槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2015/02/17 22:09:01|旅日記
日本のものづくり文化の源流を求めて 5月1日 洛陽民族博物館

5月1日 洛陽民族博物館

二度目の洛陽である。
世界で初めて地震計を発明した張衡が活躍した後漢、そして南陽が出身の劉秀、後の光武帝が開いた後漢、そして後漢帝国が崩壊し、三国志時代への幕開けにつながった後漢、遣隋使の前に倭国との接触があった後漢、更には、後漢崩壊の元凶とされた霊帝は、その縁者が朝鮮半島南端経由で倭国に渡り、坂上田村麻呂を末裔にすることになっていることで有名でもある。

 その後漢の都が洛陽である。その縁者は3000人もの技術者を含む大集団を引き連れ、その終端地倭国大和の地に至り、そこでモノづくり文化を花開かせた、と言われている。

 今回の旅では、洛陽では洛陽民族博物館と神州牡丹園、そして漢魏故城に寄り、その洛陽を更に西に越え、河南省の中で比較的人口が多く、大きな市では最も西部に所在する三門峡を訪れた。

 洛陽民族博物館は、信俗、司法、婚俗、寿俗、刺繍、民間芸術の5分野に分かれて展示されている。陳列品は仏像、日常生活用品、家具、服飾品など、広く河南、洛陽一帯の民俗文化に触れることができる。と観光案内に記載されている。

 「「日本人のものづくり文化の源流」というテーマで旅行するので洛陽ではそれを満足出来る様な訪問先を探して欲しい」と牛潞さんに頼んでいた結果の行き先であった。前日訪問した近代的な構えの禹州鈞官窑址博物館や翌日訪問する洛陽博物館とは同じ博物館という名がついていても、全く異なる風情を漂わせていた。
 道路越に見た博物館入口門は寺院としか思えない建築物(画像1上段左)で、また正面から見ても、山門と呼んでも良い入口門は、左右対称に立派な側廊と側堂を従えていて(画像1上段中)、屋根にはお馴染みの神獣ではない屋根飾りが鎮座していた(画像1下段左)。

 その形がどうあれ、屋根の上に鎮座している以上、落雷、風雪等による自然災害から建造物を守るという意味あいを持つことは明らかで、特に落雷に伴う火災を最大の敵とみなしたことは、全ての屋根飾りに導線が接続されていて、落雷による大電流のバイパス路としていることから推測がつく。電流さえ屋根や屋根飾りに流れなければ、屋根や屋根飾りは発火しないのだ。その様な電気理論に基づいた落雷対策をきちんとやっている以上、古風で伝統的な佇まいはしているものの建造されたのは、それほど古いものではないことが想像できる。ちなみに博物館の部分部分は近代的なコンクリート製のところもあり(画像1上段右)、防火を最大の機能としていることを感じさせる。その山門(?)をくぐって進むと、手前に一対の狛犬(獅子)を従え、右から「大園宝鏡」と読める扁額が掛かり、更に左から洛陽民族博物館館蔵契約と読める文字列が目に入った。
 そして中に入ってみると木製の陳列品は確かに民族工芸産品と言うもので、伝統的なものづくり手法が生かされた珍品が展示されていた。

 その造りの特徴は木材と木材との嵌め合わせだけで創られていることであり、例えば木製の車輪を備えた運搬具は車輪が寄木篏合によって円形に作られていて、支えとしてのスポーク部も木製で木製の車輪と篏合させている高度な技術が使われていることが分かる。
 これらを見て、正倉院の校倉づくりを思い出しながら写真を撮った(画像2上段左)。車輪は8つのユニットが精巧な篏合設計と角度設計が必要であり、一つのユニットには2本づつスポークが嵌め込まれている。その篏合部は引っ張る力と圧縮力がともに働くのでいい加減な篏合では、すぐに車輪は分解してしまう。ユニット間の篏合部に加わる力も同様である。

 この様な車輪の精巧な篏合技術は、一朝一夕にできるものではない。おそらく戦争に必要な武器を運搬したり、敵の城塞の攻撃で、太く重い丸太をぶつけて破門する場面で、丸太に速度を与えるための耐荷重のある車輪が必要で、特に戦国時代や後漢時代、三国志時代に重要な役割をはたしていたのに違いない。

