槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/02/14 10:35:03|旅日記
10.第5日(2015.11.3)  黄果樹大瀑布景勝区 その一 苗賽から安順へ

10.第5日(2015.11.3)
   黄果樹大瀑布景勝区 その一 苗賽から安順へ

 苗賽を出た駐車場に、安順まで案内してくれる運転手○○さんが駐車場で待っていてくれた。
車は現代自動車製セダンで、それらしい車(写真11.3-2-1)があったので覗いてみると、運転手が居ない。そこで、駱さんが探しにいった(写真11.3-2-2)が、すぐには見つからない様だ。時刻は10時に近いが、食事でもしているのだろうか。車のプレートを見ると、雲南省で登録した車の様である。雲南省から来ている可能性は無いだろうが、安順からやってきた可能性がある。

 安順からここまでは、約5時間かかるので、安順を朝5時前に出ている可能性がある。そしてこれからトンボ返りで又5時間の運転となると大変だ。どこかで仮眠を取っていてくれたのならば、安全上好ましいのだが、と思っているうちに、どこからともなく現れて運転手となった。

 早速発車した。途中貴陽市を通過し、安順へ、片道、計5時間のドライブである。高速○○号線に入って、曇天が恨めしい。最初は高速道路沿いの景色が珍しくて、写真を続けさまに撮った(写真11.3-2-3、-2-4、-2-5、-2-6)。

 高速道路を走る車の車窓からは近景は流れる様で、スティルモードではボケる。そこで動画モードで撮っては見たが、やはりはっきりは撮れない。輪郭をはっきり捉えることが出来るのは、遠景に限られてくる。その遠景に見える共通の特徴は、お椀を逆さに置いたような形の山が、2つか3つ連なったそれほど高くない連山で、広西チワン族自治区漓江や雲南省でよく見かける山並みで、所謂カルスト地形である。

 Wikipediaによると、『カルスト地形(独: Karst)とは、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵食(主として溶食)されてできた地形(鍾乳洞などの地下地形を含む)である。化学的には、空気中の二酸化炭素を消費する自然現象である。石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵食(主として溶食)されてできた地形(鍾乳洞などの地下地形を含む)である。『化学的には、空気中の二酸化炭素を消費する自然現象である。』とある。
 ということは、地球の炭酸ガス排出量を抑制する現象で、地球の温暖化を防いでくれる現象ということであろうか。

 この日は、貴陽市を通過し、安順まで行き、また貴陽市まで戻る、という強行軍と言うことで早朝に起きたので、眠気が解消されず、いつの間にか、うたた寝をするという繰り返しで、うたた寝時間をトータルすると、結構な時間経過となる。睡魔から解放されて、外を見たら、物凄い霧である(写真11.3-3-1)。日本でも、これほどの高速道路での濃霧は見たことがない。思わず桂林を観光した、帰りの便が欠航になった時の悪夢を思い出した。

 桂林観光の最終日、ホテルの前の道は一部冠水していて、ホテル前の川は増水し、その川に架かった橋の上には増水の様子を見ようとする人たちで橋の欄干には川をのぞき込む多くの人が鈴なりとなっていた。
 その日の観光を終え、空港に向かう時も雲が重く垂れさがり、今にも雨が降り始めそうであった。
 その日の最終便で広州まで行き、そこで一泊して成田便に乗る予定であった。ところが、その最終便は欠航となり、乗客は航空会社の手配で桂林市内のホテルで一泊することになった。
 空港からそのホテルに向かう足は航空会社が手配したバスであり、そのバスの運転が凄かった。高速道路を使うのだが、濃霧の上真夜中で、ライトを遠方に向けても、その遠方が見える訳ではない。そこで、高速道路のセンターラインを頼りに運転をすることになる。
 時々、大きめの岩石が突然現れ、それを避けるために、急カーブする。そのたびに体が大きく左右に揺れる。本当に困ったのはホテルについてからで、周りは中国人ばかりで、日本人は勿論、欧米人も見当たらない。
 状況確認も、今後どうなるのかも確認しようが無い。桂林のガイドに電話してみたが、「自分の役割は、空港に送り届けるまで」ということで、「自分にはどうすることも出来ない。」と素気ない返事。最後の手段は、「AraChina」の担当者に電話して、ホテルのカウンターの人との通訳をしてもらうことだ。それが、解決の突破口になったのだが、携帯のバッテリー残量が目に見えて減ってゆく。充電器は、航空会社に預けたリュックの中にある。その預けたリュックの所在が分からない。
 それを取り戻すまでが、大変だったが、翌日も「AraChina」の担当者の沈慧香さんが、早朝から遠隔通訳で親切に対応してくれて、なんとか広州経由で帰国できたのである。

 自分のブログでは駱暁蘇さんにばかり感謝の念をささげているようだが、「AraChina」の沈慧香さんや広州での乗り継ぎガイドの祝少英さん(ノーレイトラベル)のてきぱきとした便変更の手続きにも本当に感謝しているのである。

 その時の濃霧ほど酷くなく、夜間ではない。また100m前方を走る車もはっきり見える(写真11.3-3-2)ので、それほど恐怖感は無いし、やがて時間の経過や地域の通過と共に、濃霧は改善されるだろう、ということで心配することなく、順調な走行をしている様に思えてきた。

