、路上に落ちていた息絶え絶えのコウモリを子供たちが不思議そうに眺めていた。同じ哺乳類でありながら、また普通に空を飛ぶ動物と認められながら、何故か不気味で陰湿なイメージを人間に与えている不幸な動物である。

  しかし、その路上に落下したコウモリにしてみれば、「たいした能力がある訳でない人間の晒し者になって不本意である。人間達はやっと最近になって、コウモリ族の優れた能力を真似しはじめたばかりではないか。」と言いたいところだろう。

  "超音波"をキーワードにインターネット検索すると、"超音波"を分類する主要なキーワードとして"センサ"、"モータ"、"腹部"、"医学会"、"胎児"とともに"コウモリ"が混在している。"コウモリ"以外は全て工業技術、医療技術に関するキーワードであり、これらに"コウモリ"が並示されているのは、コウモリといえば超音波、という連想からだけではなく、その優れた能力(エコーロケーションという効率的なソナーシステム)を模倣的に利用して医療技術等に役立てようとする研究[1]が進められているためかもしれない。

  工業分野、医療分野ともに超音波を用いた検査、診断は非破壊性、非侵襲性、安全性から他の検査、診断方法に比べて身近になってきている。
  検査、診断にもっとも要求されるのは、真実の姿を如何に忠実に検査師、診断者に伝えるかということであろう。本来あるべきものを無いように伝えたり、その逆に存在しないものを有るかの様に伝えたり(アーティファクト)、二つあるものを一つと伝えたり(空間分解能)、温度や湿度が高くなると誤って伝えたり(環境特性)、時間とともに正確な伝え方をしなくなる(劣化特性)ようでは真実の姿を忠実に伝えているとは言えない。

  例のコウモリは超音波センサまたはその制御回路が異常をきたし、路上に落下し、人間の晒し者に成り果てたのだろう。先述した人間界での不都合が起こらないようにするのが技術であり、技術開発であるといえる。

  人間界の超音波診断装置は近年診断機能、精度が著しく向上し、医療診断に無くてはならない装置となってきている。それだけにその信頼性は従来以上に厳しいものが要求される様になってきた。

  診断装置の信頼性とは如何なる環境、時間経過後においても、あるがままの姿を高精度に間違いなく診断者に伝えることであり、その診断情報を分かりやすい形で、短時間、出来ればリアルタイムで、場合によっては複数の診断者に同時に診断情報を伝えるということも診断の信頼性の向上につながる場合がある。

  診断装置のソナーシステムは超音波を送受信するトランスデューサ、送受信信号を制御する信号処理手段、信号処理した出力信号を関心者に呈示する呈示手段、及びこれらの手段を動作させる為のエネルギー供給手段からなる。これらの内一つでも機能に異常を来すと、夏の夕暮れ時、路上に落ちていた息絶え絶えのコウモリと同じ運命になる。

  超音波診断装置に於いてもコウモリのソナーシステム同様、超音波を送受信するセンサ(トランスデューサ)が基本的で不可欠な手段となっている。

 こうもりのエコロケーションに関する研究
山口大学理学部自然情報科学科生物科学講座
同志社大学工学部電気系超音波エレクトロニクス応用計測研究室
電気通信大学情報通信工学科(PPT資料)
東北学院大学教養学部情報科学科
    >>>>> つづく <<<<<







2010/12/23 21:26:44|物語
西方流雲(91)  3)日本人と中国人(13)= 鄭州へ =
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    3)日本人と中国人(13)= 鄭州へ =

  早朝便で上海を経ち、午前10時頃には鄭州空港に着いた。紅蓮にとっても今回の旅はスケールが大きく、鄭州は生まれて初めて訪れる地である。鄭州が交通の要衝であり、黄河の恵みと災いをともに味わってきた地であることは、蘇州にいたとき学校で習って知っていた。
  しかしまだ何も判らないローティーンのときで、鄭州の河南省が中国でも指折りの人口と発展を続けている地であるということは紅蓮が日本へ渡ってからの話で全く知らなかった。
  また、この鄭州近辺は、漢民族の発祥の地であり、古代王朝の発祥の地であるということは、父鉦渓が「封神演義」を寝物語に聞かせてくれたとき、おまけの話で聞かせてくれた。紅蓮は機上からどこまでも続く中国の台地を見ながら、
「これだけ広大な国土と人口を持った国家が本当に幸せといえるだろうか」
と独りごちた。
  長いこと日本にいて、自分が日本人にきわめて近い感覚になっていることに、戸惑いを覚えた。初めて、東伝おじさんとともに日本に足を踏み入れた最初の地神戸では、何もかも珍しいことばかりで、自分の周りに現れる日本人はだれもがやさしく、平和的で、示唆的で、全ての日本人が自分に対するサポーターである気がしたものだ。

