槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2015/08/15 23:31:00|旅日記
長江三国志の旅 8)三国新城遺址公園

8)安徽省合肥(その2三国新城遺址公園:5/26)

 この日は今回の「長江三国志の旅」の実質的な最終日であり、合肥では、午前に、三国新城遺址公園観光と安徽省博物館。午後新幹線で(15:11発ー17:24到着)杭州に戻る。
 日本人の舌に合う朝食をとり、部屋に戻り、ホテルの窓越に写真を撮った写真26-1、26-1a)。そしてロビーに降りて行くと、駱さんと孟さんは既に待機していた。駱さんがチェックアウトの手つづきをしてくれて、孟さんの車に乗り込み、一路三国遺跡公園に向かった。

 9:30頃三国新城遺址公園に着いた。案内板(写真26-2)には、中央に公園全景上空写真、左に、この公園の概略説明を中国語、英語、日本語、ハングル文字で説明され、右側には観光する際の注意が同じく4か国語で書かれていた。

 案内板頭書きには「合肥三国遺址公園」とある。これが正式名称なのだろうか。日本語概要説明を読むと、
「三国時期、合肥は魏国揚州の淮南郡に属します。『三国志』の記載によると、合肥新城は、青龍元年(233年)に築城され、魏呉両国の50年の戦争を経て、何度も孫呉の10万大軍の進撃を阻みました。三国遺跡公園は、三国合肥新城遺跡の基礎の上に復元され、2006年に開放しました。合肥三国遺跡公園の面積は35ヘクタール、国家AAAA景勝地であり、安徽省重点文化保護単位に指定されております。」(以上句読点、ですます表現もそのまま)とある。日本語案内では、そこまでだが、中国語と英語案内では更に、以下の様に続く。

「合肥市愛国主義教育基地、合肥市最具文化内通景点、合肥市五佳公園。主要景点として、古城壕、古城墻(がき)、屯兵菅和兵器鋳造窯遺跡、文物陳列館、金沕虎台等がある。この公園では毎年4月には、合肥牡丹祭、10月には合肥三国文化祭が開催される。」

園内はかなり広いので、カートに乗っての見学となった。

 カートは、先ず、“三国故地”と貫(ぬき)の部分に頭書きされた鳥居の様な入口門(写真26-3)の下を通り抜け、走行して進んでゆくうちに、左手少し遠方に魏の時代に兵器鋳造工場跡とのことだが骨組みだけの建屋が見えた。

 鉄の溶鉱炉や、熔鉄を流し込み、矛や楯の原型を作る為の鋳型などや刀剣の歯先を鋭利にする鍛冶場もあったに違いない。武器や鎧鉄製を身に着けていた鉄器軍は朝鮮半島の高句麗、新羅、百済の軍隊から恐れられていたことを、レンタルビデオ韓流歴史ドラマ「朱蒙」を見て覚えていたので、思わず、鉄製武器や鎧を身に着けて戦場を駈ける兵士の姿が目に浮かんだ。ただし、時代的には、三国志時代より後の五胡十六国時代に下る。

 「合肥三国新城遺址公園」と貫(ぬき)の部分(写真26-5)に横書きされた、公園の入り口門(これも城門の模型?)(写真26-4)に至った。但し鳥居と呼ぶにふさわしくないのは、日本の神社の鳥居では“笠木”と呼ばれる天辺の横板の上には何も載っていないが、ここのは、左右対称に、デフォルメした門楼が載っている。この門は、写真26-3の門同様、公園化する時に城門をデフォルメして石で作った模型であろう。

 この門をズームアップしてみると写真26-6の様に、もう一つ単純な構造の城門(後でこの門近くまで行き、門の名前が征東門(写真26-9)であることが分かった。)が見え、そこから今にも出兵する甲冑を着込んだ一人の歩兵と騎兵の像が見えた。

 門の両側に一対の門衛兵がいるとすると、写真26-4と写真26-6から城門は四重構造となっていることとなるが、一番奥の門衛兵のところは城門が無いように見えるので三重に配置したことになる。

 門は奥になるほど堅牢さがなくなっているが、どの程度の考証に基づいて建てられたものかは分からない。最初の門を広角で見ると、龍の模様の石板が一定の間隔で、嵌め込まれている(写真26-7)のが分かる。これは、考証に基づいているのか、現代中国人の造形感覚によるものかは分からない。

