槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/04/03 13:36:23|旅日記
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」
「ガンジス河とタージマハール インド7大世界遺産周遊の旅」
     (2016.04.03投稿)

1.序
この年2013年は依然として日中関係が冷え込んでいて、中国旅行中、どの様な危害に遭うかわからない。マスコミでは頻繁にそのような気持にさせる見出しが躍っていた。そこで、気分を変え、思い切ってインド旅行をすることを思い立ったのだ。インドをターゲットにした理由は他にもあった。理由というより、口実と言った方が良いかも知れないが。

 第一は、血液型シェアである。日本人は無論血液型シェアNO.1はA型である。これに対し、インド人の血液型シェアNO.1は、自分と同じB型なのだ。ちなみに中国人は、B型とO型がほぼ同じで首位なのである。

 その国の形は、血液型シェアNO.1の人たちに住みやすい様に創られる。従って、B型である自分にとって、中国以上に居心地の良い旅行先はインドということになる。中国旅行では、旅行前の体調が旅行によって回復するというジンクスが持続しているが、インド旅行では回復度が更に増すはず、と考えてみたのだ。

 第二の理由は、エローラ石窟寺院遺跡のことを、とある書物で知り、そこを訪問したい気持ちが募っていたのだが、初めてのインドでいきなりエローラ遺跡と言うのは、少しハードルが高すぎであり、その予行演習的な位置づけで、インド旅行初心者にふさわしい観光コースを選んだのであった。因みに2.5年後の11月秋に旅行の計画を細部にまで企画し、準備万端のところまで行ったが、直前に体調を崩し断念している。

 インドに知り合い日本語ガイドがいる訳ではないので、日本の旅行代理店のファイブ・スター・クラブを使うことにした。

以下に、旅行日程概略を示す。

4/25(木)
11:30発 エアー・インディア 成田発AI307便 デリー着16:55

4/26(金)
オールド・デリー市内観光(ジャーマ・マスジット、チャンドニー・チョウク、レッド・フォート、ラージガード)昼食:タンドリ料理、インド門、クープトミナーレフマユーン廟見学。インド人家庭訪問。19:10発の寝台特急でペナレスへ。車中食、車中泊

4/27(土)
6:30 ペナレス(ムガーサライ駅)着。着後サルナート(ダメーク大塔、ムルガンダ・クティ寺院)観光。ガンジス河観光。プチホテル「パレス・オン・ステップ」泊

4/28(日)
日の出時刻、ボートからガンジス河の日の出と沐浴風景観光。ペナレス市内観光。ヴィシュナート寺院見学。
16:40ペナレス発寝台列車でアグラへ。

4/29(月)
5:45アグラ着。着後タージマハールとアグラ城見学。PMフリー・タイム。アグラ泊

4/30(火)
アグラから専用自動車でジャイプールへ。途中ファティプール・シクリ観光。夕刻、専用車でジャイプールへ。ジャイプール着後、市内にある風の宮殿、シティパレス、天文台見学。ジャイプール泊。

5/1(水)
象のタクシーに乗ってアンバー城観光。ジャイプールから専用車でデリーへ。21:10発AI306便で帰国の途へ。

 以上の様に2度の長時間の夜行列車、着後すぐ観光ということで、自分にとっては、ハードスケジュールと炎天下での観光ということで、身体的なダメージが心配ではあった。
    序 完  つづく







2016/03/23 21:16:06|その他
14.第7日(2015.11.5)=最終日
14.第7日(2015.11.5)=最終日

 帰国日である。前回同様帰国便NH930(13:50発)に間に合う様に、11:00頃迎えに来ることになっていた。車だと途中渋滞に巻き込まれる心配があるので、地下鉄で空港に向かうことになった。ホテルでの朝食後時間があったので、西湖湖畔を1時間ほど逍遥した。すっかりおなじみになった西湖湖畔の朝景色であったが、写真は撮らなかった。

 帰国便NH930は往きよりも空いていて、快適であった。同じ番号の座席であるため、帰りは太陽光が直射することもなく、快適であり、特に、成田空港着陸30分ほど前に、上空から夕焼けを背に黒く浮き上がった富士山をたっぷり拝むことが出来、大変印象的な旅の結末となった。

 今回の旅では駱さん夫妻に大変世話になった。杭州へは成田から直行便が出ているし、杭州は、国内便、高鐵の便も良い。また杭州料理もおいしい。そのような利点もあるが、なによりも有難いことは、駱さんに自分の体調をよく知ってもらっているので、無理をしないで済む。

