日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)
2) 南陽市 張衡墓園
実質的な旅行第一日目で、朝9:00の遅めの出発だった。北京発鄭州行きの便が、鄭州空港に到着したのが24:30を過ぎていて、ホテルに着いたのが25:00を過ぎていたためである。朝食は持参したカロリーメイトを食べた。
一週間行動をともにする日本語現地ガイドは牛潞(ニュウルー)さん、運転手は王晨光(ワンチェンウォン)さん。後で、分かったことだが、牛潞さんは独身で交際中の女性がいる。また、王さんは22歳の既婚で、すでに二人の子がいて奥さんは鄭州で服飾関係の仕事をしている、とのことだった。
車は白の「瑞風」現代自動車との合弁製のバンであり、車内は広く、ゆったり寛げそうだ。終わってみれば計2200kmの移動であったが、その間一度も車の故障は無かった。 4/29(日)、目指すは河南省南部にある南陽市である。鄭州市から高速道路で、許昌市を経て、持参した河南省地図には点線で襄城、叶県、旧県、保安、方城を結び、方城で既設高速道に接続される新しい高速道路とのことであった。
鄭州での最近の名所という位置づけの中原福塔(http://zhongyuanfuta.com/)を左手に見て(写真1-1a)、一路南へ。相変わらず高層ビルの建築ラッシュである(写真1-1b)。日曜日なので通勤ラッシュはないが、行楽シーズンであることには中国も変わらない。4月29日~5月1日までの3日間はメーデー期間で連休であり、行楽地に向かう人、鄭州から故郷へ帰郷する人で混んでいるとのことである(写真1-1c)。
高速道路に入ってから間もなく給油の為、サービスエリア(写真1-1d)に入る。ガソリン代は8元/リットルであり、日本円で100円/リットルは日本よりは安い。高速道路には最高速度がレーンによるが、120km/hで最低速度も60km/hと制限されている。
分岐通過点の許昌は三国志には頻繁に出てくる地名で、Wikipediaによると「後漢末の196年、曹操が献帝を奉じてここに洛陽(雒陽)・長安から都を遷したことで有名。遷都の理由は洛陽が戦乱で荒廃していたのと、この地域が曹操の勢力圏だったからと考えられている。
許昌には献帝の皇后伏氏(伏完の娘)の陵墓や後漢末の都市遺跡があり、歴史学上も重要な都市である。」と紹介されている。三国志の時代には甲冑で身を固め、騎馬で、あるいは徒歩で、この地を右往左往したのかも、と想像することは感慨深いものがある。何分自分の三国志読書歴は吉川英治に始まって、伴野朗「呉・三国志 長江燃ゆ」、北方謙三、宮城谷昌光、羅貫中で、最後の二者の小説はまだ読んでいる最中である。
ところで、本旅行中に最初から最後まで付き添ってくれたのが、一体の仏像のミニチュアモデルと吊り下げられた飾りであり(写真1-2a)、仏像はどの様な激しい揺れにも微動だにせず、一方の飾りは車の揺れに反応し、悪路のバロメータとなった。ところで、この仏像こちらを向いてて良いのだろうか。乗車している人たちを守るつもりなら、進行方向を向くべきではないのか、「福」という文字でも逆さにして飾るのに、などとくだらないことが頭をよぎった。
高速道路に沿ってポプラが植樹されていて、ポプラ列が途切れると、その間から広々と展開し、青々と繁った麦畑が目に入る。まだ変色はしていないが、立派な穂をたたえている。二期作でもうすぐ麦色に変色し、取り入れがされるとのこと。鄭州を出発し約3時間して南陽に着いた(写真1-2b)。
現地時間で12:30を過ぎていたので、早速昼食をとることになった。緑豆スープや、落花生を油で炒めたもの、炒飯などで、南陽料理ということだったが、中国料理独特の違和感のある味がなく、非常においしいものだった。
三人一緒の食事は最後まで同じであったが、運転手の王さんは、最初に3人分の取り皿を熱湯で消毒してくれる気遣いぶり、これまで中国を何度も三人のクルーで旅行しているが、こんな気遣いは初めてであった。
