槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/12/08 16:43:05|旅日記
◆D2(11/2=水)楽山市まで専用車で約3時間40分の移動、午後楽山大仏観光

◆D2(11/2=水)楽山市まで専用車で約3時間40分の移動、午後楽山大仏観光

朝食は駱さんに部屋のドアをノックしてもらって、食堂まで一緒に向かうことになっていた。10分ほどフライイングしたので、客は皆無だったが、バイキング風の朝食を味合うことになった。山椒や香辛料を多用する土地柄、ホテルの朝食が口に合うか心配だったが、思いのほか癖の無い、おいしい料理(写真11.2-1-1)であった。

 部屋に戻り、窓外の景色(写真11.2-1-2)を眺めると、高層ビルと、その後ろかなたに山並みが見える。重慶市は、かつて山城市と言われるほど山に囲まれた地域なのだそうだ。

 8:45蒋さんの車(車種は聞き忘れたが日産車)に乗りこむ。D2の始まりである。乗り込む前に、今回の旅のスルー運転手の蒋さんに手土産を渡した。むろん左ハンドルであり、助手席に駱さん。後部座席右に自分が座った(写真11.2-1-3)。道路は少し靄がかかっている様だ。これが一般的なこの辺りの空模様らしい。高速道路G85をまっしぐら。

 重慶を出発して約一時間後、最初の休憩をとるためにサービスエリアに入り一服することになった。エリアからすぐ傍に野菜畑(写真11.2-1-4)が見えた。ところどころにため池が見える。なので、これを水田というのだそうだ。

 水田というと野菜の水耕栽培を連想するが、そうではないのであり、野菜が植えられているのは水泥田ではなく赤土である。日本で見られる赤土に比べ赤が濃い。赤の正体は鉄分であり、この鉄分が野菜に吸収され、それを人が食すれば、酸欠とは無縁のヘモグロビンを形成し、酸素量たっぷりの健康人が出来るのであろうか。

 サービスエリアの上空は、雲が垂れ下がり、薄暗い。平日ということでもあり、駐車している車も少ない(写真11.2-1-5)。

 再び車中に戻ると、駱さんから柚を手渡された。無論、日本の柚とは全く異なり、巨大サイズのグレープ・フルーツ(ルビー)である。一年前の貴州省観光で高鐵(新幹線)で初めて食し、以来病みつきになったのだ。

 日本には持ち込めないので、せめて種でもと、今回は食する前に種を回収しようと考えていたのだ。長さ11cmの携帯がすっぽりおさまってしまい(写真11.2-1-6)、その2倍近くの直径20cmである。ちょうど今が旬であり、中国のどこに行っても販売されているのだそうだ。

 これが何故日本に輸入されないのか不思議だが、安価な上、食感が良いので、日本のグレープ・フルーツ栽培農家に打撃を与えること間違いない。この種をプロ並みの野菜、果物栽培をしている友人に発芽できるか頼んでみうという計画を旅行前から計画していたので、丹念に食前に種の回収を試みた。

 そして、重慶を出発して約3時間後に2回目の休憩である。Rongxian Service Area(長山)と案内板(写真11.2-1-7)にあり、これを見ると、2つほど前の自貢パーキング・エリアは自貢市にあり、種々の名勝地があり、かつては中国一の良質の塩が取れ、これで設けた富裕な商人が多かったらしい。

 長山パーキング・エリアを後にして、楽山市を目指した。車窓から見える高速道路沿いの景色で、繰り返し現れるのは、まるでお辞儀をしている様な高さのある竹の木(写真11.2-1-8)である。高さのある竹の先端近くで垂れる様に枝垂れていて、いかにも高速道路を通行する車に、「ようこそ、いらっしゃいませ。」と挨拶しているかの様に枝垂れているのである。

 間もなく(現地時間:12:50頃)、楽山市に入り楽山大仏観光地域に入った。楽山大仏観光をする前に、先ずは腹ごしらえである。最初に覗いた店は、駱さんの見立てでは不可で、良い店を探すことにした。自分には可、不可の見極めはつかないが、プロのガイドの駱さんには分かるのだろう。またもや、「ワンタンを食べたい。」と駄々をこねたことが不可の理由になったわけでないことは明白だった。

 そして今度は可と見なしたのだろう。店の目でワンタンの皮にひき肉を詰めるデモをしている(写真11.2-2-1)店があったので、その店の前の野天のテーブルに腰をおろした。まもなく隣の空席には中高年の女性グループが座り、談笑を始めた。

 客の循環が良い=サービスも味も良い、ということで、先ほどの店に比べ格段によさそうなことが自分にもわかった。店の前には肉まんとそれを蒸すセイロが置かれていて(写真11.2-2-2)、寒ければすぐにでも手が伸びそうである。

 そして、予定通りワンタンと豆腐牛肉料理を駱さんと共に食した。通常は、汁に山椒もトウガラシも入れるのだろうが自分の分は共に抜いてもらった(写真11.2-2-3)。味は極上であった。

 時刻は、13:00、いよいよ楽山大仏見学である。まもなく観光案内板(写真11.2-2-4)が見えた。嬉しいことに中国語、英語の他、日本語が書かれた案内板である。それを見ると、今いるところが、長江の支流岷江の南岸に位置している様である。同じ側にある船着き場から観光船に乗り、水上から大仏を拝すことになる。

 観光船に乗って暫くすると、河の東のかなたに楽山市の市街地(写真11.2-2-5)が臨めた。先ほどの案内板には300mとあったが、もっとあるように感じた。船にはライフベストを付けた人で混雑し、殆どの人が甲板の上に上がりカメラを構えている。

 そして、更に進むと三つの島というより岬だろうか、その並び方が、釈迦の涅槃の姿に似ていると言い出した人がいて、その人は、よくぞうまいこと言い当てた、ということで、賞金20万元(約300万円)をもらった、と現地ガイドの さんが説明してくれた。この現地ガイドさんは、なんとなく中国人らしくない面構えだ。少数民族かもしれないが快活さを感じた(写真11.2-2-6)。