 また日本人の味覚をよく知っていて、食事が苦痛になることから解放されている。その分、食事につきあってくれた駱さんは、空腹に耐えられない場面もあったのではないかと気になったこともあった。

 今回往復15.5時間の高鐵(新幹線)の中で駱駝さんと随分いろいろな話をしたが、個人情報に関わることは記事にしなかった。次の中国旅行の目的地の話題も出た。

中国旅行をすると体調が回復するというジンクスは継続している。やっと、去年11月の中国旅行「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」+ 「杭州〜貴州、中国高鐵(新幹線)往復15.5時間の旅」の投稿が今回をもって完結した。次の中国旅行の目的地の相談を始めるつもりである。
        全編 完







2016/03/22 21:37:31|旅日記
13.第6日(2015.11.4)貴陽南〜杭州東 高鐵(中国版新幹線)8時間の旅

13.第6日(2015.11.4)貴陽南〜杭州東 高鐵(中国版新幹線)8時間の旅

11月4日は、朝08:08貴陽南発の高鐵に乗り、16:17杭州東到着の予定となっている。7時少し前にタクシーがやってきた。早速乗り込み、ホテルを後にした。

 運転手は甲高い声で、しゃべりまくっているが、どうやらタクシー会社か運転手仲間と連絡を取り合っている様だ。ホテルが貴陽市の中心部近くにあるので最初から渋滞である。そして間もなく完全に止まってしまった(11.4-1-1)。

 駱さんの通訳によると、信号機故障が原因のようである。超徐行で交差点に辿りつくと、交差点に、代わりの交通整理の警察官の姿も見えない。それでも運転手間の阿吽の呼吸というのか、何とか通り過ごすことが出来た。

 かなりの時間のロスであり、予定した道路を行くのでは間に合わないとみた運転手は、駱さんの了解を得た上で郊外の高速道路を使い、迂回して貴陽南駅に向かうことにした様だ。

高速道路へ入ってから、この運転手の運転がすごかった。片道3車線の広い道ということもあり、スピードは、緩急差が大きく、おそらく速い時は100km/hrは超えていただろう。また車線変更も、もの凄く、前後左右の体の揺れは激しく、かつて駱さんご夫婦の案内のシルクロード旅行で、五彩湾を観光した時を思い出した。ただあれは、上下のはげしい揺れだったが。

 更には、一昨年桂林を観光した最終日、桂林から広州への国内便が悪天候を理由に急遽飛行とりやめとなり、一泊を桂林の市内のホテルに案内されるときのバスの運転を思い出してしまった。
 霧が深く、50m先も見えず、運転手は高速道路の車線分離線を目当てに運転するのであった。
 時々小さな石が落ちていて、霧のなかでは、突然現れるので、それを避けるためにハンドルを急に切るので、そのたびに乗客全員が大きく左右に揺れるのであった。自分は最前列の予備椅子に座っていたので、こわくて仕方がなかった。

 そんな体験を思い出すほど、この甲高い声を出す運転手の運転は凄まじかった。途中駱さんも観念しかかり、「間に合わなかったら、次の便にのれば良い」と言い始めたが、その運転の成果と言おうか、もしかしたら間に合う、というところで着いたのだ。

 駅構内を、危険物チェック、検札を何事もなくやり過ごし、走り続けて目的の高鐵の発車にギリギリ間に合った。座席のある車両と離れた車両(G1322)に飛び乗ったので。車内を何輌分かを歩き、やっと自分たちの予約席に辿り着き、ホッとした気分になった。

 そして駱さんの口から出てきた言葉は、「あの女性運転手凄かったです。」。思わず、「あの運転手、女性だったの?」と驚嘆の声をあげてしまった。道理で声が甲高かった筈、ようやく理解できたのであった。しかし知らないで良かった。というのが正直な感想であった。

 中国人女性には、「弱き者、汝の名は女なり」なんてセリフは通用しないのである。男女同権のレベルは日本よりはるかに高い。男性が出来ることは女性でも普通にこなす。今回訪問したミャオ族は、女性は外に働きに出かけ、男性は、家事、留守番という分担も結構多いのだそうだ。

