槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2015/10/04 1:05:49|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて 19.唐三彩 (2015.10.4記)

19. 唐三彩
 
5月3日の最後の訪問先は、同じ河南省巩義市にある唐三彩の窯址であった。最後の訪問先だけあって、時刻は北京時間で、すでに19:00近くであったが,北京よりも西にある分まだ明るかった。

山間地から平地に出て最初に目に映ったのは大きな川(写真5.3-6-1)であったが、おそらく黄河の支流の黄治河か、洛陽の雲崗石窟寺院前にも流れている白河のいづれかであろう。

市街地に向かう郊外の道路脇にはスイカを小型トラックーに乗せて販売しているところ(写真5.3-6-2)が目に入った。この地域は温暖で、この時期(5月初め)に既にこの大きさのスイカが取り入れできるのか、あるいは、前年度取り入れしたものを地下倉庫で保存して、この時期に取り出して販売しているのかはわからないが、日本ではまず見ることのできない光景であった。

 市街地に入ると、時間的に勤務からの帰宅時間か道路は渋滞していた(写真5.3-6-3)。河南省鞏義市市内は人も車も多いが、少し郊外に出ると、道幅は広くゆったりとして、道路の両側には20階以上の高層住宅が建っている(写真5.3-6-4、写真5.3-6-5)。

 高低の変化もあり(写真5.3-6-6)、道路そのものが観光対象になるのではないかと思えるほど見晴らしが良く、解放感がある(写真5.3-6-7)。国土の広い中国ならではの光景である。

 郊外では高層の住宅用団地が見えた。この様な交通路を時間にして車で約40分程度走り、河南省鞏義市郊外にある小黄冶という地域に至った。

 奈良文化財研究所では2000年度から河南省文物考古研究所との共同研究を進めていて、2000〜2004年度の第T期共同研究では河南省鞏義市 大・小黄冶、白河村に所在する窯跡の調査によって唐三彩の窯跡、工房跡、関連遺構を発見し、中国十大発見にも選ばれる成果を挙げた、とウェブ報告している。

 更に、唐三彩とは素焼きの陶器に緑、白、褐、藍色の鉛釉を施して二度焼きした装飾性の高い焼き物で、唐代(A.D.618〜907)に発達し、朝鮮半島や日本の陶磁にも少なからぬ影響を与えている、と研究成果がウェブ(以下)に公開されている。

  http://www.nabunken.go.jp/contents/asia/china/3-1.html

 それによると、
 「日本でも遣唐使が持ち帰ったと思われる唐三彩が宮都や国府、寺院を中心に出土している。鉛釉陶器は、7世紀後半代の日本に朝鮮半島から生産技術が伝わり、緑釉陶器として生産が始まった。」とのこと。

 その遣唐使が、洛陽に隣接し、より日本に近いこの地に立ち寄り製造技術を習得し、緑、白、褐色に塗り分けた“奈良三彩”と呼ばれる鉛釉陶器に影響を与えたことは明らかである。

 更に、小黄冶の窯跡は黄治河の河岸段丘上に立地すること。また、小黄冶V区の調査で見つかった唐三彩を焼いた窯で、小規模で奥に煙道をもつ。手前が焚き口、と窯址のあった立地と窯の写真を添えて説明している。しかしこれらの写真と今回目に映った光景とは大きな隔たりがあり、中国の急速な発展の陰に隠れてしまったのだろう。

 眼に入った“黄冶窯址”はそのように書かれた石碑(写真5.3-7-2)と、現代風陶磁器工場群で(写真5.3-7-1)、古窯址の雰囲気は殆どなかった。

 石碑の傍らには、おびただしい数の、釉が施されていない陶磁器の不良品が積み上げられていた(写真5.3-7-3)。

 工場の煙突は高く、工場の裏山の斜面に露出している土色はその煙突と同じ色であり、明らかに鉄イオンを含んだ色であった(写真5.3-7-4)。そして、工場も同じ色の、れんが作りであった(写真5.3-7-5)。これらのレンガは夕陽に染まり、赤さを増して見えた。

