槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2011/10/13 1:45:51|物語
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    ホータンヘ その2

 水餃子を10個ほど頬張った時、次第に目の前が暗くなってゆくことに気がついた。そして一人の白髪の男性の腕を取って、どこかへ案内している自分が見えた。その男性の5m程後ろには華奢で小柄で、こちらも白髪の老夫人が、その男性の分の荷物を肩にし、キャスター付きのサムソナイトを渾身の力を使って付き従っている。
 その二人はおそらく夫婦だろうということが推測できても、この夫婦が誰で、自分はどこへ、どの様な理由で彼らを案内しようとしているのか皆目見当が着かない。
 ただはっきりと目に映っているのは老婦人が運んでいるサムソナイトに大きくはっきりと紅蓮と同じ苗字の“薄”という文字である。
 とすると彼らは自分の両親と言うことになるが、父親はこの白髪の老人の様に目が見えないということは無かったし、母親は白髪頭ではあったが、もっと大柄な筈であった。
 不思議なのは、どんな時でもその老婦人は5mよりは近づこうとはせず、男性に気づかれない様にしている様で、男性の方は後ろから、老婦人が付いてきていることに気がついていないようなのである。
 彼らは洛陽と西安の間を歩いている積りらしい。時折、槐の大樹に出会うが、そのたびごとに老人は、その大樹の太い幹に手の平を合わせ何かつぶやいたあと、懐から中国へきてから買ったと思われるカッターを取り出し、何かの印を切り刻んでいる。
 すると槐の大樹はまるで生き物のようにザワザワザワと揺れて、「ジャーヨウ」と言っているようだった。
 紅蓮が近づいた時に、その印をみると、いつぞや東伝とともに、京都の仁和寺の金堂を訪れた時に金堂の軒丸瓦に刻まれた文字と同じであることに気が付いた。
あの時、東伝は、
 「あの軒丸瓦は大変珍しく、普通は菊紋とか卍紋とは巴紋と言った回転対称紋が普通なのだけれど、あの軒丸瓦に刻まれた文様は、ハスとその上に種子(シュジ)という梵字が刻まれていて日本の寺院では大変珍しいのだよ、あれはたった一文字で阿弥陀如来を意味し、キリークと読むのだそうだ。種子には干支との関係もあり、戌年が対応するのだそうだよ。大日如来、薬師如来から殆ど全ての菩薩、天、明王らの仏が対応する種子を持っていて、この金堂は阿弥陀三尊を祀っているので、キリークなる一文字梵字が来編まれているのだろうね。」
と言っていたのを思い出した。

 その老人が槐の大樹に出会う毎に刻みこんでいるのは、そのキリークという一文字なのであった。
 刻みをいれた槐の大樹から離れたあと、今度は老婦人がそこに近づいてはデジカメを取り出し写真を取る。その度に再度槐がザワザワザワとザワつくので、男性が紅蓮に手を引かれながら、「何故槐と言う樹は二度ザワつくのかね?」と紅蓮に尋ねたことがあった。しかし、紅蓮は、後ろから老婦人が付き従っていることを伝えず、「不思議ですね。」と答えるだけであった。
 その老婦人の所作が、何かの償いをしている所作にしか見えなかったので、何か二人の間には触れてはならない事情があると察していたためにそういう言葉でしか答えられなかったのであろう。

 49本目の槐の大樹が前方に確認できた時、その大樹の下になんとホータンで亡くなった筈の東伝が大きく手を振っているのが認められた。
 老人の手を引いているので急ぐことは出来ず、近づいている筈なのに、何故か姿は小さくなってゆくのである。
そして49本目の槐に更に近づくと、今度は急に迫ってくるようになり、その人の輪郭がハッキリしてきたが、東伝ではなく、顔はシワがあ深く刻まれた赤銅色、白髪千丈、さらに白髭は地面まで達している。いつか夢に見た崑崙の仙人に間違いなかった。

