日本の大君となった
マッカーサーとはどんな人川柳の窓からのぞいたマックの素顔著者:中島茂
天皇をとことん盛り立てて敬愛した。川柳があなたをぐいぐい引っぱって、マッカーサーの謎 に迫っていく。
この、川柳とマッカーサー物語の合い呼応した調和、あなたは読み始めるとすぐにそれを実感します。
日本二千年の歴史の中で、かつて経験したことのない昭和の大敗戦!! 滅亡の淵から日本を立ち上がらせたのは、昭和天皇とマッカーサーの、尊敬と相互信頼に満ちた巧みなチームプレイであった。いま、昭和時代の回顧と大検証の大きなうねりが起こりつつある。いまこそマッカーサーを再認識すべきだ!!
型番: A5判 ページ数:251
発行年月日:2008年2月1日 初版発行
ISBN:978-4-89623-040-6
ジャンル:歴史
(全国図書館協会推薦図書指定)
定価:1600円(送料及び消費税を含む)
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口座名称: 中島 茂
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ヒゲるのつぶやき
題名: 血みどろの日米戦争とやってきたアメリカ人たち 聞いて、聞いて、耳を貸して、
ヒゲるのつぶやき
1.終戦直前の俺の姿:
万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く
大和(やまと)男子(おのこ)と生まれなば 散兵線の花と散れ
先頭の一班が最初の節を歌うと、後部の二班が同じ節を復唱し、順次歌い継いでいく。軍歌の中でもとくにこの「歩兵の本領」を行軍時に斉唱すると、その哀切なメロディと桜花の散るがごとく、一死報国を賛美する歌詞とが織りなす心理作用のせいか、心中に軍人魂のようなものが沸き起こってくるのが不思議だった。 照りかえす真夏の太陽のもと、中古の軍服に身を固め、汗まみれになった新兵たちが行進するとき、歩調の合った軍靴の踏み鳴らすダッツ、ダッツ、ダッツ、ダッツという響きと唱和する軍歌のメロディとが混和してかもしだす一種独特の雰囲気の中で、わが教育隊の将兵は一様に、迫りつつある米軍との本土決戦に臨む、日本軍人として散る覚悟を徐々に固めつつあるかのようだった。おい、おい、ヒゲるよ、また訳のわからない大仰(おおぎょう)なことを
つぶやきだしたなー、それって一体なんのことだい?そうだな−、説明なしにつぶやかれてもわかんないな−。これは俺の軍隊時代の一場面だ。このとき俺は兵長、ときは昭和20年6月頃。わが隊に入ってきたばかりの新兵の教育掛として、連日新兵を訓練場のある村はずれまで引率していき、教育指導に当っていた時の光景だよ。場所は神奈川県愛甲郡中津村。俺が旭川第七師団に入隊したのは昭和19年2月。入隊するとすぐ新しくできた「飛行場設定隊」という部隊に編入された。つまり飛行場つくりを専門にする部隊だった。飛行場つくりの皮切りは、いまではロシア領になっている中部千島にあるウルップいう島であった。ここに陸軍戦闘機用の飛行場を突貫工事、数か月で作り上げた。20年に入るともう飛行場を作るような情勢ではなくなった。 日本各地の軍の飛行場に配置されている飛行機を、空からは見えないよう覆い隠す掩体壕というものを作る工事を始め、埼玉の児玉飛行場、東京の調布飛行場を回り、6月中旬中津飛行場にやってきた。 もうこの時点で日本の命運は尽き果てていたようだな一。 8月6日広島、そして3日後の9日には長崎とつづけて2発の原子爆弾を投下され、両市は一瞬の閃光とともに壊滅した。 内務班には毎朝新聞が配られてくる。新聞の報道には原子爆弾という言葉は出てこない。 新型爆弾という言葉を使ってこの爆弾のすさまじい破壊力を伝え、アメリカ軍の非道ぶりをののしる言葉が躍っていた。ついに運命の日はやってきた。俺たちの部隊、北部第15394飛行場設定隊は、新兵を入れても200数十名の小さな部隊だったが、8月15日正午、天皇がはじめて国民に告げられるラジオの玉音放送を聞くため、部隊員全員は宿舎としていた中津国民学校々校庭に集合した。 いよいよ日本国の大変革が始ったな−
あのときの緊張ったらなかったな−、もう。
最初に君が代の奏楽がスピーカから流れてきた。そのあと天皇の生のお声の放送に移った。ガ−、ガ−という雑音が入り、聞きとるのに最初苦労したが天皇はおおよそ次のように語り、国民に告げられた。「私は今の世界の情勢と日本の置かれた立場を考え、非常な手段をもってポツダム宣言を受諾することを政府に命じた。いまの現状でもし戦争を継続するならば、ひとり日本民族が滅亡するのみならず、人類の文明も破滅させかねないであろう。今後日本の受けるべき苦難は、はかりしれないものとなるであろう。しかし、どのような苦難があっても耐えがたきに堪え、忍びがたきを忍び、国民一丸となってわが民族の再興と新しい平和に向かって立ち上がろう。 私はそのような苦難に立ち向かう国民とともに生きていく覚悟である」 強烈な衝撃が俺の心中を走った。
★ 日本は負けたのだ!!!!
