「山東省竜山文化と春秋魯国、斉国の旅」
D3: 9/5(火)魯国故城を見学、泰安の岱庙へ <泰安泊> 前日、曲阜の三孔を全て見学したので、この日は、魯国故城を見学し、泰安の岱庙に向かう予定であった。しかし、朝、孔廟の入り口で、古代歌舞などのイベントがあることが分かり、ホテルでの朝食を摂らずにそのイベントの見学に出かけた。
ホテルから距離的には車で10分ほどもない近いところであったが、タクシーで向かうことにした。タクシーには、恰幅の良い黄金色をした弥勒菩薩の置物がフロントガラス下の台にセットされていた
(写真9/5-1-1)。バックミラーにぶらさげられる飾りよりもよほど良い。タクシーを下車し、孔廟入り口で昨日通過した「萬仭宮牆」と書かれた入場門を目指した。
途中、つい先ほどまでの降雨で濡れた橋と川の両岸に植えられた大きく枝垂れた柳の光景(
写真9/5-1-2)や、川岸の人けのない、濡れて鏡面となった道路(
写真9/5-1-3)が映えていた。それらの光景を横目に更に進むと記憶に新しい曲阜と朱彫りされた石碑や「
萬仭宮牆」と書かれた入場門についた。
我々と同様に早朝の歌舞イベントを目当てにした観光客が大勢集まっていた(
写真9/5-1-4)が、まだ歌舞イベントは始まっていない。観光客の顔ぶれを観察すると、ほとんどが中高年、高齢者でイベントの開始を待ちわびている風情であった。
ところが間もなく放送があり、「今朝は雨模様のためイベントを中止にする」となった。おそらく歌舞の演者の服装が地面にすれすれの古代服を纏うので裾が汚れてしまうためであろう。このイベントについては駱さんから事前に知らされていなかったので、見れずに損したとか、残念という感覚は殆ど湧かなかった。
曲阜と朱彫りされた石碑の前で駱さんと交互に写真を撮って
(写真9/5-1-5)、踵を返し春秋路の方へ戻り、その大道路に出たところで、「ホテルに戻って朝食をとるか、この近くの地元のレストランか屋台で朝食を摂るか」と問われ、駱さんの表情からは後者を期待しているように取れたし、その方が地元とのコンタクト感が大きいだろうと思い、後者にしたい旨伝えた。
そして5分も歩かないうちにファミレス風で小綺麗なレストランが現れたので、そこで朝食を摂ることにした(
写真9/5-1-6)。30分ほどで店を出た。食後の運動を兼ねてしばらく春秋路を歩くことにした。
街路樹は槐が多く(
写真9/5-1-7)、花と実が混じりあって咲いている槐(
写真9/5-1-8)や既に豆状の実だけになっている槐の樹(
写真9/5-1-9)があった。街路樹は槐だけでなく、葉が紫色になっている樹もあったが、樹の名前は分からない(
写真9/5-1-10)。
更に歩いてゆくと蓮池(
写真9/5-1-11、写真9/5-1-12)や、花は黄色だが、実は茶色の袋状となる前出した“恋”と言う文字の“心”の代わりに“木”という文字が配置している文字の樹(
写真9/5-1-13)が現れたりした。同じ樹に黄色の花と茶色の袋状の実があるのは奇観であるが、それとは関係なく排気ガスに強いのかも知れない。
更にどのくらい歩いたであろうか、孔子を主人公にした「
孔子六芸城、孔子故里園」という出来立てのテーマパークの入場門が現れた(
写真9/5-1-14)。入場門の外からは、孔子が魯を後にして弟子たちと新しい世界を目指して疾駆する有名な場面がブロンズ像になっているのが見えた(
写真9/5-1-15)。傍ら目を遣ると、低背で盛りを過ぎた百日紅のピンクの花が咲いていた(
写真9/5-1-16)。
ちなみに六芸(
写真9/5-1-17)とは、
礼(=作法)・
楽(がく)(=音楽)・
射(=弓術)・
御(ぎよ)(=馬術)・
書(=書道)・
数(=数学)の六つであり、中国古代において、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養をいうのだそうだ。孔子は弟子達にこの六芸を教えていたのだろう。
