槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2015/02/06 19:59:04|旅日記
2)初詣3社(2)神田明神

2)神田明神
今回の神田明神の初詣は、大学時代の同じクラスの有志による新年会が神田明神手前の店で開催されるのに併せ、湯島聖堂ともども予興として訪れたのである。
 ホームページの「神田明神の歴史」のところには、「社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された。」と有る様に、1280年もの歴史があるのだ。
 関東大震災や東京大空襲の被害に逢いながらも、その都度、境内の建造物が再建され、「平成の御造替事業」を経て現在の姿になったのだそうだ。どうりでピカピカだ。
 おりしも、平成27年1月17日(土)からの、「厄除大祈願祭」の一週間前の訪問であったが、境内は厄除け祈願を求める老若男女で溢れかえり、列をなして順番を待つ姿が見られた(写真9)。又、神楽殿では獅子舞の実演(写真10)があり、舞の間の時間に、獅子の大きな口にお金を寄進する人の姿も多く見られ、この神社を支える氏子や崇敬者の多さを実感できた。
 事前の調査なしに訪れたので、どの建物がどの様な謂れのあるものかが分からなかったが、その絢爛豪華さでは、随神門(写真11)と、列をなして順番を待つ姿の先端に配置する御神殿(写真12)が記憶に残る。「♪神田明神スチャラカチャン、・・・」でお馴染みの寛永通寶を形どって建立された「銭形平次の碑」があるとのことだが、新年会開始時刻が迫っていたので、そこまでは探索せず、随神門から外へ出た。
 一同揃ったところで、随神門を背景にして新年会参加者の写真を撮る場所の位置取りをしていたら、若い女性が、「写真を撮ってあげましょうか?」と、こちらから求めていたのではないにも拘わらず、声をかけてきた。
 昨年12月初旬に中国深圳を訪問し、地下鉄に乗車した時に受けた複数の中国人若者による席ゆずりの親切を受けて以来、この若者たちが中国を担う世代となった時にどのような差となって現れるのか。同世代の日本人若者は列車に乗り込んできた高齢者の姿を見ても、複数の若者が同時に進んで高齢者に席を譲る光景など先ず見られない。その様な日本の若者たちが同じように日本を担う世代になったとしたら、精神面の成熟度で負けてしまうのではないかと感じていただけに、この若い女性の親切は光明と映ったのだった。
 いずれも求めて受けた親切ではなく、奉仕的親切であった。後でホームページを見たら、ここでは、文化事業として、「巫女さん入門講座」が有料(5000円)で開催され、着装指導(白衣・袴の着方)から始まり、「神社教養」、「大祓詞(大祓詞の解説と奏上・正座)」、「行儀作法」「結婚式(本格的な神前挙式)の見学)」を朝8:30から夕刻17:00まで、注意事項 (マニキュア、時計、ピアス等アクセサリー、携帯電話使用、茶髪脱色は研修中禁止)を守って受講するのだそうだ。
 先ほどの親切な若い女性は、その講座の講習生だったのかも知れない、と後日この文章を書き付けながら回想した。
 







