倭国(日本)への仏教伝来の道程(最終回)序文(その1と同文) 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。
また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。
そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。
入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、 項目番号 項目タイトル(18pts)、で
大項目内に中項目を 中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
前回までの第一回〜第十回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回:1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河
第二回:10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、 11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13) 仏教迫害・弾圧
14) 高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15) 飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16) 前秦の苻堅
17) 中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18) 梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
【阿育王山石塔寺】
第三回:22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26) 中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
第四回:27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞 マニ教
C)トルファン・火焔山
第五回:30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
【六趣唯心】
【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
【東近江市石塔寺エピソード】
【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
【平重盛/源実朝エピソード】
【道元阿育王寺行エピソード】
【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
第六回:33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
第七回:34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
[弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
第八回:36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物(その1)
@).聖徳太子
A)良弁
[飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】
【彫像】
第九回:37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷。浄土思想
A)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
第十回: 38)末法思想 による民衆の動揺を抑える浄土思想
@)末法思想とは
A)浄土思想
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥】
【良源:比叡山延暦寺の中興の祖】
【平安時代中期】
【空也:踊念仏の創始】
【源信:浄土教の祖】
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【良忍:融通念仏】
【鎌倉時代】
【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
そして今回は
最終回ですが、倭国(日本)のことを取り上げた中国の古史書についてレビューしたいと思います。
39) 倭国(日本)を取り上げている海外の史書
@) 概要 A)『論衡』
B)『山海経』
C)『漢書』
D)『後漢書』
【『北史』倭国伝】
【『隋書』倭国伝】
【『旧唐書』倭国・日本国伝】
【】倭国大乱について【】
【『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)】
【『後漢書』卷85 東夷列傳第75】
【『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭】
【『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國】
【『北史』卷94 列傳第82 倭國】
E)『魏志』倭人伝』『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
F)『晋書』
G)『宋書』
H)『南斉書』
I)『梁職貢図』
【】I.1倭国についての記述【】
【】I.2斯羅国(新羅)についての記述【】
ⅺ)『梁書』
ⅻ)『陳書』
IB)『北史』
【IB.1『北史』倭国伝】
IC)『南史』
ID)『隋書』
【ID.1『隋書』東夷傳】
【ID.2『隋書』タイ国伝】
IE)『旧唐書』
IF)『新唐書』
39)倭国(日本)を取り上げている海外の史書以下仏教伝来とは直接関係ありませんが、海外、特に中国は時々の歴史において倭国(日本)をどの様な国とみていたかについて、Wikipediaから抜粋転記して紹介したいと思います。倭国を日本と呼び方を変えた史書もあります。
@)概要倭の文字の初出は、正史は後漢初頭に書かれた『漢書』地理志(班固)であり、正史以外では『論衡』(王充)がある。『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海の中にあると書いており、『論衡』では、越常と倭が併記され、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連があると推定しているようである。.『晋書』や『梁書』などでは「太伯之後」と記し、倭人が呉の祖である太伯の子孫と自称していたことを記録している。
A)『論衡』中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書、評論書。実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判した。 以下倭国に関する記載にういてレビューしたいと思います。
『周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、周の成王の在位は前1042年〜前1021年とされるが、『論衡』自体はかなり後の前漢の時代の1世紀 に書かれたものである。白雉は食用、暢草(そう)は服用と記されているので、周代には暢草は倭でしか採れない、酒に浸す薬草とされていたと推定される。なお、暢草には、霊芝、ウコン、香花草、等の説がある。』
B)『山海経』中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『倭は燕に朝貢していたと考えられていたことがわかる。ただし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっており、「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。
『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。この黒歯国と倭が関連付けられている記載として、以下のものがある。
参考 扶桑:古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。太陽や天地にまつわる巨木としては若木や建木などが共に記述として残されている。古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬萊山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。
「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという。
C)『漢書』中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『中国正史で倭人の文字の初出は『漢書』地理志である。倭人について有の文字で記されるのは『漢書』が初にして唯一であり、その後の全ての正史では「在」の文字が用いられるので、有の文字は「発見」の意味で用いられ、「在」の文字は所在の意味で用いられたことが示唆される。』
【地理志燕地条】東夷は性質が柔順であり、他の三方(西戎・南蛮・北狄)と異なる。そのため、孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。それは理にかなっている! 楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。 【地理志呉地条】會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云 会稽の海の外に東鯷人有り。分ちて二十余国を為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。会稽の海の外に東鯷人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。
D)『後漢書』『後漢書』東夷列伝の中に倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされている。
「魏志倭人伝」にない記述として、建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。また、安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱(魏志は「倭国乱」とする)についても桓帝・霊帝の間(147年 - 189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。
【『北史』倭国伝】安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国と.