 しかし紅蓮は、このことだけは盲目の老人に伝えた。もしかしたらこの老人たちは、崑崙の仙人に会う目的で西方に旅をしているのかも知れないと、一瞬そう思ったからである。
 紅蓮はいまだに彼らの西方に向かう目的が何であるか分からないでいた。ただこの老いた男性が不思議な感覚を持っていることが分かってきた。
 歩いていて突然立ち止まり目が見えないはずなのに空を見上げるのであった。そして見上げた先には必ず西の方角に流れてゆく一片の流雲があるのである。
 流雲は西方以外の方角にも流れてゆくが、そういう流雲には一切見上げることをしないのである。
 西方流雲のみに関心があり、目に見える様である。見方によっては、手を曳いて導いているのは、紅蓮でありながら、実際にこの老いた男性を導いているのはあの西方流雲ではないかと感じるのであった。あの西方流雲には阿弥陀仏が載っていて、この老いた老人を導いている様な感覚に陥ることが多くなってきた。

 遠くで、「シーシャマ、シーシャマ」という若い女性の中国語が耳に聞こえた。そして次の瞬間、ドスンと言う音がした。紅蓮は居眠りをしていて、その音によって、眠りから覚めたのであった。
 今車輪が出たところで、間もなく着陸する模様である。
そういえば、この便は敦煌空港経由で、先ほどの女性の声が、そこに着陸する直前であることを告げる機内放送であることがすぐわかった。
 敦煌空港経由は給油が目的の様で、2時間程待機し、また同じ航空機に搭乗してウルムチに向かうことになっていた。敦煌は日本人にとって人気の観光地の様で、多くの日本人観光客が降機した。給油だけが目的ではないことが分かった。

 紅蓮は、中国が自分の生まれた国でも、知っているのは江南のみで、しかもそのうちの蘇州だけであり、今回の旅で、これほど広大な国とは思いもしなかった。

 そして、紅蓮が世話になっている喫茶店に来た客が、「国の広さと人間の命の価値は反比例しているのです。」と言っていたことを思い出した。
 その客が再訪したら、「どうしてですか?」と聞いてみたかったが、その客とは会えずに今日まで来てしまっている。
「それなら、アメリカやソ連、オーストラリアでも人間の命の価値は低いのだろうか」と聞いてみようと思っていたのである。
 中国は果たして人間の命の価値は低いのだろうか。人間の命の価値はどの様な方法で評価するのであろうか?死亡率の高さだろうか、死刑の執行率の高さだろうか、平均寿命の低さだろうか、人為的に一方の論理で他方を安易に殺戮することが許されることの多さだろうか。
 戦争はまさに、その通りで、戦争で敵を殺戮しても殺人とはされない。何故こんなことを考え込んでいるのか、そうしている自分を持て余しながら待機ロビーへの通路を航空会社の係員に導かれて歩いていた。待機ロビーに腰を掛けたら、今度は機中での夢の内容を反芻していた。

    ... 続く ・・・







2011/10/10 17:56:53|物語
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 紅蓮は蔡 梅里とともにドアの方へ向かった。ドアが開き、三人の顔が暗闇の中に浮かんだ。

 あの時の両親の顔を機中で思いだしていた。親子の25年ぶりの再会にしては一緒にいた時間が少なすぎたかも知れないと、機窓に映る自分の顔をみつめながら後悔していた。
 両親は今度は日本で再会しようと言ってくれたが、実際よりも10歳以上老けてしまった両親にその様なチャンスがあってくれればよいが、今回の再会が最後になるのではないかと、不吉な思いがしないでもなかった。