 そんなハプニングの余韻も納まり、停車駅の写真を撮ろうとしていたことを思い出した。思いだしたときは、既に、何駅かを通り過ぎていた。また、駅名が見える位置に停まってくれないので、ただ写真に撮っただけで終わってしまった。写真データ(撮影時刻)を添えて表示しておけば、停車時刻データとの関係で、停車駅名が分かる可能性があるが、ここではしないで先に進む。

   写真11.4-1-2:9:06(貴陽南)搭乗駅
   写真11.4-1-3:9:06(同じ駅)
   写真11.4-1-4:9:24
   写真11.4-1-5:10:11(三穂駅:往きの停車駅には無かった?)
   写真11.4-1-6:10:31
   写真11.4-1-7:10:58
   写真11.4-1-8:11:38
   写真11.4-1-9:11:58(娄底南)
   写真11.4-1-10:11:59(娄底南)

 そして、時刻は現地時間で正午を回ったところ。昼食を摂ることになった。駅のホームで駅弁を売っているという日本的風景はなく、あるのは車内販売で、日本であれば、コンビニで売っている様な弁当(写真11.4-2-1)で、これを駱さんが買ってきてくれた。中華料理風弁当であったが、おいしかった。

 次に撮った写真(写真11.4-2-2)の撮影時刻は13:10だったので、その間1時間近く、うたたねをしていたのであろう。写真の駅の名前は一部しか分からない。

   写真11.4-2-2:13:10
   写真11.4-2-3:13:20 走行中、時速303km/hrを記録
   写真11.4-2-4:13:33
   写真11.4-2-6:14:12
   写真11.4-2-7:14:26
   写真11.4-2-8:15:07
   写真11.4-2-9:15:08 同じ駅
   写真11.4-2-10,11:15:35
   写真11.4-2-12:15:42
   写真11.4-2-13:16:11
   写真11.4-2-14:16:12 走行中、時速307km/hrを記録
   写真11.4-2-15:16:41 義鳥駅 往きに停車した?

 そして、杭州東駅にほぼ定刻に到着した。そこからは地下鉄(写真11.4-2-16)で西湖まで乗り、そして下車後、ホテルへ帰着する前に駱さんと一緒に夕食を摂った。

 「弄面(Noodle House)」という名前のラーメン屋(写真11.4-3-1)であるが、店内は照明をやや抑えた落ち着いた雰囲気の洒落た感じの店(写真11.4-3-2)であった。客はビジネスマン風やデート後のカップルが多く、家族連れは見かけず、声高で話す客もいず、それ程混雑はしていなかった。

 禁煙の表示は無かったが、たばこの煙もなく、空気が良かった。おそらく高級ラーメン屋なのであろう。多種のラーメン、ラーメンセットが、20〜30元(日本円で400〜600円)(写真11.4-3-3)であり、食した野菜ラーメン(写真11.4-3-4)はとてもおいしかった。

 これまでは、中国旅行でグルメは殆ど期待しなかった。中国料理独特の癖のある味に馴染めなかったからだ。しかし、今回の中国料理は麺づくしであり、中華麺あり、米粉麺あり、雲吞あり、であったが、ホテルでの朝食を含めて癖のある料理に出会うこともなく、中国の食を楽しめた。また中国の食文化が、少しづつ変わりつつある様に思えてきた。

 ホテルの隣にあるコンビニで夜食を買い、また、旅費精算をしてから駱さんと別れた。
   本稿  完       つづく







2016/02/22 23:05:13|旅日記
12.第5日(2015.11.3)その三 貴州省省都 貴陽市、圓通寺、甲秀楼

12.第5日(2015.11.3)その三 貴州省省都 貴陽市、圓通寺、甲秀楼

 安順の黄果樹大瀑布景勝区を出発したのが、北京時間で午後3時少し前であった。それから次に、省都貴陽市にある圓通寺を目指した。西江千戸苗賽から大瀑布まで、約2時間半で、貴陽市はその中間点にあるので、大瀑布から貴陽市までは、1時間少しかかる予定である。高速道路G60を使い、一路東に向かう。

高速道路からは、この地域特有のカルスト台地の小山が目に入る(写真11.3-6-1)。また相変わらずの曇天である。

また、高速道路から見える家々の姿は、3階建てのモルタルづくり(写真11.3-6-2)が多く、日干し煉瓦造りの家など全く見えなかった。中国で最も貧しい省の一つと聞いていたので以外だった。
もともと日干し煉瓦造りの家など無い地域なのか、急速な発展によって、取り壊され、国が作った高層アパートに移住を余儀なくされたのかは分からないが、発展の印象を与えていることは確かだ。

