仏教ブログ 〈聞其名号信心歓喜〉

南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2012/05/20 0:03:41|内山興正老師の言葉 
グループ呆け
  沢木興道老師は、現代の世相を評して、
  いみじくも、「グループ呆け」と喝破された。
  私はこの言葉を私流に「生存呆け」として、私の中に納めている。
  まさしく、そういう時代である。
  ファミリーという単位、会社という単位、ナニナニ会という組織、
  そういう束のなかでしか行動の原理を見出せない現代日本人の頼りなさの原風景を、
  老師は「グループ呆け」という一言のなかに帰納された。
  その悲劇性は、たとえば、「会社は永遠なり」などと、
  聞かされたほうがきまり悪くなるような言葉を吐いて自殺した男の生きざまにあらわれてくる。  
  世間を大騒ぎさせた疑獄事件に関連して、その事件のカギを握る会社員が会社のおんため、
  自分の証言を永遠に封じ込めてしまうために、みずから死を選んだときの最後のメッセージだった。
  こういう、会社員の驚嘆に値すべき行動の原理について、
  沢木興道老師はまた、「泥棒の親分を偉いと思っている・・・・・泥棒の子分たちは」と言われた。
  まさにその通りであろう。
  この親分のために、親分をトップとする集団のために「死すとも可なり」では、
  なんともなさけないかぎりではないか。
  そして、これこそ真実の価値観をもたない、
  ただひたすら「生存」しているにすぎない人間どもの、悲しい現実なのである。
  
  (内山興正著『独りで歩け』より)

 *・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*

 人生を豊かにしようと、金と地位と名声を得ることばかりを考えて、「ただひたすら生存しているにすぎない」人生を送ってきた人は、生存のことしか知らない(専門バカならざる)ただの“生存バカ”です。人より所得が多かったとか、少しばかり世に知られたとか、そんなことしか自慢できないなんて、実につまらない。

 (全53回/その47)







2012/05/19 8:15:34|御消息集を読む 
自分こそはと自惚れて
  何事にもまして、如来のご本願が
  世間にひろく仰がれるようになりましたことは、
  かえすがえすめでたく嬉しいことです。
  けれども、そのことについて、
  人々それぞれが処々方々で、自分こそはと自惚れて、
  争うことがけっしてあってはなりません。
  京都でも、浄土に生まれるには、
  念仏は一声でよいとか、数多く称えなくてはいけない
  などという争いが多くあるようで、
  けっしてこのようなことがあってはなりません。

  (親鸞聖人御消息集6)*567

 念仏とは、仏とわたしが心通じ合うことです。仏と心通じ合うことがないから、「念仏は一声でよいとか、数多く称えなくてはいけないなどと」学者じみた言い爭いをするのです。

 (全40回/その11)







2012/05/18 8:14:40|御消息集を読む 
あなたがそちらに下って
  あなたがそちらに下って、
  わたしが聞いた教えこそは真実なのだ、
  これまで日頃称えていた念仏はみな無駄事である、
  といったということで、
  おおぶの中太郎を中心に集まっていた人、
  九十何人とかが、みなあなたの方につこうといって、
  中太郎を捨てたとか、聞きます。
  どういう訳で、そのようなことになっているのでしょうか。
  結局は、信心が定まらなかったのであると聞きます。

  (親鸞聖人御消息集11)*575

 略年譜、建長八(1256)年、親鸞八十四歳の項に「親鸞、善鸞を義絶する」とあります。いわゆる<善鸞事件>で、この手紙は義絶の四年前、建長四年に善鸞に宛てたものです。「あなたがそちらに下って」とは、関東教団の混乱を収めるために親鸞の名代として善鸞が派遣されたことを述べています。

 異義で混乱する関東教団を収めるために送られた善鸞でしたが、リーダーシップを発揮できず、自ら善知識と名のり、第十八願は「しぼめる花」であるとの異端を説く至った。それを聞き知った親鸞は、結局は、善鸞を義絶することになった。

 真実の信心は一人一人に、仏より賜わるものだから、たとえ親鸞といえど、息子の信心まではいかんともしがたい。善鸞は自ら信心を得るということがなかったばかりか、親鸞の説いた教義すら正しく伝えることができなかった。

 (全40回/その10)







2012/05/17 8:43:27|親鸞和讃を味わう 
業繋
  清浄光明ならびなし
  遇斯光のゆえなれば
  一切の業繋ものぞこりぬ
  畢竟依を帰命せよ

  ※「業繋」の左訓
  業に繋がる。悪業の綱というなり。

  (浄土和讃 36)*445

 人はなにかに寄りかかる。なにかを支えとしなければ生きられないものです。求める心が強ければ強いほど失うことを恐れ、強く生きようとすればするぼ、生きる不安は大きくなる。

 仏を拠り所とするのが仏教ですが、仏とは<いま、このまま>の現実、法爾自然ですから、なにものにも寄りかからない。なにものにも依存しないので、なにものにも縛られない。







2012/05/16 7:24:48|曽我量深先生の言葉 
化土往生する人
                    
浄土といふものは、真実報土といふものは、身に感じるものである。
頭に浮かべるものを方便化土といふ。
身にひしひしと迫つて来るものを真実報土といふ。
頭で観念で以てそれの対象になるものが方便化土、
かういふやうに一つ考へて人の書いたものをお読みになりますと、
真実報土と方便化土がはつきりと分る。
この人は化土往生する人か、この人は真実報土を感じてゐる人か。
この人は真実報土を求める人は身に感じなければならない。
身に感じてゐるから未来に間違ひない。
これを現生不退といふのであります。

 (曽我量深著『曽我量深選集11巻』210ページ)

*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*

 「俺はいま熟睡している」という人は(いまは)寝ていない人です。
 「いま、このまま」の現在に充足している人は「いま、このまま」ということもない。
 頭で考えたものは、どこまでも頭で考えたもの(方便化土)でしかなく、現実(真実報土)ではない。







[ 1 - 5 件 / 644 件中 ] 次の5件 >>