★ 戦争は終わったのだ!!!!
★ 俺の命は助かったのだ!!!!
「ブッタ切るぞ!!、突然うしろのほうから大きな怒声がきこえた。振り返ってみると一人の若い将校が、不動の姿勢を取って天皇の玉音放送を聞いていた新兵の中に、ひとり身を崩してしゃがみこんでいる兵をみつけ、今にも抜かんばかりにして刀の束に手をかけていた。 昭和20年8月下旬、俺たちの部隊は中津飛行隊の本部である埼玉熊谷飛行場に集結した。 「マッカ−サ−の占領軍は厚木飛行場に上陸する。厚木飛行場周辺の日本軍諸部隊は邪魔だから早急に立ち退け」これがマニラのマッカ−サ−指令部からの通達である。俺たち飛行場設定隊は、追いたてられるように熊谷に移動した。熊谷は不運な街だったな−。天皇の玉音放送があった時からわずか12時間前、B29数十機の空襲を受け、アッという間に街の3分の2が焼き尽くされた。多くの家が焼夷弾で焼き払われ、死者、負傷者は3千数百名に上った。 焼け跡から生き残った人たちがおよそ12時間後、天皇の玉音放送を聞いた時の心情、考えるとその人たちが不憫でことばにならないなぁ。ついに俺たちの部隊にも解散命令がきた。宿舎にしていた熊谷国民学校校庭の一隅に、投棄すべき兵器類を集め積み重ねられた。俺の部隊は戦闘部隊ではなかったので、兵器と呼ばれるものは兵隊の持つ銃や帯剣、それと将校の軍刀くらいしかなかった。覆いもかけずに校庭に放置されていた歩兵銃の標準の付いた鉄の部分には、菊のご紋章が刻印されていた。数日降りつづいた雨のため、そのご紋章の部分にサビが出はじめた。歩兵銃は天皇から頂いた兵士の魂とされてきた。 旭川の原隊にいた時、銃の手入れが悪く、すこしでもサビが残っていようものなら、夜中でも起床、起床の蛮声が就寝中の兵士の内務班内に響きわたる。 班の兵士全員たたき起こされ、不動の姿勢をとらされる。 犯人は古年兵からこっぴどい往復ビンタを食らわせられた。敗戦とはこういうものなのか!!! 悲しい思いで胸をしめつけられるようだったな−。
川 柳
すてた銃しのび泣きする声がもれ
およそ4年間、米英を中心とした連合国との血みどろの戦い。お互いに相手を極度に憎しみ合い死闘を続けてきたなー。鬼畜米英撃滅をスローガンに掲げて戦意を高揚させていた日本。 一方米英は、黄色いサル、卑怯なジャップ、パルハーバーを忘れるな、を叫んで憎しみを掻き立て日本に躍りかかってきた。
だが、いま戦争は終わった。俺たちの部隊は9月初旬
熊谷で部隊を解散、部隊の将兵たちはみなそれぞれの
故郷に向かって帰って行った。
2.見た、仕えた、分った、アメリカ人とは 昭和25年の秋、俺は東京代々木の、旧日本軍練兵場跡地に建てられた米軍将校家族宿舎で働いていた。ハウスボーイという仕事だった。この年の4月、俺は日本大学文学部英文科の夜間部に合格、神田三崎町の本校に通っていた。 昼間働いて生活費、学費を稼ぎださなくてはならない俺には、昼間部を選ぶことはできなかった。最始に働いた家庭は陸軍将校ハザード家だった。 あの時は本当に緊張したなーもう。あれほど憎んでいたアメリカ人の家庭でじかに彼らにふれあい、そして彼らの下僕として働く仕事だからなー。 びっくりした第一番は彼らの体の大きさだ。みんな、男も女も、日本人の平均身長よりやや低い俺には、彼らは見上げるように大きかった。ただ大きいだけではない、太っていてその上に栄養がいいせいか、血色がいいなんていうことは通り越して体も顔も赤く、まるで子どもの時に見た絵本に出てくる「酒呑童子」のようで、その威圧感は強かった。 ハザード家には二人の日本人女性が働いていた。 彼女らの職名はメ‐ドであった。 私を含めるとこの家の使用人は3人である。この家には5歳くらいのかわいい女の子がいた。この子、キャサリンはすぐ俺になついてきた。キャサリンは甘えん坊で、いつも俺のそばにきて「ジャック、おんぶ、おんぶ、jack, carry me, carry me。」といっておんぶをせがんでいた。 そうだ、俺はこの家にきて英語の名前をいただいた、ジャック(jack)である。 