おもうことあり (12)司馬仲達と卑弥呼
Amazon Primeで「
三国志 Secret of Three Kingdoms (字幕版)」全54巻を見終わった。この物語は、後漢崩壊のきっかけを作ったとされる霊帝の双子の息子の弟の方で後漢最後の皇帝献帝を諱とする
劉平(影武者)と、それを取り巻く漢帝国に関係の深い司馬一族、とりわけ実の兄弟のような義兄の
司馬懿仲達を中心とした物語りであった。
主役は劉平、脇役または准主役が劉平を取り巻く、あの
司馬懿仲達、そして先帝の王妃
伏寿、先帝の弘農王・劉弁(劉協の兄、従って劉平の兄でもある)の妃の
唐瑛、
曹操、そして曹操の軍師で、劉平の類まれな才能を認め、いずれは曹操と劉平とが手を取り合う漢帝国の将来を夢見た郭祭酒(軍師の役職)こと
郭嘉、そして、司馬懿仲達の才能を一目見た時から見抜き、自分が父曹操の跡継ぎになったら自分の軍師にしたいと曹操にねだる曹操の次男で、初代の魏の皇帝となる
曹丕、その他
荀ケ、
孔融等宮城谷昌光の三国志列伝に登場する人物は登場するが劉備、孫権、関羽、呂布は名前だけの登場となる。仲達が倒すことになる諸葛孔明や張飛、更には赤壁の戦いに登場する呉の周瑜は名前すら出てこない。
2.
この物語は双子の兄の劉協、献帝が死直前に残した詔勅に基づいて、その皇后伏寿と皇帝の兄の王妃唐瑛によって、それまで司馬家で隠育された双子の弟劉平を影武者に仕立てる策謀によるもので、宮廷育ちで、本当の愛を知らない伏寿は龍平によって、唐瑛は仲達によって目覚めてゆくことになる。
しかし、伏寿は曹操によって毒殺されることになった。その毒薬は服毒した直後は死に至った様相を示すが時間とともにもとに戻る毒薬で、それを飲ませたのはすでに曹操の臣下となっていた仲達だった。生還した伏寿は仲達や、曹操の娘で、伏寿の後の皇后となった曹節の手引きで王宮のある許都から山紫水明の地山陽県に移され、後に漢の皇帝の座を曹操に禅譲した劉平とともに余生を送ることになる。
一方、策謀に加わったもう一人の唐瑛は曹操の長男で、太子の座を曹操によってはく奪された曹健によって、曹操暗殺の刺客の疑いをかけられ、辱めを受けたとして、自害した。この唐瑛を演じた女優董潔 は名前も似ているが、顔貌や雰囲気は八千草薫似の中国の女優。広州軍区戦士歌舞団演員に属するダンサーでもあり、階級は中尉。身長160cm、は清楚で、仲達の思われ役をうまく演じている。
その仲達は、自分にとっては、むしろ諸葛孔明を倒した仲達としての方が有名で、「死せる孔明、生きる仲達を走らす」は有名である。また魏の滅亡後、即ち三国志時代の終焉後西晋を建て、中国全土を制覇したことでも名高い。
それはそうと、忘れてはいけない登場人物がもう一人いる。
華佗である。「お屠蘇」という言葉の命名者としても知られている人物で、曹操の頭痛を鎮める曹操にとっては、必要不可欠な人物であるが、ズケズケ物をいう人物だったので、曹操に殺害される羽目になる。その曹操の従医として名医宦官の華佗は、劉平に医術の初歩を教えた。そのことで、劉平が本当に献帝なのか、曹操側の役人たちに怪しまれることになる。
3.Wikipedia 「
遼隧の戦い - Wikipedia」を引用」
司馬仲達のエピソードに戻るが、そのひとつに、遼東の制圧がある。その当時遼東では、半独立政権を築いた公孫氏と魏が、遼隧(現在の遼寧省鞍山市海城市)で武力衝突し、結果、遼東公孫氏は滅亡した。その戦い「
遼隧の戦い(りょうすいのたたかい)」で、司馬懿は魏の軍権を得ることになり、そのことが魏の皇帝曹叡との溝を作ることになり司馬懿による西晋樹立の端緒となったようである。
遼隧の戦いで司馬懿が行った、公孫氏一族に対する残虐非道な処置(戦後、司馬懿はこの地に魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよう、当地の15歳以上の男子を皆殺しにし、夥しい数の亡骸で京観を作ったことが後世に伝わる。)は、この「三国志 Secret of Three Kingdoms (字幕版)」全55巻で司馬懿仲達が義弟である献帝となった劉平に幾度となく投げかける言葉「“やさしさ”は身(国)を亡ぼす。お前の欠点だ」が思い浮かぶ。
この物語の問い掛けの一つは、民を幸福にするには、劉平の様な考え方が望ましいのか、それとも、曹操や、司馬懿のやり方が良いのか視聴者に問いかけているように思う。ストーリー的には劉平の考え方を支持している様に感じている。この物語りは、Wikipediaによると、中国で動画再生数30億回を記録したとのこと。
視聴者はどの様に感じているのであろうか。
この遼隧の戦いの結果は日本にも関係した出来事があった。
それは、遼東公孫氏が滅亡した238年、倭国が魏に使節を派遣している。公孫氏の支配が遼東から消滅したことで、日本は中国大陸の文化に触れることが可能になったのだ。倭国はまだ卑弥呼の時代である。信長が登場するのは1350年ほど後のことである。
4. 筆者は過去洛陽を3回訪問したことがあり、その一回は後漢を創建した劉秀
光武帝と最後の皇帝
献帝の陵墓の見学だった。帰ってから書いたブログを以下に紹介する。
(※ )は今回付記したものである。
漢献帝禅陵(ブログ:
槐の気持ち「ものづくり文化の源流を求めて」より)
