槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2022/07/04 17:25:12|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)
   倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第七回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
前回第七回は、
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
そして、今回、第八回は以下について記したいと思います。
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】

       倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第七回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
前回第七回は、
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
そして、今回第八回は
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】

36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
次に仏教が日本に渡来して以降、どの様に変遷したかを、担った人物と、歴史的名所について触れたいと思います。人物に関してはすでに天智天皇、天武天皇、斎明天皇を取り上げているので、聖徳太子、空海、最澄、良弁、親鸞聖人、空也上人を取り上げ、歴史的名所については、法隆寺、東大寺、薬師寺、興福寺、の寺院を取り上げたいと思います。

@)聖徳太子
苻堅が五胡十六国時代を代表するほど仏教に対する関心があった王であり、中国仏教史上、重要な人物である道安(312または314〜385年)を 自分のもとに迎えたほか、訳経僧として有名な鳩摩羅什(350?〜400?年)を獲得するため西域に兵を派遣していた。

その苻堅から仏教を伝えられた高句麗でも仏教が盛んになり、中国に数多くの留学僧を派遣したほか、聖徳太子の師となった慧慈(?〜623年)をはじめとして、多くの僧侶が日本に来て活躍した。と伝えられている。

慧慈と聖徳太子との関係について、「推古天皇23年(615年)、聖徳太子が著した仏教の経典である(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国し、『三経義疏』を高句麗に伝え、広める。」とある。

推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて慧慈は大いに悲しみ、「高麗僧恵慈…誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳太子)有り、…玄聖の徳を以て日本の国に生まる」といい、来年の命日に死ぬと予言し、その誓いどおりに入滅したので、高句麗人は恵慈もまた聖なりと評したという。」と伝えている。

仏教の東アジアでの伝播に大きな寄与をした苻堅の係累の恵慈によってそれほどまでに称えられたということは、聖徳太子が単に時の風雲児ではなく、地に着いた研究者の側面を持っていたことを著わしていたのです。聖徳太子は中国の註釈書を踏まえながらも、独自の意見を出すなど、仏教に関する高い知識を示している。今でいうなら仏教学博士と言っても過言ではないのです。

また、鑑真が唐の玄宗皇帝の妨害をはねのけて倭国に聖人がいることが訪日の動機の一つになっていたというのは聖徳太子のことに違いないのです。

もう一つ、聖徳太子に関する仏教受容に関して次の様なことが知られています。
日本では、仏教伝来以前から古来の神々が信仰されていました。仏教が伝えられると、仏教を積極的に受け入れようとする側と受け入れに反対する側とに分かれます。 仏教を受け入れようとする側の代表は、中国・朝鮮から渡ってきた渡来人系の蘇我氏で、受け入れに反対する側の代表は、物部氏でした。

仏教の受容を巡る問題は、豪族間の権力争いと共に激化しますが、蘇我氏の勝利により一段落します。 崇仏派の蘇我氏が勝利したことで、仏教は急速に普及していきます。推古(すいこ)天皇は、「三宝興隆の詔」を発布し、聖徳太子は「十七条の憲法」を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。

また、豪族の間では、各自の寺院が建立されます。これらの寺院は、それぞれの氏族の祖先を祀る目的で建てられ、「氏寺」と呼ばれます。 このように従来の祖先崇拝の延長として仏教が信仰される一方で、中国や朝鮮の最新の仏教学の影響も見られます。

以上の記載から、聖徳太子は、最初は一方的に仏教のみを特別扱いして受容したのではなく。儒教や道教、さらには祖先崇拝の神道や八百万の神の思想さえにも目を配った上で、日本人の民族性、風土や資質をも総合的に判断した上で仏教を国教にしたに違いありません。

北魏の皇帝のような、私的所有物の仏教ではなく、一般民衆によって広く、深く支持される仏教を目指していたものと思われます。

これほどの聖人であれば、信仰の対象にもなっている筈です。聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立していました。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていったのです。

太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもあり、聖徳太子の存在は倭国だけでなく、朝鮮半島や、中国本土にも伝えられていたようです。

また、室町時代の終わり頃からは、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。

さらに江戸時代には大工らの他に、左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになったようです。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称されるようになっていて、現在でも継続して実施されている地もあるようです。

現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。その法隆寺を訪れた時のことを筆者のブログ「槐の気持ち」に取り上げているので、そこから抜粋転記して以下に紹介します。尚、本欄に記載している写真番号はそのブログに記載した写真番号と同じです。

『ここからみた五重塔と金堂のセットも記憶がある。ただあの頃は五重塔の意味も、金堂の意味も知らなかったのである。しかし、そんなこととは関係なく、同じ場所に建ち続けていた全く同じものを40年の時を経て向いあっている不思議な気分である。 同じ40年でも、人間にとっては、ほぼ50%ものエージングであっても、病の用明天皇のため、推古天皇と聖徳太子が建立した607年から現在までの1404年に対しては3%足らずのエージングであり、相対的には空間的にも、時間的にも普遍のものに接したという気持ちになった。

 法隆寺の五重塔は薬師寺の五重塔と異なり“裳階”というのがないので、屋根の数は単純に五層である。ただし最下層のみは内陣があり、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅(涅槃)、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されていると法隆寺のサイトに説明されている。
・・・中略・・・、
最下層だけはそのためか“裳階”がついているので、屋根の総層数は六層となる。しかし五重塔である。五重塔と並び建つのが金堂である(写真3a)。内部は見ることは出来なかったが、パンフレットには、「聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)、

その左右には太子の父である用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、母である穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、それを守護するように樟で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、邪鬼の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安時代)の諸像が安置されています。また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在は再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。」と紹介されています。

ここまでくると、雲崗石窟寺院3号窟を皇室の私的信仰と馬鹿にできなくなる。結局は造窟者にとって敬うべき大切な人を祀る為に建立するということに相違があるとは言えなくなります。

・・・中略・・・、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。

この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。」と説明されていました。

A)良弁(ろうべん)
奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。持統3年(689年)、相武国造後裔の漆部氏の出身である漆部直足人の子として生まれる。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、又は、若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。良弁に関しては筆者のブログ「槐の気持ち」に詳しく紹介しているので、そこから抜粋転記して以下に紹介します。
 
 【飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)
・・・前略・・・、次に本堂を参観した。正面に如意輪観音菩薩像が鎮座し、右手を鉛直に立て(施無畏印)、左手を膝の上に乗せ、手のひらを広げて天に向けている(与願印)(写真1)。
 如意輪観音菩薩像は奈良時代中期の頃、東大寺の良弁や実忠による大規模な如意輪観音造像活動に促されて造立されたものらしい。
 
良弁、実忠については司馬遼太郎著「街道をゆく:24奈良散歩」に多くのページが割かれ、予備知識があったが、こんな所にある寺の由緒にも登場するとは思いも寄らなかった。ついでながら岡寺の開祖は義淵であり、その義淵像は国宝となっている。義淵は白鳳時代後期から奈良時代にかけて仏教界で指導的な役割を果たした高僧で、奈良仏教の逸材で彼の指導を受けなかったものはいないと言われている。その中に良弁、行基がいた。

良弁は聖武天皇に強い影響力を持ち、東大寺の開山であり、華厳宗の導入に力を尽くした。義淵は法相宗の確立に力を尽くしたと言われるので、良弁は法相宗から華厳宗に改宗したことになるが、塑像と同じ様に、心棒を法相宗とし、まわりに盛りつける粘土に相当するのが華厳宗の教義だったのかも知れない。・・・後略・・・。
 
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる。

天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や、『元亨釈書』にくわしい。
 
B)空海
空海に関し、これまで自分のブログ「槐の気持ち」に取り上げたことのある部分を抜粋転記してみます。
 
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
・・・前略・・・、寧波は唐の時代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、空海、最澄らの留学僧、遣隋使、遣唐使が最初に着陸した中国の地であり、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学したと言われた地である・・・後略
 
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
・・・前略・・・、尚、夢枕 獏著の「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」は一種の歴史怪奇小説と言えようが、それには、唐の長安に遣唐使としてやってきた若き天才・空海と、盟友・橘逸勢、更には、白楽天(白居易)や、安倍仲麻呂(中国名:晁衡)、李白、玄宗皇帝、安禄山、楊貴妃、韓愈など多くの歴史上の人物が登場 する。そして人物以外では猫と牡丹が重要な役割をしていて妖気漂う小説となっている。また、唐を衰退させる原因と見なされ、玄宗皇帝が楊貴妃を処刑せざるを得ない状況に陥った際、道士・黄鶴の提案に従って尸解の法を用い、楊貴妃を仮死状態にして、埋葬し、後に掘り起こして復活させようとした際に、晁衡(安倍仲麻呂)の手引きで倭国(日本)に難を逃れようとしたが、あえなく失敗したというくだりがある。・・・後略。