2015/02/05 23:43:23|旅日記
初詣3社(1)湯島聖堂

初詣3社(1)湯島聖堂

 御茶ノ水駅降りて聖橋を渡り、すぐ右手にあり、聖橋からもその落ち着いた佇まいが眺め取れる。ここに祀られているのは、菅原道真でも源義家でも、スサノオの命でも、ヤマト武尊でもない。日本の神ではなく孔子様なのだ。儒教寺院と言うのが好ましい。少し行くと湯島天神という、菅原道真を祀った神社があるので紛らわしい。寺院というより学問所と言った方がよく、現在も40以上の講座が開講されている様だ。
 湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり、とホームページに紹介されていて、更に、その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設したこと、筑波大学、お茶の水女子大学へと発展した歴史、関東大震災被災の歴史、昭和10年(1935)に鉄筋コンクリート造りで再建されたこと、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事行われ、平成5年(1993)三月竣工したのが今の佇まい、ということが紹介されている。
 今回も、杏壇門から大成殿に入って最初に見上げたのは大成殿の屋根であった。紺碧の冬空を背景に屋根飾りの造形は映え(写真1、写真2)、写真の撮影対象として絶好であった。
 筆者はこれまで、北京の孔子廟等、いくつかの中国内の孔子廟を見学してきたが、いつも最初に目に焼き付くのが、屋根の両頂点にある鬼\頭(きぎんとう)と反り返った稜線に鎮座する複数の守護獣鬼龍子(きりゅうし).の隊列であったが、ここのは, 屋根の反り返りは無く、守護獣の隊列はなく一獣のみであった。また屋根から大成殿の外壁に目を移しても中国の孔子廟に特徴的な朱・緑・青・朱漆などの彩色はなく黒漆塗りであった(写真3)。
 そして、大成殿の前庭に詣でる人の数は少なく、高齢者が殆どで、「今まで一度は訪問したいと思っていたところへやっと来れた」という面持ちの人が多いように思われた。大成殿の中に参観料を払って入った。料金所の隣には土産物が販売されていたが、多くが書籍であり、孔子の「論語」や「曽子」、「韓非子」などが陳列販売されていた。
 
 堂内を見渡すと、中央の神龕(厨子)に孔子像(写真4)。左右には四配として孟子・顔子(写真5)・曽子・子思(写真6)の四賢人の像が祀られている。
 孔子は、中心思想は仁で、仁の徳による政治を主張。その言行録とされるのが「論語」であると言うことは記すまでもなく、良く知られている。
 孟子は「性善説」、顔子は子路とともに「論語」に登場回数が多い、孔子の第一の弟子である。
 曽子は「孝経」の著者とされ、子思は孔子の孫で、「中庸」の著者として知られている。ついでながら、子路は孔子の護衛隊長であり、偉人に物語性を賦与する格好の登場人物で人気があり、顔子が学問の第一弟子なら、子路はさしづめ孔子に常時付き従った第一のボディガードというところであろうか。
 
 そして、お目当ての楷樹を見たいと思っていたが、どこにあるか分からず、売店の人に聞いて見たら、「一番下の門を出て左の方へ歩いてゆくと孔子像(写真8)の手前にあります。」とのことだった。早速、杏壇門と〇〇門をくぐり左手へ行くと、葉を一枚残らず落とした楷樹の大木が現れた(写真7)。
 楷樹は槐(えんじゅ)とともに学問の樹とされていて、中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶その他(黄棟樹、黄連、蓮連木など)の別名も多く、秋の黄葉が美しいという。しかし、日本では全国で100本を上回らず、おそらく東京でこの樹の花を見ることの出来るところはここしかないだろう。電気通信大学の西二号館前にも学長の退官記念樹として植樹されたものがあったが、残念ながら台風の被害に会い、根こそぎ倒壊してしまった。
 その他、東北の角館で日本最北の楷樹と紹介されていた樹と、滋賀県安土城近くにある沙沙貴神社の境内や、大宰府天満宮にあることを聞いたことがあるが花の咲いている樹姿を写真で見たことがあるのは、ここだけである。
 「蓮連木」と言う名から想像すると、さぞかし美しいに違いない。今度は花の咲く時期に来たいと念じ、奥の孔子像(写真8)を眺めたあと、湯島聖堂を後にして次の神田明神に向かった。
 







