槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2008/03/30 12:02:05|旅日記
中国 雲南の旅 昆明(1)
                         雲南省昆明の旅
序  雲南省、特に昆明は、司馬遼太郎著「街道を行く 雲南のみち」を読んで以来、魅力を感じ続けてきた。多くの少数民族が住んでいるだけでなく、日本人のルーツ、原型と思わせる風情がその少数民族の佇まいの中に感じられるということである。そして、それに追いうちをかけたのが、葫芦絲という楽器による演奏と雲南のカラフルな花をバックにした少数民族の民族舞踏映像を納めたCDの入手であった。
07年12月から、現地旅行会社とメール交換しながら日程を詰めるとともに、航空チケットの入手手配を開始して、成田での前泊を含め五泊六日の旅となった。以下に写真を沿えながら旅物語として紹介する。


1. 旅行準備編
1) 観光日程・宿泊ホテルの決定
観光日程の作成、宿泊ホテルの予約をAraChina(桂林中国国際旅行社)と直接交渉し、日程の作成と、宿泊ホテルの予約を行った。電子メールで質問、希望等のQ&Aを行ったが、当日または、翌日には返信が貰え、スムーズな計画つくりが出来た。一週間で全日程を終えるという計画に対し、前泊、日本と現地との往復だけで、三日がかかってしまう。帰国時に最終電車に間に合わないと、更に一泊必要となり、結局正味の観光は3日しかとれないことになってしまう。以下の中国現地での観光費用は、現地の日本語ガイド、ホテル代、食事代で、合計73,485円となった。請求額は4,996元で、日本から中国銀行へ円で振り込むのだが、日本での換算レート(一元=15.052円)を使った場合は、75,200円となるので、中国での換算レート(一元=14.709円)を使って、支払う方が得なことが分かった。このことから、現金も、成田で元に交換するよりも、中国内で、交換する方が得ということになるので、成田での元への交換はやらなかった。オプションとして「雲南映像」という観劇があり、これには5,000円かかったが、これも予め日本から送金する場合は6,100円と割高となることが分かった。

2) 交通手段
    往きは成田を出発して、その日のうちに現地に着く、帰りも現地を出発して、その日のうちに成田へ着くことが可能な航空便を探した。見つかったのは、
往き:3/18(火) 成田9:00−(北京 入国手続きのみ)−15:35成都<以上CA422>
           成都19:05−20:15昆明<以上CA4459>
帰り:3/22(土) 昆明7:40−8:50成都<以上 CA4460>
       成都13:20−(北京 出国手続きのみ)−21:00成田<以上CA421>
  しかし、帰りの便はCA4460のその日の便が急遽なくなり、その結果、
         昆明11:55−15:00北京<以上CA1404>
         北京16:40−21:00成田<以上CA421>
  に変更になった。
   航空チケット取り扱いは、(株)ワールドトラベルサービスを使い、全て含めて123,240円の金額となった。

3) 自前の観光案内の作成
これを作成しておくということは、訪問先に対する興味を更に増長させるだけでなく、ガイドさんとの会話も活発となり、旅行の体感度が上昇し、記憶に残るものとなるため、インターネット情報や観光案内書をコピーしたりして、訪問順にまとめる。

4) 司馬遼太郎著「街道を行く 雲南のみち」再読とキーワード、キーセンテンスの抽出
もともと、この書物と西遊記に刺激されたのがきっかけだったので、それを再読するだけでなく、キーワード、キーセンテンスの抽出を行った。

ページ 司馬遼太郎 「街道を行く 雲南の道」

152 成都から雲南省昆明までは直線にして600km以上
「望蜀」心に貪りが生ずれば満ち足りることがない
153 雲南省  山も谷も湖もタイ語系やチベット系の人達の天国であった
154 雲南省という呼称は清朝になって使われた
155 武帝のころ  貴州省、雲南省一帯を「西南夷」と呼んでいた
魚を食べ、それも刺身で食べる
雲南省 長江の上流 江南まで下って勢力をつくったのが、呉と越
156 越人の遠い祖が、長江上流の稲作西南夷
武帝 水戦訓練用池を作らせ、「昆明池」と名づけた
昆明に住み、稲作をし、進んだ青銅器文化をもつ民族を「滇(てん)」
157 雲南省が中国の版図に入るのは元以降
西南夷は天性の戦闘者で外界から来る者を拒んでいた。特に苗族の精悍さ
161 雲南省は九州の10倍の面積 耕地は7%
162 古代から近世にかけて、雲南省は古タイ族の天地
滇には広大な湖、滇池、撫仙湖、洱海
163 漢の使者に対して、滇王嘗羌は「夜郎自大」
164 滇池の東岸(雲南省晋寧県)に「石賽山」 古墳群
166 四時如春
167 イ族
168 解放後、夷族を改め彝族という文字があてられた
170 沿道の並木  銀樺(インホウ)  生垣にブッソウゲに紅い花
171 昆明市は清朝時代には「雲南府」と呼ばれていた
172 サメ族  玀猓族  散蜜玀猓 撒梅族
176 赤い土 鉄分
177 睡美人(西山) 風景を比喩して文学化することは漢民族文化の特徴
178 南詔国(唐代) 非漢民族の国
雲南の力の根源 は洱海(大理付近)と滇池(昆明付近)
179 南詔文化は稲作と青銅冶金を基底とし、中国文化、中国仏教を摂取しつつ、チベット文化、タイ語系文化、インド文化の影響
唐代、南詔国は「吐蕃」の後押しを受け、唐にそむきかねない
181 雲南省に住む古い漢族の先祖は南京からきた  太祖朱元璋は南京の富豪たちを雲南に移民させた 屯田兵を移動
藍玉、傅友徳、沐英 が指揮
185 呈貢県 皇帝(明 恵帝)に貢物(宝珠梨:ほうじゅり)
187 西山に道観(道教の寺) 山岳信仰  東アジア古代に共通した信仰が根で、日本の原始神道とも血縁関係?
189 「羅漢崖」という扁額、「三清閣」という扁額のかかった閣 モンゴル人の王「梁王」 梁王山
192 「海不揚波」戦乱がおこらないことを言霊で祈念
193 華亭寺  泰山木
200 鄭和 滇池湖畔の昆陽生まれ 回族 イスラム教徒    燕王(永楽帝)に遣える  第一次建造船 150m長62m幅
202 8000tに匹敵、62艘に将士27800人  7次まで
208 近日楼  百貨店 昆明市街地中心
211 雲南の松茸   松蕈(ソンスン)、松蘑(ソンモ)  キノコ=蘑、菌    松茸菌(スンロンジュン)
214 蒟蒻 雲南省が自生、栽培の本場
217 22の少数民族 日本稲作文化の祖
雲南民族博物館:耳杯 漆器の出土品  漆技術の源流は稲作少数民族か
雲南民族博物館:古い青銅器 石賽山古墳群からの出土 貝殻が通貨、それを貯える貯貝器を争う情景が鋳金されている
220 雲南民族博物館:奴隷主騎馬民族派 黒イ族、奴隷にされた側 白イ族[水田派」 明朝は黒イ族を保護、清朝は撃破
222 雲南民族博物館:雑技 蛇を踏まえて踊る二人  蛇信仰   「散楽」、「夷楽」 日本の「猿楽」に展開[奈良時代)
223 跪座(正座):  胡座(あぐら);北方、イラン系民族の座り方 その影響で、土間に椅子、テーブルを置く生活
225 漢の武帝の頃、大理あたりを昆明と呼んでいた  元代になって今の地が昆明となった
227 イ族 形象文字 漢字と無関係の文字を所有していた 西夏文字に近い
229 漢民族の素形を作った有力な要素として古代羌族があったのでは
イ族は雲南省だけで300万人 その中にサメ族
232 高橋村
233 西南連合大学=北京大学+清華大学 疎開 日本侵略時
アーチ橋

                      <<< 続く >>>







2008/03/24 22:36:50|物語
西方流雲(61)
                     西方流雲(61)

                   <<< 54.脱神戸・知日の旅 >>> 
    
                            ( 十 )

