聞其名号信心歓喜乃至一念

〈全休の仏教ブログ〉 南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2016/06/25 21:58:03|三貼和讃を読む
煩悩にまなこさえられて
  煩悩にまなこさえられて
  摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり

  (高僧和讃・源信讃8)


 「摂取不捨」とは念仏三昧に入る経験をいい、三昧の中で「わが身」を初めて見る。この経験により仏の方からわたしを見る眼、すなわち、智慧が生じるのです。智慧が生じると努力しなくても常にわたしが見えているようになる。信後の念仏者の精神生活を「大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらす」といいます。

 「照らす」とは光であり、光は智慧であり、仏の方からわたしが見えるということです。「常に」とは真実信心の人は念仏三昧にあるので寝ても覚めても一日中ということです。念仏三昧のことを「臆念の心つねにして」(冠頭讃)ともいいます。

 「摂取の光明」とは念仏三昧で生じた智慧のことで、智慧が生じることを往生といいます。「弥陀大悲の誓願を 深く信ぜん人はみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(正像末和讃)とあります。真実信心の人は称えようと思わなくてもいつでも念仏が出てくるのです。

 南無阿弥陀仏







2016/06/24 8:27:44|三貼和讃を読む
道光明朗超絶せり
  道光明朗超絶せり
  清浄光仏ともうすなり
  ひとたび光照かぶるもの
  業垢をのぞき解脱をう

  (浄土和讃・讃弥陀偈讃7)


 浄土のことを「無量光明土」といいます。光のあるところを浄土といいます。光とはなにか。光はどこにあるか。光は一切の衆生を遍く照らすからどこということはないけれど、衆生のわれらからすれば「ひとたび光照かぶる」ということが必要でしょう。光の中に入る摂取不捨の体験です。

 仏を見る。仏に値遇するとはどういうことか。仏は煩悩を照らす光であるから煩悩が見えることを仏に値遇するという。見えるとは離れる、超絶して捨て去るので「業垢を除く」という。貪欲を清め、瞋恚を静め、無明を破る。煩悩が浄化され解脱を得るので、光のあるところを浄土といいます。

 南無阿弥陀仏







2016/06/23 13:16:03|三貼和讃を読む
弥陀成仏のこのかたは
  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまえり
  法身の光輪きわもなく
  世の盲冥をてらすなり

  (浄土和讃・讃弥陀偈讃1)


 讃弥陀偈讃四十八首の第一首です。われらにとくに親しい。親鸞は「世の盲冥」に「世のめしいくらきもの」と左訓している。智慧がないので無明煩悩が見えないわれらのことです。眼は見るという働きです。しかも、光があるから見える。見えるということは光がある。光を仏といい、煩悩を照らし無明の闇を破るから光といいます。

 照らすのは「見よ」ということでしょう。われら「世の盲冥」は光のない世界で、煩悩のために煩悩に使役されて生きている。主人である煩悩の顔を一度も見たことがない。見たことがないから煩悩に縛られて、縛られていることにも気づかないほど完璧に支配されている。だから、なぜ人生苦を受けるかがわからない。

 そんなわれらを救うために「煩悩を見よ」と仏は光となってくださった。煩悩が見えたら、見えたことが仏です。光あるがゆえに煩悩が見えたのですから、このことの他に仏はない。煩悩が見える場所を光の浄土という。見えることが救い、救われない身と知ったことが救いであると、仏教は教えている。

 南無阿弥陀仏







2016/06/21 21:44:00|三貼和讃を読む
外儀のすがたはひとごとに
  外儀のすがたはひとごとに
  賢善精進現ぜしむ
  貪瞋邪儀おおきゆえ
  奸詐ももはし身にみてり

  (正像末和讃・悲歎述懐讃2)


 これがわれらのありのままの姿です。嘘偽りのない真実の有り様です。もう、これ以上の余分な説明はいりません。誠に申し訳ないことに、ここに書いてある通りですから、よくよく自分のことを思い出してください。

 これは親鸞の懺悔ですが、懺悔は身を捨ててするから暗くない。懺悔は智慧をいただいた喜びにあふれている。だから懺悔は暗くない。無明を見ることを悟りという。仏はわれらに智慧の鏡を与えて、自分の姿を見てみよと迫る。

 外には賢善精進、内は貪瞋邪偽、奸詐。「この現実を見てお前は悲しくはないか」というのが仏の思し召しです。われらは仏のお悟りを信心の智慧という形でいただくが、智慧を与えて救うのが仏の救済事業です。だから、懺悔は光にあふれている。

 南無阿弥陀仏







2016/06/17 22:37:01|三貼和讃を読む
尽十方の無碍光は
  尽十方の無碍光は
  無明のやみをてらしつつ
  一念歓喜するひとを
  かならず滅度にいたらしむ

  (高僧和讃・曇鸞18)


 無明とは智慧がない。智慧とはなにか。煩悩が見えることを智慧という。煩悩が見えた瞬間、煩悩に縛られた心は煩悩を離れて煩悩を見る眼になる。煩悩は「機」となり、煩悩を見る眼は「法」となる。煩悩を見る眼を智慧の光、無碍光仏という。煩悩を見えるようにするからである。

 煩悩は見られて初めて煩悩とわかる。だから、煩悩と煩悩を見る眼は二つにして一つ、一つにして二つの「機法一体」である。また「一念歓喜」とはなにか。煩悩を見た瞬間に「智慧」が生じるので「一念歓喜」という。

 われらは無始以来、煩悩を煩悩とも知らずに生きて来たのである。悪業煩悩の報いである生死の苦しみを受けても、なぜ苦悩を受けるかがわからなかった。煩悩を見た瞬間、われらは煩悩を解脱して智慧を得た。智慧を得た者を仏というが、無始以来の煩悩の身を持っているので「等正覚」という。

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