 以上で5月3日の予定は全て終わった。一挙に洛陽市の隣接市である鄭州にある最後の宿泊予定ホテルに向かった。翌朝の鄭州発の中国国内便で北京に向かい、その日のうちに北京から成田へ帰着した。

「日本人のものづくり文化の源流を求めて」 完







2015/10/02 22:03:00|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて 15.洛陽老城、16.光武帝陵、17.漢献帝禅陵(5月3日)

15. 洛陽老城

洛陽で一泊した翌朝8:30頃ホテルを出発。中州路(写真5.3-1-1)を経て、最初に向かったのは、洛陽老城歴史文化街であり、そのように表示された門(写真5.3-1-2)をくぐると、赤い提灯をぶら下げ、店名やキャッチフレーズを書いた旗を立てた店が立ち並び、店の前には自転車が無造作に置かれている(写真5.3-1-3)。

さらに生活空間でもある証拠に、医院や理容店もある(写真5.3-1-4)。理容店のサインポールは日本と変わらない。交通事情や治安があまり良くないのだろうか、パトカーが待機していた(写真5.3-1-5)。

後ろを振り返ってみると、鼓楼がこの老街を見渡すように建っているのが見えた(写真5.3-1-6、写真5.3-1-7)。この老街にある土産物屋で、唐三彩の置物を購入した。一セット6頭の様々な動的なポーズをした馬を形とったカラフルな陶磁器である。現在も唐三彩は洛陽の地場産業として成りたっているのかも知れない。

その通り、この日の最後に立ち寄った小黄冶橋の「唐三彩窯址」近くには明らかに現在の焼き物工場と思える工場群があった。

16. 光武帝陵

今回の旅では、後漢を創始した光武帝と、後漢を終焉させた献帝の陵墓の両者を共に訪問することにした。

今回の中国旅行前後に光武帝に関する小説を二人の日本人小説家のものを読んでいた。前に読んだのが塚本青史著「光武帝」2006.6.15初版発行(講談社文庫)、後に読んだのが、宮城谷昌光著「高原の風」2013.11.25初版発行(中公文庫)で、光武帝陵を訪問したのが2012.5.23、この稿を書いているのが2015.9.22である。

従って、光武帝に関する事前の基礎知識は、塚本「光武帝」によるところが多かった。しかし、主役の光武帝劉秀の人物像が良く見えなかった。また、劉秀は昆陽の戦いで、十倍以上の兵力の新帝国軍を破るのだが、それに至るまでには、連弩という武器の大量使用、赤眉軍の暗躍、呂母の乱の勃発のトリガーとなる社会環境、衛生環境を描き、これらの出来事が、劉秀を大将の器に持ち上げるのに追い風となったように描いている。

それに対して宮城谷「光武帝」は、光武帝自身を取り巻く臣下に対する思い遣りや民に寄り添った行動によって臣下に助けられ困難を克服して行った結果、漢の再興に成功したように描かれている。

実際には両者は実は両輪として重要であり、常に両輪がともに脱輪することなく同期して回転していたのであろう。ただ、宮城谷「光武帝」で強調されている「逆転の発想」と「徳をもって怨みに報う」という思想は、歴史を作る人物が持つべき資質として大いに納得できる。

ともかく眼の前に現れた光武帝陵(写真5.3-2-1〜写真5.3-2-2)は広大で、いかにも中国の歴史を創った人物の陵墓と言える。

時間がまだ早かった為か、観光客の姿は他に殆ど見えず、それが、ますます陵墓の広大さを印象付けた。100m以上はあると思われる参道(写真5.3-2-3)を歩いて行くと、朱色と白からなる通り抜けができるレンガづくりの門扉(写真5.3-2-4)が現れ、門番兼入場券売り人と思われる4人の男が椅子に座って待機している(写真5.3-2-5)。

門をくぐると、ちょっとした広場があり、そこには獅子の石像、「中興世祖光武帝墓」と彫られた墓石と、その前に線香を燃やす御影石でできた線香台が置かれ、更にその手前には座して参拝できるように3枚の座布団が置かれていた(写真5.3-2-6)。

