槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2015/07/12 12:48:00|旅日記
江南三国志 3)荻浦古民家群(申賭氏宗廟等)

3)荻浦古民家群(申賭氏宗廟等)

 孫権故地から駐車場に戻るまでの道路わきの建物の外壁に目をやると、壁面に一杯に描かれた鮮やかな色彩の民族衣装をまとってポーズをとっている女性の絵(写真23-22)が目に入った。駱さんの説明では、「浙江省を地盤とする唯一の少数民族で、畲族(she zu)という名前。普段は普通の人と全く区別がつかず、祭典の時にのみ、あのような衣装を着て現れる」のだそうだ。いつか、その祭典を鑑賞してみたいものだ。

 この日は、朝8:30に出立したこと、また高速で1.5時間ほどと、比較的杭州(西湖湖岸)から近い諸葛八卦村が観光先だったので時間にゆとりがあり、帰途途中にある、お花畑や老街に寄ることになった。帰途、利用した高速道路の道路脇の植栽には白やピンクの夾竹桃が植えられていて(写真23-23)、気のせいか、前日より花の数が増えている様な気がした。

 老街の名前は、荻浦古民家群(写真23-24)と言い、その地域に人気のあるお花畑や明清時代の民家がそのまま残っているとのことだった。

 ここに寄るために比較的早く出発することにしたのである。お花畑(写真23-25)は日曜日ということもあり、行楽客でごったかえし、露店では、ソフトクリームやアイスクリーム、そして焼きリンゴなど日本でもおなじみのカラフルな飴などが売られていた。二人乗り用の貸自転車に乗った人達が所狭しと行き交う。

 お花畑にはラベンダーが咲き誇っているという話であったが、実際に咲いていたのは矢車草(写真23-26)と金魚草、そしてマリーゴールドであり、日本のきれいに整備された花園ほどではないが、休日を家族連れ、あるいはアベックで楽しんでいる様で、盛んにカメラのシャッターを切っていた。

 中国人は花を愛でる精神が日本人よりも薄いと思っていたが、この花園に群がる中国人を見るとそうでもない様な気分となってきた。花をめでる気持ちは万国共通なのだろう。
 ただ中国人は、素晴らしい光景にはBGMも必要で、西湖湖畔でも、ここでも音楽が間断となく流れていた。素晴らしいものをもっと素晴らしくしようという精神が旺盛だ。

 お花畑から古民家群までは徒歩で移動した。移動の途中、兄弟樹という二本の樹が合体してできた、そのまま船に使えそうな樹木に出会った。その樹の所を横切る人が順に木のくり抜いたような窪みに体を預けて写真を撮ってもらっているので、自分の番だと言わんばかりに自分も駱さんにシャッターを押してもらった(写真23-27)。

 更にもう少し歩くと、申屠氏宗祠(写真23-28、23-29、23-31)に辿りついた。申屠氏という名はなんとなく聞いたことが有るような気がしたが。思い出せなかった。中に入ると、申屠氏の姓氏源図(写真23-30)、即ち家系図が壁に架かっていた。これには中国最古の王朝、夏王朝の炎帝を始祖としている、と記されている。

 炎帝は中国史最古の医師と言ってよい神農氏と同一人物視されてきた。神農氏はwikipediaによると、世界最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)に名を残しているからである。
 それによると、神農はまず赤い鞭で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した(赭鞭)。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まり、そのせいで最終的に亡くなったという。

 前漢時代に名が載っている申屠嘉は、文帝のとき丞相となり。景帝のとき、チョウソを批判した。となっている。更に、西晋、東晋、宋、斉、梁、陳、隋、唐、後唐を経て宋時代の申屠理にて本族始祖となっている。
 従って、本族というのは、ここに祀られているのが浙江省にある分家の桐南申屠氏ということになるのであろう。
尚、姓氏源図に名がある後漢(東漢)時代の申屠剛は、『後漢書』列伝19・申屠剛、鮑永、郅ツ伝に載っていて、申屠剛は王莽にいう。「政治がみだれれば、天地がみだれる。直言の口をふさぐな。むかし周成王がおさなく、周公が政務を代行した。いま平帝はおさない。外戚に、政務をまかせよ。王莽が独占すると、霍光のように、族殺される」と直言した。

 そして、王莽が帝につくと、河西ににげた。巴蜀にゆき、20年ばかりゆるりとした。そして王莽の悪政にとって代わった光武帝に対しても、光武が出遊すると、「隴蜀が未平なので、あそぶな」といい、車輪にアタマを入れて、いさめた。その直言があって、光武は、出遊をやめた。以上の様に、申屠剛は誰に対しても直言の士であり、時の帝王には煙たがれたかも知れない。

 この申屠氏祠堂には明清時代のものと思われる農機具(写真23-32)が展示されていた。
 また申屠氏祠堂近くには、催しものをするための立派な舞台(写真23-33)もあり、申屠氏の栄華が思い浮かべられた.