 更に進むと、石舞台とその背後に木製の壁が配置した演武場の様な佇まいの一角(写真26-8)が現れた。木製の壁には、帥(スイ)という文字が記されていた。「帥」は、「率」と全くの同音同義の文字で、「率いる」という意味である。元帥などと使われるらしいが、この壁に記されている理由は分からない。

 更に行くと、土手にトンネルを開けた様なところに来た。トンネル上部には「屯戍遺踪」と書かれている(写真26-10)が意味は分からない。トンネル内壁部は地層が見え、過度の乾燥による脱落を防ぐ為、木枠とガラスで覆われている(写真26-10a)。

 そして、更に進むと、これぞ城門と言える建造物があるところへ来た。城壁の上には中央に二階建の城楼とその両側に倒立した四角推台の楼閣が載っている(写真26-13)。

 この建物の一層目の城壁に相当する一層目の中央部出入り口には黒色の扁額に金色で、“金湯虎台” (写真26-13a)と書かれ、二層目には、“魏武雄風”、三層目には“羣雄争覇”という文字が黒色の扁額に浮かび上がっていた(写真26-14)。

 金湯虎台の意味は全く分からないが、web検索すると、意味よりも、「盧陽杯中日韓三国囲碁名人ペア碁戦は中国囲碁協会、安徽省体育局、合肥市人民政府連合主催、合肥市体育局、盧陽区人民政府承認。盧陽三国遺址公園-金湯虎台で行われる。」というニュースが目につき、今の日中韓の関係が現代版三国志と見做される風潮が一部にあることが分かる。

 “魏武雄風”と“羣雄争覇”は何となく三国志時代のこの地の雰囲気が感じられる四文字である。“魏武雄風”は曹操が書いた七言絶句(七律)の詩の様である。“羣雄争覇”の“羣雄”は英雄のことなので、英雄(曹操のこと)覇を争う、という意味か。

 そして、征東門(写真26-15)の前に来た。魏の征東将軍満寵が明帝・曹叡に建議し、青龍元年(233年)に老朽化した合肥城にかわって建てられた前線基地(城)の城門とのこと。征東の為、出軍する兵士の躍動的な騎馬と車馬の姿がブロンズ像になって門前を飾っている。征東の相手が呉国であることは言うまでもない。

 最後に、城壁外側にある陳列館まで来て、三国志地図(写真26-17)の前で記念写真(写真26-16)を撮る。カートの運転と公園内専属ガイドをしてくれた名前を聞き忘れた女性と孟さんとのスリーショットである。

 むろん、駱さんとのツーショット写真もあるが、掲載は省略した。そして最初の公園入口(写真26-7)の前で自分と、駱さん、それぞれワンショット写真(写真26-18、26-18a)を撮って、合肥三国遺址公園を後にした。

      この項 完
          次の項につづく
 







2015/08/05 21:35:31|旅日記
長江三国志を行く 7)安徽省合肥

7)安徽省合肥

 合肥近くになると、交通量が急増する(写真25-18〜写真25-22)。既に現地時間で17:30を過ぎているが、一路逍遥津公園を目指した。この時間でも、人出は多く、駐車できる場所を確保する時間が勿体ないということで、公園の入り口近くで駱さんと自分は降車し、早速公園に入ることにした。
 
 門前の両側に獅子を備えた古逍遥津と書かれた南大門(写真25-23)をくぐると、馬上の張遼の石像が現れる。早速、張遼とのツーショット写真を駱さんに撮ってもらった(写真25-24)。

 そのそばにあった公園の案内板(写真25-26)を見て、三国志に関係ありそうな見どころのロケーションを確認した。配置図の左側には、中国語と英語で書かれた簡単な紹介文があり、以下の通り記載されている。知っている漢字をつないでの意訳でえあり正確とは言えない。

「逍遥津は古合肥城の東南2km、津水と淝水とが出会うあたりに位置する。」

【コメント】淝水は長江に繋がっているので、長江沿いの各地からここまで、水路に沿って出向くことが可能なのだ。

「東漢(後漢)建安20年(西暦215年)、東呉の孫権は兵10万を率いて合肥を攻めた。魏将張遼は800人の勇士を率いて孫権軍を奇襲し,圧倒した。これが有名な、“張遼威震逍遥津”と呼ばれる(合肥の戦いの)一戦であり、現在の逍遥津公園一帯での出来事であった。」

【コメント】張遼と言う人物は、「三国志演義」に登場する人物の中では、自分にとっては馬超と同程度の関心度であったが、後漢末の動乱期に丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操の配下となり軍指揮官として活躍した、とある。
 