 やがて、安順方面への分岐点に至り、安順を目指す方向に向かった。これで濃霧は収まるであろうと思っていたが、相変わらずの濃霧であり、遠景に見えるカルスト地形の山の半分くらい上は、殆ど濃霧に覆われて見えなかった(写真11.3-3-3、-3-4)。

 しかし、車の速度が落ちた時に、近景に見える家々の輪郭は良く見える様になっている(写真11.3-3-5)。家々は、日干しレンガ造りではなく、コンクリート造りであり、貧困さは感じられない。貴州省は中国の内陸部にあり、どちらかと言うと貧困な省の一つと聞いていたので以外であった。この意外感は同じ日に更に大きく膨らむ光景を見ることになるが、それは次の次の項で紹介する。

 さて、そうこうするうちに目的地に近くなり、曇天ではあるが濃霧が、少し靄った程度になった。カルスト地形は相変わらずだが連山をなす山の数が増えてきた様である(写真11.3-3-6)。

 そして、10分ほどして目的地の黄果樹大瀑布景勝区に到着した。曇天ではあるが濃霧どころか、殆ど霧は見られない。(写真11.3-3-7)。カルスト地形は相変わらずであり、複雑で変化に富む滝風景が期待される。時刻は北京時間で12時少し過ぎた程度、西江千戸苗賽を10時少し前に出発しているので、所用時間は2時間余りということになる。5時間と言うのは往復にかかる時間だったのだろう。

 12時少し過ぎた程度ということは昼食の時間である。黄果樹大瀑布景勝区入り口前に駐車場があり、それを囲む様に食堂が沢山並んでいる。駱さんが見定めた「四海酒家」と言う名の店(写真11.3-3-9)に入った。そこで食べたワンタン(写真11.3-3-8)は、これまで中国観光名所先で食べた料理の中で最上級のおいしさであった。店内は清潔で、店主の感じも好感でき、この店を見定めてくれた駱さんに感謝である。
    本稿 完   つづく







2016/02/13 21:57:07|その他
9.第5日(2015.11.3) 「西江千戸苗賽」その四
9.第5日(2015.11.3)
「西江千戸苗賽」その四

二泊三日の「西江千戸苗賽」の最終日と言っても、この日は苗賽の観光は無く、出口に向かうだけである。それでも「西江千戸苗賽」の朝の顔が見える。

先ずはホテルのチェックアウトを済ませ、徒歩で降りてきて第五風雨橋(写真11.3-1-1)のところまできてワンショット。そして、少し歩くと、一見して地元民と分かる人たちが、屋台を開き、そして客としては、地元民も旅人も、肉まん系の朝食を摂っている(写真11.3-1-2、-1-3)。

 小学生の服装は赤のトレーナーが多く、背負っているのは、ランドセルは一人もいず、全員リュックである。何故かこの一団は男の子ばかりであった(写真11.3-1-4)。

 そして、石畳が敷かれた道路を出口に向かって歩く(写真11.3-1-5)。まもなく、3層の瓦屋根を持ち、2層目に「僦○△」(○は良に送、△は口編に翁)と書かれた扁額の架かった七号風雨橋(写真11.3-1-6)を進行方向左手に見て進むうちに二層の屋根付きの入場門(写真11.3-1-7)の下をくぐる。

 くぐってから振り返ると、ミャオ族を象徴する銀飾りを形づくッたモニュメントが一層目に六個、二層目に銀飾り帽を形づくッたモニュメントが一つ架かっていて、「西江千戸苗賽」と金色の文字が架かれた額も架かっていた。

 そして更に進むと一昨日最初にくぐった、更に大きな入場門をくぐり入り口広場に至った、その時と同じポーズで写真に納まった(写真11.3-1-8)。一昨日ライトアップと大音響の中に立ったのとは世界がまるで違った。

 そして、広場の片隅に、最初に見ておかねばならない苗賽案内図(写真11.3-1-9)が目に入った。

 以上で「西江千戸苗賽」の観光は終わった。風雨橋を見ることを楽しみにしていたが、その目的は達成されたが、過食気味とも言えた。風雨橋の歴史はそれほど古いものではなく、観光目当てに近年になって、それまであった橋の上に増築されたものであることが分かった。

 にも拘わらず、風雨橋に魅力を感じるのは何故だろうか、広西チワン族自治区の三江市で見た風雨橋はもっと立派だったが、川幅がもっと大きかった為であろう。

 人間にとって屋根とは何なのだろう。心を落ち着かせる構造物であるに違いない。ピラミッド・パワーというのがあるが、先がとんがっていたり、稜線を持った築造物は、その構造そのものが安心感を与えるのかも知れない。

 川の上に敷設された橋は手すりがあると安心感があり、頭上に屋根があると開放感が無くなるが、雷雨や雪から身を守ってくれるという安堵感が生まれることも確かだ。
 完全に密閉構造にすると、閉所に対する恐怖感が生まれるが、見学した全ての風雨橋が屋根とそれを支える柱だけからなっていたのは、閉所に対する恐怖感が拭う為とも言える。

 重い多層構造の瓦屋根を柱だけで支えている構造は横揺れに弱いはずだ。これまでこの地には大きな地震はなかったのかも知れない。

 大きな地震で山崩れでも起こしたら、山の斜面に建造された苗賽はひとたまりもないはず。
また、基本的にミャオ族の家屋は木製で密集して建てられている。

 火災に対する防備体制も重要であるが、その備えとなる様な貯水槽や人工の引き込み河川(小運河)はどこにも見られなかった。前著「ミャオ族の民話」には火事や震災などの自然災害に触れたものは無かった。この地域には活断層などと言うのは無いのかも知れない。
   本稿 完   つづく