【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
この時代、即ち日本では天平、奈良時代、中国では唐の時代、に仏教の進展に貢献したのは、日本人では空海、中国人では玄奘、そして両国の架け橋になったのが鑑真と言える、というのが自分の認識であるが、それは後世の著作物(小説)に影響されているところ大である。玄奘はご存知「西遊記」、空海は「空海の風景」司馬遼太郎著や、最近では「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」夢枕 獏著など、そして鑑真は「天平の甍」井上 靖著である。
 
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】写真番号はブログ「槐の気持ち」に用いたものです。
・・・前略・・・、ホテルの朝食を済ませ、最初に向かったのは、空海も訪れたと言われている大相国寺であった。・・・中略・・・、大師堂には空海の銅像が建てられている(写真3C1)。蔵経楼には玉仏のうつくしい観音像が安置されている(写真3a)。そして寺庭には開封大相国寺と京都相国寺との友好の記念碑が建てられている(写真3C2)。そして、他の寺庭には、先に触れている魯智深の像があった(写真3d)。・・・中略・・・、ところで、日本の鎌倉仏教、臨済宗、曹洞宗に大きな影響を与えたのが唐、宋時代の中国仏教と言われている。その中国宋代の禅には、看話禅と黙照禅がある。
 
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】写真番号はブログ「槐の気持ち」に用いたものです。
・・・前略・・・、そして更に先に進み円形の出入り口をくぐり少し行くと空海の像(写真3a)が眼に入った。像の台の側壁には「中日友好25周年」と記されていた。空海も遣唐使の一員として中国の地を踏み、この白馬寺を訪れたことが事実ということであろう。・・・中略・・・、少し前に、武澤秀一著「空海 塔のコスモロジー」を読んでいて、そこにサーンチー第一塔東門のレリーフの写真が掲載されていたのを記憶していたのだ。・・・以下略。
 
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
・・・前略・・・、ここ智積院と前日雪の中を訪れた東寺との共通点はともに真言宗の古刹で、ともに創建に空海が関わっていることであろう。その割りに仏教色は薄く、見せる非公開文化財は庭園と長谷川等伯の襖絵であった。

【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
・・・前略・・・、また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という説もある。
一方、弘法大師と乙訓寺との関係は、以下のようなものだった。
弘法大師は、乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に嵯峨天皇から任命され、この寺に在住した。大師在任中、弘法大師と同時に入唐、大師よりかなり早くに帰国していた最澄は空海をこの寺に訪れ、真言の法を教えてほしいと頼んだ。大師は親切丁寧にその法を伝授した。
 
在唐期間の短かった最澄はその後も再三空海との交流を深め、二人はそれぞれ日本真言宗(弘法大師)、日本天台宗(伝教大師)を確立、それまでの日本仏教の流れに大きな変革を与えた。
 
弘法大師が中国から持ち帰った仏典は、最澄も驚くほど、これまで日本にないものばかりであった。嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備した。・・・以下略。

【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
・・・前略・・・、金剛という言葉の意味を晃一はよく知らなかった。
空海が開いた金剛峰寺は歴史で学んで知っていたが、その本当の意味は、この時期の晃一にとってどうでも良いことであり、また、この寺を含めた近隣の寺々が、同じ叡山一派ということで、信長の焼き討ちに遭ったということも、脳梗塞を患って以降、精神の置き場所を探し続けるようになってから空海に興味を持った結果知りえたことであった。それはかなり先のことである。・・・以下略。

【西方流雲(4) <<< 6.神護寺 >>>】
・・・前略・・・、楼門でもらった入場券の裏にはその様な神護寺の由緒が書かれていたが。その中に弘法大師の宗教即ち真言密教について簡単に紹介されていた。「真言陀羅尼には神秘の力が有り、その一字一句には百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって災いを避け、福を招くことができるし、凡夫の身でも速やかに仏になることが出来る。」と書かれていた。
 
この頃の晃一には何を言っているのかさっぱり分からなかったが三十年後、この空海に魅かれて空海に関する色々な書物を読むことになるとは当の本人にもまったく想像ができないことで有り、人生の伏線を感じる能力を、もし晃一が持っていたら、この時何かを感じなくてはいけないのだったが、晃一は、この日付の日記に、この宗義に対する感想として、この宗義は仏道に限らず、現在における努力をすれば必ず報われる。古今東西を問わず人間界に通ずる一つの道理となる考え方であろうと、とんちんかんなことを書いている。・・・以下略。
 
C)最澄
筆者は、若い時に司馬遼太郎の「空海の風景」を読み、すごい日本人がいたものだ、ということで関心を持ち、空海ものを読みふけり、かつ空海にとって重要な寺院の乙訓寺の近くの会社に勤務していたこともあり、空海に関しては関心が高かったが、最澄に対する関心は空海に比較して低かったと思います。

しかし、中学時代の修学旅行で訪れた比叡山延暦寺の伽藍と厳かな修行僧の佇まいを見て、大いに感銘をうけたことは今でも覚えています。

空海は、多少の道を外れても物事を達成して行く人間性を持っているのに対して、最澄は仏教の隅々まで、とことん理解しつくして行く努力派で、密教/顕教という使い方をするなら、空海の密教派に対して最澄は顕教派であったのではないかと思っています。どちらが良いかは、浅学な自分には分かりませんが、優秀な後継者づくりには顕教が有利だったのではないかと思っています。

空海は最澄の優秀さを認めていたので、密教の本質を最澄によって理解された挙句に、最澄が中国から持ち帰った天台宗に包含される一宗と体系付けされてしまうことを恐れたのではないかと思っています。

ここで、密教と顕教の違いについて以下に記したいとおもいますが、筆者は良くは理解出来ていません。
・・・以下省略・・・。

【顕教と密教】Wikipedia より
顕教とは、仏教の中で、秘密にせず、公然に(明らかに)説かれた教えのこと。密教の反対語。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の観点から分類した教相判釈の一つである。空海は、顕教と密教を次のように区別した。
顕教:衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。
密教:真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え。空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけた。

顕教の経典 - 『華厳経』・『法華経』・『般若経』(一部を除く)・『涅槃経』など。
密教の経典 - 『大日経』・『金剛頂経』・『理趣経』など。

最澄や弟子円仁らは、中国の天台宗とは趣を異にした日本独自の天台教学の確立を目ざし、『法華経』を核にし、他の仏教の経典を包摂しようと試みた四宗兼学という立場から、円密一致を説いている。

この2つの教典は密教内の別のグループにより 独立して作られたと考えられています。 大日経は、インドから中国へやって来た善無畏と、 その弟子の一行によって8世紀に漢訳されました。 金剛頂経は、インド出身の金剛智と、 その弟子で、インドまたは西域出身の不空によって漢訳されました。 これら2つの異なる系統の密教を1つにまとめて、 真言宗の体系を作り上げたのは不空です。 不空の弟子が恵果、恵果の弟子が空海です。
 
一方、天台宗は6世紀の智によって開かれた宗で、 まだ密教がない時代であり、顕教です。 法華経を根本教典としており、修行の中心である止観は 禅に近いものです。 最澄は唐で天台宗を学びますが、同時に密教も取り入れようとして それも学んできます。
 
比叡山延暦寺を開いた天台宗の開祖として著名な最澄は、エリート僧として出発する。その地位を捨て、比叡山中で12年間修行した彼は、弟子たちにも孤絶した状態での勉強を求める。そのような最澄の残した最大の成果は「二百五十戒」の伝統を捨て「大乗戒」を確立したことだと言われています。
 
今言われたように、例えば法然や親鸞も比叡山で「天台浄土教」という天台宗の中で発達した浄土教を勉強していますし、道元も最初は比叡山で勉強して、山を下りてから禅宗のほうに入っていくわけです。
 
日蓮にしても、最初は比叡山で勉強している時期がありました。そのようなことから、やはり比叡山延暦寺の持つ、学問や修行をする場としての意味は、非常に大きなものがあったと考えられます。人によっては、当時の「総合大学のトップ」と見なされると言う方もおられ、多くの僧侶が比叡山で学びました。尚、空海との関係については既に空海のところで紹介しましたので省略します。
 