そして、間もなく、少しオーバーランした位置になり、赤砂岩に彫られた巨大な大仏の姿が隠れてしまったが(写真11.2-2-7)、その右側の赤砂岩壁彫刻が見えた。赤砂岩に彫られた像の造形が印象的であった。

 楽山大仏の見学の仕方は二通りあり、一つは自分たちがしている様に、岷江の川面に浮かんだ観光船から見学する方法。もう一つは、河岸に沿って歩き、陸から大仏脇の石段を登りながら横顔を拝す見学の仕方である。

『楽山大仏(写真11.2-2-9)は峨眉山地域内の長江の支流、岷江(びん-こう)、大渡河、青衣江が合流する地点にある。
近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像であり、石像である[1]。顔(写真11.2-2-10)は100畳分、岩山を掘り、90年かけて造られた。高さは71メートル。東大寺の大仏の5倍にも及ぶ。当時、多くの大仏が国家によって造られたのに対して、楽山大仏は民衆の力で作られた。

 楽山大仏は、後述の韋皐(い-こう)が編ませた『嘉州凌雲寺大像記』の伝えるところによれば、開元元年(713年)、楽山周辺では塩が大量に取れ、年間の生産高は現在の価格に換算すると1千億円以上でその成功を仏様に感謝したいという気運が高まったことと、当時頻繁に起こっていた塩を運ぶ大動脈である岷江の水害を大仏の力で治めてもらおうという願いから、僧の海通が民衆の布施の下に寺院・凌雲寺に隣接する崖に石像を彫り始めた。

 天宝2年(743年)、海通は大仏が完成する前に亡くなったが、剣南西川節度使であった韋皐が建設を受け継ぎ貞元19年(803年)に完成した。 川の合流地点に工事で出た大量の土砂を投入することにより、川底が浅くなり、海通の意図通りに水害は大幅に減ることとなった。

 完成当時、大仏は「大仏像閣」と称する13層の木造の建造物に覆われ、法衣には金箔、胴には朱色が塗られていた。 さらに、湧水を外に逃がすための排水溝、そして雨水を効率よく逃す溝が掘られていた。 しかし、明代末期に建物は焼失、大仏も風雨に晒されて色が落ち、雑草に覆われていった。』とWikipediaに紹介されている。』と、Wikipediaに紹介されている。

 更に寸法をつけ加えると、肩幅 28.0m、中指(写真11.2-2-8)の長さ 8.3m、脚の長さ 10.5m、眼(写真11.2-2-11)の大きさは7mといづれも巨大である。目に入った巨大な大仏の横の階段から見学している人々が米粒の様に小さく見えた。川の色は、赤砂岩の影響でか緑に乳白色を混合した様な色を呈していた(写真11.2-2-12)。

 水上からの楽山大仏の見学が終り、岸に戻り、東の方向に歩いて行く。目指すは楽山博物館である。道路は蛇が乗っかった様な、しかもいろいろな形状の孔の開いた塀壁を右手に配した赤茶に彩色された舗装道路(写真11.2-3-1)を行く。途中キノコが切り株に生えた榕樹(写真11.2-3-2)が目に入った。キノコの生え方が山水画の様で眼を奪われた。

 先ほどの塀壁の隣には幅広の道路があり、更に先に進むと、その幅広の道路を跨ぐように建っている巨大な赤砂岩製で複雑な彫刻が施された門(写真11.2-3-3)が現れた。通り過ぎて振り返ると、門には、「弥勒世界」、「龍厳国土」の二語が掲げられていた。後者は意味が全く分からない。

 そして、楽山博物館(写真11.2-3-4)に着いた。赤砂岩色の立派な建物であった。建物の前の広場の際にブーゲンビリアの赤い花(写真11.2-3-5)が咲いていた。

 最初に目に入ったのは、赤砂岩の岸壁と、岩肌のところどころに生えたシダの様な草であった。はじめは人工的に造られた造形かと思っていたが、接近して観ると自然の岸壁(写真11.2-3-6)を博物館の壁としてはめ込んでいることが分かった。降雨時の防水は問題ないのだろうかと気になったが、赤砂岩の岩肌を利用しているので問題ないのだろう。

 早速、陳列館へ足を運んだ。他の入館者は一人もいなかった。最初に目に入ったのは、「成世南安」というタイトルの楽山市の地史であり、『現在の楽山市区は漢の時代には南安と呼ばれ.蜀の中でも経済、文化が最も栄えた地区の一つであった。・・・、楽山には、漢代、崖に造られた墓は規模が大きく、数も多かった。出土された文物は、精美であり、全中国でも最前列に挙げられるものであり、人々の裕福で多彩な生活がおくられていたことが伺われる。』とあった。

 そして、陳列品で最初に目に入ったのは、二階建ての建物の副葬品(写真11.2-3-7)であり、被埋葬者が死後も住まいに困ることなく生活できるように、との願望が見える。絢爛豪華な住居というより、静かに安穏に暮らせる住まいという感じである。

 そして、次は、白磁に青い花が描かれた罐と呼ばれる蓋つき容器であった(写真11.2-3-8)。普通は罐は金属製の蓋つき容器で、湯を沸かすやかんなのだが陶磁器でも用は足せる。陶磁器であれば割れやすいが、色彩豊かな模様をつけることができ装飾品としての価値も上がる。

 そして、白磁椀(写真11.2-3-9)等の陶磁器が続き、次に彩釉陶女侍俑(写真11.2-3-10)で、青色釉が施され、唐三彩を連想させる俑である。全員が同じユニフォームを着て、髪型もそろっている。手にしたものはぞれぞれ異なるが、いずれも身の周りの世話に必要な用具を持っていて、何不自由のない生活が死後においてもできることを願望したもので、全員が同じ台座に乗っている。