 その日の朝、紅蓮は五時半に目が覚めた。初秋の五時半は平地だと、明るいが、ここは山で囲まれている為、まだ薄暗い。服部雪華はまだ目覚めていないようなので、音を立てず、そーっと部屋の外に出て、更に、宿の外へ出てみた。空気は冷たいが、いかにも新鮮で気持ちの良い気流を感じた。
 さすがに紫陽花は咲いていないが、その代わり、同じ様な色の竜胆 (りんどう)の花が一面に咲いていた。ただし花びらはいずれもこれから開くという感じであり、日が経つにつれて開花して行くようにも見え、時間を追って開いて行く様にも見えた。後から同室で休んでいた服部雪華が近づいてきた。
「朝早いからまだ蕾の状態だけど、昼間の明るさを得ると花びらが一杯に開くのよね。」
 しばらく、宿の周りの様子を眺めた後、部屋に戻り、皆で朝食を食べた後、車で万福寺に向かった。
 運転を太沖が行い、助手席に太沖の妻、薄芷若が、そして、後部座席に残りの三人が席とりした。
 車に乗り込むやいなや、東伝が、
「皆さん、昨夜は良く眠れましたか? わしはいい具合に酔ってしまって、おかげで熟睡しましたよ。一人だけだったので、鼾を思う存分かけた様です。」
というと、薄芷若はクスクス笑いながら、
「私はその理由でよく眠れませんでした。車の中では一眠りさせてもらいますよ。」
 結局、宿代は全額を太沖が面倒みた。その太沖が、
「そんなに鼾をかいたかね。鼾は自分がかいているのが分からないからね。ところで、今日は万福寺に中国人がどのくらい集まるだろうね。」
 半分独り言の様につぶやき始めた。
 それに誰かが答える前に、紅蓮が、
「何故、万福寺なのですか?」
と聞いた、それに対し、東伝が、
「京都には有名な寺院が沢山あるけど、殆どが日本人が建立したんだよ。だけど、万福寺を建立したのは、中国福建省から渡来された隠元禅師で、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝したのだが、来朝する時に、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理等広汎にわたる文化を持ち込み、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般 に影響を及ぼしたのだそうだ。隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚なども隠元禅師が持ち込んだものといわれ、日本人にとって、今でも馴染みの深いものなのですよ。」
「美術においては、絵画、彫刻、書、篆刻、工芸等があげられますが、書は黄檗流の書風として知られ、篆刻は日本の「篆刻の開祖」ともいわれる独立(どくりゅう)や心越が中国の印譜や篆刻の材料と技術を伝え、その後日本でも印譜が作られるようになるなど、我が国の近世文化発展に大きな役割を果 たしたのだそうだ。また重要文化財として「明朝体」の源流となる黄檗 鉄眼版一切経版木、書画類などがあげられているのですよ。」
「なるほど中国文化が密接に関係している寺なのね。では重陽の節句との関係はどうなっているのですか?」
と、紅蓮は助手席の方を向いて質問をした。それに対し再び東伝が、
「中国の思想、陰陽思想では、奇数は陽の数であり、陽の数の一番大きな数字の九が重なる日なので「重陽」と呼ばれ、この九が二つ重なる九月九日は大変めでたい日とされていたのだよ。また、重陽の節句は別名、菊の節句とも呼ばれ、かつては、宮中行事として、天皇以下が紫宸殿に集まり、詩を詠んだり菊花酒を飲んだりしてけがれを祓い長寿を願ったのでした。また、菊の被綿(きせわた)といって、重陽の節句の前夜に、まだつぼみの菊の花に綿をかぶせて、菊の香りと夜露をしみこませたもので、宮中の女官たちが身体を撫でたりもしたのだそうだ。」
それを聞いて、紅蓮は、「東伝さんも相当日本の文化について勉強したのだな」と独りこちた。
 今度は、東伝の話を受け太沖が、
「中国では、菊の花には不老長寿の薬としての信仰がありましてな、鑑賞用としてより、先に薬用として栽培されていたようなのです。漢方でも薬効を認められている菊の花の種類は少なくなく、古代中国では、菊は「翁草〔おきなくさ〕」「千代見草〔ちよみくさ〕」「齢草〔よわいくさ〕」と言われ、邪気を祓い長生きする効能があると信じられていたのだそうですよ。
その中国の影響を受けて日本では、八日の夜に菊に綿をかぶせ、九日に露で湿ったその綿で体を拭いて長寿を祈っていたということらしいのですよ。また、菊に関する歌合わせや菊を鑑賞する宴が催されていたそうですよ。」
と、さすがに漢方薬商である太沖は詳しく、更に、
「もともと菊は日本の花ではなく、奈良時代に中国から薬用として持ち込まれと言われています。この菊にまつわる言い伝えは数多く残されていて、それらを発掘すると面白いでしょうな。
 先ほど東伝さんも言ったように、九月九日は、陽の数(奇数のこと)である「九」が重なる縁起のよい日であると考えられていて、その昔中国では貴族などの間でこの日に菊酒を飲むと災いから逃れられ、健康になるとされていたとのことで、この風習は日本にも伝わり、平安時代に宮中の行事「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」となったらしいのです。菊酒と言って、菊の花びらを浸したお酒は、その芳香と菊の花の高貴な気品によって邪気をはらい、寿命を延ばすと考えられていたのですね。また、早朝に菊花にたまった朝露を飲むと長寿によいといわれているのですが、どうでしょうかね。古事に習って早咲きの菊の花を酒に浮かべて長寿を願い、ほどほどに飲む、というのも風流で、多分今日もこの催しがあると思いますけどね。」
「私は、皆さんがお酒を召し上がっている時は菊の花を観賞して待っているわ。」
そんな話をしているうちに、車は鞍馬を通りすぎ、北山通りあたりまで来ている。
 しばらく車内が沈黙に包まれていると、薄芷若が目を覚ましたらしく、
「そろそろ御腹がすいたわね。食事にしない?」
という提案があり、全員によって賛成され、昼食となった。
 そして、更に二時間ほど車にのり、午後二時少し前に万福寺に着いた。
 車を総門の近くの駐車場に停め、一行は総門から万福寺の境内に入った。すぐ右手に見える、捕らえられた生き物を放して功徳を積むことで、この池で放生会という儀式が行われる放生池(ほうじょういけ)の横を通り、三門に至る。
 三門に至る通り三道の両脇には、鉢植えの菊の花が一定間隔ごとに配置されていた。
 菊にはまだ早いので、ハウス栽培で生育されたものであろう。太沖が、ボソボソと、独り言を言っているようだ。
「土曜日の割りには、人が少ないな。もともと旧暦の九月九日に催おされていたものを、新暦の同じ日にやるのでは興醒めだよな、来月の華僑晋度勝会(ふどしょうえ)の方が良かったかな。」

 更に天王殿に上がる。
 そう一人ごちながら更に歩を進めると、宝蔵院と呼ばれるお堂にたどり着いた。堂内に入ると、初秋の候ながらひんやりとした空気を感じた。
 堂内には一切経版木が、展示されていた。
 版木に書かれた文字は、日本語の活字体の基本となっている明朝体と呼ばれるものらしかったが、紅蓮以外の一行は特別興味を感じなかった。
 それは、中国には多くの書体があり、普段から目にしている明朝体が特に珍しいものではなかったためである。
 紅蓮は、世界屈指の経済大国になりつつあり、自国よりはるかに自由な日本という国が、他には世界中にたった一つしか無い、漢字を共通に使っている国だと思うと、日本という国がいとおしい国の様に思えてならなかった。同時に、日本人の中にも、中国を、同じ様に、他には世界中にたった一つしか無い漢字を共通に使っている国だと思う人が居てくれると有り難いものだと思うのであった。
 漢字をこの国に伝えてくれた古人に感謝しないといけないな、文字を通して共に一つの気持ちになれる。しかし、簡体字が横行すると、日本人側から見て、文字を通した同胞感が薄れてしまうのではないかと、ささやかな不安がよぎるのであった。

 やがて、ある広間で華僑と思われる人達が、グループ毎に離れて席を取って中国語で歓談している様が目に入った。
 太沖ら五人も、空いている空間に陣取り、寺の備品である座布団五枚と一メートル四方の小机を薄芷若と服部雪花が何処からか持ってきて、一瞬姿を消していた太沖が、右手に老酒、左手にコップ4つを載せたお盆を持って現れた。そして再び姿を消していた服部雪花がどこからともなく、菊の花のところだけを三束ほど手にして現れた。
 これで、小机の上には必要な小道具が揃い、小机の四辺に座した四人は茶碗に酒を注ぎ、その上から菊のほぐしてバラバラになった小片をふりかけ、それが沈み始めたことを確認してから飲み始めた。
 紅蓮は、先ほど目に留まった大菊輪を見るためにお堂の廊下から下駄箱に出て靴を履いて、表に出た。後ろを振り向くと、‘すのこ’の周りには、靴が無造作に脱ぎ捨てられているのが目に入り、中国人が日本という国を荒らしている様に思えてきたので、‘すのこ‘のところに戻り、全ての乱雑に脱ぎ捨てられた靴を整理してあげた。
 そして、その‘すのこ’から二十メートル程度のところにあり、隣の別寺院との境界にある板塀の手前に置かれた菊の大輪を眺めに行った。
 その紅蓮の様子を確認してから東伝は他の三人に加わり歓談を始めた。

