槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/01/17 22:20:05|旅日記
「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」

「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」
+ 「杭州〜貴州、中国高鐵(新幹線)往復15.5時間の旅」

5.第3日(2015.11.1)
@「杭州東〜貴州(凱里南)中国高鐵(新幹線)往路7.5時間の旅」

今回は杭州東駅までは地下鉄を利用し、朝09:30発-17:12到着の新幹線に乗り込むことになっている。荷物は必要最小限のものを駱さんに借りたバッグに押し込み、残りはキャリーバッグごとホテルに預けた。杭州を起点に他の地域にでかける時は、必ずセカンドバッグが必要ということを肝に銘じなければいけない。正確には7時間42分の旅で、日本でもこれほど長い鉄道の旅をしたことは殆ど無い。しかも最高時速350km/hを出しての旅である。そこで、あらかじめ途中停車駅を駱さんに教えてもらい、ある程度の予習をして、停車するたびに駅の写真を撮ることにした。再度訪問することがあるかも知れないということで、その地域の代表的観光地(があれば)記憶に留め置くことにした。利用する高鐵番号はG1323で、停車駅、発着時刻、駅(地域)の特徴は以下の通りである。

  ⇒停車駅<着/発時刻>メモ(観光地など)⇒
杭州東<9:27/9:30>乗車駅⇒诸暨(しょき)<9:52/9:54>浙江省紹興市に位置、農業のほか、真珠の特産地でもある。真珠、榧、茶は「諸曁三宝」と呼ばれる。⇒金华(浙江省)< 10:18/10:20>⇒衢州(くしゅう)<10:40/10:42>浙江省に位置、商・周代には人々が生活していた。衢州墙水门⇒江山(こうざん)<10:55/11:02>浙江省の衢州市、世界遺産の「中国丹霞」、市内の江郎山は丹霞地形の印象的な山並⇒ 上饶(じょうじょう)<11:22/11:24>江西省の北東部、鄱陽湖へ向かう信江が流れる。⇒鹰潭北(ようたん)<11:50/11:52>江西省に位置、福建省に接する。竜虎山⇒南昌西<12:31/12:34>江西省の省都。滕王閣、贛江、撫河下流に位置し、中国最大の淡水湖である鄱陽湖に臨む江南の三大名楼。中国人民解放軍誕生の地。江西省最大の工業都市。全市の平均海抜は25メートル。⇒新余北(シンユー)<13:06/13:08>江西省に位置。三国時代、呉の宝鼎2年(267年)に新渝県が置かれる。隋の開皇9年(589年)に県を廃止し、呉平県に合併。開皇18年(598年)に新渝県が復活。⇒宜春(イーチュン)< 13:23/13:25>江西省の中西部に位置し湖南省と接する。⇒长沙南(ちょうさ)<14:07/14:11>湖南省の省都。古い歴史をもつ国家歴史文化名城であり、経済的にも湖南省の中心。屈原、関羽、毛沢東、麓山寺⇒韶山南(シャオシャン)<14:36/14:38> 湖南省湘潭市に位置 毛沢東旧居⇒娄底南(ロウディ)< 14:56/14:58> 湖南省の中央部に位置。湘江の支流の漣水が市域内を流れている。⇒邵阳北(シャオヤン)<15:14/15:16>湖南省の中西部に位置。広西チワン族自治区に接する。主な河川は資江。邵陽に初めて行政区域が設定されたのは漢初の昭陵県である。⇒怀化南懐化市<15:54/15:57> 湖南省の西部に位置し、湘西トゥチャ族ミャオ族自治州、貴州省、広西チワン族自治区に接する。長江の支流で、洞庭湖へ注ぐ沅江が流れている。芷江和平城⇒铜仁南<16:26/16:37>貴州省西部の都市。人口 427万、トゥチャ族、漢、ミャオ族、ドン、コーラオ、族等29 の少数民族が住み、少数民族は総人口の 70.45% を占る。スマートシティは中国で最初の国のパイロット都市の五菱山周辺地域開発と貧困削減の実証地域⇒凯里南 <17:12>降車駅

各駅ごとに駅に近在する名所・観光地をWikipedia情報から拾い出した。

写真11.1-1-1:金华(浙江省)
写真11.1-1-2:衢州 衢州城墙水亭门
写真11.1-1-3:江山 世界遺産の「中国丹霞」
写真11.1-1-4:上饶 世界遺産の「三清山」
写真11.1-1-5:鹰潭北 竜虎山
写真11.1-1-6:南昌西 滕王閣
写真11.1-1-7:长沙南 麓山寺
写真11.1-1-8:怀化南 芷江和平城

 以上は駱さんから情報を得た高鐵(新幹線)途中停車駅情報をもとに予習した内容であるが、駱さんはいずれも行ったことがないとのことだった。

 さて貴州省の旅の始まりは杭州東駅から始まる。前回の安徽省合肥への高鐵利用と同様に安全チェックのあと、屋根が高く広々とした駅構内(写真11.1-2-1)の,行き先が該当する改札口(写真11.1-2-2)を見つけ、その近くのベンチに腰を落とし(写真11.1-2-3)、改札が開始されるのを待った。トイレに行きがてら、少しフロアを歩いてみた。広いフロアなので、ショーウィンドウ(写真11.1-2-4)、やブックショップもあった。