 以上が屋内での何不自由のない生活を願望したものとすれば、次は、彩釉陶侍俑(写真11.2-3-11)で、屋外の生活に侍る人物俑であり、こちらは全員が帽子を被り、手には何も持っていない。全員が同じ台座に乗っているのは同じである。他にも多くの陳列品が展示されていたが、紙面の都合で割愛する。

 次に向かったのはホテルのある街なかであり、10分程度の処に赤れんが造りの城壁が現れた。城壁の近くに親子で将棋をしているブロンズ像(写真11.2-4-1)があった。近くに母親らしき恰幅の良い女性がにこやかに見守っている。家族の理想的な在り方を描いている様だ。

 更に20分ほど歩いたところに、露店や屋台の食堂が現れた。野菜を売っている露店が延々と続く(写真11.2-4-2)。売られているのは、白菜、チンゲン菜、キウリ、キャベツ、とうがらし、ナスなどで、なんでも揃っている。街路樹は、どこも榕樹(写真11.2-4-3)であり、根っこ以外にも独特の風情がある。

 街なかには雀荘(写真11.2-4-4)もあった。雀卓が3、4台あり、中高年の客ばかりで、女性が半数以上である。民家での麻雀は紙麻雀を見かけるが、さすが雀荘、使われているのは皆、れっきとした雀牌である。

 そして、当然あるべき露店の果物屋(写真11.2-4-5)が現れた。旬の柚(ゆず)、といっても日本で言う柚とはまるで異なり、巨大グレープ・フルーツと言う方が当たっている。特にルビーは乙な味で、すっかり気に入ってしまった。それを知ったガイドの駱さんは、この旅行中絶え間なく、この果物を買い続けてくれる。

 その日の観光予定をすべて終え、ホテル(尚錦翡翠ホテル)に16:30頃チェックイン(写真11.2-4-6)できた。ホテルの部屋(写真11.2-4-7)をチェックし、荷物を置いて、暫く休んでから、夕食を摂りに外へ出た。

 部屋は特別なベッドメイクで歓迎ムードを演出している。トンボと菊(?)の花がタオルを用いて造形されている。このような宿泊者への歓迎は初めてであった。

 食べたい料理はワンタンと決めているので、駱さんはウェブ情報から、該当する店を定めていると見え、躊躇なく決めた方向に歩を向けることが出来た。

 ホテル前の広場(写真11.2-4-8)には車が2台のみで閑散としているが、それが、落ち着いた街の雰囲気を醸し出していた。まだ現地時間17:00前なので空は明るい。振り返りホテル正面の写真(写真11.2-4-9)を撮った。

 なんとホテルの名称に翡翠(カワセミ)の文字がある。無論、バードウォッチングという文化が無い中国においては、宝石の翡翠(ヒスイ)のことである。最近、自宅からのウォーキングで入間川沿いをカメラを持って歩いているが、目的は川沿いに棲息する翡翠(カワセミ)の写真をとることであり、なんとなく縁を感じた。

 そして歩いているうちに目指す料理店に到着した。店内に入ると、壁面にこの店の看板料理の簡単な説明がき(写真11.2-4-10)がされているのが目に入った。そして出てきたのは、たっぷり野菜ワンタン(写真11.2-4-11) であった。ワンタンの具がキャベツに隠れてしまっている。

 これでは味が薄すぎると思ったのか、トウガラシや山椒の混じった香辛料をつけてもらい、それと看板料理の肉料理と、こんにゃくレバーのようなものが出てきた。

 こういう自慢料理のある店に入って看板料理を食さないというのはいかがなものか、と駱さんは思ったのであろう。賛成である。さすがに、こんにゃくレバーは口に合わなかったが、その他の料理はおいしかった。

 そのレストランを出て、ホテル前まで来たら、多くの人が、ダンスをし、歌を歌い、リズム感のある大音声とライトアップが交錯し、賑やかだった。川の方を少し歩いてみよう、ということになり、喧騒の一角とホテルの前を通り過ぎて、岷江に架かる橋の方に向かった。

 橋(写真11.2-4-12)は、カラフルにライトアップされてきれいであった。その割には橋を渡る人も、通行する車も少ない。橋を端から端まで往復し、帰途についたが、橋ではない街路を店舗らしい家屋一軒一軒にライトアップ(写真11.2-4-13)が施され、魅惑的だった。しかし、舗装された歩道には人影が殆ど見かけられなかった。ホテルもしっかり光の化粧をしていた(写真11.2-4-14)。
     D2 完  D3につづく







2016/12/04 23:47:42|旅日記
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7) D1(11/1=火)上海経由重慶へ、重慶Haifu社訪問 重慶宿泊

◆D1(11/1=火)上海経由重慶へ、重慶Haifu社訪問 重慶宿泊

 今回利用する航空便は、東京成田08:55発上海経由重慶15:35着の中国国際航空CA158便である。

 今回も又PC持参で、その為中国専用のワイヤレスルータをグローバルWiFIに予約して、成田の第一ターミナル4F南ウィングで受け取ることになっていた。

 その為、手順として、京成成田⇒成田第一ターミナル下車⇒成田第一ターミナル4F⇒グローバルWiFI受取所⇒中国国際航空カウンターにてチケット入手⇒手荷物安全チェック⇒出国検査⇒デューティフリーで土産購入⇒搭乗ゲートロビーへ、と予定していた。

 ところが、グローバルWiFI受取所のオープンが7:30で搭乗予定時刻8:15まで45分しかなく、土産を買う時間があるか心配になってきた。結局土産を選んでいる時間がなく、同じもの5箱+他の同じものとした。それと家内のお母さん作のハンドクラフトの小物10個程となった。

 今回の旅行では、直前に、重慶にあるHaifu Medical Technology社を訪問することになり、土産を沢山購入することになったのだ。搭乗時刻が少し遅れたので、少し余裕が出来、空港の外の様子を見て、写真を撮った。あいにくの雨で路面は濡れていた(写真11.1-1-1)。