ハウスボーイの主な仕事は家内外の清掃であり、小さな子どもがいればそのお守り、遊び相手も大事な仕事であった。キャサリンは一見シンデレラを見るような可憐さと、きれいな衣服を身に着けていた。フリルのついた短めのスカートの裾のほうは傘のように開いていて、まさにシンデレラのそれである。 俺の見たアメリカ人はきわめて清潔ずきで、メードたちはいつも洗濯、アイロンかけに多くの時間を費やしていたようだ。 とくにシンデレラ、キャサリンの衣服は常に糊の効いた、パリパリのアイロン仕上げで、彼女の可憐で活発な動きとともに、とても美しく見えた。 知的で優しさあふれるハザード夫人
ハザード家で働いていたとき、のちのちまで思い出に残るこんな場面があったなあー。ある日俺はハザード家のキッチンで、二人のメードたちの料理作りを手伝っていた。材料の野菜をきざむ仕事だったと思う。台所仕事なんてトンとやったことのない不器用な俺だ。 野菜とまちがえて自分の指をカットしてしまった。ヤッター、と俺は叫んだ。 血がどんどん出てきて止まらない。 ちょうどそのときハザード夫人は家にいた。夫人が飛んできて、「オー、ジャック、オー、ジャック」と言って手早く血止めの軟膏を俺の指に塗ったうえ包帯を巻いてくれた。 その動作の機敏なこと、そばにいた二人の日本人メード たちはなんらなすべきを知らず、呆然とそばに立ちすくんでいた。ややオーバとも思いる仕草で,また怪我をした俺をいとおしむかのような態度で手当てをしてくれたハザード夫人の、あの暖かい場面を、俺は生涯忘れることはないだろう。このようにやさしいハザード夫人の写真を俺はいまでも大事に保存している。見てみるかい!! (新聞・写真: 画像2枚目参照)
前列右から2人目がハザード夫人 この写真は当時の英字新聞「ニッポンタイムス」紙に載った、パンアメリカン太平洋航空社の15周年記念祝賀会の席に立ち会った夫人が写されており、このとき夫人はPAA社々長秘書を勤めていた、と文中にある。(前列右から二人目がハザード夫人)米軍将校ハザード氏の面影は記憶にない。おそらく朝の出勤、夜の帰宅は俺の勤務時間とずれていて会う機会はほとんどなかったせいかもしれない。(あのとき俺はワシントンハイツ内の一隅に建てられた従業員男子寮にいた。女子寮もあったが住み込みのものが多かった)俺はこのようにやさしい夫人、暖かいハザード家でずっと働きつづけたかった。しかしそれは叶わなかった。もともといたハウスボーイがたまたま病気で、一か月の休養を取っていたのだ。俺はその穴埋めにきたというわけだった。もとのボーイが戻ってきて俺がハザード家を離れるとき、夫人は俺のためとても心のこもった、次の雇い主宛の紹介状を作って俺にもたせてくれた。これも大事にとってあるよ。見てみるかい?原文で見てチョウダイ。 (紹 介 状: 画像3枚目参照) 英語に堪能な皆さんには内容が簡単なのでお分りいただけると思いますが、俺にとってとてもうれしい、また面はゆいような記述もでてきます。すこしそれらを拾ってみると - ジャックはハウスボーイとしての経験はほとんどなしに当家にやってきたが、覚えが早く熱心だ。
- ジャックの主な仕事は家の清掃だが、彼がきて以来この面で大きな改善が見られた。
- ジャックはとくに子どもが好きだったようで、私の子どもたちもすぐにジャックになついていった。
- もちろんジャックは熟練した使用人ではないが、彼はインテリジェントで覚えも早くやる気もある。俺がインテリジェントなどといわれると顔が赤くなってしまうナー。おそらく彼女は、俺が日大に通っているということで、そう書いたのではないかと思うよ。
この紹介状を持って俺は再び次の働き口を求めて、アメリカ人将校家族家庭巡りを始めた。このような思いを込めて: ★ ハザード家は楽園だった。俺は楽園で働いていたのだ!!!。 ★ あの悲惨な太平洋戦争とはなんだったんだ? ★ あれっー、アメリカ人は鬼、畜生だったはずだが? まるで様子が違うぞ? 続 く