【『隋書』倭国伝】安帝の時(106−125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という
【『旧唐書』倭国・日本国伝】倭国とは、古の「倭奴国」なり
この後は倭国大乱と卑弥呼の記事があり、『三国志』の『魏書』東夷伝の倭人条(魏志倭人伝)に似ているが、大乱の時期を「桓霊間」(桓帝と霊帝の時代)と具体的に記すなど相違点もある。東夷伝にはこの他、『漢書』地理志から引用したと見られる「東鯷人」の記事、『三国志』の『呉書』孫権伝から引用したと見られる夷洲と亶洲(「澶洲」と誤記)の記事もある。
【】倭国大乱について【】 中国の正史、『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)、『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭などに、倭大乱
(『後漢書』「東夷伝」)または倭国乱(『三国志』(魏志倭人伝)、『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭)として、概要次の通り記述されている。
『倭国はもともと男子を王としていた(57年に後漢の都洛陽に遣使して漢委奴国王印を贈られた委奴国王、107年に後漢に遣使した倭面土国王帥升等)。70〜80年を経て、倭国内で大乱(国王の座を争う内乱)が発生した。争乱は暦年(中国正史で歴年とは平均して8年±数年)続いた。邪馬壹国が勝利し、邪馬壹国の一女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。
』
【『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)】『其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国乱(倭国王の座を争う内乱。王位争奪は良く有る事だが、外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)。8年±数年間も相互に攻め合った。そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎ(中国史書では35歳に達すると年長大と表現される)、夫は無かった。』とある。また、
【『後漢書』卷85 東夷列傳第75】桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国大乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、さらに互いに攻め合い、8年±数年も主無き状態となった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共立し、王にした。
【『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭】(後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、8年±数年も相互に攻め合った。そこで、一人の女子卑弥呼を共立して王にした。』 以下の2正史の記述は上記3書の引き写しである。
【『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國】
【『北史』卷94 列傳第82 倭國】E)『魏志』倭人伝』『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』) 中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑倭人条の略称。東夷伝には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。
東夷伝の韓伝冒頭にも倭という記載がある。 韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。
F)『晋書』武帝紀 太康10年(289年)条 この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。倭人については東夷伝と武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人や卑弥呼については書かれている。また266年の「倭人」の朝貢は日本書紀の神功皇后紀に『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致するので、この女王は台与と考えられている。266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したと解釈した一説が提示されている。
G)『宋書』倭国伝 『昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。』
『時の順帝は、上表に応え、詔を以て武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍とした。』
H)『南斉書』列伝 第三十九 蛮 東南夷 『倭国関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく抄録したもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。
479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号を鎮東大将軍に昇格した』
I)『梁職貢図』『梁職貢図』に記された皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子の中に、倭国の記載がある。
【】I.1倭国についての記述【】 倭国は南斉の建元(479年〜482年)に、上表した。