 しかし、暫くして東伝の視線は一点に集中した。
 その視線の先にあったのは、以前伊丹の小さな料理店で、日本酒、「呉春」について知っていることを講釈してあげた若者の姿であった。
 確か「薄」という苗字の青年だったことは、よく覚えていた。読み方をその店の女店主から教えてもらったが、完璧に忘れてしまっていた。
 東伝自身のことは、名乗っていないし、今日の服装は、あの時と全く異なるので、恐らく相手は覚えていないだろう。
 この偶然の一瞬を逃すことは、東伝にとって、崑崙の仙人に背くことになりかねないと思い、日本読みが思い出せずに咄嗟に、
「ボーさん、ボーさん。」
と叫んで、暫くその視線をその若者の動きに向け続けてみた。
 ちらっと一瞬振り返った様であったが、そのままお堂から出て行ってしまった。この時、その若者から、
―――日本人ではないな、中国人だろうか。恐らく何かお堂につめている坊さんを呼んでいるのだろう。ーーー
などと思われているとは知るすべもなかった。
 靴を履き終わり、その若者の前方には、至るところに菊の鉢が陳列されていて、やっと蕾が出始めたのもあれば、既に大輪の菊花を咲かせているのもあった。
 東伝は、そんな光景からきっと若者の視野に映っていると思われる鮮やかな藍色をした珍しい大輪の菊に目を移すと、その近くで、じっとその菊を見つめている紅蓮の姿が目に映った。
 若者もそれに気づいたようであり、なにか、意味ありげに紅蓮を見つめているのが分かった。そして紅蓮に近づいているのが分かった。
 深い青紫色のロングのビロード服を身に纏い、頭には黒い淵の大きな帽子を被っていた紅蓮は全く気づいていない。
 東伝は、昨夜夢に出てきた崑崙の仙人が予言した場面かもしれないと思い、座の他の三人に、少し席を外させて欲しいと断り、駆け出す様に若者の方に向かって行った。
 その足音に気がついたのか若者は東伝の方を振り返り、驚いている様子であった。
 そして若者に向かってもう一度、
「ボーさん、ボーさん。」
と呼んでみた。
 その声に菊の側に佇んでいた紅蓮も気がつき、東伝に向かって微笑んで見せ、
「東伝おじさん」
と呼び返した。
 紅蓮は自分の名前をどうして畏まって、紅蓮と呼ぶのではなく、薄(ボー)さんと急に呼び方を変えるのか、不思議だったが、四人の話合いでその様に呼ぶ様に変えたのかもしれない、と勝手な想像をして、その様に普通に呼び返したつもりだった。
 その遣り取りの間に挟まれたようになった、その若者がその場を離れようとしたので、慌てて、
「ボーさん、ボーさん。」
と叫び続けた。
 もはや若者に向かって呼びかけていることは気がついてもらっているのは明らかだった。東伝は今度は、その若者に、
「ボーさんですね。私は呉東伝といいます。」
「こちらは、薄紅蓮さんです。」
と、スムーズではない日本語で、紅蓮を晃一に紹介した。しかし、晃一はいくら記憶の糸を手繰り寄せても、記憶が無く、人違いに違いない、と判断してしまった。
だからと言って、
「人違いです。」
と言えず、
「現在はどちらにお住まいですか?」
と、とんちんかんな質問をしてきた。
すると、紅蓮が、「普段は、神戸に住んでいますが、今日は九九の節句の催しがここであったので、来ました。」
と東伝よりは少し分かり易い日本語で返答した。
 若者は、九九の節句というのが何か全く分からなようであり、かと言って、それを日本語で、説明するのは大変なことだろうと思い、
「ああ、そうでしたか。」と笑顔で返した。そして、若者は、
「残念ながら、私はボウと言う名前ではありません。ウスキと言う名前です。」
と言って、時計を見た。東伝は、
「そうだ、あの時も確か‘ウスキ’と言って紹介された。間違いない」
と独りこち、それを確認しようと思ったら、その若者は、
「すみません。もう一個所行く予定の所がありますのでこれで失礼します。」
と言って歩み始めた。それを見た東伝は、相手の都合を確認もせず、
「何かの縁です。申し訳ありませんが、お住まいと電話番号教えてくださらんだろか?」
と語りかけてきた。
即座に、紅蓮はハンドバックからメモ用紙とシャープペンシルを取り出し、若者に差し出した。
 その若者晃一は、仕方なさそうに、自分の住所と寮の電話番号をメモした。
 紅蓮はサングラスをかけたままであり、太陽を背にしていたので、顔の輪郭は分かったが、表情は捉えられなかった様子であった。
 晃一がそのメモ用紙とシャープペンシルを受け取る時、その紅蓮が首にかけているネックレスが目に入った。その色は何故か懐かしさを感じさせるものであり、藍色というか青紫というか、彼女が着ているスカートの色に近いが、スカートの色は光を吸収してその色に見えるのに対し、そのネックレスは、きらきらとした青紫色の光を散乱していたように見えたのだった。
 東伝はこの光景を見て、ひらめくものを感じた。もう少し引き止めて話をするべきと思っているうちに若者は立ち去ってしまった。

                  <<< つづく >>>







2008/03/13 23:45:24|物語
西方流雲(60)

                       西方流雲(60)

                     <<< 54.脱神戸・知日の旅 >>> 

                         ( 九 )