D)親鸞聖人
以下は「浄土真宗親鸞会」ホームページより」

【ご出家】
親鸞聖人は約850年前、京都にお生まれになりました。4歳で父を、8歳で母を亡くされ、「次に死ぬのは自分だ」と死の影に驚き、9歳で出家。比叡山天台宗の僧侶となったのです。「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」の歌は、出家の時に詠まれたものと伝えられています。「人は死ねばどうなるのか」。この暗い心の解決一つを求めて、親鸞聖人は比叡の山で猛烈な修行に打ち込まれます。

【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
時は流れて20年。親鸞聖人の修行は他の追随を許さない壮絶なものでしたが、いまだ暗い心の解決は成し難く、比叡山の教えに絶望。ついに下山を決意されます。「煩悩に染まりきった親鸞の救われる道はないのだろうか。導いてくださる高僧はどこに……」。京都の街をさまよい歩く中、四条大橋で旧友と思わぬ再会を果たし、その縁で「どんな人も本当の幸せになれる道」を説かれる法然上人に出会います。そして阿弥陀如来の本願を聞き、たちどころに絶対の幸福に救われたのです。

【破天荒のご結婚】 本稿省略させていただきます。

【弾圧により流刑】
高木、風にねたまれる。それは、いつの時代も変わらない。法然上人の信奉者が急増すると、他の仏教宗派のねたみから日本仏教史上かつてない大弾圧が引き起こりました。念仏は禁止、法然上人は土佐(高知)へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ流刑となったのです。しかし親鸞聖人は、越後で仏教を広められます。
 
【関東での20年間】 本稿省略させていただきます。

【著作に励まれる】 本稿省略させていただきます。
 
E.空也上人(903年 - 972年)
前回も取り上げたので、今回は省略させていただきます

     第八回 完   第九階へ続く
    
 







2022/07/03 12:55:00|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その9)
        倭国(日本)への仏教伝来の道程(その9)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝播経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第八回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】

 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
第七回
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
第八回
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】
そして今回第九回は。
37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷と、担った人物(続)
A)日本渡来後の仏教の時代的変遷と、変遷の舞台となった地(寺院)
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
について紹介します。 
 

37)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所(2)
次に仏教が日本に渡来して以降、どの様に変遷したかを、担った人物と、歴史的名所について再度触れたいと思います。人物に関してはすでに、聖武天皇、天武天皇、斉明天皇、聖徳太子、空海、最澄、良弁、親鸞聖人、空也上人を取り上げましたが、今回は更に、時代ごとに現れた聖人を、飛鳥時代から室町時代までと、歴史的名所となった、法隆寺、東大寺、薬師寺、興福寺、の寺院を取り上げてレビューしたいと思います。また、時代が進むとともに、仏教は国を治める治世者から一般庶民まで広範な階層の人々に信仰され、浸透し、一般民衆にも広がることになり、信仰にたいするニーズも多様化する中で、それまで教義の中に現れなかった浄土思想や、末法思想について人の生死と対応付けて信仰に取り込まれるようになってきした。も調べてみましたで、それについても。レビューしたいと思います。
 
@)浄土思想
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
『浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り、本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。そしてそれぞれの浄土には主宰する仏がいて、その関係は以下の様になっていると考えられている。』(Wikipediaより)
 
・阿弥陀仏---西方極楽浄土、
・弥勒菩薩---東方兜率天、
・大日如来---密厳浄土、
・観音菩薩---補陀落浄土、
・久遠実成の釈迦牟尼仏---霊山浄土(日蓮宗)
以上の内、
「西方極楽浄土」というタイトルでYouTube検索したら、ヒットした番組があり、見ていると、大変豪勢で近代的な建物と内装。ゴミ一つない部屋べや。それと出される食事メニューまであるのには驚きました。物質世界、または胎蔵界を著わしている様で、「少し違うのではないの?」と、違和感を感じました。

浄土というのは、精神世界、観念の世界、または仏教用語で言うなら金剛界であると筆者は思っているので、かなりの違和感を感じました。もっとも映像化できる対象は全て物であり、映像化できる世界ではありません。それを人々に
説くというのは、並大抵のことではありません。

ただ、音や光であれば、精神世界、観念の世界、に近いのではないかと思うし、ある状態から他の状態に遷移させる力、例えば治水を良くしたり、人の病を治すというのは、極楽浄土世界に存在する”場”の様に思っても良いのではないかと思います。
 
また「西方極楽浄土」での生活空間の殆どが、読経や仏典等の勉強で、時を過ごし、阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)を前にきちんと整列して読経をしたり、経典を読み耽るという生活の様で、これでは、窮屈で、すぐ疲れてしまうように感じ、自分があのような時空の中で毎日過ごすというのでは極楽とは言えないと思いました。
 
また、そのYouTube番組に現れる映像の中に空中に浮く無数の浮遊体が見えるのですが、あれは一体何なのだろうと答えが得られないのです。
 
筆者は脳梗塞を罹病したことがあり、救急車で運ばれたその日の夜に見た夢は、その話をすると。聞いた人の殆どが「それって、臨死体験ではないの?」との感想が多く返ってきましたが、それはまるで夢のようなものであり。あの世というのは、それとも異なり、全く意識がなく、暗黒で、時間も空間も意識させない世界ではないかと想像しています。その夢の内容を筆者のブログ「槐の気持」にメモとして書きおろしていますので、読んでいただければ、と思います。
 
また、気を失って救急車で運ばれた経験のある人の話では、「転倒して気を失ってしまった瞬間のこと、意識を失っている最中のことは全く記憶になく、暗黒で時間も空間もないところを漂っていたという感じであった。」と聞いたことがあります。
 
A)日本の各時代における浄土信仰
以上の項で、日本への仏教伝来以降、仏教の拡散で後世に名を残した名僧をとりあげましたが、以下では、時代順に現れた名僧を、Wikipedia情報を参考にレビューしてみました。ダブって示した名僧もありますが、子弟の関係も分かるので、再記して紹介したいと思います。

【飛鳥時代・奈良時代】
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られました。
          
【平安時代】
比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされました。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まったのです。
平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。 

【平安時代初期】
【】円仁【】
承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。
 
【】良源【】
良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。
こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。 
        
【平安時代中期】
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。
【】空也【】
空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。
【】源信【】
源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。
『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。
 
986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。
源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。
 
【】慶滋保胤【】
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。
後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。
この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。
こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。

【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く、中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
 
【末法】
本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。
 
さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は、本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微については、ともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。
 
末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。前に記したYouTube番組の「西方極楽浄土」みたいなものか。但し外観だけではなく内観も宮殿のような建物で、鐘楼も全自動鐘撞装置という感じであったが。
 
この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。
 
【】良忍【】
良忍(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。
天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。
この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。

【鎌倉時代】
平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)

また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。

【】法然(源空)【】
法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
 
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
 
また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
 
【】親鸞【】
親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
1181年に比叡山に登る。親鸞の生涯は第8回に特に取り上げて紹介した。
 
1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し、必ず滅度に至らしめられると説く。
宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。

【】一遍【】
一遍は(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。
 
その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すら不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。
 
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
 
【室町時代以降】
【】蓮如【】
本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
 
寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。
文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。
 
信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。
 
一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。
 
蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
 
しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)
その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。(詳細は、本願寺の歴史を参照。)



      第九回 完  第十回へ続く










 







2022/06/28 20:56:00|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その7)
         倭国(日本)への仏教伝来の道程(その7)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、  大項目番号 項目タイトル(18pts)で. 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)で、 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)
表しました。
  
前回までの第一回〜第六回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)高昌故城
A)アスターナ古墓群
B)ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳天皇による神護景雲4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼と鐘楼の併設】
 第六回(前回):
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
そして今回第七回は、以下の項目について、紹介したいと思います。
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
【于吉仙人vs孫策】 
【左慈仙人vs曹操】
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰談山神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩像の姿勢]
 [弥勒菩薩像の由来]
 [弥勒菩薩像の成立]
 
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
中国後漢時代末期の武将。揚州丹陽郡(現江蘇省)に笮融という武将がいました。はじめ徐州の陶謙に仕え、広陵や彭城で兵糧輸送などの監督官を務めていました。しかし、やがて兵糧などの物資を奪って自立するようになります。
 
この頃の笮融は、領内に壮麗な楼閣を備え、3,000人もの人々を収容できるような伽藍を建立した。また、毎年の仏誕節である4月8日には、盛大な法会を執り行ない、寺に至る者は5,000人に達したとされました。後の中国大陸における仏教が広まる基礎を作り出した布教者であり、中国の仏教にとっては功労者であると言える一面もあったようです。
 