 そして、最後に通り抜けた通路(写真23-34)は、明清時代の遺構といった雰囲気の一角であり、如何にも古民家群が共通に頼りにしていたインフラといった感じであったが、明清時代の遺構特有の不潔さは全く感じず、ここもゴミ一つも落ちていず、悪臭のかけらもしなかった。

 ホテルに着いてからの夕食は、コンビニ弁当で済ますことにした。幕の内弁当、果物、アイスクリームで、合計で30元程度であった。しかも量は、日本よりいくらか多かった。それらを入れてくれたポリ袋にはドラえもんがプリントされていた(写真23-35、23-39)。ドラえもんは世界中で人気がある。
 (以上 荻浦古民家群(申賭氏宗廟等)は完)
   つづく







2015/07/06 17:33:00|旅日記
「長江三国志の旅物語」 4)龍門古鎮(孫権故地) 

3)龍門古鎮(孫権故地)

 伴野 朗著の「呉・三国志、孫堅の巻」は孫堅少年が、はるばる富春(浙江省富陽)から銭塘江の海嘯を見に来た場面から始まる。その富陽にあって、多くの孫権の後裔が住み着いたのが龍門古鎮、別名、孫権故地である。孫堅の息子の内。兄が孫策、弟が孫権であった。

 富春は、銭塘、会稽、新都が作る三角形の丁度重心になる点に位置し、銭塘江は浙江とも呼ばれ、浙江は富春を流れ、そのあたりの浙江は富陽江と名を変える。と、伴野 朗は地形を紹介している。

 食客の手によって深傷を負った兄孫策は、自身と妻の大喬との間に設けた息子がいるにも拘わらず。弟の孫権に後事を託す遺言を遺した。重臣の張昭は、この遺言を実行した場合の孫権派と息子派とのお家騒動を心配し、大喬に息子とともに富春を離れることを示唆した。

 そして、大喬は息子とともに富春を離れる場面がTV映画、「三国志 Three Kingdoms 第3部《赤壁大戦》 第34話「孫策、孤をす」」に出てくる。屋形舟に乗って港を後にする様子が映像になっているが、その港こそが富春港で、大海の様な大きな川が銭塘江、即ち浙江であり、川を下ると杭州湾、上ると新都に向かう。いづれに向かったかは「三国志演義」では語られていないが、正史「三国志」には、蘇州に送られたところまでは記載があるが、その後の足取りは触れられていないのだそうだ。

 従って、富春は港町っぽい雰囲気のする町かと思いきや、杭州(西湖湖畔)から高速道路(G320)を一時間余りかけて至った先の龍門古鎮は、むしろ山に囲まれた盆地の中にあるような感じがした。

 入口にある案内板(写真24-1)には、中国語、日本語、韓国語、英語の4か国後で簡単な紹介がされている。

 駱さんが入場券を購入するとともに、ここの専属の案内の女性(写真24-2)を連れてきた。名前を孫さんと言い、孫権から数えて62代目の後裔とのこと。20代後半に見え、眼に軽い笑みをたたえている清楚でしっかりした、感じの良い娘さんの様に見えた。

 最初に目に入ったのは、大きな石に、金色の文字で「神奇龍門古鎮、孫権故里迷陣」と二列に縦に記された表札であった(写真24-3)。「迷陣」の意味がしばらくゆくと「ラビリンス」であることがすぐに分かった。

 建物は諸葛八卦村の様式とそっくりである。その大きな石を鎮座させた植え込みを区画する様に、酒甕が上に赤い布で覆われながら配列している。

 最初の検票口をくぐると、高さのある白い漆喰塗りの壁と、両側からそれらに挟まれる様に細い通路が現れた(写真24-4)。ここもまた諸葛八卦村と同様生活空間を兼ねているらしく、露天の店があったり、オートバイに乗って移動している人を見かけた。