また墓石の両側には、光武帝紹介の石板(写真5.3-2-8)が配置していたが、殆ど何が書いてあるか判読不可能であった。さらには中心部に貫通穴の開いた大きな石製の円板(写真5.3-2-7)があり、何やら刻書されているようだが、更に判読不可能で、何に用いられたものか、光武帝との関りも全く分からなかった。

そして、更に奥に進むと、土がドーム状に盛られ、全面草に覆われた円墳の様なところが現れた(写真5.3-2-9)。地面にはあちらこちらに枯れた柏の葉が掃かれずに残っていた(写真5.3-2-10)。

日本では柏というと他の樹木を言うのだが、中国では日本で檜と呼んでいる樹を柏と呼び、神木として大切にしているのだそうだ(写真5.3-2-12〜写真5.3-2-14)。

幹の途中に大きなコブのある大木は如何にも神木の雰囲気が感じられ、そのような貫禄のある柏の樹には、柵で囲いを設けられたり、赤い布が巻かれていることがある。そして円墳を覆っている青々とした草には黄色い清楚な花をつけて咲いていた(写真5.3-2-11)。

そして墳墓に設けられた石段を登って行き、暫く歩くと、収蔵館の様な建物(写真5.3-2-18)が現れ、中に入ると、目立つ色の服装をした光武帝劉秀の臣下や武将だったケウ、朱佑、任光、フウ異、呉漢、等の人物塑像や石像が陳列されていた(写真5.3-2-15〜写真5.3-2-17)。

その収蔵館を出て。また先ほどの門扉を出て、幅が広い参道を戻った。陵のすぐ前に食堂があったので、羊肉そばを食して昼食とした(写真5.3-2-19)。

光武帝が活躍したのは、出身地の南陽ではなく洛陽で、洛陽にある光武帝陵は出身地とは比較にならない壮大さであった。

光武帝の後漢王朝における治世は、王莽による新政をことごとく廃止し、前漢の政治制度を復活させたことはよく知られたことで、奴隷解放や土地課税率の軽減で生産力の向上と民心の安定に力を注いだ。

また地方豪族の独立の機運を抑えるために中央政府機構の強化を図った。さらには一般農民の徴兵制を廃止し、職業軍人による近衛軍団を組織した。

また、倭国が中国の史書に最初に登場したのは王莽の時代が最初で、倭国の使者が楽浪郡まで貢物を持ってきた。「後漢書」東夷伝の倭の条に、57年、光武帝が朝貢してきた倭奴国の使者に印綬を賜うた、と記録されている。そして、同年死去している。

次の明帝が仏教を西域に求めたのが67年、その仏教が朝鮮半島を経て日本に公式に伝えられたのが538年なので、500年近くも後の話になる。

17. 漢献帝禅陵

後漢の最後の皇帝が献帝である。漢を滅亡させたとして悪名高き霊帝の息子である。魏の曹操に庇護されたが、曹操の傀儡王朝の色彩が濃かった。しかし曹操の死後、跡を継いだ子の曹丕が魏王を襲位し、曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。

この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれたため、献帝を祀った墓陵も“禅陵”と呼ばれているのだろう。死後、蜀からは献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈られ、魏からは、孝献皇帝の諡が贈られた。

献帝は皇帝の位を譲位後、曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、山陽公として山陽公夫人となった曹節(曹操の娘)と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。ちなみに山陽は、河南省焦作市あたりであり、献帝に因む遺跡である山陽故城(写真5.3-3-1〜写真5.3-3-3)に立ち寄った。

この故城の創建は前漢の景帝の時、BC144年であり、代々漢皇帝の血縁者が封じられてきた。観光地としては、荒れ放題で、土が盛られその上に雑草が生えていて、とても故城とは思えない。荒城であった。そこを後にして、次に、車で30分足らずのところにある漢献帝禅陵に着いた。

陵内に足を踏み入れると、最初に目に触れるのは、「漢献帝陵寝」と縦書きして彫られ、周囲がレンガで枠どりされている石碑(写真5.3-4-1)で、右横に小さく「大清乾隆五十二年」の文字が見えた。