2016/02/02 19:58:28|その他
8.第4日(2015.11.2) 「西江千戸苗賽」その三

8.第4日(2015.11.2)
「西江千戸苗賽」その三

そうこうしているうちに、やがて北京時間の正午になると、夜の民族ショーのダイジェスト版的昼間のショーが始まるというので、会場に急いだ。夜のショーとは開催場所(写真11.2-5-1)も出し物も違うようだ。ぞくぞくと、観客が集まってくる。昼間なのでライトアップ・ショーは無しだが、腹に響く大音声はある。ショーの出演者は大人数で、「ミャオ族以外の漢族アルバイトもいるのでは?」と勘ぐってしまうほどである。

まず圧倒されたのは高齢者ばかり、お爺さん(写真11.2-5-4)、お婆さん(写真11.2-5-3)の合唱(写真11.2-5-2)である。総勢30人あまりで、姿勢正しく、ミャオ族民歌(?)を誇らしげに高らかにメロディーとリズムにきちんと乗って歌っている。恥ずかしそうにしている人は一人もいない。

 古来ミャオ族には歌垣(ウタガキ)という風習があり、歌垣で将来の伴侶を見つけるという場面が前著の民話集の複数の民話に乗っている。そういう風習を若い時に体験してきたのだろう。皆70歳は超えているように見えるが、堂々と胸を張って歌っている。歌うことが健康維持の秘訣にもなっているはずである。ギャラの分配もあるとすれば、一石三兆くらいは有りそうである。

 次に目を奪われたのは、短いスカートの民族服を着た若い女性のマス踊り(写真11.2-5-5)で、威風堂々とした体格の良い女性が先頭に立ち、その女性の背に結ばれた多数の長い紐を残りの大勢の女性が手繰り寄せている。そしてその後ろに20人ほどの黒装束の男性が笙を吹いている。何を象徴した踊りか分からないが楽しめた。

 もう一つ面白かったのは女性の踊り手が移動するとき、手を振りながら行進して移動するのだが、手の振り方が前後に振るのが普通だが、ここでは、手を鳥が羽ばたくときの様に横に振りながら行進するのである。これがなんとも可愛らしいのである。
 この仕草は、鳥ではなく、もしかしたら胡蝶かも知れない。この世には、卵から孵化してできた12の存在があり、人類はその一員である。12の存在とは、太陽、雷、龍、虫、蛇、魚、狼、熊、虎、犬、猪、人であり、この12の存在は胡蝶と水泡とが結婚することによって生まれ、胡蝶は樹木の随、即ち樹心が生まれ変わったものであり、...という様に胡蝶は特別な存在である。

 この民族ショーで、踊ってはいなかったが、看板の様なものを支え持った女性が目にはいった(写真11.2-5-6)。この女性がミャオ族の代表的な民族銀飾り帽を被っていたからだ。この民族銀飾り帽は最初にくぐったタイトアップされた入場門にも飾られていたもので、ミャオ族を象徴した帽子なのだ。

 昼間の民族ショーが終わり、時刻は北京時間で12:30を過ぎていたので、昼食に向かった。駱さんが予め調べていたのか、入り口が洒落た店(写真11.2-5-7)があった。しかし店はあいにく休店。仕方なく他の店におちつき、鍋汁の食事にありついた(写真11.2-5-8)。客が落とした残飯や肉片を拾い食いするのだろう、店の前を白い子犬がうろつきまわる。鍋汁の中に骨付き肉があったが、狗肉ではなかろうか、という疑念が頭を横切り、急に食欲が無くなってしまった。

 時刻は北京時間で13:30を過ぎていたが、夜の民族ショーまでは十分すぎるほど時間がある。一度町中(写真11.2-6-1)に戻り、違う道からまた山の中腹を目指すことになった。細い登り坂を、どこかに写真を撮るに値する光景はないかと、遠近、左右、上下を交互に視線を動かしているうちに、瓦屋根越しに苗賽の家々が山の斜面に立ち並んでいる光景が目に入った(写真11.2-6-2)。

 ほとんどが木造二階建て、もしくは三階建てで、全て同じ方向に立ち並んでいる。山崩れは無いのだろうか、火災への対処は問題無いのだろうか、地震への備えは十分なのだろうか、と他人事ながら天災、人災への心配をしてしまう。

 そして更に登っていくと、お婆さんが店の入り口に近い場所に腰を下ろし、白い布を前に刺繍をしているところに出会った(写真11.2-6-3)。

 今回の旅行前の事前調査で、「西江ミャオ族の刺繍には、平繍(ひらぬい)、皺繍、纏繍など10余種類があり、なかでも、双針鎖繍(くさりぬい)は、漢代から伝えられた技工。西江千戸苗寨の銀飾り、刺繍などの工芸品は、国内外の博物館で競って収蔵されている。」ということが分かっていたが、白い生地に黄土色の糸で複雑な模様を作り出しているこの刺繍がどの刺繍に属するのか分からないが、相当根気のいる仕事に違いない。
 折角駱さんがいるので聞いてみれば良かったが、事前調査の上記蘊蓄が思いだせず、聞き取りが出来ず、ここの観光地訪問の反省材料になってしまった。