しかし孔子一人でこれらの教義を教授することは並大抵のことではなかったものと思われる。これほど多彩な教義を弟子たちに伝えると、一つの芸に対し浅薄なものとなり、深みのある揺るぎない教義を伝えることはできなくなるのが普通だ。
道徳、音楽、車の運転技術、体育、国語、数学を一人で教える様なものだ。弟子たち(
写真9/5-1-19)も多彩な才能、キャリアの持ち主で浅薄な内容の授業ではついてこないだろう。
そんな疑問が湧くなか、孔子に関して、『
史記:孔子世家編』には、次の様なエピソードが記されているらしい。孔子が一芸に名を成していないのは、世に用いられず、様々な芸を習い、多芸の身となってしまったからであり、このことを達巷の村人に、「(孔子は)一芸で名を成していない」といわれた。それを聞いた孔子は、「御(馬術)でも名を成そうか」といってみせた。
とWIKIPEDIAに紹介されている。ダヴィンチが束になって問答を挑んでも敵わない大天才だったのだろう。
ちなみに、この六芸のそれぞれには、更に細分化された項目があり、
五礼 六楽 五射、
五馭、
六書、
九数 で、例えば
九数であれば、算法(計算)、九数包含、方田票布、差分、少広、商功、均衡、方程、勾殷などとなっている(
写真9/5-1-18)。細分化された科目の数は合計36科目となる。
それぞれの科目で専門性の高い教習を行うことは不可能だが、孔子はそれをやってのけたので、「一芸に名を成す」という印象を与えなかったのではないだろうか。
更に、これらの教義を習得する前に、大切なことは、「
道に志し、徳に拠り、仁に依り、その上で游芸・豊かな教養を身につけよ」と云う教えが論語述而第七 156にある。
子曰、志於道、據於徳、依於仁、游於藝(
子日わく、
道に
志し、
徳に
拠り、
仁に
依り、
芸に
游ぶ。)の藝が六芸のことを言っているのだそうだ。
和訳すると、「孔子云う、『人として正しい道を踏み行なうよう心掛けなさい。そして人格(徳)を磨きなさい。徳の実践はすべて仁をより所としなさい。その上で豊かな教養を身につけ悠々と生きる。これが人生の王道だ』」ということらしい。
その孔子の姿が石碑に刻み込まれていた(
写真9/5-1-20)。歴史書「史記」によると
孔子の身長は9尺6寸、2m16cmもの高身長であったため、世間では「長人」と呼ばれていたそうだ。
彼は恵まれた
体格だけではなく、剣をはじめとする武芸全般にも通じ、諸国を巡るなかで何度か暗殺されそうになるが、逃れてこられたのはこの
体格と武芸の心得があったからと推測できる。
そしてこのテーマパーク見学の途中に「工聖
魯班文化展」(
写真9/5-1-21)というコーナーを横眼に見て移動し、最後に電動カートに乗って孔子の魯国から他国への脱出の様子を立体的に描いたパビリオンに入った。
見学者はゴトゴトと激しく揺れる電動カートに乗って、孔子にとって過酷なシーンが次から次へと現れるのを試聴し、孔子と孔子の弟子たちの過酷な行脚の様子がリアルに立体的に展開されていて、演出が見事であった。
この労苦を共に体験した孔子と弟子たちには強い絆と連帯心が生まれ、孔子を聖人にする原動力になったのではないかと推察するのに十分なパビリオンであった。
ところで、「
工聖魯班」というのが気になり、後でwebで調べたところ、
魯班(ルーハン)は紀元前500年頃に活躍した工匠で、ルーハンは、多くの土木工事に参加するために家族に従って育って徐々に労働スキルの生産を習得し、豊かな実践経験を蓄積してきた人物であり、彼が発明した道具は、後世、土木工事で使用されるツールや、これらのツールを作成するために使用されている。
この新しい道具の使用によって、当時の原始的で面倒な作業から職人を解放することが出来た。労働効率は倍増し、土木工事はまったく新しい姿に変わったとのことである。
その他の発明で興味を持ったのは、現在もセラミクスの製造プロセスとして用いられる擂潰器(ライカイキ)を連想させるミルの発明である。
それ以前は、穀物を乳鉢に入れ、乳棒を叩きつけて穀物を処理していたが、このミル(