興平元年(194年)に、陶謙が曹操に攻められて徐州が混乱すると、下邳国の相となっていた笮融は、彭城国の相であった薛礼と共に、揚州刺史の劉繇を盟主として仰ぐようになった。また、ほぼ時を同じくして、混乱を避けるために広陵太守の趙cを頼った。趙cが笮融を賓客として持て成したが、笮融は広陵が豊かな土地であると見ると、趙cを謀殺して、広陵で略奪の限りを尽くしている。
笮融は後漢末期に仏教を布教した極悪非道の野心家、残虐で無節操な面と、仏教寺院を建立したという二面性を持つ人物だったのです。
笮融は、横領によって蓄えた資金を使って大々的に浮屠寺(仏教寺院)を造営し、錦や彩り鮮やかな布で作った着物を着せました。黄金の塗料が施された銅製の仏像を安置します。
また笮融は、人々に仏経を読むことを義務づけ、その郡内や近隣の郡に「仏道に心を向ける者には出家を許す」との命令を出し、一般の賦役などを免除して人を集めたので、遠近からやって来た者は合わせて5千余戸にものぼりました。
笮融は、毎年4月8日が来るたびにおびただしい量の酒や食事を準備し、道路に敷かれた蓆は何十里にも連なるような盛大な浴仏会を開きました。様々な人々が見物や食事に訪れて、その数は1万人近くにも及び、その費用は巨億にのぼりました。
 
初平4年(193年)秋、曹操が徐州に攻め込むと、下邳相(徐州・下邳国の太守)であった笮融は、男女1万人と馬3千頭を引き連れて広陵郡に逃げ込みました。すると、広陵太守の趙cは彼を賓客として礼遇します。ですが、広陵郡は、いつも人が多く出て賑わっていることに目をつけた笮融は、酒宴が酣となったのに乗じて趙cを殺害すると、兵を放って徹底的に略奪を行い、奪ったものを車に積んでそのまま広陵郡を去りました。ちなみに笮融が王国相をつとめた徐州・下邳国は、曹操が大量虐殺を行った地域です。
 
その後、笮融は薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)の南に駐屯した。劉繇が孫策に攻められると、笮融は薛礼と共に劉繇を支援して戦い、一進一退の攻防の中で、孫策に矢傷を負わせている。しかし笮融が、孫策が死んだとの偽情報を信じて策にはまり大敗すると、劉繇陣営全体も敗北を喫した。笮融は劉繇に従って逃亡し、彭沢に駐屯した。笮融は劉繇の命令を受けて、諸葛玄と豫章太守の座を争っていた朱皓を救援し、建安2年(197年)正月に諸葛玄を戦死させた。
 
ところが笮融は自立の野心を抱き、朱皓や盟友の薛礼までをも殺し、豫章の支配権を奪い取った。その後、攻め込んできた劉繇と激戦を繰り広げたが、ついに敗北して逃走し、最後は付近の住民に捕らえられ殺されてしまった。「聖人と悪人は紙一重」という人生を駆け抜けた人物だったのだろう。しかし、仏教史で聖人と見做された、アショカ王。鳩摩羅什は前半生にこともなげに人を大量に殺害し、後半生は聖人と言える人生、魏の曹操は石岐に仏教(浮屠)の布教を認めたものの、上記の様に徐州・下邳国(こく)で大量虐殺を行っている。また、南朝の梁の武帝の様に仏教を自分の玩具のごとく私物化し、それによって国の疲弊に繋がっても、反省もしない様な皇帝も居たりします
 
尚、孫策が狩の最中に襲われ、瀕死の重傷を負ったが回復する経過については、いずれの三国志に於いても、呉の黎明期のエピソードで、重症であっても、結局は助かったということもあり、この場面の真因については殆どの読者は記憶に残るほど覚えていないだろう。それと、後には本当に死に至る矢キズを負い、結局はその傷が元で死することになるエピソードの方が有名であるが、そこにも笮融の名前は出てきません。

【于吉仙人vs孫権】 
孫策にはどうしても超えることのできない存在がいて、それを超えることを無理して模索すればするほど、その存在に輝きを与えてしまい、結局はその存在に、いわれなき罪をかぶせて処刑することになります。こんなことをすれば、民衆が離反することは当たり前なのですが、それをやってしまった、というのが孫策の敗因とも言えるのです。
その存在とは、「于吉仙人」という、諸葛孔明の如く、干ばつ時に雨を降らせたり、「人々の病を治すありがたい仙人で、孫策の母までも信奉する存在となるのです。
【左慈仙人vs曹操
この様な主従関係はいつの世にもどこの国にもあって、例えば魏の曹操にも同じ様な存在があったと言われています。この場合は、左慈仙人と呼ばれる人物で、結局、三国志縁起に登場する武将、魏の曹操には、左慈仙人、蜀の劉備には諸葛孔明、そして呉の孫権には于吉仙人となり、この内で最も好ましい主従関係を築けたのは、劉備と諸葛孔明との関係だったことは誰もが認めることだと思います。

以上仏教伝来と直接関係ない話をしてしまいましたが、そう思っているだけで、実は仏教等の信仰を三国志の制覇に利用していた策士が居たかも知れません。

35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@)拝礼の仕方

中国旅行をして中国仏教寺院を訪問すると、観光でその寺院を拝礼している人を見ると床にはいつくばって両手の手のヒラを上にしながら頭を上げ下げしているイスラム教信者と同じように礼拝している姿をよく見る事があります。堂内には、その拝礼に対し、床に座ブトンが敷かれています。
しかし日本では、観光時の時は勿論、葬儀等の法事の時でもその様な拝礼を見たことがありません。日本に伝播した途端に何故拝礼のしかたが変化したのでしょうか?それとも日本では伝播時は同じだったものの、時代とともに現在の拝礼のしかたに変わってきたのでしょうか? 一方寺院における拝礼は観光の時でも、神社を法事で拝礼する場合でも柏手を打つ回数など、形式があるようです。

そこで調べてみると、「礼拝とは神仏に拝む行為のことであり、仏教では特に手を合わせて拝む 合掌礼拝 を指す言葉です。 他の宗教では「れいはい」と読むのに対し、仏教の場合のみ、日本で古くから使用されている仏教用語の読みに則って 「らいはい」 と読みます。 右手は仏様、左手は自分自身を象徴し、手を合わせることで「 仏様と一体になる 」という意味合いがあることを覚えておく必要があります。

礼拝は、インドの古い言語である、サンスクリット語の「ナマスカーラ」を和訳した言葉です。 葬式において合掌礼拝は非常に重要な儀式です。 作法を守って正しく行うことで、故人を滞りなく見送ることができます。」とありました。それなら、両手の掌(ひら)を上に向けて、手を上げ下げして拝礼する場合の左手と右手の意味は?と疑問に感じます。

一方“DoYa!!Chinaブログ”には、日本仏教と中国仏教の違いを、以下の様に紹介しています。「中国メディアの今日頭条はこのほど、日本と中国の仏教はさまざまな点で異なっていることを強調しつつ、「寺院」そのものにも大きな違いがあることを伝えています。

中国の寺院では信仰心の厚い人びとが祈りや願い事をするために詰めかけると紹介したほか、新年になると縁起の良い焼香の煙を求めて「押し合いへし合い」をすることも珍しい光景ではないと指摘し、中国の寺はまるで生鮮市場のように賑やかなのが通常であると強調した、と日本人の仏教信仰と中国人の仏教信仰の違いを書いています。

一方、日本の寺院は中国のように賑やかな場所ではなく、むしろ神聖で静寂に包まれた場所であると指摘。観光地となっている寺院は多くの参拝客で賑わうことはあっても、中国の寺院のように線香を束ねていた紙が散乱することはなく、整然としていると紹介し、「日本と中国では同じお寺であっても、雰囲気はまったく違っている」と伝えている。とのことです。
 
ただ、仏像がかざす手の形(印相)の意味は共通している様です。ただしこれらの印相は仏像から見た印相であって、参拝者の印相ではない。仏からの施しを有難く頂く、という意味の様に思うのです。
“DoYaChinaブログ”に記載の日本仏教と中国仏教の違いは大乗仏教的な中国仏教に対し小乗仏教的な日本仏教の違いにも見えるのです。大乗と小乗という言葉の響きから、大乗の方が重要と思いがちですが、どうなのでしょうか。そこで、大乗仏教と小乗仏教の違いについておさらいしたいと思います。

そして今後は、小乗仏教とは言わず、上座部仏教と呼ぶことにします。
尚、その前に、作法を細々と決め、その通り厳格に行うことにより儀式(法事)に厳かさを醸し出す、というだけの目的の様にも感じてしまうのは自分だけでしょうか。

