| 7. D4(5月27日)龍泉宝剣博物館見学。見学後中国青磁小鎮へ
泊:龍泉披雲青瓷主题酒店 住所:龍泉市上垟鎮披雲青瓷文化园景区 TEL:0578-7322000>
「朝食に行きましょう。」との駱さんのドアノックがあり、ホテル食堂に向かった。ここの料理はバイキング方式であり、違和感のあるものはなく、おいしく食べることが出来た(写真5.27-1-1)。
この日の予定は、最初に龍泉宝剣博物館を見学することになっている。黄さんの運転する車は、次第に山道を登ってゆく。山道と言っても、前日の小梅鎮の様な山道ではなく、市街地近くの小高い山の中腹(九姑山公園)といった感じであった。 まもなく(8:30少し前頃)、博物館(写真5.27-1-2)に到着した。博物館正面前には一対の鐘(写真5.27-1-3、5.27-1-4)が展示されていた。鐘が南宋時代の銅鐘ということは分かるが、どの様な理由で、ここに置かれているのかは分からなかった。鐘と宝剣との接点が思いつかなかったのである。
入館して最初に目に入ったのは、欧冶子という人物(後述)の人物像(写真5.27-1-6)である。金庸の武侠小説に登場する武具が展示されているかも知れないという程度の興味があったが、刀剣に対する興味は、殆どなく、予備知識も殆ど無かったので、館内を通り抜けるという感じの見学であった。
それでも、いつ役に立つ情報に様変わりするか分からないので写真だけはこまめに撮った。中国語パンフレットと、館内案内(写真5.27-1-7)によると、この博物館は、皇甫江古代兵器コレクション、周正武捐贈刀剣コレクション、宝剣歴史展示、宝剣鍛製技術展示の各コーナーを1,2階に分けて展示しているとある。
宝剣歴史展示では、最初に、中国歴代王朝に関わる剣の歴史を、“前言”として中国語と英語で、以下の様に紹介している。中国語➡英語➡日本語である、
「前言:中国に於いて、100以上存在する武器の中で、剣は特別で、卓越した地位を占めている。剣は武器として最初に現れたもので、自分の身を守る為の長さの短い武器として現れた。 しかし、剣が持つ機能は、より美しく、また所有する人の好みによって時代とともに変わってきた。「黄帝本行紀」に、「軒轅帝は銅剣を作り、そこに文字を刻みつけるために、采首山の銅を採掘した。」とあるが、これはただの伝説であり、最古の剣は、骨と石で作られている。 しかし武器としての剣が最初に造られたのは銅(青銅)であった。商王朝の中期から末期に於いて現れた青銅からなる剣はアーク状をしているが、これは、北方の遊牧民族が武器としてではなく、牛や羊を屠殺するのに用いられた、と何人かの専門家は考えている。 そして周王朝では、剣の先端部が鋭利となり、武器へと進化した。これが本当の意味での早期の剣の形態と言うことが出来る。そして春秋戦国時代になると、“呉越青銅剣”あるいは“越式剣”と呼ばれる本格的な青銅剣が現れ(戦国策、越策)、武器としての最盛期を迎えた。 戦国時代の秦の剣は長さが長くなり、相手を先に倒すことを可能にした。同時に柄の部分も長くなって、両手で剣を支えることが可能になってきた。 これらは剣の製造技術が向上した賜物であった。これが、青銅剣の最盛期であり、その後鉄剣の登場とともに、青銅剣はすたれてゆくことになる。剣は、西周王朝から春秋戦国時代にかけて、青銅剣から鉄剣への変革を経験することになる。鉄剣に関しては、西漢の時に大量に使われ、青銅剣から完全に置き換わってゆく。以降、剣は武器という本来の使い方から、その機能(役割)の変化とともに、垢ぬけてゆき、華美となっていった。」
皇甫江古代兵器コレクションに属する刀剣を、写真5.27-1-7〜写真5.27-1-20に示す。中には、なぎなたの様な剣(?)(写真5.27-1-16)もあった。
皇甫江についての紹介がパネル展示されていた。それによると、「1968年の生まれで(ということはまだ40歳台?)、北京大学で法学を学んだ。自らを抜刀斎と号した刀剣収集家で、「中国刀剣」という著書がある。龍泉宝剣博物館の名誉館長である。
収蔵している古宝剣は5000本に達する。・・・・。」とあるが、その若さで、コレクションの資金はどうしているのだろうか?