「一度うちの中におあがりください。」と一行を促した。
紅蓮が、肯きを繰り返し両親の手を取った。楊さんは、
「運転手に30分程待機してもらうよう伝えてきます。」と言って暗闇に消えた。
 蘇州で別離して以来、両親は一途に娘のことを思い続けてきてくれたということが、身に染みるほど分かったが、果たして自分の両親を思う気持ちはどの程度一途さがあっただろうか。そういう自分を見つめてみると自分の孝の薄さが恥ずかしくなる紅蓮であった。

 あの時、母蕾蓮は飛びつくように抱きついてきた
 両親の手はこんなに小さく硬くシワが多かったかと思えた。しかし、この手は確実に両親の手なのであって、この25年の間の変化なのだ。生きていてくれて良かった、と思った途端に止めどもなく涙が溢れだした。
 25年の歳月が霧散した感じがした。
紅蓮は鄭州発ウルムチ行の飛行機の中で、窓外の黄河を見つめながら、一瞬のうちに済んだ両親との再会の24時間を思い出していた。
そして膝の上には、紅蓮が睡眠をとっていた間にも、寝ずに両親で作ったという水餃子が載っていた。親は自分の子の為にはどのような犠牲をも厭わないのかも知れない。自分はまだ人の親になっていないので分からないが、きっとそうなのであろう。紅蓮と東伝がまだ神戸にいた頃ラジオで耳にした、仏教の話を思い出した。
「遠行憶念の恩」というのが心に残りいまだに記憶している。「子供が遠くへ行けば行くほど、親の心配は募ります。衣・食・住のことから、友だちの心配、学業のこと、仕事のこと、健康のこと、そして経済状態。とにかく身の回りのことすべてが気になります。若し子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りても之れを憶い、寝ても寤めても之れを憂う、 というのが遠行憶念の恩。
 「若し子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りても之れを憶い、寝ても寤めても之れを憂う」
そして次に「究竟憐愍の恩」というのを覚えていた。「親は七十、八十の老境に入っても子供をあわれみ、慈しむ。その情は終生絶える間もなく、あたかも影の形に添うがごとく、親の心は子供から離れることはないのです。己生ある間は、子の身に代らんことを念い、己死に去りて後には、子の身を護らんことを願う。」だったと記憶している。
 24時間の間の両親はまさしくそれを体現しているかの様であった。水餃子を口に含むと同時に涙が止めどもなくながれ、どの様な思いでこの餃子の皮を合わせたのだろう。水餃子は25個も入っていた。食べきれないと最初は断ったが、水餃子1個分が離れ離れになってからの一年分で合計25年分で25個になったという父鉦渓の話を聞いた時には、自分のこれまでの25年間を食べながらかみしめてみようと言う気になり、ずっしりと重みのある水餃子
弁当を受け取った。
 
 かつて一家全員が蘇州に平穏な毎日を過ごしていた時、紅蓮が優秀な成績を家に持ち帰った時、父鉦渓はよく、自作の賞状を紅蓮に授与してくれたことがあったが、水餃子弁当を手渡してくれた手つきはまさしくそれだった。

水餃子を10個ほど頬張った時、次第に目の前が暗くなってゆくことに気がついた。

    >>> つづく <<<







2011/09/19 17:05:56|旅日記
山口 美濃が浜散歩

美濃ケ浜散歩
7月28日、山口大学への用件を済ませ、その日は新山口のホテル
に宿泊し、翌日美濃ケ浜を目指すことにしていた。
 当初は萩を訪問しようかと思っていたが、山口宇部空港から29日の羽田行きの便で帰ることにしていたので、交通の便が上手くゆかず、代替の地として浮上した地だった。
 ウェブで検索しても、ヒットする件数は少なく、その地の歴史に触れたものなど一件も無かった。

 美濃ケ浜は瀬戸内海に突き出た岩屋の鼻という岬の付け根を少し南下したところにある。近くに阿知須という地名があることが、自分にとって美濃ケ浜を魅力的にしていた。

 阿知使主を連想させる地名であり、渡来人の停留地の様な感じがするのである。阿知使主は中国後漢最後の皇帝、霊帝の子孫、そしてその末裔には坂上田村麻呂がいることが有名で、日本にモノづくり文化を伝えた人物とも言われている。