 搭乗してから離陸までは順調で、早起きしたため間もなく睡魔に襲われ飲み物いかが?の巡回に気が付かなかった様で、いきなり機内食という感じだった。

 窓外を見下ろしても、雲海のみで山や海は全く見えなかった。無論上空は快晴であった。食事は最近利用する機会の多いANAに比較すると落ちる(写真11.1-1-2)。食後暫くして、あと30分ほどで経由地の上海浦東空港に到着するというアナウンスがあった。

 間もなく上海浦東空港(写真11.1-1-3)に着陸した。雨は降っていない(写真11.1-1-4)。一度全員荷物をすべて持って降りるのだ。重慶まで行く人はワッペンをつけることになっていて、降機したらすぐのところに係員がいて、そこに一時集合し、点呼をとり、別の航空券をもらい重慶行きの同じ航空機に案内されるのだ。

  その間入国手続きや危険物チェックもあり、途中トイレに行く以外はまったく余裕がなかった。搭乗口が分かっているからトイレに行けるのであって、分かっていなければ係員を見失うことになりパニックになるのが推測された。

  機内に入ると、すでに上海から重慶に行く乗客が乗り込んでいて、成田―上海間の乗客より多い様だ。上海は晴れであるが、快晴とは言えない天気だ(写真11.1-2-1)。待機時間は殆ど無く、間もなく離陸し、一路重慶に向かった。

 離陸後まもなく窓外を見下ろすと、長江と思える大河が流れている(写真11.1-2-2)。長江の蛇行によって眼下に見えなくなることもあるが平均的には長江に沿って、川上の方向に向かう筈である。

  現地時間で14:00を少し回った頃、機内食(昼食)があった(写真11.1-2-3)。機内食(朝食)と似たりよったりであった。ANAに比較すると落ちる、というのが正直な感想である。運賃が低価格なので仕方がないのだろうか。

  そして約20分遅れの15:50に重慶国際空港(写真11.1-2-4)に到着した。なんとなくどんよりした重い雰囲気の空港であった。駐機ターミナルの屋根には重慶の文字が浮かび上がっていたが、全体に褐色がかった雰囲気がした。

  あとで分かったことだが、四川省や接する重慶市は空には深い霧または靄、地には赤土が象徴的な特徴なのだそうだ。入国手続きは既に上海で済ましているので、ここでの入国手続きは簡単で、混雑もしてなかったので、短時間で到着ゲートの出迎え口に至ることが出来た。

  すぐ駱さんの笑顔と運転手の姿を確認できた。運転手の蒋さんは若干28歳。今回の旅のスルー運転手であり、約1000kmの移動を駱さんとともにすべて付き合ってくれるのだ。すぐ手荷物を持ってくれて、専用車へ案内してくれた。

 先ず向かう先は、Haifu Medical Technology社であり、そこの技術者に面談することになっていた。面談することになった経緯は省略するが、旅の疲れが蓄積する前に訪問し、なるべくすっきりした気分で面談したい気持ちがあり、重慶到着日の最初に訪問することにしたのだ。約束は、この日の17:00と決めさせてもらっていた。

 この会社はHIFU治療の医療技術では世界でも先端を行く会社で、胡錦濤や習近平さんも視察に来たことがある企業で、専門病院が同じ敷地内にあり、「中国国立超音波医療研究センター」も同社内にある中国でも先端の医療機器会社なのだそうだ。
 URL:http://www.haifumedical.com/

 受付に面談相手のまずMs. Jenny Zhang(張玲)さんを呼んでもらった。彼女は面談に先立って会社案内をしてもらうことにしていた。入り口ロビーの壁面には壁いっぱいに電光画が模様されていて(写真11.1-番外-1)、「これは何かわかるか?」と聞かれたが、「生命誕生の瞬間」との正解をすぐ思い浮かべることが出来た。

 ちなみにここの社長がこの電光画の前で、何やら話している(写真11.1-番外-2)のも、この電光画が起業コンセプトに関連していると言える。

 ここで製造販売している治療装置は前立腺癌、子宮癌、乳癌の治療を経皮(体を切り開くことなく)非侵襲で治療できる装置なのだ。

 慢性鼻炎(写真11.1-番外-3)や骨髄癌、他の臓器の治療にも有効で、英国やロシアなどの国々でも癌の先端治療装置として導入されているのだそうだ。
  英国BBC放送ビデオURL:   http://www.haifumedical.com/Press%20Release/Video/2013-08-29/104.html

 そして、同社のvice president in charge of technology development and innovation,の林涛さんと約1時間面談し、最後に張玲さん、林涛さんと自分の3名で、スリーショット写真を撮り(写真11.1-番外-4)、別れを告げ、宿泊予定のホテルに向かった。

 ホテルは、重庆市北部新区にある重慶颐和幸福酒店である。受付ロビーには大きな書棚と沢山の書籍が配架されていた(写真11.1-3-1)。何を意味しているのだろうか?チェックイン手続きを駱さんに全て任せ、ソファーに浅くかけてチェックインが終わるのを待った。

 そして、一度部屋に荷物を置き、ホテル内レストランで夕食を駱さんとともにすることになった。雲吞を食べたいと駱さんに希望していたので、他に客の姿が見えないレストランのウェイトレスに有無を聞いたところ、幸い有るとのことだったので、そこで夕食を摂ることにした。

 既に20:30近くであり、丁度良い腹具合だったので、美味しく食べた。写真(写真11.1-3-2)は、駱さんとの二人分を一堂に並べたところである。メニューは最近の中国旅行の定番の雲吞+本場のマーボ豆腐であり、極上のおいしさだった。駱さんは更に香辛料を必要とした。

