1941年12月8日(ハワイ時間では7日)に旧日本軍は、アメリカ・ハワイの真珠湾攻撃をおこなった。日本が真珠湾攻撃を行った1941年12月7日から74年が過ぎた今日、犠牲者を追悼する式典がホノルルのヒッカム基地で開催された。報道によると、およそ2,400人のアメリカ軍兵士らが犠牲になり、その犠牲者追悼式典には日米の関係者に加え、攻撃をうけながらも生き延びた元兵士ら3,000人近くが参加した。 夕方6時からホノルルのワイキキ・カラカウア・アヴェニューで3時間近くにわたる真珠湾攻撃犠牲者追悼パレードが行われたのでそのパレードを静かに見守った。パレードはワイキキのメイン道路カラカウア・アヴェニューで大がかりに行われた。パレードには真珠湾攻撃で生き残った90歳を過ぎた元気な姿で歩く元軍人、現役の女性兵士に支えられながらオープンカーに乗りパレードする元軍人の姿が印象に残る。戦死した軍人たちの写真を掲げてパレード、ローヤル・ハワイアン・バンドの行進、ガールスカート、軍用犬、ジェット戦闘機、クラシック自動車に乗った元軍人、ラグビー選手、日本人が和太鼓を鳴らしながら行進する自動車などエンドレスかと思われるほどの長時間パレードが開催された。 1941年というとKoichiは6歳であり、ほとんど真珠湾攻撃の記憶はない。小学校3年生であった1944年に山形県小野川町へ学童疎開にいった。終戦を迎えた1945年まで学童疎開中の1年間、先輩や先生から真珠湾攻撃のことを聞かされ、轟沈とか撃沈などの言葉を知り、その様子を画用紙に描いていたことは覚えている。学童疎開から東京に戻ると、亀戸の自宅はB29爆撃機による焼夷弾で3月9日の夜の東京大空襲で焼失。両親と弟は水をかけた布団を頭に乗せ、焼け跡を逃げ惑い隅田川の言問橋まで逃げ、命が助かったということを聴かされている。 戦争相手であったアメリカに1963年から2年間、そして2012年から毎年アメリカ・ハワイ州にロングスティで世話になっている。3時間あまり、真珠湾攻撃犠牲者追悼パレードを複雑な気持ちでワイキキの浜でMakikoと見守った。【2015年12月7日】 平成27年12月18日(金) イリカイ・ホテルにて記す |