 そして、更に先に進むと、みやげものを売る普通の民家の様な家に来た(写真11.2-6-4)。この辺まで来ると普通の民家なのか店なのか分からなくなってくる。家屋の横の草叢には離し飼いされている鶏がいた(写真11.2-6-5)。恐らく今朝四時頃まだ明るくなっていないうちに、時を告げていた鶏の仲間だろう。日本でも普通に見かける種類であった。この家の主は色彩感覚を重んじているのか、唐辛子の天日干しの赤と小さな鉢植えの植物の緑とが妙にバランスがとれていた(写真11.2-6-6)。

 そして、更に先にすすむと、見晴らしの良い一角に出た。かなりの広角で苗賽が一望できる見晴らし台になっている。台は木造ではなくコンクリート敷である。駱さんをモデルに写真を撮った(写真11.2-6-7)あと、パノラマモードで眼前に広がる光景の写真を撮ったが、全角度に亘って撮り切れず、動画モードでデジカメに収めた。その見晴らし台を離れ、復路にさしかかっていたと思うが、道端にきれいな花があったので写真に収めた(写真11.2-6-8)。

 そして、再び町中に繰り出し、苗賽に住むミャオ族の素顔に触れるブラリ散策をすることにした。最初に目に入ったのは、女性二人の髪型である(写真11.2-7-1)。以前から銀飾りタイプの民族帽(写真11.2-5-2)の中身が気になっていた。どの様に髪にとめているのか、である。目の前にいる女性二人の髪型は、まさにその答え、と自答した。あの髪であれば、スポっと民族帽が被さり、ズレ落ちないで、うまく固定されるのではないかとの自答である。

 そして更に少し歩くと、入り口に、おもちゃの竹製弓矢を陳列している店(みやげもの屋?)の奥で、一人の女性が鏡に向かって、しきりに髪をいじっているのが見えた。土産物屋兼美容室か。その女性の後ろでその女性の長い髪を手に取っている人も見える(写真11.2-7-2)。美容師だろうか。

 そして更に先を歩いていると、高齢者の女性たちがベンチに腰掛けていた(写真11.2-7-3)。黒い服を着ているので、黒苗か。頭は髪を隠すように、きれいな模様の布を被っている。5、6人のグループの様で、仲間同士で集い、団欒の最中か。

 日本では高齢者が屋外に集って団欒という光景は少ないが、中国人はどこへ行っても屋外に集い、麻雀を楽しんだり、歌を歌ったり、楽器を弾いたり、ダンスをすることを躊躇いなく人前で出来る。昼から店の個室で宴会を開いて、親睦を図る日本人に比べ、健康的で、節倹的である。このあたりは彼らミャオ族地元民の生活の場なのであろう。

 そして、更に先にゆくと、地元民相手の野菜・果物市場(写真11.2-7-4)に来た。観光客もいる。自分たちも中に入ることにした。果物は旬の果物の、リンゴ、みかん、ゆず(日本ではグレープ・フルーツ(ルビー)の巨大版)など多種多彩である。その他ピーナッツ、栗、バナナ、くるみ、柿などが販売されていた。

 そうこうするうちに、庇が大きく層数の多い屋根が被さっている風雨橋(写真11.2-7-5)が眼前に現れた。第六風雨橋という木札が貼ってある。欄干と一体となっている腰掛の背もたれ部は曲線を描いていたり、層状の瓦屋根は層ごとに異なる形をしていて凝っている。
 橋の向こう側がどうなっているのか確認するために横から眺めてみた(写真11.2-7-6、-7-7)。橋の向こう側に道路はなく、個人宅の玄関という感じである。六つの風雨橋の中では最も新しく、苗賽の必要に応じて建設されたものではなく、個人の趣味で最近建造された私有物という感じがした。

 この時点で、時刻はまだ北京時間で四時前である。夜の民族歌舞ショーが始まるのは夜八時半であり、四時間半の待機時間がある。一度ホテルへ戻り、一休みすることにした。

 これ以降夕食までの間の記憶が殆どなく、この稿を書いている最中に、メールで駱さんに尋ねてみたが、以下の様な返答があり、上記の通りで良かったことが確認できた。
『答え:11月2日の午後観光後一度ホテルへ戻って休憩をした、夕方六時ごろホテル近くのレストラン<阿秋家>で夕食を食べました、4枚目と5枚目は夕食のレストラン』

 以上の様に、夕方6時頃ホテルを出て、阿秋家というレストラン(写真11.2-8-1)で夕食を摂った。メニューはマーボ豆腐とスープ、それに白飯(写真11.2-8-2)であるが、食欲はそれほど無かった。ホテルに戻ったあとに食欲が出てくる予感がした。

 そして、暗くなった道を徒歩で下った。風雨橋(写真11.2-8-3)を渡り、振り返ってみると、ライトアップされて、橋の内部構造の全容が見えた。2層目に3文字の漢字が書かれた扁額が架かっていていたが、扁額が汚れていて読めなかった。後でデジカメの機能で、ズームアップしたがやはり読み取れなかった。