写真9/5-1-22)の発明では、乳鉢と乳鉢の回転を変えて乳鉢と乳鉢の間欠的な作業を連続的に行い、労働力を大幅に削減し、生産効率を向上させることができ、古代の穀物加工ツールの大きな進歩をもたらした、と言われている。
この発明は、龍山文化期(約4,000年前)にすでにモルタルと池の粉砕技術があった可能性があり、同じ地域にあるこの地、山東省に生きた魯班がそれを参考に進化させることができた可能性があるとも言える。
その他、インキ噴水、プレーニング、掘削、チゼル、シャベルなどのツール、更には様々な兵器をも発明していると言われている。
以上、
魯班に関しては中国web
「史海鉤沉」の日本語への機械翻訳を参考にした。
後の
諸葛孔明は琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(ぎすい)県)の
出身と言われ、兵器等の発明家としても有名であるが、この魯班と同じDNAを持っているのかもしれないとの思いに至った。
そして最後に目に入ったのは、知者楽水 仁者楽山 知者動、仁者静。 知者楽、仁者寿」。と書かれた額で、この意味を後日web検索したところ、
子曰く、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」
と読み、その意味は、、「知者は水を愛し、仁者は山を愛する。知者は動的であり、仁者は静的である。(また)知者は人生を楽しみ、仁者は長生きする」。(『論語』・旺文社)ということらしい。
果たして知者と仁者とどちらが良いのだろうか。人はだれでも高齢化とともに知者から仁者へと遷移してゆくのではないだろうか。
孔子に関しては以上であるが、孔子に関して分からないことが一つ残った。
季札という人物の存在である。レンタルビデオの「孔子物語」では季札という人物が孔子の幼少期に時折現れ影響を及ぼしている。ところが、この季札のことをガイドの高さんや駱さんに聞いても知らないというのである。中国語での読み方が全く違うのかも知れない。
生きた時代は孔子:紀元前552年9月28日
〜紀元前479年3月9日)、季札:紀元前576年一前484年なので、季札の方が生まれたのも亡くなったのも早いが、紀元前552年9月28日〜前484年は重なっているので同時代の人物同士と言える。季札の方が24才ほど高齢なので、孔子にとっては見上げる存在であったのだろう。
呉の季札は、呉王寿夢の末子だった。孔子と名声を等しくする聖人、同時に孔子の最も敬慕する聖人とされた。「
南の季、北の孔」と称して、歴史の上で南方の儒学大家の第一人者、「南方の第一聖人」とも称される。
孔子にこう評価されている。「太伯(季札の祖先は呉太伯)は道徳の聖人で、三回も天下を譲り、人民には貴重な君主だと語る」とある。したがって、直接の交流は無かったかもしれないが、季札の好評判の風評が若き孔子に影響を与えたのは確かであろう。
ということで、一件落着である。
そして、次に曲阜の中心地(
写真9/5-2-1)を抜けて
魯国故城に向かった。故城の外壁を貫く入場門(
写真9/5-2-2)を通り抜け、しばらく行くと、
擩星門という朱塗りの門(
写真9/5-2-3)がかなたに現れた。デジカメをズームアップして撮る。
駱さんが入場券を買いに行っているうちに、小太りで青いシャツとジーパンのラフな姿で自転車に乗った人とすれ違った。後で分かったことだが、この人こそが、自称ではあるが、
周公旦の77代目の末裔で、現在は姓が変わり〇〇という日本人に近い二文字姓となっている人であった。駱さんが現地ガイドとして手配してくれていたのだろう。有難いことだ。
魯国故城は、周代の国都の遺跡である。紀元前1045年、周が商を滅ぼして天下を治め、武王の弟・
周公姫旦が曲阜に封ぜられて、魯国となった。周公は天子を補佐したため、その子の伯禽が代理として封ぜられ、25世代にわたり34人の君主が続いた後、紀元前249年、楚に滅ぼされたというのがこの地の歴史である。