2012/06/24 22:51:00|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--7--

<日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--7--
         宝豊県清涼寺古汝官窯遺跡
  「中国十大考古新発見」というのがある。
  中華人民共和国において当該年度内になされた考古発見のうち10項目を選んで国家文物局が発表するものである。 2000年度の5番目が、河南省平頂山市宝豊県の清涼寺汝官窯遺跡になっている。
   ここをも訪問することにしたのは、旅行前に長年の親友であり、趣味で作陶をしているM氏からの情報があったからだ。2010年に、「中国中原5古都の旅」をした時、邯鄲に行った。
   そこを磁州と言うのは道路標示などで知っていたが、磁器の“磁“は磁州の“磁“からきていることをM氏からの情報で初めて知ったのだ。
   更にそこには磁州窯という景徳鎮のルーツと言われる由緒のある窯が今でもあると言われ、「石炭の町」、「邯鄲の夢」の町であるだけでなく、「やきものの町」でもあったのだ。
   筆者はM氏同様、もともとエレクトロニック・セラミクスが専門で、自ら調合から成型、焼成をしてきた。また、ガラスも自分で白金るつぼを使って作ったことがあり、ほんのわずかな不純物の効果で、千変万化の色模様を呈し、その魅力にとりつかれたことがあった。
  更には備前焼のルーツが須恵器で、その更にルーツが黄河中流域や下流域の龍山(りゅうざん)文化の影響を受けている灰陶や黒陶だということを小耳にはさんだことがあり、陶磁器の技術は日本へ伝搬した代表的モノ作り文化ともいえると考えたのである。
   そう考えると、河南省にある古汝官窯遺跡は行かない訳にゆかないと思い詰めたのである。南陽 内郷県衙を後にして4時間近く車で移動し、荒涼とした畑の中にポツンと建った「宝豊県清涼寺工芸瓷研究所」と門に表示された建物(写真30-4-1a)に辿り着いたのは現地時間で午後5時に近く、天気も良くなかったので、薄暗さが漂っていた。
   その建物の門扉の褐色の石柱の上には青磁が一体据え置かれていた(写真30-4-1b)。犬がやかましく吠え立てていたためか住人が出てきた。運転手の王さんは窯址の所在を尋ねたようだ。
   少し彼方に複数の煙突と村落があり(写真30-4-1c)、(写真30-4-1d)そちらに向かうことになった。「この畑のあたりは、以前は磁器の破片で一杯だったのですよ」とガイドの牛潞さんの説明だったが、牛潞さんが以前ここに来たことがある、ということでなく、その土地の人によってそう伝えられている、ということなのだろう。
   かつては、どの家にもそれぞれ窯を持っていると思われる家々からなる村落に5分もせずに到着し、車をおりで、その村落の路地を歩いてみることになった。
   どの家も煉瓦づくりで、家々の屋根や壁の頂部には、どの家にも必ずと言って良いほど多彩な形、色彩の陶磁器(写真30-4-2a)や飾り瓦(写真30-4-2b)が置かれている。またどの家の門戸にも対聯や守り神の絵が貼られている(写真30-4-2c)。
   ところどころに、瓦礫となった煉瓦が積まれていて(写真30-4-2d)、家によっては家壁の煉瓦が崩落し、欠損した部分を泥土で塞いでいる家もあった(写真30-4-2e)。   中には洒落た意匠の家も目に入る。村落の中では新感覚の建物に見えるが屋根の飾りと対聯はすでに根付いた風習なのだろう、にぎやかに神獣たちが屋根に絡みついている(写真30-4-2f)。
   よくよく見ると、花をつけた槐の見慣れた枝々が視線を遮っているのが分かった。またこの村落の民家の壁に使われていっる煉瓦は赤レンガと黒煉瓦が同居し、また瓦も黒煉瓦と黄土色の絵瑠璃瓦が同居している。
  そして黒い神獣は一切見られない。ということは、黒瓦には神獣がいない(写真30-4-3a、3b、3c)というどうでも良いことに気がついてしまった。
   一通り家並みの間の路地歩きを終え、少し行くと、清凉寺汝官窯遺址と御影石に刻まれた石碑が現れた(写真30-4-4a)。
   裏側には、この遺址の説明が記されている。
  「清凉寺汝官窯遺址は宋代の官窯であり、宝豊県大菅鎮清凉寺村に所在する。北宋晩期に汝窯は官窯とされ、皇帝ご用達の瓷器を生産した。宋代の五御用窯の最上位の官窯であった。….その規模は、清凉寺村南小石橋を中心に、南に1235m、北へ760m、東に440m、西に370m、総面積133.2万平方m。…..。」と書かれている(30-4-4b)。
   掘り崩され、地層が露出した一角が見えたので、もしかしたら焼き物の原料とする粘土層が見えるかも知れないと思い、、近寄って観察してみることにした。
  露出した塗装表面は白くマダラに見える土と茶褐色の部分があることが分かる(30-4-4c,d)。
 表面が乾燥しているので分からないが、水分を含むと灰色っぽくなりそうな土であるので、粘土は地元のものを使ったのであろう。
  車のある場所へ戻る途中、土産物屋、と言っても普通の民家のたたずまい、に足を踏み入れ、売り物の陳列品を見てみた。30mm□くらいの大きさの陶磁器の破片が無造作に陳列されていて、その一片が3000円ほどとのこと。
  そして、これほど高価な理由は、日本人観光客が競って購入しているうちに高くなったとの牛潞さんの説明であった。バブルの頃の話だったのだろうか。本日の観光予定を終えて、宿泊ホテルのある平頂山の中心地に向かう。
       -----つづく -----







