倭国(日本)への仏教伝来の道程(その10)序文(その1と同文) 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。
また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。
そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。
入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、 項目番号 項目タイトル(18pts)、で
大項目内に中項目を 中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
前回までの第一回〜第八回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回:1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
第二回:10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、 11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13) 仏教迫害・弾圧
14) 高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15) 飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16) 前秦の苻堅
17) 中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18) 梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
【阿育王山石塔寺】
第三回:22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26) 中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
第四回:27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞 マニ教
C)トルファン・火焔山
第五回:30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
【六趣唯心】
【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
【東近江市石塔寺エピソード】
【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
【平重盛/源実朝エピソード】
【道元阿育王寺行エピソード】
【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
第六回:33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
第七回:34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
[弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
第八回:36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物(その1)
@).聖徳太子
A)良弁
[飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】
【彫像】
第九回:37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷。浄土思想
A)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
そして、今回
第十回は、以下の項目について紹介させていただきます。
38)末法思想 による民衆の動揺を抑える浄土思想
@)末法思想とは
A)浄土思想
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥】
【良源:比叡山延暦寺の中興の祖】
【平安時代中期】
【空也:踊念仏の創始】
【源信:浄土教の祖】
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【良忍:融通念仏】
【鎌倉時代】
【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
39)まとめ
38)末法思想による民衆の動揺を抑える浄土思想 @)末法思想とは平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著した。そして、その後、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)などが著される。
この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして、下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられます。浄土往生の浄土については前回説明していますので、今回は”往生”の意味についてWikipedia情報を用いて掘り下げてみたいと思います。
『往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。
現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。
化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。
1. 胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
2. 卵生 鳥類のように卵から生まれる事
3. 湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
4. 化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。
天人など極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味』とあります。
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれる事は成仏する事である。
そこから意味が派生して、往生とは仏になる事と考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。中でも老衰やそれに伴う多臓器不全などの自然死による他界を大往生と呼ぶことが多い。
それでは次に末法思想とセットで考えられることの多い浄土思想について、再度振り返えっておきたいと思います。
A)浄土思想阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
『浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り、本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。そしてそれぞれの浄土には主宰する仏がいて、その関係は以下の様になっていると考えられている。』(Wikipediaより)
・阿弥陀仏---西方極楽浄土、
・弥勒菩薩---東方兜率天、
・大日如来---密厳浄土、
・観音菩薩---補陀落浄土、
・久遠実成の釈迦牟尼仏---霊山浄土(日蓮宗)
C)日本の各時代における浄土信仰前回(第九回)、日本への仏教伝来以降、仏教の拡散で後世に名を残した名僧をとりあげましたが、以下では、時代順に現れた名僧を、Wikipedia情報を参考にレビューしてみました。ダブって示した名僧もありますが、子弟の関係も分かるので、再記して紹介したいと思います。
【飛鳥時代・奈良時代】7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られました。
【平安時代】比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。
貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされました。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まったのです。
平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。
【平安時代初期】【円仁:天台浄土教の発祥、「観想念仏行」】承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。
【良源:観相念仏の伝播】良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。
こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。
【平安時代中期】平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。
【空也:踊念仏の創始、社会事業に従事、あ阿弥陀聖】
空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。
【源信:『往生要集』=「称名念仏」】源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。
『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。
986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。
源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。
後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。
この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。
こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。
B)日本の各時代における末法思想【平安時代末期】【「末法」の到来】「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く、中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
【末法:世界の滅亡に恐怖⇒浄土教の急速な拡散 宇治平等院阿弥陀堂建立】
本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。
さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は、本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微については、ともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。
末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。前に記したYouTube番組の「西方極楽浄土」みたいなものか。但し外観だけではなく内観も宮殿のような建物で、鐘楼も全自動鐘撞装置という感じであったが。
この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。
【良忍:融通念仏】良忍(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。
天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。
この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。
【鎌倉時代】平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)
また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。
【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
1181年に比叡山に登る。
1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。
阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し、必ず滅度に至らしめられると説く。
宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】一遍は(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。
その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すら不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
【室町時代以降】【蓮如:一向宗、吉崎御坊、門徒宗】本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。
文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。
信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。
一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。
蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)
その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。(詳細は、本願寺の歴史を参照。)
