槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2012/06/16 13:46:20|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--4--

日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--4--


南陽 光武帝故里


   南陽は光武帝劉秀の出身地でもある。光武帝という名前自体劇画的であり、その偉大さの割には自分の中では知名度がないというのは、これまでこの人物を取り上げた小説が無かったためかも知れない。


   光武帝故里は余程注意深く気と目を配らないと通り過ぎてしまうような田舎の片隅にあった。


   確かに「漢光武帝故里碑」と刻まれた石碑はあったが、あまりにも野放図に建てられていて、しかもあまり清潔とは言いかねる一角に建っていた(写真3-1a)。   石碑に刻まれた文字は目立たず、余程近くに行って一生懸命みないとなんと書いてあるか分からない程である。


   それでは、あまりにひどいと誰かが思ったのであろう、もう一つ石碑があり、そちらの方は少し離れたところからみても「光武帝故里碑」と刻まれた石碑があり、さらに、その隣に、ご丁寧に「貴人郷碑」と刻まれた石碑もあった(写真3-1b)。


   地元の人も、そこが光武帝劉秀の出身地だということを気にしていない風である。   近くで二匹の子犬が戯れていた(写真3-1c)中国人にとって、育った地より活躍した地の方が重要なのかも知れない。


  初日の予定はこれで全て終わった。ホテルのある南陽市街地に戻るときに高速道路から撮った落陽は(写真3-1d)現地時間でPM7時に近かった。


           ----つづく ----








2012/06/13 21:03:11|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--3--

日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)


 3)中国のモノづくり文化考


  今回の中国旅行は、河南省鄭州、南陽、三門峡を結ぶトライアングルゾーンであるが、その地域を選んだ理由は、日本の、場合によっては世界のモノづくり文化の原点がこのあたりにあるのではないかと思ったからである。


   ジョセフ・ニーダムによる科学技術に関する西欧と中国とのレベル比較で、「ニーダム線図」と言うのがあるが、それによると、中国は古代から中世まで科学技術で世界をリードしていた、ということになる。


  その理由として、墨子の技術と技術思想を集約した「墨経」と、「周礼考工記」と呼ばれる世界最古の技術書の存在に結びつけられると言っても良いのではないか。


   墨家の思想の核心は、尚賢(能力主義)、非攻(専守防衛)、兼愛(博愛)である。謀略と戦乱が相次ぐ戦国の世で弱小国がとるべき道は非攻しかない。その為には優秀な兵器や橋などの製造、建設技術が必要で、その為には、物理、光学、機械学の広い知識が必要となる。「墨経」には、運動と静止、力の合成や重心についての記載がある。


   一方「周礼考工記」には、科学や技術を統括する官庁が置かれ、政府所管の各種工作技術者(工人)の職務と武器、車輿、宮室、礼器の規格や製造工程が詳記されていた。 この様な官僚組織は初期においては国家による優れた人材の結集、ならびに科学・技術の振興と維持という良い面が出て、世界でも最高の科学や技術が沢山中国で生まれた、と三輪修三氏は著書「工学の歴史」で紹介している。


   また、「周礼考工記」には巻頭で、人間の技術だけを優先させず、風土、自然環境との調和を重んじる態度が見られるとも紹介している。


   ついでながら、自分の考えでは科学技術は衣食住を安心、安全、安楽にする技術と、専守防衛用を含めた兵器技術の必要性に基づいて発達するという見方をしているのである。 南陽は後漢(東漢)を作った光武帝こと劉秀の出身地でもある。劉秀が光武帝になりえたのは昆陽の戦いで、100万の王莽軍をその21分の1の勢力で勝利を収めたことである。 そして、勝利を得ることのできた理由は、当時の最新鋭兵器の連弩(れんど)を駆使したことが寄与したのではなかろうか。 塚本青史著の「光武帝」を読むとそんな感じがしてくる。 