 予想通り、一時間余りで、貴陽市市街地近くに至り、高層ビル(写真11.3-6-3)がチラホラ見える様になってきた。そして、間もなく圓通寺(写真11.3-6-4)に至った。町なかの仏教寺院であり、緑豊かな境内の中にある寺院とは全く趣が異なった。地面は全面石畳であり、土が全く見えない。山門をくぐると、直ぐに大雄宝殿が目に入った。

中には、二体の仏像(塑像)がいずれも正面を向いて座していた。一方の座像は三尊(写真11.3-6-5)となっていたが、他方は一尊(写真11.3-6-6)であった。それ以上の詳しい内容は分からなかった。

 また、側壁には釈迦八大弟子のカラフルな塑像が一列に立ち並んでいた(写真11.3-6-7)。また他の側壁には立体壁像として様々な仕草をしている人や仏が物語的に配列されていた(写真11.3-6-8)。おそらく、最近造られたものであろう。

 また、堂内の片隅には鐘(写真11.3-6-9)が据えられているが、鐘の表面に般若心経の文字が浮かびあがっていたので、時を告げたり、除夜の鐘というよりは、お参りする人に念仏のお手伝いをするツールという意味合いが感じられた。

 そうは言っても、参拝者は一人も見ることは出来ず、僧侶は勿論、寺の管理者の姿も全く見えなかった。観光客相手のささやかな寺院という印象が残った。

 お堂が人工的に見えたのでお堂の前に咲いていた黄色の菊の花(写真11.3-6-10)が如何にも自然さを醸し出している様に目立ち、また、お堂が新しく見えたのでその前にあった、線香に火を灯す錆びた鉄製の灯火台が古さと貫禄を醸し出している様に妙に目立った(写真11.3-6-11)。

 山門から出て振り返ると、圓通寺の背景に4棟の超高層ビルが見えた。そのうちの2棟は、建設中であり、更に高層となるようだ。高層住宅になるのか、高層テナントビルになるのか分からないが、いづれもすでに30階以上はありそうだ。

 圓通寺の観光を終え、歩を車の方に進める時、恐らく、これから花を植え、花壇にするのだろうと思われる更地が見えた(写真11.3-6-12)。そして遠方を見上げると、また一棟超高層ビルがかすかに見えた。

 再び車に乗り、貴陽市の中心部を目指す。時刻は北京時間で、午後4時20分であった。幅広の道路には赤や黄色の暖色系の花が立体的に植えられていた(写真11.3-7-1)。

 途中、車の中から、垂れこめた雲に突き刺す様に超高層ビルが一棟だけ独立して見えた(写真11.3-7-2)。超高層ビルを林立させない意図はどの様なものだろうか。次第に交差点が増えて来た。街なかに近づいている証拠である。

 その交差点で、これからここで物売りを始める訳ではあるまいが、荷台に荷物を積んだ2台のリアカーを留めている女性達がいた(写真11.3-7-3、-7-5)。おおらかという他ない。交通量がそれほど多くはない証拠(写真11.3-7-4)であろう。

 そして、更に進むと貴陽市の中心地らしい一角に出くわした。超高層ビルが林立し(写真11.3-7-6)、まるで摩天楼の様な佇まい(写真11.3-7-7)である。

いくら省都とは言え、中国で最も貧しい省の一つと言われるこの地域に、まさかこれほどの人口過密地域があるとは予想もしなかった。おそらく建てられたばかりであろう。
 
 住居ビルかテナントビルか分からないが、まだ住居者は埋まっていないのかも知れない。写真を撮った角度のせいか、ビルが一様に右側に傾いているように見えた。

 そして間もなく宿泊予定のホテルについた。中国時間で、既に午後6時を少し過ぎている。駱さんがチェックイン手続きをしてくれている間、ロビーを歩きまわっているうちに面白いものをみつけた。商売繁盛の神とされる関羽座像(写真11.3-7-8)である。よく見ると、お札を何枚も身に着けていた(写真11.3-7-9)。これまで中国各地のホテルを多く利用しているが、この様な光景は初めてであった。

 少し部屋で一服したあと。夕食に出かけた。また麺類(写真11.3-7-10)であったが、おいしかった。トウガラシで汁が赤く染まった方は駱さんが食し、トウガラシで染まっていない方が自分が食した。