 路地を左折や右折を繰り返しながら少し歩くと、孫さんそっくりの顔、髪型、体型、年ごろの女性が店番をしているラケットショップ(写真24-5)群に出くわした。
 テニスのラケットとバドミントンのラケットを販売している様子で、奥にガット張り装置を置いて、その最中の店(写真24-6)もあった。

 この様な観光名所にどうして?と思わず考え込んでしまう。またどこで製造している?という疑問も湧いてくる。その問いに対して、もしかしたら、と思う建物があった。入口に、工部と表記された建物(写真24-7)がラケットショップに隣接し、いかめしく建っているのが目に入った。工部というのは隋唐時代から清末まで続いた中国の官庁であって、今なら、経産省みたいな官庁であろうか。

 道路は相変わらず細いが、白い漆喰塗りの壁が片側だけにあったり(写真24-8)、片側が小川になっていたり(写真24-9)、小石が模様状に敷き詰められた、ちょっとした庭園あるいは広場(写真24-10)に繋がったりする。

 石畳ではなく、形と寸法が揃った小石が向きを揃えて、または模様になる様に敷き詰められている。小川に生活排水が流れだしている感じはなく、比較的澄んでいて河藻も生えていた。川端には食用のタケノコが干してあった(写真24-9)。

 これらの通路や広場にはタバコの吸い殻がところどころに落ちていたが、目立つゴミは落ちていず、諸葛八卦村と同様に清潔さを感じた。
 また、この様に建造物が密集しているところは火災の恐怖から免れず、川や池(写真24-11)の存在は重要なのであろう。
 生活空間を兼ねているだけに、通路脇に理美容室(写真24-12)もあり、室内は清潔であった。

 また、孫権の後裔たちが人口の大多数を占めるので、当然先祖崇拝の気風が強いはずで、孫権を祀る祠堂(写真24-13a,b)もあるが、諸葛八卦村で諸葛孔明を祀る気風よりは風が弱いように感じた。これは孫権よりも諸葛孔明の方が文明的で、後世に及ぼす影響が大きかったからだろう。

 次に村民の憩いの場、兼観光客向けのショーを行っている広場に出くわした。京劇でも、越劇でもない地方劇(写真24-14)で、日本で言うなら、地方歌舞伎や地方文楽と言ったところであろうか。演ずるのは全員女性とのこと。ショーの舞台のある建物は立派で(写真24-15)、屋根瓦には中国の歴史的建造物の屋根の稜線に鎮座する神獣の姿が見られた。

 また、この建物の中は、精巧な飾り物(写真24-16〜24-18)が展示されていて、簡単な民族博物館の様だった。またべつの場所での展示品であったが,明清時代に村民に使われていたと思われる農機具の展示(写真24-19)もあった。

 一通り古鎮内部の見学を終え、最初の広場(写真24-2)に戻った。最後に造形的な龍門と書かれた、鳥居ではなく門、の前で記念写真(写真24-20)を撮った。  5/24 龍門古鎮 完

   つづく
  







2015/07/02 22:05:14|その他
「江南三国志の旅」 2)諸葛八卦村

「江南三国志の旅」

2)諸葛八卦村

 諸葛八卦村を見学したあとの感想の第一は、生活空間を兼ねているのに、村内が非常に清潔で、ゴミが落ちていなかったことで、三国志とは関係ないことであった。

 諸葛八卦村という村の特殊性だろうか、それとも村民が皆清潔好きだからだろうか、それとも中国観光は3年振りだが、その間に、政府による強力で懲罰的な指導があったのであろうか。少人数のバラバラな清掃ではここまで、きれいにはならないだろう。村全体が一致団結して行動しないとここまでは出来ないはずだ。

 ただ、一致団結することは得意に違いない。何しろ村民の80%以上が、諸葛姓で、同じ祖先をもつのだから、きっと村に対する帰属意識が強いのだろう。帰属意識が強ければ、自分たちの村を一致団結して清潔にしようという意識も働くはずだ。

 村全体が清潔なもう一つの考えられる理由は、この村が祀っている諸葛孔明が本草学に明るく、薬草の栽培、処方が医者並みであり、その本草学にもとづく医術がこの村に伝承されていて、現在も薬草の栽培(写真23-1、23-2)や薬用の蛇の飼育(写真23-3)がおおらかに行われている。写真23-2は淡竹と書いてハチクと読む漢方薬であり、日本では食用にされる場合があり、また「破竹のいきおい」の"はちく"と混同されることがあるが関係ない。