 風雨橋を後にして少し歩くと、民族歌舞ショー夜間の部の舞台入り口に出た。そこには、長さのある笙を手にした男性2名と、緑色の民族服をまとった女性が3名佇んでいた(写真11.2-8-4)。髪には民族帽をつけていず、丸く束ねた髪を頭上にセットしているだけである。昼間に見た女性の髪型と同じであるが、年齢的にはもう少し若そうである。笙を手にした男性2名の服装はズボンだが裾に模様があるので、これも民族服なのであろう。

 劇場の入場口(写真11.2-8-5)には「美麗西江」という文字が浮かんでいる。時刻はすでに開場予定の8:30を過ぎているが、観客はまばらである。天気が良くないのがその理由だろうが、昼間のショーで満足した人は、もう結構ということかも知れない。更には今にも降りそうな空模様というのも観覧を敬遠した大きな理由であろう。また8:30開場というのは夏季であれば良いが、11月に入ると、日が暮れてから時間が経っているし、気温も低くなり、肌寒く感じるのも事実である。舞台は開演準備はすでに整っていて一段高くなった舞台正面はライトアップされている(写真11.2-8-6)。

 よく見えるように観覧席の最前列に陣取ったのは良かったが、先ほどから気になっていた空模様は本格的な雨になってきた。傘は持っているが、折り畳み傘では凌げそうにない。周囲にポツリポツリと座っていた人たちは後方の屋根がついている観客席に移動し始めた。自分たちも同じように屋根付きの後方の観覧席最前列に移動することにした。

 おそらく開催者はこの雨が通り雨で、少し待てば止むことを知っているのだろう。確かに少し待つうちに小降りとなり、ついには雨は完全に上がった。

 それと同時にジョーが始まった。それを合図に観客たちは、より近い座席に移動し始めた。自分たちは、また降り始めるかも知れないと思い移動しなかった。移動しなかった観客にとって移動している観客は立っているので非常に目障りである。

 中にはタブレットを、手を伸ばして高く掲げながら写真や動画を撮影している連中もいる。それを見た自分は邪魔で仕方が無く。「あそこで立って写真を撮っている人は邪魔だなあ」と駱さんの耳元で呟いた。
 次の瞬間、駱さんは、立ち上がり、その男にツカツカとよってゆき、何やら話かけている。「後ろの人に迷惑なので、座るか、立ち退いてくれ」と一喝した様だ。その男は、一度、後ろを振り向いたあと、駱さんに悪態もつかず、申し訳なさそうに眼前から消えて行った。

 この場面を見て、中国人はこう言う人が多いのだろう、と思った。他人に迷惑をかけることが良くないことは分かっているが、自分が他人に迷惑をかけていることに気が付かないのである。日本人にだってこういう人間は。いくらでもいる。そういう人達の人口比率が中国より多少低いだけであろう。

 そして、中国には駱さんの様に立ち上がって、注意をする勇気のある人もいる。しかも、「弱き者、汝の名は女なり!」の女性が、である。ショー以上に良い光景を見させてもらった。これは、日本に比較して女性の地位が高い為と言えるだろうが、駱さんの人格に帰するほうが大きいともいえる。

 東日本大震災で被害を受けた人たちを元気づけるために、日本の主だった歌手、例えば吉田拓郎、福山雅治、中島みゆき、槙原啓之、満島ひかり等が歌った「ファイト」という歌を思い出した。

 ショーの方は終始デジカメ動画を撮り続けた。しかし、収録動画をこのブログにアップする方法が分からない。それが分かった時点で動画付きのブログに更新するつもりである。

  本稿 完   次につづく







2016/02/02 18:07:05|旅日記
7.第4日(2015.11.2) 「西江千戸苗賽」その二

7.第4日(2015.11.2)
「西江千戸苗賽」その二

携帯目覚ましが朝5時@日本時間、従って朝4時@北京時間にいつもの様に鳴る。外はまだ真っ暗であるが、窓の外すぐそばで、鶏の大きな鳴き声。それに連呼する様に、遠くのあちらこちらで鶏の啼く声がした。いづれも「コケコッコー」と明瞭な啼き方をしている。まだ早すぎるので、二度寝をすることにした。

 そして、しばらくうたた寝をしているうちに、急に眼下に苗賽の家々が臨めるホテルの室内が明るくなってきた。時刻はすでに北京時間で7:30を過ぎているが、やっと太陽が向かいの山の端から顔を出したのである(写真11.1-5-1)。山間の地にある部落であるので、日が明けるのは遅く、日が暮れるのは早いのだ。時々靄が漂い眼下の景色を不明瞭にする。(写真11.1-5-2)。

 刻一刻と太陽の位置が上昇して、川に架かった風雨橋の全容が見て取れるようになってきた(写真11.1-5-3)。また、眼下の住居の輪郭と色彩も次第に明瞭になってくる(写真11.1-5-4、-5-5)。

 後で分かったことだが、この苗賽には、苗賽入場門に近い方から一号橋、二号橋、...第六号橋と、6つの風雨橋が架かっていて、全て屋根と橋げた構造が異なるのである。

共通なのは屋根が瓦葺きであることと、橋の欄干に沿って椅子が配置されていることである。眼下には、二つの隣合った風雨橋(写真11.1-5-6、-5-7)がはっきり見え、もう一つの風雨橋の橋げたがうっすら見えた(写真11.1-5-7)。