  いろいろな出会いだけでなく悲しい別れというのもいくつかあったが、その人たちが自分の心に残してくれたものは何ものにも変えがたく、ズッシリと重い。
  もし中国に残っていたら、とてもこのような体験はできなかったに違いない。

  日本人の特異性は、自身の外部に課題を見つけるのではなく、自身の心の内に課題を見つけ、心の内に向かって解決策を施してゆくというところであり、したがって自分から外に向かって批判や非難、抗議するのが極めて下手で、非難、批判、抗議に対して受身になりがちである。
  しかし紅蓮にとっては、このような日本人特有の個性を受け入れるのになんら障害はなかった。むしろ、そのような思想に自然に溶け込むことができた。
  これは考えかたが染まりやすい思春期に紅衛兵といった反面教師を目にしていて、それに対する善悪の解説を父鉦渓が的確に説明してくれたからである。
  その父の説明が間違いのないものであったことは周瑯の昨夜の見違える変貌からも確信できた。
  まさに、青は藍より出でて、藍より青し、である。父鉦渓がことあるごとに教えてくれた言葉である。自分は日本という国で25年もの歳月を過ごし、果たして、藍から青になれたであろうか。
 
  その父に、あと一時間足らずで会える。自分の苦労などとても及びつかないほどの辛酸を舐めているところを見続けていたが、その後も文革の災禍から逃れる苦労は並大抵のものではなかっただろう。
  両親も自分のことを同じように思っているに違いない。どのように皺が刻まれた顔になっているのだろう。そして母蕾蓮はどの様になっているだろう。
  42歳にもなった自分を両親は想像できるだろうか。母にしても父同様多くのことに堪えてきたはずである。対面したら両親に第一声はなんて言おうか、....。
  そんなことを黙想していると、機内放送で、「あと30分程度で着陸する」とアナウンスがあった。

  呉東伝と婚約者を追悼するための旅であるはずなのに、この心の軽さは一体何なのだろう。

  やがて空港に着陸し、荷物も受け取り、到着ゲートに向って歩いている。出迎えの人々が列をなして手を振っている。
  日本人の名が書かれたプラカードを高く掲げた中国人ガイドらしきもいるし、中国人名が書かれたプラカードを掲げた人もいた。
  楊さんと両親の三人連れの出迎えと疑いもしなかったので、三人連れらしき群れを探したが、それらしき人たちの姿がなかなか認められなかった。
  自分のほうに向って手を振ったり笑顔を向けている人も見つけられない。到着時間を間違えて、まだ来ていないのだろうか。昨夜切符を手配してくれた周瑯は、「楊さんに連絡がとれて、空港まで来てくれることになりました。」といっていたのは嘘だろうか。

仕方が無い、少し空港で待ってみることにした。ベンチに腰掛け周瑯の娘の鴇蕾が作ってくれた朝食代わりのパンを食べたら、急に眠気を催しウトウトしてきた。どのような状況でも、切迫した気分になれないのが自分の欠点だとは思っていたが、その欠点がこのようなところで出ようとは。

  首がひと垂れしたのに期を合わせるように肩をトントンと叩かれていることに気がついた。まるでサビついてしまったかのような首を無理して回転させ振り返ってみると、なんとそこに両親が立っているのであった。
  ただし、表情には全く笑みもやさしさも穏やかさも微塵も感じられない表情で、むしろ怒っている表情にしか見えなかった。  25年間連絡を取り合う努力をしなかった自分を責めているのだろうか?それとも25年という歳月が親子の情というものを蒸散させてしまったのだろうか。