 医術は清潔な環境のなかで有効であるので、清潔な環境づくりが諸葛一族の後裔を栄えさす条件という考え方が浸透しているのが理由なのではないか。

 村の一角に、曾て医家の民家と思える居宅(写真23-4)もあった。この居宅は、かつては医家の家(診療所)であったのだろう。柱には、「良医自古称扁鵲」と記され、「三国志」にたびたび登場し、お屠蘇の命名者である華佗よりももっと古く、その行動、人格、診察、治療のありさまが『韓非子』や『史記』、その他に、さまざまな逸話を残し、「漢方医で脈診を論ずる者はすべて扁鵲の流れを汲む」とも言われ、また彼の言動業績から「六不治」(ろくふち)など多くの漢方医学の用語や概念がうまれた. 扁鵲の流れをくむ、と記されている。日本では漢方薬メーカーが漢方薬にこの名前をつけ、痩身サプリメントとして販売されている。

 翌日の龍門古鎮の帰りに立ち寄った杭州一老舗の漢方薬局である杭州市の河坊街にある胡慶餘堂中薬は、清朝同治13年に諸葛氏後裔が創業した薬局とのことである。

 その諸葛一族の系譜は、大公堂(写真23-5)に貼られた系譜で知ることができる。この系譜では孔明(亮)の父、硅を初代とし、27代宗主にあたる諸葛大獅の時(=元朝の中・後期の1340年)からこの地に根づいたのだそうだ。現代が55代目なので、675年の間に28代変わったことになり、平均すると、一代あたり23.4年となる。

 この村の名前の諸葛という二文字は分かった。残りの二文字の“八卦”の意味だが、卦は爻と呼ばれる記号を3つ組み合わせてた三爻によりできたものである。爻には─陽(剛、一本の直線)と--陰(柔、一本の直線が真ん中で途切れている)の2種類があり、組み合わせにより、2の3乗=8、八卦となる。

 八卦のそれぞれの卦には卦名(乾、坤、震、巽、坎、離、艮、兌)がついていて、様々な事象、例えば、
自然(天、地、雷、風、水、火、山、沢)、
性状(健、順、動、入、陥、麗、止、悦)、
家族(父、母、長男、長女、次男、次女、三男、三女)、
身体(首、腹。足、股、耳、眼、手、口)、
方位(西北、西南、東、東南、北、南、東北、西)、
があてられている。

 陰陽魚太極図(写真23-6)を中心にして、その周りに八卦が配置されている。旅行後、八卦の意味を調べた結果は以上の通りだったが、ついでに韓国の国旗が陰陽魚太極図を模していることに初めて気が着いた。

 諸葛大獅が八卦の思想に基づいて、村づくりをしようとしたら、この地形ほど理想的なところは無いと思ったに違いない。四方八方8つの山に囲まれているのである(写真23-7)。

 また池も8か所前後ある(写真23-8〜23-12)。そのうちの一つで八卦の中心部にある池、鍾池(写真23-13)は上方から見ると、まさに陰陽魚太極図を表しているのである。

以上の様に、この村を特徴づけるのに八卦の思想があり、八卦の陣のように配置されている(写真23-7)ことが分かった。それだけではなく高低差もあり、少し高いところへ行くと、家々の甍の波が見える(写真23-14〜23-16)。この甍の波の写真をみて、海外旅行の経験豊富な友人は雲南省の麗江の高所から眺めた甍の波とそっくりだ、と感想を寄せてくれたが全く同感だ。

 そして、その家々の間を細い通路(写真23-17、写真23-18)が、高さのある白壁に挟まれて佇んでいる。その通路は生活用通路を兼ねているはずだが、ゴミ一つ落ちていなかった。静かで落ち着いた雰囲気の小道は一服の清涼剤的な空間であり

 諸葛孔明は赤壁の戦いの前に暴風雨を雨乞いによって降らせたという物語上のエピソードでも有名だが、おそらく孔明は気象学にも精通していたのではないだろうか。八卦師にとって気象学と天文学は「当たるも八卦」に少しでも近づけるために必須のツールであったに違いない。

