<日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--7--
宝豊県清涼寺古汝官窯遺跡
「中国十大考古新発見」というのがある。
中華人民共和国において当該年度内になされた考古発見のうち10項目を選んで国家文物局が発表するものである。 2000年度の5番目が、河南省平頂山市宝豊県の清涼寺汝官窯遺跡になっている。
ここをも訪問することにしたのは、旅行前に長年の親友であり、趣味で作陶をしているM氏からの情報があったからだ。2010年に、「中国中原5古都の旅」をした時、邯鄲に行った。
そこを磁州と言うのは道路標示などで知っていたが、磁器の“磁“は磁州の“磁“からきていることをM氏からの情報で初めて知ったのだ。
更にそこには磁州窯という景徳鎮のルーツと言われる由緒のある窯が今でもあると言われ、「石炭の町」、「邯鄲の夢」の町であるだけでなく、「やきものの町」でもあったのだ。
筆者はM氏同様、もともとエレクトロニック・セラミクスが専門で、自ら調合から成型、焼成をしてきた。また、ガラスも自分で白金るつぼを使って作ったことがあり、ほんのわずかな不純物の効果で、千変万化の色模様を呈し、その魅力にとりつかれたことがあった。
更には備前焼のルーツが須恵器で、その更にルーツが黄河中流域や下流域の龍山(りゅうざん)文化の影響を受けている灰陶や黒陶だということを小耳にはさんだことがあり、陶磁器の技術は日本へ伝搬した代表的モノ作り文化ともいえると考えたのである。
そう考えると、河南省にある古汝官窯遺跡は行かない訳にゆかないと思い詰めたのである。南陽 内郷県衙を後にして4時間近く車で移動し、荒涼とした畑の中にポツンと建った「宝豊県清涼寺工芸瓷研究所」と門に表示された建物(写真30-4-1a)に辿り着いたのは現地時間で午後5時に近く、天気も良くなかったので、薄暗さが漂っていた。
その建物の門扉の褐色の石柱の上には青磁が一体据え置かれていた(写真30-4-1b)。犬がやかましく吠え立てていたためか住人が出てきた。運転手の王さんは窯址の所在を尋ねたようだ。
少し彼方に複数の煙突と村落があり(写真30-4-1c)、(写真30-4-1d)そちらに向かうことになった。「この畑のあたりは、以前は磁器の破片で一杯だったのですよ」とガイドの牛潞さんの説明だったが、牛潞さんが以前ここに来たことがある、ということでなく、その土地の人によってそう伝えられている、ということなのだろう。
かつては、どの家にもそれぞれ窯を持っていると思われる家々からなる村落に5分もせずに到着し、車をおりで、その村落の路地を歩いてみることになった。
どの家も煉瓦づくりで、家々の屋根や壁の頂部には、どの家にも必ずと言って良いほど多彩な形、色彩の陶磁器(写真30-4-2a)や飾り瓦(写真30-4-2b)が置かれている。またどの家の門戸にも対聯や守り神の絵が貼られている(写真30-4-2c)。
ところどころに、瓦礫となった煉瓦が積まれていて(写真30-4-2d)、家によっては家壁の煉瓦が崩落し、欠損した部分を泥土で塞いでいる家もあった(写真30-4-2e)。 中には洒落た意匠の家も目に入る。村落の中では新感覚の建物に見えるが屋根の飾りと対聯はすでに根付いた風習なのだろう、にぎやかに神獣たちが屋根に絡みついている(写真30-4-2f)。
よくよく見ると、花をつけた槐の見慣れた枝々が視線を遮っているのが分かった。またこの村落の民家の壁に使われていっる煉瓦は赤レンガと黒煉瓦が同居し、また瓦も黒煉瓦と黄土色の絵瑠璃瓦が同居している。
そして黒い神獣は一切見られない。ということは、黒瓦には神獣がいない(写真30-4-3a、3b、3c)というどうでも良いことに気がついてしまった。
一通り家並みの間の路地歩きを終え、少し行くと、清凉寺汝官窯遺址と御影石に刻まれた石碑が現れた(写真30-4-4a)。
裏側には、この遺址の説明が記されている。
「清凉寺汝官窯遺址は宋代の官窯であり、宝豊県大菅鎮清凉寺村に所在する。北宋晩期に汝窯は官窯とされ、皇帝ご用達の瓷器を生産した。宋代の五御用窯の最上位の官窯であった。….その規模は、清凉寺村南小石橋を中心に、南に1235m、北へ760m、東に440m、西に370m、総面積133.2万平方m。…..。」と書かれている(30-4-4b)。
掘り崩され、地層が露出した一角が見えたので、もしかしたら焼き物の原料とする粘土層が見えるかも知れないと思い、、近寄って観察してみることにした。
露出した塗装表面は白くマダラに見える土と茶褐色の部分があることが分かる(30-4-4c,d)。
表面が乾燥しているので分からないが、水分を含むと灰色っぽくなりそうな土であるので、粘土は地元のものを使ったのであろう。
車のある場所へ戻る途中、土産物屋、と言っても普通の民家のたたずまい、に足を踏み入れ、売り物の陳列品を見てみた。30mm□くらいの大きさの陶磁器の破片が無造作に陳列されていて、その一片が3000円ほどとのこと。
そして、これほど高価な理由は、日本人観光客が競って購入しているうちに高くなったとの牛潞さんの説明であった。バブルの頃の話だったのだろうか。本日の観光予定を終えて、宿泊ホテルのある平頂山の中心地に向かう。
-----つづく -----