「午前中訪れた峰定寺はどうだったかな。紅蓮ちゃん?あの寺にはなんとなく郷愁を感じたね、わしは。」
「私は分かりませんでしたが、太沖さんはどうしてですか?」
東伝も二人の会話に加わって、
「わしも同感じゃな。どうしてかよく分からんが、日本の寺は平地にある場合が多く、中国でよく見かける岩山の中腹とか山頂にある寺が少ないから、そう思うのかもしれないね。」
「それと、日本の寺は、すぐ回りに民家が迫ってきて、民家に埋っていて、とても教えを説いたり、聞いたりする空間とは言えないね。
だけど、峰定寺は山のなかにあり、しかも舞台まであるので、舞台にたつと、まるで岩山の中腹の崖っぷちにある寺にでもいるような感じがして、とても敬虔な気持ちになれましたね。観光客が少ないのも良かったですね。太沖さんはこの寺は初めてではないのでしょうね。」
「何度か来ているのです。一人で来たときもあるし、家内と一緒に来たこともありますよ。舞台の一角に腰を下ろし一日中本を読んで過ごすという贅沢を何度かしたことがあります。また、舞台の足元にはいろいろな薬草が生えているような気がしてついつい草の一本一本掻き分けながら、まるで宝探しをしているかの様な気持ちになる時がありますね。職業病ですね。」
「それで、見つかったのですか?」
と、紅蓮が二人の会話に入り込んで、太沖に尋ねてみた。
「残念ながら見つかっては居ませんが、五年ほど前に素晴らしい光景をみたことがあります。ちょうど六月ころでしたかね。舞台下の草むらの草を薬草が見当たらないかと、一本一本掻き分けながら探っていたのでしたが、いつのまにか夕刻になって、そろそろ戻ろうかと思った瞬間、点滅した光の群が一斉に天に向かって拡散して行くのが見られたのです。この世のものとは思われない光景で、しばし立ちすくんでしまいましたね。それ以来、その頃になると毎年峰定寺に泊りがけでやって来るようになったのですよ。・・・・家内も雪華さんも現れて全員そろいましたね。ではこれからささやかな宴会といきましょうか。紅蓮ちゃんはお酒ではなくジュースをコップに注いだかな。では皆さん、乾杯。」
 紅蓮は、先ほどの呉太沖による点滅した光の群が一斉に天に向かって拡散して行くという話にうっとりしていて、乾杯でグラスを合わせる音で元に戻ったようであった。しかし、その太沖の話にうっとりしていたのは紅蓮だけでなかった。東伝が、
「先ほどの太沖さんの話は幻想的でしたね。・・・まっ、それはさておき、今日ここに集まった五人は奇遇という他ないですね。敢えて共通なキーワードを挙げるなら、中国、更に詳しく言うと、崑崙ですかね。」
「えっ? 私たち三人はそう言っても良いですが、東伝さんと紅蓮ちゃんは何故崑崙なの?」
と呉太沖の妻、薄芷若(ボウ・チイユア)は不思議そうに尋ねた。それに対し、「東伝は、それはわしが説明しよう」という目つきを紅蓮に向けた後、薄芷若の方を見つめながら言った。
「そもそもわしと紅蓮ちゃんはなんの関係も無い赤の他人じゃった。
わしは、三十才から五十才までは、小学校の先生を、それ以降は運河を行き交う舟で、蘇州から長江を経て南京へ、野菜、茶、酒等を運搬する船問屋の番頭をしていた。その舟問屋も好きな絵を描くためにやめて運河を下って行こうと考えていたのよ。旅発つ前の晩、酔って寝込んでしまったら、霧の中から一人の白眉、白髪、白装束で青銅色の皺の深い顔をした老人が現れて、
「わしは千年をかけて西方からここにやってきた。ここからはお前の番だ。青い色の璧の所に舟をつけよ。そしてみつけたら同じ事を言え。そして更に東に向かうのだ。」
と言って一瞬の内に消え去ったのじゃ。翌日運河を下って行くと、槐の大樹の下で手を振っている女の子が目に入った。特に具体的な行き先を決めていたわけではないし、岡に上って腰を伸ばしてみたい気分にもなっていたので、その女の子のいる岡に上ってみることにした。わしは舟から下り、石段を上がりながら、
「お嬢ちゃん、何か用かな?手招きしていた様じゃったが。」
とたずねてみた。その時、彼女は、
「お爺さん誰?崑崙から来たの?」
と、聞き返してきた。
わしは、その少女の顔をしげしげと見つめ、はっとした。
彼女の透き通る様な首肌に小さなペンダントが架かっていた。
それに夕陽が、直射して朱色に見えた。
彼女に近づくと、紅蓮はペコリと頭を下げて挨拶した。その瞬間、そのペンダントは彼女の首元でチャリと音をたてながら踊り、三つに割れた。
もともと三枚が重なっていたのだろう。外側の二枚は、夕陽に照らされて朱色に染まっていたが、挟まれている残りの一枚は一瞬だけだが青い色をしていたのを認めたのだった。
材質も、チャリと聞こえた音や紐を通す穴のあけ方からいって、璧であることは察しがついた。そんな出会いからはじまったのだったね、わしと紅蓮ちゃんのつきあいは。」
「そうだったわね。私がまだ十歳のころ。あのとき東伝さんが岸に近づいてくるときの光景は未だに鮮明に覚えている」
と紅蓮は簡単に補足した。すると、今度は服部雪華が、
「でも紅蓮ちゃんは、何故、『崑崙から来たの?』という言葉が出たのかしら?」
という質問を投げかけた。紅蓮は額に手をあて、父の鉦渓から幼い時より色々な物語を子守唄代わりに話しをしてもらったことを思い出した。そして、
「封神演義という物語を、自分の幼いときから、父に子守代わりに聞かせてもらっていて、それに崑崙の仙人がたびたび登場していたの。
その後もことある毎に、その崑崙の仙人が登場し、私の夢の中にも、東伝さんの夢の中にも共通の話題で登場することがあり、しかも予言めいたことを言うときは、必ず実際に起るということも何度かあったわね、東伝さん。」
「そうだったね、それと中国を脱出する直前にも、鉦渓さんから預かった四面聖獣銀甕という骨董品の出来事もあったね。覚えているかい、紅蓮ちゃん?」
「覚えている。あのとき初めてのことばかりで、すごく緊張して、その緊張の糸が切れてしまったかの様に突然眠気が襲い、居眠りしていた時、崑崙の仙人が出てきて、『青い璧を簡単に諦めるな。四面聖獣銀甕を手放すな。これらは汝の命と思うのじゃ。良いな!』と言ったの。ちょうど上海の石台に腰をおろした時、ペンダントにしていた青い璧を石と石との間の隙間に落としてしまい、それを探し出せず困っていた時ね。なくしたはずの青い璧が四面聖獣銀甕の龍の目に嵌め込まれていたのよね。」
「そうだったね、そんなことがあって神戸に安全に渡れることになったのだよね。」と紅蓮と東伝が回想に耽っているところに、呉太沖(ウー・タイチョン)が割って入り、話題をやや変えて、
「そういえば、紅蓮ちゃんのご両親はお元気なの?」
と質問の矛先を紅蓮に向けた。紅蓮は、最近の両親のことは東伝の方が自分より良く知っていると思い、父がこっぴどく紅衛兵に危害を加えられ、その時父の首筋に針金が食い込み、滲み出た血液が黒く顔のあちこちにこびりついていたこと、その時適切な傷の手当てを何もして挙げられなかったという悔悟の気持ちに襲われたこと、両親は自分を東伝に託し、東伝の存在をどれほど有り難たく、心強く思っていたっていたか、ということ、そして紅蓮たちが中国を脱出する時は、蘇州の街中より安全な太湖の畔にあり、かつて東伝が間借りをしていた船宿に身を寄せてることにしたことなどを順序だてて説明した。
そして、東伝が、最近の様子を語った。そこまで聞いた、薄芷若は、
「そんなことがあったの、大変だったのね、二人とも。それに、崑崙の仙人との絆は、私達より強いみたいね。分かったわ。」といいながら
東伝のお猪口にお酒を注いだ。
 それを一気に干してから東伝は、薄芷若に向かって、思い出した様に、
「そして、崑崙の仙人登場の最新版はですな、今回の神戸脱出前夜に出現なさったのじゃ。その時、わしは、『自分と、紅蓮ちゃんは意図したとは言えないまでも、いいつけ通り東の国にやってきました。しかし、この東端の国で何をしないといけないのか、いまのところ皆目見当がつかないのです。ヒントでももらえませんか?』とくらいついてみた。すると仙人は深い顔の皺を更に深くして、
『そう焦ることはない。だが更に東を目指すが良い。』
と語りかけ、更に、
『一人を救うのも、万人を救うのも重さは同じじゃ。薄の里を目指すものを救え。』と言って、酒面に波紋が現れるとともに崑崙の仙人は消え去ったのですよ。不思議な体験だった。これまでと違うのは、『更に東を目指せ』、『薄の里を目指すものを救え』という言葉が出てきたことです。『更に東を目指せ』の意味は断定は出来ないが、今度は東、即ち東京を目指せということではないかと思っているのですよ。」
そこまで、じっと耳を澄ましていた呉太沖は、厳かな顔つきをして、
「問題は、崑崙の仙人の目的が何で、目的が達成される為に、誰がどの様な役を演ずるか、ということですな。これまで東伝さんから伺った話を総合してみると、ここにいる五人全員がなんらかの役回りをすることになりそうだが、とりわけ、主役または主役に準じる役割を果たすと思われるのは他でもない紅蓮ちゃんの様に思うね。紅蓮ちゃん、だからといって構える必要は全くないのだけど、ここにいる紅蓮ちゃん以外の者達は、皆、紅蓮ちゃんを心から応援する者だよ。だから、少しでも困ったことがあったら相談してほしいのだよ。」
と、紅蓮に視線を向けてエールを送った。
呉太沖(ウー・タイチュン)の最後の言葉に合わせて、呉東伝(ウー・トンディアン)、薄芷若(ボウ・チイユア)、服部雪華(はっとり・ゆか)は
深々と首を縦に振り合った。
彼らの頷く姿を見て紅蓮は心が引き締まる思いがした。かと言って、太沖が言っていた崑崙の仙人の目的など皆目検討がつかない。本当に自分がそういう重要な役回りをするのであれば、自分がもっと実力が無くてはならないのではないか、とても、そんな立派な人間ではない。と思うと同時に、この人達との面識を得て、自分が今後どの様な役割をするのか分からないながら、ある方向に少し近づいた感じがした。そして、四人に向かって、
「皆さんからそんなに期待されてしまうと、少し萎縮してしまいそうな自分が見えてしまいます。これからは、もともといろいろなことに気づかないといけないと思いますし、知らないといけないと思います。・・・、ところで太沖さんにお聞きしたいのですが、漢方薬はどの位種類があるのですか? 昨日は雪華さんにいろいろな病気の話をお聞きした中で、糖尿病というのが脳卒中や心臓病などの命に関わる病気の引き金になるという話がありました。糖尿病に効く漢方薬というのはあるのでしょうか?」
「さすが、看護婦を目指そうとしている紅蓮ちゃんだね。最初に糖尿病というのがどの様な病気かを説明せんといかんね。人間の命を維持するすべての生命活動の主要なエネルギー源はブドウ糖で、ブドウ糖は血液に溶けた状態で全身にはこばれ、インスリンというホルモンの働きで細胞に取り込まれ消費されてる。ところが、何らかの理由でこのインスリンの製造元である膵臓の障害でインスリンが分泌されなくなったり、分泌されてもその働きが低下したりすると、ブドウ糖が細胞に取り込めず血液中に高濃度で漂う状態になる。これが糖尿病なのだよ。」
「そうなると、どうしてまずいのですか?」
紅蓮以上に医療に疎い東伝が、わしもそれを知りたい、というような顔つきをしながら大きく頷いた。太沖は一句一句、そうだよね、と雪華の同意を視線で確認しながら、続けた。
「細胞では、必要な量のブドウ糖が受け取れずエネルギー不足をおこしてしまい、ひどい空腹感や疲れやすいなどの症状をおこし、血液の中には異常に高濃度のブドウ糖が無駄に流れていて血管を障害し、また血液を薄めようとして体は水分を欲し、のどが渇いてしかたがないという状態になる。このままにしておくと、血管をはじめ心臓や腎臓、脳など全身に障害をおこし、生命の危険な状態になってしまうということなのだよ。」
「なるほど怖い病気なのね。そうならない様にするにはどうしたらよいのでしょうか?」
またもや、紅蓮以上に医療に疎い東伝が、わしもそれを知りたい、というような顔つきをしながら大きく頷いた。
太沖は続けた。
「糖尿病の危険を抑えるには、血液中のブドウ糖の濃度をさげる事、つまり血糖値を下げる事が欠かせないのです。この場合、二通りの糖尿病のタイプによって対処法が違うのです。
先ず一つ目は膵臓からのインスリンが最初からほとんど分泌されなくなって糖尿病をおこしている場合で、この場合は、インスリン依存型糖尿病と呼ばれ、主に若いうちに突然発症するタイプで、インスリンを毎日一定量注射する事が基本的な治療法となるのです。多くは食事療法・運動療法ではもはや病気の進行を抑えられません。そしてこのタイプは漢方薬も血糖降下の目的では効果が期待できません。
もう一つのタイプは、過食や肥満が原因で、インスリンは一応分泌されていても、徐々にインスリンの作用が低下して高血糖をおこしているような場合で、インスリン非依存型糖尿病といわれています。糖尿病の大半はこのタイプで、食事療法・運動療法が有効であり、効果が十分でなければその上で薬物療法を併用していくことになるのです。このタイプには漢方薬が効果的に使えるのです。」
「どの様な漢方薬が効くのですか? 雪蓮花も効くのですか?」
雪蓮花と言う言葉を聞き、太沖は、表情を崩しながら、
「よく、そんな漢方薬の名前知っているね。雪華さんから聞いたかな?」
「その通りです。昨夜、いろいろな話を雪華さんから教えてもらったのですが、その中にありました。この漢方薬の名前が、いかにも私が雪華さんの間に挟まれて守られているという感じを私に与えてくれて記憶に強く残ったのです。先ほど太沖さんが、『皆さんが私のことを応援してくれる』という話を聞いたときにも、咄嗟にこの漢方薬の名前を思い出していました。」
「漢方薬の効き方は糖尿病が初期か中期かによると思うが、初期、即ち、検査で血糖値が少し高い程度で食事療法・運動療法を中心に様子をみている段階では、漢方薬はとても有効に使えますよ。食事療法・運動療法の効果が効率良く発揮され,血糖のコントロールも漢方薬で十分行える事が多いし、病気の進行や合併症を予防できることになっています。また口渇、多尿、倦怠感、などの不快な症状を取る働きも期待できます。ただし漢方薬だけを飲んでいれば多少暴飲暴食をしても良い、というわけではもちろんないのです。一方糖尿病中期、即ち内服の血糖降下剤の薬物療法を行なっている場合は、漢方はこうした西洋薬に併用する形で使うのが基本です。西洋薬と安心して併用できる漢方薬はもちろんあるし、併用する事で糖尿病の進行を抑え西洋薬をどんどん強くしなくてもよい状況に持って行けます。場合によっては症状が回復し、西洋薬の服用を中止できる例もあるのです。また、動脈硬化や腎臓病、糖尿病性神経障害、糖尿病性白内障などの合併症を予防または治療する働きも期待できることになっています。更に、はっきりした糖尿病のタイプで、インスリン依存型糖尿病の人や、長く高単位のインスリンを用いているような慢性例の場合は、漢方薬では血糖をコントロールできません。漢方薬では限界があります。ただ、このタイプの糖尿病でも、血糖値を下げる目的では使えないが、漢方薬を合併症の予防や体調の維持に使う事には大いに意義があると言われています。雪蓮花の効能はわしは良くしらんのですよ。」
この夜、この様な話題になったのはやはり天の配剤というほかはなく、糖尿病という病名が最初に強く紅蓮の胸に刻まれ、それが紅蓮の行動に方向を与えることになるのであった。
その後、東洋医学と西洋医学の相違についての話などが続いたが、
 夜も更け、宿の女将が入ってきて、
「ではコースの料理は全て終りました。これからお茶をお持ちしますね。明日の朝食は皆さん揃ってなさいますか、それともお部屋に別々にお持ちしましょう。朝六時から準備できますが、何時頃お持ちしまようか? 他の二部屋は、すでに布団を敷いてありますので、すぐお休みになれます。」
と、宴会の終了を促したので、太沖が、
「それでは明日の朝食は、また東伝さんには申し訳有りませんが、またこの部屋を使わせていただき。全員一緒に朝食を摂りましょう。時間は七時ということで如何ですか? 食後一服して八時頃出発ということにしましょう。明日は黄檗万福寺で重陽の節句を楽しむことにしましょう。また車の中で色々な話が出来るのも楽しみですな。ではゆっくり休むことにしましょう。おやすみなさい。」