そのすぐ後ろに、城壁とその上に城楼が載ったような、模型の様な小さな建造物があり(写真5.3-4-2)、その前には深紅のバラの花が咲いていた。

中には、献帝(山陽公)と奥方の曹節であろう。塑像が二体祀られている。山陽公は黄色いマント(写真5.3-4-4)、曹節は赤いマント(写真5.3-4-3)を羽織っていて、ともに、黄色い幔幕に囲まれていて、それぞれ焼香台がその像の前に備えられている。

地元信仰に支えられて維持管理されているようであり、晩年は山陽公として地元に溶け込んでいたのではないか思うとホッとする。政略結婚で結ばれた二人であり、三国志時代の荒波に翻弄され続けた二人であったが、禅譲の選択をしてよかったのであろう。

その建造物を通過すると、黒い御影石に「漢献帝禅陵」と刻まれた標石(写真5.3-4-5)が現れ、そのすぐそばに献帝についての紹介文が刻まれた石碑があった(写真5.3-4-6)。

更に先に進むと、ドーム状に盛り土された円墳が現れた(写真5.3-4-7)。その手前にはささやかな墓碑の様なものがあるが、何が書かれているかわからなかった。

そして円墳の周りの他の場所には赤い布を被ったレンガ製の小さな祠(写真5.3-4-8)があった。奥方の曹節も合葬されているのだろうか、説明書きがどこにも無かったので真偽のほどは分からなかった。そして円墳の盛り土のふもとには可憐な名前知らずの花がつつましく咲いていた(写真5.3-4-9)。

献帝や、その父霊帝の末裔に関して、日本に関係した興味深い伝説がある。

真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる、というものである。

東漢氏(あやうじ)の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきた事を記している。

系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる。とウィキペディアに紹介されている。また東漢氏の後裔には坂之上田村麿がいて、東北遠征の時に、地元女性との間に多くの子を設けていて、子らは、新しい姓を名乗っている。

そうなると日本全国に霊帝や献帝の末裔がいることになる。この氏族の多くが技能に優れていたこと、すなわちモノづくり文化を持っていたとすると、日本のものづくり文化のルーツは、地域的には河南省北部、時代的には後漢末期ということになる。本稿のタイトルを「日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)」としているのも、もしかしたらその説は本当かもしれないというロマンに満ちた憶測から名付けたのである。

つづく







2015/09/13 18:36:12|旅日記
日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012) 14. 三門峡(虢国(カクコク)博物館、5月2日)

14. 三門峡(虢国(カクコク)博物館、5月2日)
                 〜記2015.9.13〜

三門峡の地名の由来は、伝説によると夏王朝の創始者、禹が神斧を用い、高山を切り開き鬼石と神石で河の流れを三つに分け、「人門」・「神門」・「鬼門」の三つの峡谷をつくったことによる。とウィキペディアに紹介されている。

 三門峡ダムは黄河最大のダムと知っていたが、最初からこれを訪問することは念頭には無かったし、強行軍を避ける為、三門峡市を訪問すること自体、最後まで未定だったのである。

 河南省は逆三角形に近く、その頂点に位置する鄭州、南陽、三門峡を訪問すれば、河南省全域をほぼ歩きつくしたことになる。それを実感するには博物館が手っ取り早く好都合ということで、急遽、虢国(カクコク)博物館をコースに入れた。

 虢国博物館(写真5.2-5-1)は世間を驚かせた周代の諸侯虢国の国王及び貴族の古墳群が発見された中心地に、総合して建てられた虢国文化を全体で表現している博物館ということになっている。

 虢国古墳群は, 中国河南省三門峡市上村嶺にあることから、上村嶺虢国古墳(じょうそんれいかくこくこふん)と呼ばれている。

 ここは、今迄中国で発見された中で最も壮大な規模で、何でも揃っており、順序良く整列され保存状態も整っている前周、春秋時代の虢国貴族の古墳群で。北に黄河をのぞむ台地上にあり,南北 280m,東西 200mにわたっている。墓はすべて竪穴墓で,ほとんどのものが棺槨を有している。と中国の国際観光会社が紹介している。

 副葬品はきわめて豊富で,青銅製の鼎,鬲,げん,き,豆,ほ,斧,戈,矛,剣,鏃,また陶質の鬲,盆,豆,缶などのほか楽器,装飾品,車馬具が出土(写真5.2-5-1~5.2-5-8)していて、1956年から現在にかけて各種類の遺跡800余りが発掘されている。