  矢を自動の無限装填機構によって連射出来るように、あるいは一度に複数の矢を発射できるように改良した弩の事を連弩(れんど)(図2-1a)と呼ぶ。 


  連弩は戦国時代(紀元前5-3世紀)には既に存在しており、18本の矢を装填し、2本同時に発射可能なものが楚人の墓地から発掘されている。 漢代でも改良は続けられ、三国志中には諸葛亮がそれを改良して元戎(げんじゅう)を作ったとする記述がある。


  南陽に臥龍県という地名があり(後出)、隠遁の地とされているが、武器製造の技術を発展させる風土が古くからこの地にあったような感じがしている。


   衣食住の“衣”に関しては織物技術が、“食“に関しては食を盛ったり、保存する皿や甕瓶となる窯業技術が、”住“に関しては煉瓦造りの住居建築技術が、また安全に関しては水害対策としての治水技術がこの地、河南の三角地帯に凝集しているように思うのである。


  そして、倭国との技術交流も後漢時代にはじまったのではないか。そんなことを考えながら、円形に盛り土された張衡墓(写真2-1b)の周囲を一周した。


   墓を覆うように、日本では檜(ヒノキ)と呼ばれている柏(カシワ)が繁茂していて、それをかき分けるように石碑(写真2-1c)、石祠(写真2-1d)、丸門(写真2-1e)などが点在している。


  「張衡生平成就展」と出入り口の額に書かれた朱塗りの堂宇の入り口に置かれた張衡像(写真2-1e)は工事中につき一時的に仮置かれているのだろう。 もしその居場所が平常時のものであったら、あまりにも寂しい。


  墓園から外に出ると、全面にのどかな田園風景が広がっていた(写真2-2a)。   来た道を戻るのではなく、一本隣の道路へ出ると、来た道路とは打って変わった舗装道路、道路の両側にはバラ園(写真2-2b)が帯の様に続く。そしてしばらくすると南陽市街地に到着した。


  車の量は多いのに道路にセンターラインがない(写真2-2c)。そして更に中心地に近づくと、更に車の量は多くなるがセンターラインはある。車だけでなく電動オートバイ(ヘルメット無しの二人乗りが多い)や歩道を通行する人の数も増えてきた。また街路樹もおなじみの光景を映し出している(写真2-2d)。


            ----つづく----








2012/06/09 16:58:40|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--2--

日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)


 2) 南陽市 張衡墓園


   実質的な旅行第一日目で、朝9:00の遅めの出発だった。北京発鄭州行きの便が、鄭州空港に到着したのが24:30を過ぎていて、ホテルに着いたのが25:00を過ぎていたためである。朝食は持参したカロリーメイトを食べた。


  一週間行動をともにする日本語現地ガイドは牛潞(ニュウルー)さん、運転手は王晨光(ワンチェンウォン)さん。後で、分かったことだが、牛潞さんは独身で交際中の女性がいる。また、王さんは22歳の既婚で、すでに二人の子がいて奥さんは鄭州で服飾関係の仕事をしている、とのことだった。


   車は白の「瑞風」現代自動車との合弁製のバンであり、車内は広く、ゆったり寛げそうだ。終わってみれば計2200kmの移動であったが、その間一度も車の故障は無かった。  4/29(日)、目指すは河南省南部にある南陽市である。鄭州市から高速道路で、許昌市を経て、持参した河南省地図には点線で襄城、叶県、旧県、保安、方城を結び、方城で既設高速道に接続される新しい高速道路とのことであった。


   鄭州での最近の名所という位置づけの中原福塔(http://zhongyuanfuta.com/)を左手に見て(写真1-1a)、一路南へ。相変わらず高層ビルの建築ラッシュである(写真1-1b)。日曜日なので通勤ラッシュはないが、行楽シーズンであることには中国も変わらない。4月29日~5月1日までの3日間はメーデー期間で連休であり、行楽地に向かう人、鄭州から故郷へ帰郷する人で混んでいるとのことである(写真1-1c)。


   高速道路に入ってから間もなく給油の為、サービスエリア(写真1-1d)に入る。ガソリン代は8元/リットルであり、日本円で100円/リットルは日本よりは安い。高速道路には最高速度がレーンによるが、120km/hで最低速度も60km/hと制限されている。


