| 7)安徽省合肥
合肥近くになると、交通量が急増する(写真25-18〜写真25-22)。既に現地時間で17:30を過ぎているが、一路逍遥津公園を目指した。この時間でも、人出は多く、駐車できる場所を確保する時間が勿体ないということで、公園の入り口近くで駱さんと自分は降車し、早速公園に入ることにした。 門前の両側に獅子を備えた古逍遥津と書かれた南大門(写真25-23)をくぐると、馬上の張遼の石像が現れる。早速、張遼とのツーショット写真を駱さんに撮ってもらった(写真25-24)。
そのそばにあった公園の案内板(写真25-26)を見て、三国志に関係ありそうな見どころのロケーションを確認した。配置図の左側には、中国語と英語で書かれた簡単な紹介文があり、以下の通り記載されている。知っている漢字をつないでの意訳でえあり正確とは言えない。
「逍遥津は古合肥城の東南2km、津水と淝水とが出会うあたりに位置する。」
【コメント】淝水は長江に繋がっているので、長江沿いの各地からここまで、水路に沿って出向くことが可能なのだ。
「東漢(後漢)建安20年(西暦215年)、東呉の孫権は兵10万を率いて合肥を攻めた。魏将張遼は800人の勇士を率いて孫権軍を奇襲し,圧倒した。これが有名な、“張遼威震逍遥津”と呼ばれる(合肥の戦いの)一戦であり、現在の逍遥津公園一帯での出来事であった。」
【コメント】張遼と言う人物は、「三国志演義」に登場する人物の中では、自分にとっては馬超と同程度の関心度であったが、後漢末の動乱期に丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操の配下となり軍指揮官として活躍した、とある。 主君の上記4名は、いづれも「三国志演義」に登場する人物の中では、ネガティブな印象を与える人物であり、その配下の張遼も武勇のみが凄い。生涯劉備に仕えた関羽、張飛、趙雲、諸葛孔明と比べると腰が軽いと見ていただけに、今回の合肥訪問で、張遼像が大きく変わった様な気がしている。
かの有名な合肥の戦いに関しては、『三国志』本伝の方が大々的に張遼の武勇と行動力を書き綴っているのだそうだ。
「現在は、その遺祉(写真25-25)が本公園の東側にある。孫権が危機から脱する為に馬に乗って飛び越えた橋と言い伝えられている“飛騎橋”、あるいは、曹操の、“教弩台”(即ち明教寺)が、この近くにある。
宋代の道乾年間には逍遥津界隈は城内に入圏され、明代には官僚の私有物となり、“〇家池”と改称された。また清の康熙帝年間には、官僚地主が覇占するところとなり、“斗鴨池”と改名された。更に光緒年間には“豆叶池”と改名されている。」
コメント】自国の大将に危機一髪の危難を与えた張遼を呉側の人たちはどの様に見ているのだろうか。Wikipediaには、伝統的な中国の初学者向け教科書「蒙求(もうぎゅう)」には、「張遼止啼」という標題があり、張遼の武勇は江東にも広く轟いたので、江東の子供が泣き止まない時も「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と言えば必ず泣き止んだ、という逸話が紹介されている、との記載がある。 以上が案内板に記載されていた。先に進むと、左手に絶叫乗り物のある遊園地、右手には、彼方に合肥市街地が遠望できる池が見渡せた(写真25-27a、25-27b)。 更に先にすすむと、しばらくして、三国文化館(写真25-28)があったが、既に閉館後で、内部の見学は出来なかった。そして、更に先を歩いて行くと、張遼墓(写真25-25)が現れた。河南省南陽にある張衡の墓と似ていた。そこを一回りして元の道を戻り帰途についた。
合肥宿泊予定の合肥百花賓館は市街地にあるので、そちらの方に向かった。淮河路著名商店街(写真25-29)で、3人で夕食(カップラーメン)を摂った。因みに淮河路著名商店街は銀座を小ぶりにした雰囲気のある歩行街路で、シャネル、ジパンシー等の世界的な有名ブランドショップが並んでいた。
ついでに、近くのデパートを孟さんに案内してもらい、小分けしやすい食べ物の土産を買った。月餅に似た菓子であったが、帰国後食したら結構おいしく、もっと買えば良かった。
ホテルは三つ星で浴槽は無いが、それ以外は清潔で、四つ星並みであった。いつも安くて泊り心地が良く、そのうえおいしい朝食が出るホテルを探してくれる駱さんに感謝である。その駱さんは、知り合いの家に泊まることにしていたので、翌朝の集合時刻を約し、解散した。 この項完 5月26日の項につづく
|