  そして、両親の後ろになんと東伝が立っているのであった。最初の一対の手を父の肩に慈悲深そうに置き、次の一対の手は母の両肩に優しそうに置いた。
  そして次の一対の手の内片方には錫杖を持ち、他方の手は胸の前に手のひらを垂直に立て江蓮のほうに微笑みかけている。
  それに気がついた両親は盛んに東伝に向って頭を何度も何度も下げている。
  謝罪しているようでもあり、感謝しているようでもあり、祈りを捧げているようにも見えた。そして次に東伝を見つめたときは東伝の体躯の代わりに金箔を塗りたくった千手観音となっていた。
  地には背丈の低い青や白の花がびっしり咲き誇っていて、そして所々牡丹の花が咲き、かぐわしい香りがしている。これは地上ではなく天上なのかもしれない、と思った瞬間、今度は左肩をトントン叩かれていることに気がついた。

  先ほど現れた両親と東伝は一言もしゃべらなかったが、左を振り向くと、笑顔を振りまいていたので、「失礼ですが、李櫂和さんですか?」と問いかけてみた。
  すると、「その通りです。お待たせして申し訳ありません。」その声にハッとした紅蓮は右肩のは、夢だったということに気がついた。
  そして「両親は一緒ではなかったのですか?何かあったのですか?周瑯さんは、何も言ってませんでしたか。」と言うと、その人物は、「実は、お父上が昨日ギックリ腰で起き上がれなくなってしまい、入院してしまったのですよ。

  母上はその介護のため付きっきりで病院に詰めておられるのです。従って、これから先ず病院まで行って、ご両親にお会いになってください。」と言っているその人の横顔を見つめてみたが、25年前に見た顔からは想像できないほど顔面全体に皺があり、色黒であった。

  また、歯は黄色く黒ずんでいて、25年前に見たときの清潔感のある面貌は完全に失せていた。とても60歳前後とは見えない顔である。
  そして、目つきは落ち着きがなく、キョロキョロと周囲を眺め回しながら紅蓮と言葉を交わしているのだ。同じ25年でも中国人に与える影響と、日本人に与える影響とは異なるのだろうか。失礼と思いながら、紅蓮はそう感じてしまったのである。

  「知りませんでした。病院は近いのですか?」と問い返してみた。するとその人物は、「道路が混んでいなければ40分程度、混んでいたら1時間以上かかるとおもいますが、今は真昼間の空いている時間帯なので40分あれば着けると思いますよ。お疲れのようですので、しばらく休んでいても結構ですよ。近づいたら声をかけますので。」

  「ありがとうございます。多分知らぬ間にそうなってしまうかもしれません。....ところで、船問屋さんのところのご子息は何歳くらいになっているのですか?」お尋ねてみた。すると答えは、「5才だったと思います。」ということだった。
  紅蓮は「そんなはずはありません。」と言う言葉を呑み込んだ。「この人は本当に李櫂和さんかしら」という疑念が湧いて来たからである。

  先ほどは、「中国語を勉強し始めて何年くらいたったのですか?」と聞かれた。自分を中国人ではなく、中国語を勉強している日本人と思っているようである。返答にとまどっていると、その様子を感じ取って以来、一切はなしかけてこなくなった。
車は市街地を外れて次第に民家の少ないガタガタ道になってきた。
              つづく 