 主君の上記4名は、いづれも「三国志演義」に登場する人物の中では、ネガティブな印象を与える人物であり、その配下の張遼も武勇のみが凄い。生涯劉備に仕えた関羽、張飛、趙雲、諸葛孔明と比べると腰が軽いと見ていただけに、今回の合肥訪問で、張遼像が大きく変わった様な気がしている。

 かの有名な合肥の戦いに関しては、『三国志』本伝の方が大々的に張遼の武勇と行動力を書き綴っているのだそうだ。

「現在は、その遺祉(写真25-25)が本公園の東側にある。孫権が危機から脱する為に馬に乗って飛び越えた橋と言い伝えられている“飛騎橋”、あるいは、曹操の、“教弩台”(即ち明教寺)が、この近くにある。

 宋代の道乾年間には逍遥津界隈は城内に入圏され、明代には官僚の私有物となり、“〇家池”と改称された。また清の康熙帝年間には、官僚地主が覇占するところとなり、“斗鴨池”と改名された。更に光緒年間には“豆叶池”と改名されている。」

コメント】自国の大将に危機一髪の危難を与えた張遼を呉側の人たちはどの様に見ているのだろうか。Wikipediaには、伝統的な中国の初学者向け教科書「蒙求(もうぎゅう)」には、「張遼止啼」という標題があり、張遼の武勇は江東にも広く轟いたので、江東の子供が泣き止まない時も「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と言えば必ず泣き止んだ、という逸話が紹介されている、との記載がある。
 
 以上が案内板に記載されていた。先に進むと、左手に絶叫乗り物のある遊園地、右手には、彼方に合肥市街地が遠望できる池が見渡せた(写真25-27a、25-27b)。
 
 更に先にすすむと、しばらくして、三国文化館(写真25-28)があったが、既に閉館後で、内部の見学は出来なかった。そして、更に先を歩いて行くと、張遼墓(写真25-25)が現れた。河南省南陽にある張衡の墓と似ていた。そこを一回りして元の道を戻り帰途についた。

 合肥宿泊予定の合肥百花賓館は市街地にあるので、そちらの方に向かった。淮河路著名商店街(写真25-29)で、3人で夕食(カップラーメン)を摂った。因みに淮河路著名商店街は銀座を小ぶりにした雰囲気のある歩行街路で、シャネル、ジパンシー等の世界的な有名ブランドショップが並んでいた。

 ついでに、近くのデパートを孟さんに案内してもらい、小分けしやすい食べ物の土産を買った。月餅に似た菓子であったが、帰国後食したら結構おいしく、もっと買えば良かった。

 ホテルは三つ星で浴槽は無いが、それ以外は清潔で、四つ星並みであった。いつも安くて泊り心地が良く、そのうえおいしい朝食が出るホテルを探してくれる駱さんに感謝である。その駱さんは、知り合いの家に泊まることにしていたので、翌朝の集合時刻を約し、解散した。 この項完
    5月26日の項につづく








2015/07/28 0:31:56|旅日記
長江三国志の旅 6)安徽省六安市寿春

6)安徽省六安市寿春

 安徽省合肥と寿春はともに長江の北にあり、杭州からは、約430 kmの距離にあり、車では高速道路を使い、5時間前後の位置にある。ともに三国志では頻繁に登場する地名であり、寿春は、現在は寿県となっていて、寿春以前は、郢(えい、Yǐng)と呼ばれ、春秋戦国時代には楚の首都であった地である。

 当初、安徽省合肥と寿春とは、それほど近くにあることは知らず、新幹線(中国では高鉄と呼ばれる)で、2時間程度の距離にある合肥に行けるだけで良い、という気持ちであったが、合肥と寿春との距離は高速道路を車で1.5時間程度(往復で3時間)で移動可能で、車も運転手付きでチャーターできるということが駱さんの調査で分かり、急遽、寿春も含めることにした。

 なるべく移動時間を減らし、中身の濃い観光を行う為、最初から新幹線を利用する予定だったが、寿春も行き先に含めた為、新幹線は、07:33(杭州東駅出発)〜10:54(合肥南駅到着)の便を利用せざるを得ず、その為にはホテルを6:30に出発することが必要であるとのこと。発車時刻より30分程前に杭州東駅に着いて、チェックイン手続きと安全チェックの為とのことだった。