 屋根の部分を拡大してみると軒先が白く縁取りされていることに気づく(写真11.1-5-8)。黒縁や白縁して目立たさせる手法は、ライトアップや音響によって対象を引き立たせる手法と同じであり、少数民族としての伝統的な手法とは相容れないものの様に映った。

 川の水面には全く波が立っていず、鏡の様な静けさであり、その鏡に円弧橋が映っていた(写真11.1-5-9)。視野を移すと、恐らく大家族が住んでいると思われる民家(写真11.1-5-10)が目に入った。(写真11.1-5-9)

 この日が、「西江千戸苗賽」観光のメインの日である。以上の記載は、苗賽が眼下に見えるホテルからの眺望について記した。このホテルは予定に反して朝食がついていないので、朝食は朝でもやっている食堂で摂る必要がある。

 北京時間で8:30にホテルをでて、電気カートでその終点(=始点)を目指さねばならない。その起点となる停留所まで、昨夜とは逆方向に歩いて行く必要がある。なるべく軽装が好ましいので、駱さんに借りたバッグをホテルの部屋に置き、ウェスト・バッグひとつで、出かけた。ところが、起点となる停留所の少し手前まで来たところで、曇天にも拘わらず傘を忘れたことに気がついた。

 この日は「西江千戸苗賽」観光のメインの日であり、民族ショーの観覧があり、長時間に亘り、屋外にいることになる。その間いつ雨が降って来るか分からない曇天である。

 そこで駱さんが、「傘はバッグの中に入っていますか?私が一人で戻って取りに行ってくるので、ここでそのまま待っていて下さい。」とのこと。自分の衰えた鈍足では往復で15分以上はかかるし、急ぎ足だと何が起こるか分からない。駱さんの健脚に任せることにした。

 そして間もなく駱さんが、息を切らせながら戻ってきた。途中走った時もあったのだろう、「ハーハー」と息を弾ませている。その姿を見ていると、申し訳けないと同時に、駱さんのガイドさんとしての信頼感が益々増長した。「弱き者、汝の名は女なり」などと言うフレーズは駱さんには通用しないのだ。

 そして、電動カートはまだ停留所には来ていなかったので、「天下西江」と朱彫りされた石碑の前で写真を撮った(写真11.2-2-1、-2-2)。そして間もなく来た電動カートの最後尾に乗り込み、最初から最後までデジカメ動画を撮り続けた。下り坂なこともあり、軽快に飛ばし、間もなく、終着点につき降車した。

 少し歩くと、「夜市焼烤一条街」と札書された表示のある二階建ての風雨橋(写真11.2-2-3)に出会った。夜になるとライトアップされる通路という意味で、そこへの入り口という意味かも知れない。二階の欄干には、「噏僦」と小さな扁額に書かれていた。初めて見た漢字ばかりで、意味は全く分からない。

 欄干に敷設してあるベンチに旅行客と思える二人連れが腰を下ろしている。風雨橋を内部から見ると(写真11.2-2-4)、木製の柱や梁が縦横斜めにはりめぐらされ、通路は往路と復路がパーテションで分離されている。また天井を見ると(写真11.2-2-5)、かなり複雑な組み方をしている。着雪への備えだろうか?

 橋を渡って少し行くと、苗賽の中心街に向かっているようで、道路の両側に様々な店が立ち並んでいる。また、町行く人も、多彩になってきて、天秤棒を担いで何かを運んでいる姿(写真11.2-2-6)が見られる様になってきた。店の店頭では杵をリズミカルに操り、何かを一生懸命叩いている人(写真11.2-2-7)もみられた。飴の様なものを叩き固めているのであり、この様な光景を複数の店頭で見た。

 これこそ、ここでしか買えないに違いないと思い、5箱で1セットにした土産を買った。店頭でのデモが無ければ、とても立ち寄りはしないだろう。

 駱さんが、「朝食、何を食べますか?」と聞いてきたが、麺類しか思いつかなかった。そこで比較的清潔感のある二階建ての店に入ることにした。全木製の店である。出来るまでの間に、店の二階の欄干越しに階下の通りを見ると、眼前に、小さな寄合所の様な建物があり、何人かの人たちが話をしている(写真11.2-2-8)。

 黒い帽子を被った高齢者4人と、その手前に4、5人の少し若い人達が着座している。ズームアップしてみると(写真11.2-2-9)、高齢者4人の内の一人が札束を握っている。そして彼らを遠巻きに見守っている人たちがいるが、観光客かも知れない。賭け事をしているとは思えない雰囲気である。
お金を分配するところの様にも見えるが、結局分からなかった。

 そのうち朝食の麺類が運ばれてきた。米粉を原料とした白い平打ち麺の上に、刻んだネギが振りかけられている。汁は唐辛子の色で染まっていて、白菜を小さくカットしたものが浮かんでいる(写真11.2-2-10)。量は朝食としてはちょうど良い。また汁の辛さもしつこくなくてちょうど良かった。これも、日本人の舌を知り尽くした駱さんならではのメニュー選択で、大いに助かる。

 食事をどうやり過ごすかは旅行者にとって、常に大きな課題である。特に独り旅の多い自分にとっては、一人で食事をすることが多く、観光客用の食事となり、食べ過ぎの傾向がある。また一人なのでどうしても閑寂な食事となってしまう。その点、駱さんガイドの中国旅行では、その場で、メニューを選ぶ、その土地の田舎料理であり、食べ過ぎることも無いし、味に抵抗感を感じることも無いのである。また食べ残しをしないで済むのも大助かりだ。