2010/12/11 0:20:31|物語
西方流雲(90)3)日本人と中国人(12)
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    3)日本人と中国人(12)
  「その二つのことの一つは、この家を私に預けるので保守をお願いすること、保守にかかる費用は三つの骨董品のうちのひとつを差し上げるので、換金して、それを使って欲しい、ということ。
  もう一つは、紅蓮さん、あなたが必ず現れるので、その時、三つの骨董品のうちの他のひとつを渡して欲しい、ということだったのです。
  そういう話に入る前にお父上は私に、『周瑯君、君はこれからどんな夢を掴もうとしているのかね?』とお聞きになったので、『薄ご一家を待ちながら医療の本を読んでいました。将来可能性があれば医師になりたいのです。』と申し上げました。
  するとお父上は、『そういう立派な夢や希望を持った青年の精神を錯乱させ、国の将来を危うくしかけた文化大革命も終結した。
  この無駄ともいえる10年を是非取り戻して欲しい。自分の娘は一体どんな夢、何を目指して生きているのかさっぱり分からん、元気で居てくれるだけで良いのだが。』としみじみと言われました。
  そのあと、この家の保守を依頼されたのです。最初は、『そんな資格はない。』とお断りしたのですが、『紅蓮さんがいつここに現れるか分からない。20年後かも、30年後かも知れない。それまで待てるのはあなたの様な若い人しかいない。どうかここに病院を建てて、娘を待ち続けてくれませんか。』と強く言われて今日まで来たのです。」そう言いながら周瑯はたちあがり、天井すれすれにある戸棚をあけ、中から骨董品らしきものと藍色をしたペンダントを取り出した。
  そして、「これが、お父上から預かっていた骨董品です。」とテーブルの上においた。高さが10cm程度の金色をした千手観音である。ところどころ金黒化して黒ずんでいるが、「首から上は純金製で、お父上は南宋時代のものだと言われていました。」
  紅蓮は、「四面聖獣銀甕に、金塗りの千手観音か。」と独りごちると同時に、父鉦渓の存在が益々遠くなってゆくような感じがした。
  そして、これまでの状況は把握できたので、こんどはその後について、両親から聞いている話を聞きだしたいと思った。

  「そうですか、きっと父は周瑯さんを信じ、周瑯さんの将来に少しでもお役にたてれば、と思ったのでしょうね。父がそこまでの心の余裕ができていたのを知って、私も大変嬉しく思います。周瑯さん、これからは中国の医療発展のために頑張って下さいね。
  ところで、両親は周瑯さんの所を去るとき今後のことについて何か言ってました? 先ほど、河南の鄭州に行き、夏王朝の発掘をする、と言うようなことを言われてましたが、すぐそこに向うと言っていましたか? また住所や電話番号などの連絡先は何か残して行きませんでしたか?」
  「いえ、その時は、鄭州に行き、夏王朝の発掘をするというのは単なる将来の夢で、すぐには実行するようには見えませんでした。お母上に向って、『では、また渡村にもどるか。』と話しかけられていたので、しばらくはそれまで通り渡村で生活されていたのではないでしょうか。実はそれ以降ご両親からは何の連絡の無いのです。」

  「そうですか、それならば、渡村に行けば消息が分かるかも知れません。明日はそちらへ行ってみようと思います。ところで、いままで全く言いませんでしたが、呉東伝さんのことですが、最近お亡くなりになったのです。」それを聞いた周瑯は感情をそれほど変えず、
  「その話は、私の四川省にいる知人から聞きました。ホータンで薬草を取りに行く途中、交通事故に遭われ、亡くなったそうですね。私も子供の時には本当に世話になったので、その話を聞いた時は本当に涙が出ました。紅蓮さんら薄家の方達も相当親しかったのではないですか?残念でしたよね。なんとなく仙人を感じさせる方でしたよね。」

  「文革の仕打ちから逃れるために私は日本に向ったのですが、導いてくれたのは、東伝さんでした。」
と紅蓮は言いそうになったが、その言葉を呑みこんだ。
  両親がそのことを周瑯に伝えていないことを思い出したからである。その代わり、「その薬草採りには私の婚約者が同乗していたのです。私の婚約者はホータンで医者をしていて、その薬草採りに、たまたま東伝さんが同乗していたのです。」

  「そうでしたか、そこまでは知りませんでした。紅蓮さんは二重の悲しみだったのですね。改めてお悔やみします。」
  「東伝さんは、私達の結婚式の打ち合わせに、私の代わりにホータンに行ったのです。そして、長寿延命に効果があると言われている薬草を式参列者への引き出物にしようと崑崙山の山奥にまで採りに行ったそうなのです。....」
  そう言っているうちに、自分のために大事な人を一度に二人も犠牲にしてしまった悲しみに襲われ、しばらく絶句状態に陥ってしまった。
  それと同時に、自分もそうだが、本当に自分を取り巻く人たちは医療に関係した者たちが多い、これは一体何を意味するのだろう、と思わざるを得なかったのである。そして、中国に滞在するうちに、その答えを見つけなくてはいけない気持ちになっていた。
  そして、渡村へ向う前日、念のため、かつて両親が世話になっていたと思われる船宿へ電話を入れてみた。幸い電話番号は両親が周瑯の所を訪れたときに連絡先を残していってくれていたのである。