 5月25日(月)予定通り、6:30にホテルを出発、張さんの運転で杭州東駅に送ってもらい、安全チェックを受けた後、早速駅構内(写真25-1)へと向かった。杭州東駅は新幹線(高鉄)網のハブ駅となっていて、南は、かつて新幹線事故を起こした温州など、北は蘇州、南京等を経て重慶、四川への路線等がある。駅構内は、天井が高く、広く、床はピカピカで、改札口は行き先ごとに分かれていて、作りは日本より大袈裟である。

 コンコースの両側にそれぞれ10づつの改札口があるが、20もの路線がある訳ではなく、一つの路線が複数の改札口を使うのだろう。コンコースの中線近くに待合用のイスがあったり、中国車の展示(写真25-2)があった。隣り合う改札口の間にも待合用のイスがあり、その一つに案内され、ここで少し時間待ちしてくれ、と駱さんに言われ、腰を下ろし、周りを眺めると、煙草の煙が皆無であり、吸っている人もいない。構内禁煙なのだろうか。嫌煙者にとっては快適な環境である。また中国の飛行場で遭遇する、大声での携帯通話も少なくとも、その待合イス近辺では皆無だった。

 公共の場でのマナーが守られているのか、それとも法的に規制されているのか分からないが、中国に対する印象を良くする状況には違いない。

 改札口を通り、階段を下りると、プラットホームになるが、車両の外に出て、煙草を吸いながら携帯の操作をしている人の姿(写真25-3)が見られた。
 車内は明るく、清潔で、日本の新幹線と似た雰囲気(写真25-4)である。車両の一番先頭の座席が自分たちの指定席で、ここだけ4席が向かい合うことになる。乗客は、平日ではあったが、ビジネスマン風の姿は少なく、中高年の婦人が目立った。中に大きな声で話している婦人がいたが、これから出かける友人達との旅行に対する高揚感からの声出しの様に見えた。発車前に、トイレに行った。通路の両側に、それぞれ中国式と洋式があった。

 着席して、車窓から、他のプラットホームを見ると、人影が全く見られなかった(写真25-5、25-6)。

 途中、蘇州、南京に停車しているはずだったが、早朝出発だったため、睡魔に襲われ、気が着かなかった。但し、途中の停車駅で、多くの乗客が電車から降りて煙草を吸っている光景は記憶がある。

 新幹線は時速200km前後で走行し、約3時間後に合肥南駅(写真25-7)に到着した。合肥は安徽省の省都だけあり、比較的降車客が多かった。駱さんが手配していた寿春、合肥のガイド兼運転手と合流し、一路、高速道路(合阜高速(S17))で、100km程にある寿春(現在は寿県)に向かった。ガイド兼運転手は、名前が孟 诞豫、年齢58才の人で、車は現代自動車製のセダンで、ピカピカの新車(写真25-8)の様に映った。

 車内での駱さんを通しての会話で、安徽省が豆腐発祥の地であることを初めて知った。当初、孟(マン)さんが運転専門で、ガイドでもあることを知らされてなかったので、寿春の歴史、特に、春秋戦国時代の楚の都、だったことや、中国史で極めて有名な淝水の戦いの淝水というのがどのあたりにあるのかを聞きそびれた。訪問予定の寿県博物館に、聞きたいことの答えがあるだろうと思い、特に聞きはしなかったのである。

 1時間ほどで、高速道路から外れ、間もなく寿春路という名の道路に出て、そこを北上するうちに、寿县县城南城门(別名:寿县通淝门)に至った。この門をこともなげに通過し、少し直進したところで、左折し(西方に曲がり)寿県博物館前に来た。

 ところが、その入口門(写真25-9)は、寺院の門の様な風情で、とても博物館の入口門とは見えない。思わず、洛陽民族博物館を思い出してしまった。写真はその門の中に入り、後ろを振り向いた時の光景で、近くに屹立した三重塔とマッチして貫禄があった。写真で、両者は隣接して横並びしている様に見えるが、実際には道路を隔てた両側にある。

 寿春最初の訪問先は、寿県博物館であったが、運悪く休館日であることが分かり、急遽、道路を隔てた向こう側にある寿県孔子廟を見学することにした。廟内には、孔子像(写真25-10)や孔子の弟子像群(写真25-11)があった。そして孔子廟にお馴染みの「太和元気」という文字が、その意味とともに、大成殿の外壁に嵌め込まれていた(写真25-12)。

又、大成殿裏手に広い裏庭があり、数十名の男女高齢者が集い、トランプを楽しむ光景が見られた。ここは寿県人民政府による老年楽園事業の一環で、その集会場所と認定されているのだそうだ。中国の観光地の緑陰での高齢者による麻雀風景は見当らなかった。

