| ◆D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓遺跡(約2時間30分) 広漢市泊 〜前編〜
朝食は、この日も駱さんに部屋のドアをノックしてもらって、食堂まで一緒に向かうことになっていた。ただ食堂のオープンは7;00で、食後の薬の服用と休憩の時間に少しゆとりがあった。バイキング方式の朝食(写真11.3–1-1)であったが、ここも味に違和感が全くなく、美味しく食べられた。食後部屋に戻って、外の景色を眺めたが、霧が濃く、高層ビルもよく見えなかった(写真11.3–1-2)。四川省は霧が多いことで有名と、司馬遼太郎 の「街道をゆく 蜀の道」に書かれている。
足元に目をやると、手入れの行き届いた、屋上庭園が見える(写真11.3–1-3)。庭園の何カ所かにはブーゲンビリアの深紅の花が興を添えていた(写真11.3–1-4)。ホテルの裏側で、この様な光景が見られるということは、中国では稀である。ホテル経営者の客に対する、おもてなしの精神が感じられる。
そして8:30にホテルを出て、蒋さん運転の日産車に乗り込み、一路三星碓遺跡を目指した。出発して25分経ち、そろそろ高速道路入り口ちかくで、大渋滞、というより全く動かない。これ以上待っても動く気配は全くない、と蒋さんは、強く感じとったのだろう。高速道路に並行して走っている国道を利用し、いくつか先のインターチェンジから高速道路に入ることにした。結果的にはこれが大正解であった。
国道は山道にもなり、畑に囲まれるところもあるが、いづれにしても、濃霧というか靄がもの凄い。二つほど先のインターチェンジから高速道路に入った。この時、大渋滞の理由が分かった。濃霧による大型車の交通規制をしているのだ。小型車は規制をしていないが、大型車がインター入り口で立ち往生して邪魔しているので、小型車も移動できなくなっているのだった。インターから高速本線に入ってしばらくすると、成都まで100kmの道路標識があった。三星碓は成都の少し先なので、途中休憩しても2時間程度の道のりである。
しかし、相変わらずの濃霧(写真11.3–1-5)である。インターチェンジから高速本線に入って10分弱のところにあるサービスエリア(爽江=ジャージャン)でトイレ休憩をとることにした。ついでに、そこで包装が如何にも中国っぽい土産を購入した。「玫瑰牌=メイグイパイ」という名前で、金釵爽心米花糖という菓子であった。後で味見をしたら日本のおこしと同じであった。釵はかんざしのことであり、花というのはバラのことだろう。
後日袋に記載のホームページにアクセスしたら、重庆市にある江津米花糖有限责任公司という1926年に設立された老舗の企業の菓子製品であることが分かった。この菓子は小袋包装のデザインは極めて中国っぽいが中身は おこし そのものであり、味も日本のものと変わらない。土産にしたつもりだったが、結局すべて自分で食べてしまった。
高速(成楽高速公路)を走っていると、行き先表示が次々に現れる。その中に眉山という地名があった。日本にも徳島県にある地名で、さだまさしの小説名でもあるが、行き先表示に現れた 眉山 はそれとは全く関係が無い。楽山市と成都市のほぼ中間点にある市で、楽山市にも流れていた岷江沿いにある地級市である。
眉山市は駱さんとのちょっとした接点がある。駱さん曰く、「杭州市西湖に蘇提という橋+堤があるが、蘇というのは北宋時代の詩人蘇東坡(蘇軾)のことであり、眉山はその蘇東坡の出身地で、眉山から優秀な進士が多く出ている」とのことだった。自分もこの人物について調べてみたが、驚いたことに水滸伝で最大の敵とされた高俅が一時蘇東坡の配下だったことがあり、その時受けた恩を返すために、蘇東坡の死後、遺族を秘かに支援していたという。人は異なる角度からみると美談の主になっていることもあるのだ。
その後、車中で居眠りっをしていたようだ。気が付いた時は成都にかなり近いところまできていて、またサービスエリアで休憩である。時刻は現地時間で11:45頃である。霧も晴れて太陽が顔を出し始めた様である。但し薄曇りと言った方が正しいだろう。三星碓まで15kmと案内板に記されていた(写真11.3–1-6)。このサービスエリア(写真11.3–1-7)に人は少ない。トラックの駐車が見られないのは、楽山での交通規制の影響か。
そして、三星碓遺跡に最も近い外環高速路の分岐路出口から普通道路に向かった。町なかに入ったのは、恐らく広漢市の中心地(写真11.3–1-8)と思われる。交通量も人も増えて来た。ほぼ正午という時刻なので三星碓遺跡見学前に昼食を済ませることにした。