 乗るのは上海虹橋駅発貴陽北行きの高鐵(新幹線)である。杭州東駅は9:30発となっている。入線少し前にホームに降り立ち、列をなし、入線を待つ。列に割り込む人はいない。日本の新幹線のホームと異なり、売店は無いし、待合室もない。昼食は車内で販売されるカップラーメンや弁当を利用するのだ。駅弁なんていうのは無いのである。

 2列の座席の窓側を確保してくれていた。隣に駱さんが席を取っているので、これまで聞けなかった多くの話が聞ける。この7.5時間の駱さんとの会話は、今回の中国旅行の最大の楽しみの一つとしていたのである。杭州東駅を出発して、少し落ち着いたところで、お菓子が出てきた。碧根果というナッツ系のお菓子(写真11.1-3-3)と松の実系のお菓子であり、栗や胡桃の様に殻を割って中にある実を食べるタイプの食べ物である。どちらかと言うとこの種の食べ物は苦手である。味ではなく殻を割って中の実を取り出す作業が苦手なのである。

【今回の中国旅行のテーマについて】
 本旅日記の冒頭に記した、1.はじめに に記載した文章は旅行前に既に作成済みでwordファイルとしてPCのデスクトップにアップしていたので、これを見てもらった。子供の頃から古代史ファンであることを知ってもらえることは、今後駱さんにガイドをしてもらう旅先を決める時に参考にしてもらえる筈という下心もあった。

【碧根果】
 杭州東駅を出発して、少し落ち着いたところで、お菓子が出てきた。碧根果というナッツ系のお菓子(写真11.1-3-3)と松の実系のお菓子であり、栗や胡桃の様に殻を割って中にある実を食べるタイプの食べ物である。どちらかと言うとこの種の食べ物は苦手である。味ではなく殻を割って中の実を取り出す作業が苦手なのである。
この稿を書くにあたって、旅行後にウェブで調べると、碧根果はアメリカ原産のPECANに対する当て字で、健康食とされている。Ca、K、P、Mg、抗酸化材、が豊富に含まれていて、心臓病(冠状動脈心臓病)を予防、神経疾患、アルツハイマーの進行防止やコレステロールを下げ、栄養価の高い食べ物であることが分かった。狭心症が自分の持病であることを知っている駱さんの心遣いがったのかも知れないと思うと本当に嬉しいことであるが、後で分かったことであり、この稿で、時間遅れの感謝を駱さんに捧げたい。

【柚】
 また、碧根果が出てきたのとどちらが先だったか記憶が定かではないが、柚(ユズ)が出てきた。これは10/31の稿の昼食のところにも話題にした(写真10.31-5-3)が、中国人が柚と呼ぶ果物が座席の前のテーブルに置かれた(写真11.1-3-2)。日本ではグレープ・フルーツ(ルビー)と呼んでいる果物の、直径が1.5倍、体積では3.4倍ほどの大型版である。果皮が厚いので切り込みが入っている。車内では安全チェックにひっかかるのでナイフ類は持ち込めないので、駱さんが予め切り込みを入れて持ってきたのだろう。ものの名称は“郷に入れば郷にしたがえ”である。拘らないことにした。

【喇叭華】
 最近は中国旅行時にPC(レッツノート)を携帯している。また中国の訪問先で使用可能なWiFiも成田で借用して、中国で地図と自分のブログを閲覧できるようにしている。これまでの中国旅行で不明だったことを駱さんに教えてもらう為である。7.5時間の旅は格好の相談室である。その中に分からずじまいの花の名があり、それを自分のブログ掲載の写真を見てもらいながら明らかにしようという魂胆である。
 その一つ河南省洛陽近郊にある献帝陵につつましく咲いていた野辺の花(写真5.3-4-9)の名前である。最初は駱さんも知らなかったらしいが、すぐスマホで調べてくれて、花の写真を見せてくれながら、「それは、喇叭花という名前の花です。」という。自分が見て、とても同じ花には見えないが、自信をもって言うのでそうなのかも知れないと思い、反論はひっこめた。ところが、他の写真を見せてくれながら、「これも、喇叭花という名前の花です。」という。見せてくれたのはアサガオや水仙の花、おしろい花であった。これには、驚いてしまい、「これはアサガオと言うのですよ、日本では。」と言っても妥協をしてくれない。そこで、後日、「喇叭花」で検索してみたら、確かにアサガオを筆頭に、水仙、ユリ、など、強いて言えば、喇叭に見える花は皆喇叭花であった。更に「小喇叭花」の分類を見るとかなり近い写真があった。「私の負けです。」。しかし、完全に花姿が一致しているものは無かったのも事実なのだ。