 これらの時代時代に中心的な舞台となった地は、洛陽であり、精巧な篏合技術はこの洛陽でこそ伝承する条件があったと言えるのではないかと想像を巡らせてしまった。

 更に、因みに洛陽は中国でも有名なシルクロードの通過点、また三国志の舞台となった地、世界で最初に地震計を発明した張衡が役人をしていた地でもある。
 日本の奈良の正倉院は、校倉造りという金具を一切使わない建造物として知られ、シルクロードの終端に位置し、シルクロードを伝ってきた宝物が格納されていることで有名であるが、この洛陽の木材の篏合技術は、遠く倭国の大和の地に伝来していたとも言えるのではないか。その他、一輪車(画像2上段右)、木製のざるや桶、分量を量る升(画像2中段左)、脱穀機(画像2中段右)や土を耕すための木製農機具(画像2下段左)のいづれにも篏合技術がふんだんに使われていることが分かる。

 これらの展示以外に、このコラムの最初に記した様に、信俗、司法、婚俗、寿俗、刺繍、民間芸術の5分野に分かれて展示されているが、婚俗の様子を展示したブースでは、おそらく清時代と思われるが、比較的地位が高い家庭と思われる結婚式の様子が展示されていた(画像2下段右)。不思議なことに新郎側(向かって右側)には男だけ、新婦側(向かって左側)には子供を含めて女だけが陣取っている。両家混じって男だけ、または女だけで団結することが必要だったのであろうか。

 どこの建物に貼られていたのか定かではないが、蘇武の言葉が目に入った(画像3左)。蘇武は前漢に生きた人物で、敵方(匈奴)の捕虜になって、寝返りを進められたが、漢への忠誠を忘れず、敵地で牧羊を営み(画像3右)、19年間を敵地で過ごしたのち前漢昭帝の時に漢に帰還した。
 極めて劣悪な環境でも強権に屈しなく、崇高な民族気概を守って来た蘇武の民族気概を謳歌している。洛陽民族博物館は、単に民族的な遺物を展示しているのではなく、歳月が経った今日蘇武の崇高な気概は中国倫理人格の見習う事とすべし、という理念を発揚させる象徴的な場にすることも考えていたのかも知れない。

 時刻は既に北京時間の16:00を過ぎていたので、次の訪問先である牡丹園に向かう。その途中屋根に太陽電池パネルを載せた家々があることに気が着き写真に収めた(画像4)。後日その写真を拡大してみると、太陽電池パネルではなく温水器の様であった。

つづく
 







2015/02/11 15:42:40|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)--8-- 禹州市神後镇 鈞窯遺跡

5月1日 禹州市神後  鈞窯遺跡

 朝8:30にホテル(画像1左上)を出発した。車で約1.5時間で最初の目的地禹州市神後にある鈞窯遺跡に着いた。と言っても昨日の清凉寺汝官窯遺址の様な窯址が在るわけではなく、博物館(画像1右上、左下、右下)である。

 禹州市は中国最初の王朝を開いた夏の禹王に因んだ町であると言われている。中華文明の発祥の地とされる。荘子などには黄帝をはじめ顓頊、帝喾、尭、舜などの支配地が禹州にあったとされ、特に大禹は禹州を中心に治水事業を行った功績により舜より夏伯に封じられ禹州を夏邑と改称、この地で即位し夏朝を建てたとされ、周代になると前408年に韓が国都を平陽より陽翟に遷都、これが現在の禹州に相当する。
 
 ついでながらその禹王については、禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。

 さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。とWikipediaに紹介されている。治世の模範とも言うべき人物である。

 かなり立派でスケールの大きな博物館であり、まだ最近作られたばかりの博物館のようであった。正式名称を中国禹州鈞官窑址博物館と言う。たくさんの財産を持っていても鈞窯の破片一枚にも及ばないと言われるほど数が少ない官窯による焼物とのことであるが、それだけでそれほどの価値を持つはずはない。鈞窯磁器の特徴は釉の美しさと言える。