                <<<  つづく >>>







2008/03/09 21:44:46|その他
西方流雲(59)
                 西方流雲(59)

             <<< 54.脱神戸・知日の旅 >>>

                   ( 八 )

 彼らは、十三で京都線特急に乗り換え、三時前に四条河原町駅についた。
 駅前からタクシーで出町柳まで行き、そこから京都バスの広河原行きに乗り、約一時間半で、大悲山口のバス停につき、バス停から歩いて30分ほどのところにある宿、美山荘に宿泊することになっていた。
 美山荘は後に超高級料理旅館になるのだが、この頃はまだひなびた旅館であった。
 地下駅の四条河原町駅から地上の大通りの交差点、そこが四条河原町という地点で、四条通りと河原町通りの交差点なのだが、そこに立ち止まり二人とも目を疑った。人の多さと交通量の多さにびっくりしたのであった。
 京都といえば日本の代表的な観光地、しかも寺院、神社が多い歴史のある地域なので、人の多さと交通量の多さに結びつかないのである。
 東伝が持っていた観光案内からも、この様な、人の多さと交通量の多さについては何も触れられていず、予想外のことであった。
 彼らにとっての寺社風景は寒山寺であり、寒山寺の周囲の地域が寺社観光圏なのであった。
 それにしても、誰がどの様な目的でこの様に変貌させているのだろう。日本という国が、経済成長に躍起になっていて、文化財の保護をないがしろにしている国の様な感じて仕方なくなってきた。
 きっと、この国の為政者は、国の形である国家が肉体だとすると、文化がその国の精神であり、健全な精神が健全な肉体に宿ることを良しとすると同様に、健全な文化は健全な国家に宿らなければならない、ということに気づいて居ないのかも知れない。
即ち、文化が不健全なのは、それを宿す国体が不健全な為であるはず、これほど急速に経済発展しているこの国の国体が不健全なのだろうか、それとも急速に経済発展していること自体が不健全な状態なのだろうか。」そんなことを考えさせる四条河原町交差点であった。そこで彼らはタクシーを拾い、出町柳という京福電鉄の起点に向かった。
 20分もしないうちに出町柳に着き、京都バスの広河原行きに間に合った。
 日に四往復しかないないバス路線ということもあり、バスは混んでいたが二人が隣り合わせて座れないほどの混雑ではなかった、
 大悲山口のバス停までの約一時間半の間、さすがに疲れたのか紅蓮は、時々目を閉じて東伝の右肩に頭をもたれかけさせて転寝している様であった。
 峰定寺は京都左京区にあると言っても、丹波山系の麓の山郷。そこの地域の人と思われる、もんぺを身につけた中年の女性がジロジロと紅蓮たちの方をいぶかしげに眺めやっている。
「この二人ずれは一体どの様な関係なのだろうか、親子関係か、それとも道徳的に許されない関係か」そんな視線を東伝は感じ、肩にもたれかけさせている紅蓮の頭を引き起こそうとしてはやめるということを何回も繰り返した。
 その度ごとに何気なく紅蓮の顔を覗き込み、
「この子には一体どの様な未来が待ち受けているのだろう。」
と思わざるを得ないのであった。
 そして、そうして沈黙している間に、これから紅蓮に伝えておくべきことを、どの様な言葉で伝えたら良いものか黙考する東伝であった。