店は清潔感があり、壁面にメニューが貼られている(写真11.3–1-9)。運転手の蒋さん(写真11.3–1-10)は、チャーハンを発注した。どれもおいしそうだったがワンタンは残念ながら無かったので、ネギとほうれん草を載せた醤油ラーメンとワカメ入りスープ、それに豚足だった(写真11.3–1-11)。
価格は一部の特色料理を除いて、小盛6元(約75円)、中盛7元(約105円)、大盛8元(約90円)で格安である。街なかの店は中国全土似たようなものである。
これまでの中国旅行では、グルメには余り興味はなかったが、駱さんにガイドを依頼する様になってから、店に、トウガラシや山椒を好みの味になる様に調整することを頼んでくれるので、違和感を感じる味にはならず、中国グルメに興味が持てるようになってきたのである。
さて、いよいよ三星碓遺跡見学が始まる。 三星碓出土品を見ることができたのは2回目である。1998年春から初夏にかけて東京・世田谷美術館で「三星碓〜中国5000年の謎・驚異の下面王国〜」という陳列展があり、それを見学したことがあったからである。これまで見たことの無い出土品にどきもを抜かれ、これは地上に降臨した異星人が作り上げた文化に違いないと本気に思ったほどであった。特に目が飛び出た青銅仮面は異様で、眼が飛び出ている理由を知りたくなった。
『紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである[1]。本遺跡は東城壁跡約1100m(ほぼこの延長線上に第二展示館がある)・南城壁跡約180m・西城壁跡約600mが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。
三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、延2000年近く続いた。4期に分かれ、第1期は4800〜4000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。
第2・3期は4000〜3200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。
第4期は3200〜2800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5〜6000m・南に2〜3000mに広がり、総面積約12km2で、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6km2である。』
とWikipediaに紹介され、更に
『三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3、4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を有力に証明してくれる。』と続く。
展示館の前にはとっくに収穫が終わった麦畑が広がっている(写真11.3–2-1)。そして目を遺跡側に移すと遺跡の案内板(写真11.3–2-2)があり、そこに簡単な説明と二号坑発掘現場写真と地図が書かれている。
更に進むと、「20世紀80年代三星碓城墻」というタイトルの看板(地図)(写真11.3–2-3)が建てられていた。この地図を見ると、北に鴨子江という河が配置していて、東西と南にそれぞれ城墻を配置し、それらに囲まれる位置に、三星碓城墻と亮湾城墻の計5つの城墻がある。そして三星碓城墻のすぐそばに、一号祭祀坑と二号祭祀坑がある。
看板のタイトルが、「20世紀80年代三星碓城墻」とあるのは、今後の発掘によってまだ新しい遺構が出てきたり紀元前2000年以前の遺構が発掘される可能性があるという示唆を与えたいのだろう。
この案内板をもう少ししっかり見ておけばよかったと後悔したのは、このあと三星碓城墻のすぐそばの一号祭祀坑と二号祭祀坑を見学した後、博物館に向かうのだが、二通りの道があり、少し遠周りだが、亮湾城墻と西城墻を経て、更に鴨子江河岸を東に向かって博物館に至る路があったのだ。そちらの道から時間をかけても行けばよかったと後悔したのだ。