「太和元気」とは、宇宙の太和、人間(じんかん)の元気をあらわす。天地之合、四方之合、陰陽之合を宇宙の太和とする。宇宙万物すべてが和らぎあい、調和を保つことが基本であることをあらわす。元気とは、国家や組織を含む人間社会を存続する上で不可欠な活力をいう。孔子の思想を称えて名づけたものである。

 そして、最後に、奎星(ケイセイ)楼(奎光閣とも呼ばれる)と呼ばれる三重塔(写真25-13)を眺め寿県孔子廟を後にした。奎光閣とも呼ばれる奎星楼は中国各地、例えば、山西交城、阜阳市老城、平遥古城等にもあり、三層が多いが、二層、四角形もある様だ。また城門の上に建てられている場合もある。遼寧省山海関長城は壁上に「奎光閣」を有するとのこと。

 そもそも奎星とは何か。“コトバンク”によると、「…北斗七星の第一星から第四星までをいう。中国では文章をつかさどる神とされ,俗に奎星(けいせい)と称される。学問の神である文昌帝君と兼祀されることも多く,とくに科挙の受験生に信奉された。…」とある。

 また、ついでながら、「三国志」との関わりで、奎星を調べてみると、「蜀の、今でいう天文台長の譙周は、諸葛亮が五度目の北伐に行く時に、次のように 言った。『天文を見るに奎星が太白にまつわり、旺盛の気が北方におこっていますので、 今、魏を討つのは宜しくありません。』と。一方の魏では、司馬懿と皇帝曹叡との会話で、司馬懿は、「臣が天文を見ましたところ、中原の気が盛んで、奎星が太白を犯しておりますゆえ、 蜀には利がありません。」と言った記録があるとのことである。 ちなみに太白とは金星のことである。

 帰りは、寿县通淝门(写真25-14)を素通りせずに、車から降りて、城壁に昇ってみた。東西南北にある4つの城門は、それぞれ、南门名“通淝”,东门名“宾阳”,西门名“定湖”,北门名“靖淮”と呼ばれ、この通淝门が最も交通量が多いようだ。

 城壁を登ると、西方には延々と彼方まで城壁が伸びていて、城壁の上は遊歩道になっていて、街路燈が等間隔で設置されている。この時刻では人一人見えなかったが、夜間、早朝には、近隣の人々の散策路となるのであろう。城門の上に立つ城楼(写真25-15)の吹き溜まりの様な所にはゴミが見られ、また城壁に沿った堀では小舟に乗り竿を操り堀に刺し、堀に落ちたゴミを探査している人の姿(写真25-16)も見られた。

 一方東方には城門上に立つ城楼とともに、堀の彼方には、淮南市だろうか、市街地が眺められる(写真25-15)。城壁から降り、西方の城壁を眺めると、まるで、連凧が西の空へ舞い上がっている様に見えた。

 道路を横切って、道路の反対側に渡ると亀の背に乗るかの様な大きな石碑が現れ(写真25-17)、「夏王朝のとき天下を九つの州に分かたれた時は、この地は揚州に属し、殷商時代には南方諸侯の封地となり、春秋時代には、楚に属し、戦国時代には楚の考烈王の時(BC241年)郢(エイ)の都、寿春と名付けられた。秦による中国統一後は、全国が36郡に分割され、九江郡に治められることになる。西漢(前漢)時代には、淮南国の国都となり、漢武帝の時(BC122年)、九江郡の治下となる。東漢(後漢)時代には、最初、揚州九江郡寿春県となったが、末年、淮南郡となる。袁術称帝は寿春に建都した。三国時代は魏に属し、揚州淮南郡となった。その後の晋の時代にも、揚州淮南郡に属したが、改名され寿陽となる。南北朝時代の宋の時代には、南豫洲淮南郡、南斉時代には、刺史鎮寿陽となり、梁時代には豫洲となり、間もなく南豫洲となる。陳の時に、豫洲となり、北魏の時代になって、・・・」と文字が彫られているが、現在は安徽省六安市寿県、あるいは安徽省淮南市となっている。この石碑にはどの時代にどのような名称になってきたかが分かるが、寿春でのもっとも有名な戦役である淝水の戦いには一文字も触れられていない。

 淝水の戦いは、383年、中国華北全域をほぼ領有した苻堅(ふけん)率いる前秦(ぜんしん) 軍100万が中国統一をかけ、東晋(とうしん)軍8万と戦い、前秦(ぜんしん)が敗れた戦いで、これを機に前秦治下の各種族が独立し、華北は以前にも増して分裂の状態を迎える。南北対立を確定づけた歴史的な戦いであった。