 そして、部屋に戻り、部屋を点検した。浴槽は無いが洒落て落ち着いた雰囲気の部屋であった(写真11.1-3-3、写真11.1-3-4)。
 本稿完  つづく







2016/12/01 19:28:00|旅日記
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7) ◆はじめに
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7)
◆はじめに
今回の中国旅行の目玉は三星碓遺跡であり、成田からの直行便のある成都市を拠点に、都江堰や三国志ゆかりの地、白帝城を訪問できればと思っていた。

しかし、白帝城は成都から遥かに遠く、武漢に近いことがわかり、車で移動するとしたら、殆ど車漬けの旅行となってしまう。また、重慶市はここ数年、中国旅行で連続してガイドを依頼している駱さんの実家があるところであり、お父さんが今でも暮らしている地であること。表敬して挨拶したかった。
 
 更には、永年研究開発分野の仕事をしてきて、興味を持つ医療機器の企業が重慶市にあることが分かり、そこを訪問するアポが取れたこともあり、更には経由便であるが、成田⇔重慶直行便があることが分かったのである。そこで、今回の旅行の拠点を重慶市とし、重慶市と三星堆遺跡の間にある観光地を訪問することにしたのである。

【旅程】
 D0(10/31=月) 成田にて前泊
 D1(11/1=火) 成田⇒重慶、着後Haifu Medical Technology社訪問 重慶市泊
 D2(11/2=水) 重慶から楽山市へ(約3時間40分) 楽山大仏見学 楽山市泊
 D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓(約2時間30分) 広漢市泊
 D4(11/5=金) 広漢市⇒遂寧市(約2時間25分) 中国宋瓷博物館、霊泉寺 遂寧市泊
 D5(11/6=土) 遂寧市⇒大足(約2時間22分) 大足石刻⇒重慶市 重慶散策 重慶泊
 D6 (11/7=日) 重慶市⇒上海経由成田へ
(濃霧で上海空港から離陸できず、上海で一泊、成田へは11/8=月の着となった。)







2016/09/20 9:41:51|旅日記
龍泉青磁の旅  10.D6(5月29日) 杭州市から帰国の途へ

10.D6(5月29日) 杭州市から帰国の途へ

 まずは、前日の稿で、書ききれなかった分について記載する。
予定通り杭州東駅に到着し、前回同様地下鉄で、西湖近傍の駅で降車して、ホテル「杭州華僑飯店」に行き着く前に、駱さんに付き合ってもらって、夕食をとることにした。ワンタンが食べたいと言ったら、ワンタン専門店に案内してくれた。

 日本では漢字で“雲吞”と書くが、その店では、“錕鈍”という漢字を用いていた。店(「周素珍」)の入り口には「湖州大錕鈍、南潯鹵煮錕鈍」と表示され(写真5.28-4-2)、店内の壁面メニュー(写真5.28-4-1)には計12種の錕鈍料理名が掲示してあった。値段は12元から19元で、平均では14元、日本円で250円足らずの安さであった。

 反対側の壁面にはメ―ニュー記載の一品、一品の写真が貼られていた(写真5.28-4-3)が、どれも同じように見えてしまった。

 また他の壁面には、「珍鮮錕鈍」と右から筆書きされた紙片が貼られていた(写真5.28-4-4)。本稿をかくに当たり、“周素珍湖州錕鈍店”でホームページ検索したところ、インスタグラムに一件だけ投稿されていた。錕鈍の写真と、次の様な紹介がされていた。

 https://www.instagram.com/p/BBUGEjVPMmY/
 「火腿乾貝餛飩這家餛飩店雖是連鎖店,但水準不錯,而且寫明現包現煮,經我觀察,的確言行合一。這裏的餛飩是湖州南潯水鄉口味,不放麻油與糖,只求鮮味。餛飩有十幾種,鮮味最突出的要數火腿乾貝餛飩,以七成五花肉,三成前腿瘦肉為餡,混入火腿碎和乾貝絲,為一粒普通的餛飩搗N不少。這裏的餛飩皮也與眾不同,較厚較韌,口感一流」。

 旅の途中に立ち寄った客の感想だろうが、最後の「口感一流」なる一文は意味が分かった。同感である。

 食べたのは写真5.28-4-5の写真のもので、メニューのどれに該当しているのかは覚えていないが、値段にしては、極上のおいしさだった。
 日本では最近は単独のワンタンというのは無く、ワンタン麺になってしまい、ワンタンだけというのは殆ど食べることが出来ない。中国のワンタンが病みつきになりそうである。

 少し前日分の書き残し分が長くなってしまったが、ここから旅の最終日、即ち帰国日ついての稿とする。

 最終泊したホテルは、杭州を起点とした中国旅行の時には毎度利用する「杭州華僑飯店」であった。ホテルロビーの佇まい(写真5.29-1-1)や、部屋からの景色(写真5.29-1-2)はおなじみになった。

 いつも通り朝食を摂った後。駱さんが迎えに来てくれるまでの間、ホテルの外にある西湖の小雨降る光景を写真に撮ろうとしたが、少し先は雨に煙ってよく見えなかった(写真5.29-1-3、5.29-1-4)。

 そして、約束の時刻AM11:00に、ご主人の張さんともども迎えに来てくれた。杭州市職員の張さんは、最近の平日は、9月はじめに杭州市で開催予定のG20首脳会議の準備で休む暇もないが、日曜日なので空港まで、車の運転の労をとってくれたのだ。

 明るく開放的な張さんは、ともに血液型がB型ということもあるかも知れないが、年齢の差を越えて。一緒にいると楽しい存在である。空港までの車の中で多少でも会話が出来たのは良かった。

 空港に着き、彼らと再会を約し、別れ、所定の搭乗手続きをしてANA NH930(杭州13:40発)の機上の人間となった。東京成田17:50着の予定である。

 杭州空港は、北京空港や上海空港等に比較して喧騒さがなく落ち着いた搭乗が出来るので気持ちが良い。復路は、17Aあたりの座席なので、夕陽に浮かぶ富士山が拝めるはずである。