 一通り見学して戻った広場に野菜、果物を販売する小型トラックの姿(写真23-19)があった。荷台には、西瓜、花桃、瓜、ライチ等の旬の果物、野菜が並べられていたが、売り手は携帯に熱心ではあったが、呼びかけもなく、売ることに全力を傾けているとはとても思えなかった。

 最後に、この村で見られたいくつかの象徴的なモニュメント(写真23-20)、門飾り(写真23-21)についても写真を添えておく。前者は集会所等の支柱の軒下に見かけたもので、後者は石製の太鼓の様なもので、門の入り口に配置され、その高さがその家の格を表すものとの説明であった。(以上、諸葛八卦村訪問記は完)

  つづく







2015/06/16 11:23:00|旅日記
長江三国志の旅物語(その1)

長江三国志の旅物語(その1)
 
1.序
 
 後漢末の勢力図は、劉備は徐州(長江北部、淮水あたり)に、曹操は、汝南、許昌、南陽がある豫州北部、袁術が、寿春、合肥がある豫州南部で長江に最も近い地域に拠っていた。
 また劉表は襄陽を含む豫州西部で長江の北に位置した。その他、董卓(長安、洛陽のある司州)、張角(兗州)、袁紹(冀州)、公孫瓉(幽州)が黄河の南北で勢力を張っていた。
 
 
それに、孫堅、孫策の呉で、当時は揚州で富春、会稽、銭塘、新都と長江東部を含有する。天下三分して抗争した時代に主戦場となる赤壁、洞庭湖、江陵、武陵、長沙のある荊州は劉表の影響力は大きかったが、この州に最初から拠った英雄は居ない。
 
 今回、訪問した観光地の、浙江省杭州市にある諸葛八卦村は諸葛孔明の後裔達が現在も住居し、孔明を祀る色彩が強く、呉に仕えた諸葛謹や、魏に仕えた族弟(遠縁の従弟、はとこ)の諸葛誕は家系図に載っているが、殆ど注目されていないことを思うと、蜀文化の色彩がつよい地。
 それに比べ、龍門古鎮は孫権の根拠地であり、その後裔が現在も生活している呉文化の色彩がつよい地。
 
 また観光先の安徽省にある合肥、寿春は、三国志の攻防に敗れた袁術が拠っていた地域であり、この地を巡って、劉備軍と呂布軍、その後の呂布軍と袁術軍の攻防が有名。
 
 合肥にある三国遺址公園あたりは曹操が武器を製造する工場があったあたりであり、その意味では魏国の文化の色彩がつよい地と言えるかも知れないと勝手に思っていた。
 
 ただ寿春は、旧称は郢、といい、南北交通の要衝であり、古来より兵家必争の地であった。三国志時代の約100年後の五胡十六国時代に淝水の戦いの古戦場ともなっている。三国志時代をはるかに遡る春秋戦国時代の楚の都であったことも興味を持たせ、訪問先として直前に追加した理由となっている。
 
2.日程詳細 
 
◆D1、5月22日(金)
NH929東京(成田10:10)−杭州(12:50)、
  杭州空港へ出迎え
  杭州泊 杭州華僑飯店(★★★)
  (310006 中国杭州上城区湖滨路39号)
     ・ホテルチェックイン後、
     ・西湖湖畔散策、
     ・駱さん、張さんに夕食御馳走になる)
                  
◆D2、5月23日(土)
専用車で諸葛八卦村へ日帰り観光。
   杭州泊  杭州華僑飯店 (★★★)
   ・夕食はコンビニ弁当
       (フルーツ、ソフトクリーム付き)
 
◆D3、5月24日(日)
専用車で竜門古鎮へ日帰り観光。
   杭州泊 杭州華僑飯店 (★★★)
   ・帰途、荻浦古民家群へ立ち寄った。
             (申賭氏宗廟等)
   ・帰途、杭州中心部(清河坊(河坊街))
           にある中国茶、漢方薬専門店
     (胡慶余堂?)へ 立ち寄る
   ・近くの生鮮スーパーを見学後、
        ・駱さん、張さん宅訪問 
   ・張さん弟夫婦を交え、焼肉店で8年ぶり
              再会パーティー 
            
◆D4 、5月25日(月)
ホテルを6:30に出発 新幹線で合肥へ
(7:33(杭州東駅出発)〜10:54(合肥南駅到着) 
     合肥到着後車で寿春へ、寿春古城、寿県博物館 
     孔廟見学 合肥へ戻る(寿県博物館は休館)
         安徽省博物院、逍遥津公園見学。  
    合肥泊 合肥百花賓館(★★★)  
 ・合肥中心街で食事
 ・スーパーで土産(「徽永祥」,「月餅」等)
       
