聞其名号信心歓喜乃至一念

〈全休の仏教ブログ〉 南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2016/09/26 8:19:54|三貼和讃を読む
十方諸有の衆生は
  十方諸有の衆生は
  阿弥陀至徳の御名をきき
  真実信心いたりなば
  おおきに所聞を慶喜せん

  (浄土和讃・讃弥陀偈讃23)


 「愚禿鈔」に「本願を信受するは、前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり。他力金剛心なり、知るべし」(真宗聖典430ページ)とあります。

 たとえば、信仰上の苦悩に責められて断崖絶壁に追い詰められたとします。すると、谷底から「さぁ、ここへ落ちてこい。身を捨てて救われよ。必ず救う」と呼ぶ声がある。信仰において八方ふさがり、そのとき、わたしが救われる道はすでにない。

 それでも逡巡、苦悩した挙げ句、右も左もわからないまま、わたしは声の主の呼びかけに応じて、谷底に身を投げる決断をする。一歩を踏み出し身を投げた瞬間、谷底は消えて、目の前に仏が立つ。・・これは喩えですが、信仰には必ず一度の決断がある。それを「信の一念」という。

 「わたし」があると信じているが、「わたし」は頭の中だけにしかないと知ることが「わたし」の死です。前念命終、「わたし」がなければ、後念即生、そこは仏の世界です。「わたし」が死ねばすべてが光、すべてが仏の心でできた世界だとわかる。

 南無阿弥陀仏







2016/09/25 0:55:01|三貼和讃を読む
平等心をうるときを
  平等心をうるときを
  一子地となづけたり
  一子地は仏性なり
  安養にいたりてさとるべし

  (浄土和讃・諸経讃6)


 歎異抄・後序には親鸞のつねの仰せとして「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける、本願のかたじけなさよ」(真宗聖典640ページ)とあります。

 親鸞は「一子地」に「三界の衆生をわがひとり子と思うことを得るを一子地というなり」と左訓していますが、「一子地」とは親の心であり、「ひとえに親鸞一人がためなりけり」は子の心です。子に親の心が伝わった証拠には「本願のかたじけなさよ」となる。

 すなわち、親の心と子の心、心と心が互いに通じ合うから「感応道交」といい、現在の親と未来の親とが対話するので「仏々相念」ともいいます。われらは無限の宇宙と永遠の時の中に、一人生まれてきた。やがて一人死ぬが、死んでいく先がわからない。

 われらは生まれて死ぬ。あとはなにもないのか。煩悩を楽しんでも、この底なしの孤独は癒せない。この生存という孤独の闇の中で、さらに宇宙を超えた無量無辺からの声を親鸞は聞いた。「本願のかたじけなさよ」はその表明です。

 南無阿弥陀仏







2016/09/22 11:04:24|三貼和讃を読む
阿弥陀如来化してこそ
  阿弥陀如来化してこそ
  本師源空としめしけれ
  化縁すでにつきぬれば
  浄土にかえりたまいにき

  (高僧和讃・源空讃17)


 大経に「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ」(真宗聖典18ページ)とあります。第十七願、諸仏称名の願です。如来回向の智慧の念仏を「大行」といい、大行としての念仏を称える人を「諸仏」といいます。智慧があるから「諸仏」です。

 親鸞にとり法然は「阿弥陀如来化してこそ」の諸仏であり、還相の菩薩でした。法然が自らを還相の菩薩だと言ったのではなく、親鸞が法然の中に躍動する智慧の働きを見たから「阿弥陀如来化してこそ」と讃歎されたのです。阿弥陀仏を仰ぎ、智慧の功徳を身に受けて生きている生身の姿に(信心の人は)仏を見る。

 すなわち、還相回向とは信心をいただいて生きている生身の人に出会う方の喜びで、わたしが還相回向するということではない。善知識からなにかを教えていただいたというより、智慧の働きが人格となった諸仏を発見したことが喜びです。この道で間違いないと確信するのが第十七願の心です。そして、法然に智慧の光を見た親鸞もまた諸仏、仏が仏を見る仏々相念の世界です。

 南無阿弥陀仏







2016/09/21 15:10:00|三貼和讃を読む
願力成就の報土には
  願力成就の報土には
  自力の心行いたらねば
  大小聖人みなながら
  如来の弘誓に乗ずなり

  (高僧和讃・善導讃11)

  真実信心の称名は
  弥陀回向の法なれば
  不回向となづけてぞ
  自力の称念きらわるる

  (正像末和讃・三時讃38)


 理想と現実といいます。理想とは頭の中にある観念で、嫌いな現実を好きな理想に近づける努力を「自我」といいます。頭の中の思いに執着するからこそ、思い通りでない現実が苦痛になる。思いに執着するから「我執」といい、我執がすべての苦悩の原因です。

 人間以外の生き物は我執がない。宇宙一体の大生命として自由無碍に生きているから、どんな境遇であれ問題はない。人間だけがいちいち頭の中の思いにぶつかって不自由に生きている。信仰の世界にも理想と努力がある。

 「自力の回向」といって理想を造って努力をする。頭が造った世界に生まれるので「仮土往生」といい、救いはない。救いとは事実を事実として受け入れられることです。頭の中の思いを(なくすのではなく)超越する。

 すると、思いのタガが外れて事実を事実と受け入れられる。事実を生きて無碍である。これを「報土往生」というのです。宇宙一体の大生命に「わたし」はない。「わたし」がなければ、どんな現実であれ文句はない。

 南無阿弥陀仏







2016/09/19 20:10:00|三貼和讃を読む
至心信楽欲生と
  至心信楽欲生と
  十方諸有をすすめてぞ
  不思議の誓願あらはして
  真実報土の因とする

  (浄土和讃・大経讃8)

 大経に「たとい我、仏を得んに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ」(真宗聖典18ページ)とあります。第十八願、阿弥陀仏の誓願です。

 なにを誓われたかといえば、十方の衆生の中に、わが誓願を信じる者があるなら、「至心信楽欲生」の三心を回向して、必ず「乃至十念」させよう。もし、わが国に生れなかったら、仏とはなるまいと、こういう誓いです。

 どういうことかといえば、仏を信じる「イコール」自分を捨てた瞬間に一切の苦悩が消えてなくなるということです。具体的には「助けてください」と言えるかどうかです。「助けてください」と言えば、わたしが死ぬ。わたしが死ねば仏の心が感得される。自我に死に仏心に生まれ変わる。これを「報土往生」といったのです。

 歎異抄にも「念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき」と「信の一念」を明かし、如来回向の智慧が生じることを「摂取不捨」と示しています。あなたが一言、「助けてください」と言えば、あなたの中に弥陀の本願成就して、弥陀仏があなたの前に現れる。

 南無阿弥陀仏







[ 1 - 5 件 / 1174 件中 ] 次の5件 >>