そして、いかにも祭祀場と思わせる階段があり、登ってゆくと天に近づくことが出来ると、思わせぶりの建造物が現れた(写真11.3–2-4)。無論現代人が最近(20世紀末)建造したものだ。その周りには、たくさんの金盞花(または百日草)らしき花が咲いている。
その階段を上がってゆくと、壇上には、厚いガラス越しに坑が二つ見え、片方には、青銅製の銅器の断片が折り重なるように散在している。故意に破壊しない限りこの様な壊れ方はしないであろうし、この無秩序な散在の仕方は墳墓に埋められる俑とは異なり、悪意を持って捨てられたに違いない。一号坑(写真11.3–2-8、11.3–2-9)に比較して二号坑(写真11.3–2-5、11.3–2-6)の方が沢山の青銅器の断片が折り重なって捨てられている。
二号坑は深さ方向が三層に分かれていて、最上層には象牙が坑全面を覆う様に敷き詰められ、その下に大型の青銅製器物、立人像、人頭像、や尊、罍(ライ)などが置かれ、最下層には、小型の青銅製の部品や樹木。玉石器、子安貝が大量の草木の灰と共に投げ込まれていた、とのことである。
一方、一号坑には、純金を打ち延ばしたもので、長さ143cm、重さ463grの杖があった。杖には精巧な模様が形成されているらしいが、写真に撮ったものには模様はなく、単なるひん曲がった青銅製ではない棒で、面白くない。模造品ということは分かるが、もう少し、らしさ が欲しいものだ。出土された時の状況は、『約4.5m×3.4m、深さ1.5mの坑で、異物の大部分は坑の南半分に集中し、北半部には少なかった。・・・・・。玉石器や黄金の杖に続いて、人頭像や罍(ライ),尊などの大型の青銅器を投入し、次に焼けた動物の骨滓を入れ、最後に土器などを投じたものと推測される。』と朝日新聞社版 「三星碓」に記載されている。
三星碓に関する更に詳細な紹介は割愛するが、今回遺跡のある地に立って(写真11.3–2-7、11.3–2-10)、本著の読み進みが早くなったように感じる。
本稿の最初に、博物館に向かう二通りの道があることを記したが、近い方の道を使って20分ほどで博物館入り口(写真11.3–3-1)に到着した。入館して最初に目に入ったのは「蜀世系表」と書かれたポスター(写真11.3–3-4)である。
ここで、中国の古代文化について年代別、地域別に整理してみる。 【紀元前8000年以前】 黄河(−)、長江上流(−)中流(玉蟾岩遺跡、仙人洞・呂桶環 遺跡)、下流(−)、 【紀元前7000年〜】 黄河(−)、長江上流(−)中流(彭頭山文化)、下流(−)、 【紀元前6000年〜】 黄河(−)、長江上流(−)中流(湯家崗文化、城背渓文化)、 下流(−)、 【紀元前5000年〜】 黄河(仰韶文化)、長江上流(−)中流(湯家崗文化、城背渓文 化)、下流(馬家浜文化)、【紀元前4000年〜】 黄河(仰韶文化)、長江上流(−)中流(大渓文化)、下流(ッ 沢文化)、 【紀元前3000年〜】 黄河(仰韶文化)、長江上流(宝墩遺跡(龍馬古城))中流(屈 家嶺文化)、下流(良渚文化)、 【紀元前2000年〜】 黄河(二里頭文化(夏?)⇒二里岡文化(殷遷都前)⇒殷遷都 後)、長江上流(三星堆遺跡)中流(石家河文化⇒二里頭文化(夏?)⇒二里岡文化(殷遷都前)⇒殷、呉城文化)、下流(馬橋 文化⇒湖熟文化)、 そして、周へと続く。
以上(Wikipedia参照)の内、長江上流の地域に栄えた文化を総称して古蜀文明あるいは四川文明と呼ばれていて、具体的には宝墩遺跡と三星堆遺跡、および金沙・十二橋文化(BC1200〜500年、商後期〜春秋後期)、晩期蜀文化(BC500〜316年、春秋晩期〜戦国期)を指している。
四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていたから、あえて文明という呼び方をしている。そして、三星堆遺跡から出土した青銅縦目仮面(中国語名:青铜纵目面具)が蚕叢の記述に合致したことから、古蜀が現実に存在したと考えられるようになった。
その文明を担った古蜀王朝は、蚕陵⇒柏灌⇒魚烏⇒杜宇⇒開明氏の各世代によって受け継がれた(写真11.3–3-4)のであった。ポスターには各世代に該当する遺跡の写真や記紀も示されていて、現実味が確かにある。
以降は三星碓遺跡からの出土品の内、玉や陶器などである。この内、陶器は構造、模様などによって類別されている。三星碓第二期と三星碓第三期における豆、盆、罐、盉、瓮、器柄など(写真11.3–3-5)である。これらのうち盉と器柄は他と異なり、360度回転対称構造を持っていない複雑な肉厚構造である。また展示されているこの時期の出土品のほとんどが。壊れていて石膏で修復されていた。