【中国人の爆買い】
 中国人の爆買いは日本経済を活性化する原動力のひとつになっている一方、好ましからぬ行状が新聞やTVのニュースで揶揄的に報道されている。駱さんは、日本語が話すのも、聞くのも、書くのも、読むのも一流である。また、個人旅行のガイドもしてるが、浙江国際旅行社にも所属している。その縁でオファーがあるのだろうか、中国人の日本旅行のガイドさんもかなり頻繁にこなしている。
 沖縄は何回か、そして本州にも既に来ていて、筆者が今回中国をガイドしてもらう直前にも、成田から関空まで全コースをバスで移動するツアーのガイドさんをし、10月22日(筆者が成田に前泊した日のちょうど一週間前)に関空発で杭州に着いたばかり、とのことであった。駱さんには事前のメールで、「杭州-貴州高鐵8時間の車内で日本ツアーの感想を聞かせて下さい。」とお願いしていたのである。
 特に興味を持ったのはツアーのコースであり、成田から関空までの間、どの観光地に立ち寄ったかである。都内は、秋葉原、銀座、皇居で、その後、深大寺に寄り、富士山、浜名湖、浜松、名古屋、京都、大阪、関西空港とのことだが、意外なのは深大寺である。日本人でさえ深大寺を知っている人が多いとは言えない。筆者の勤務する大学から歩いて行ける距離である。東京都調布市ある古刹であり、そばで有名。また隣接して神代植物公園があることでも有名である。特に中国と接点があるとも思われない。
 ただ、NHKの朝ドラの「ゲゲゲの女房」の舞台となっている。布多天神に至る天神通りには、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪像が通りの両側に据えられている。大学には大勢の中国人留学生がいるので、かれらの内の誰かが、「ここに来れば日本人の珍奇な精神文化に触れられる。」と思い、それを日本以上に進んでいる中国のSNSに情報発信し、それが日本の観光地情報として駈け廻っているのかも知れない。もし、そうだとしたら「爆買い」とは対極的な動機であり、揶揄すべきではない、といえる。
 筆者は非常勤なので週に3日であるが、天神通りを通行しているが、時々妖怪像にカメラを向け中国語を話している旅行者風カップルの姿を見ることがある。筆者も、もし中国人の特異な精神文化に触れられる観光地があれば、是非行ってみたい、という気持ちになる。それと同じような気持ちで、日本を観光する中国人が居ても不思議ではない。
 この稿を書いている最中に(2016.1.12)、駱さんにメールで「ゲゲゲの鬼太郎」を知っているか?」と尋ねたところ、「中国でも人気のある漫画だ。」と教えてくれた。

 車中の7.5時間の中で以上の様な会話をしたのを覚えている。その他昼食の時間、停車時間待ち、車窓からの景色(写真11.1-3-1)を見る時間があったが、微々たるもので、殆どが駱さんとの会話に費やされた。従って、停車駅を写真にとる(写真11.1-3-4)ことは殆どできなかった。

 そして、あっと言う間に、往きの降車駅の凱里南駅に17:12に着いた。予定到着時刻ピッタリであった。時間に正確なのは何も日本人だけのお家芸でないことが分かった。降りたホームには人影は少なかった(写真11.1-3-5)。少し遠方に目を移すと、曇天を背景に三つからなる小さな連山(写真11.1-3-6)が見えた。ホームから出て、駅を振り返ってみると、駅ができたばかりで利用客も少ない感じであった(写真11.1-3-7)。まだ駅の周囲は整備中(建築中)であることが正面に目を移すと分かった(写真11.1-3-8、3-9)。

 階段をおり、車道につながっているタクシーが沢山待機する路面まで歩き。タクシーのたまり場の方に歩いていくと、タクシーを斡旋する仲介者の様な男が近づいてきて、駱さんと何やら交渉している。交渉がまとまったらしく、車に乗り込んだ。まもなく、この辺りが、凱里市の中心部に違いないという地点(写真11.1-3-10)を通り抜け、広い道を北へ向かう、途中、短い区間だったが、別の客を乗せる、という日本のタクシーであれば、考えられないこともして、車は更に北へ、北へ。そして道も次第に狭まり、山道へと入ってゆく。路はクネクネとカーブが多くなってくるが、運転手は緩急をつけたスピードで、ことも無げに目的地に向かっている。もう少し緩走してくれると揺れも少なく、周囲の景色を車の窓ガラス越しに写真を撮ることもできるのだが、暗くもなってきたこともあり、諦めた。

 そして、約1時間後に、車を下車し、間もなく「西江千戸苗賽」と横書きされた苗賽(苗族の村)の入場門(写真11.1-4-1)に至った。少数民族の村として相応しくない光と音量で観光客を迎えてくれている。門には、銀製の苗族民族帽(写真11.1-4-2)や、民族飾り(写真11.1-4-3)が施された入場門を背景に写真を撮ってもらい(写真11.1-4-4)、入場した。この門の裏側には、民族帽や民族飾りは無いもののライトアップはされていた(写真11.1-4-5)。門の裏側も広場になっていて、その隅のあたりにバスが数台駐車していた。

 入場門と苗賽中心部を結ぶシャトルバスの乗車停留所には夕闇が深くなっているこの時間にも観光客が多くいた。しばらくしてバスを降り、少し、そぞろ歩くと、民族色の深い種々の店が見えてきた。店の入り口には民族服を着た娘さんや縦笛を構えた民族服の男性が背を伸ばし、佇んでいる(写真11.1-4-6)娘さんの手にはスマホがあり、これさえあれば、長時間佇んでいても苦にならないのであろう。この夕闇の中を苗賽に住んでいると思われる子供が遊歩しているがどこにでもある子供の服装である。肉の燻製棒を販売している店も多かった(写真11.1-4-7)。苗賽中心部の観光は翌日である。