 何故100万もの大軍が1/10以下の軍勢に敗れたか?陳舜臣著「十八史略」には、以下の様に描かれている。
 前秦軍は、寿春城に立て籠もった東晋軍をおびき出すために、撤退を装った。撤退を真実らしく見せかける為に、全軍撤退を一部の将校にしか知らせていなかった。この作戦を唱導したのは東晋から前秦に降り、苻堅から、厚い信頼を得ていた朱序という将軍だが、依然として心は東晋にあったのである。
 100万もの大軍は、一度撤退を始めたら、Uターンをして反撃に移ることなど到底不可能で、撤退中の兵は、大混乱をお越し、「風の音や鶴(つる)の鳴き声にもおびえつつ」逃走(「風声鶴唳(ふうせいかくれい)」の語のおこり)する始末であった。

 この日の昼食についても記すべきであろう。
この日の昼食は、通淝门をくぐった、車の通行が比較的多い道路を少し行った左手にあった比較的小奇麗なレストランで摂った。孟さんの、店に至る運転の仕方からは、最初からこの店に決めていた様にも思っている。

 店内には別室があり、そこへ案内された。店主は50才過ぎで体格が良く、飛行機の爆音の様な大音声でしゃべり、彼が話しているうちは、他の音が聞こえなくなる。古代の中国に於いて肉屋やコックが出世して宰相に昇り詰める例があるが、きっとこの様な男だったのではないか。

 この店には、息子だろう。少し小ぶりだが体型が似た30代くらいの男が居て、この二人で店を賄っているのだろう。店主が、「自分の店に来た初めての外国人だ」と通訳された言葉が耳に残った。

 最初に食材を店に在庫の品の中から選び、ついで店の可能な料理方法を決める。日本人の舌を知り尽くした駱さんの指示あってのことだろうが、出てきた料理は極めておいしかった。

 その旨、駱さんに伝えたら、彼等に伝えてくれた。それを聞いて息子の方は嬉しそうにしていたのが雰囲気で分かった。先ほどから、こちらの食事をしている様を覗き見ていたのは、自分の作った料理が初めて来店した外国人がどのように評価するのか気になっていたのだろう。

 この様な感懐は勝手な想い過ごしかも知れないが、一人旅ならではのものであり、あと味の良い体験となった。
 この項 完
   つづく







2015/07/14 17:38:19|旅日記
江南三国志 5)胡慶余堂、焼肉パーティ

5)胡慶余堂、焼肉パーティ

 筆者が愛飲している中国茶がある。田七花茶と普洱茶である。いずれも、雲南省大理で買い求めたもので、普洱茶はまだしも、田七花茶は単独ではとても飲みにくい味がする。田七花茶(後日嗜んでいたのが、名称をみたら、田七花茶とはどこにも記載されてなく、“田七花“と言う漢方薬であることが分かった。田七花はコレステロール、高血圧、高脂血症、ウィル性肝炎に効能があり、心臓の働きを高め免疫力を高める効果がある、と容れ物に記載されている。

 ある時、偶然田七花と普洱茶をブレンドして飲んでみたら、まろやかな甘みが出てきて、とても飲みやすくなることに気がついたのである。大理へ行ったのが、2009年であり、6年も経っているので、残り少なくなってきた。もしかしたら杭州の茶販売店にも売られているかも知れないと思い、あれば、買い求めようと思っていたのである。

 その旨、駱さんに伝えておいたのが功を奏し、中国のお茶を専門に販売しているところに案内してくれることになったのである。案内してくれたところは、人々の往来が激しい杭州市河坊街にある中国茶専門店が立ち並んだ一角(写真24-21〜24-24)である。

 この界隈は中国茶専門店だけでなく、マクドナルドや関羽亭まであるのだ。日曜日とあって家族連れが目立つ。そしてその一角にあったのが、中国でも有名な漢方薬老舗の胡慶余堂であった。

堂の奥の方へ行くと、漢方薬の処方箋を受け取っては調剤をこなして行く多くの白衣姿の漢方薬薬剤師が忙しそうに立ち振る舞っていた(写真24-25)。

 その調剤師コーナーを取り囲む様に多種多様な漢方薬が展示されていたが、田七花茶は展示されていなかった。しかし、茶ではなく田七花という漢方薬は目に入ったので、それを購入すれば良かったのだ。