 駱さんにはこの程度の味、量では物足りないのではないか、付き合わせてしまって申し訳ないと思いつつ、自分は満腹になった。

 夕食の帰りに、「文昌閣と甲秀楼」という観光名所(写真11.3-7-11)に立ち寄った。いずれも自分がリクエストした観光名所ではなく、駱さんが事前調査してアレンジしてくれた所であったが、夜景の美しさを堪能させてもらった。

 文昌閣は明の時代の1609年に造られた図書館で、高さは20m、3層で9角形の建物になっている。ということをこの稿を書くために他人の旅行ブログを見ていて分かった。

 一方、甲秀楼は、その昔、貴陽は風水が悪く科挙の合格者が少なかったので、その貴陽の風水を良くするためこの楼閣を建てられたのだそうだ。
また、甲秀楼には、歴代の文人が残した漢詩、対句、石碑などが残っていて、文物陳列室には書が壁に沢山並べられ貼られている、とのこと。以上他人のブログ「maple」を引用させてもらった。

 甲秀楼は貴陽市内を流れる南明河の上にあるが、その上に架かる橋から見た夜景は秀逸であった(写真11.3-7-12〜〜-7-15)が、明るい時に見れる「文昌閣と甲秀楼」は、より中国的で、文化の香り豊かな名所に違いない。

 そうした感懐は後の祭りであった。今回の中国旅行のテーマは、「河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅」としたので仕方無いことであったが、いずれ雲南省、重慶市をセットにして再訪したい思いに駆られている。

 「文昌閣と甲秀楼」は参観無料らしいが、時間が遅く、閉館後で参観できず、外観のみ見たのと、夜景を楽しませてもらったことで済ませ、ホテルに戻ることにした。

 途中まで南明河に沿った河岸路を歩いたが、河岸の至る処で、老若男女の多くの人たちが集い、歌や踊りに興じていた。

 『天に極楽浄土あり。地上に蘇州と杭州があるが、気候の良さと言えば 貴陽以外にない』と言われているそうだが、11月に入っても確かに寒さは全く感じなかった。

 10分近く歩いただろうか、ホテルに着いた。
     本稿  完       つづく







2016/02/21 0:17:39|旅日記
黄果樹大瀑布景勝区 その二 黄果樹大瀑布景勝区

11.第5日(2015.11.3)
   黄果樹大瀑布景勝区 その二 黄果樹大瀑布景勝区後半

 そして、黄果樹大瀑布景勝区へ。その入り口に「黄果樹国家重点風景名勝区」と緑色に刻まれた石碑のある処(写真11.3-4-1)で、駱さんが、「入園チケットを買ってくるので、そこで待っていて下さい。」とのこと。待っている間、入り口にある園内案内図(写真11.3-4-2)と、観覧時の注意事項が書かれていた看板があり、注意事項は中国語の他、英語、日本語、ハングル文字でも書かれていた。

 駱さんがチケットを買って戻ってきたところで、石碑の前で写真(写真11.3-4-3)を撮ってもらい入園した。いきなり瀑布が見える訳ではなく、先ずは植物園があった。そして最初に目に入ったのは赤いカンナの花(写真11.3-4-4)だった。更に進むと、南国の花ブーゲンビリアのピンクの花が咲いている。駱さんがポーズを取ってくれ被写体になってくれた(写真11.3-4-5)。

 貴州省は雲南省に接し、緯度は沖縄と同程度の温暖地域である為、11月に入ったこの季節でもブーゲンビリアの花姿が見られるのであろう。その気になって、まわりの植物を見回すと、棕櫚などの、日本では沖縄で見ることの出来る植物が青々と茂っていた。竹はもともと南国の植物であり、この植物園のあちらこちらで見られた。写真(写真11.3-4-6)の竹は観音竹か。

 そして、少し行くと木々の隙間から、やっと滝の姿が見えた(写真11.3-4-7)。不思議なことに滝が落下する角度が、少し眺める角度を変えただけで変化するのである(写真11.3-4-8)。見る位置が少し高くなると、滝が落ちる前の川の流れの部分が見える(写真11.3-4-9)。更に行くと、ポインセチアが群生しているところに出くわした。ポインセチアの赤が滝の光景を引き立てているように見えた(写真11.3-4-10)。

 そして、川面に近い位置まで降りてきた。滝を見るための観覧台が少し突き出した様に配置しているので、滝と川をセットで良いアングルで撮ることができる(写真11.3-4-11)。その為か、多くの人が同じ方向にカメラを向けてシャッターを切っている(写真11.3-4 -12)。