 新山口のホテルにチェックインする際に受付嬢に、美濃ケ浜に行くのにはどうしたら良いか聞いてみたが、その場では受付カウンターに詰めていた人誰も知らず、後で、ウェブで調べたのか電話で連絡してくれた。同県内の人でもこの程度なので、他府県の住人が知る由もない。調べてくれたデータをカウンターまで、取りに行った。
 データは、防長バス路線図と各停留所の通過時刻表だった。行き先が、新山口⇒名田島⇒二島⇒秋穂(アイホ)の路線で、長浜入口、潮寿荘入口、潮寿荘の3停留所名のところにマーカ―が塗られていて、「いづれかで降りて、後は歩いてゆけば良い」と教えてくれた。
 午前中は7:30、10:00、10:02の3本だけであり、10:00
の便を利用することにした。長浜入口/潮寿荘入口間がバスで3分、潮寿荘入口/潮寿荘間が2分なので歩いてもたいした距離ではなかろうとたかをくくった。
 この炎天下、直射を避けるための帽子がないと日射病になる恐れを感じ、乗車予定のバス停から500m程離れたところにあるスーパーマーケットで105円の帽子を買った。バス停に戻る時、正面に新山口の駅が見えた。

 その新山口駅の姿を遮断する様に、傘を被った巨大な徳利のモニュメントが据え置かれている(写真1)。そして徳利には「おごおり 種田山頭火 其中庵」とあった。駅名は新山口であるが、地名は、山口市小郡なのであり、種田山頭火は、さすらいの旅を続け、質の高い自由律俳句を作りつづけた俳人で「昭和の芭蕉」といわれた人である。生誕月日が自分と同じ12月3日と言うこともあり以前から親しみを感じていた。

 家業の造り酒屋を破産させてしまうほど、酒癖が悪く、家庭環境も、父、母、弟が自殺するなど暗く、自身も、離婚、東京への出奔、関東大震災との遭遇、元妻の実家への逃避行、そして自身も生活苦を理由に自殺を図ったが、熊本市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に助けられ寺男となった。
 以降俳句の旅をし、一時ここ小郡に住み付き、住居を其中庵と名づけたのだ。俳句は575から外れた自由韻律の句が多く、究極の孤独感、絶望感、寂寞感、悲痛感を感じる。究極には至らないとしても同種の負の感情は誰でも持ち合わせたり、体験しているので、山頭火を自分のどん底の心情を代弁してくれている俳聖とたたえるのだと思わざるを得ない。
• 酔うてこほろぎと寝ていたよ
• 鴉啼いてわたしも一人
• 鈴をふりふりお四国の土になるべく
• 霧島は霧にかくれて赤とんぼ
• まつすぐな道でさみしい
• また見ることもない山が遠ざかる
• 分け入つても分け入つても青い山
• 鉄鉢の中へも霰
• 生死の中の雪ふりしきる
• おちついて死ねそうな草萌ゆる

 30分ほどバスに揺られているうちに潮寿荘入口に着いた、30分と言っても、都会の30分とは異なり、乗降客は少なく、また信号も少なく渋滞が無いので、乗車距離は結構ある。運賃600円余りを払いタラップを降りた途端、潮の香りが鼻腔を刺激した。また耳には、潮騒の代わりに騒がしい蝉の鳴き声が入ってきた。関東ではあまり聞かない鳴き音である。海岸の方へ歩いてゆく途中、蟹をゆでている工場があり、ゆでた時の水蒸気が漂い独特な香りがしてきた。数分歩くと瀬戸内海と漁舟が停泊する護岸が見えた(写真2)。