尚、曲阜という地名は、隋の時代に、「城の東に阜(おか)あり、委曲して長さは七八里」との由来から変えられたのであり、それまでは、魯国や魯県であった。
「
曲阜魯国故城」というのが正式名称のようで、それが朱彫りされた石標(
写真9/5-2-4)が最初にあり、案内図も他の石碑に彫られていた(
写真9/5-2-5)。
そして
擩星門(
写真9/5-2-6)をくぐると、更に中門(
写真9/5-2-7)があり、更に、
元圣殿(
写真9/5-2-8)という建造物が現れた。その説明碑(
写真9/5-2-9)には、「周公届の主体となる建築物で、間口23.7m、奥行き12.26m、高さ11.81mの平屋の建物で、屋根は緑瑠璃瓦からなり、内部には周公の塑像(
写真9/5-2-10)が祀られている」とあった
天井には「
施勤徳明」と書かれた額があった(
写真9/5-2-11)。そして最後の木戸(
写真9/5-2-12)を通り抜けると、魯城の地下遺跡が眠る草地が現れた(
写真9/5-2-13)。
名前は分からないが黄色い花を咲かせた草がたなびいていた。そしてかなたには木々が茂り、他の場所とは区画された一画(
写真9/5-2-14)が見える。おそらくこの地を管理する管理事務所、あるいは「曲阜魯国故城」を紹介する規模の小さい博物館がありそうな雰囲気である。
それとは反対側に目を向けると大きな石碑(
写真9/5-2-15)の様なものが見えた。カメラをズームアップして彫られた文字を読むと、「
魯国故城国家考古遺址公園」とある。また前方を見ると、いかにも大らかな気分とさせる光景(
写真9/5-2-16)があった。
そして、先ほど見えた石碑のところまで行き、その前で周公旦子孫氏とツーショット写真(
写真9/5-2-17)を撮った。そして野鳥が前を横切って着地したあたりに目を向けるとニッコウキスゲの様なオレンジ色の花の近くに背を向けたカケスと思われる鳥(
写真9/5-2-18)が見えた。
帰り際に周公旦子孫氏から、「自宅に家系図があるので見に来ないか」と誘われたが、まだ先の予定があるのと、何か高価なものを買わされるのでは無いかという思いで、断り、「曲阜魯国故城」を後にし、泰山のふもとの
岱廟に向かった。
岱廟に向う途中走行している車の中から店の表に一対の動物の石像が見えた(
写真9/5-3-1)。一対の角が生えていて顔つきは龍で体には鱗で覆われ四つ足であった。先記した太陽までをも手に入れたがっている「
貪婪(どんらん)之獣」(
写真9/4-4-11)の様にも見えるが、この石像の動物は四つ足に何も持っていず貪婪(どんらん)さを全く感じさせない。
また、岱廟に向かう途中、球体上に疾駆する馬の像(
写真9/5-3-2)が見えた。一瞬千里馬(チョンリメ)かとも思ったが、孔子六芸の内の御(ぎよ)(=馬術)を連想させるため像かとも思ったが、それとも単に天翔ける馬、天馬かとも思ったが結局はよくわからなかった。千里馬は中国の様々な省で見ることができる。
さて、〇〇さん運転の車のフロントガラスには恰幅の良い弥勒菩薩ではなく、蓮の純白の蓮の花の飾り(
写真9/5-3-3)がセットされていた。材質はセラミクスであり、置台の中には芳香液を満たし、セラミクスに浸み込んだ芳香液を車内に漂わせる電力を使わない装置とも言える。お土産に買ってゆきたい衝動に駆られた。
早速駱さんがウェブ上で販売されていることを確認してくれたが、帰国までには間に合わない、ので次回の中国旅行で来るときに間に合うように購入しておくとのことであった。楽しみにしておこう。
そして午後2時頃岱廟に到着した。駐車場から岱廟の入場門へ歩いている途中、花を一杯にたたえた槿(むくげ)(
写真9/5-3-4)の低木が目に入った。
そして間もなく岱廟最初の石坊(
写真9/5-3-5)が現れた。この石坊の両石柱にはなんと日本語が朱彫りされている。日本人観光客を目あてにした最近の建造物であろう。少し興覚めの感があったが、親近感は感じた。
そして、