電話に出たのは、あの時世話になった舟問屋夫婦の息子であった。
  当然なことであったが、紅蓮がいくら名乗っても埒があかず、受話器の向こうでしきりに首をかしげている様子が手にとるように理解できた。周瑯の様な家族は極めて稀で、生まれる前のことを親から教えてもらっている若者などこの国には居そうもなかった。

両親のどちらかに電話口に出てもらえないかと頼んだが、「すでに、両親は他界している。」とのことだった。
  「それなら、ご存命中に、薄という名前の夫婦がお宅に世話になっていなかったか?」と聞いたところで、やっと手がかり的な情報が得られたのである。
  「そういえば両親が生きていたときに薄夫妻のことを耳にしたことがあります。それに舟番頭をしていた楊さんとは本当に仲良くしていたようでした。
  自分の両親が亡くなってから店をたたむときに、全てを楊さんが面倒を見てくれて、店を整理し終わったあと、薄夫妻のところへ行くといって出てゆきました。楊さんの連絡先だったら分かりますが?去年の丁度今頃だったと思いますが、突然、「洛陽に咲いた牡丹の苗です。」と言って送ってくれたのです。一緒に添えてあった手紙には、「我が家の庭に咲いていた芍薬が懐かしくて送る気になりました。」とありました。確かそこに一緒に、『相変わらず薄夫妻と一緒に石堀の毎日です。』と書かれていたように記憶しています。」
「そうですか、大変ありがたい情報です。もしかしたら25年ぶりに両親に対面できるかもしれません。ありがとうございました。ではすみませんが、楊さんの連絡先教えていただけますか?」

  そして、楊さんの連絡先と念のため、その息子の住所も聞いた。
電話の後、周瑯夫妻には、「大変お世話になりました。両親は鄭州で元気に発掘を仕事なのかボランティアか分かりませんがやって過ごしているようです。ですので、明日早速上海経由で鄭州に向いたいと思います。周さんご夫婦も頑張ってくださいね。」
「分かりました。私どももやっと長年のつかえもとれホッとしたところです。お礼を言わねばならないのは私どもですよ。....   明日渡村まで行かれるかと思い、車をチャーターしておきましたが、行き先を上海の飛行場に変更してもらいましょう。それに航空チケットも今夜中に手配しておきます。」

  それでは申し訳ないと遠慮したが、どうしても引き受けてくれないと困る、というので、言う通りにすることにした。
  部屋を出るとき、周瑯は部屋の片隅にあった牡丹の花を指差し、「あの牡丹は洛陽にいる医師仲間の友人が贈ってくれたものです。牡丹の花は中国のどこにあっても美しい。中国の国花ですからね。紅蓮さんは中国の牡丹ではなくて、日本の桜?あるいは紫陽花ですか?」
  「私は紫陽花の方が好きですが、花に喩えられるほど美しくはないし、若くは有りません。それに娘さんの鴇蕾さんの様に明るくはありませんヨ。」
「娘のは軽率な明るさで誉められたものではありません。もっと分別と思慮に満ちた明るさでないとね。あ、ではここでゆっくりお休み下さい。」
  紅蓮はついていると一日を振り返って、そう思った。両親は存命のようだし明日は25年ぶりの再会が出来そうだし、胸が高鳴ってくる気分でなかなか寝付かれなかった。
                  つづく