    分岐通過点の許昌は三国志には頻繁に出てくる地名で、Wikipediaによると「後漢末の196年、曹操が献帝を奉じてここに洛陽(雒陽)・長安から都を遷したことで有名。遷都の理由は洛陽が戦乱で荒廃していたのと、この地域が曹操の勢力圏だったからと考えられている。


   許昌には献帝の皇后伏氏(伏完の娘)の陵墓や後漢末の都市遺跡があり、歴史学上も重要な都市である。」と紹介されている。三国志の時代には甲冑で身を固め、騎馬で、あるいは徒歩で、この地を右往左往したのかも、と想像することは感慨深いものがある。何分自分の三国志読書歴は吉川英治に始まって、伴野朗「呉・三国志 長江燃ゆ」、北方謙三、宮城谷昌光、羅貫中で、最後の二者の小説はまだ読んでいる最中である。


   ところで、本旅行中に最初から最後まで付き添ってくれたのが、一体の仏像のミニチュアモデルと吊り下げられた飾りであり(写真1-2a)、仏像はどの様な激しい揺れにも微動だにせず、一方の飾りは車の揺れに反応し、悪路のバロメータとなった。ところで、この仏像こちらを向いてて良いのだろうか。乗車している人たちを守るつもりなら、進行方向を向くべきではないのか、「福」という文字でも逆さにして飾るのに、などとくだらないことが頭をよぎった。


  高速道路に沿ってポプラが植樹されていて、ポプラ列が途切れると、その間から広々と展開し、青々と繁った麦畑が目に入る。まだ変色はしていないが、立派な穂をたたえている。二期作でもうすぐ麦色に変色し、取り入れがされるとのこと。鄭州を出発し約3時間して南陽に着いた(写真1-2b)。


  現地時間で12:30を過ぎていたので、早速昼食をとることになった。緑豆スープや、落花生を油で炒めたもの、炒飯などで、南陽料理ということだったが、中国料理独特の違和感のある味がなく、非常においしいものだった。


   三人一緒の食事は最後まで同じであったが、運転手の王さんは、最初に3人分の取り皿を熱湯で消毒してくれる気遣いぶり、これまで中国を何度も三人のクルーで旅行しているが、こんな気遣いは初めてであった。


   しかしレストランのトイレの不衛生は相変わらずである。そのようなことを気にしていたら、中国のオーダーメイドの旅は出来ないのであり、気にしてはならない、と自分に言い聞かせるしか無い。


   最初に目指すのは、今回の旅行の目玉の張衡墓園である。辿り着くまでの道路は道幅は広いが、凄まじい悪路で、凸凹と煙幕の様に視界を遮る土埃に閉口した(写真1-2c)。その土埃が舞う凸凹道を二人乗りのオートバイや自転車を追いつ追われつしながら、何とか悪路を通り抜けた。


   ところが、通行人に張衡墓園への道を尋ねてみると(写真1-2d)、どうも曲がるべきポイントを通り過ぎてしまったようで、来た道を戻ることに。きっと、猛烈な土埃で、行き先表示が見えなかったのだろう。ようやく今度は案内表示が見え、そこを左折し、少しすると、左手に張衡墓園の門扉が現れた(写真1-3a)。


   しかし、5/1までは工事中であり、開館していないことが分かった。確かに工事作業員が出入りするわずかな隙間から中を伺うと、工事中の渾天儀(写真1-3b)と、その周りにたむろしている作業員らしきが目に入った。


   今回の旅行の一番の目玉なのにと思いながら、少し離れたところに、大きな案内板(写真1-3c)があるのをみつけ、それによって、ここへきて初めて知ることができた、といえる張衡情報を仕入れようと思った。情けない話であった。


  よく見ると、一村二国宝なる標語の下に世界で最初に発明された地震計の図と小石橋村の文字の下に渾天儀、更にそれらの下に「南都賦」の文、そして、全体の左側に鄂城寺隋塔なる七重塔の絵があった。張衡との関係等を旅行後に調べてみたら次の様なことが分かった。