 その釉は、天青釉(還元であざやかな青が発色。濃淡さまざまな青である。 鉄分を含む釉薬で、土から採れる釉薬にガラス質の長石、鉄分が入った土を混ぜて作られる。)、月白釉(げっぱくゆう)(亜鉛、銀、チタンなどを含む釉薬である。白と緑の中間 月の色を表現している。)、紫紅(しこう)(色鮮やかな釉薬でここで発明された。  銅を使った釉薬。銅を含む土が大量に使われる。紫を上手に使うのが鈞窯の特色。酸化は赤色を発色させ、還元は青や紫を発色させる。)の三種の釉が巧みに使われた。

 1974年に発掘された官窯遺跡は凝りに凝っている。窯が二つつながる双子窯で、最初は片側で焼かれて徐熱。煙突をふさぐと反対側の通風孔へと流れ、隣にも火がついて還元されるという特殊な構造をしていたらしい。それら色彩豊かな鈞窯磁器を陳列している(画像2、画像3)。

 中国でも、日本でも博物館を訪れた時、陳列品を見たときは、その素晴らしさに感動しても、それを記憶にとどめておくのは難しい。特に印象に強く残った陳列品は、イメージに残っても、その陳列品の名称を記憶にとどめておくのは困難である。それでは困るということで、陳列品を解説したパンフレットや書籍を購入することになる。この博物館で購入したのは、「窑火凝珍」と言うタイトルの小冊子である。

 この博物館には陶磁器だけでなく、ポスターにて禹州市に近在した遺祉、故窯祉を地図にまとめたり、禹州に因んだ著名人物のブロンズ像や、かつて窯場のあった村の人々の生活の様子を伝えている(画像4)。

 そして展示の総括として、「磁器は中国が古代文明史に残した巨大な貢献の一つである。中国の長く輝かしい歴史に於いて、人々の関心を引き付ける巨大な輝ける星であった。そして鈞窯磁器はなかでも最良のものと言える。鈞窯磁器の輝かしい歴史は、長い世紀に亘って人々の智慧と創造性を証明するものである。それは鈞窯磁器の発展に大きなエネルギーを注入し続けてきた彼らの不断の努力と寄与であり、それによって繊細で美しい陶磁器を創りだしてきた。鈞窯磁器は、中国または世界の陶磁器の歴史の中で、禹州が重要な位置にあることを確かにしている。禹州の鈞窯磁器は既に知名度の高いブランドとなっている。輝かしい製陶の伝統と創造の精神に立脚し、禹州の人々は鈞窯磁器の新たな発展をめざし、中国の文化の発展に寄与しようとしている。」と、この博物館は締めている。
 







2015/02/10 10:15:00|医工連携
医工連携 診療検査データは生かされているか?(加齢黄斑変性治療)

  1. 医工連携 診療検査データは生かされているか?(2)
 
医工連携 加齢黄斑変性 治療体験

「眼科手術説明書」と「手術同意承諾書」
 眼科医院を転院し、3度目の通院で加齢黄斑変性の治療(手術)をすることになった。
「ルセンティス以上に効き目が顕著と言われているアイリーアによる治療をする」との医師による説明があった。2回目の通院時に、「日帰り手術を受けられる方へ」という説明書、治療当日持参する記名捺印する「眼科手術説明書」、「手術同意承諾書」及びアイリーアの製造元バイエル薬品株式会社と販売元の参天製薬株式会社による「アイリーアによる治療を始められる患者さまへ 加齢黄斑変性」というパンフレットをもらった。

 「日帰り手術を受けられる方へ」には、手術前の処置として、点眼液ペガモックスを手術前後各3日間点眼すること、手術日及び来院時刻、抗生剤内服薬の服用期間、洗顔、入浴開始可能日などが記載されている。