 食事を終え、民族博物館に向かった。時刻は10時少し前である。階下に降り、先に進んだ。途中酒店では「苗王酒」というブランド酒を売っている酒屋、カラフルな女性用民族服の販売、貸衣装店、また「笙広場」といった、西江のミャオ族が祭りを行った場所であり、集団での活動、集会、娯楽等すべてを行った歴史的な広場を通りすぎ、「西江苗族博物館」(写真11.2-3-1)に辿り着いた。

 完全な木造建築で、間口はそれほど大きくない。館内は団体客も居て結構混み合っていた。館内はいくつかのカテゴリー・ゾーンに分けられていて、最初に参観したのは歴史ゾーンで、最初に目に入ったのは、「苗族頌」という題の額縁入りの長文の文書(写真11.2-3-2)であった。

 その次に目に入ったのは、“卵生人―――朴素的唯物思想”というテーマで、人類はどの様にして生まれてきたか、どのような形態を経てきたか、をミャオ族の視点で系図としたもの(写真11.2-3-3)であり、中国古代の五行説(すべてのものは、木火土金水からなるという思想)に対比される世界観である。

 この世には、卵から孵化してできた最終的に12の存在があり、人類はその一員である。12の存在とは、太陽、雷、龍、虫、蛇、魚、狼、熊、虎、犬、猪、人であり、この12の存在は胡蝶と水泡とが結婚することによって生まれ、胡蝶は樹木の随、即ち樹心が生まれ変わったものであり、樹心は楓の木の一部として他の樹部と共存し、形づくられたもの、更に楓の木は雲、即ち混沌の中から湧き出た存在と言うようなことを言っている様に思えたが想像の域を出ない。

 前記12の存在は、前著のミャオ族民話集にも頻繁に擬人化されて登場していた。

 その他、室内に配置する神棚の様なもの(写真11.2-3-4)、石臼(写真11.2-3-5)、室内調度品(写真11.2-3-6)、木槌などのものづくりの為の道具(写真11.2-3-7、-3-8)の展示、更には、ミャオ族の住む高床式の木造家屋の模型(写真11.2-3-9)、そして時を告げたり、集会を呼びかける太鼓(写真11.2-3-10)を叩く黒服を来た男たちのモデル像の展示があった。

 黒服は、ミャオ族が、清朝の支配者によって、黒苗、白苗、青苗、紅苗、花苗と女性の服装(写真11.2-3-11)から呼ばれていて、黒苗の服装であろう。戦闘などで活躍するのは黒苗が多かったと前著の解説に紹介されている。

 「西江苗族博物館」見学の後は、昼食まで苗賽の家並み見学である。ひたすら駱さんの後をついて行く。苗賽の家並みを形づくる家々の特徴は、山の斜面に建造されている場合が多く、木製の柱の上に瓦葺きの屋根が載っかっている。柱と柱の間は吹き抜けであり、欄干がついている(写真11.2-4-1)。

 よく見るとその欄干に手を置き、人々がこちらを見降ろしている。見晴らし台になっているのだ。この様な家が複雑に隣接して長屋の様に建っている。強風が吹けば、ひとたまりもない無い様なつくりである。山に囲まれている地なので、強風は遮られ、耐風対策は必要ないのかも知れない。写真は光学10倍でズームアップしているので大きく見えるが、肉眼ではかなり小さく見え、しかも見上げるところにある。

 その写真を撮った低地から、石畳(写真11.2-4-2)に沿って歩いて行く。途中バスケットコートがあったり(写真11.2-4-3)、集会所の様な広場があったりするが、広場を囲むように、柱の上に瓦屋根が載り、柱と柱の間は吹き抜けの構造の例の建造物で、欄干には椅子が作られていた。また広場の地面は模様を施された石畳となっていた(写真11.2-4-4)。

 更に歩くと、道は細くなり、上り坂となり、振り返ると、反対側の山の斜面に貼りついたように建っている家々が見えた(写真11.2-4-5)。そして眼前には苗賽の特徴的な、家屋が目に入った(写真11.2-4-6)。

 すぐ手前に見えるのが、柱の上に瓦屋根が載った建物で吹き抜け構造となって、欄干に一体的にベンチがつくられている。更に少し高い位置に建てられた一対の木造3階建ての建物は吹き抜け構造がなく、完全に木製板で囲まれている。居住を目的とした建物であろう。柱も壁も、木製の処は全て茶色に塗られている。内部がどの様に作られていのか不明だが、ひとつの建屋に複数の世帯が住んでいる可能性がある。

  本稿  「西江千戸苗賽」その二 完    つづく







2016/01/26 14:27:00|旅日記
6.第4日(2015.11.2) 「西江千戸苗賽」 その一
「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」
+「杭州〜貴州、中国高鐵(新幹線)往復15.5時間の旅」
6.第4日(2015.11.2) 「西江千戸苗賽」その一

  西江と言うのは、貴州省凱里市にある地名であり、千戸が密集して生活している苗族(ミャオ族)の村である。中国は漢民族と54の少数民族からなる多民族国家で、苗族はこれらの少数民族で最も歴史の古い民族の内の一つである。