 一群となった観光客が居なくなってから駱さんも落ち着いてスマホで写真を撮っている(写真11.3-4-13)。川面を眺めると、川面はエメラルド色に染まり、その向こうに見える滝は水しぶきに煙っていた(写真11.3-4-14)。

 今にも雨が降ってきそうな曇天だが、晴天であれば、この川と滝はどのような表情を見せるのだろうか。

 滝にもっと接近するために、一時的に少し遠ざかり、橋を渡る必要があった。そこから写真を撮り(写真11.3-4-15、-4-16)、吊り橋(写真11.3-5-1)を渡り、滝がある側の岸に移動した。吊り橋からは滝は隠れてしまい、滝の姿は確認できず、近辺に漂う水煙のみが見えた(写真11.3-5-2、-5-3)。

 そして、細い道を更に先に進むと、再び滝の雄姿が見えてきた。又、歩を止めて滝を観ている人が増えてきた。滝を背景に、写真を撮る人も増えてきた(写真11.3-5-4)。

 更に滝に近づくと、滝は複数の滝筋からなり、岸壁の穴から滝糸が湧き出ているなど、遠くからは確認しきれない滝筋が見えた(写真11.3-5-5)。自分がその一人と化し、駱さんに写真を撮ってもらった(写真11.3-5-6)。そして、滝の裏側にある岩壁にすぐ傍まで近づいたところに「睡蓮洞」と朱書きされた石標(写真11.3-5-7)が目に入った。

 「睡簾洞」とは、孫悟空が三蔵法師の弟子になる前の話に出てくる猿達の住処で、先ごろ悟空が海のお宝−如意金箍棒を持ち出した顛末を小猿達が面白おかしく再現してお祭り気分に浸っていた頃、天界では龍宮・地獄を大混乱にした悟空を罰して欲しいとの懇願に天の帝・玉帝は悟空討伐を計画する。

 しかし、相手は下界の猿とは言えども仙人の元で修行して神通力を身につけた猿王−孫悟空。目の届く天界に呼んで手懐ける方が得策と、太白金星(李長庚)は悟空を迎えに降臨する。言葉巧みに天界へと誘われた悟空は、小猿たちに留守番を言いつけて觔斗雲に飛び乗り天へ昇る。

 そこで「弼馬温(ひつばおん)」の役職に任命されて仙人の仲間入りとなった悟空は、意気揚々と御馬監(おうまや)にやってくる。天の荒馬さえも乗りこなし、役職に励む悟空だったが・・・。
 自分が馬の世話番に過ぎないことを知り、怒り心頭に発して大暴れ、花果山に帰って行く。孫悟空が天界で那託に敗れ、戻り来たところが、花果山で猿たちの住む郷里への入り口が、滝の後ろ側にある「睡蓮洞」だった。

 滝に接するほどの近さで、水しぶきがかかっても良いようにと駱さんが準備してくれた雨合羽を着込んだ(写真11.3-5-9)。そして、完全に滝の裏側に位置すると、滝筋の間から向こう側の景色が見えた(写真11.3-5-8)。

 滝の裏側に、別世界へ通じる路の入り口があるというところは、世界の古今東西様々な話に出てきて、「裏見の滝」といわれ、日本各地にもある。熊本県阿蘇にある「鍋の滝」、茨城県久慈郡にある「月待の滝」、長野県高井郡にある「雷滝」、岡山県苫田郡にある「岩井滝」はその代表的例と言える。

 滝ハイライトの見学を終え、帰途に就く。駐車場がある高さまで戻るのにエスカレータがあった(写真11.3-5-10)。そのエスカレータの前に、一人の品の良さそうな老齢の男性がいて、何やら駱さんに語りかけている。

 何を話していたか後で聞いてみたら、「お父さんと娘さんのお連れですか?」と聞かれたとのこと息子3名の親である自分にとってはなんとも嬉しい話であるが、重慶に住む駱さんの実父に申し訳ない気もちが湧いた。

 エスカレータを降りると、そこは乾いた別世界の様に感じた。退場門(写真11.3-5-11)を出て駱さんの写真を撮り(写真11.3-5-12)、次の目的地の貴陽市圓通寺に向かう。時刻は、北京時間で午後3時少し前であった。
  本稿  完     つづく