以上で「倭国(日本)への仏教伝来の道程」については勉強し尽くした感じがしていますが、ここで、これまでのまとめをしてみたいと思います。
39).まとめ❶東アフリカ発祥の二本足歩行人類の祖先は日出ずる方向に安寧の地があることを感じ、そこを理想の地として移動して行く気概がDNAに刷り込まれ、それを羅針盤として今よりもマシな世界の東方を目指す人たちがいた。「今よりもマシな世界を」という願望が、それをかなえる手段として信仰が芽生え、人々のDNAに埋めこまれた。
❷その一つの具体例が古代イスラエル人(ユダヤ人)で、迫害され、国を失った彼らは、彼らのDNAに刷り込まれ、それを羅針盤として、今よりもマシな世界の東方を目指す人達であった。
彼らが立ち寄った中央アジアの大月氏国は姜族の発祥の地であり、周公旦ともども周王朝の建国に寄与した姜子牙(=太公望)や、秦の始皇帝のルーツとなった地であり、中央アジアの大月氏国で、かれらは混血しあったが、彼らのDNAには、日出る地を求めるDNAに、建国や独立思想の精神を高揚させるDNAが組み込まれた弓月君(ユズキノキミ)や東漢人(ヒガシノアヤウジ)と言った、倭国に多大な影響を及ぼすことになる混血種族が形成されました。
❸大月氏国は、インドで発祥した仏教がバーミアンやガンダーラを経て、更にシルクロードに沿って中国北方地域に伝播した中継点となっただけでなく、ガンダーラは仏像美術を最初に開花させた国でもあった。
そして、北伝仏教としては、大乗仏教としての色彩を明確にして、時には、土着信仰である太平道や五斗米道、更にはそれらから発展した道教と言った土着信仰や儒教が時の皇帝と結託した勢力によって、仏教は迫害を受けました。
しかし、これらの抵抗勢力に立ち向かうことのできるアイデンティティをもった仏教は、やがて景教徒やマニ教徒をも吸収しながら、更に東方を目指し、やがて倭国を目指す学僧の増加につながりました。
ぞして、彼らの内の先駆者は倭国への仏教公伝よりも早く倭国に渡って、仏陀の教えを水面下で倭国の一般大衆に伝えていました。一般大衆の中には周公旦や呉の太伯の後裔たちも混ざっていました。
❹中国三国志時代には魏の曹操が、大月氏国王の使者伊存が、『浮屠教』と言う経典を景蘆という人物に口伝したことを聞きかじり、それを契機に、『浮屠教』の流布を魏の勢力拡大に貢献させることを条件に許しました。
魏の後に西晋を建国した司馬懿仲達は卑弥呼の配下の使者と面会し、倭国の国情を聞き、この国こそが以前から聞き及んでいた蓬莱の国に違いないと思い込み、倭国に一種の憧れを持つようになり、その気持ちが彼のDNAに刷り込まれ、彼の後裔である東晋の皇帝一族(全員が司馬姓)にもそのDNAは受け継がれ、さらに司馬一族か否かは推測の域を出ないが、倭国への仏教公伝前に、倭国に非公式に招かれていた司馬達等が倭国の重臣として仏教の受容のお膳立てをしていた。
❺一方、西晋時代以降は五胡十六国時代に突入し、胡族の拓跋氏による北魏が栄えたあと、北朝を統一した前秦の苻堅(ふけん)が、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築き、彼も曹操と同様信仰が国をまとめ版図の拡大に役立つツールということを知っていて、当時高僧と知られた仏図澄や釈道安を参謀に迎え、更には鳩摩羅什までを参謀に召喚し、その勢力を拡大しようとしていた苻堅は前秦の版図を更に東へ広げる為、自ら朝鮮半島で最も中国に近い高句麗を伺い、仏教を版図拡大のツールとして、倭国から依頼されていた聖徳太子の仏教の師としての招来依頼に応える形で苻堅の配下の仏図澄の弟子である高僧慧慈を送り出した。
慧慈は聖徳太子の理解力と研究能力才能に驚き、聖徳太子の著わした『三経義疏』の質の高さに驚き、仏教の師として招いた高句麗の高僧慧慈は任務を果たした帰国時、『三経義疏』の写しを持ち帰り、その内容のレベルに感心し、聖徳太子の資質を高く評価し、「日本に将来国王となる聖人がいる」と報告したとのエピソードがあり、「日本に聖人あり」、との情報流布は中国本土にも伝わり、鑑真の日本行きの動機の一つになったとも言われたのです。
その発端は仏教を版図拡大のツールとするという前秦の苻堅による仏教を版図拡大のツールとする策から生じたと言えます。因みに朝鮮半島では一番最初に高句麗が仏教を受容して、次に百済が高句麗から受容し、最後に新羅も高句麗から受容したことになっています。
❻その他、倭国への仏教伝来ルートとして無視できないのは、大乗仏教に属するチベット仏教や、タイ、ミャンマー、スリランカ等の東南アジア諸国によって受容された南伝仏教が雲南省の一地域で伝播・受容された南伝仏教(=上座部仏教)、そして中国北部より伝播した大乗仏教が混交した雲南省特有の仏教信仰の文化が出来上がり、それが、信仰心旺盛な民による衣食住を支える様々な習慣や技術を包含する文化と共に雲南省を源として長江を下って東シナ海沿岸の港湾都市である蘇州に至り、更には
海路により雲南人がそれらの文化とともに倭国に至り、独自の文化や信仰を展開した、と考えることも自然だと思うのです。
❼そしてもう一つの中国からの仏教伝搬経路として可能性があるのは、雲南省に上陸した南伝仏教が少数民族住地(現在の広西チワン族自治区)、広東省(広州)から福建省(福州)に至り台湾、琉球列島経由で海路倭国に至る経路が考えられるが、そのルートについての情報は見出せませんでした。
❽最後に考えられる仏教伝来のル―トは、❻に記載の東南アジア諸国経由で、雲南省に上陸せず、そのまま南シナ海、東シナ海の海路を経て倭国に至るルートですが、この海路は雨期による豪雨、また台風発生や台風の進路になるので、安全な航海は難しく、そのルートよりは❼のコース、更に好ましくは❻のコースが利用されることが多くなったものと思われます。
❾本回筆頭に掲げた図の様に、以上の中国から倭国に至る仏教の伝播ルートを図に表すと、以下の様になると思います。前記した図に、「春秋時代の周公旦一族や呉の太伯一族の倭国への移住と戦国時代の始皇帝一族と徐福らによる不老長寿薬の探索」についても付記してあります。
❿そして、倭国が「八百万の神」や「神道」といった土着信仰をもちながらも、外来信仰に対し柔軟な体制で受容する風土をも醸成できた要因として、紀元前に倭国に渡来していた、春秋戦国時代の姜子牙(=太公望)の手の者、さらには周公旦の一族の者が、自ら海路倭国へ赴き、黄河文明の産物、例えば「周礼」に記載された儒教の精神を伝え、意図ぜずに、倭国の風土になじませていたことが大きいのだと思います。
⓫恐らく、呉の太伯にも日出る国と見做せる蓬莱の国、扶桑国に対するあこがれの精神をDNAの中にもち続けていたのだと思います。その様な伝承を秦の始皇帝は聞き及んでいて、自分もいつかは日出る国と見做せる蓬莱の国へゆき、不老長寿の薬に出会い、死を恐れずに生き伸びることを夢見たのであろう。
⓬始皇帝は、日出る国と見做せる蓬莱の国に海路で辿りつくには、呉の太伯と同じ経路で行くことが好ましいと考え、北京から呉の蘇州まで舟で行ける「大運河」の造成を、秦国の版図を拡大するという名目で計画したのだろうと思います。
この大運河は空海ら、遣隋使、遣唐使が長安や洛陽に赴くのにも都合の良い水路であり、また逆に中国の仏教僧が、時の皇帝による迫害を受けた時に、迫害地から逃げ延びる水路としても使われたものと思います。そして仏教公伝よりもかなり以前から倭国へ移住した中国人仏教僧がいたと思われます。
第十回 完 第十一回へ続く