 これから山の中腹にあるホテルに向かい、荷物を置いて、また降りてきて夕食である。
 少し歩くと、山の中腹部に向かうための座席と屋根だけがついた電動カート(異動車)乗り場があり、そこに並んだ。これから山の中腹部を目指す観光客がまだ沢山いる証拠だ。カートはグングンと舗装され曲がりくねった山道を登ってゆく。そして間もなく、終点に到着し下車した。ここには見晴らし台があり、舞台には多くの観光客が夜景を見降ろし、シャッターを切っていた。ここへ宿泊予定のホテルの管理人が迎えに来る予定なので少し待って欲しいとの駱さんの話があり、その間に自分も舞台に上がり、シャッターを切った(写真11.1-4-8)。

 やがて、駱さんが舞台に上がってきて、ホテルまで案内してくれる人が来たと告げてくれたので、その人について、足を踏み外したら転落の恐れがある細い山道を注意深く歩いて行く。100円ショップで買ったLED3灯式の懐中電灯が大いに役に立った。やがて、こじんまりとして、小ぎれいで見晴らしの良さそうなホテルに到着し、チェックインし、少し休んだ後、夕食の為、今度は徒歩で苗賽中心部に降りてゆくことになった。下りで、道幅も比較的広いので楽に歩くことが出来、間もなく苗賽中心部に至った。最初に目についたのは翌日見る予定の民族ショー開催場所の入り口に佇む民族衣装を着飾った苗族の4人の娘さん達(写真11.1-4-9)で、先ほど見た娘さんたちとは違う衣装である。民族衣装の前掛けの中に両手を突っ込み談笑している。3人寄ればカシマシは少数民族だろうが、漢族だろうが、また中国人だろうが、日本人だろうが変わらないのであろう。ましてや4人である。カシマシ度は加速するはず、アッというまに時間は過ぎるのだろう。

 そして、夕食は辛味の効いた中華麺(写真11.1-4-10)を駱さんと二人で食し、先ほどと同じ経路でホテルに戻った。またまた100円懐中電灯が役にたったが、雨が降っていなくて幸いであった。それにしても駱さんの間違えないガイドには感心し、信頼感が増した。
   本稿完  つづく







2016/01/02 23:10:08|旅日記
4.第二日(2015.10.31)@河姆渡遺跡、A阿育王寺、B天童寺

4.第二日(2015.10.31)@河姆渡遺跡、A阿育王寺、B天童寺

A阿育王寺(アショカオウジ)
 阿育王寺に向かう途中、道路沿いにある地元レストラン「香湖湾酒店」で昼食を摂ることにした。店の入り口に陳列された魚介類、肉、野菜類の中からそれぞれ選び、茹でたり、スープにして、ご飯とともに出てきた(写真10.31-5-1)。味は広東料理風で食べやすく、魚(写真10.31-5-2)は骨ごと食べられた。食後のデザートとして駱さんが持ち込んだ、巨大柚を食した。この柚(写真10.31-5-3)はどう見ても、直径が日本のグレープフルーツの1.5倍ほどある大きめのグレープ・フルーツ(ルビー)としか言いようがないが、食べてみると大変おいしかった。ちなみに旬の果物ということで、行く先々で目に触れた。

 食事を終え、阿育王寺に向かった。車で30分余りのところに阿育王寺(写真10.31-6-1)と扁額に書かれた山門が現れた。阿育王寺は、浙江省寧波市太白山の麓にある、西晋の太康3年(282年)に建立された禅宗寺院であり、中華五山の一つになっている。

 また、中国国内で唯一インドの「アショーカ王」の名前が残っている古寺である。

 「アショーカ王」はマウリヤ朝の第3代の王であり、釈迦の予言、「釈迦入滅後100年後に姓は孔雀、名を阿育といい、仏の法をもって国を治め、8万4千の仏塔を建立して供養し衆生を安楽にするであろう」と言ったとのこと。

 話は変わるが、筆者が滋賀県八日市に住んでいた頃、細い街道入り口に、「阿育王」と刻み込まれた石製の道標があったことを記憶している。何故そのようなところにそれが置かれたのかいまだに解を得ていない。

 境内の案内図(写真10.31-6-2)を見ると、山門(写真10.31-6-1)は新しく建造された様で、天王殿(写真10.31-6-7)、大宝雄殿(写真10.31-6-8)、舎利殿(写真10.31-6-10)の並びとは直角方向に配置され、天王殿と横並びするように、手前に西塔(写真10.31-6-3)、奥側に東塔(写真10.31-6-4、6-5)が等間隔に配されている。西塔は四角柱で5層、つくりは石製で、各階の庇は狭く、日本の見慣れた多重の塔とはかなり趣が異なる。東塔は6角柱で7層、詳しくは後述する。