岱廟の巨大な城壁が現れた。その正面は2層の楼閣となっていて、二層目の屋根の近くに岱廟と書かれた額(
写真9/5-3-10)が架かっている(
写真9/5-3-7)。
正面には、入場券を検札する門(
写真9/5-3-6)があり、左右には対象構造の城壁が展開されていて、城壁の両終端には3層の茶色の建造物が配置されている(
写真9/5-3-8、写真9/5-3-9)。
城壁を警護する兵士の詰め所の様に見える。このような建造物の最上層に詰めていれば、城壁の内外の様子が室内にいながらにして鳥瞰でき警護、見張りという点では好ましい。城壁に沢山の赤い提灯がぶら下げられているが、これは夜間城壁を登って忍び寄る敵を照らし発見しやすくするためか。
城門の入り口前で、自分と、駱さんそれぞれ記念写真(
写真9/5-3-14、写真9/5-3-15)を撮った。検札門を通り抜けると、石畳の通路が現れ、その通路を進むと、「
炳霊門」と縦書きされた額(
写真9/5-3-18)が架かっている門(
写真9/5-3-16)が現れた。その通路の傍らに巨大な石づくりの亀とその上に乗っかった巨大な石碑からなる石像(
写真9/5-3-17)が目に入った。何を意味している像かは分からなかった。
そして、「炳霊門」をくぐり抜けて行くと、巨大な柏の樹(
写真9/5-3-19)が目に入った。樹齢500年以上はあるだろう。「
漢柏」という名称(
写真9/5-3-20)がついている。漢の時代に植樹されたとすると樹齢500年どころではない。枝分かれした枝の何本かは既に枯れていて葉は全くついていない。
柏は中国では神聖な樹で、歴史ある寺や廟には必ずと言って良いほど植樹されているが、これほど巨大で年季の入っている柏樹を見たのは初めてであった。この樹がどのような理由で神樹となったのか興味あるところだが、そこまでの突込みは、この稿を書いている現在でも分かっていない。
この一角には、拓本を取った跡のある石碑がいくつかあり(
写真9/5-3-21〜写真9/5-3-23)、表記されている文字の意味は分からなかったが、いづれも極めて達筆であり、古い時代に記されたものであることは分かった。秦の始皇帝が泰山で封禅を行った時、随行した丞相の
李斯が記載したとの説明が別の碑にあった。
そして、同じ館で次に目に入ったのは、畳の1/4程度の面積の屏風を6枚並べた屏風絵(
写真9/5-3-24)であった。通常目にする屏風は白い紙に山水の風景を筆で描いたものであるが、ここに展示してある屏風は黒御影風の石板に彫り刻んだようなものであるが、よく見ると色彩が施されている。
山水風景は泰山で始皇帝が封禅を行ったところを含んだ絵図、またはここ岱廟と遠方に臨んだデフォルメした泰山とを描いたものであるかも知れないが、これだけでは分からない。
おなじ陳列館の中にはもう一つ奇妙な動物の像がガラスケースに入れて陳列されていた。(
写真9/5-4-1)。見たことの無い毛むくじゃらの四つ足動物で目だけが煌々と煌いている。実物(剥製)なのか、人工物か分からないが奇妙な動物である。ペットにしたくなるような愛嬌さを漂わせている。あるいは泰山で捕獲した動物であろうか、よく分からない。
さらにおなじ陳列館には花瓶のような色彩豊かな陶磁器、青銅を光沢が現れるまで磨かれた一対の丸鏡、壁飾りが展示されていた(
写真9/5-4-2)。陶磁器に施された絵は、カラフルであったが、青磁でも白磁でもなく、かといって唐三彩風でもなく、むしろ九谷焼等の現代の日本の陶磁器に近い感じがした。恐らく明清時代のものではないかと思われる。
そしてそこを後にして更に先に歩を進めた。すると石舞台の上に
仁安門と金色の文字で額の中に縦書きされた楼門(
写真9/5-4-3)が現れた。門には、同時に
天下帰仁と横書きされた文字も表示されていた。中国によくある赤青黄に彩色された楼門であった。「天下帰仁」で後日ウェブ検索したら、「論語」に出てくる顔淵と孔子とのQ&Aの場面で、口語訳すると次の様になる。