 更に海岸に沿って歩くと、山口県水産研究センターの白い建物が目に入り、そこをやり過ごししばらく歩くと、道路と海岸の境界に、白やピンクの夾竹桃の花樹が目立つようになった(写真3)。葉は竹に似て花は桃に似ていることからこの名がづけられたのだそうだが、毒を持っていることでも有名だ。救心剤としても使われるのはトリカブトと同じである。きれいな花には毒があるので、気をつけなければいけない。
 道路は舗装されているが、時々、小型トラックと行き交うものの、歩行者には全く会わない。炎天の為か、もともと人口が少ないためかは分からない。時々、波打ち際が、その道路に迫ってくる。波打ち際には大きな岩のかけらがゴロゴロと転がっている(写真4)。そして目を彼方に移すと、沖合に大きなタンカーがゆるりと運行しているのが見える(写真5)。小舟で一人で漁をしているのも見える。波は静かで、眠くなりそうな光景である。更に歩くとその道路は海岸線から離れてゆく。
 時々、目を内陸側にうつすと、岩づらを露出させた館の様な光景が繰り返し現れる(写真6)。地名の岩屋がぴったりの光景である。緩いのぼり坂を上りきると、遠方に海岸線が見えた。多分あれが美濃が浜に違いないと思った途端に歩が早まった。緩い下り坂をしばらく歩くと左折路があり、その道に入るところに、通行人を睨むかのように威嚇し、阿吽の形相をしている石製の一対の仁王像に出くわした(写真7)。
 左折路の奥に寺でもあるのだろうか。帰途確認することにして先を急いだ。道路沿いには低木の茂みがあり、部分的に葉を赤くした低木(写真8)や、可憐な花をつけた名前知らずの花に出会う(写真9)。更に歩くと、それらしき美濃が浜の浜辺が現れた(写真10)。浜辺というより、コンクリート製の石段となった観覧席である。

 何を観覧するのだろうか、砂浜はあるが、人影は全く見られない。花火大会には良いかも知れない。石段に沿って、歩くと、美濃が浜近辺の地図が書かれた看板が目に入った(写真11)。
 その看板がある位置にT字状に海岸から離れる方向に入りこむ道路が見えた。目を凝らしてみると、鳥居の様なものが見えた。公衆トイレもある様なので、歩いて行くと、石鳥居に金刀比羅宮と刻まれているのが見えた(写真12)。

 金刀比羅宮は琴平宮、金毘羅宮とも言われ、北は北海道から南は九州まで広く、日本全国に600社もある。海上交通の守り神として信仰されており、現在も漁師、船員など海事関係者の崇敬を集めていることが、ここに建てられている理由であろう。ささやかな建造物は全て石造りであり、模型の様な小さな飾りものという感じであった。石製の社の模型が三体並び置かれている(写真13)が、様式は大陸風であり、渡来文化の香りがした。その香りを求めてここまで来たという思いもあるので、考えすぎかも知れない。申し訳無げに、槿の白い花が咲いていた。
 
 海岸線に戻り、一服を決め、帽子、メガネ、ウェストバッグを外し、アンダーシャツ一枚になり、海に向かった。そうでもしないとこの炎天は我慢しきれない。海風が心地良かった。持っていたペットボトルが空になるまで1時間くらいはあっただろうか。汗ばんだシャツが炎天と海風によってすっかり乾いたので、それらを身につけ帰途に就くことにした。

 帰途、先ほどの仁王像のあるところを入って行ったが、立派な漆黒の瓦屋根が葺かれた建物を見つけたが、カーテンがかかっていて人がいそうにない。人が居れば、仁王像の謂れを聞くのだったが、ついに人っ子一人出会わなかった。諦めて来た道を戻ることにした。

 ホテルでもらった時刻表を見ると、丁度ピッタリで間に合いそうである。長浜入口という停留所について時刻表を見るとまだ15分ほど早かった。停留場のすぐそばの雑貨屋でアイスクリームを2個買って食べながら、バスを待った。