 胡慶余堂は、北京の同仁堂と並び立つ中国の二大漢方薬老舗として知名度が高く、清代の商人胡雪岩(写真24-26)が人民たちを助けて、救うために建築されたものであるのだそうだ。

 そして河坊街には大勢の人たちが行き交ったり、食べ物や飾り物を販売している屋台がいくつもあったが、何よりも目立ったのが、どこを見てもゴミが落ちていないのだ(写真24-27)。

 ここ河坊街は杭州旧城にあり、少し歩くと、鼓楼(当時の朝天門)(写真24-28)に至った。この地をマルコポーロは東洋のベニスと呼んだそうだが、妥当な感想かも知れない。

 車の中で、駱さんの御主人の張さんの弟さん夫婦を呼んで、焼肉の食事会を計画しているのだけれど、「一緒にどうですか?」というお誘いがあった。「急に私が参加して迷惑では?」に対し、「参加してもらうつもりで、張さんの弟さん夫婦に呼びかけをしている。」ということなので、「それなら喜んで。」という返事をしていた。

 現在、渋滞の時間帯で、時間がどのくらいかかるか分からない。自宅が近いので、そこで少し休憩して、それから出かけましょう、ということになった。

 緑の多いマンションの1階にあるのが駱さん/張さんの住まいだ。その前に、マンションの真ん前の生鮮スーパーマーケット(写真24-29)を見学させてもらった。新鮮な旬の野菜や魚が所狭しと並んでいた。茄子、キューリ、トウモロコシ、カボチャ、インゲン豆、枝豆、ニンニク、レンコン、とうがらし、なんでもござれである。

 マンションの脇には大きなバス通りもあるし、マンションの立地条件は極上であった。駱さんは日本語ガイドなので、日本語はペラペラ、読み書きもますます上手になっている。一方の張さんも日本語勉強中とのこと、今でも日常会話は聞き取れるし,簡単な言葉は話せる。おまけに、日本の演歌ファンとのことである。

 きっと中国では裕福な部類に入るのだろう。室内へお邪魔して、今年春に出かけたチベットの写真を見せてもらったが、一か月もの間、職場を留守にして旅行をするなど、日本では先ず考えられない。そのあたりの感覚を除外すれば、二人とも極めて日本人的である。今年も9月にチベット旅行を計画しているとのこと。自分も体調の不安さえ無ければ同行させてもらうところだが、残念至極である。

 しばらく歓談して一服したあと、焼肉屋へ向かった。ご主人の張さんはシシカバブーを焼くのが得意ということで、暫し、焼肉屋に徹していた(写真24-30)。計5人の焼肉パーティーのメンバーは、駱さん/張さん夫婦、ご主人の張さん兄弟(写真24-31)。張さんの弟夫婦(写真24-32)、と自分の計5人(写真24-33)で、2007年7月、新彊の五彩湾、カシュガル等を一緒に旅した仲間である。その時のワイルドな初めて聞く話もあった。

 尤も彼らは自分より一回り以上も若いので、自分も若返って、大変楽しい気分になれるのである。この様な楽しい気分になれるのなら、中国旅行を何度やっても良い。

明日は、いよいよ初めて乗る中国の新幹線(とは言わないが)で、長江を越え、長江北の安徽省合肥と寿春へゆく。(胡慶余堂、焼肉パーティの項 完)
   つづく








2015/07/12 12:48:00|旅日記
江南三国志 3)荻浦古民家群(申賭氏宗廟等)

3)荻浦古民家群(申賭氏宗廟等)

 孫権故地から駐車場に戻るまでの道路わきの建物の外壁に目をやると、壁面に一杯に描かれた鮮やかな色彩の民族衣装をまとってポーズをとっている女性の絵(写真23-22)が目に入った。駱さんの説明では、「浙江省を地盤とする唯一の少数民族で、畲族(she zu)という名前。普段は普通の人と全く区別がつかず、祭典の時にのみ、あのような衣装を着て現れる」のだそうだ。いつか、その祭典を鑑賞してみたいものだ。

 この日は、朝8:30に出立したこと、また高速で1.5時間ほどと、比較的杭州(西湖湖岸)から近い諸葛八卦村が観光先だったので時間にゆとりがあり、帰途途中にある、お花畑や老街に寄ることになった。帰途、利用した高速道路の道路脇の植栽には白やピンクの夾竹桃が植えられていて(写真23-23)、気のせいか、前日より花の数が増えている様な気がした。