 出土品は約3万点とのことである。虢国博物館の敷地は100,000平方メートル近く、建造物面積は6,000平方メートル、展示ホール面積は4,000平方メートルとのことである。

 「虢国春秋」、「虢国出土文物展」、「梁姫出土文物展」、「虢国車馬坑展」(写真5.2-7-1〜2.5-7-9)などのテーマホームで構成されている。
 
 ここには全国のより早い、より大きい地下車馬軍陣があり、「中華第一鉄剣」と呼ばれる古剣(写真6.2-5-7)もある。

 虢国(カクコク)は周と同姓(“姫”)の国であり,周の文王の弟虢仲が初めて封ぜられた西虢のほか,文王の弟虢叔の封ぜられた東虢があり,さらにその後の移動によって,南虢,北虢(山西省平陸県)があるとのことであるが、虢国と言えば唐の楊貴妃の姉の虢国夫人の方が有名であろう。キーワード検索をしても、虢国夫人に関する記事が圧倒的に多かった。

 博物館横には、その下に古墳群が埋蔵されていそうな草原(写真5.2-6-1〜5.2-6-5)があり、その途中まで歩み出て草の上に立ってみた。野の一か所に薄紫色をした花を一杯咲かせた樹木が目に入った(写真5.2-6-2)が名前は知らない。かつて、奈良飛鳥路の山田寺跡の草地に立った時の感覚と同じで、背筋を上昇気流が立ち昇ってゆくような心地よい感覚であった。

 ちなみに、この様な体験は、先祖代々の墓を仙台から所沢に移し、少ししてから墓石の周りの草むしりをしに行った時の事、縁石に腰かけ、一休みしているときに、起きたことで、その原体験
を範とした体験を山田寺跡の草地に立った時、そして、この虢国博物館横の草地で体験したのだった。

 それにしても博物館内に展示されている埋蔵墓はレプリカとは言え、生々しい。馬の骨、人骨と凄まじい(写真5.2-7-8)。垂直墓の底にはおびただしい数の中国のお札、コインが投げ込まれている(写真5.2-7-9)。見学していて思わず墓参りの気分になったのだろう。
  この項 完
         つづく







2015/08/30 15:30:38|旅日記
「長江三国志の旅」 その10)杭州西湖湖畔の朝散策(5/27=帰国日)

10)杭州西湖湖畔の朝散策(5/27=帰国日)
 いよいよ「長江三国志の旅」最終日となった。11時頃出発の予定であり、十分時間があったので、おいしいホテルでの朝食後、西湖湖畔の朝散策をすることにした。ホテルとは目と鼻の先にある湖畔は、今にも雨が降りそうな曇天のもと、既に多くの人が観光に、太極拳に、散策に、と思い思いのスタイルで体を動かしている。

 湖面にはいくつかの小型遊覧ボートが浮かんでいる(写真27-1)。湖面は油の様な滑らかであり、彼方に見える朱塗りの柱に支えられた様々な形の瑠璃色の屋根のある遊覧船の船着き場がある(写真27-2)が、さすがに、まだ時刻が早いためか、そこで遊覧船を待つ客の姿は皆無である。その代わり家族単位や数人の仲間で小型遊覧ボートをチャーターして(写真27-3)湖上を遊覧している姿はあちらこちらにみられた。

 想えば、自分がこれほどまでに中国観光にのめり込むことが出来たのは2006年に、JTBの杭州観光がきっかけになっている。その前年にも30人ほどの団体ツアー旅行(JTB)で、上海、蘇州、杭州に来て、この西湖にも来ているが、団体旅行の慌ただしさ、団体客のマナーの悪さ、行きたくもない買い物店への案内、更には春節の真っ最中であり、どこの観光地も人で溢れ、ゆっくりした気分で観光めぐりが出来なかったのであった。

 2006年のJTBの杭州観光も団体ツアー旅行であったが、ツアーに参加したのは自分と、京都大学の先生をしているという一人だけであり、しかもその人は学会に参加する為の目的で学会会場までの案内だけで、その後は他にだれがいる訳でもなく、完全な一人旅観光となったのであった。

