聞其名号信心歓喜乃至一念

〈全休の仏教ブログ〉 南無阿弥陀仏 あなたが念仏を称える人となりますように  by zenkyu
 
2016/07/24 21:34:00|三貼和讃を読む
清浄光明ならびなし
  清浄光明ならびなし
  遇斯光のゆえなれば
  一切の業繋ものぞこりぬ
  畢竟依を帰命せよ

  (浄土和讃・讃弥陀偈讃5)


 「一切の業繋ものぞこりぬ」とはどういうことか。親鸞は「業繋」(ごうけ)に「罪の縄に縛らるるなり」と左訓している。すなわち、今まで、悪業煩悩、心とその思いに繋がれて、ありとあらゆる苦悩を舐めてきたが、今、如来回向の智慧を得て、悪業煩悩、心とその思いを離れることができた。

 もう、どんな思いがいくら湧いてきても、すでに心とその思いから離れているので、もう苦悩を受けることはない。悪業煩悩、心とその思いにがんじがらめに縛られてきたが、智慧を得て、わが心、わが思いと妄りに執着する我執の綱がほころびて、いま、始めて心が自由になった。

 しかし、本願の念仏は煩悩に一切手を着けないから煩悩はそのままで、煩悩は一生、悪業を造り続け、悪業の報いとしての生死を受け続けなければならない。しかし、すでに心は心とその思いを遠く離れているので二度と生死の苦悩は受けない。

 「遇斯光」(ぐしこう)とは信心の智慧であり、「一切の業繋ものぞこりぬ」とは智慧の功徳です。この和讃は信心の中身を具体的に教えてくれているのです。親鸞は信心を現世の利益として「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり」と和讃しています。

 南無阿弥陀仏







2016/07/23 20:36:32|三貼和讃を読む
自力の心をむねとして
  自力の心をむねとして
  不思議の仏智をたのまねば
  胎宮にうまれて五百歳
  三宝の慈悲にはなれたり

  (正像末和讃・疑惑和讃21)


 「自力の心」とはどういうものか。われらは自分の思いを信じ、自分の思いを「主」(あるじ)として信奉している。「帰命・自分の思い」「南無・自分の心」と深く深く帰依している。これを「自力の心」という。命より大切なのが自分の思いで、自分の思いを実現するためにわれらは生きている。
 
 精神構造的には、頭に湧いて消えるだけのはかない思いを「自分」であると認識することで「自我」が成立している。しかし、事実としては、頭の中の思いは蜃気楼のようなもので、放っておけば消えるだけの「ただの」思いだが、「ただの」思いに深く執着して「ただの」思いを「自分の」思いにしてしまう。これを仏教では「我執」という。

 思いを我と執着する心にとり思い通りにならない現実は苦痛です。苦痛は怒りや憎しみとなって心は心の闇に落ちて行く。元はといえば、ただの思いを自分と誤認した「無明」に始まっている。しかし、思いを我と執着することがなければ、思いはいくら起こっても「ただの」思い、「自分の」思いではないからなんの苦痛もない。

 南無阿弥陀仏







2016/07/22 8:33:46|三貼和讃を読む
往相還相の回向に
  往相還相の回向に
  もうあわぬ身となりにせば
  流転輪回もきわもなし
  苦海の沈淪いかがせん

  (正像末和讃・三時讃45)


 流転輪廻は「生死」ともいって、煩悩があり、煩悩にそそのかされてする悪業が尽きぬ限り、悪業の報いとしての流転生死に終わりはない。しかし、煩悩具足のわれらから煩悩がなくなることはないから、阿弥陀仏は煩悩具足のわれらを哀れんで、煩悩を断つことなく生死の苦しみを離れる本願念仏の道を発見してくれた。

 大乗仏教の極致である「不断煩悩得涅槃」です。生死とは苦悩です。よって、生死を離れるとは苦悩はあるが苦悩が苦しみでなくなることです。これを親鸞は「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながら かならず 転じて軽微なり」(現世利益和讃)と和讃しています。

 煩悩がなくなれば生死もない。これを涅槃といいますが、煩悩があっても煩悩の影響を受けなければ生死の苦悩を受けない。生きていればいろんな困難に出会う。これは必然です。しかし、困難は必ずしも苦悩ではない。苦悩を受け入れる心の柔らかさがあれば困難は苦悩にはならない。

 南無阿弥陀仏







2016/07/21 8:26:30|三貼和讃を読む
真の知識にあうことは
  真の知識にあうことは
  かたきがなかになおかたし
  流転輪廻のきわなきは
  疑情のさわりにしくぞなき

  (高僧和讃・源空讃12)


 貪瞋煩悩に責められて、われら凡夫は一時の暇もなく身口意の悪業を造り続けている。自業自得の道理にて、われらは無量無数に造り続ける悪業の報いを受けて心は焦燥、不安、恐怖、絶望の支配する苦悩の世界に沈んでいく。

 煩悩ある限り悪業は尽きず、次々とさまざまな苦悩を受け、苦悩から逃れようとまた悪業を為す。六道をさまようわれらの姿を「流転輪廻のきわなきは」というのです。川の流れに流されるようなので流転、六種の苦悩を車輪のように終わりなく廻るので輪廻という。

 そもそも、われらが念仏の目的は「出離生死」といって、六道(生死)を永遠に離れることにあった。煩悩は命だから煩悩を断つことは不可能です。だから、悪業煩悩には一切手をつけず、悪業煩悩の結果である生死だけを受けない道を弥陀仏が見つけてくださった。それが「本願の念仏」です。

 和讃にいわく「流転輪廻のきわなきは疑情のさわりにしくぞなき」と。弥陀の救いは煩悩をまったく問題にしていない。本願を信ずる心一つで救われる。どうやって信じるかは、難信の法を信じた人に逢って教えていただくしかない。

 南無阿弥陀仏







2016/07/20 0:20:16|三貼和讃を読む
真実信心の称名は
  真実信心の称名は
  弥陀回向の法なれば
  不回向となづけてぞ
  自力の称念きらわるる

  (正像末和讃・三時讃38)


 仏の方からわたしが見える「智眼」をいただく信体験を「弥陀回向」といいます。信の一念の前は、わたしが他人を見て、わたしが世界を見る。わたしがこの世界の「主」(あるじ)であった。しかし、仏がわたしを見い出してからは、わたしは「見る主」から「見られる客」に転換した。

 わたしの内側を見る眼をいただくことを「弥陀回向」という。内側とは煩悩でできたわたしの心です。わたしが仏をみる方向、眼が外側に向かっていることを「自力」といい、仏がわたしを見る方向、眼が内側に向かっていることを「他力」といいます。

 信の一念にわたしの内側が見えると救われるのは、煩悩が見えた瞬間に煩悩を離れるからです。このように、煩悩が見える智慧をいただくと煩悩を主とした生活が終わり、仏心を主とした生活が始まる。仏心が開く浄土の新しい生活が始まる。こんな嬉しいことはない。

 南無阿弥陀仏







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