 老街の名前は、荻浦古民家群(写真23-24)と言い、その地域に人気のあるお花畑や明清時代の民家がそのまま残っているとのことだった。

 ここに寄るために比較的早く出発することにしたのである。お花畑(写真23-25)は日曜日ということもあり、行楽客でごったかえし、露店では、ソフトクリームやアイスクリーム、そして焼きリンゴなど日本でもおなじみのカラフルな飴などが売られていた。二人乗り用の貸自転車に乗った人達が所狭しと行き交う。

 お花畑にはラベンダーが咲き誇っているという話であったが、実際に咲いていたのは矢車草(写真23-26)と金魚草、そしてマリーゴールドであり、日本のきれいに整備された花園ほどではないが、休日を家族連れ、あるいはアベックで楽しんでいる様で、盛んにカメラのシャッターを切っていた。

 中国人は花を愛でる精神が日本人よりも薄いと思っていたが、この花園に群がる中国人を見るとそうでもない様な気分となってきた。花をめでる気持ちは万国共通なのだろう。
 ただ中国人は、素晴らしい光景にはBGMも必要で、西湖湖畔でも、ここでも音楽が間断となく流れていた。素晴らしいものをもっと素晴らしくしようという精神が旺盛だ。

 お花畑から古民家群までは徒歩で移動した。移動の途中、兄弟樹という二本の樹が合体してできた、そのまま船に使えそうな樹木に出会った。その樹の所を横切る人が順に木のくり抜いたような窪みに体を預けて写真を撮ってもらっているので、自分の番だと言わんばかりに自分も駱さんにシャッターを押してもらった(写真23-27)。

 更にもう少し歩くと、申屠氏宗祠(写真23-28、23-29、23-31)に辿りついた。申屠氏という名はなんとなく聞いたことが有るような気がしたが。思い出せなかった。中に入ると、申屠氏の姓氏源図(写真23-30)、即ち家系図が壁に架かっていた。これには中国最古の王朝、夏王朝の炎帝を始祖としている、と記されている。

 炎帝は中国史最古の医師と言ってよい神農氏と同一人物視されてきた。神農氏はwikipediaによると、世界最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)に名を残しているからである。
 それによると、神農はまず赤い鞭で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した(赭鞭)。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まり、そのせいで最終的に亡くなったという。

 前漢時代に名が載っている申屠嘉は、文帝のとき丞相となり。景帝のとき、チョウソを批判した。となっている。更に、西晋、東晋、宋、斉、梁、陳、隋、唐、後唐を経て宋時代の申屠理にて本族始祖となっている。
 従って、本族というのは、ここに祀られているのが浙江省にある分家の桐南申屠氏ということになるのであろう。
尚、姓氏源図に名がある後漢(東漢)時代の申屠剛は、『後漢書』列伝19・申屠剛、鮑永、郅ツ伝に載っていて、申屠剛は王莽にいう。「政治がみだれれば、天地がみだれる。直言の口をふさぐな。むかし周成王がおさなく、周公が政務を代行した。いま平帝はおさない。外戚に、政務をまかせよ。王莽が独占すると、霍光のように、族殺される」と直言した。

 そして、王莽が帝につくと、河西ににげた。巴蜀にゆき、20年ばかりゆるりとした。そして王莽の悪政にとって代わった光武帝に対しても、光武が出遊すると、「隴蜀が未平なので、あそぶな」といい、車輪にアタマを入れて、いさめた。その直言があって、光武は、出遊をやめた。以上の様に、申屠剛は誰に対しても直言の士であり、時の帝王には煙たがれたかも知れない。

 この申屠氏祠堂には明清時代のものと思われる農機具(写真23-32)が展示されていた。
 また申屠氏祠堂近くには、催しものをするための立派な舞台(写真23-33)もあり、申屠氏の栄華が思い浮かべられた.

 そして、最後に通り抜けた通路(写真23-34)は、明清時代の遺構といった雰囲気の一角であり、如何にも古民家群が共通に頼りにしていたインフラといった感じであったが、明清時代の遺構特有の不潔さは全く感じず、ここもゴミ一つも落ちていず、悪臭のかけらもしなかった。

 ホテルに着いてからの夕食は、コンビニ弁当で済ますことにした。幕の内弁当、果物、アイスクリームで、合計で30元程度であった。しかも量は、日本よりいくらか多かった。それらを入れてくれたポリ袋にはドラえもんがプリントされていた(写真23-35、23-39)。ドラえもんは世界中で人気がある。
 (以上 荻浦古民家群(申賭氏宗廟等)は完)
   つづく