孔子:「自分に打ち勝って礼に立ち返ろうとすることが仁である。一日自分に打ち勝って礼に立ち返ることをすれば、世の中はその人の人徳に帰伏するであろう。仁を実践することは自分(の振る舞い)によるのであって、どうして他人に頼るものであろうか、いやそうではない。」と。
顔淵:「仁を実践するための要点をぜひお尋ねしたいです。」
孔子:「礼にかなっていなければみてはいけない。礼にかなっていなければ聴いてはならない。礼にかなっていなければ言ってはいけない。礼にかなっていなければ(その)行動をしてはいけない。」
顔淵:「回(私=顔淵)は賢くありませんが、ぜひこの言葉を実践していきたいと思います。」
以上manapedia.jpを参照させてもらったが、浅学な筆者にとって、以上のQ&A場面がなぜ「天下帰仁」と関係するのはよくわからない。
また、mage8.comには、
論語顔淵第十二の一:「一日己を克めて礼に復れば、
天下仁に帰す」
顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁、一日克己復禮、天下歸仁焉、爲仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動、顔淵曰、囘雖不敏、請事斯語矣。
書き下し文:顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰わく、己(おのれ)を克(せ)めて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己を克めて礼に復れば、
天下仁に帰(き)す。仁を為すこと己に由(よ)る。而(しか)して人に由らんや。顔淵曰わく、請(こ)う、其の目(もく)を問わん。子曰わく、礼に非(あら)ざれば視ること勿(な)かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵曰わく、回(かい)、不敏(ふびん)なりと雖(いえど)も、請う、斯(そ)の語を事(こと)せん。
なんとなくわかるが、良くは分からない。
その門を通りぬけて先に歩を進めると、その庭に太湖石が鎮座する堂宇が現れた天上は、例のごとく鬱蒼と柏樹が天を覆い被せていた(
写真9/5-4-4)。幹が見事にねじれた柏の大木もあった。
更に進むと、二層の全く反り返りの無い屋根を持ち、一層目と二層目の屋根の間に縦書きの額が架けられた間口の広い殿舎(
写真9/5-4-5)が現れた。その額には「
宋天貺殿」(写真9/5-4-6)とあった。
天貺殿の屋根に反りかえりがないのは明清時代前の建立の証拠であろう。
この「宋天貺殿」は岱廟内の最奥にあり、ここに於いて秦の始皇帝が
封禅の儀を行い、以後、歴代皇帝の見習うところとなったものとのことである。
この建物自体は今から丁度1000年前の北宋時代の
天貺節(てんきょうせつ)を記念して建てられたものである。間の九五様式は皇宮正殿のみに許された建て方でもあった。
近くまでくるとその巨大さが分かる。間口9間、奥行き5間の九五様式の建造物で、九五様式は皇宮正殿のみに許された建て方であった。
考えてみると、北宋の都である
開封(東京=トンキン)は洛陽、長安などと比較すると、山東省から最も近い古都であり、北宋の影響の強い史跡が多いのであろう。
天貺殿は現在も信仰の対象として拝殿する中国人がいると見えて、大きな蝋燭立と線香立てがポツ然と設置されていた。殿舎の配色はやはり漢民族のものではなく、女真族や満州族が好む黄土色ということは北宋時代から南宋時代の過度期の建立で、北方異民族の支配がはじまった頃の建造物か。一体建立した民族は漢民族か女真族などの北方異民族か興味あるところである。
天貺殿の小さな入り口から内部を覗き見ると、その最奥の薄暗い光明の中、黄色いマントを纏った泰山の主神である
碧霞元君(女神)の立像(
写真9/5-4-7)があったが、仏教や儒教よりも道教の神の様な雰囲気を漂わせていた。
ウェブで検索してみると、その通り、道教の女神で別名