旅先の中国のホテルでの朝食風景
筆者は、中国旅行が好きで、家内には同行をいつも断られるので、単独行。勿論現地の日本語ガイドはいるが、朝食は宿泊ホテルで済ませるのが常であります。なるべく朝食後の時間を有効に使う為、ホテルの朝食ルームになるべく早めに自由に席を決めてリラックスして食事をしたいが為です。そして、少しづつ中国人が朝食を摂りに現れるのですが、他にも沢山誰も座っていないテーブルがあるにも拘わらず、私の座っているテーブルに座り始めるのです。その時、筆者を同じ団体の仲間とみられたのか、だれが相手かは問わず、朝食の楽しさを共有したいが為のどちらだろう、と思うことがよくあります。

【深圳の地下鉄での出来事】
大学に特任教授として勤務していた頃、出張で深圳にある大学出先事務所に出かけた時のことです。地下鉄に乗車した途端多くの学生が一斉に席を立って席を譲ってくれようとしたのです。こちらが二人連れの白髪の高齢者ということもあったでしょうが、一斉に複数の若者が席を譲るかの様に立ったのです。これはきっと親切心の共有の表れではないか、この若者たちが国を背負う年齢になったころ、同年齢になった日本の若者は、同じ気持ちになって、親切にしてくれるのだろうか。恐れく我先に空席を目指し、たとえ高齢者が近くにいても空席に座るのはその若者の方だろう、と暗い気持ちになったことをおぼえています。
他にも中国人と日本人の性格的な差異についていろいろ感じたこっとがありまあすが、機会を見てまとめてみたいと思っています。
 
【大乗仏教(北伝仏教)とは】
大乗仏教は「自利利他」の精神が大きな特徴です。他人の幸せも自分の幸せであり、他人を幸せにできなければ、自分も幸せではないという考え方です。自分で修行するだけではなく、修行しているお坊さんに托鉢して教えを聞いたりすることも、修行みたいなものということです。とにかく自分でしっかり考えるようにしたら、ゴリゴリ修行しなくてもいいじゃない!という寛容な思想の為、一般受けしやすく人気もあります。インドから中央アジア諸国からシルクロードを経由して朝鮮半島経由で倭国に伝播したとされる仏教や、インドからチベットを伝搬した仏教は大乗仏教とされています。
 
【上座部仏教(南伝仏教とは】
一方、上座部仏教はまず自分で悟りを開かないと何も始まらない、という考え方です。しっかり約束ごとを守って、悟りを求めて熱心に修行するというストイックなイメージです。小乗仏教と呼ばれることもあります。前述の保守的な信徒がメインの思想です。
 
大乗仏教と上座部仏教とどちらが好ましいかは、時代,時代の状況によって異なるのではなかろうか、また、大乗仏教よりも、上座部仏教の方が、日本人の心に近いのではないか、と思わざるを得ません。これは、日本の仏教が、南伝仏教が東シナ海諸国を伝播し、これらの諸国から雲南省に伝播上陸し、一部チベット仏教の影響も受けて、雲南省の衣食住関連技術とともに長江沿いに水路東伝して、東シナ海沿岸の蘇州、杭州、福州といった港湾都市を経て海路倭国へ
直接、又は台湾、琉球を経て伝わったという歴史があったからではないかと思っています。
伝播地域的には南シナ海諸国で、タイ、スリランカ、ミャンマー等の国々で、互いに影響しながら伝播したのだと考えています。

A)境内一杯にわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
筆者が中国雲南省大理にある崇聖三塔寺を訪問した時に気が着いたことです。その時のことを筆者のブログ「槐の気持ち」に記載してあるので、そこから抜粋転記して紹介します。

【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】ブログ「槐の気持ち」 以下の写真番号は前記ブログに用いた写真番号と同じです。
この寺院は大理で最も有名な観光地と言える。大通りに面した崇聖寺正門をくぐると、すぐ右手に配置図と名称が中国語、英語、フランス語、韓国語、日本語で紹介されていた(写真1)。『大理古城の北に位置し、西に蒼山、東に洱海の景色、仏教文化、リゾート地を一体化している中国国内で有名な観光風景区と認められ、ISO9001-14001国際質量/環境管理体系認証に合格して、大理の目印とシンボルとなっている。』と観光案内に紹介されている。

ISO9001-14001の認証をとった寺院は国内外通じて初めて目にした。ISO9001-14001の認証取得の意義、取得の実務、取得後の運用について理解し、実行することは容易なことではない。この寺院が現代に生きていて、仏心の厚い人達にとっての聖地として生々しさを持っているからだろう。

本来、寺というのは観光の対象ではなく、心のよりどころとしての宗教に触れる場(聖地)であるはずで、中国寺院を訪問すると、そういう感じがすることが多い。とりわけ、ここ崇聖三塔寺は、境内が広大で、寺院の建築物も巨大で、しかも景観はダイナミックであり、象徴的な聖地としての条件が揃っていて、その聖地を訪れる意義が増幅されるのではないか。
 
すぐ正面に三塔が聳え立つのが目に飛び込む。
崇聖寺三塔と左から書かれた5枚の額を軒下に備えた門(写真2)をくぐると三塔が眼前に聳え立っていた(写真3)。日本語現地ガイドの葛さんが、「三塔のうち二塔はピサの斜塔と同じ様に傾いているのです。」と説明してくれた。そう言えばそうも見えるが、そうでもない様にも見える。この三塔を西から見たとき、傾いているのが左側(写真では右側)の塔であることが後で分かった。・・・中略・・・、
 
しかしよくよく考えると、遠近感が水平方向にも、垂直方向にも働く場合、遠方にある一対の高〜い建物は、ともに内側に傾いて見える筈だ。この原理を中国人に説明するのは難しいと思い、諦めた。

主塔の裏側の南北に位置する小塔(写真4a)は宋代に建てられ、八角形の密檐式レンガ造り(写真4b)、10層で高さは43m。主塔からの距離はそれぞれ70m。小塔の各層の屋根は上に向かって反り返り、梁や柱、斗組みなどは使っておらず美しいシルエットを作り出している。
 
中は各層違った仏像や蓮華、花瓶などのレリーフ(写真4c)が彫られ、八層目までは空洞になっている。小塔間の距離は97mで、三つの塔の位置関係はきれいな二等辺三角形を作っている。以上はチケットに繁体字で書かれていたことを筆者が日本語に翻訳した。繁体字で記されているのは助かる。
 
偶数階の塔は珍しいナ、とつぶやいていたら、現地日本語ガイドの葛さんは、「中国南部、特に雲南省にある寺院の塔は偶数階が多く、北部では、奇数階が多い」、のだそうだ。「日本は殆どが奇数で、特に五重の塔が多いですよ」と応じた。・・・中略・・・、
 
この三塔は中国の重要文物保護単位に指定され、白族(ペー族)文化のシンボルにもなっている、とのことだった。白族のガイドさん本人が自信をもって言うので間違いないだろう。この二つの小塔の少なくとも一塔は。ピサの斜塔なみに傾いている(写真4d)との葛さんの説明であった。これら三塔は蒼山を背景としたときと、洱海側を背景にするかで(写真4e)、見え方がまるでちがっていた。・・・中略・・・。
 
鐘楼を出て、西に進むと先ず雨銅観音殿(写真5)に至る。雨銅観音殿の外観は灰色の瓦と朱色の柱壁から出来ていて周囲の住宅の屋根瓦に溶け込んでいる。崇聖寺山門は蒼山を背後に従え、翼を広げた様にどっしりと構えていた(写真7a、7b)。山門には門が三つ設置してあるので、「三門」ともいう。
 
仏教の「三解脱門」、すなわち「空門」(仏門)、「無相聞」、「無作門」を象徴し、凡人がいったん仏門に踏み込むと、俗世を解脱し、“四大空に帰す”ことができる。とある。四大とは物質界を構成する四つの元素、すなわち地・水・火・風のことで、物質界にとらわれる気持ちから開放されると言う意味ととれるが、この広大な境内を歩いていると確かにそんな気持ちになれる。・・・中略・・・、
 
更に、その先にも阿嵯耶観音閣や、望海楼といった建造物があるはずだが、Uターンして、来た道を戻ることにした。阿嵯耶観音閣という殿は、まるで多重になった宝箱の一番中の箱に大切にしまわれているかの様であることからも分かる。
 
戻る道すがら、低木の緑陰のあちこちから心地良いメロディーが、絶え間なく聞こえてきた。非常に心地よく、癒されるメロディーで、どこか懐かしい所で聞いたことが有る様な曲である。本当に崇聖三塔寺は視聴覚に訴えた立体感✛1=4次元空間のある寺院と言える。
 
