聞其名号信心歓喜乃至一念

〈全休の仏教ブログ〉 南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2016/11/07 22:11:03|三貼和讃を読む
無上上は真解脱
  無上上は真解脱
  真解脱は如来なり
  真解脱にいたりてぞ
  無愛無疑とはあらわるる

  (浄土和讃・諸経讃5)

  如来すなわち涅槃なり
  涅槃を仏性となづけたり
  凡地にしてはさとられず
  安養にいたりて証すべし

  (浄土和讃・諸経讃7)


 歎異抄に「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり」(真宗聖典628ページ)とあります。

 親鸞は弟子たちを「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって念仏もうしそうろうひと」という風に見ている。弥陀仏とは「はからいなし」の心、無我ですから、「ひとえに弥陀の御もよほしにあずかって」とは、無我にして念仏を称えているという意味です。

 弟子たちが「はからいのない」無我の念仏、智慧の念仏を称える信心の人だったかどうかは問題ではなく、親鸞は弟子たちの中に主体としての自我を認めていなかったということをこの言葉は示しているのです。

 「一切衆生悉有仏性」といいますが、仏性とは無我の心で、一切衆生は悉く、無我にして行為している。身口意の業を起こせる「わたし」などないから、自然の働きの結果として業が起きてくる。それなのに、わたしたちは起きた業を見て、「わたし」が起こしたと主張しているのです。これを「無明」といいます。

 この宇宙は無為自然、起こす者なくして自然にすべてのことが起きていて、 身口意の三業もまた業道自然といって、自然に、無我にして起きているのです。よって、「ひとえに弥陀の御もよほしにあずかって念仏もうしそうろう」という言葉からは、親鸞が達していた悟りの境地を窺うことが出来るのです。

 南無阿弥陀仏







2016/11/06 19:09:05|三貼和讃を読む
清風宝樹をふくときは
  清風宝樹をふくときは
  いつつの音声いだしつつ
  宮商和して自然なり
  清浄勲を礼すべし

  (浄土和讃・讃弥陀偈讃39)

  信は願より生ずれば
  念仏成仏自然なり
  自然はすなわち報土なり
  証大涅槃をうたがわず

  (高僧和讃・善導讃21)


 自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう。ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。

 無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならいてそうろう。弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。(真宗聖典511ページ)

 自然法爾章です。自然を仏という。自然の働きの内容はといえば、一切衆生を引き寄せ、頼らせ、帰依させて、やがて無我の境地へと導く。無我を悟らせて仏にするから自然という。人間の努力とはまったく関係なく働いているので法則という。よって、弥陀仏は目に見えない自然の働きに気づかせるための方便である。・・およそ、こんな意味のことが書かれている。

 たとえば重力。重力は目に見えないが物は落下する。重力は誰にも平等に働いて、人間の努力とはまったく関係がないから法則という。たとえば浮力。体は水に浮くようになっている。溺れまい溺れまいともがくとかえって溺れる。

 同じように、仏となるのに努力はいらない。仏になろうとするから仏になれない。仏になる自然の働きが働いているのだから、努力をやめて働きに身も心も任せる。すると、自然がいきいきと働き出す。自然が働く世界を涅槃といい、努力をやめて働きと一つになると仏になる。

 南無阿弥陀仏







2016/11/04 8:36:28|三貼和讃を読む
論主の一心ととけるをば
  論主の一心ととけるをば
  曇鸞大師のみことには
  煩悩成就のわれらが
  他力の信とのべたまう

  (高僧和讃・曇鸞讃17)

  真実信心の称名は
  弥陀回向の法なれば
  不回向となづけてぞ
  自力の称念きらわるる

  (正像末和讃・三時讃38)


 歎異抄の後序に「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり」(真宗聖典639ページ)とあります。如来より信心をたまわるとはどういうことか。法然にも親鸞にも「たまわる」といえるような体験があったに違いない。

 すなわち、仏とは無我であるから「はからい」がない。「わがはからい」が切れた瞬間に、心が心を離れて心を見るということが起きる。見る心と見られる心に分かれて、分かれていて一つという関係ができる。「わがはからい」のない無我の境地に達する瞬間に見る心(仏)に値遇するのです。仏の方からわたしが見える。これを「如来よりたまわりたる信心」といいます。

 われらは「仏とはなにか」と考えるが、仏とは無我である。無我はすべてです。すべては“これ”と指し示すことはできない。だから、すべてと出会うにはどうしたらいいか。目の中に入った塵のような「わたし」を捨てる。「わたし」がなければ、すべてが仏です。よって、「わたし」が称えているようでも、「わたし」がないと知る智慧をいただけば、凡夫の称えるそのままが諸仏の称名となるのです。

 南無阿弥陀仏







2016/11/03 7:57:29|三貼和讃を読む
安養浄土の荘厳は
  安養浄土の荘厳は
  唯仏与仏の知見なり
  究竟せること虚空にして
  広大にして辺際なし

  (高僧和讃・天親讃2)

  光雲無碍如虚空
  一切の有碍にさわりなし
  光沢かぶらぬものぞなき
  難思議を帰命せよ

  (浄土和讃・讃弥陀偈讃4)


 「わたし」がないことを「無我」(仏)といいます。「わたし」が「有碍」(障り)なので「一切の有碍にさわりなし」で、「わたし」がない世界を「広大にして辺際なし」とも「虚空」ともいう。さらに言えば、「わたし」という穢れがないので「清浄」といい、「わたし」という苦悩がないので「明朗」という。

 また、「わたし」という束縛がないので「自由」といい、「わたし」という罪悪がないので「極楽」ともいう。このような「わたし」がない無我(仏)の境地(世界)を荘厳して「安養浄土」という。だから、無我の境地に達することを「唯仏与仏」といい、信心の人は「諸仏」「等正覚」と称えられるのです。

 「安養浄土の荘厳」は“ここ”へ生まれて来いの大慈大悲であり、“ここ”とは外でもない、わたしたちが生きている、いま、ここ、このままの、生の事実そのものです。だから、死んで“どこぞ”に生まれるなんて考えている人はいまだに生死流転の真っ只中です。

 南無阿弥陀仏







2016/11/02 10:13:04|三貼和讃を読む
諸仏三業荘厳して
  諸仏三業荘厳して
  畢竟平等なることは
  衆生虚誑の身口意を
  治せんがためとのべたまう

  (高僧和讃・曇鸞讃24)


 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆえなり。悪事のおもわせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人の仰せには、「兎毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。(真宗聖典633ページ)

 歎異抄の第13章です。心は宿業が起こしている。身口意の業は「わたし」が起こしているのではなく、業道自然、無我にして起きていると教えている。これが仏教の「無我」説です。身口意の業は「わたし」の行為だと勘違いしているが、事実はそうではなく、「さるべき業縁」によって起きた後、「わたし」が起こしたかのように勘違いする。

 身口意の三業は「わたし」とはまったく関係なく起きている。「わたし」も意業でしかない。行為(業)には主体がない。主体がないことを「畢竟平等」という。行為とその結果について責任を負う者がいない。この宇宙には責任者がいない。責任者がないことを「無我」(仏)という。

 これが事実の世界、責任がないので安楽という。娑婆はそれでは成り立たないから「人」(責任者)を立てるが「人」は仮の観念でしかない。よって、ない「わたし」を証明しようとする生死流転の旅は「わたしはなかった」と知って終わる。

 南無阿弥陀仏