 バスは鞍馬を過ぎたくらいから乗車客はいなくなり、降車客のみとなり、乗車客の数が徐々に減ってきた。
 途中北山杉に両側を挟まれたくねくねとした山道や、いかにも山間の里という雰囲気の道を通りすぎたり、畑の作物に対して保温のための野焼きの煙がたなびく中を通り抜けたりしているうちに、バスの乗客は東伝らを入れて10人にも満たなくなってきた。
 その雰囲気を感じたのか、紅蓮は、ぱっちりと目を覚まし、バスの外をキョロキョロと眺め始めた。まだ五時を回っていないが、山間部では山々に明るさが遮断されて、夕暮れという感じになり、バスは最初にその様なところに差し掛かって以来ヘッドライトを点灯し続けている。
 いまにも、狸、狐、鹿、熊、猪の類の獣達が路上に現れそうな山道を通り抜けたことは二度や三度ではなかった。紅蓮は暫く車窓を眺め回していたが、突然東伝に向かって、
「東伝さん。ところで何故峰定寺なの?」
と聞いて来た。東伝は先程来、その答とも言うべき言葉を捜していたので、ちょうどうまい具合に質問してくれたものだ、と独りごちながらも、その理由を説明しはじめた。
 「実は、この峰定寺にはわしらの他に一緒に宿泊して、そのあと一緒に万福寺に向かう仲間が来ることになっている。峰定寺から更に北東に行くと、日本海に面した若狭というところがあって、そこから若狭街道を50kmほど南下したところに熊川というところがあって、そこに知り合いがいてね。その知り合いも呉という名前で、わしが芦屋の古物商に居候をしていた時に、何度か、わしに会いにきたのじゃよ。その熊川というところは峰定寺のあるところから少し東北に行ったところで、その呉さんの提案で、峰定寺で再会しようということになったのだよ。その人が他に二人ほど連れてくると言っていた。明日は、峰定寺をお参りしたあと、ゆっくりその人達と歓談して、その次の日万福寺に向かうことになっているのだよ。 彼らは車で来るので、われわれも明後日は、その車に乗せてもらって万福寺まで同行することになっている。今夜は紅蓮ちゃんも疲れただろうから、ゆっくり休もう。」
「そういう計画だったのね。賑やかになりそうね、楽しみだわ。他の二人はその人の奥さんとそのお子さん?」
「他の二人のことは、わしもよく聞いていないので分からんな。今日は、顔合わせだけすることになるが、詳しい自己紹介は明日だね。」

 そして、その三人が美山荘に着いたのは、七時を回っていた。
初対面では、各自、名前と連れ添いの関係を紹介しあった。
 先ず、東伝の知り合いである呉太沖(ごたいちゅう)が先陣を切り、峰定寺まで足を延ばしてくれたことに対するお礼を東伝と紅蓮に述べたあと、連れの一人の女性が、薄芷若(はくしじゃく)という名前で。自分の妻であることを紹介し、次いで、もう一人が服部雪華(はっとりゆか)という近所にすむ女性であると、紹介した。 そして、今度は東伝が、呉東伝という名であることと、連れの女性の名が薄紅蓮という名前であることを紹介した。
 すると、服部雪華が
「あなたが、看護婦をめざしている人ね。実は私も看護婦をしているのよ。」とにこやかに語りかけてきた。
そして、呉太沖は、
「宿は三部屋予約してあるので、わしら夫婦が一室、両薄さんが一緒で一室、東伝さんは寂しかろうが一人で一部屋を使って下さい。 明日は昼頃、揃って峰定さんに上って、三時頃には戻って、湯を浴びて、六時頃から宴会と行こう。そして明後日は朝八時頃出発としよう。途中昼食を摂るなどしても午後二時頃には万福寺には着くでしょう。勝手に計画をたてさせてもらいましたが、それでどうでしょうか。では今日のところはこれでおひらきとして、また明日。では、雪華さん、紅蓮ちゃんをよろしく。」
 そして五人は各部屋に分散した。
 ”もみじ”とう名の部屋に案内された二人は、先ず紅蓮が、「服部さん、よろしくお願いします。」と中国でも、日本でさえもこれまであったことがないほど美しい顔立ちだわ、と思いながら挨拶した。それに応えて、雪華も「こちらこそよろしくね。私は日本人だけど、私以上に日本語がお上手ね。窓側にテーブルとのソファーがあるので、お疲れでなければ、少しお話しない?」
と応じ、紅蓮の返事を、待った。紅蓮は、この人とは気があいそう、と思いながら、
「ここに向かうバスの中で、充分眠りましたので、疲れてはいません。私の方こそ、お話し相手になっていただければ有り難いと思います。」
と答え、窓際のテーブルの上に置いてあったポットから、一対の茶碗に湯を注ぎ、お茶を入れた。