◆D5、5月26日(火)
午前三国新城遺址公園観光。
午後新幹線で(15:11発ー17:24到着)杭州に戻る。
  ・杭州東駅から西湖湖畔広場駅までは地下鉄
      ・ホテルで旅費精算 
    杭州泊  杭州華僑飯店(★★★)
 
◆D6、5月27日(水)
午前中自由行動、11時頃迎えに、
NH930杭州(13:40)−東京(成田17:50)帰国。
        ・西湖湖畔の朝散歩
    ・本屋へ、「中国民間故事」と中国民歌
          (宋祖英、彭麗媛)CDを購入
   ・杭州空港で土産(杭州特産「黒麻糕」、
         「海苔香脆片」、「折盒」)

◆帰国後 駱さんから中国人の沖縄ツアーガイドで来日時にコンビニから宅急便にてCD2枚(チベット民歌とモンゴル民歌)を送付、受領
 
3.観光内容詳細
 
杭州空港に出迎えてくれた駱さんは、8年前の新彊ウィグルの旅以来の対面だが、その若さと美貌は変わらない。それに力強さが加わった様に思えた。空港から西湖湖畔にあるホテルまで、駱さんの運転、車は新彊ウィグルの旅でも大活躍の三菱パジェロで、今回の杭州での観光は全て、この車で観光(張さん運転)と送迎(駱さん運転)をしてくれた。
 
 杭州華僑飯店は三ッ星だが浴槽はあるし、朝食も癖の無い食べやすいものであった。水廻り環境は全く問題無し。夜お腹がすいた時の為にと、枇杷30個以上入った箱を手渡してくれた。
 その他、別の日だったか記憶があまりないが、ライチと花桃を一度には食べきれない量を駱さんからいただいてしまっている。因みに花桃は生まれて初めての賞味だったがおいしかった。
 
 杭州華僑飯店にチェックインし、少し休憩後、西湖湖畔夕景を駱さんの案内で散策。西湖夕景は、黄金色に染まった湖面に黒い影となった観光船が浮き上がって美しい(写真22-1)。
 
 その美しい夕景を背景にして人物写真を撮ろうとすると、逆光になり自分は良いが(写真22-2)、駱さんの写真はそうは行かない。逆光にならない角度に向きを変えてパチリ(写真22-3)。
 
 湖畔には小さな広場がところどころにあり、そこでは広場毎にダンス自慢、歌自慢、楽器演奏自慢、飼っている鳥自慢などの人たちが集って自慢の技を披露しているが、競い合うということは無く、自分流で楽しんでいるようで、中高年男女の舞台となっている。
 
 更に老境に達した人たちはベンチに浅く座り、対岸を静かに遠目に眺めている。彼岸を眺めているのかも知れない。
 そして、しばらく行くと、樹木の周りに人垣が見えた。近づくと、リスが見えた。人が食べているトウモロコシを失敬するリス(写真22-4)もいる。9年前に来たときには見られなかった光景である。
 
 少し夕日の方に向かって歩くと、一人の女性が、駱さんにカメラのシャッター押しを頼んできた。そういえば9年前に来たときにもそういうことがあった。時がゆっくりと流れている様に感じた。9年前に来たときは「梁祝」という曲が流れ、自分の知っていた曲なので、心躍らせる気持ちで湖畔を巡った記憶があるが、今回はそれは無い。
 
 御主人の張さんともども夕食を一緒にしようということになり、近くの喫茶店で張さんを待ち合わせることになった。「McCaffe」というマクドナルド系列(?)の喫茶店の様だ。
 
 しばらくして、張さんが現れた。8年振りだ。勤務先の車で、ホテルの駐車場まで来たのだそうだ。
 少し歩いた先のレストランへ入った。落ち着いた感じで、喧騒さや、紫煙の匂いも無く、明るさをいくらか抑えた寛げる雰囲気の店である。
 
 これまで中国旅行で困ったのが食事であった。食べきれない量が出てくるのと、なじめない香辛料が使われた料理が出てくると、野菜だろうが、肉だろうが、魚だろうがお手上げとなる。
 今回もそれが気になったが、杭州独特の料理法で姿、味が異なるものの(特にナンは日本に無い味)、全体に日本人の自分には心地良い味であった(写真22-6、22-7)食事代は駱さん夫婦が持ってくれた。謝々!
 