葛さんの話では、「崇聖三塔寺は中国で最も大きな仏教寺院です。」とのことだったが、z軸方向を含めて立体的な大きさ、即ち容積的にその大きさを計り、なおかつ、音のメロディーが時間軸の広がりを持つとすると四次元的には確かに葛さんの言う通りかも知れないと思えてきた。
 
焦点がズレてしまったが、この様に非常に大きな境内一杯に癒されるメロディーが聞ける寺院に日本では出会ったことがない。
何故なのだろう。この答はまだ見つかっていない。この曲名が、「大悲呪」であることは調べて分かった。尚、大理を案内してくれた葛さんは最後に分かったことだが、大理で有名な少数民族白族(ペー族)の娘さんだったのでした。

B)石窟寺院
石窟寺院も中国のどこにもあって日本には無い佇まいであります。中国のどこにもあって日本には無いのは地形の違いと、季節の違い、そして地震、台風、火山噴火被害などの自然災害に対する耐性、そして岩窟内生活に対する違和感の強さ、即ち慣れの有無の差でありましょう。山西省大同市を訪問し、現代版石窟仙人に出会って以来、それは自信を持って言えるようになっています。(以下の通りです。)
 
これらが先ず住環境としてどうか、また寺院建築に必要な木造建築技術が進化していたかどうかが挙げられると思います。またそれらに耐える岩窟が有っても、岩窟内に石像や塑像、壁画を形成する技術が無かったからではないか。住環境の良さを云々するときに、岩窟内での生活に慣れているかということも関係しているのは容易に想像できることで、中国の石窟寺院造立が最も盛んだったのは北魏時代でしたが、北魏の拓跋族は、もとは中国北方異民族であり、岩窟内での生活に慣れていたからという説がありますが、その通りだと思います。日本は山が多く、そこに生える木を加工し材木とし、それを組み立てて寺院にする木造建築技術が進んでいたので、岩窟に寺院を構築することが無かったのでしょう。
 
尚、ここで訪問したことがある中国石窟寺院で、紹介し忘れた石窟寺院があるので、ここで遅ればせながら紹介します。自分のブログ「槐の気持ち」で紹介しているので、そこから抜粋転記する形で以下に紹介することにします。

但し、これまで訪問した石窟寺院とは異なり、石刻寺院と称した方が近いとおもいます。また、これは仏教や儒教、更には関羽を祭った関羽廟ではなく道教を祀っているのでした。写真番号は、ブログ内の写真の番号です。

[中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門”、道教石窟寺院 ] ブログ
 司馬遼太郎の「街道をゆく−雲南のみち」には、女性が仰向けに寝そべっていて、その人の髪の毛がなびいたまま滇池(テンチ)に浸っている姿に見えると紹介している。その西山が昆明のあちらこちらから観ることが出来、雲南民族村からもそのシルエットを拝むことが出来ている(写真上1)。その西山の山肌には、修験の為の道がつくられていて、いくつかの石窟が掘られていたり、堂宇(道教だから観(かん)というべきか)が建てられたりしている。

2200m余りある山を登って行くのは、年齢的に厳しいだろうという配慮をしてくれて、登りはケーブルカーを使い、帰りは歩くというコース設定にしてくれた。ケーブルカーはかなり長く、途中左手に目を遣れば昆明池(滇池)が一望出来、右手には斜面に尖った石が飛び出して、チョッとした石林という光景、小さな鳥がさえずりながら右往左往して時々姿を見せるが写真を撮らせてくれる程じっとしていない。・・・中略・・・、
      
ケーブルカーを降りて少し行くと、西山で最高地点の標識に出会う(写真上9)。ここから下山である。岸壁に細く削り込んだウネウネした通路を下って行くが、所々に龍門と書かれた狭き門が現れたり(写真10)、石窟のトンネル(写真11)をくぐったりする。くぐり抜ける龍門には道教風の反り返った屋根がついていて、その色は金殿同様、くすんだ山吹色で、岸壁等に掘られた文字に付与された色は赤、青、緑のいずれかの場合が殆どである。
 
“登龍門”の語源である龍門は、門の一部を触ると科挙に合格するとか、出世すると言われているらしく、その門をくぐり抜ける人がこぞって、触ってゆくので、自分も触ってみた(写真上10)。とっくに人生のピークを過ぎ、せいぜい山道を安全に下って行こうという心境の自分にとって、ご利益など何も期待していないし、合格を目指す試験も無い。

 通路のところどころに道教石窟寺院がつくられていて、誰を祀っているのか分からないが、カラフルな聖像が立ち並んでいるところに遭遇する。日本の仏教寺院には有り得ないカラフルさで、配色の豊かさを見ているだけで楽しめる。・・・以下省略・・・。

C).神仏習合
中国には神道が無いので.神仏習合はあり得ないが、”神”というのが武神の場合は関羽と坂上田村麻呂の関係の様に互いに対応する神がいるので、神仏習合という言葉は無いが、同じところに釈迦と老子と関羽が並んで祀られている場面を何度か目にしたことがあります。また、マニ教の様に、勝手に仏教や道教と混交し、吸収合併の様な形で単身の仏教となってゆく形は中国の至るところにあったと思います。この言葉に関しては、筆者のブログ「槐の気持ち」の二編について嘉指してありますので、それらから、抜粋転記して紹介したいと思います。一つは前にも引用した談山神社のところで、もう一つは筆者が友人らと厳島神社を訪れた時の話題です。

 [万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***] 筆者のブログ「槐の気持ち」
・・・前略・・・、−多武峰(談山神社のこと)は観(道教寺院)か、神社か、寺かという項があった。それによると、 「談山神社という殺風景な名になったのは、明治時代の『廃仏毀釈』によってであり、社僧たちは還俗させられ、その翌年の『神仏判然令』によって仏教色が除かれたのだそうである。 それまでは社僧と呼ばれる天台宗の仏僧によって護持された。しかし、その以前は、平安期以来、多武峰(談山神社のこと)の祭神は「談峰(たんぶ)権現」であった。「権現」というのは、「仏が権(仮)に日本の神として現れる」という意味で、10世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。
[SAIKAI2010 厳島神社] Saikai20104)厳島神社 |  SAIKAI2010 4)厳島神社 | 槐(えんじゅ)の気持ち (easymyweb.jp)

・・・前略・・・、厳島神社ばかりが有名な宮島であるが、案内図を見ると、他にも様々な神社仏閣が混在していることがわかる。わが国では仏教の伝来以降、日本古来の神々と仏を結びつけ、仏や菩薩が人々を救うために様ざまな神の姿をかりて現われるという本地垂迹説が広まり、神仏習合が進展。神の島・宮島でも明治元年の神仏分離令までは、神社と寺院が密接に結びつき、独自の文化を築き上げてきた。この様に宮島の地が紹介されている。
・・・中略・・・、
 ところで、この厳島神社の名前の由来は何であろうか、最初に文献に現れたのは、811年「日本後記」においてであり、但し、“伊都岐島名神”の名で記されたのらしい。先記した宗像三女神の一神である市杵島姫との関係が深そうである。

伊都岐とは斎く、心身を清め神に仕える、の意で、伊都岐島とは神の斎き祭られる島の意であるという。宗像三女神は、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の総称である。・・・中略・・・、
以上、宮島(厳島)はついでに観光したとは言え、世界遺産に恥じない名所旧跡がふんだんにあるロマン豊かな地と感じられた。今回は、厳島神社を中心に、その近傍の多宝塔、五重塔、千畳閣(豊国神社)といった神仏混交の名所のみを回ったが、再度宮島を訪問し、弥山に登り、東西南北を見回してみたいものだ。

D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
弥勒菩薩と言えば、広隆寺と中宮寺の弥勒半跏像が有名ですが、何故か、中宮寺の弥勒菩薩像はしなやかな体形の立像と思い込んできました。そして中国寺院でも多くの弥勒菩薩像を拝観したが、全てが半跏像だったか、更に行儀の悪い姿勢だった様に記憶しているのです。しかも体形はでっぷりと、半跏というより、胡坐をかいていたりしていて、よく言えば貫禄があり、よく言えば頼りがいのある体形の像を見て来た様に思います。
 