 その時のガイドさんが、今回最初から最後までスルーガイドとして付き合ってくれた駱暁蘇さんで、ご主人の張乃寧さんが、その翌年、車でシルクロード観光をする予定だと言うことで、ウルムチ以遠のガイド(駱暁蘇さん)と車(自家用車)の運転(張乃寧さん)での観光に便乗させてもらったのだ。

 以来中国旅行は一人旅に限ると決め込み、日中関係が悪化するまでは年に2回程、一回は中国歴史の旅(特に春秋戦国時代と三国志時代)、もう一回は中国少数民族の旅ということで何年か繰り返していたのだ。その駱暁蘇さんの案内で、小型遊覧ボートをチャーターして西湖を案内してもらったのである。

 その時、西湖の湖面をゆったりとした気分で、観光とリフレッシュを兼ねた一人旅の良さと醍醐味を味わえたことが、その後の中国旅行一人旅に繋がった。そんな想いが走馬灯のように脳内を巡るのであった。

 そして湖畔を少し歩くと、バケツと箒の様なものを持って、石畳通路の上を掃いている仕草をしている人の姿が目に入った。近づいて見ると、持っているのは箒ではなく大きな筆の様なもので、それに水をたっぷり浸みこませ、石畳の升目に合わせて文字を書いているのだった(写真27-4)。

 流石、書画の国である。字体は繁体字で均整のとれた明朝体である。この様なことをしている人を他にも何人か朝散策で見かけた(写真27-5)が、字体は見事な行書の長文であったりもする。自然と、石畳通路を独占することになるが、その周りで見物している人こそ居ても、踏みつぶす人は一人もいない。恐らく他の日の朝には、篆書、金文などが得意な人によって披露されているに違いない。

 西湖湖畔はこの様な“披露文化”の溜り場で、太極拳をする人、ダンスを披露する人、二胡等の楽器の演奏を披露する人、また中には自分の飼っている自慢の鳥を披露する人もいるのだ。

 日本人は披露できる技をもっていても恥ずかしさがあったり、自己規制があり、公衆の面前で技を披露することはプロの大道芸人やプロを目指すストリートミュージシャン程度で、一般の人が自技を披露することは先ずありえない。

 日本人と、中国人の国民性の大きな違いであろう。進取の風に繋がる国民性であり、この国民的な風土が今の中国を牽引しているのではないか、そんな思いに駆られた。自分の得意技は他人に披露する為に磨くのである。

 更に少し歩くと、色がまだ染まっていない紫陽花が見え、その彼方には空色の服を着た高齢者が太極拳を舞っているのが見えた(写真27-7)。そしてその人を取り囲む様に10名ほどの中高年男女がその人に同期させて舞っているのであった。

 そして、行き先のあちらこちらで眼にした柘榴の深紅の花をここでも見ることが出来(写真27-8)たのを最後にホテル(写真27-9)に戻ることにした。

 部屋に戻り、帰り支度をしてロビーに戻ってきたときには、駱さんが既に待機していた。
空港に向かうには少し早いので、杭州一と言われ歩いて行ける距離にある書店に案内してくれた。2006年のJTBの杭州観光(団体ツアー)で杭州に来たときに買い求めた、日本語で書かれた中国民話の小冊子本を無くしてしまい、みつかれば、再度買い求めたい旨、駱さんに伝えていたからである。

 結局同じものは無く、その代わり、「世界少年文学経典文庫 『世界民間故事』」を購入した。また、その書籍店のCDコーナーで中国民歌のCDを購入した。宋祖英「民歌天后」のCDとともに、駱さんの勧めで、彭麗媛の「在希望的田野上」というCDも購入した。彭麗媛は習近平首席の奥方とのことであった。聞いてすぐ馴染めるメロディーは無かったが、中国語が解せれば、きっと詩は素晴らしいのだろう。

 書店から出たら、雨が激しく降っていたが、その中を車がおいてあるホテルに向かって歩いていったが、すぐに雨は上がり、見慣れたパジェロに乗り込み、駱さんの運転で空港に向かった。杭州空港で、土産(杭州特産「黒麻糕」、「海苔香脆片」)を購入し、予定通り、NH930杭州(13:40)−東京(成田17:50)の便で帰国し、「長江三国志の旅」が終わった。