   張衡が、《東京賦》、《西京賦》の《二京賦》の作者であることは事前調査で分かっていたが、南都賦というのは何であろうか。東京賦が洛陽、西京賦が西安、南都賦が南陽ということだろうか。


   門前の方に戻ると、運転手の王さんが交渉してくれたのか、墓園の中に入れることになった。


   先ず現れたのが、中国で歴史上有名な科学者の似顔絵と業績が彫られた石碑列であり、最初の石碑(写真1-3d)には、『世界に注目された中国の科学者達』という表題の下に、『中国は世界4大文明国の一つであり、長い歴史に、各民族が高い智慧と創造力で、世界の文明と科学技術の発展に貢献した。世界の科学技術史に重用的な位置を占めている。


  中国では古代から科学技術者が次々と現れて尽きることが無かった。彼らの発明などは、中国の科学文化に重大な貢献してきた。世界の科学文化発展にいつまでも残る業績である。』と刻み込まれている。


   そして、そのあと紀元前4世紀の斉の天文学者甘徳(写真1-4a)に始まって、現代数学家の陳景潤に至る計29名の石碑であった。時代別には、春秋戦国時代3名、前後漢3名、三国志時代1名、魏晋南北朝時代2名、北魏時代2名、唐時代1名、北宋時代4名、南宋時代1名、元時代2名、明時代3名、現代6名となっている。 分野別には天文学6名、地理学3名、発明家3名、科学者6名、数学家4名、水利家2名、建築2名、現代物理学3名となっていた。


   これに加わる張衡は東漢の天文家、数学家、発明家、地理学者、製図学者、詩人となっている。特に、地震計、水力渾天儀の発明は有名でその才能はダヴィンチに似ていて、その他天文と暦法では《霊憲》、《霊憲図》、《渾天儀図注》、《算罔論》を書いている。《後漢書張衡伝》には非常に詳しい記録がある、とのことである。  


 29人の中の一行(唐)、馬鈞(三国時代)、蘇頌、畢昇、沈括は知名度が高い様だ。張衡の地震計と渾天儀、一行(写真1-4b)の天文時計、蘇頌(写真1-4c)の水運偽象台、馬鈞(写真1-4d)の指南車、沈括(写真1-4e)の科学技術書「夢渓筆談」の著作、この著書には、畢昇(写真1-4f)の活字印刷、指南針(磁石)、河川の閘門、製鋼法、音響、音律の理論や振動に関して基音と倍音との共振現象の実験をしたり、化石による古代地層の推定、「石油」の命名などが記載されていて、中国の科学技術史では最重要書のひとつとされているようだ。    ----つづく----








2012/06/08 16:21:43|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)

1)序 

 今回は2010年秋に続き、二度目の河南省の旅であった。前回は、「中国中原五古都の旅」と名付けた旅で鄭州、洛陽、開封、濮陽、邯鄲といった古都を巡ったが、今回は、日本のものづくり文化の源流は中国の後漢時代の河南地方にあるという仮説をたて、鄭州を起点に、南陽、平頂山、洛陽、兎州、焦作、三門峡、コーギの各市を巡る旅となった。

 ものづくり文化の「もの」としては、衣食住を支えるものとして衣服、食器(陶磁=焼き物)を対象としたため、この様な訪問地構成となった。それと、人物として、世界で初めて地震計を発明した張衡、後漢の開祖となった光武帝劉秀、三国志時代の著名な医聖張仲景、そして、三国志時代に南陽市のが竜崗に隠遁したといわれる諸葛孔明をターゲットとした。訪問日と訪問地は以下の通りである。