 従って、山門から入ると最初に西塔が現れる配置となっている。そしてそれらの間に様々な殿舎が立ち並んでいる。天王殿の屋根の天辺には玉をくわえた龍がからみついている(写真10.31-6-6)。大雄宝殿内の壁には陶磁器製(?)の多くの民が様々なポーズで、へばりついていた(写真10.31-6-9)。

 更に奥に進むと舎利殿へ、これが本尊に相違無い(写真10.31-6-10)。さすがに写真撮影はご法度であり、外からズーム・アップして撮った(写真10.31-6-11)が中に仏像はなく仏舎利を収めた箱の様なものが見えた。

 そして、暫く回廊を歩いて行くと、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にたどり着いた。その堂宇の一つで、7重の塔である東塔は遠くから見るよりは、7層目の欄干まで見える為かどっしり重厚感がある。外壁の色はあずき色で、材質は木造で貫禄があった。天辺には立派な相輪も見られ(写真10.31-7-2、7-5)、もしかしら心柱もあるかも知れないと思わせるほどつくりは安定感が感じられた(写真10.31-7-3、7-4.)。

 しかし、この西塔と東塔のアンバランス感は一体何なのだろう、何かの間違いかも知れない、と思いウェブでキーワード検索をしてみた。そうしたら、维基百科なる中国語ウェブに、「至正二十五年(1365年)建的砖塔,高36米,七层六面。东塔七层八角,1995年竣工」とあることが分かった、即ち、西塔は7層六面、東塔は7層八面でしかも20年ほど前に竣工したものなのである。色は西塔がだいだい色、東塔があずき色で最初に見えたのと同じである。

 度重なる火災、世を統べる建築主(統治者)の思想によって修復のされ方が異なるのだろう。しかし、異国からの旅行者が統治者の思想を推測することは不可能である、

 堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にあるもう一つの堂宇が羅漢堂(写真10.31-8-1)であり、内部には金ピカに輝く無数の仏像が配置されていた(写真10.31-8-3、8-4)。

又、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にある更にもう一つの堂宇がは阿育王寺鼓楼(写真10.31-8-2)であり、鼓楼とは城郭、都市、宗教施設敷地内などに建てられる、太鼓を設置するための建物で、太鼓を鳴らすことによって、時報や、緊急事態発生の伝達などの役割を果たした。一方鐘楼は寺院内にあって梵鐘を吊し、時を告げる施設であり、時を告げる役割は共通している。この寺院には両楼があり、不思議な印象を受けた。

 この一角を後にして、歩いて行くと、8つのエンブレムが彫られた石壁に出会った。石表面にはびこる苔のなさから最近建立されたものであることが分かったが、各エンブレムが何を意味しているかについては、それほど関心が持てなかった。(写真10.31-8-5)。

 そして長く橙色した隔壁が左手にある通路(写真10.31-8-6)に出た。そして最初にくぐった阿育王寺と書かれた額のかかった山門の前でパチリ(写真10.31-8-7)。そして石門をパチリ(写真10.31-8-8)して阿育王寺を後にした。計1時間の参観であった。

尚依然として謎なのは、西塔と東塔との関係である。最初に西塔との写真とした、写真10.31-6-3、6-4でそれぞれ西塔と東塔と思い込んだのは実は過ちで、写真10.31-6-4の塔は外壁の色が明らかに黄色であり、そうなると明らかに東塔と思われる写真10.31-7-のあずき色とは異なる。

ということは阿育王寺には多重の塔が3塔あることになる。ところが、最初の境内の配置図を見ると、3塔目がどこにも表示されていない。またガイドをしてくれた駱さんに問い合わせてみるか。

又、本稿を記載する際に、記載内容の正誤の確認のために他のブログも参考にさせてもらっているが、以下のURLは引用文献も豊富で、学術的見地で紹介され、ここまで詳述できているブログは中国語版ブログにも無いのではないかと思われた。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page004f.html
  
   本稿 終わり 次につづく







2016/01/02 18:08:47|旅日記
3. 第二日(2015.10.31)@河姆渡遺跡、A阿育王寺、B天童寺

3. 第二日(2015.10.31)@河姆渡遺跡、A阿育王寺、B天童寺
@河姆渡遺跡

朝8:30にガイドさんの駱さんと、ご主人の張さんが迎えに来てくれた。事前に日程を調整する時、駱さんに、「河姆渡遺跡までは駱さんが運転するの?」と尋ねてしまった。それに対し、「安心してネ、張さんが運転してくれる。」との返事。こちらの心配を見透かされてしまった。

女性は咄嗟の判断ができない、「弱き者、汝の名は女なり」という先入観が強く、車の運転となると、どうしても恐怖心が芽生えてしまうのである。しかし、今回の中国旅行では、「弱き者、汝の名は女なり」という先入観を少なくとも中国人女性に対しては払拭せざるを得ない出来事がいくつかあった。

それはともかく、今にも雨が降りそうな曇天の下、高速G52を一路寧波方向へ突っ走った(写真10.31-1-1)。市街地を抜けて少し行ったところまでは、しばらくは明日利用する予定の高鐵(中国版新幹線)に並走している。

そして、2時間足らずして高速道路から外れ、人の姿は殆ど無い並木道(写真10.31-1-2)にでた。そしてほどなく目的地に到着。車を降りて、最初に目に入った建造物は、江沢民書による「河姆渡遺祉博物館」と書かれた額のかかった建物(写真10.31-1-3)であった。