 離陸すると、あっという間に空港と周辺の家並みは乳白色のベールのかなたに去り(写真5.29-1-5)、間もなく水平飛行に変わり、ベルト着用のサインも解除された。

 なんとなくウトウトし始めた頃、おしぼり、軽いスナック、飲み物の順で出され始め、ついで機内食が運ばれてきた。機内食(写真5.29-1-6)は往きの便と同じ、糖尿病食である。
糖尿病食は特別食で、全てのディッシュに”DBml”とメモされた紙片がつけられている。無論Diabetic mealの略である。隣席は空席なので、通常食との比較はできなかったが、往便の時の比較では大きな差異は無かったように記憶している。

 特別食だからと言って、運賃が高くなるわけではなく、スチュワーデスに特別に親切にされている様で、なんとなく心地よいのである。

 窓の外には高密度の雲海の上をすべるようにして飛行する航空機の翼が見えた。航空機の上空に雲は皆無であり、紺碧の空が心地よく目を刺激する。この飛行高度であれば、到着にはまだ時間はかかると思うと、またウトウトする気分になってきた。

 眼がさめたのは、あと30分ほどで、着陸態勢に入るというアナウンスが耳に入ってきた時で、窓外には高密度の雲海ははるか上空となり、また天気も悪く、残念ながら雲海に浮かぶ富士山の影を目にすることはできなかった。

 その代わり夕陽に染まる、三浦半島あたりや房総半島あたりの景色、あるいは海面を行く舟の姿を見ることが出来た。(写真5.29-1-9〜5.29-1-12)

 そして、間もなく着陸態勢に入り、成田空港に無事着陸した。。

  全編 完







2016/08/31 13:20:39|旅日記
龍泉青磁の旅 D5(5月28日) 景寧県へ中国畲族の村を観光、杭州市へ戻る

9.D5(5月28日) 景寧県へ中国畲族の村を観光、杭州市へ

最初に、前日の分の書き残しについて記す。

 前日最後の龍泉観光は、現在施工中で来年(2017年)オープン予定の「龍泉青瓷文化園」と呼ばれる陶芸技術センターである。

 ここには、中国各地にある著名な青磁窯を、その窯場の代表的技術者ともども招聘し、青磁の拠点とするのだそうだ。見学中、浙江省の役人の視察に行き交った。

 「龍泉青瓷文化園」には、すでに作陶実地体験できるところ(写真5.27-7-1)があり、その入り口には、“青磁体験区”とか、“質量教育社会実践基地”とか、“標準化服務示意○(○は口構えの中に冬の文字)”と、物々しい名称が表示され、そこはすでに先行オープンしているようで、陳さんの案内で、覗いた時は一部の観光客や、おそらく正式オープン後、一般観光客に作陶を手ほどきするインストラクター養成中(写真5.27-7-2)の様だった。

 駱さんから、「やってみたら!」と言われたが、まだ陶芸を始めたばかりの自分にとってはうまくできないだろうと思い、遠慮した。

 この遠慮は後で後悔することになった。青磁用の土だけでも自分の手で触っておけばよかった。

 青磁土は海外持ち出し禁止なのである。青磁用の土を触ってみることなどここでしか、できないのである。

 ところで、日本の窯場は、清水焼、有田焼、益子焼、備前焼、九谷焼、伊賀焼、瀬戸焼など、殆どが地名で表わされるが、中国窯は、青磁、白磁、唐三彩などと陶磁器の製法や特徴別(例:王朝ご用達で“官窯”)いう種別で呼ばれることが多い。

 勿論中国窯のなかにも、越州窯、景徳鎮。天目窯という様に、生産地で表される窯もあるが、地名で表されるのは少ないように思う。この様に地名で表すと、拠点化した時の呼び名に困る。

 したがって日本にその様な拠点づくりをするには、“須恵器系”、“土師器系”とでも呼んで集約するしか無さそうである。

 見学中、目についた箇所を写真に撮った(写真5.27-7-3〜5.27-7-5)。

 壁のてっぺんの縁に陶磁器を並べて配置している光景(写真5.27-7-5)は陶磁器の製作所でよく見かける。このように塀のてっぺんに据えられる陶磁器は壺、花器等の場合より、このようなオブジェの場合の方が多い様に感じる。

 中国の寺院等の屋根の稜線に、天災からの守護神としての神獣を配置した光景を見かけることが多々あるが、それと同じ感覚が入っているように感じた。塀の外からの被災を防ぐ意味合いがあるのだろうか。

 そして、振り返ると大きな煙突が一本(写真5.27-7-6)、そして大きな水車(写真5.27-7-7)が一基「龍泉青瓷文化園」内にあった。水車の動力を何に使うのであろうか?

 「龍泉青瓷文化園」の見学後、陳さんの店で夕食(写真5.27-7-8)を摂り、ホテルに戻った。汗だくだくで、服も汗で湿っていたので、ホテルの部屋に設置されていた大きな扇風機の風を送り、最も湿ったランニングヤツとハンケチを乾かすことにした。

 そして以降はD5(5月28日)の分であり、龍泉市の観光最終日である。宿泊ホテルは朝食つきであったが、そこでは摂らず、駱さんと一緒に町なか(街道沿い)にある食堂で摂ることにした。

 陳さんは青磁の工場を持っている(青磁加工)だけでなく、奥さんの頼朝媚さんと餐炊(食堂)、住宿(旅館)、青磁販売、もやっている。要は、陳さんは街道沿いの宿場町の将来有望な若手事業家と言ったところだろうか。

 ホテルを後にして(写真5.28-1-1、5.28-1-2)、最初に向かったのは、街道(岱垟路)に面した餐炊(食堂)で、そこで駱さんともども朝食を摂ることになった。

 朝食として食した麺(写真5.28-1-3)は中華麺というよりは“うどん”に近いものだった。中国料理、とくに、四川料理や雲南料理に特有な、いまだになじめない風味もなく、おいしく食べることができた。