立像は日本製、又は日本向けに製作された弥勒菩薩像は立像が多いという印象を持っていましたが、何故か? という疑問を持っていました。そしてその理由は、もともと、古くから、体形は腹が出た体形をしている、恰幅の良いおじいさんという印象であり、立像では腹が出て恰幅が良いが、立っている姿勢ではつかれて仕方が無い、腹をへこませると貫禄がなくなるが、他の仏像と並ばせることが出来る。ということで半跏像または胡坐増になったと思っていました
 
弥勒菩薩に関する話題になりましたが、中国各地の寺院で弥勒菩薩像を拝観し、これだけ人々の心に浸透してきている弥勒菩薩信仰とはどの様なものかを概観してみたいと思います。
 
先ず最初にブロブ「槐の気持ち」を弥勒菩薩でキーワード検索でヒットしたうち、短い行数に最も多数の弥勒菩薩という言葉があった記事を取り上げてみたいと思います。それは、雲崗石窟寺院を訪れた時で、北魏の皇帝一族の弔いをするために、建立された複数の弥勒菩薩像についての話題であります。その部分を抜粋転記して紹介します。(既に一度紹介しているので再掲となり恐縮ですが)
 
窟の地面に突き出た岩の上を田さんに続いて、ぴょんぴょんと飛び移りながら窟の奥の方へ入って行き西の方に歩を進めると、三体の仏像に出くわした。
 
10mの弥勒仏(孝文帝自身)を中心に西側に弥勒菩薩像(息子の皇太子元恂)が、東側には女性と思われる弥勒菩薩像が掘られている。中心の弥勒仏はどっしり構えた表情だが、西側の弥勒菩薩像は怒っているように見え、東側の弥勒菩薩像は西側に向かって、慈しんだ表情をしている。・・・中略・・・。 
 
同著には、孝文帝と、孝文帝の徹底的な漢民族への同化政策に強く反対した皇太子との間の洛陽遷都に伴う骨肉の争いが紹介され、結局、孝文帝が息子を毒殺する破目になり、敬虔な仏教信者だった息子を往生させるために作ったのがこの第三窟とのことであった。
 
更に、孝文帝派(=遷都派=改革派)と皇太子派(=遷都反対派=保守派)との争いは続き、523年に平城北部に六鎮の乱が勃発するに及んで、第三窟仏像彫りが止む無く頓挫した。
 
この窟を掘削したことを通じて、北魏時代の民族融和の歴史をも語っている。鮮卑拓跋氏は北方少数民族として中国北方を制覇し、漢民族を含む各民族との同和、融合が余儀なくされた。この地が後に同じ少数民族の女真族(じょしんぞく)の遼(りょう)時代(じだい)に大同(だいどう)という地名に変えられたことに納得できた。
 
上記は、北魏における皇帝たちの為の弥勒信仰となっているが、一般民衆にとっての弥勒信仰とはどの様なものであったのか、Wikipedia記事を参考に紹介してみます。
いくつかの側面から見てみたいと思います。・・・以下省略。
 
[上生信仰 ―未来仏]
弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天(とそつてん)で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。
 
仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『阿含経』(あごんきょう)に記述が見える。この未来仏の概念は過去七仏から発展して生まれたものと考えられている。弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界に現れて衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされる

【下生信仰】
弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行した。下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰に対し、弥勒如来の下生が(56億7千万年などの)遠い未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰です。
浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。そのため、反体制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各時代に数多く見られる。北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。

【弥勒菩薩信仰】
弥勒菩薩像はインドでは水瓶を手にする像として造形されたが、中国においては、唐までは足を交差させ椅子に座る像として造像され、元・明時代以降は弥勒の化身とされた布袋として肥満形で表された。一方、飛鳥時代の日本では半跏思惟像として造像が行われた。椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて瞑想する姿である。大阪・野中寺の金銅像(重文)が「弥勒菩薩」という銘文をもつ最古の半跏思惟像である。京都の広隆寺の弥勒菩薩像(木像)は特によく知られており、国宝に指定されている(→弥勒菩薩半跏思惟像)。ただし、半跏思惟像の全てが弥勒菩薩像であるとは限らない。平安時代・鎌倉時代には、半跏思惟像は見られなくなり、立像や坐像として表されるようになる。京都・醍醐寺の快慶作の木像などがその作例である。
日本で広く目にされている弥勒菩薩像に、50円切手の図案がある。これは中宮寺の木造菩薩半跏像である。弥勒如来像としては、前述の奈良の東大寺の木像(通称「試みの大仏」)(重文)や、當麻寺金堂の塑像(奈良時代、国宝)、興福寺北円堂の運慶一門作の木像(国宝)などが知られる。

       第7回 完 第八回に続く




 


 







2022/06/21 22:29:00|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その6)
   倭国(日本)への仏教伝来の道程(その6)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、    項目番号 項目タイトル(18pts)、で 大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第五回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
 
そして今回(第六回)取り上げるテーマは以下の通りです。
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
【魯国故城、泰安 周公旦77代目子孫望月氏 北の聖人孔子・南の聖人季札、太伯伝説】 
【工聖魯班】
【季札】
【自称、周公旦の77代目の末裔】
E)道教2
 

33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
長江(雲南)仏教から脱線し、浙江省寧波市にある阿育王寺の話題を取り上げましたが、ここで、日本の神社に大きな影響を及ぼしたと言われるユダヤ教と中国古来の地元信仰である道教について触れたいと思います。
 
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した。とWikipedia に紹介されています。この文言に筆者が最初に触れたのはつい最近であり、従って、自分が発信しているブログ「槐の気持ち」内をこの言葉で検索しても一件もヒットしませんでした。最初は、「まさか!」という感じで見ていましたが、この見方に肯定する記事が氾濫してきたので、少しずつ読み解くうちに、「そうかも知れない。」と肯定的に思うようになってきたので、ここで紹介しておきたいと思います。以下にWikipediaを追記します。現在、紛争中のウクライナ/ロシア戦争で、ユダヤ人の多いウクライナを応援したいという世論を反映しているとも思いますが、YouTube番組が激増している様に思います。類似点を神道や神社に関して列挙すると、
 ・多くの言葉とその意味や地名に類似性がある。
 ・神道の儀礼や様式に類似性がある。
 ・埋葬品(埴輪等)の形装に類似性がある。
 ・神社の構造(例:鳥居の色が朱色)に類似性がある。
 ・祭り、神事の類似性
 ・皇室神事の様式に類似性がある。
 その他、年中行事、祭り飾り、正月の鏡餅、神輿等となります。
 
詳細はWikipediaを参照していただければ、と思いますが、もうひとつ興味深いのは、秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住んでいた。彼らは景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰し、アッシリア以降の中東の共通言語であるアラム語を話していたとされています。彼らはユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされる。
 
弓月国には、ヤマトゥという地や、ハン・テングリ山という山があった(「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味とされる)。

秦氏は、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年頃から数回にわたって日本に渡来した。5世紀末には渡来者は2万人程になったという。5世紀末、秦酒公は日本酒技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされている。
 
秦氏は絹技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕え、絹事業(ハタ織り)で財をなし豪族となった。皇極天皇(642〜645)に関する日本書紀(720年成立)には、ウズマサ(アラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach、インド北部ではユズマサに由来するといわれる)また、ヘブライ語ではヨシュア・メシア:選ばれた者ヨシュア、ギリシャ語ではイエス・キリスト)を信仰する豪族として秦河勝(はたのかわかつ)という人物が登場する。748年、秦大酒は大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれる。

秦氏は京都の太秦を本拠地としていた。その一部は大分の宇佐に住み、一説には710年頃に成立したともいわれるヤハダ神(YHWDH:ユダ/ユダヤ)を信仰し八幡神社を創設した。Yahawadaとはアラム語で失われた支族のユダ族を意味する。八幡神社は749年頃に急に勢力を持ち始め、奈良に上京し、このときはじめて神輿をもたらした。これが神輿の起源で、八幡神社は全国に広まったという。

日本人(縄文人)の祖先が2700年前(BC680年頃)にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説。但し、ユダヤ人(古代イスラエル人のうちのユダ族、ベニヤミン族、レビ族)ではなく、ユダヤ人と共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族である。英ユ同祖論など、ユダヤ人と他民族文化を関連づけて論じられるユダヤ人同祖論のひとつ。
 
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
大月氏が仏教伝播に関し、中国への仏教伝来についての一説に、哀帝の元寿元年(前2年)に大月氏国王の使者伊存が、『浮屠教』と言う経典を景蘆に口伝した、と言う(『釈老志』)に記されていることを既に紹介し、又、その理由として、大月氏を月氏の大部分とすると、一部分の小月氏が羌族と同族のようで混住・同化していること、この羌族が当時の秦の人々と同族で、そして秦や後の魏の人々は縄文人と同族の殷人の末裔でもあった。(注: ここでの同族とはY染色体ハプログループDを共有して、言語・気性・価値観・習俗・文化がそんなに違わないことである)

