| 14. 三門峡(虢国(カクコク)博物館、5月2日) 〜記2015.9.13〜
三門峡の地名の由来は、伝説によると夏王朝の創始者、禹が神斧を用い、高山を切り開き鬼石と神石で河の流れを三つに分け、「人門」・「神門」・「鬼門」の三つの峡谷をつくったことによる。とウィキペディアに紹介されている。
三門峡ダムは黄河最大のダムと知っていたが、最初からこれを訪問することは念頭には無かったし、強行軍を避ける為、三門峡市を訪問すること自体、最後まで未定だったのである。
河南省は逆三角形に近く、その頂点に位置する鄭州、南陽、三門峡を訪問すれば、河南省全域をほぼ歩きつくしたことになる。それを実感するには博物館が手っ取り早く好都合ということで、急遽、虢国(カクコク)博物館をコースに入れた。
虢国博物館(写真5.2-5-1)は世間を驚かせた周代の諸侯虢国の国王及び貴族の古墳群が発見された中心地に、総合して建てられた虢国文化を全体で表現している博物館ということになっている。
虢国古墳群は, 中国河南省三門峡市上村嶺にあることから、上村嶺虢国古墳(じょうそんれいかくこくこふん)と呼ばれている。
ここは、今迄中国で発見された中で最も壮大な規模で、何でも揃っており、順序良く整列され保存状態も整っている前周、春秋時代の虢国貴族の古墳群で。北に黄河をのぞむ台地上にあり,南北 280m,東西 200mにわたっている。墓はすべて竪穴墓で,ほとんどのものが棺槨を有している。と中国の国際観光会社が紹介している。
副葬品はきわめて豊富で,青銅製の鼎,鬲,げん,き,豆,ほ,斧,戈,矛,剣,鏃,また陶質の鬲,盆,豆,缶などのほか楽器,装飾品,車馬具が出土(写真5.2-5-1~5.2-5-8)していて、1956年から現在にかけて各種類の遺跡800余りが発掘されている。
出土品は約3万点とのことである。虢国博物館の敷地は100,000平方メートル近く、建造物面積は6,000平方メートル、展示ホール面積は4,000平方メートルとのことである。
「虢国春秋」、「虢国出土文物展」、「梁姫出土文物展」、「虢国車馬坑展」(写真5.2-7-1〜2.5-7-9)などのテーマホームで構成されている。 ここには全国のより早い、より大きい地下車馬軍陣があり、「中華第一鉄剣」と呼ばれる古剣(写真6.2-5-7)もある。
虢国(カクコク)は周と同姓(“姫”)の国であり,周の文王の弟虢仲が初めて封ぜられた西虢のほか,文王の弟虢叔の封ぜられた東虢があり,さらにその後の移動によって,南虢,北虢(山西省平陸県)があるとのことであるが、虢国と言えば唐の楊貴妃の姉の虢国夫人の方が有名であろう。キーワード検索をしても、虢国夫人に関する記事が圧倒的に多かった。
博物館横には、その下に古墳群が埋蔵されていそうな草原(写真5.2-6-1〜5.2-6-5)があり、その途中まで歩み出て草の上に立ってみた。野の一か所に薄紫色をした花を一杯咲かせた樹木が目に入った(写真5.2-6-2)が名前は知らない。かつて、奈良飛鳥路の山田寺跡の草地に立った時の感覚と同じで、背筋を上昇気流が立ち昇ってゆくような心地よい感覚であった。
ちなみに、この様な体験は、先祖代々の墓を仙台から所沢に移し、少ししてから墓石の周りの草むしりをしに行った時の事、縁石に腰かけ、一休みしているときに、起きたことで、その原体験 を範とした体験を山田寺跡の草地に立った時、そして、この虢国博物館横の草地で体験したのだった。
それにしても博物館内に展示されている埋蔵墓はレプリカとは言え、生々しい。馬の骨、人骨と凄まじい(写真5.2-7-8)。垂直墓の底にはおびただしい数の中国のお札、コインが投げ込まれている(写真5.2-7-9)。見学していて思わず墓参りの気分になったのだろう。 この項 完 つづく |