中へ入ってみると、地層と発掘された埋蔵品との関係の図表(写真10.31-1-4)が目に入った。最初に違和感を感じたのは地層の番号で、下層になるほど番号が大きくなるのだ。

エレクトロニクス材料が専門分野だった自分は、基板上に最初に成膜したのが、第一層、その上に成膜したのが第二層、そして積層膜の上部に行くほど番号が増えてゆくのである。しかし地層は逆で、上から下層に行くほど番号が増えるのである。

かくして河姆渡遺祉の地層は最上層の第一層から最下層の第四層が積層しているのである。ややこしいのは地層学的地層番号と文化期の順番を表す番号の関係で、これは古い方から順に、第一期文化、第二期文化、・・・、となるのである。各文化期で表すと、第一期が6500〜7000年前、第二期が6000〜6500年前、第三期が5500〜6000年前、第4期が5000〜5500年前となっている(写真10.31-1-4)。

そして地層の移り変わりごとに大規模な洪水があった。以上が地層方向の分布であるが、面方向を見ると、12もの文化群落(河姆渡遺祉博物館編の「河姆渡文化精粋」文物出版社刊に載っている河姆渡文化遺跡分布地図には、30か所の遺跡群)が記されている。特に寧波から杭州湾に平行に走る余姚江の両岸、特に杭州湾岸側に多く分布しているが、塔山遺跡(象山)や白泉遺跡(舟山市)は、離れて位置している。 

河姆渡遺跡という名称はこれらの遺跡群で最初に発見されたので、総称でありながら個別の文化群落名でもあるのだ。個別の文化群落としての文化期は、第一期から第四期の中頃までとなっている。それに対し、第一期から第四期までフルに続いたのは鯔山文化遺跡、最短が第二期で終わった傳家山遺跡とあったが、河姆渡遺祉博物館のホームページ
   http://www.hemudusite.com/CN/yz.aspx
には,河姆渡と鯔山が第一期から第四期までフルに続き、田螺山遺跡が第4期まで続かなかったことになっている。真実はいづれしかないが、この大河の歴史の中では些細なことなのかも知れない。

 展示館で次に目に入ったのは、稲籾紋の模様が捺された陶片(左)、稲谷(中)。炭化した米粒(右)の展示(写真10.31-2-1)であり、稲の栽培がおこなわれていたことが分かる。 次いで、木、石、骨から作った生活用具、農具(写真10.31-2-2)、石斧(写真10.31-2-3)、釜形鼎陶器(写真10.31-2-4)、田螺山遺跡で発掘された陶器(写真10.31-2-5)、漆塗りの筒(写真10.31-2-6)、椀(写真10.31-2-7)、猪紋陶鉢(写真10.31-2-8)等の展示があった。

 更に進むと、木槳(櫂)と表示された展示物(写真10.31-3-1)が目に入った。寸法を相似的に縮小したらペーパーナイフそのもので、たかが舵をこれほど精巧に作る必要があったのだろうか?確かに水を受ける側のエッジはシャープであるほど抵抗が少ないし、わずかな角度で傾けるだけで操舵できるというメリットがあるが、そこまで設計しているだろうか。

 次に目に入ったのは、河姆渡遺跡の象徴とも言うべき象牙製の双鳥朝陽蝶形器(写真10.31-3-2)であり、上部が欠けている。中央に、海面から出たばかりの朝日、そしてその太陽の両側に一対の鳥が侍っている。寸法は、長さ16.6cm、残幅5.9cm、厚さ1.2cm で、それほど大きいものではないが、装身具にしては大きすぎる。何に使ったものであろうか。この他象牙から作られたものとしては耜(スキ)、鎌形器、笛、鏃、釣り針、針、匕、匙など多彩である。この地域は7000年前にはもっと温暖で、象が生息していたのだろう。

 そして、5枚の葉が線刻された土器のかけら(写真10.31-3-3)や男女の頭蓋骨と、それをもとに、復元した男女顔面像(写真10.31-3-4)、更には何に使われたか分からないが、漆塗りされた木製の筒(写真10.31-3-5)が展示されていた。

 博物館の建屋から出ると、無数の杭が刺さった広大な遺構(写真10.31-4-1)が現れた。
発掘当時の遺構であって、7000年を遡った当時の姿ではなかろうが、杭の配列は何を意味しているのであろうか。杭の使用目的の一つに、軟弱な地盤に建物などを作る際、支持層まで杭を設置し、地震や地盤沈下によって傾かないようにする(wikipedia)、というのがある。河姆渡遺跡群は、いづれも海に近く、普段でも湿地が多く、その為、稲を栽培するのに好条件だが、水害に遭い易いため高床式住居(写真10.31-4-4)となっているのだろう。

 試しにGoogleMapで、この地域の地勢を見ると、河川と湖沼(水庫)が多い。高床式住居のもう一つの利点は獣に襲われにくい為、と河姆渡博物館のホーム・ページに記載されている。河川と湖沼が多いと同時に小高い山も多いので、そこに虎やヤマネコでも棲んでいたのであろうか。

