(十一)飛鳥寺(芙蓉) 飛鳥路最後の訪問先の飛鳥寺についた時は、雨が相変わらず降っていた。駐車場は有料だったが、誰も徴収に来ないので、暫くして門をくぐって行った。
目に入ったお堂はどこの町にもある普通のお寺の雰囲気で、よくも日本を代表する古寺と言ったものだ、というのが第一印象の寺であった。飛鳥寺は今回の大和路の旅で、東大寺、薬師寺と並び、目玉としていた寺であった。
この雨の中、さすがに観光客の姿は他に見あたらなかった。拝観料を払ってビショビショに濡れた靴を脱ぎ、傘を傘立てに突っ込み、左手のそれほど大きさを感じない堂宇に入って行くと、有名な釈迦如来坐像の姿が目に入った。
他に観光客の姿が見えなかったので、釈迦如来の正面から眺め上げていると、説明員が近づいてきて、かつての飛鳥寺は今の地域の二十倍もの広さがあったが、度重なる兵火や落雷によって伽藍の殆どが焼けてしまったこと、しかし、この釈迦如来坐像だけは銅造りだったため焼失を免れ現在に至っていること、この寺は日本最古の寺であり、大勢の渡来人達の技術者集団によってこの寺が建造されたこと、かつての飛鳥寺伽藍は、南に中門を構えた回廊で囲まれた方庭のほぼ中心に塔が建てられ、その塔を囲む様に三つの金堂が配置するという他に例を見ない伽藍様式であることなどを説明してくれた。
金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は推古天皇が止利仏師(とりぶっし-鞍作鳥・鞍作止利 くらつくりのとりともよばれるように,もともとは馬具製作に携わっていた百済からの渡来系氏族の一人)に造らせた丈六(約4.85m)仏。605年に造り始め,606年に完成した、ということ、釈迦如来像が焼失を免れたのは目の前の釈迦如来像のほんの一部で、顔面のところだけ、そのお顔は左右非対象で、見る方角によって、表情が違うように見えるということが事前の予習でわかっていたことだが、その様なことはじ~っとまん前に10分くらい佇んでいないと感じられないことなのだろう。
説明を受けている最中に、数十名の団体観光客がなだれ込んで来た。よく見ると皆自分以上の年配の様で、一部にお遍路さんのような格好の人も混じっている。
この寺は飛鳥寺という古代への郷愁を掻き立てられる観光名所だが、一方で、新西国33観音霊場第9番札所、聖徳太子御遺跡霊場第11番札所 鳥形山・真言宗豊山派・安居院( あんごいん)という名の現在に生きている寺でもあるのだ。その札所巡りの一行なのであろう。
多勢に無勢である。説明員は申し訳ない、という素振りを見せながら、その団体客の方へ行き、説明を始めた。あとで、その説明員はここの住職なのだという推測が強まった。というのは、自分達が一通り種々の古物を見学し終わったころにもまだ説明が続いていたからである。単なる観光案内ではなく、講話も含めて話をしているのだろう。そういう話が出来るのは観光説明員ではなく、寺の住職であるはずと思ったからだ。
飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,蘇我馬子が寺院建立を発願し,596年に創建された日本最初の本格的な寺院で、法興寺・元興寺ともよばれた。
創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だった。 寺域は東西約200m,南北約300mあった。
百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わった。瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていく。
さらに,これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり,各地の寺院造営に関わるようになる、ということも事前予習で得られていた情報である。
飛鳥寺の訪問で、飛鳥路の旅は終わった。そこで、飛鳥路訪問の総括として復習した結果と所感をメモっておくことにする。
残念ながら司馬遼太郎の「街道をゆく 24:近江散歩、奈良散歩」では飛鳥寺に触れられていない。一方最近(旅行に出る一週間前)発刊されたばかりの五木寛之著の「百寺巡礼 第一巻 奈良」講談社文庫刊では飛鳥寺を取り上げると同時に、飛鳥京を、“渡来人の里”と位置づけ、「だから日本発の本格的寺院建立の場所に選んだ」となり、「飛鳥寺は次第に国家の威信をかけた大事業に発展した」ということにもなる。
また、最初に瓦ぶきの建物が出現したのはこの地であり、その技術は渡来人たちによってもたらされたのでありそれが用いられたのが、飛鳥寺であった。それまで家屋をはじめとした建造物の屋根は茅葺か藁葺であったところに突然日の光を浴び燦然と輝く甍の波、空高く聳える仏塔。それを見た飛鳥の人達は驚いたに違いない。
そして、仏教というニューカルチャーの先進性を強烈に印象づけられたに違いないと記述している。そして五木寛之の目に留まった案内板には「視野を遠く放つべし、ここに立ちて見ゆる風景は古代朝鮮半島、新羅の古都慶州、百済の古都扶余の地と酷似しており。・・・・・日本文化のふるさとである古都飛鳥のこの風景には古代百済や新羅の人々の望郷の念を禁じえない」とあったことが紹介されている。
二度と帰れない故郷を思い、出来るだけ故郷に似せて町造りをするという行動は納得ゆく。
それにしても一体誰がこの案内板を作ったのだろう。川原寺跡で、ず~っと遠い南の方角の空に、まるで背伸びするように視線を送っていた「あんたか、台風を連れて来たのは」といっていた人物だったら、その様な口調の案内板を作ってもおかしくない感じが今はしている。
そして、復習の中で思ったことは、(飛鳥寺は)仏教というニューカルチャーの先進性を強烈に印象づけられたに違いないという五木寛之の記述である。
仏教というところを○○に変え、「××は○○というニューカルチャーの先進性を強烈に印象づけ国の進むべき道を示した」、と置き換えて、現代版の××や○○に入る人名や言葉を充てるとしたらどうなるのだろうと思わず考えてしまった。
××に麻生太郎や小沢一郎を充てたとしても○○に当てはまる言葉がみつからない。××に小泉純一郎を入れると、○○に当てはまる言葉がみつかる様な感じがする。
つづく