そして、次にはこれら陶器の表面に彫られた図柄をポスター展示していた(写真11.3–3-6)。7つの符号があるが、これらの意味はよくわからないが、古蜀文字の原型か?とコメントされていた。
次の写真は大きな盉(酒を入れる容器)とそれを囲む様に同じ形をした杯が展示されていた(写真11.3–3-7)。この盉には注ぎ口と取っ手がついていて、前記したいくつかの符号が彫られている。
次の展示品(写真11.3–3-8)は虎の牙で、装飾に使われたものらしい。端部に小穴があいているので、紐を通し、身につけ、強さの象徴としたのであろう。それにしても妖色である。
そして次の写真は(写真11.3–3-9)は陶三足炊器で下半分は盉と同じ形をしていて、上半分には皿と容器が乗っている調理用具である。三足の間から火をあて煮炊きや炙りをしたのであろうが、どのような食べ物を調理したのだろうか。
他にも多くの写真を撮ったが、紙面の都合上割愛して、使われた道具や陶器以外の出土品のいくつかの写真を示す。陶器以外の材料と言えば石材である。その代表的なものは玉である。玉は陶器に比較して圧倒的に硬いので加工が大変であるがひとたび加工できてしまえば、耐熱性、耐衝撃、鋭利性を実現できるし、うまく加工できれば装飾性も確保できる。j(ソウ)、瑗(エン)、戈(カ)、管(カン)はそれらの特徴を生かした器物である。
先ずは大きな玉石から板状やブロック状に加工することが必要であるが、その加工の痕跡を残した大きな玉石原石の展示(写真11.3–3-10)であった。加工方法は、現代の装置でいえばワイヤソーである。容易には断線しない糸または紐に油に溶いた研磨粉をまぶし、その糸または紐を左右に何度も往復させて、切り溝を垂直方向に深めてゆく工法である。
筆者もかつて電子セラミクスの裁断に用いた経験があるが、切り溝を前後方向にも入れてゆく必要性があったため、ダイシングソーという回転型の刃を用いる加工装置に変更した経験を持っている。
先ずは玉j(写真11.3–3-11)である。高さ7.2cm、口径7.1cmの玉製品で、それほど大きなものではない。祭祀用に使われた玉器で、多くは軟玉から作られた。「軟玉とはネフライト(nephrite)、透閃石-緑閃石系角閃石、化学式Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2で表されるようにCa、Mg、Feを主成分とする鉱物からなる、黄緑、茶色は鉄イオンの色である。
外形は方柱状で、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており、jは天地の結合のシンボルであると一般に考えられている。」とWikipediaに記載されている。
次の玉器は玉璋(写真11.3–3-12)である。木材や土器などを削るときに使われた工具であろう。玉璋は三星堆独特の型式である、先端が戈のように尖ったタイプの玉璋を原型とし、さらにその先端部に透かし彫りで鳥が飾られた精緻な玉璋など多彩であるが、写真のは、この玉璋の両面には刻線で玉璋の図像が描かれており、三星堆出土の玉璋のなかでも非常に珍しいものである。
描かれた玉璋には、実物の玉璋にもあけられる孔が実際にあけられており、造形的にも興味深い。三星堆の社会では、玉璋は重要な役割を担っていたと推測されるが、実物の玉璋のなかにさらに玉璋を描きこんで、その力を倍加しようとするかのような玉璋の存在は、三星堆の人々の玉璋への特別な思いを示すものといえよう。
次の写真は玉管(写真11.3–3-13)で、言わずと知れた装身具である。祭祀に携わった人々の腕や足首に飾ったものであろう。これらのほとんどが紐を通す構造になっているが、紐通し孔をどの様にして穿けたか興味ある謎である。
錐を用いてドリルの様にして孔をあけたことは確からしいが、玉よりも硬い錐材が当時あったのだろうか。Wikipediaに、日本の縄文時代の管玉の場合だが、穿孔の方法について三つの方法があると紹介している。日本にある玉造という地名は穿孔の技術も持っている技術者がいた地域ということで地名が残っているのだそうだ。更に、ドリルの回転の際には摩擦材として硬く微細な砂をまくなどの工夫が施された。 以上本稿前編 完 本稿後編へ続く
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