 また「眼科手術説明書」には、1.診断:右眼)加齢黄斑変性、2.手術方法 □術式:右眼)硝子体内注射(アイリーア)、□麻酔方法:局部麻酔、□手術時間:約10分、□術者:担当医師(実名)、3.スケジュール □手術日時、□来院時間、4.手術が必要な理由:レ手術をしないと視機能を維持できないため、5.他の選択肢:レ光線力学療法など×点眼薬や内服薬による治療×無治療で経過観察、6.手術をしない場合に予想される経過:レ失明などの状態の悪化×不変×自然治癒、7.緊急度:レ数週〜数か月以内に手術が必要、8.手術によって期待できる結果:レその他:病気の進行予防、9.手術による危険性:レ麻酔・投薬によるアレエルギー反応やショック、レ感染、出血、網膜剥離、白内障などの手術特有の合併症、レ視力低下・屈折や視野の変化・歪視・福視の出現や後遺症、レ再発する可能性、レ再手術の可能性(以上の”レ”は選択枝の中から選択した項目、”×”は該当しない項目の意味)
と記載されていている。「眼科手術説明書」と「手術同意承諾書」は提出書類と本人控えの複葉となっている。

◆術前症状
アムスラーチャートという直線の歪みや欠落、暗視領域の有無をチェックする為のシートがあり、見え方は3つのタイプに分類される(画像1上)。自分の場合は、直線の歪みはあるが、欠落、暗視領域は無いタイプである。

網膜組織構造(正常眼との比較)
この様な見え方をするのは、画像1下に示す様に、本来凹曲面の黄斑部が、脈絡膜にある新生血管の成長が網膜色素上皮を突き上げ突き抜ける様に展延し、網膜下に於いて新生血管からの出血や漏れ出た血液中の水分(滲出液)により、黄斑部の中心窩が持ち上げられることが原因と「アイリーアRによる治療を始められる患者さまへ 加齢黄斑変性」というパンフレットに記載されている。

更に分かり易く、各組織の名称を加えてより分かり易くモデル図としたのが画像2上である。因みに実際の自分のOCT像を左眼(正常)と右眼(加齢黄斑変性)とを比較して画像2中&下に示した。左眼は正常、右目が罹病眼である。

治療効果
 何故新生血管が発生するのか?同パンフレットには、「新生血管が発生・発育して血液や滲出液が漏れだす原因物質としてVEGFが見つかっている。VEGFは正常な血管を形成し、維持するために不可欠な物質だが、本来は不可欠な物質だが、加齢黄斑変性では悪い働きをする」とある。
 アイリーアの治療は、VEGFの働きを抑える抗VEGF薬治療なのである。何故、血管新生が起こるか?ウィキペディアには、「健常な成人では血管が新生する必要は通常ない。血管新生が起こるのは、 創傷治癒の過程、 慢性関節リュウマチや糖尿病性網膜症または乾癬などの炎症部、 心筋梗塞や閉塞性動脈硬化症などでの虚血部位周囲での側副血行路の形成、 悪性腫瘍などである。」とある。過去関節リュウマチや脳梗塞、狭心症を罹病していて、現在糖尿病薬物治療を続けている我が身にとっては、残念ながら思い当たる節ばかりである。以下の血管新生について説明しているURLには、血管新生に関与する因子がVEGF以外にもあることが記述されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%AE%A1%E6%96%B0%E7%94%9F
 更に、同様に抗VEGF薬のルセンティス治療をweb検索すると、分かり易い動画が紹介されている。
http://www.lucentis.jp/m_medical/lucentis_base/m_sayo/index.html
画像4上はその中の二つのシーンについて示していてVEGFとそれを捕らえる抗VEGF薬ルセンティスの作用機序が映像化されている。この作用機序はアイリーアも同じであろう。