 バス停の周りを見渡すと、個人住宅があり、その門前にキリギリスの置物が飾られていることに気がついた(写真14)。どの様な意味をもっているのか分からなかったが、お盆と関係しているのではないかという勝手な想像で、結論づけ、視野を遠くに移した。まるで古墳の様な低い山が連なり、その手前に縄文人または弥生人が住み着きそうな緑野が目に入った。(写真15)。まほろば、という言葉が頭に浮かんだ。奈良の飛鳥
東北の大湯縄文遺跡の雰囲気に似ていた。

 間もなく時間通りに来たバスに乗り、新山口に向かった。そこから更に、空港直通バスにのり山口宇部空港へ。そして時間がまだ十分残っていたので、空港内のレストランで海の方に目を遣りながら、時間潰しをした、瀬戸内のけだるそうな海が浮かんでいた(写真16)。
        おわり







2011/04/30 20:07:42|写真つれづれ
桜と種子(シュジ) 3)稲荷山公園
桜と種子(シュジ) 3)稲荷山公園

  前回、ここを訪れたのは2008年であり、3年前のことであった。前回も風が強く、しかも満開の時期を過ぎていたので桜吹雪の見事さに我を忘れた。今回は例年であればとっくに散り終わっている頃だが、わずかに満開を過ぎた程度で、たっぷりと桜の花ビラは残っていた。従って、桜吹雪は猛烈で、横なぐりの桜吹雪と言っても良いくらいの猛烈なものであった。
  稲荷山公園は、起伏が多く風の吹き方は複雑で、場所によっては、運が良いとミニ桜竜巻が見れる。動画を取り損ね、しばらく待機していたが、再現はなかなかしてくれなかった。

  つむじ風 花渦流(はなうずりゅう)を もういちど

園内の道路は上に凸の丸みを帯びていて道路の両端には散り落ちた花びらが堆積し、花絨毯そのものであり、ふわふわと緩衝材が靴裏に敷き詰められているようだ。

  路覆う 花絨毯上は 緩く踏み

帰路、再び入間川堤の今度は中橋の西側を見物した。桜の枝先は更に川面に近く伸びていて、視線を川面に注ぐと、川面を花びらが多いながら川下に流れてゆくのが見えた。

  舞い落ちて 川面覆うな 桜花片

桜吹雪⇒川の流れ⇒輪廻⇒転生⇒種子(シュジ)と、連想の域は拡がる一方であった。来年の桜を見る頃は東日本はどのくらい復興しているだろうか



  







2011/04/30 16:25:27|写真つれづれ
桜と種子(シュジ) 2)入間川堤
桜と種子(シュジ) 2)入間川堤

  西武池袋線仏子駅を降りて10分足らずで入間川に架かる中橋に至る。その中橋を挟んだ東側にも西側にも見事な桜堤がある。野田モールの少し向こうにある鉄階段を下りると、すぐ東北側の堤に至る。対岸には見事な桜ベルトが見えるが平日故人出は少ない。
  こちら側の堤では、中高年女性のグループが一組だけ宴を開いていた。自分と同じくらいの歳かさの様だ。風が強く背後から吹き付ける風に花びらが舞い、桜吹雪そのものである。
  長く伸びた枝先は今にも川面に届きそうになっている。その川面には花びらが浮き流されていて、淀んでは流れ、流れては淀んでいる。

  桜を見ると悲しい気分となる、という人がいる。  

  古くから桜は、諸行無常といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象となって来たからであろうか。日本人にとって桜が精神社会に及ぼす影響は大きい。開花して三分咲から五分咲、更に七分咲から満開、ここまでは上昇機運、しかし、その後の散華からは、祭りの後同様なぜか寂しくなる。その過程は輪廻を思わす。
  上記一文をWikipediaで目にした瞬間、仏教用語としての「種子(シュジ)の意味が分かったような感じがした。