 そして生きるために必要な水を確保するための井戸の遺構が目に入った(10.31-4-2、4-3)。材木を寝かせた囲いがしてあり、無造作に杭が放置されていて、その意味は推測しようがない。住居は高床式であり、屋根は切妻で茅葺(写真10.31-4-5)で、内部は中央廊下を挟んで、作業場、寝所、祭祀所など室内で可能な生活一式空間(部屋)が間仕切りされている(写真10.31-4-6)。

 そして屋外展示の参観が終わり、少し歩くと、例の双鳥朝陽蝶形器(写真10.31-3-2)の拡大石造レプリカが門の構えとして一対の岩に跨ぐように載置されていて(写真10.31-4-7)、これが河姆渡博物館の象徴とされている。そして河姆渡遺祉と彫られた石碑の前で、張さんとツーショット(写真10.31-4-8)の後、この遺跡を後にした。
   この稿終わり、次項につづく








2015/11/23 13:01:00|旅日記
「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」 2.第一日 〜西湖再び〜

2.第一日(2015.10.30)〜再び西湖へ〜

いつもの様に、10.29(木)は、大学勤務帰宅後、成田で前泊し、10.30(金)前回と同じAM10:00発のAN929便に乗り、主翼すぐ後ろ、窓際の17Aの座席に収まった。機内食は特別食を食し、途中で、時計を東京時間から北京時間に修正した。機内は、中国人乗客が多く、小さな子の鳴き声も聞こえたが、眠気が勝り、うとうとするうちに寝入ってしまった。途中、窓に直射日光がもろに当たり、窓に触れると、「アッチッチ!」というほどに温度上昇、機内も汗ばむくらいの温度になっていた。窓際の17Aの座席は往き便は不正解だ。帰りも窓際の17Aの座席を予約しているので、帰りは正解だ。

ほぼ定刻通りの12:50(現地時刻)頃に杭州空港に着陸。入国手続きを済ませ、出迎え口に出ると、駱さんが笑顔で手を振って出迎えてくれた。早速、駱さんの運転する三菱パジェロでホテルへ。前回と同じ三ツ星Hの杭州華僑ホテルだ。いつもの様に駱さんが部屋までついてきてくれ、不備がないかチェックしてくれる。三ツ星とは言うものの、建物、什器備品は古いが、浴槽もあり、水回りも良く、更には朝食も癖のない味のバイキングでおいしい。また何よりも、西湖にこよなく近く、コンビニが直ぐそばにあるのも有難い。

 1時間あまり休憩したあと、夕食までの間、西湖湖畔を前回と逆廻りに駱さんの案内で散策することになった。湖面に視線を遣ると。花をとっくに落とし、枯れ穂をつけた睡蓮の葉が浮き茂り、残り少ない今年に息を吹きかけているようだ(写真10.30-1-1)。
  杭州西湖と朱彫りされた太湖石のところでワンショット(写真10.30-1-2)。

  更に歩いて行くと、唐の詩人でもあり、中央の役人でもあった白楽天が自ら地方官移動を願い出て杭州に赴任してきた(実際は政府批判が多く、左遷された?)が杭州刺史を解かれ、お気に入りの杭州を離れる時、民衆との別離の様子を表した石像のある所へ出た(写真10.30-1-3)。反骨精神の旺盛な役人は、反作用的に民衆から慕われる傾向が強かったのかも知れない。

  湖岸には枝が枝垂れ、枝先の葉が湖面に触れそうな柳の並木道が現れ、立ち止まって写真を撮る人が増えてきた。枝垂れ柳の枝間から見え隠れする白提にカメラを向ける人が多い。オートフォーカス設定を解除するか、動画で撮るしかない。自撮り棒を操る人も多い。

  そして、白提のたもとに至り、湖面一面に青々とした葉の茂る蓮園が目に入った(写真10.30-1-4)。今は10月末だが、花弁をつける6月には西湖のあちらこちちにある蓮園の中でも、ここはとりわけ壮観に違いない。白提を背にしても良いし、北岸の小高い峰を借景にしても良し、である。

  白提のたもとに小さな祠の様な建造物があり、その中に、「断橋残雪」と書かれた石碑があった(写真10.30-1-5)。西湖十景の一つで、駱さんの説明では、「雪が白提に積り、暫くすると、白提の最も高い中央頂部から雪が溶け始め、下地が現れるので、まるで橋の中央頂部で割断した様に見えるから。」とのことで、その情景を胸中スクリーンに容易にプロジェクションできた。

  白提の両側の遊歩道や、少し開けた広場では、自撮り棒を使って写真を撮る人、ベンチに腰を落とし西湖の夕景を楽しもうとする人、犬を連れて散歩する人、葉笛を吹く人、ダンスをする人、二胡の様な楽器を奏でる人、自転車に乗って通り過ぎる人、カートに乗って移動する欧米人、などが西湖をモチーフとして湖畔にうごめいている感があった。自分も今回で4回目の西湖逍遥で、そのうち3回は駱さんの案内としている。西湖湖畔うごめき人の一人である。