 窓外は全く音のしない暗闇で、部屋の灯りが僅かに紅葉しはじめたもみじを照らしている。雪華は椅子に座るや、
「今日は、病院で大変だったのよ、患者さんが言うこときかないでね。」
「どうしたんですか?」
「人工透析中に針を抜いちゃってね。大騒ぎして取り押さえるのが大変だったの。看護婦も体力がなくては駄目ね。」
 人工透析がどの様なもので、どの様な病気の治療法か検討のつかない紅蓮は、
「そうでしたか、大変だったのでしょうね。」
と答えるので精一杯であった。しかし、現役の看護婦さんと相部屋とは運がいい、知識を吸収するチャンスと思い、最初の質問をした。
「人口透析というのは、どんな病気の治療なのですか?」
「さすが、看護婦を志す人ね。人工透析というのは、分かりやすく言うと、人工腎臓ね。腎不全に陥った患者さんが尿毒症になるのを防止するのに、血液の「老廃物除去」、「電解質維持」、「水分量維持」を腎臓の代わりに外的な手段で行わなければならないの。 この治療を透析と呼び、人工腎、血液浄化と呼ばれることもあるのよ。」
「一度に頭に入らないので、腎不全、尿毒症、電解質維持ということばの意味はまたいつか教えて下さい。」
といって、それらの漢字を聞いて、小さなノートにメモした。そして、更に、
「腎不全という病気にはどうしてなるのですか?」
と第二の質問を発した。それに対し、服部雪華は、
「いろいろ原因はあるのだけれど、代表的なのは糖尿病かしら。糖尿病というのは腎臓だけでなく、心臓、脳、目、壊疽など恐ろしい病気を誘発する病気よ。」
と、目を輝かせて言った。いろいろな病気のことを知っていうことが楽しくて仕方が無いように紅蓮には見えた。
 そして、話の始めころには、透析で大暴れした患者を、どの様に静まらせたたかを聞こうと思っていたが、何故か、その気が失せてしまい、話を逸らせて、
「服部さんは呉、薄ご夫妻とはお付き合いが古いのですか?」
と三つ目の質問をしてみた。
 本当は、美貌と医療技術を持ち合わせたこの女性が、何故、熊川などという田舎に隠住しているのか、ということに興味を抱いていたのだが、さすがに、そういうのは控えたのであった。
 服部はどこから話をしたら良いか迷っていたようだが、柱時計の時刻を確認し、紅蓮と自分の分のお茶を入れ直して、語りはじめた。
「話は少し長くなるかも知れないけど、同宿になったのも何かの運縁、先ず、私のルーツの話から聞いてね。・・・・今日紅蓮ちゃんたち、大阪池田市にある呉服(くれは)神社に行ったと聞いているけど、呉服(くれは)神社の由緒を聞いている?  あのあたりはもともと養蚕・機織を行っていた渡来系の秦氏の居住地で、高麗経由で養蚕・機織技術の導入を呉の国王に求めが、呉の国王は求めに応じて、縫女の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人を遣わし、このうち呉織(くれはとり)が猪名川を上り、あのあたりに居を定めたのだけど、呉織(くれはとり)の”くれは“が呉服となり、”はとり”が服部(はっとり)になったのよね。池田市の隣の豊中市には服部という地名があるし、服部を人名に冠した人は全国に散らばって、日本ではそれ程珍しい名前ではなくなっているほど。
 呉織(くれはとり)の子孫となった人達も倭人と同化しながらも子孫を増やしていったの。京都を経て北に行くと、福井県の若狭というところがあり、そこに高麗の国の人たちや、大陸から迫害されて高麗国に逃れてきた人たちが新天地を求め海を越えて渡ってきたのよ。表向きは、高麗使となっていても実は殆どがこの地に新天地を求めて渡ってきた人達。だから、次々に先住民と同化していったのね。最も勇ましかったのは、秦始皇帝の重臣だった徐福一行が東の果てに蓬莱の国があり、そこに不老長寿の薬があるということを秦始皇帝に報告するのだけれど、この不老長寿の薬がある地点が、今の伊勢神宮のあたりで、そこを目指した人達ね。若狭から琵琶湖、琵琶湖を舟で北上し、現在は近江富士と呼ばれる三上山を最初の目印として南下して行くルートを開発してゆくの。」
と言ったところで、紅蓮は怪訝な顔をして、
「伊勢神宮のあたりというところが、三上山から見えたわけでも無いのに何故目指すことが出来たのですか?」
と聞くと、服部雪華は、
「そうよね。おかしいわね。私達が住んでいる熊川にはそういう話が伝えられているの。熊川の熊は高麗が訛ったのね。そして、熊川という土地は、高麗の国の人たちや、大陸から迫害されて高麗国に逃れてきた人たちが新天地を求め、安住の地として定住することになった地。
 その中に京都を下って、大阪池田に至った高麗人が居たとしたら、その経路を耳にした呉織(くれはとり)の末裔が、逆に北上し、京都を経て、中には峰定寺を通って熊川経由で若狭に至り、海路高麗へ、あるいは更に呉や蜀へ辿った人達がいてもおかしくない。ただ、日本書記には、西暦570年頃のことと書かれているので、中国では南北朝時代で隋が起る20年ほど前の時代ね。私の先祖もそうだったのではないかと思っているの。そんな訳で私は中国という国に異常に関心があり、七年ほど前に看護婦という職業を辞めようかと迷っていた時に、中国のウルムチまで旅行したの。そこで出会った人が呉太沖さんご夫婦だったの。呉太沖さんは五十年ほど漢方薬商をしていて、お客さんに、漢方薬の雪蓮花を欲しいという人がいて、それを求めて新疆を旅しているとのことだった。この漢方薬は中国では珍重されている漢方薬の1種で、中国の新疆地区の標高3000メートル以上の雪山で成長したものを採取するもので、中国では、"天上の草”と呼ばれてる高価な漢方薬なの。新疆で3000メートル以上の雪山ともなると、天山山脈か崑崙山脈のいずれかになるということで、旅姿というより山登りという服装だったわ。」
と、懐かしそうに、口元を緩めて話を続ける。
「ウルムチで始めて対面したときは、御互い中国人ではないという印象を与えあったの。すぐに日本語で話し始め、私がつい、
『看護婦という仕事からの逃避行なの。』
と言ったものだから、ご夫婦とも親切に、私の話を聞いてくれたの。びっくりしたのはご夫婦も福井県で、しかも熊川に住んでいらっしゃるの。そういえばあの方の奥様は紅蓮ちゃんと同じ姓ね。あの方は中国籍で、七年ほど前に、西安からやってこられたの。西安大学で日本文学を専攻していたという知日派で、紅衛兵に迫害されていたこともあり、日本に行きたくて仕方がなかったときに太沖さんに出会い、二人は中国で結婚し、日本にやってきたの。太沖さんは漢方薬の仕事をしていたので、日本と中国の間を行ったり来たり生活だったのだけど、結婚を期に、日本に居住地を定めたの。・・・」
 紅蓮は、服部雪華の話を聞きながら、彼ら三人のスケールの大きい出会いを眩しく感じた。そして七年という歳月の不思議さを感じた。 
 紅蓮が始めて東伝に出会ったのも七年前だったからである。
紅蓮はその不思議さを紐解こうとして、服部雪華に聞いてみた。
「ということは、服部さんが初めて呉太沖さんに出会ったのも、薄婦人が始めて出会われたのも同じ年だったのですか?」
「その通りよ。呉夫人が会われたのがその年の二月、私がお会いしたのがその年の十一月だから、一年近く私の方が遅かったけれどね。」
「そうでしたか。実は私が東伝さんに初めてお会いしたのも七年前。」
「七年というのは何か人間のバイオリズムと関係があるのかも知れないけど、私はよく分からないわ。ただ、男性にとっては6回目にあたる42歳というのが大厄で、この年に大きな病気を患う人が多いことは確かね。」
「ということは、大厄で大病を患った患者さんの世話をする看護婦さんも多いということですか?」
「そうなるかも知れないわね。私は田舎の病院に勤務しているので、そういうことは良く分からない。やっぱり田舎の病院というのは限界があるわね。紅蓮ちゃんは、これから看護学の勉強どこでやるの?可能であれば、やはり首都圏が良いと思うわ。東伝さんが太沖さんに話したことの又聞きなのだけれど、神戸の病院に知り合いの看護婦長さんがいて、その人がいろいろと世話をしてくれたらしいわね。」
「そうなのですよ。自分の気持ちを後押ししてくれる人が沢山いて、責任を感じているのですが、何故か天命というか運命というか、そういうものが、その人達を動かせて、私に作用している様な、そんな気持ちになることが多々あるのですよ。服部さんはそういうことありませんでしたか?」
「そうね、人との出会いというのは、天が企画したイベントなのかも知れないわね。私の場合は呉太沖さん、紅蓮ちゃんの場合は呉東伝さんでしょ。さ〜て、遅くなったので休みましょうか。」
「そうですね。今夜はいろいろためになる話大変有難うございました。
明後日までご一緒できるということなので、また色々教えて下さいね。」
 そういって旅館の女中さんが敷いてくれた床の中にもぐり込んだ。
 紅蓮は布団の中で、確かに自分にとって東伝さんが居なければ、日本にくることは不可能だった。その呉東伝との出会いを演出した天が居て、その天は崑崙山に棲む仙人ということが、分かっている。
 その仙人が「更に東を目指せ」と言っている、そして、先程、服部雪華が、看護学を勉強するには首都圏が良い、そして安里看護婦長の世話で、東京の喫茶店で住み込みのアルバイトをしながら看護学校へ通えるとのことである。
 そして今回、新たに三人の知己を得て、しかもそのうちの二人が医療や薬に関する仕事をしている。
これほど運の良い事はない、と幸せな気持ちで一杯になった。そして、いつしか顔面に笑みをたたえながら完全な眠りについた。

              <<< つづく >>>







2008/03/03 19:41:31|物語
西方流雲(58)
                    西方流雲(58)

              <<< 54. 脱神戸・知日の旅 >>>

                       ( 七 )

