聞其名号信心歓喜乃至一念

〈全休の仏教ブログ〉 南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2016/05/28 0:22:50|三貼和讃を読む
大聖おのおのもろともに
  大聖おのおのもろともに
  凡愚底下のつみびとを
  逆悪もらさぬ誓願に
  方便引入せしめけり

  (浄土和讃・観経讃7)


 「弥陀釈迦方便して、阿難目連富楼那韋提、達多闍王頻婆娑羅、耆婆月光行雨等」(観経讃6)に続く和讃です。王舎城の悲劇によって浄土教が説き起こされたので「観経」に登場する人たちはみな権仮の聖者とする。それゆえ「大聖おのおのもろともに」という。

 「逆悪」とは「五逆と十悪」。@殺母A殺父B殺阿羅漢C破和合僧D出仏身血が「五逆」で、@殺生A偸盗B邪婬C妄語D両舌E悪口F綺語G貧欲H瞋恚I愚痴が「十悪」です。十悪についていえば、わたしは今日一日、どれ一つとして造らなかった悪はありません。

 悪因悪果の鉄則ですので、目の前ですぐ報いを受けて嫌な思いに沈んだ悪もありましたが、播いた種が数日後、数年後に報いとなってわたしを苦しめる悪もあることでしょう。毎日毎日、五逆十悪の履歴を六十年以上も、この身に記憶させてきたわたしです。

 男と生まれた時には、この身はすでに膨大な量と質の悪の記憶を蓄積していた。その悪の記憶がわたしにまた悪を造らせるのです。たまたま人間の形となったこの命は悪の結晶体として生まれて来た。「逆悪もらさぬ誓願」を聞くことができたことを喜ぶ。

 南無阿弥陀仏







2016/05/27 8:54:43|三貼和讃を読む
超日月光この身には
  超日月光この身には
  念仏三昧おしえしむ
  十方の如来は衆生を
  一子のごとく憐念す

  (浄土和讃・大勢至讃4)


 十二光仏の最後に出現された超日月光仏から「この身」、つまり、勢至菩薩が念仏三昧を教えていただいたと「首楞厳経」にあるそうです。「念仏三昧」という言葉は聴聞の場ではあまり使われない。意味は「十方の如来は衆生を一子のごとく憐念す」と明確です。

 すなわち「臆念の心」が「念仏三昧」です。どういうことか。「憶念の心つねにして」(巻頭讃)ともいいますが、わたしが仏を忘れないのではなく、仏がわたしを忘れない。仏がわたしを「一子のごとく」たえず臆念している。だから、わたしは仏を忘れられない。

 これを別の言葉で「感応道交」ともいいます。寝ている時も仏のお心に包まれているし、仕事に集中していても念仏が出てくださる。いつも諸仏諸菩薩に見守られているから、暴風駛雨の如き煩悩がいつも見えている。このような精神生活を「念仏三昧」といいます。

 南無阿弥陀仏







2016/05/25 11:23:00|三貼和讃を読む
浄土真宗に帰すれども
  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし

  (正像末和讃・悲歎述懐讃1)


 余計なことですが、文意をわずかに窺えば、「尊いことに、浄土真実の教えに遇えばこそ、この身のどこにも真実の心などないと教えていただきました。世間を生きる身ゆえにそれらしくはしていますが、心の中の生活は浅ましくも惨めなものです。

 もとより仏になるための清浄心もありませんので、如来よりいただいた真心で往生させていただくのです」。そのようなお気持ちかと勝手に推測します。親鸞は清々しくも「わが身の事実」に立っている。

 ありのままの自分を受け入れ、この身を仏のお心をもって悲しんでいるのです。ゆえに、すでに親鸞の心はわが身、わが心を離れて仏の位置、浄土におられる。この身を捨てるということがあって、初めて、この身の事実を受け入れるということができるのです。

 南無阿弥陀仏







2016/05/24 12:25:07|三貼和讃を読む
不退のくらいすみやかに
  不退のくらいすみやかに
  えんとおもわんひとはみな
  恭敬の心に執持して
  弥陀の名号称すべし

  (高僧和讃・龍樹讃6)


 まことの信心をいただいた心境を「初歓喜地」とも「不退転地」ともいいます。煩悩の身を捨てていないので身の悟りとはいわず、心の悟りといいます。わたしたちが称名念仏する目的は信心をいただくこと、すなわち「不退転地」を体験することです。

 不退転地の内容はどのようなものかと言えば、初めて「煩悩が見えた」という体験です。「煩悩具足の凡夫」と初めてわかる。煩悩とは人間の心の姿、内容、性質で、深い念仏三昧の中で初めて自分の心の全体を見るのです。この体験により煩悩を見る智慧をいただく。

 心は心の世界を造って心の世界に住んでいるので心の世界を「出離」するともいいます。また、心に縛られていた心が心から離れて自由になるので「解脱」ともいいます。自分の心を離れれば、そこは如虚空、なにもない。事実が事実しているだけの自然の浄土です。

 心の呪縛を離れて心が自由になる喜びと、宇宙の真理、秘密に触れた喜びが合わさった大きな喜びなので「初歓喜地」ともいいます。知るべきことを知った。求めていたものはこれだったと一瞬のうちに確信する。疑いようがない。

 南無阿弥陀仏







2016/05/22 21:42:00|三貼和讃を読む
煩悩具足と信知して
  煩悩具足と信知して
  本願力に乗ずれば
  穢身すてはてて
  法性常楽証せしむ

  (高僧和讃・善導讃12)


 誰もが自分の心は煩悩だらけだなどと言うが「煩悩具足の凡夫」とは仏の知見である。仏のさとりの智慧を信心とともにいただくから「信知」という。すなわち、「煩悩具足の凡夫」とは仏の方から見た人間の姿であり、人間が見た人間の姿ではない。

 だから、まことの信心をいただかなくては「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」(歎異抄・第1章)とは言えない。そもそも「煩悩」とはなにか。人間の心を煩悩という。煩悩しかないからだ。最も激しい煩悩を「三毒」というが、要は、思い通りにしたい欲求である。

 自分の考え、イメージ、気分、感情に合わせて、自分の心を、人を、環境を、仕事を、事業を、人生を支配したい。これだけのために生きている。世界は頭の中にあり、外にはない。すべては「自分」を満足させるためにある。

 それほどに「自分」(という思い)は大事だ。それを仏教では「我執」と呼び、我執に縛られて生きていることに気づいていないので「無明」という。なんでもわかったように思っているが、わかっているものの中にいるだけのことである。

 南無阿弥陀仏







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