後漢の最後の皇帝が献帝である。漢を滅亡させたとして悪名高き霊帝の息子である。魏の曹操に庇護されたが、曹操の傀儡王朝の色彩が濃かった。しかし曹操の死後、跡を継いだ子の曹丕が魏王を襲位し、曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。
この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれたため、献帝を祀った墓陵も“禅陵”と呼ばれているのだろう。死後、蜀からは献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈られ、魏からは、孝献皇帝の諡が贈られた。
献帝は皇帝の位を譲位後、曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、山陽公として山陽公夫人となった曹節(曹操の娘)と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。ちなみに山陽は、河南省焦作市あたりであり、献帝に因む遺跡である山陽故城(写真5.3-3-1〜写真5.3-3-3)に立ち寄った。
この故城の創建は前漢の景帝の時、BC144年であり、代々漢皇帝の血縁者が封じられてきた。観光地としては、荒れ放題で、土が盛られその上に雑草が生えていて、とても故城とは思えない。荒城であった。そこを後にして、次に、車で30分足らずのところにある漢献帝禅陵に着いた。
陵内に足を踏み入れると、最初に目に触れるのは、「漢献帝陵寝」と縦書きして彫られ、周囲がレンガで枠どりされている石碑(写真5.3-4-1)で、右横に小さく「大清乾隆五十二年」の文字が見えた。
そのすぐ後ろに、城壁とその上に城楼が載ったような、模型の様な小さな建造物があり(写真5.3-4-2)、その前には深紅のバラの花が咲いていた。
中には、献帝(山陽公)と奥方の曹節であろう。塑像が二体祀られている。山陽公は黄色いマント(写真5.3-4-4)、曹節は赤いマント(写真5.3-4-3)を羽織っていて、ともに、黄色い幔幕に囲まれていて、それぞれ焼香台がその像の前に備えられている。(※もしかしたら曹節ではなく伏寿かも)
地元信仰に支えられて維持管理されているようであり、晩年は山陽公として地元に溶け込んでいたのではないか思うとホッとする。政略結婚で結ばれた二人であり、三国志時代の荒波に翻弄され続けた二人であったが、禅譲の選択をしてよかったのであろう。
その建造物を通過すると、黒い御影石に「漢献帝禅陵」と刻まれた標石(写真5.3-4-5)が現れ、そのすぐそばに献帝についての紹介文が刻まれた石碑があった(写真5.3-4-6)。
更に先に進むと、ドーム状に盛り土された円墳が現れた(写真5.3-4-7)。その手前にはささやかな墓碑の様なものがあるが、何が書かれているかわからなかった。
そして円墳の周りの他の場所には赤い布を被ったレンガ製の小さな祠(写真5.3-4-8)があった。奥方の曹節も合葬されているのだろうか、説明書きがどこにも無かったので真偽のほどは分からなかった。そして円墳の盛り土のふもとには可憐な名前知らずの花がつつましく咲いていた(写真5.3-4-9)。
(※もしかしたら曹節ではなく伏寿かも)
献帝や、その父霊帝の末裔に関して、日本に関係した興味深い伝説がある。
真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる、というものである。
東漢氏(あやうじ)の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきた事を記している。
系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる。とウィキペディアに紹介されている。また東漢氏の後裔には坂之上田村麿がいて、東北遠征の時に、地元女性との間に多くの子を設けていて、子らは、新しい姓を名乗っている。
そうなると日本全国に霊帝や献帝の末裔がいることになる。この氏族の多くが技能に優れていたこと、すなわちモノづくり文化を持っていたとすると、日本のものづくり文化のルーツは、地域的には河南省北部、時代的には後漢末期ということになる。本稿のタイトルを「日本人のものづくり文化の源流を求めて(河南省2012)」としているのも、もしかしたらその説は本当かもしれないというロマンに満ちた憶測から名付けたのである。
5. 「三国志 Secret of Three Kingdoms (字幕版)」全54巻を見終わっての感想
この動画を全巻見て感じたことを以下に記します。
三国志登場人物の内、人気があるのは日本では諸葛孔明、劉備、関羽、趙雲で、曹操、呂布、司馬懿は人気が無いというより残虐者としてのイメージがあるが、中国では曹操は人気がある、と言うことをよく聞く。何故か。この動画を見た限りでは、「曹操や司馬懿のやり方は良くないよ。」と言いたげの様に見える。製作者の意図はどこにあったのだろうか。
本当は献帝(劉平)を支持したいのだけれど、「曹操や司馬懿のやり方は良くないヨ!」というと現習近平政権の非難に繋がることになるので、それをカモフラージュするために曹操人気であるように思えてならない。
この動画は中国で動画再生数30億回を記録したとのこと。登場人物の人気投票をしたら、どのような順位になるのであろうか。
今頃献帝陵を見学すると大分立派になっているかも知れない。
完