2010/12/08 19:46:22|物語
西方流雲88 3)日本人と中国人(10)= 25年の歳月 =
    3)日本人と中国人(10)= 25年の歳月 =
「時間を25年ほど前に戻しましょう。文化大革命が始まった翌年だったと思います。あの頃の若者はみんな純粋で、血気盛んでした。自分も紅衛兵の一員として、何が良くて何が悪いかなどということは考えず、親や先生よりも毛沢東を信じ、行動していたのです。
  その行動規範は、旧思想・旧文化の破棄であり、旧思想に結びつき勝ちな学問の師、旧家の屋主、旧文化の象徴である名所旧跡や文物を次から次へ競ってリストアップしては、我先にと自己批判させたり、吊るし上げたり、破壊したのでした。すでに失敗が発表されていたことを知らず、お宅の白壁に“大躍進”と赤いペンキで塗りたてたのです。その直後は英雄気分でした。
  しかし、近くに居た大人たちに囲まれ、つかまってっしまったのです。その頃のお宅はその界隈では名士でとおっていたので、旧思想・旧文化の破棄という点では格好のターゲットだったのです。」
  「私もあの時のことは鮮明に覚えています。あなたと私の父、東伝さんの三人が家に入ってきて、最初は父も本当に怒っていましたが、怒りが鎮まるにつれ、冷静になり、『周瑯君、何も言わなくちゃ分からないではないか。何か訳があるのだろう。君が自分から進んでやったとは思えない。誰かに言われてやったのかね?』と聞いて、更には、『第一、大躍進万歳なんてのは、古いよ、君。毛沢東が、自ら大躍進は失敗だったと認めているのを知らないのかね?毛沢東が経済音痴と言っている人もいるくらいなのに。やはり、四川からここまでは距離があるんだね。』といったのでしたよね。」
  「そうでした。あの時は、決定的な毛沢東批判を聞き取りした、と有頂天になったものでした。手柄とも言うべき、言質をとったと思いました。一方で、あなたのご一家が、知らされていたほどの利己的な人達では無い様にも感じたのです。あの時は、ふてくされた感情の中にも少しは良心を感じる力もあったのかも知れません。」
  「あのときのあなたの表情は今でも覚えています。私はあなたの表情を見ていて、とてもそんな悪い事をするように思えませんでした。
  あなたの代わりに東伝さんが一生懸命父に詫びていました。そしてその東伝さんが、この私が身につけているペンダントとよく似たものを持っていることを話題に出し、『その二つの関係を、わしが知っているわけではないけど、二つを並べてみると何故か意味ありげに見えてくるのじゃよ。…・』と言ったのをよく覚えています。」
  「そんな話がありましたが、あの時は父のことを侮蔑された様な気持ちになったのが先に立ち、そのペンダントのことを考えるゆとりは全くありませんでした。ところが、あるとき息子も同じものを持っていたので大騒ぎをして以来、あの青い石のペンダントの存在が気になり始めたのです。そして娘も似たものを持つ様になっていたので、東伝さんのあの時の言を思い出し、益々あのペンダントの由縁が気になってきたのです。しかし、話はまた振り出しに戻ってしまい、お父上のお説教が始まったのです。」
  「そうでしたね。父が、『それは周瑯君の叔父さんが、悪い人などと思っている訳ではないのだよ。ただね、扇動されてはいけないのだよ。その運動の根底に何があるか見極めてから賛同したり、拒絶したりするべきなのだよね。
 その判断をするには、多くのことを知らなくてはならないし、経験も必要だ。僕が心配するのは、その様な判断基準を持たない若者をターゲットに、過激な思想や運動が先に支持され、それが中堅年齢層の大人を、吊し上げることによって人々に浸透してゆくことなんだ。』といったのでしたよね。
  その時の話を、日本に逃れ住んでから、東伝さんとよく話題にしたのですが、東伝さんは、『あの言葉は文化大革命をまっこうから批判するもので、後日、父が迫害を受けることになった最大の言質になったのでしょう。』と言っていました。」
  「全くその通りでした。大躍進政策に対する批判と文化大革命批判は二つの大きな言質として自分は使ってしまったのです。しかし、お父上の二つの言葉は、ズシンと胸に残りました。そして、自分の身を案ずることなく、吊るしあげの場でも、勇気をもってご自身の主張を展開されたことを後で同志から聞き、後々お父上を尊敬する原動力になりました。」
  「そうでしたか。ですが私は、その後々のことを誰にも聞いたことがありません。良ければ聞かせていただけませんか?」