天仙聖母碧霞玄君(てんせんせいぼへきかげんくん)、
泰山老母(たいざんろうぼ)、
泰山玉女(たいざんぎょくじょ)、
天仙娘々(てんせんにゃんにゃん)、
天仙玉女碧霞元君(てんせんぎょくじょへきかげんくん)などとも呼ばれ、この地では
西王母よりも人気のある女神とのことである(wikipediaより抜粋)。
更にwikipediaには、「碧霞元君は、どんなに信心薄い者の願いでも聞いてくれる、神々の中でも、もっとも優しい女神であるとされる。その神格も商売繁盛・子宝祈願・夫婦円満・病気治療の祈願や人々にお告げをもたらしてくれるなど、非常に幅広いご利益があるとされ、多くの信仰を集めている。」と紹介されている。
「宋天貺殿」を後にすると復路である。途中いくつかの庭園(
写真9/5-4-8)、殿舎(
写真9/5-4-9)、楼門を通り抜けたり、横目に見て通り抜けし、最初の城壁(
写真9/5-4-10)のところまで戻った。
駱さんに、「城壁の上に登ってみますか?」と問われたので、多少疲れてはいたが、「そうしましょう。」と返事をして城壁に上ってみることになった。団体のツアーでは見学コースから外されるところであろう。
正面に泰山が見える筈だったが、曇天で泰山の姿は雲に隠されていた(
写真9/5-4-11)が絶景の部類に入るであろう。カメラをズームアップ(
写真9/5-4-12)してみても、それらしき姿は現れなかった。しかたないので、その光景を背景にして写真を撮ってもらったが、逆光で黒い影となってしまった(
写真9/5-4-13)。
城壁上の屋根の無い回廊は転落防止の黒レンガつくりの手すりが、今は枯れてしまった古木を取り込み直線状に伸びている(
写真9/5-4-14)。そしてその古木には観光客が赤い布札をくくりつけたのだろう、それらが奇妙な色彩バランスと造形美を醸し出していた(
写真9/5-4-15)。
赤い布札には黒墨で書かれた文字が浮かんでいた。願いを書いたおみくじの様なものかも知れない。その他、朱色のお守り袋のようなものも括り付けられていた(
写真9/5-4-16)。
この城壁上の回廊には屋根が無いので、風に吹き上げられ天上に届いて願いが叶えられるという期待を込めて赤い布札やお守り袋を古木に取り付けた観光客が居たに違いない。恐らくもっと沢山のものが無造作にくくりつけられたのであろうが、城壁の管理者が景観を壊さない様に間引きしたのだろう。
そのお守り袋のある同じ地点から焦点を遠方に移すと、最初に岱廟の城門入り口から城壁を見上げた時に城壁の両端部に見えた三層の瑠璃瓦屋根からなる建造物の片方であった。
ちなみに
瑠璃とは表面がガラス化してツルツルになった状態を意味し、瓦としては、写真のような赤茶色の場合もあるし、濃紺の瑠璃色の場合もある。中国各地にある孔廟の屋根は殆どが前者の赤茶色の屋根が使われているようだ。
もしかしたら、これが泰山と思える光景(
写真9/5-4-17)を目にしたが確証は全く無い。駱さんも「あれが泰山です。」とは言わなかった。
途中、赤茶色の屋根瓦と瓦の前に残った枯れ木または古木、の組み合わせがうまくマッチしていた(
写真9/5-4-18)。その様な光景や前方に「
厚載門」と書かれた額縁(
写真9/5-4-19)をみながら(
写真9/5-4-20)城壁の階段を下って行った。
そして、最初に入場した門の裏側(
写真9/5-4-21)にたどりつき、岱廟観光の終了となった。岱廟観光の最後に眼に印象的に残ったのは、日本でも見かけることの多い草花であった(
写真9/5-4-22)。名前は忘れた。
ちなみに「厚載門」は北京故宮、洛陽など中国各地にあるが、ここの「厚載門」は、この門から場外に出ると、前方正面に
紅門路があり、泰山正面参道につながるということであった。
紅門から岱頂まで、6600段の石段が続くとのことである。自分の体力ではこの石段を上るのはとても無理ということで、泰山登山ではなく岱廟観光に絞ったのだが、充実した観光が出来、その選択が良かったと思うことが出来た。
本稿終わり D4に続く