 そして最後の目標観光地、景寧県にある中国畲族の村に向かう、乗り物は黄さん運転のVW車である。

 途中、往きに通りがかった竹藪の異様な光景が見られるところで、車を止めてもらい、じっくり静止写真を撮らしてもらった(写真5.28-1-4〜5.28-1-7)。

 これほど広範にビニール袋が被されているのは、何か具体的な目的がある筈である。その答えとなるような写真(写真5.28-1-5)が偶然にも撮れていた。ビニール袋に蝗と思われるバッタがまとわりついているのである。

 このビニール袋がなければ、成長中の竹の先端の若葉は柔らかく、しかも味が良いので蝗の絶好のえさとなるのであろう。駱さんも盛んにスマホ写真を撮っていたので、中国でも珍しい光景と言えるのかも知れない。

 再び車に戻り、景寧県にある中国畲族(シェー族)の村に向かう。相変わらず前述の奇景は続いた(写真5.28-1-6、5.28-1-7)。

 途中、いかにも里山風の村(写真5.28-1-8)や、少しばかり街っぽい地点(写真5.28-1-9)も通過し、いかにも山間(やまあい)ののどかな光景(写真5.28-1-10、5.28-1-11)を車窓から見上げながら、なおも先に進む。

 車窓から見上げた光景は、満天の青空とは言えないが、青空に千切れ雲が浮かんだ光景で、いかにも気が休まる光景であった。

 そして竹を見るために小休止してから1.5時間ほど経った、10時半少し前に、目的地の景寧県にある畲族(シェー族)の村のゲート(写真5.28-2-1)にたどり着いた。

 8本の朱塗りの支柱の上に瓦屋根が載っただけのゲートで、壁とか塀という感じが全くない開放感溢れるゲートであった。このような意匠の建造物を現代の少数民族は好むようだ。風雨橋を連想させる。

 ゲートをくぐると、広庭が現れ、その中央に何かを縫っている、あるいは何かを織っている女性のブロンズ像が現れた(写真5.28-2-2)。

 眼を左手に移すと立派な水洗トイレが目に入った。以前の中国では考えられない光景である。大小一対の水洗便座が一つのトイレ室に収まっている(写真5.28-2-3)。

 これでは、大勢が一度に用が足せない。欧米観光客用で、滅多に来ないので、一室で問題ない、と言いたげのトイレ室の佇まいであった。

 そして、今度は、入園チケットを販売している受付口のあるゲートがあり、その前に村内の案内図が表記されている案内看板(写真5.28-2-4)が目に入った。

 よく見ると、中国語の他、英語と日本語(写真5.28-2-5)で説明書きされている。日本文は、以下の通りである。

 『「畲郷の窓」の観光地区は、景寧県大均村、県都まで12kmのところにある。
 景寧唯一のショオ族自治県は、浙江省畲民発祥の地で、古来“浙江省のシーサンバンナ”とか、“華東のシャングリラ”と呼ばれた。
 「畲郷の窓」の観光地区は、大きな均古村と欧江小川を母体として、ショオ族風情を中心に、畲郷に入っては山水、ショオ族風情を体験するのが最良の窓口である。
 観光地区の主要な三つのプレートがある。
 一つ目は参加、鑑賞、ショオ族風情演技、
 二つ目は、たくさんの展覧、ラオカイ風貌を味わって、千年の古樟、龍崗区叠翠浮山祠、ショオ族風情館などの人文の景観を感じる風情演技。
 三つめは「浙江第一流」と呼ばれた浮き傘漂流、その中には「ショオ族風情演技」、最の具特色は、「畲賽受付大」、「畲山火の神祭り」、「畲族の伝統」、「洗濯し水かけ祭り」や「キャンプファイヤ」の五つの項目で構成されて、昼夜通して開催される。』

 この日本語翻訳は意味が分かりにくいところもあるが、大体分かる。

 最初のゲートに戻って、案内看板のあった建屋の全景を背景に駱さんの写真(写真5.28-2-6)と、青空が雲間から覗いた空を入れた全景写真(写真5.28-2-7)を撮った。

 白壁の大きな建物は何かわからなかった。そして少し歩くと大きな樟樹(写真5.28-2-8)が見えた。

 樟は大きく成長するので、少数民族の郷においてはシンボル的な樹になることが多い。この樹もそうだろうか、枝から縄が放射状に垂れ下がって取り付けられているのは何のおまじないだろうか。

 反対側に視線を移動させると、階段状のステージ(写真5.28-2-9)が見えた。多分畲族の民族舞踏でもやるのだろう。残念ながら、何もやっていなかった。

 階段には様々な模様や文言が描かれているが、特に目を引いたのは、鳳凰の絵(写真5.28-2-10)であり、色彩が綺麗だった。鳳凰の絵は異なるスタイルでも描かれている(写真5.28-2-11)ので、畲族の伝説に鳳凰が現れることがしばしばあるのかも知れない。

 そして、この郷内の主な建物の配置図と案内が、中国語、英語、日本語で書かれている(写真5.28-2-12)。その日本語では、以下の様に記されていた。

 『畲族は山の傍に住んで、狩猟、采薪、焼畑農法で生活している民族であり、主に福建、浙江、広東、江西、安徽等の省に分布している。
 景寧県は畲族が浙江省に最初に滞在した地であり、唐代の永泰2年(766年)に雷進裕は族人を連れて福建省の羅源から景寧県に移住してきて以来1200年の歴史を持っている。
 景寧県は中国唯一の畲族自治県で、民族文化は豊富で、多彩である。師から伝承することを通じて、畲族民謡、畲族の三月三日、畲族医薬は、国家級非物質文化遺産と、評定され、畲族の彩帯編み工法、畲族の結婚風俗、畲族服装は、省級非物質文化遺産と評定されている。
 陳列館は、畲族服装区、織物彩帯区、畲族居住区、しいたけと茶の葉区、農耕展示区、生活文化区等の六つの文化展示区に分けられていて、多視点から畲族の文化を展示している。』