4/27(金) 成田空港近くのホテル 成田日航ホテルにて前泊
4/28(土)  東京(成田) 10:35発―NH905-北京13:25着           北京21:40-CZ3176-鄭州22:30
4/29(日  南陽まで移動  張衡墓園、医聖祠、南陽武侯祠など      南陽泊
4/30(月) 平頂山へ移動、南陽内郷県衙、宝豊県清涼寺古汝官窯
遺跡  平頂山泊
5/1(火) 洛陽まで移動  禹州市神後镇 欽窯遺跡   洛陽泊
5/2(水) 洛陽ー三門峡ー洛陽 虢国博物館 虢国車馬坑 牡丹
園 洛陽泊
5/3 (木)  洛陽ー鄭州 洛陽民俗博物館、洛陽博物館 漢魏故
城 唐三彩磁器製造所
漢光帝陵(劉秀の墓) 杜甫陵園 鄭州泊
5/4 (金)  鄭州8:25 -CZ3115―北京9:50 
北京14:45-NH906-東京(成田) 19:15
 
持参した機器は、デジカメ SP-570UZ(OLYMPUS)、FullHDデジタルビデオ GZ-E117G(JVC_ケンウッド)、VOICE Trek V-40(OLYMPUS), 三脚、PC SOTEC C103B4(オンキョー)
携帯電話 SH-07A(NTTドコモ、シャープ)

------ つづく ------







2011/10/13 1:45:51|物語
西方流雲96 <<< ホータンヘ その2 >>>
   
    ホータンヘ その2

 水餃子を10個ほど頬張った時、次第に目の前が暗くなってゆくことに気がついた。そして一人の白髪の男性の腕を取って、どこかへ案内している自分が見えた。その男性の5m程後ろには華奢で小柄で、こちらも白髪の老夫人が、その男性の分の荷物を肩にし、キャスター付きのサムソナイトを渾身の力を使って付き従っている。
 その二人はおそらく夫婦だろうということが推測できても、この夫婦が誰で、自分はどこへ、どの様な理由で彼らを案内しようとしているのか皆目見当が着かない。
 ただはっきりと目に映っているのは老婦人が運んでいるサムソナイトに大きくはっきりと紅蓮と同じ苗字の“薄”という文字である。
 とすると彼らは自分の両親と言うことになるが、父親はこの白髪の老人の様に目が見えないということは無かったし、母親は白髪頭ではあったが、もっと大柄な筈であった。
 不思議なのは、どんな時でもその老婦人は5mよりは近づこうとはせず、男性に気づかれない様にしている様で、男性の方は後ろから、老婦人が付いてきていることに気がついていないようなのである。
 彼らは洛陽と西安の間を歩いている積りらしい。時折、槐の大樹に出会うが、そのたびごとに老人は、その大樹の太い幹に手の平を合わせ何かつぶやいたあと、懐から中国へきてから買ったと思われるカッターを取り出し、何かの印を切り刻んでいる。
 すると槐の大樹はまるで生き物のようにザワザワザワと揺れて、「ジャーヨウ」と言っているようだった。
 紅蓮が近づいた時に、その印をみると、いつぞや東伝とともに、京都の仁和寺の金堂を訪れた時に金堂の軒丸瓦に刻まれた文字と同じであることに気が付いた。
あの時、東伝は、
 「あの軒丸瓦は大変珍しく、普通は菊紋とか卍紋とは巴紋と言った回転対称紋が普通なのだけれど、あの軒丸瓦に刻まれた文様は、ハスとその上に種子(シュジ)という梵字が刻まれていて日本の寺院では大変珍しいのだよ、あれはたった一文字で阿弥陀如来を意味し、キリークと読むのだそうだ。種子には干支との関係もあり、戌年が対応するのだそうだよ。大日如来、薬師如来から殆ど全ての菩薩、天、明王らの仏が対応する種子を持っていて、この金堂は阿弥陀三尊を祀っているので、キリークなる一文字梵字が来編まれているのだろうね。」
と言っていたのを思い出した。