宋の司徒に、皇父充石という人がいて、この皇父充石の子孫が皇父氏を名乗り、前漢のときに皇父を皇甫に改めたといわれているらしいので、もともと皇室に連なる家系であり、コレクションに情熱を傾けるだけの財産のあった人なのだろう。
また、龍泉剣の歴史について紹介されているポスター・パネルには、「龍泉剣の歴史は春秋戦国時代の末期に始まる。据<<越絶本>>に、次の様な記載がある。
『欧冶子と干将は、龍淵、泰阿、工布と呼ばれる三本の鉄剣を作るために山へ鉄を採りに行った。(龍泉の原名は龍淵で、鉄剣を得て以降、唐の時代までは淵が用いられていて、そののち龍泉に改名された。) 欧冶子と干将が秦渓山の麓で剣を鍛造したのが中国鉄剣製造の始まりとされている。それ故、龍泉の地名が広く知れ渡り、“龍泉”が鉄剣の代名詞となった。
そして、欧冶子が剣を鍛造した秦渓山の麓にある湖は“剣冶湖”と言う名前が付けられ、宋の時代には湖畔に“剣子閣”があり、清の時代には“剣池閣”、“七星井”があったが、惜しくも毀された。 北宋の翰林学士兼史観修撰担当の楊〇(〇は人偏に乙)は、<<金沙塔院記>>に、以下の様に記している。 『縉雲の西方に龍泉という邑があり、そこは、かつて欧冶子(入り口に銅像があった人物)が鉄剣を鋳造した地である。』とあり、昔の人たちは龍泉剣を宝剣とも、壁に吊るして飾る装飾品とも考えていた。
三国時代の曹植は、「盤石から生ずる翡翠のような宝剣は龍淵から生ずる。帝王が朝服を着る時に、この宝剣を佩くと尊厳が増して見える。」と言い、北周の庾信は、「龍淵剣の輝きは他のどの様なものよりも輝いている。」と言った。 更に清代の秋謹は、「休言女子非英物、夜夜龍泉壁上鳴」と言ったらしい。
意味がわからなかったので、後日、駱さんに尋ねたところ、「この句は、は1877-1907年浙江省紹興で生まれた秋瑾と言う女性が書いた詩の中の言葉です。 彼女はその時代にあっては、進歩的な考え方をする人で、日本に留学したこともある。 「休言女子非英物」は彼女の気持ちが、女性は弱いものではなく、強い人にもなりうる。「夜夜龍泉壁上鳴」は一つの伝説で、戦国時代に、仙人王子乔の墓の中にあった唯一の剣を盗もうとしたところ、剣は虎の啼き声をして龍の体に化身したという伝説。
人は雄心壮志を持って、はじめて大事業が出来る、との喩えです。」とのことだった。 「壁に架かる長剣をわが物にしようとする女子に対し、ヒロイン(女子)のやることではない、と言うべからず。」と言った、と言う意味なのであろう。
龍泉剣の製造技術は、2006年6月中国国務院国家級無形遺産として登録されている。
周正武捐贈刀剣コレクションのところでは、歴代の中国首席達が授与された剣の展示があった(写真5.27-3-5〜5.27-3-18)。
被贈与者として、毛沢東、蒋介石、ケ小平、胡錦濤、習近平の名前を始め、ニクソン、レーガン、クリントン米国元大統領やロシアプーチン大統領の名前と剣の展示があった。
贈与剣は一対、即ちフタ振りあり、一本は被贈与者へ、他の一本がここに展示されているのだそうだ。これら贈与剣として共通の特徴は、 1) 曲線部の無い直線剣。 2) つばの形が皆同じ。 3) 柄の先端に、紫、赤、黄色、白などの房が付いている。 4) 鞘つきである。 5) 刃の唾にちかい部分に装飾が施されている。
尚、ここのコレクションコーナーには金庸所蔵の剣(写真5.27-3-14)が展示してあったが、上記1)、2)、3)の特徴は無かった。
また珍しい剣として杖剣(写真5.27-3-8)や乾剣(写真5.27-3-11)という剣の展示あった。これは運を天に任せるという乾坤一擲の“乾坤”を象徴していて、水平に架けられているのではなく剣先を天に向けて縦掛けられていた。
更には、卑南族や泰雅族と言った台湾原住民が伝え持つ剣(写真5.27-3-18)の展示もあった。
また宝剣の製造プロセスについては、作業者像が展示されていた(写真5.27-3-1〜5.27-3-5)が、鉄を高温で溶融し、これを砂型などの型に流し込み、ある程度冷えたところで離型し、熱いうちにたたきながら鍛造し、再び。火の中にいれ焼きなまし靭性を強くすることを繰り返す。そして刃の部分を研ぐ、と言う工程は、どこで製造しても共通のプロセスである。
以上専門の館内説明員も居なかったので、詳しいQ&Aもなく、展示品とパネルに書かれている解説文(中国語、英語)を頼りにした、約1.5時間の見学であった。
10時前後に、再び黄さんの運転で中国青磁小鎮に向かうことになった。
本稿 完 つづく |