2012/06/20 21:19:34|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--6--

日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)


--5-- 南陽 内郷県衙


   Chinavikiによると、内郷県衙とは、「内郷県衙は保存状態が完璧な封建時代の県級の役所跡である。河南省南陽市内郷県東大通りの西端にあり、1304年の創建で比較的 完全な姿で保存されている清代の県衙である。数回にわたって修繕し、現存する部屋数は 117もある。」と紹介されている。


   南陽市は二つの区、一つの市、十の県からなるが、内郷県はそのうちの一つ、さらに行政区画として、赤眉鎮(後出)を含む九つの鎮、及び七つの郷からなっている。117の部屋数のうちのめぼしい建屋の配置模型が、博物館に展示されている(写真30-3-1a)。


   それによると、最初の入り口は、「菊譚古治」と記された扁額の掛かる門である。「菊譚古治」の意味は分からない。


   次いで、「内郷県署」と表記された門(写真30-3-1b)、これをくぐると、県衙の方庭が現れ、左右に、食堂(膳館)(写真30-3-1c)、「清慎勤」と書かれた扁額の掛かった建物(写真30-3-1d)、「内郷県正堂」(写真30-3-2a)、「琴治堂」(写真30-3-2b)など多くの建屋が並び、正面に「儀門」と表示された門(写真30-3-1a)があり、用ありの県民はここで最初の受付をしたのであろう。


   「儀」という文字の意味には、贈りもの、進物という意味もあり、「儀門」をくぐり、なんらかの用たしをするということは、門衛を通じて、用件の相手(役人)になんらかの贈りもの、即ち賄賂を贈ることと同義だったのかも知れない。


   役所は、中央、省、(府、州、県)は同じ組織分掌になっていて、中央の吏部(人事院)、戸部(財務省)、礼部(文科省)、兵部(防衛省)、刑部(法務省)、工部(通産省)の六部が、省では六科、府・州・県では六房となっている(写真30-3-2c)。


   刑房では牢屋や、いろいろな刑の執行の様子が展示されていた。展示館なので中国の歴史的な刑が図入りや実物大模型で展示されていた。八つ裂き、車裂、打ち首、腰切り、釜茹で、毒殺、顔面入れ墨、鞭打ち、拷問、労役などの刑罰の様子が展示されている(写真30-3-2d)。文字を見ただけでも恐ろしくなるが、図入りや実物大模型を見ると更におそろしくなる。