 この陳列館(写真5.28-2-13)は“うだつ”で分けられていて、畲族の女性用の色彩豊かな民族衣装(写真5.28-2-14、5.28-2-15)や、織機(写真5.28-2-16)や、農機具(写真5-28-2-17)等の展示を写真に収めている。

 そして、生活文化区と思われる家並(写真5.28-3-1)が目に入った。白壁の上に載っている屋根は中国独特の大きな反りのある屋根ではなく、日本の民家で一般的な、反りのない灰色瓦でできている。

 少数民族には、この形式が多い。そして、干されているのはシイタケであろう。敷面一面に展開されている。

 そして、更に、先に進むと、現在の畲族が生活していると思われる住居が、狭い通路を挟んで高い壁で向かい合って建っている。この家屋と通路の形式は、最近訪問した中国、特に浙江省杭州市近辺の観光地で多く見かけられる。

 その形式に従うとすると、これらの細い通路は、いづれ、小石が敷き詰められた通路に改修されるはずである。

 その一帯から抜き出ると、眼前に川の流れが飛び込んできた。川の色は青緑であり、背面には小高い山が控えている。山間の川にしては、流れが緩やかで、水量も十分で滔々と流れる感じだった(写真5.28-3-8〜5.28-3-10)。

 川の向こうの山を川面に映し出せるほど、川面には波が立っていず、穏やかである。まるで湖沼のようであった。

 少し、奥に進むと、やはり風雨橋(写真5.28-3-11)が現れた。まだ建造したばかりの様な新しさで、生活臭が全くしない。地元住民の両岸をつなぐ通行の利便性や、社交/憩いの場、商いの場ではなさそうである。

 橋を利用している人の姿は、地元民というより、観光客目当ての設備という感じがした。屋根は三層の瓦葺きで、橋には屋根を支える支柱と橋の両端部に欄干と椅子があるだけで、風をしのぐ壁や塀は見当たらなかった(写真5.28-3-13、5.28-3-14)。

 自分の様な風雨橋好みは、風雨橋という設備だけでなく、そこに漂う生活臭をセットで触れ合いたいのだ。この橋から、写真5.28-3-9と同じ方角の写真を撮った(写真5.28-3-12)。少し遠望になったので、川面には山の稜線までがくっきりと映っていた。

 風雨橋の屋根を支える梁に“輂”の文字がブラさがっていた。この文字は陳列館(写真5.28-3-13)の2階の窓枠にも見られた漢字であり、気になっていたのだ。

 読みと意味を調べてみたら、読みは“じゅ”で、意味は、「古代の地球の移動装置」とある。確かに両岸の間を移動するための装置と言えなくないが、もっと深い意味があるように思って止まない。

 橋から反対側の景色を見ると、山並みと住居の様な建物(写真5.28-3-15)がチラっと見えた。この地は山に囲まれた盆地なのだ。確かに夏は暑く、冬は寒くなりそうな地形である。現に6月前なのに夏の様に暑い。

 風雨橋を渡り、少し歩くと自動車道になり、自動車道をまたぐ風雨橋の様な建造物(写真5.28-3-16、5.28-3-17)が現れた。川の上だろうが、道路の上だろうが、そこに佇める屋根を作りたくなるのは畲族の、あるいは畲族にとどまらず中国の少数民族の、あるいは少数民族にとどまらず、中国人全般の潜在的な欲望かも知れない。

 筆者の自宅近くの国道299号線バイパスを跨ぐ橋“あおぞら橋”の下を通行する車の走行を見るとき、この橋に屋根があるとしたらどの様な気分になるだろう。

 特に嬉しい気分になるとは思えない。しかし、橋の下を川が流れているとしたら、屋根付きの橋から一日中川面を眺めていても飽きないかも知れない。

 時刻は昼を過ぎていたので昼食を摂ることにした。最初に歩いた高い塀に挟まれた細い路地に食堂があることを駱さんは調べていたのだろう。その路地に面していた食堂のうち、比較的清潔そうで、料理もなじめそうな店に入り、メニューは駱さんに任せた。

 料理は4品で、おかずはすべて野菜で、トマト、インゲン豆、ホウレンソウを刻んだもの、主食は粥であった(写真5.28-3-18)。

 そして、再び大きな樟樹の前(写真5.28-3-19)に戻り、黄さんと落合い、一路、高鐵の“麗水駅”に向かった。その途中、立派な構えの風雨橋(写真5.28-3-20)があったので、車を止めてもらい写真を撮らせてもらった。地元民用というより観光目当てであることが明確である。

 麗水駅に着き黄さんに別れを告げ、ホームに着いたが、列車は若干遅れているということだったので、待合室(写真5.28-3-21)でしばらく待つことになった。

 しばらく時間があるということで、駱さんがおもむろにリュックから取り出したのは、駱さんに、「中国語で書かれている畲族の民話「天眼重開」に書かれていることを教えて欲しい。」と頼んでいたコピーであった。

 原典は。かつて(前々回の杭州旅行の時)、杭州市の本屋で購入した中国語で書かれた「世界少年文学経典文庫―中国民間故事」のp172〜p180に掲載されたもので、スキャナーでコピーしたものをPDFに変換し、駱さんに添付送信していたものである。

 駱さんは忙しい人なので、この宿題は覚えていないに違いないと期待していなかったのだが、そのコピーを見ながら日本語に分かりやすく意訳してくれた。さすがに義理堅い駱さんである。

 そして、間もなく入線のアナウンスがありホームに向かった(写真5.28-3-22)。そして間もなく高鐵(中国版新幹線)が入線し(写真5.28-3-23)、乗り込んだ。本稿では写真をこれ以上掲載できないので、この続きは、帰国日5月29日の稿の最初に記述することにする。
  本稿 完    次の稿(中国旅行最終日)につづく