 その老人が槐の大樹に出会う毎に刻みこんでいるのは、そのキリークという一文字なのであった。
 刻みをいれた槐の大樹から離れたあと、今度は老婦人がそこに近づいてはデジカメを取り出し写真を取る。その度に再度槐がザワザワザワとザワつくので、男性が紅蓮に手を引かれながら、「何故槐と言う樹は二度ザワつくのかね?」と紅蓮に尋ねたことがあった。しかし、紅蓮は、後ろから老婦人が付き従っていることを伝えず、「不思議ですね。」と答えるだけであった。
 その老婦人の所作が、何かの償いをしている所作にしか見えなかったので、何か二人の間には触れてはならない事情があると察していたためにそういう言葉でしか答えられなかったのであろう。

 49本目の槐の大樹が前方に確認できた時、その大樹の下になんとホータンで亡くなった筈の東伝が大きく手を振っているのが認められた。
 老人の手を引いているので急ぐことは出来ず、近づいている筈なのに、何故か姿は小さくなってゆくのである。
そして49本目の槐に更に近づくと、今度は急に迫ってくるようになり、その人の輪郭がハッキリしてきたが、東伝ではなく、顔はシワがあ深く刻まれた赤銅色、白髪千丈、さらに白髭は地面まで達している。いつか夢に見た崑崙の仙人に間違いなかった。

 しかし紅蓮は、このことだけは盲目の老人に伝えた。もしかしたらこの老人たちは、崑崙の仙人に会う目的で西方に旅をしているのかも知れないと、一瞬そう思ったからである。
 紅蓮はいまだに彼らの西方に向かう目的が何であるか分からないでいた。ただこの老いた男性が不思議な感覚を持っていることが分かってきた。
 歩いていて突然立ち止まり目が見えないはずなのに空を見上げるのであった。そして見上げた先には必ず西の方角に流れてゆく一片の流雲があるのである。
 流雲は西方以外の方角にも流れてゆくが、そういう流雲には一切見上げることをしないのである。
 西方流雲のみに関心があり、目に見える様である。見方によっては、手を曳いて導いているのは、紅蓮でありながら、実際にこの老いた男性を導いているのはあの西方流雲ではないかと感じるのであった。あの西方流雲には阿弥陀仏が載っていて、この老いた老人を導いている様な感覚に陥ることが多くなってきた。

 遠くで、「シーシャマ、シーシャマ」という若い女性の中国語が耳に聞こえた。そして次の瞬間、ドスンと言う音がした。紅蓮は居眠りをしていて、その音によって、眠りから覚めたのであった。
 今車輪が出たところで、間もなく着陸する模様である。
そういえば、この便は敦煌空港経由で、先ほどの女性の声が、そこに着陸する直前であることを告げる機内放送であることがすぐわかった。
 敦煌空港経由は給油が目的の様で、2時間程待機し、また同じ航空機に搭乗してウルムチに向かうことになっていた。敦煌は日本人にとって人気の観光地の様で、多くの日本人観光客が降機した。給油だけが目的ではないことが分かった。

 紅蓮は、中国が自分の生まれた国でも、知っているのは江南のみで、しかもそのうちの蘇州だけであり、今回の旅で、これほど広大な国とは思いもしなかった。

 そして、紅蓮が世話になっている喫茶店に来た客が、「国の広さと人間の命の価値は反比例しているのです。」と言っていたことを思い出した。
 その客が再訪したら、「どうしてですか?」と聞いてみたかったが、その客とは会えずに今日まで来てしまっている。
「それなら、アメリカやソ連、オーストラリアでも人間の命の価値は低いのだろうか」と聞いてみようと思っていたのである。
 中国は果たして人間の命の価値は低いのだろうか。人間の命の価値はどの様な方法で評価するのであろうか?死亡率の高さだろうか、死刑の執行率の高さだろうか、平均寿命の低さだろうか、人為的に一方の論理で他方を安易に殺戮することが許されることの多さだろうか。
 戦争はまさに、その通りで、戦争で敵を殺戮しても殺人とはされない。何故こんなことを考え込んでいるのか、そうしている自分を持て余しながら待機ロビーへの通路を航空会社の係員に導かれて歩いていた。待機ロビーに腰を掛けたら、今度は機中での夢の内容を反芻していた。

    ... 続く ・・・