【】I.2斯羅国(新羅)についての記述【】斯羅國は元は東夷の辰韓諸国の中の一小国であった。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に服属し、あるときは倭に服属していたため、国王は使者を派遣できなかったとしている。普通二年(521年)に、募秦王(法興王)が、初めて、百済に随伴し朝貢する使節を派遣した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。
ⅺ)『梁書』 『梁書』によると、僧慧深(けいしん)が普通年間 (520年–527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑国は日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。慧深は、扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里(3000km余、漢代の里 ≒ 434m、以下換算にはこの値を使う)に文身国が、その東5000余里(2200km余)に大漢国があり、大漢国の東2万余里(8700km余)に扶桑がある。日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。
ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した。
ⅻ)『陳書』陳書』(ちんしょ)は、唐の史学家である姚思廉が636年に編纂した史書であり、二十四史のうちの一つである。中国南北朝時代(439年 - 589年)の南朝最後の王朝である陳の断代史である。皇帝・王を中心に記した本紀6巻と、国に仕える家臣や周辺異民族のエピソードが記された列伝30巻からの構成となっており、表や志を持たない。
11世紀ごろ、北宋の史館修撰であった曾鞏らの手によって刊行された。
IB)『北史』【ⅻ.1『北史』倭国伝】『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。
IC)『南史』、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。
【IC-『南史』倭国伝】南史倭国伝では、「倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。」に始まり、「倭国の風俗」、「倭の五王」、「侏儒国・黒歯国・裸国」、「文身国」、「大漢国」、「扶桑国」について記述されている。
『倭国、その先祖の出た場所や所在については北史が詳しい。そこの官には伊支馬があり、次を彌馬獲支といい、その次を奴往鞮という。人々は水稲、紵麻の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。薑、桂、橘、椒、蘇がある。黒雉、真珠、青玉を産出する。牛の如き獣がおり、名は山鼠、また、この獣(山鼠)を呑み込む大蛇がいる。その蛇皮は堅く、叩き切れない。大蛇の上部に孔があり、開いたり閉じたりして、時には光を放つが、その孔の中を射れば蛇は死ぬ。物産はほぼ儋耳や朱崖と同じ。風土気候は温暖、風俗は淫乱ではない。男女は皆、頭に何も被らないが、富貴な者は錦に様々な彩りを縫い付けて帽子とする、中国の胡公頭に似ている。飲食には御膳を用いる。そこの死者には棺はあるが槨はなく、土を封じて塚を作る。人々の性質は皆が酒を嗜む。習俗は正歳(歴)を知らず、多くが長寿で、あるいは八〜九十歳、あるいは百歳に届く。そこの風俗は女が多く男は少ないので、高貴な者は四〜五人の妻、賎しい者でも二〜三人の妻がいる。婦人は嫉妬をせず、窃盗はなく、争訟は少ない。もし法を犯せば、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその宗族を滅する。晋の安帝の時(396−418年)、倭王讃がおり、遣使を以て朝貢した。 宋の武帝の永初二年(421年)に、詔に曰く「倭の讃、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべし」。 文帝の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬曹達を遣わし、奉表して方物を献上した。』
【ID『隋書』】 本紀5巻・志30巻・列伝50巻からなる。特に「経籍志」が名高い。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて勅撰を行った。編纂には顔師古や孔穎達らが参加した。636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻・列伝50巻が完成し、第3代高宗に代替わりした後の656年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成、編入された。
【ID.1『隋書』東夷傳】『隋書』の「東夷伝」は、第81巻列伝46にあたる。この書の中では、当時の俀國(倭国ヤマト政権)と、その王多利思北孤や朝鮮半島にあった高句麗・新羅・百済と琉求について記述されている。記述の順番は高句麗・百済・新羅・靺鞨・琉求・倭国である。
俀(倭)に関する記述では、腕へ刺青を行っていたという風俗に関するもの、また聖徳太子が仏法僧を隋へ留学させたことなどが言及されている。
【ID.2『隋書』タイ国伝】「隋書」では、他の書に見られる「倭国」のことを「タイ国」(タイ=にんべん+妥)と書いている。これは「壹=倭」、「大倭=臺=タイ」ということである。
同書に「日出ずる処の天子、云々」の「対等外交」の記事があるのに、「日本書紀」の聖徳太子の記事には「東天皇、敬みて西皇帝に白す」とある。これは両方の記事が同一でないことの何よりの証拠である。またこの書は、その記述からして、後漢の光武帝の金印、卑弥呼、倭の五王、そして「日出ずる処の天子」が、全て同一の国の歴史であることを証明する史料でもある。つまり1つでも九州のことであれば全て九州ということなのだ...