治療手順
@手術に先だって、眼の感染予防として、三日前から、一日4回抗菌点眼剤「ベガモックス」を点眼する。
A手術当日は開始30分前に病院に到着し、看護師さんの説明に従い、手術着(上着のみ)のを着用、散瞳薬の点眼があり、前の人の治療が終わるまでリクライニングチェアで待機
B予定の開始時刻に手術室に徒歩にて移動。手術用リクライニングチェア座り、顔の向きを少し右に傾ける。右眼から溢れた麻酔薬、洗浄液が流れ落ちやすくするためだ。
C右眼だけが露出する穴の開いたビニール製の覆いを顔面に固定
D麻酔薬が溢れる程、何回も流す。そのうち右眼の感覚が無くなってきて視界がボケてくる。目玉を動かす筋肉が麻痺している感覚となる。
E「少しチクっとするかも知れません。」と医師の声とともに、眼の奥に強い圧迫感を感じる。思わず「ウっ」と声が出る。経鼻内視鏡を挿入した時の感じと似ているが刺された感覚とは程遠かった。
F「終わりました。」との声のあとは眼帯かと思ったがガーゼ状のもので抑えた後はその上から絆創膏で固定。「どの位の太さの注射針を使ったのですか?」と聞いたら、注射器を見せてくれながら、「32ゲージもあるのだけれど、今回は30ゲージを使った。」とのこと。因みに、1インチ(25.4mm)の1/30なので、外径0.85mmφ程度となる。
G手術室からリカバリールームへ戻り、着替えて、支払い(51,220円)を済ませ、片目で帰宅。
H昼食後から抗生剤内服薬を服用
I翌日8:30に通院し、眼帯を外し、眼底検査
Jその週の金曜日4:58に通院し、術後経過を観察

術後のOCT像を撮り、術前との比較(画像3下)。僅かにふくらみは減っているが、画像3上に示された程顕著ではなかった。しかし医師は「きわめて順調な経過で、出血もじきに治る」とのこと。その他、看護師のオペレートで、眼圧、視力検査を行った。「PC操作を変わらずやっても問題無いか?」に対して「問題無い。」との事だった。画像4下に示す様に、「病状の進行は収まるが、視力が回復することは期待できない。」との事だった。とは言うものの少しでも視力が回復してもらいたいものだ。

 それにしても転院前の医院では、「まだ治療する程悪化していない」と、その病状の治療方針に結びつかない検査と、内服薬と点眼薬の処方のみの様子見だったが、このグラフは、「加齢黄斑変性と診断されたらなるべく初期の状態で治療を受けるべし」、ということを意味している。危ないところだった。金曜日の診察時に2回目の治療日を約一か月後の月曜日と決まった。
 







2015/02/07 13:08:53|医工連携
医工連携 診療検査データは生かされているか?
  1. 医工連携 診療検査データは生かされているか?
 
◆散瞳薬障害
糖尿病性加齢黄斑変性に罹病し、自宅から歩いて行ける距離にある眼科医院に通院していた。ところが眼底チェックの為、散瞳薬(観察しやすい様に瞳を広げる点眼薬)が使われる。そして注意事項として、「すぐ車を運転するな!」とある。実際、しばらく眩しくてとても運転どころではない。仕方なく一晩最寄りの眼科医院に行くしかなかった。
 
◆気休め検査が多い
その眼科医院での検査は、医療費明細書によると、初診料(保険点数:282)、屈折検査(同:69)、角膜曲率半径計測(同:84)、調節検査(同:70)、左右静的量的視野検査(同: 290@片側×2)、生体染色検査(同:48)、矯正視力検査(同:69)、精密眼圧検査(保険点数:82)、細隙燈顕微鏡検査(前眼部及び後眼部)(同:112)、精密眼底検査(同:112)、眼底三次元画像解析(同:200)、処方箋料(その他)、(同:68)、一般名処方加算(処方箋料(同:18)、コピー代(同:@10円×2)となっている。

 この稿を記載しているうちに気が着いたのだが、この医療費明細書には明細書発行医院の名称(医院名等)が記載されていない。因みにいくつかの他の医院から発行されている医療費明細書には、いずれにも医院の名称が記載されている。ここでの初診料は計1796@保険点数)となっている。尚、初診料を取られたのは受けなくてはいけない診療日に都合で行けず、隔月となってしまったので、既にカルテがあるにも拘わらず初診料を取られてしまったのは患者側の責任なので仕方がない。因みに再診料は(同:73)である。

 いろいろ不信感を持ち、結局転院したのだが、転院後病院の初診の時の医療費明細書を見ると、初診料(保険点数:282 同じ)、屈折検査(同:69 同じ)、矯正視力検査(同:69 同じ)、調節検査(同:70 同じ)、角膜曲率半径計測(同:84 同じ)、細隙燈顕微鏡検査(前眼部及び後眼部)(同:112 同じ)、ミドリンP点眼液1ml(保険点数:3 転院前の医院にはなし)、精密眼底検査(同:@56×2 同じ)、眼底カメラ撮影(自発蛍光撮影法)(同:510)、眼底三次元画像解析(同:200 同じ)ここでの初診料は計1593@保険点)であった。