しかしレストランのトイレの不衛生は相変わらずである。そのようなことを気にしていたら、中国のオーダーメイドの旅は出来ないのであり、気にしてはならない、と自分に言い聞かせるしか無い。
最初に目指すのは、今回の旅行の目玉の張衡墓園である。辿り着くまでの道路は道幅は広いが、凄まじい悪路で、凸凹と煙幕の様に視界を遮る土埃に閉口した(写真1-2c)。その土埃が舞う凸凹道を二人乗りのオートバイや自転車を追いつ追われつしながら、何とか悪路を通り抜けた。
ところが、通行人に張衡墓園への道を尋ねてみると(写真1-2d)、どうも曲がるべきポイントを通り過ぎてしまったようで、来た道を戻ることに。きっと、猛烈な土埃で、行き先表示が見えなかったのだろう。ようやく今度は案内表示が見え、そこを左折し、少しすると、左手に張衡墓園の門扉が現れた(写真1-3a)。
しかし、5/1までは工事中であり、開館していないことが分かった。確かに工事作業員が出入りするわずかな隙間から中を伺うと、工事中の渾天儀(写真1-3b)と、その周りにたむろしている作業員らしきが目に入った。
今回の旅行の一番の目玉なのにと思いながら、少し離れたところに、大きな案内板(写真1-3c)があるのをみつけ、それによって、ここへきて初めて知ることができた、といえる張衡情報を仕入れようと思った。情けない話であった。
よく見ると、一村二国宝なる標語の下に世界で最初に発明された地震計の図と小石橋村の文字の下に渾天儀、更にそれらの下に「南都賦」の文、そして、全体の左側に鄂城寺隋塔なる七重塔の絵があった。張衡との関係等を旅行後に調べてみたら次の様なことが分かった。
張衡が、《東京賦》、《西京賦》の《二京賦》の作者であることは事前調査で分かっていたが、南都賦というのは何であろうか。東京賦が洛陽、西京賦が西安、南都賦が南陽ということだろうか。
門前の方に戻ると、運転手の王さんが交渉してくれたのか、墓園の中に入れることになった。
先ず現れたのが、中国で歴史上有名な科学者の似顔絵と業績が彫られた石碑列であり、最初の石碑(写真1-3d)には、『世界に注目された中国の科学者達』という表題の下に、『中国は世界4大文明国の一つであり、長い歴史に、各民族が高い智慧と創造力で、世界の文明と科学技術の発展に貢献した。世界の科学技術史に重用的な位置を占めている。
中国では古代から科学技術者が次々と現れて尽きることが無かった。彼らの発明などは、中国の科学文化に重大な貢献してきた。世界の科学文化発展にいつまでも残る業績である。』と刻み込まれている。
そして、そのあと紀元前4世紀の斉の天文学者甘徳(写真1-4a)に始まって、現代数学家の陳景潤に至る計29名の石碑であった。時代別には、春秋戦国時代3名、前後漢3名、三国志時代1名、魏晋南北朝時代2名、北魏時代2名、唐時代1名、北宋時代4名、南宋時代1名、元時代2名、明時代3名、現代6名となっている。 分野別には天文学6名、地理学3名、発明家3名、科学者6名、数学家4名、水利家2名、建築2名、現代物理学3名となっていた。
これに加わる張衡は東漢の天文家、数学家、発明家、地理学者、製図学者、詩人となっている。特に、地震計、水力渾天儀の発明は有名でその才能はダヴィンチに似ていて、その他天文と暦法では《霊憲》、《霊憲図》、《渾天儀図注》、《算罔論》を書いている。《後漢書張衡伝》には非常に詳しい記録がある、とのことである。
29人の中の一行(唐)、馬鈞(三国時代)、蘇頌、畢昇、沈括は知名度が高い様だ。張衡の地震計と渾天儀、一行(写真1-4b)の天文時計、蘇頌(写真1-4c)の水運偽象台、馬鈞(写真1-4d)の指南車、沈括(写真1-4e)の科学技術書「夢渓筆談」の著作、この著書には、畢昇(写真1-4f)の活字印刷、指南針(磁石)、河川の閘門、製鋼法、音響、音律の理論や振動に関して基音と倍音との共振現象の実験をしたり、化石による古代地層の推定、「石油」の命名などが記載されていて、中国の科学技術史では最重要書のひとつとされているようだ。 ----つづく----