以下、この史書に対する解釈の仕方を詳細に記した記載を見つけたが、長文であり、「仏教の伝播」には関係ないので、割愛します。
【IE 旧唐書】「日本」の名称を最初に記載した史書
旧唐書には日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があったりした。
そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する。大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。
【IF『新唐書』】670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述があります
『新唐書』巻二二〇、東夷日本伝に『咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名、更号日本』とあり、咸亨元年すなわち670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述がある『旧唐書』では倭と日本が並立した状態で書かれているが、『新唐書』では「日本伝」としてまとめられている。
隋の開皇末に天皇家の目多利思比孤が初めて中国と通じたと書かれている。そして、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている。出典は示されていないが、宋史日本伝の記事から、東大寺の僧侶「然が宋の太宗に献上した『王年代紀』を参照したと考えられている。以上のとおり天御中主から彥瀲までの32世、天皇は神武天皇以下皇極天皇まで列挙されている。またその後には光孝天皇までが詳述されている。
ただし、天御中主から彥瀲までの世数は宋史日本伝では「二十三世」であり、全ての名前が列挙されて数も合っているため、「三十二世」は二と三を取り違えた可能性が高い。『古事記』や『日本書紀』と異なる記事で注目される。また遣唐使に加わった橘逸勢や空海等の名が見える。最後に「邪古 波邪 多尼三小王」について触れられ(時代は明らかでない)、これらは屋久島、隼人、種子島のことともいわれる。なお、唐書を読んだフビライ・ハンは、「日本には金銀を豊富に産出するとある」と書かれていたことから日本に興味をもち、親交を結ぼうとしたが、当時の執権である北条時宗にすげなく断られたことがフビライの逆鱗にふれて、元寇につながったとされる。更に次のような記述もあるとのこと。「古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏。
官には十二等を設けている。習俗は文字があり、佛法を敬う。椎髻で冠と帯はない。隋の煬帝がこれに衣冠を賜う。今、錦綵を以て冠を飾る。衣服の作り方は大変新羅に類似している。腰に金製の花を佩びる。長さ八寸。左右に各数枚。これを以て貴賎や等級を明らかにする。」
中国の代表的史誌(二十四史)とその内容(Wikipedia情報)司馬遷『史記』班固『漢書』范曄『
後漢書』
房玄齢等『
晋書』
沈約『
宋書』
陳寿『
三国志』
蕭子顕『
南斉書』
姚思廉『
梁書』
姚思廉『
陳書』
魏収『
魏書』
李百薬『
北斉書』
令狐徳棻等『
周書』
魏徴・長孫無忌等『
隋書』
李延寿『
南史』
李延寿『
北史』
劉昫等『
旧唐書』
張廷玉等『
明史』
欧陽脩・宋祁『
新唐書』
薛居正等『
旧五代史』
欧陽脩『
新五代史』
脱脱等『
宋史』
脱脱等『
遼史』
脱脱等『
金史』
宋濂等『
元史』
二十四史は清の
乾隆帝によって定められた。
中華民国期に至って、元史を改めた『
新元史』が編纂され、政府によって正史に加えられて二十五史となった。しかし、『新元史』のかわりに、同じく民国期の編纂による『清史稿』を数えて「二十五史」とする場合もあり、一定しない。『新元史』『清史稿』をともに含めた「
二十六史」という呼び方もされている。
また、第二次世界大戦後の1961年に台湾国民政府の手によって『清史稿』を改訂して正史としての『清史』が編纂されたが、北京の中華人民共和国政府は、同書が中国国民党の史観によって『清史稿』を改悪したものであるとしてその存在価値を認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期するため、何度か先送りされている。2019年現在、当年中の完成を見込んでいる。
第十一回(最終回) 完