 また、転院後の医院では、細隙燈顕微鏡検査、精密眼底検査、眼底カメラ撮影(自発蛍光撮影法)、眼底三次元画像解析検査は医師が自らオペレートしてくれたのと、気休めの薬は処方しない方針らしく、これまで服用していたカルナクリンやティアバランスの処方は無かった。

 転院前の医院では精密眼底検査、眼底カメラ撮影(自発蛍光撮影法)以外全て看護師であった。また転院前の医院では、左右静的量的視野検査で、いつもとランプが点灯する位置が違うので、おかしいと思いその旨、検査中に指摘しても、「問題無い」、と言い、検査データのコピーを欲しいと言ったところ、
「実は条件設定を間違っていたが、それでも良いか、コピー代が両目で20円かかる。」とまで言い、結局、再検査はしてくれなかった。もともとこの転院前の医院では、検査の中では比較的保険点数の高いこの視野検査を一回おきに行うのだが、検査結果のフィードバックを医師がしてくれたことは一度も無い。

 また加齢黄斑変性の治療方法として「友人がルセンティス治療をしているが、自分の場合まだそこまで悪くない。」と言われ相手にされなかった。しかし、転院後の医院では、「ルセンティスよりもっと治療効果の大きなアイリーアという薬があるので、それをやってみましょう。」と初診の際に言われ、2回目の通院時にアイリーア治療をすることになった。

 この治療内容は次回の投稿時に記載するが、転院をきっかけに、転院前の医院が如何にいい加減な診断(検査)治療をやっていたかを知るところになった。保険料を高くするばかりの気休め検査、薬の処方、そして治療方針に結びつかない診断(検査)をしている。

 眼科は高齢の患者が多く、また医療知識が無い高齢者が多く、検査のフィードバックもしてもらえず、言われたままの診療代を支払う。

 診療費の自己負担率を上げる前に、先ずは医院側の実態を調査し、気休め検査や投薬をなくすだけでも、保険医療に対する国庫負担が軽減することは明らかである。

 転院後の医院は、診料時間が長いという不評を聞いていた。しかし、それは一人一人丁寧に診ているからであり、疑問や心配ごとに対して時間を取って丁寧に説明してくれるからであることが分かった。看護師もベテランが多く、安心感がある。
 







2015/02/06 20:56:47|旅日記
初詣3社(3)高麗神社

3)高麗神社
湯島聖堂。神田明神に詣でた日とは異なる1月19日(月曜日)大学は非常勤の休みの日だったので、家内と近くの高麗神社(写真13)を詣で、厄除け祈願、祈病気平癒、方位除けのお祓いをして、「高麗神社祈祷神授璽」をもらってきた。家族の他のメンバ−は祈病気平癒の代わりに健康祈願をした。一般の参詣者はお祓いをせず、絵馬での祈願(写真14)やおみくじ(写真15)更には千羽鶴(写真16)供養というのもあった。
 この神社は韓国人、北朝鮮人の参詣者も多く、他の催し物と共催で「日本と百済、新羅、高句麗との交流の歴史に関する学会」が開催された時、全く予備知識なしにこの学会の聴講をしたことがある。友人からの影響もあったが、「朱蒙」を始めとした韓流歴史ドラマにのめり込んだきっかけになっている。但し、現在は華流レンタルビデオを鑑賞することが増えている。
 高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光で、元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきた。若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たり、若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀った、とホームページに書かれている。
 一緒に祈祷を受けた多くの人が、「出世祈願」をしていたことからも分かる様に高麗神社は「出世明神」と広く知られている。これは浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことかららしい。
 高麗神社は平成28年(2016)には、高麗郡が設置されてちょうど1300年を迎えるのに伴って「高麗郡建郡1300年記念事業」を開催するのだそうだ。筆者は記念事業の一つの、「渡来人の里講演会」を聴講したことがあることは前述の通りである。