   韓流歴史ドラマには多くの刑執行場面が出てくるが、いずれも中国から伝来したもののようである。


   刑執行の場面を展示する目的は、このようなおっかない刑を受けない様に「心を公に向けて、正しく清く生きよ」とメッセージを庶民に送っているようにみえる。   少し行くと、「公正明」と朱彫された石門が現れた(写真30-3-3a)。心を公に向けていれば世の中の総てが明らかになる、という意味で、「公正明 偏生闇」という荀子の言葉から来ている様である


  また、この県衙には道教寺院が併設されている(写真30-3-3b)。政(まつりごと)は祀り事(まつりごと)と一心同体と言う意味か、獄死者を弔うためか、それとも、心を公と神に向けていれば世の中の総てが清く明らかになる、と言う意味か分からないが、役所内に寺院が併設されている例は日本では聞いたことが無い。


   すこし行くと、「酇侯祠」と書かれた扁額が掛かった建物が現れた(写真30-3-3c)。酇侯というのは、後漢を建てた劉秀の部下で、劉邦の部下ケ禹のことで、前漢の高祖劉邦の最高の文官の蕭何が酇侯に封ぜられたことを参考にしたのであろうか。


   県衙の中にこの様な「祠」があるのは県衙と言うのが、文官の働き場所、という意味からだろうか、そのような印象を受けた。


   その県衙に働く役人は初級科挙に合格した人物を選ぶが、その試験(県試)も県衙で行われ採点もここで行われた模様。その様子を展示されていた(写真30-3-3d)。


   採点官は、採点が終わるまで完全に缶詰め状態で、俗称秀才と呼ばれる人がこの任務にあたった。


   一通り参観をを終え、ふと屋根瓦の頂をみると一羽の鳥が羽をたたみ休んでいるのが見えた(写真30-3-3e)。


                --- つづく ---








2012/06/16 23:30:11|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--5--

日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--5--


 南陽 武侯祠


   朝8:30にホテルを出発。最初の目的地は諸葛孔明の武侯祠である。中国全土に9か所あり、成都に次いで二番目に大きい武侯祠とのこと。南陽市の卧竜崗に位置する。かつて南陽で草葺の家で自ら耕したため、晋代になって、南陽の人は卧竜崗にて祠を建てて彼を記念し始めたそうである。


  車から降りて最初にくぐった門(写真30-1-1a)は石製の鳥居と言う感じがする。また鳥居の一部は比較的古く、そのまわりを新しい石で補強したように見える。


   門をくぐり直進すると、重量感のある黄土色の三鼎形の灯篭が現れ、その向こうには〇○皇帝三顧処と書かれた山門が見え、更に今度は四足の灯篭があり、その後ろに朱色の壁を持つ武候祠本体が見える(B30-1-1b)。


  武候祠(B30-1-1c)は通過口が三ケ所あり、中央の通過口の上部には郭沫若の筆による「武候詞」という文字が浮かぶ。武候詞は明清時代にも増築が行われ、歴代の題記、石碑が約400もある。


  中央の通りには石碑坊、仙人橋、山門、大拝殿(写真30-1-1d)、草廬、寧遠楼(写真30-1-4f)があり、両側には諸葛井、碑廊、古柏亭(写真30-1-2a)、野雲庵(写真30-1-2d)、老龍洞、伴月台(写真30-1-3a)などがある。


   その他には三顧祠(写真30-1-3d)、臥龍湖(写真30-1-4b)、龍角塔、漢碑亭(写真30-1-4d)、道房殷、読書台、臥龍書院などがある。 歩いている途中数段の石垣があり、そのふもとに紫色の花を見つけた(写真30-1-1f)。


  諸葛菜であれば、場所柄見事だが、紫つゆ草であった。他にもいくつか由緒のありそうな建造物があったが、名前は分からなかった(写真30-1-3b、1-4a、2-1a)。


   諸葛菜は日本では真っ盛りであるが、この花の由来は調べてみると以下のようなものであった。


  諸葛亮が10万の大軍を率いて南征したときには、日に何万斤という野菜が必要だったが前線では野菜が少なく後方から補給するにもあまりにも遠いので、将兵は野菜不足に悩まされそのうち顔は青白く戦意も挫けがちになってきた。


