聞其名号信心歓喜乃至一念

〈全休の仏教ブログ〉 南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2016/08/30 8:34:02|三貼和讃を読む
真実信心うるゆえに
  真実信心うるゆえに
  すなわち定聚にいりぬれば
  補処の弥勒におなじくて
  無上覚をさとるなり

  (正像末和讃・三時讃27)


 「往生」について親鸞は「即得往生は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とはもうすなり」(唯信鈔文意)と述べている。

 如来回向の智慧が開く心の世界を「浄土」という。智慧をいただくから現生に「往生」するといい、死ねばそのまま「成仏」する。成仏するまでの「往生の生活」を量深師はこう述べている。

 「われわれの信心の生活、仏法の生活、ほんとうの喜びの生活、明るい生活、それを往生という。だから、ここからどこかへ行くというようなものではないのでしよう。娑婆世界におっても、心はちゃんと超越して、そうして心は浄土に居るのである。心が常に光の世界に躍動している、そういう生活を往生浄土というのである」(正信念仏偈聴記)と。

 娑婆とは煩悩が見る世界で、煩悩から離れて影響を受けないことを「往生」とも「超越」ともいう。すでに求める心がないからすべてが与えられてくる。安楽だけを受けるから「往生」という。

 南無阿弥陀仏







2016/08/27 8:21:24|三貼和讃を読む
一形悪をつくれども
  一形悪をつくれども
  専精にこころをかけしめて
  つねに念仏せしむれば
  諸障自然にのぞこりぬ

  (高僧和讃・道綽讃6)


 悩みとは何か。要は思い通りでないというのでしょう。悩みの原因は思い通りにならない現実だとみな信じて疑わないが、実はそうではなく、思い通りにしたい心に原因がある。思い通りにしたい心が悩みを造る。

 思い通りにしたいのが貪欲なら、思い通りにならないから瞋恚という。思い通りにいくと喜び、喜ぶとつけあがり、さらに強く求めるから貪欲という。反対に、思い通りにならないと怒りを発して、怒りはさらに強く求めさせるからもっと貪欲になる。

 強く執着すると心は重く暗く深刻になって、執着するものに深く縛られてしまう。それが悩みという心の状態です。最後は針の先のような些細なことまでも思い通りにしたいと思うようになり、ここまでくると病気といってよい。

 悩みは心の状態であるから、執着を捨てれば悩みは消える。実に簡単なことだが、なかなかできない。執着を心の穢れとも「諸障」ともいう。執着がない清浄心を仏という。一生をかけて心を浄化して死後に仏になる。それを「諸障自然にのぞこりぬ」という。

 南無阿弥陀仏







2016/08/26 8:10:05|三貼和讃を読む
安楽仏国に生ずるは
  安楽仏国に生ずるは
  畢竟成仏の道路にて
  無上の方便なりければ
  諸仏浄土をすすめけり

 (高僧和讃・曇鸞讃23)


 歎異抄に「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」(真宗聖典630ページ)とあります。

 これは親鸞の言葉とされていますが、これだけ読むと「往生」は死後だと思ってしまう。しかし、「信心の人はその心すでに浄土に居す」(善導)とあるように、浄土は如来回向の智慧が開く心の世界であり、信の一念に「安楽仏国に生ずる」のです。

 一方、「念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(信巻)とあるように、親鸞にとって死は(往生でなく)「成仏」(入涅槃)だとわかります。真宗においては、往生は現生、成仏は死後と、はっきりさせることが大事です。

 「安楽仏国に生ず」れば、信心の人は死後、必ず成仏するので「畢竟成仏の道路」「無上の方便」と讃えられるのです。そのように讃える親鸞もまた「諸仏」です。

 南無阿弥陀仏







2016/08/25 7:11:26|三貼和讃を読む
浄土の大菩提心は
  浄土の大菩提心は
  願作仏心をすすめしむ
  すなはち願作仏心を
  度衆生心となづけたり

  (正像末和讃・三時讃19)

  度衆生心ということは
  弥陀智願の回向なり
  回向の信楽うるひとは
  大般涅槃をさとるなり

  (正像末和讃・三時讃20)


 歎異抄に「いかにいわんや、戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ」(真宗聖典636ページ)とあります。

 仏教を学ぶ目的は「無上覚」を悟って生死のない「涅槃に入る」ことです。「仏教おほしといへども、詮ずるところ戒定慧の三学をばすぎず」(和語灯録)という法然の言葉もあることですから、戒律のない浄土門であろうと「定慧」はあるのでしょう。

 すなわち「定」は「念仏三昧」(憶念の心)であり、「慧」は「弥陀智願の回向」です。智慧を仏因として開けてくる仏果としての心の世界が「浄土」、すなわち「涅槃」です。智慧によって仏を見るから「願作仏心」といい、智慧によって衆生を見るから「度衆生心」という。如来回向の智慧を「浄土の大菩提心」という。

 南無阿弥陀仏







2016/08/24 12:45:02|三貼和讃を読む
仏智不思議を信ずれば
  仏智不思議を信ずれば
  正定聚にこそ住しけれ
  化生のひとは智慧すぐれ
  無上覚をぞさとりける

  (正像末和讃・三時讃46)

  仏智を疑惑するゆへに
  胎生のものは智慧もなし
  胎宮にかならずうまるるを
  牢獄にいるとたとえたり

  (正像末和讃・疑惑和讃12)


 歎異抄に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもって、そらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(真宗聖典640ページ)とあります。親鸞の言葉です。

 「煩悩具足の凡夫」とはわれらのことで、「火宅無常の世界」とはわれらが見ている心の世界です。われらが外にあると思って見ている世界は実際はわれらの心に相応していると教えるのが仏教です。つまり、心が世界を造る。心と心が見る世界は常に一体であるということです。

 無始以来の生死流転の記憶を蓄積した宿業の身を受け継いでいるわれらは煩悩以外を経験したことがない。人類で始めて煩悩のない「涅槃」を経験したのが釈尊で、仏教は釈尊が到達した「無上覚」を伝える伝統です。浄土門では「智慧」といいます。

 親鸞最晩年の造である「正像末和讃」ではこの「智慧」(信心)の有無が強調されています。すなわち、「化生のひと」(十八願の機)は「智慧すぐれ」と讃えられ、「胎生のもの」(二十願の機)は智慧がないので「涅槃」を経験しないと。

 親鸞のいう「ただ念仏のみぞまこと」というときの「念仏」とは十八願の弘願念仏であり、二十願の真門念仏ではないことが明らかです。念仏で救われるのではなく、如来回向の智慧をいただくことを救いというのです。

 南無阿弥陀仏







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