 後日、駱さんからCD2枚(チベット民歌とモンゴル民歌)が送られてきた。パジェロの中でカーオーディオから流れる曲に自分が反応したことと、旅の友として持参したノートPCにコピーしていた中国民歌の曲名を駱さんが見て、自分が好む曲調を理解してくれたためで、カーオーディオから流れていた曲をCDに落として送ってくれたのだ。

 今回の、中国旅行は、駱さん達のおかげで大変楽しく充実した旅となった。謝々!駱さんの都合さえつけば、年二回のペースの中国旅行を続ける気が起きてきた。その為には健康の回復が第一である。次は貴陽あたりか。
    「長江三国志」完







2015/08/15 23:54:18|その他
長江三国志の旅 9)安徽省合肥(その3安徽省博物館:5/26)
9)安徽省合肥(その3安徽省博物館:5/26)

 11:30頃、孟さんの車(写真26-19)に乗り込み、合肥三国遺址公園を後にし、一路合肥最後の観光先の安徽省博物館に向かった。
 
 途中建物の壁面全面が篆文字で覆われた近代的な建物が(写真26-20)あり、その前の道を通過し、合肥三国遺址公園を後にして、約30分後に目指す安徽省博物館に到着した。

 旅行前に調べた博物館の佇まいは如何にも中華風の雰囲気がしたが、目の前に現れた博物館(写真26-21)は、その面影は全くなく近代的な最新の博物館というイメージがした。

 館内に入ると、駱さんが案内カウンターへ行き、館内のガイドを依頼した。孟さんも一緒に見学したい、ということになり、ガイドを含めた合計4人が一団となり、館内を行脚することになった。

 最初は若い女性の館内ガイドだったが、途中から中年の女性に変った。ボランティアでガイドをやっているが、本職は安徽大学文学部の教授をしている、とのことが後でわかった。どうりで、ひとしきり、説明後は、必ず「何か質問は?」となった訳だ。さすが、展示物の説明は詳細の様だが、駱さんは翻訳が大変だったろう。

 最初に目に入ってきたのは、家の欄干や軒下に飾るモニュメントで、その精工さには驚かされるが、それ以上に、描かれている世界が極く普通の人々の生活が生き生きと絵巻物のように彫られている(写真26-22)ことに感心した。

 あるいは天上の極楽世界を表しているのだろうか(写真26-23)、人々(神々)は物を分かち合い、それを出来ることを互いに喜び、感謝している人々とともに生活できる幸せ(神々)を表現しているように見えた。

 あるいは、花が咲き、鳥が飛び、平安で、代わりに働いてくれる馬がいて、誰でも笑顔で暮らせる桃源郷世界を表している様でもある(写真26-24)。登場人物は全員おじいさんであり、満面笑顔である。そういう世の中の招来を祈念して創られたモニュメントの様に見えた。

 更に先に進むと、中国の博物館のどこにでも陳列される磁器製やガラス製の容器(写真26-25、26-26、26-28)や、躍動感とユーモアあふれる陶踊像(写真26-30)があったが、これまで見たことの無い陳列品を目にした。鉄片や鉄帯を使って書や絵を書いたり、描いたりした作品である(写真26-27、26-29)。

 更に、写真は撮らなかったが、埋葬時に墓に納める兵馬俑(戦車、それを曳く馬、兵士)が立体的な俑ではなく、陶板に彫られた平面的な俑であった。これが時代背景によるものか、技術的なものか、埋葬される人物がそれほど大きな権力を持っていなかったからであろうか。
いろいろ疑問を持ちながら見学を終えた。

 合肥南駅まで孟さんに送ってもらい、予定通り15:11頃発の高鉄“和諧号”に乗り 杭州東駅に17:24頃到着(写真26-31)、杭州東駅からは地下鉄(写真26-32)に乗り西湖湖畔広場駅で降車してホテルに帰着した。ホテルでそれまで掛かった全ての費用を精算し、翌日最終日の出発時刻を約し、解散した。
   以上この項 完
     次の項につづく