  諸葛亮も「困ったことになったぞ」と気が気ではなかったが、ある日のこと武都山で土地の者が茎が太く葉が大きく根が大根のような野生の菜っ葉を食っているのを見かけた。


  「それはなんですか」と丁寧に尋ねると「これは蔓菁(←草冠に青)(カブラの漢名)という物で、生で食べることができるし、煮て食べてもよい。残ったら干して塩漬けにして後で食べることもできる。簡単に育てることができるし、1株で何斤(1斤は約223.73グラム)にもなる」とのこと。


   「これだ」と思った諸葛亮は、兵士たちに命じて陣営のまわりに蔓青を植えさせた。すると、案の定、苗はぐんぐん育ち、山のように収穫することができた。調理してみれば、味はよし調理も簡単ときた。


   彼は武都から漢中に引き上げるときに株を持ち帰って植えたうえ、成都にも使者を送って栽培させた。これ以来、蔓菁は野生から人工で栽培される野菜となり「諸葛菜」と呼ばれるようになった。


   もっとも根っこが人の頭ほどもあるので「人頭菜」とも呼ばれているが、これが今でも人びとに歓迎されている野菜の「諸葛菜」なのである。


   そして、もう一つ諸葛孔明に因む言葉は「晴耕雨読」であろう。諸葛孔明が世に出る前の隠遁生活の様な記述が見つかるが、中国の故事成語辞典にはこの言葉は見つからない。


   日本人の造語らしいのである。この「晴耕雨読」という言葉は、会社をリタイヤした高齢者の理想的な生き方を表す言葉としても良く使われる。この場合、「晴耕雨読」は健康維持、趣味の為の読書であるが、孔明の場合は、これから世に出る前の準備段階と言う点が大きく異なるのである。


   ガイドの牛潞さんが、「この石碑に書かれていることは中国人であれば、誰でも知っているのですよ。」と言って案内してくれたのは、「陋室銘」と題字された高さ2mほどの石碑であった(写真30-2-1e)


    山不在高 有仙则名。水不在深,有龙则灵。


     斯是陋室,惟吾コ馨。苔痕上阶绿,草色入帘青。


    谈笑有鸿儒,往来无白丁。可以调素琴,阅金经。


     无丝竹之乱耳,无案牍之劳形。南阳诸葛庐,西蜀子云亭。


     西蜀子云亭。 孔子云:“何陋之有?”


と彫られていて、 その意味は、『山の大切なことは高いことにあるのではなく,仙人が住んでいれば有名になる.水の大切なことは深いことにあるのではなく,龍が住んでいると神秘的なすぐれたところとされる.


   この私の狭く小さい家ではあるが,私の人格は香り高く優れているのであるから,恥じることはないのだ.斑点のようなコケが階段を上って緑に,草の色は簾越しに青々と眺められる. 談笑しているのは,ここに集まる大学者たちであるし,卑しいものの行き来するのは見られない.


   ここでは琴を弾くことも,貴い書物を読むこともできる. 騒がしい楽器の音が耳を汚すことも,役所の文書や手紙で煩わされ,疲れることも無い.南陽の諸葛孔明の草廬や,成都の揚雄の載酒亭など,古来の名士の奥ゆかしい庵室にも比べようか.


   そこに住む人に君主の徳があるときは,孔子も「何の陋かこれあらん」と言っているように,私のこの陋室は少しも陋ではないのである.』


  石碑の前には次から次へと、その石碑を背景に写真をとる人が現れる。確かに中国人にとって、生き方の手本となる漢詩なのであろう。


  幼い時にこの漢詩を暗記し、その時は全く意味が分からなくても、長ずるにつれて、いろいろな体験をするなかで詩の一節一節の意味が分かる様になり、自分のものになる。中国人はこの様にして骨太でゆらぎのない人生観を心の中に沈めてゆくのかも知れない。


       --- つづく ---