  「そうですね、私も本当はそこが一番話したいところなのです。
文化大革命は、吊るし上げ、自己批判、著名な文化人達の自殺などの人間への危害、中国最古の仏教寺院白馬寺の損壊、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓の暴きなどの文化遺産の破壊、孔子の極悪非道人間人格化など、が各地で展開され、紅衛兵の役割の終了に伴う下放なども行われる様になり、ついには内部矛盾があちらこちらに噴出すようになり、10年を経た1978年に終結することになったのです。

  内部から、『指導者が間違って引き起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱である』という見方が芽生え、多くの文革関与者がこの見方を是認するようになったのです。紅衛兵として文革に関与していた自分も次第に、この見方を受け入れる様になり、それとともにお父上のかつての言が心に染みるようになったのです。とくに、薄一家を不幸のどん底に陥れるきっかけを作った張本人が自分であるという自責の念は消えないどころか増長する一方で、気持ちの置き所に困ってしまったのです。
  そして毎日毎日、あの槐の樹のもとに佇み悩み続けていたのです。どの様に、ご一家に謝罪しようか、そればかりを考える毎日になっていました。そしてついに決心する時が来たのです。
「どのようなことだったのでしょうか、周瑯さん。」
              つづく







2010/12/04 0:38:31|旅日記
SAIKAI2010 4)厳島神社

SAIKAI2010
4)厳島神社

厳島神社といえば、平清盛、後白河法皇と連想がつながる。ところが、歴史を辿ると、創建は、推古元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられているということであり、清盛の時代を遡ること500年にもなるのであって、奈良遷都1300年どころか、更に100年古い1410年もの歴史があることになる。

厳島神社ばかりが有名な宮島であるが、案内図を見ると、他にも様々な神社仏閣が混在していることがわかる。わが国では仏教の伝来以降、日本古来の神々と仏を結びつけ、仏や菩薩が人々を救うために様ざまな神の姿をかりて現われるという本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広まり、神仏習合が進展。神の島・宮島でも明治元年の神仏分離令までは、神社と寺院が密接に結びつき、独自の文化を築き上げてきた。この様に宮島の地が紹介されている。


JR広島駅から岩国方面行きの山陽線鈍行にのり25分のところにある宮島口で下車、5分ほど歩いたところにフェリー乗り場があり、そこからフェリーで10分ほど乗って宮島桟橋に着く。フェリーには座席があったが、女子高校生らの団体が座席を占めていた。しばらくすると厳島神社の赤い鳥居が目に入ったフェリーの欄干は写真を撮る人たちで隙間が無い。

このアングルはどのような観光案内にも必ず載っている写真でお馴染みであり、逃してはならないシーンなのである。フェリーも直線的に宮島桟橋をめがけるのではなく、このアングルを多くの人が位置どり出来るような向きをつくりながら、宮島桟橋をめがけているようである。社殿が横に大きく広がっている様子も伺うことが出来、天気が良いこともあり、格好の写真日和で、気持ちの高まりを感じた。その光景は、翼を広げた鳳凰の様に見えた(写真1a)。

間もなく桟橋に着き、そこから、海側に石灯篭が、その反対側に土産物店が並んだ小道を歩き、少し行くと、朱色に彩られた鳥居や厳島神社が現れてくる。すぐ側まで近づくと、朱色に塗られた鳥居が、途中まで海に浸かった姿を見せた。そして岸がわには幾頭かの鹿が寝そべって、時をムシャムシャとむさぼり食っているかのようであった(写真1b)。

そして、その位置から厳島神社のほぼ全景が見えた(写真1c、1d)。朱塗りの本殿、平舞台、高舞台、そして無彩色の能舞台からなる建造物群が大きく横に長く展開している姿が如何にも絵になっている。
 そして、その建造物群に迫っている山並みの中腹には多宝塔までうっすらと見える。そして、国宝厳島と表示された看板がかかった入り口(写真1e)から中へ入っていった。

  内部に入ると横板張りの廊下と朱塗りの柱と白塗りの壁と言うように目出度さ一杯の彩色である(写真2b、2c)。
  「繊細かつ華麗な切妻両流造りで、正面には緑青塗りの引き違いの菱形の格子戸がはめられた本殿には、市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)の宗像三女神が祭られている。屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たず、桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れた寝殿造りならではの様式が特徴」とウェブで紹介されている。

