聞其名号信心歓喜乃至一念

〈全休の仏教ブログ〉 南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2016/11/16 8:56:34|仏教ブログ掲示板
仏からの道
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2016/11/13 8:12:34|三貼和讃を読む
不了仏智のしるしには
  不了仏智のしるしには
  如来の諸智を疑惑して
  罪福信じ善本を
  たのめば辺地にとまるなり

  (正像末和讃・疑惑和讃1)


 『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。(真宗聖典634ページ)

 これは歎異抄の第13章、唯円の文章です。同じく、第1章には「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」とありました。こちらは親鸞の言葉ですが、信仰の核心を現す言葉として本当に素晴らしい。なぜなら、信心があるかないか、「不了仏智のしるし」になるからです。

 すなわち、廃悪修善の善人は悪を畏れる。悪を畏れるのは弥陀の本願を信じていない証拠だというのです。心をよくするための念仏を「善本」といいます。道徳心に縛られた善人は心に執着する。善因善果、悪因悪果の「罪福信じ」、わが心をよくして浄土に生まれようとする。心をよくすれば幸せになると信じている。

 このように、わが心に執着するがゆえに無我(仏)がわからない。無我がわからなければ仏にならない。「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」とは、本当に尊い信仰の言葉です。無我を悟った信心の人は心に執着がないから悪を畏れないのです。

 親鸞はこう言った。「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」(歎異抄・後序)と。すでに心になんの執着もない。無我を悟って仏(無我)になるのが仏教です。

 南無阿弥陀仏







2016/11/12 7:21:04|三貼和讃を読む
弥陀の浄土に帰しぬれば
  弥陀の浄土に帰しぬれば
  すなわち諸仏に帰するなり
  一心をもちて一仏を
  ほむるは無碍人をほむるなり

  (浄土和讃・讃弥陀偈讃46)


 歎異抄・第7章に「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なり」(真宗聖典629ページ)とあります。仏教を学ぶ目的は「出離生死」です。生死の問題を解決するために聴聞する。

 では、「生死」とはなにか。三世に渡って生まれ変わり死に変わる主体としての「自我」(わたし)があると妄想するから「生死」という。だから、無我を悟って仏になることを「出離生死」という。ないものをあると妄想しているだけだから、ないと知るだけで、それ以外に特別なことはない。

 和讃にいわく、「弥陀の浄土に帰しぬれば」とあるは、浄土とは無我の境地の象徴世界のことで、無我を悟ることを「往生」という。無我を悟れば業の主体がない。起こす者なくして業が起きているから「無為自然」といい、主体がないと知るから「罪悪も業報を感ずることあたはず」という。

 つまり、業を起こす者がいないので、結果に責任を負う者もいない。こう悟ることを「無碍」といいます。いかなる人生苦も「わたし」に執着する我執に原因がある。ない「わたし」に執着して苦しむのです。よって、「わたし」がないと悟れば、どんな人生問題も解決しないものはない。

 南無阿弥陀仏







2016/11/11 15:58:01|三貼和讃を読む
五濁増のしるしには
  五濁増のしるしには
  この世の道俗ことごとく
  外儀は仏教のすがたにて
  内心外道を帰敬せり

  (正像末和讃・悲嘆述懐讃7)


 歎異抄の第1章に「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえ」(真宗聖典626ページ)とあります。

 仏教は道徳ではない。仏との一対一の関係に入ることを「仏教」(信仰)といいます。仏教の中でも、真実の信仰である真宗は「悪をもおそるべからず」といって、信仰に入れば心を縛るものはなにもないと教えている。

 仏の慈悲にこぼれる悪はない。そのことを「ただ信心を要とす」という。だから、仏のお心がわかれば、その瞬間に、人生が終わる。他に求めるものなどない。得るべきものを得てしまったから、後は余生です。

 信仰に入るとは、仏のお心とわたしの心がつながる。心がつながれば自ずと悪が懺悔され、悪をなすことに罪を感じない心の自由をいただく。形は念仏でも、内心では悪を畏れるから、それは仏教ではない。

 南無阿弥陀仏







2016/11/09 7:53:54|三貼和讃を読む
三恒河沙の諸仏の
  三恒河沙の諸仏の
  出世のみもとにありしとき
  大菩提心おこせども
  自力かなわで流転せり

  (正像末和讃・三時讃16)


 歎異抄に「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず」(真宗聖典633ページ)とあります。

 親鸞の言葉です。わたしたちは、わたしが頭で考え、わたしの意志で行動していると無意識に信じているが、それを仏教では「無明」といいます。「わたし」があるので、無我の悟り(気づき)がない。仏教は無我を悟って仏になる教えです。

 無我を悟るとはなにか。すなわち、身口意の業は「わたし」が起こしているのではない。業を起こす「わたし」はないと知ることが悟りです。生れたり死んだりする「わたし」がないと知ることを「出離生死」といい、仏教を学ぶ目的です。

 さて、親鸞はここで唯円に無我を教えようとしている。親鸞いわく。もし、「なにごともこころにまかせたることならば」、つまり、「わたし」があるとあなたが主張するなら、やろうと思ったらなんでもできるに違いない。さぁ、できるならやってみせよ、「わたし」を証明してみせよ、というのでしょう。

 南無阿弥陀仏







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