 帰りに再度西湖湖畔の夜景を楽しみ、写真を撮り(写真22-8、22-9)ホテルに戻り、今後利用する可能性の高い、ホテルに隣接したコンビニを下見して、翌日の出発時刻8:00を約し、ホテルの部屋に戻った。
 
        >>>>>> 続く <<<<<<







2015/03/08 22:25:01|旅日記
日本のものづくり文化の源流を求めて 5月1日 漢魏故城

漢魏故城

 既に北京時間の夕刻6:00を過ぎているが、この日の最後の訪問地の漢魏故城に向かう。頭書した日程とは大分変更されてきたが、移動にかかる時間を考えると、牛潞さん(画像2 3枚目)達の計画に従うしかない.洛陽は2泊3日の予定なので、日程調整の自由度が高いのである。

 さて、2003年に刊行された伴野 朗著「呉・三国志 長江燃ゆ」に、「著者も1980年夏に洛陽東郊の漢魏故城跡を訪れたことがある。....驚くほど何もない。董卓が長安遷都の時焼き払ったためだ。....大規模な発掘の予定はまだない、と聞いた。それだけにいくつかの保存策がとられていた。故城跡の畑では、井戸、用水路を掘ること、農薬の散布が禁じられている。また地面から1m以上掘る場合は国務院の許可を得ねばならないのだそうだ。」とある。

 そのせいか、人に殆ど出会わない通りを進むと、小さな詰所風の建屋に到着した。
恐らく、国務院管轄の管理事務所で、見学するには許可が必要なのであろう。この夕暮近い時刻では、とっくに誰もが帰ってしまっていても仕方ないのだが、北京よりも更に西にある洛陽は実質的な時差の為まだ明るく、まだ人が帰ってはいず、対応してくれて見学が可能となった。

 画像1はその詰所の中から鉄柵越しに撮った写真である。煉瓦積みの上に土壁が載っている高さ2.5mほどの衝立状の壁と、土だけから出来ている衝立状の壁とが直交して接続されている。この構造でよく1000年以上も風雨に耐えてきたものと感心せざるを得ない。

 洛陽には唐三彩という伝統的な焼き物を作る風土がある。また唐時代以前にも、唐三彩に至る伝統的で素朴な焼き物技術があったに違いない。

 焼き物は焼成温度の高い方からb器、磁器、陶器、土器となるが、いずれにおいても、水分を含んだ粘り気のある土は成型を容易にし、乾燥後は成型した形が容易には崩れないことが必要である。赤土はその典型的な素材であり、古代から住居の壁や、磚(瓦)として用いられてきていることが後日の洛陽博物館訪問で納得することが出来た。

 赤レンガには酸化鉄成分が含まれていて鉄イオンが3価から2価に還元されるにつれて色が赤から黒、青と変化してゆく。同時に、乾燥により材料の結合力が高くなり硬いレンガとなるのだそうだ。十分乾燥したレンガは削り易く寸法を揃え易いし、浮き彫りなどの飾り細工をし易い、というのも大きなメリットであろう。

 洛陽は、その様なものづくり技術を経験的に蓄積していて、その経験的技術を漢魏故城の築城(街づくり)にも用いたに違いない。

 2006年8月20日に刊行された「週刊シルクロード紀行NO.44洛陽」には、占部浩氏によるCGで、この漢魏古城が再現されている。城壁の長さは、北壁3.7km、東壁3.9km、西壁3.4km、壮大な城郭である。写真に撮った土壁(画像2〜4)が城郭のどの部分か、このコラムを書きまとめている時でさえ全く分からない。
 
ただ画像4の5つ目の写真の様に広大な麦(?)畑は何処までも続き、そこには民家は見られず他の建造物もみられなかったので、国務院の管理区域に違いなく、そうだとすると見学させてもらったところは漢魏古城のほんの一部ということが出来る。

 記念の写真を撮らせてもらったところ(画像4上から4枚目)は壁土がかなり崩れ落ちてはいるが往時を偲ばせる佇まいを見せていた。しかし地面には黒い豆の様な小さな塊が多数散りばめられていた。少し視線を走査させると、少し離れたところを老人が羊ではなくヤギを散歩させているのが見えた。

つづく