おりしも神前結婚式中であり、神官、巫女らが参列者に向って、御祓いやら、何やら物言いをしていた。外国人観光客にとっては、またとない日本的な場面とばかりに写真を取り捲っていた。
  少し山の上の方を見遣ると多宝塔が見える(写真2a)。そして神社に定番の一対の狛犬(獅子)が海水の浸水を見張るかのように海側を向いて鎮座している(写真2d)。

  多宝塔とは反対の方向に、朱塗りの五重塔が聳えている。和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい塔ではあると紹介されているが、京都や奈良の五重塔の様な荘厳さは感じられなかった。

  普通は“○○の五重塔”と言う様に○○がつき、所属先が簡単に分かるのだが、ここのはよく分からない。「塔内にあった仏像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されました。」とあるので、○○は大願寺だろうか。

よく分からないが、天気が良いので写真映りがすこぶる良かった(写真3a〜3d)。神社の桧皮葺の屋根には白鷺が数羽、陽光を浴び、気持ち良さそうに片足立ちをしていた(写真4a〜4c)。

厳島神社はその庭園が海浜であり(写真4d)、その海浜は潮が満ち干きする。退いているときには、蟹(多分平家蟹)がハサミを持ち上げながら左右に移動していた(写真4e)。

ところで、この厳島神社の名前の由来は何であろうか、最初に文献に現れたのは、811年「日本後記」においてであり、但し、“伊都岐島名神”の名で記されたのらしい。先記した宗像三女神の一神である市杵島姫(いちきしまひめ)との関係が深そうである。
伊都岐とは斎く、心身を清め神に仕えるの意で、伊都岐島とは神の斎き祭られる島の意であるという。宗像三女神(むなかたさんじょじん)は、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の総称である。

また、朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々である。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表している。宗方、宗片は近世になってからか。

また、『日本書紀』には、天照大神が国つくりの前に、宗像三神に「宗像地方から朝鮮半島や支那大陸へつながる海の道に降って、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。
とウィキペディアに紹介されている。

更に、『古事記』では、化生した順に以下の三神としている。
•沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりびめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)
•大島の中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)
•田島の辺津宮(へつみや) - 多岐都比売命(たぎつひめ)
この三社を総称して宗像三社と呼んでいるのだそうだ。

三女神の神名は同じ「日本書紀」、「古事記」の中でも、市杵嶋姫(いちきしまひめ)、瀛津嶋姫(おきつしまひめ)、奥津島比売命(おきつしまひめ)と変遷し、これが、厳島となった可能性が強そうだ。

宗像・厳島系の神社は、日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある。とあるが、逆に大陸からこの経路で日本に渡ってきた渡来人もあったに違いない。
593年といえば、中国では隋、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の時代である。

考えられる経路は、
@青洲→新羅→大宰府→瀬戸内海(厳島)→熊野灘→平城京、
A越州(現在の杭州の近く)→大宰府→瀬戸内海(厳島)→熊野灘→平城京、
B高句麗→敦賀→大宰府→瀬戸内海(厳島)→熊野灘→平城京、C徐州→大宰府→瀬戸内海(厳島)→熊野灘→平城京、
D明州→奄美→坊津→(陸路)→大宰府→瀬戸内海(厳島)→熊野灘→平城京、
E高句麗(後渤海)→敦賀→(陸路)→畿内、または伊勢であり、大宰府から熊野灘→平城京にいたる途中、殆どの場合、瀬戸内海(厳島)を経てゆく。

この様な航路は一朝一夕に出来るものではなく、試行錯誤を重ねて安全を確認しながら造られるものである。海岸線に近いほど波は穏やかなので、宮島は弥山など目印になる小高い山もあり、正に最適な寄港地であったに違いない。

以上、宮島(厳島)はついでに観光したとは言え、世界遺産に恥じない名所旧跡がふんだんにあるロマン豊かな地と感じられた。今回は、厳島神社を中心に、その近傍の多宝塔、五重塔、千畳閣(豊国神社)といった名所のみを回ったが、再度宮島を訪問し、弥山に登り、東西南北を見回してみたいものだ。
                        完