 苗族については、東洋文庫260「苗族民話集 中国の口承文学2」村松一弥 編訳 平凡社刊(昭和49年)の解説に詳述されている。
 
 それによると、「彼らは、有史以来、主として中国南部に生活してきた原住民族であり、その全歴史を通じ、民族全体が西南方に移動を続けていて、現在は中国だけでなく、インドシナ半島の諸国のベトナム、ラオス、タイの山地にも分布して、そこでは、メオ族と呼ばれている。」また「彼らの源郷は、現在の住地より東方の、漢民族が進出する前の中国中部の温帯であった。彼らはそこに定住して、更に古代中国で東夷と呼ばれ、後に殷帝国を建てた華北の農耕原住民族の文化影響も受け、牛を使い、稲を創る湿潤アジア的農耕文化を築いていたらしい。」とある。

 また、「村落を、丘陵上や山麓の要地につくるのも、戦術的配慮が働いている。漢族が苗族の村を賽(とりで)と呼ぶのもその故である。」ともある。今回訪問した貴州省凱里市にある「西江千戸苗賽」はまさにそういったところなのだろう。
 
 たまたま前著P403に、『ミャオ族の村――貴州省東南の凱里県(「民族画報)1972年7月号』が写真に掲載されていている(写真11.2-0-2)。この写真の頃は、河姆渡遺跡の発見があった年で、日本では昭和48年、筆者にとっては、社会人5年目で、初めて転職をした年であった。

 ミャオ族は中国東南部に広く分布している農耕を主とした少数民族で、日本と同じ照葉樹林帯(常緑性のカシ、シイ、クスなどの濃緑色の光る葉を持った木の茂った東南アジア独特の温帯林)に居住し、他民族との鬩ぎあいの中で、現在の居住地に移住し、定住しているのだ。

 同じミャオ族でも移動するものもいれば、残るものもいる。従って、ミャオ族は、ここ貴州省だけでなく、四川省にも、湖北省にも、広西チワン族自治区にも、自治州をもって居住している(写真11.2-0-3)。前著『「苗族民話集 中国の口承文学2」村松一弥 編訳 平凡社刊(昭和49年)』の付録「ミャオ族民話集関係地図=中国におけるミャオ族分布図より)。

 あるいは揚子江流域で農耕を営んできた民族をミャオ(苗)族と総称し、地域によって異なる方言を使ってきて、現在に至っているのかもしれない。

 もう一つの特徴は、写真11.2-0-2(中国におけるミャオ族分布図)を見て分かる様に、殆どの自治州を、ミャオ族単独ではなく、他の少数民族、例えばトン族、チワン族、プイ族らと共存して自治州をおさめている場合や、より小さな単位の自治県を構成している場合が多いようだ。

 多民族国家の中国に於いて、民族の融合/離散は国を運営する時の最大の関心事であろう。

 民族の融合/離散のグループ・ダイナミクスに、外力としての誘導が如何に発揮されるかが極めて重要で、有害/有益な他国による干渉や、IT情報も意図しない外力であり、外力どうしの干渉にも対処が必要であろう。前著解説で、「中国は、ものすごいバライエティの集約された世界なのである。従って中国をより良く理解するには、中国を多元世界として捉える必要がある。」と記述されている。これは、旅行者や中国研究者だけでなく、国を統治する人達にとっても重要な認識となっているものと思われる。

  民族単位を一つの分域(ドメイン)と考えた時、単分域(シングル・ドメイン)→多分域(マルチ・ドメイン)の変化と、その逆の多分域→単分域の変化と、いずれの向きが、内部エネルギーやエントロピーの観点で安定化の方向か、“神のみぞ知る”ところであろうか。

  多分域→単分域の変化には分極(ポーリング)という人為的な操作が必要だが、単分域→多分域の変化は一定の温度(キューリー点)以上になると起こりやすくなるというのが、固体物性論、特に強誘電体や強磁性体などの材料分野では基本的な考え方である。

  一定の温度(キューリー点)以上になるのが、自己加熱によるものか、環境温度の影響によるものかは重要な観点であるが、いづれにしても少数民族の平安と安全につながる演出が必要と言えるのではなかろうか。一方的で、歪の混じった観点からの民族の融合/離散は悲劇につながる可能性大で、そうさせない統治者の度量が必要であろう。そして、被統治側のリーダーの度量も重要だろう。

「西江千戸苗賽」その一に示した写真(写真11.1-4-1)の様に、夕刻の苗賽の入場門に立った時、光(ライトアップ)と音との共演に酔わされたが、この様な演出は、観光地化を加速させる為の有効なツールとして利用しているのは、どこの国でも同じだが、これによって漢民族観光客の来訪を促し、漢民族との融合が図られるのは言うまでもないだろう。

  そして来訪した観光客がIT網に載せ、SNS等を通じて全世界に情報発信し、ミャオ族の通常の生活の場さえも、やがて、観光ツールになってゆく様な感じがした。

  ミャオ族は古来、文字を持たなかったので、制度、歴史から英雄断や著名人のエピソードまで、全て、民間の口頭伝承によって、語り継がれてきた。従って、愛を伝えるラブレターなんてものは無い。その代わり歌がその手段となる。

  今回、民族ショーを見ることが楽しみであった。


 前著はミャオ族の民話集であり、計56編の民話を掲載している。虎、牛、鶏、羊等の動物が擬人化されていて楽しみだが、この書籍を読んだのは旅行が終わって一か月後のことだった。


  この稿 完    つづく