78年前の今日、山形県米沢市小野川温泉で玉音放送を聞いたこと思い出した。遠い昔のことで確かなことは思い出せないが、断片的に思い出す記憶のままに当時の様子を以下に記す。
戦前に東京亀戸の天神様近くの酒屋の長男として、昭和10年5月に生まれ、空襲が激しくなり戦車を通すためという理由で強制疎開させられ、東京大島に引っ越した。その時、城東区第三大島國民學校の小学3年生(昭和19年)であった。戦争が激しくなり、東京は危険だということで地方に身寄りのない児童は、学童集団疎開で強制的に地方に移された。第三大島國民學校の児童283名は、空襲で危険な東京を離れるため山形県米沢市小野川温泉の高砂屋旅館(宿舎)に25名、ほか7軒の旅館に22名〜50名が分散し、終戦を迎えた翌月9月まで学童集団疎開で1年間お世話になった。3年生は最小学年であったため、宿舎(高砂屋旅館)のじっちゃん、ばっちゃんに大層可愛がられ、空襲のない山形の温泉地で食糧は乏しく苦しかったが、楽しい1年を過ごした。勉強した記憶はほとんどなく、野山を走り回った楽しい思い出ばかり印象に残っている。3度の食前に「箸とらば天地御代の御惠み 君と親との恩を味わえ!」いただきます!また、夜寝る前に東京の方を向いて「お父さん、お母さん、先生お休みなさい」と頭を下げ床に入った。午前は宿舎(旅館)で、午後は村の学校を借り授業があったがその記憶消えている。
「守るも攻むるも黒鐵(くろがね)の浮べる城ぞ頼みなる……」「エンジンの音轟々と隼は征く……」「いざ来いニミッツ マッカサー……」など軍歌や軍艦マーチの歌詞を78年経った今でも断片的に覚えていて、上記の歌が口から出る。絵を描くと米軍の爆撃機B29墜落や敵艦撃沈のシーンを上手に描いた。
昭和20年3月9日夜の東京大空襲で東京の我が家は焼失し、両親と二人の弟は、水をかけた布団を頭にかぶり隅田川の言問橋下まで逃げ助かったことを親から後日教えてもらう。
昭和20年8月15日、温泉街の広場に先生、生徒全員が軍人とともに集結し、ラジオから流れる玉音放送「耐え難きを耐え……忍び難き忍び……」を聞き、戦争が終わったことを知る。戦後間もない昭和20年の秋に小野川を去り東京に戻った。山形県小野川に来た時もそうであったが、終戦を迎え東京に帰るときも小野川から米沢駅まで約10qある道を歩いた。
上野駅に着くと母親が出迎えてくれた。両親と弟2人が空襲で逃げ助かった言問橋からほど近い向島寺島町に4人が移り住んでいる我が家にたどりつき、家族全員の無事を祝った。
2023年8月15日