日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--5--
南陽 武侯祠
朝8:30にホテルを出発。最初の目的地は諸葛孔明の武侯祠である。中国全土に9か所あり、成都に次いで二番目に大きい武侯祠とのこと。南陽市の卧竜崗に位置する。かつて南陽で草葺の家で自ら耕したため、晋代になって、南陽の人は卧竜崗にて祠を建てて彼を記念し始めたそうである。
車から降りて最初にくぐった門(写真30-1-1a)は石製の鳥居と言う感じがする。また鳥居の一部は比較的古く、そのまわりを新しい石で補強したように見える。
門をくぐり直進すると、重量感のある黄土色の三鼎形の灯篭が現れ、その向こうには〇○皇帝三顧処と書かれた山門が見え、更に今度は四足の灯篭があり、その後ろに朱色の壁を持つ武候祠本体が見える(B30-1-1b)。
武候祠(B30-1-1c)は通過口が三ケ所あり、中央の通過口の上部には郭沫若の筆による「武候詞」という文字が浮かぶ。武候詞は明清時代にも増築が行われ、歴代の題記、石碑が約400もある。
中央の通りには石碑坊、仙人橋、山門、大拝殿(写真30-1-1d)、草廬、寧遠楼(写真30-1-4f)があり、両側には諸葛井、碑廊、古柏亭(写真30-1-2a)、野雲庵(写真30-1-2d)、老龍洞、伴月台(写真30-1-3a)などがある。
その他には三顧祠(写真30-1-3d)、臥龍湖(写真30-1-4b)、龍角塔、漢碑亭(写真30-1-4d)、道房殷、読書台、臥龍書院などがある。 歩いている途中数段の石垣があり、そのふもとに紫色の花を見つけた(写真30-1-1f)。
諸葛菜であれば、場所柄見事だが、紫つゆ草であった。他にもいくつか由緒のありそうな建造物があったが、名前は分からなかった(写真30-1-3b、1-4a、2-1a)。
諸葛菜は日本では真っ盛りであるが、この花の由来は調べてみると以下のようなものであった。
諸葛亮が10万の大軍を率いて南征したときには、日に何万斤という野菜が必要だったが前線では野菜が少なく後方から補給するにもあまりにも遠いので、将兵は野菜不足に悩まされそのうち顔は青白く戦意も挫けがちになってきた。
諸葛亮も「困ったことになったぞ」と気が気ではなかったが、ある日のこと武都山で土地の者が茎が太く葉が大きく根が大根のような野生の菜っ葉を食っているのを見かけた。
「それはなんですか」と丁寧に尋ねると「これは蔓菁(←草冠に青)(カブラの漢名)という物で、生で食べることができるし、煮て食べてもよい。残ったら干して塩漬けにして後で食べることもできる。簡単に育てることができるし、1株で何斤(1斤は約223.73グラム)にもなる」とのこと。
「これだ」と思った諸葛亮は、兵士たちに命じて陣営のまわりに蔓青を植えさせた。すると、案の定、苗はぐんぐん育ち、山のように収穫することができた。調理してみれば、味はよし調理も簡単ときた。
彼は武都から漢中に引き上げるときに株を持ち帰って植えたうえ、成都にも使者を送って栽培させた。これ以来、蔓菁は野生から人工で栽培される野菜となり「諸葛菜」と呼ばれるようになった。
もっとも根っこが人の頭ほどもあるので「人頭菜」とも呼ばれているが、これが今でも人びとに歓迎されている野菜の「諸葛菜」なのである。
そして、もう一つ諸葛孔明に因む言葉は「晴耕雨読」であろう。諸葛孔明が世に出る前の隠遁生活の様な記述が見つかるが、中国の故事成語辞典にはこの言葉は見つからない。
日本人の造語らしいのである。この「晴耕雨読」という言葉は、会社をリタイヤした高齢者の理想的な生き方を表す言葉としても良く使われる。この場合、「晴耕雨読」は健康維持、趣味の為の読書であるが、孔明の場合は、これから世に出る前の準備段階と言う点が大きく異なるのである。
ガイドの牛潞さんが、「この石碑に書かれていることは中国人であれば、誰でも知っているのですよ。」と言って案内してくれたのは、「陋室銘」と題字された高さ2mほどの石碑であった(写真30-2-1e)
山不在高 有仙则名。水不在深,有龙则灵。
斯是陋室,惟吾コ馨。苔痕上阶绿,草色入帘青。
谈笑有鸿儒,往来无白丁。可以调素琴,阅金经。
无丝竹之乱耳,无案牍之劳形。南阳诸葛庐,西蜀子云亭。
西蜀子云亭。 孔子云:“何陋之有?”
と彫られていて、 その意味は、『山の大切なことは高いことにあるのではなく,仙人が住んでいれば有名になる.水の大切なことは深いことにあるのではなく,龍が住んでいると神秘的なすぐれたところとされる.
この私の狭く小さい家ではあるが,私の人格は香り高く優れているのであるから,恥じることはないのだ.斑点のようなコケが階段を上って緑に,草の色は簾越しに青々と眺められる. 談笑しているのは,ここに集まる大学者たちであるし,卑しいものの行き来するのは見られない.
ここでは琴を弾くことも,貴い書物を読むこともできる. 騒がしい楽器の音が耳を汚すことも,役所の文書や手紙で煩わされ,疲れることも無い.南陽の諸葛孔明の草廬や,成都の揚雄の載酒亭など,古来の名士の奥ゆかしい庵室にも比べようか.
そこに住む人に君主の徳があるときは,孔子も「何の陋かこれあらん」と言っているように,私のこの陋室は少しも陋ではないのである.』
石碑の前には次から次へと、その石碑を背景に写真をとる人が現れる。確かに中国人にとって、生き方の手本となる漢詩なのであろう。
幼い時にこの漢詩を暗記し、その時は全く意味が分からなくても、長ずるにつれて、いろいろな体験をするなかで詩の一節一節の意味が分かる様になり、自分のものになる。中国人はこの様にして骨太でゆらぎのない人生観を心の中に沈めてゆくのかも知れない。
--- つづく ---