白提を渡り、少し行ったところで、そろそろ暮れなずんできたので、戻ることになり、
 最初の蓮園のところに戻った頃は夕闇深まり、遠望となった白提あたりがライトアップされ浮かびあがって見えた。写真を撮ろうとしたが暗くて焦点が合わなくなったが視力の良い駱さんがジャスピンで撮ってくれた(写真10.30-2-1)。また同じ湖畔側で、ライトアップされた建物を撮った(写真10.30-2-2)。

夕食は張さんと一緒にすることになっていて、張さんと落ち合った後、前回利用したレ
ストランと同じ一角にある「知味観」というレストランで上海蟹(写真10.30-2-3)を食べよう」ということになった(写真10.30-2-3)。店の入り口には、店のモットー?の標語が掲げられている(写真10.30-2-4)ことに気が付いた。更には、かつて、王宮の関係者や政府要人らの夜会にも提供された豪華な遊覧船の模型も展示されていた(写真10.30-2-5)。この店での食事は申し訳ないことに、駱さん、張さんのおごりだった。

 食後再び西湖湖畔に出て、少しばかりの逍遥を楽しんだ。白提の更に北の湖畔に植樹されているポプラ並木の黄葉が黄色くライトアップされてきれいであったが、眼の悪い自分が焦点合わせに苦労しているのを見かねて張さんがきれいに撮ってくれた(写真10.30- 2-6)。帰りに近くのコンビニでアイスクリームと野菜果物を買い、ホテルの自室に戻った。以上の様に、第一日は無事終わった。
     第一日完  つづく







2015/11/22 15:42:00|旅日記
「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」1.はじめに
「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」
  + 「杭州〜貴州、中国高鐵(新幹線)往復15.5時間の旅」

1.はじめに
 1970年代後半だったと思う。自分がまだ30歳にもなっていなかった頃のことである。
新聞に大きく河姆渡(かぼと)遺跡の文字が躍っていたのを覚えている。

筆者は東京武蔵野市吉祥寺に住んでいた幼少の頃、自分の遊技場の様な井の頭公園で弥生式住居址を目にする機会が多かった。中学、高校、大学時代は北多摩郡久留米町(現在、東久留米市)に住み、土器や石器の発掘に熱中していたことがあり、いまでも、道路の傍らに断層を見つけると、土器や石器が埋まっているのではないかと、視線を釘づけにしてしまうことがよくある。石器を発掘して、手に握った時は、数千年前に縄文人が最後に握ったぬくもりを数千年を経て自分が感じ取っているような不思議な気分になったことを覚えている。

そのように、子供の頃から考古学には関心を寄せていたので、河姆渡遺跡のニュースを見たことが永く記憶に残っていたのである。

ニュース発表があった頃は今のように中国に関心があったわけでなく、時折耳に入ってくる文化大革命情報や毛沢東語録などがわずかな関心ごとと言えた程度であり、河姆渡遺跡が中国のどの辺にあるかは関心ごとではなかった。

ところが、最近中国旅行で日本語ガイドをお願いしている駱暁蘇さんの地元の浙江省杭州市に親近感を持つようになり、そこを足場としうる観光地を調べているうちに杭州市の隣に寧波市があり、そこに河姆渡遺跡があることが分かり、駱さんの話では杭州から1.5時間程度ということが分かり、今回案内してもらうことにしたのである。

調べてみると、寧波は唐の時代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、空海、最澄らの留学僧、遣隋使、遣唐使が最初に着陸した中国の地であり、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学したと言われた地である。

もう一つの訪問地は少数民族に触れる旅で、貴州省凱里市にある西江千戸苗賽を観光する。この省において少数民族の半数近くを占める苗族は、漢族の南下によって追われた元揚子江流域で稲作を営んでいた民族の集合体と言える民族で、日本の稲作のルーツとなる稲作技術を持ち、従って民族学的にも日本人と似たところがあり、日本の田舎の原風景に出会うことができると言われている地である。

そしてその地には大自然の素晴らしさを誇示するような観光名所がいくつもあり、少数民族が溶け合っている名所も訪れることにした。貴州省安順市にある黄果大瀑布である。

以前、広西チワン族自治区の「龍脊棚田」を訪れた時、途中途中で異なる少数民族に遭遇し、自然に溶け込んだチワン族やヤオ族の少数民族の佇まいを目にして、棚田とカラフルな衣装を身に着けた少数民族女性とのハーモニーが実に印象的だったのを記憶しているが、今回も似た印象を持てることを期待した。

それが、貴州省凯里にある西江千户苗寨と、貴州省安順にある黄果樹瀑布である。前者は、中国最大のミャオ(苗)族集落で、文化蓄積が厚く、ミャオ族文化の典型的代表。

 この貴州省は、雲南省と広西チワン族自治区に挟まれた中国内陸部にある比較的貧困層が多い少数民族の苗族やトン族が多く住んでいる省であり、杭州市を起点にすると、日本を縦断するほどの距離となる。

  杭州南駅から貴州省凯里までと、貴州省貴陽駅から杭州南駅までは、高鐵(新幹線)で合計15.5時間の旅は、中国人による日本旅行ツアーガイドの経験が何度もある駱さんから比較中国事情を聴くまたとないチャンスで、大きな事前の楽しみとした。
  続く