 呉服(くれは)神社は駅から500mもないところにあった。事前に東伝が調べたところによると、
「このあたりは、渡来系の氏族で、養蚕・機織を行っていた秦氏の居住地と考えられ、日本書紀には、次の様に書いてある。阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主は、高麗国(こまのくに)に渡って、呉に行こうとした。
“こま“という呼び名は、この国では長い時間かけて、熊(くま)という文字、呼び方に化けて日本中いたるところにあるらしい。関東には、ずばり高麗神社というのがあるらしく、その一帯は高麗一族の居住地になっていたらしい。」
と、呉服(くれは)神社の本殿の階(きざはし)に、共に腰をおろしながら紅蓮に語り始めた。
 紅蓮は、足元に落ちていた梢を左手にして、地面に!“呉”という字を書いてみた。そして、
「縫工女たちがやってきたというわけね。」
「そう、さて、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)は高麗についたが道がわからず、道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は、久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の2人をつけて道案内をさせた。これによって、呉に行くことができた。呉の王は、縫女の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4人を与えた。・・・」
「与えたなんて物みたいね。でも四人も一緒で良かったわね。心強かったでしょうね。」
「そうか、紅蓮ちゃんは一人だけだったものな。」
「いえ、東伝さんが一緒だったので心強かった。それでどうやって帰ってきたの?」
「九州の筑紫潟に着いたのだけど兄媛は、胸形明神、現在は宗像と書くのらしいが、その地方神の望みで、この地にとどまることとなり、他の媛は、摂津国武庫(むこ)の浦に着いたので、猪名の港(今の唐船ヶ渕)に機殿(はたどの)を建て、呉服媛(くれはとりのひめ)を迎えた。兄媛というのは日本の四国という九州の隣あった島に愛媛県というところがあるが、その地名の由来になっているという説があるのだそうだよ。」
「それでは、この時に機織り、裁縫、染色の技術が、日本に伝わったわけね。その仁徳天皇という神さまは中国で言うと何時頃の神なの?」
「仁徳天皇の76年(385年)9月18日、呉服の大神は、年齢139歳という人生に倍する長寿をもってお隠れになり、とあるので、西暦200年から300年の間かな。中国で言うと、三国志時代、魏、呉、蜀の時代だね。」
「その呉というのは江蘇省にあった国だし、江蘇省には春秋戦国時代の呉もあったのよね。東伝さんは苗字が呉だけど関係があるのかなア」
「関係ありそうなのだよ。ただし中国人の苗字に呉という名前は多いので、なんとでも言えるけれどね。それより、呉という地名は、統治者が変わっても延々と続いていて、前漢の頃は、名君であった文帝の母親が呉の出身で、薄姫という名前の姫で、紅蓮ちゃんの家のルーツにあたるという話をお父さんから聞いたことがあるよ。」
「わたしも父からその話を聞いたことがある。では私達に因縁のある呉からやって来たその四名ももしかしたら因縁があるかもしれないですね。そして彼らと因縁の深い呉服神社。東伝さんが、知日の旅の最初に選んだ理由がわかった気がする。」
「そこまで、筋道たてて考えた訳ではなく、ひらめきに過ぎないかも知れんよ。ただね、この一帯には呉服神社があるだけでなく、なんらかの形で、機織り、裁縫、染色といった技術が伝承されているのではないかと思って、ここ池田市と周辺の伊丹市、豊中市をそぞろ歩いたことがある。特に伊丹市にはここの神社のすぐ近くに流れる猪名川が同じように流れているので、必ず伝わったものがある、と思い時間をかけて歩き回ったのだよ。この猪名川の猪名というのは、先程、他の媛は、摂津国武庫(むこ)の浦に着いたので、猪名の港(今の唐船ヶ渕)に機殿(はたどの)を建て、呉服媛(くれはとりのひめ)を迎えた。と言ったじゃろ。唐船ヶ渕(とうせんがふち)というのは猪名川の上流にある船着場だったらしい。それなら、この猪名川に沿って歩けば何か手がかりが掴めるかも知れないと思い、その土手を西に向かって歩いたのだよ。軍行橋と言う橋を渡って更に西に向かっているうちに、懐かしい香りがしたので近づいてゆくと、そこには紡績工場があり、そこでは染色もしていて、そこの染色用染料の匂いが漂っていることが分かった。ただし、すぐ隣に薬品工場があり、薬品の臭いとミックスされて妙な香りではあったけどね。」
「その工場は古い工場?」
それに、応える前に、東伝は胸ポケットからメモ張を取り出し、五ページ程めくったページを見つめながら、
「古さは分からなかったけど、倉毛紡績という名前の会社の工場で、頼みこんで、そこの社長さんとも話しをさせてもらったら、その社長さんは『自分はカラの国出身だ。』というのでビックリしたが、よくよく聞くと、『カラはカラでも唐ではなく韓の方だ。』というので、少し興が冷めたのだけど、そのつづきの話を聞いてもっとビックリしたのなんのって。」
「おもしろそう。どんな話?」と興味深々という表情を満面に表し、紅蓮は話の続きを促した。
「わしが、中国人だと紹介すると、その社長さんは、『そうだと思っていた。』と言い、わしの日本語は二年近く居ても、まだ、この程度か、とやるせない気持ちになっていたら、『実は、最近、夢にまた変な老人、仙人みたいな老人でしてね、が現れ、近く一人の中国人が現れるので歓迎せよ、というのだね、あなた。だから会社の守衛や人事や総務の社員には、そういうことがあったら丁重に私の所に案内するようにと通達をだしていたのですよ。中国人の名前を100程守衛に渡しておいた甲斐がありましたよ。』というのだよ。わしは、更に、わしは、また変な老人の”また“という言葉がひっかかり、『また、とは過去にもその仙人は夢に現れたことがあるのですか?』と聞いてみた。紅蓮ちゃんも気になるよね。」
「そうね。もしかしたら、崑崙の仙人かも知れませんものね。それでその続きは?」
と紅蓮は、この話を最後まで聞かないと先に行けないといった表情で、先を急がせた。紅蓮は喉がカラカラになってきたので、東伝が話を続ける前に、
「東伝さん、喉が渇いちゃった。これから先ほどの喫茶店に戻って、続きの話をしてもらえません?」
「そうしようか。今日は京都の花背まで辿りつかなくてはいけないのだが、その為には池田駅を二時には出ないといけない。今一時だから、あと一時間くらいは話を出来るね。では呉服神社をあとにすることにしよう。」

 二人は喫茶店“くれは”に戻り話の続きをした。
座席は先程座ったところと同じだった。昼を過ぎているので、店内の客は少なくなっていて、紫煙も臭いは残っているものの、漂ってはいず、清浄な雰囲気を取り戻しつつある空間であった。
 窓からの初秋の陽射しはテーブルの木目を先程の凸面から凹面状に変え、窓の桟にある赤、黄、白の小輪の菊花の影は先程と逆方向に向いていた。二人はそんな窓よりの座席に再び対面する様に座った。先程来たのを覚えていたのだろう。ウェイトレスが先程より愛想の良い顔で注文を確認しに来た。
 紅蓮の興味は、その社長さんの夢に出てくるのが崑崙の仙人かどうかの一点であった。
「東伝さん、先ほどの話の続きですが、その社長さん“また”と言うからには前にも、社長さんにとっての仙人現れたことがあるのかしら。」
「紅蓮ちゃん、その話の続きだったね。答は是(シー)だよ。工場をその場所に決めたのは、丁度迷っていた時、池田市に、機織り、裁縫、染色といった技術が日本に初めて伝わった呉服(くれは)という地域があることを知り、そこを訪れたら、迷いがなくなるという気がして、そのあたりを目指して出かけ、丁度地名と同じ、呉服神社という神社があったので、そこをお参りしたのだそうだ。
 先程わしらがお参りした呉服神社だよ。そこで御祓いしてもらった時、神官の言葉があり、猪名川沿いのここの地点に工場を建てれば、事業は順調に行く、と言っている様に聞えたそうだ。
 その神官とは、その後、交誼を重ね、工場の増築の時や、正月の仕事はじめ等の社内行事があるときには祝詞を読み上げてもらっていたのだそうだ。
 そして、今年年初に祝詞(のりと)をあげにきてもらった時、御霊(みたま)のお告げがあり、その時、『今年の内に一人の中国人が姿を現す』、との予言をしていったのだそうだ。その中国人がわしだというのじゃよ。」
「それじゃ私達の崑崙の仙人とは違うのね。」
「話はそれで終りではないのだよ。」
「まだ続きがあるの?」
「そうなんだ。伊丹のその会社からの帰りの駅までの途中、小さな料理店で食事と多少の日本のお酒を飲んだのだけど、その店に来た若者と呉春という池田の酒の話をすることになったのだけど、なんとその若者の名前がウスキという名前で、紅蓮ちゃんと同じ薄と書くということが分かった。おまけにその青年、その店の女主人、その娘全員が先程訪問した会社の社員だと言うのだから驚いてしまった。・・・と同時にこの成り行きは、崑崙の仙人が創り出したシナリオに違いない、と直感的に思ったんじゃよ。」
「そうだったの。もしかして近いうちに私達の崑崙の仙人が現れて決定的なことを告げるのかも知れないわね。」
「そうなんだ。酒面に映った仙人は、姿を酒面から失せる前に、『京都の万福寺での出会いが重要じゃ』と言ったのだよ。」
「随分具体的な話ですね。誰との出会いか分からないけど、もう少しきちんとした身なりをしないと駄目ね。母から貰った服を着てゆこうかな。東伝さんはそのままで良いけどね。」
 二時を回りそうになったので、その店を後にして、駅のコインロッカーから荷物を出し、京都に向かった。
 また十三に出て阪急京都線に乗り換え、終点の四条川原町までゆき、そこからバスで花背まで行くことになっていた。

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