又、春秋時代の周の建国に寄与した姜子牙太公望も名前から分かる様に姜族である。更には秦の始皇帝も顔立ちや体形から、漢民族というよりも、中国中原より西の姜族がルーツ。

B)姜族と羌族(羌族)
ここで、同じ読み方の姜族と羌族について述べる。羌族は現存する中国少数民族としては羌族となる。Wikipediaによると、姜族については、姜姓は上古期の中国においてチンギス・カンの「カン(汗)」と同じく「上に立つ、尊大な」の原義を持つ尊称から生じたものであるが、起源については複数説がある。  

歴史上の人物としては、姜尚:斉の始祖=太公望や、:桓公。春秋時代における斉の第16代君主。がいる。一方、羌族は、古代より中国西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。「羌の源流は三苗、姜氏の別種」としており、羌を含む中国の四方に住む全ての異民族は華夏の苗裔と主張している紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。また、初め敦煌付近にいた月氏族は匈奴の侵攻に遭い、その多くは中央アジアに遷って大月氏となった。』
 
呉は後の三国志時代の呉ではなく、春秋時代の周の兄弟国で呉楚七国とか、呉越同舟という言葉があった頃の呉であり、呉には、呉王の継承を断り続けた南の聖人、季札、北の聖人の孔子、と呼ばれた聖人がいた一族としても知られた王朝であった。

「呉」は中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。

紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。このエピソードがある時代は徐福伝説のある秦始皇帝時代よりも前の紀元前500年前後の頃であり、神武天皇が現れたとされた年代(BC660年)より150年程あとの日本の神話時代のことであり、九州に太伯伝説の地が実際にあるので、徐福が倭国にやってきたという伝説程度には信じても良いのではないかと思います。

とすれば、その頃(紀元前)から、逆に倭国から呉を含めた春秋の国々へ渡航する倭人も居て、帰国時に中国古代王朝の情報を土産として持ち帰っている可能性があると考えても良いのではないかと思います。そして、それらの情報の中に、儒教や道教、更には仏教(浮屠)に関する簡単な情報も持ち帰っていたかも知れません。
 
以上紀元前の周王朝や呉王朝に関して、倭国と関連したこんなことがあったかも知れないという話題を提供しました。

ここで思い出したのですが、三国時代においては、唯一魏の曹操のみが仏教(浮屠)とコンタクトしたと紹介しましたが、呉にも仏教と関りを持った人物がいたことを思い出しましたので、今後紹介を忘れるかも知れないので、ここで取り上げたいと思います。自分のブログ「槐の気持ち」のどの場面においても取り上げたことの無い人物ですが、中国の仏教史には忘れることのできない程目立った業績、良くも、悪くも、を残した人物で、中国後漢時代末期に武将。揚州丹陽郡(現江蘇省)出身の笮融という武将です。

仏教との関りを引き算すると、三国志時代に活躍(?)した呂布に似ている性格の様で、呂布にとっての(貂蝉+赤兎馬)に相当するのが、仏教だった様に感じています。即ち、その存在を加味すると、味のある人物の様に見えるが、加味しないと、単に極悪非道の存在となるような人物の様に思えます。

道教においては、地上の人間の行為を天の神が見ていて、行為の善悪に従ってその応報として禍福がもたらされるという観念があり、そこから日常で守るべき倫理が説かれることとなる。人の行為に天が賞罰を与えるという考え方は『墨子』や董仲舒の災異説など中国に古くから存在し、道教関連では『抱朴子』のほか、『太平経』や『霊宝経』などに見えています。

『霊宝経』には日常において守るべき倫理として「十戒」が挙げられており、これは仏教の「戒」の影響を受けつつ、中国の日常倫理と融合したようなものになっています。

C)道教(1)

道教に関する詳細な説明については、Wikipediaを参照していただくとして、以下には、筆者が中国旅行後にブログ「槐の気持ち」に記した二つの道教に関するエピソードについて抜粋転記して紹介したいと思います。尚以下の文中に示した写真番号は、関連したブログに用いた写真番号と同じですので、そちらを参照しながら以下の文を参照していただければ、より臨場感を感じていただけると思います。道教に関する詳細な説明については、Wikipediaを参照していただくとして、以下には、筆者が中国旅行後にブログ「槐の気持ち」に記した二つの道教に関する記載について抜粋転記して紹介したいと思います。

道教は多神教であり、その概念規定は確立しておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である。伝説的には、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵が教祖となって、教団が創設されたと語られることが多い。とWikipediaの冒頭に紹介されています。

ほかにも、儒教の倫理思想・陰陽五行思想・黄老道(黄帝・老子を神仙とみなし崇拝する思想)なども道教を構成する要素として挙げられる。道教は中国のさまざまな伝統文化の中から生まれており、中国で古くから発達した金属の精錬技術や医学理論との関係も深い。

【道教が説く日常倫理】                                    道教においては、地上の人間の行為を天の神が見ていて、行為の善悪に従ってその応報として禍福がもたらされるという観念があり、そこから日常で守るべき倫理が説かれることとなる。道教が説く日常倫理は以下のようなものだそうだ。
 『一には、殺さず、まさに衆生を念ずべし。
  /二には、人の婦女を淫犯せず。
  /三には、義にあらざるの財を盗み取らず。
  /四には、欺いて善悪正反対の議論をせず。
  /五には、酔わず、常に浄行を思う。
  /六には、宗親和睦し、親を謗ることをせず。
  /七には、人の善事を見れば、自分も同じように歓喜する。
  /八には、人の憂いあるを見れば、助けてそのために福をなす。
  /九には、相手の方から私に危害を加えても、志は報いざるにあり。
  /十には、一切未だ道を得ざれば、我は望みを有せず。』『太上洞玄霊 宝智慧定志通微経』
以上の日常倫理は、道教のみならず他の宗教いずれに於いても同じように感じる。

【D4-1:ウルムチ:天池1(西王母1)】ブログ「槐の気持ち」  <以下に記載の写真番号は左記URLを参照のこと>
手元にあるトルファン観光本には天池のことを、「天池とトルファンは新疆に行く観光客は中国人、外国人を問わず必ず行く観光地である。天池は独特な高山、湖の風光と西王母についての素晴らしい伝説があるので、人間仙境みたいな雰囲気が溢れる。トルファンは、・・・・」とあります。
 
D4(7/23)はウルムチから天池、五彩湾と一挙に観光することになった。
・・・中略・・・、
天池に到着したのは、北京時間11:00ころで、天池の麓の駐車場には既に多くの車が駐車していて、観光バスも乗り込んで来ている。一瞬今日は日曜日かと思ったが月曜日である。
 
そうではなくてウルムチから適度の距離(110km)なのと、ウルムチ市の人口(200万人)の相乗効果によるものだろうと考えを落着させた。先ず目に入ったのは、お寺のお堂の様な観光案内所?または観光案内所らしきお寺のお堂で(写真上1)、その前を通りすぎ、ゴンドラの麓駅に向かうと、すでに長蛇の列。ただしゴンドラをとめないで人を乗せて行くので、流れは順調、マイクロバスで昇ってゆく選択肢もあったが正解であった。100元の観光乗車拳で、往復とも選択できるので、帰りをバスにした。
・・・中略・・・、
間もなく眼下に、勢い良く流れる川が見えた(写真上2)。天山山脈から流れ出た水が天池を十分潤し、その天池から、一定の堰(せき)を越えた水が流れ出し川となっている。ゴンドラの背部には「歓迎乗坐天池索道」と書いてある(写真上3)。その背面の覗き孔から張(兄)さんがこちらに向け写真をとっている。カメラはソニーのサイバー・ショットか。
 
更に昇ってゆくと、中国寺院独特の曲稜線の屋根を持った小さなお堂が目に入った(写真上4)。まだ新しい建物の様であり、全く想像の域を脱していないが、西王母を祀ったものか?ウルムチに住む金持ちの華僑が寄進したかも知れない。
 
【D4-2:ウルムチ・天池2(西王母2)】ブログ「槐の気持ち」 <以下に記載の写真番号は左記URLを参照のこと>
ゴンドラを降りると眼前に天池が現れる(写真上1、4枚組み)。まるで十二単衣の重ね合わせの様に山が交互に重なり合い、最後に冠雪した天山山脈の山(ボゴタ峰=5445m)が十二単衣を着ている姫様の頭の様に乗っかり、湖面は白波が全く見えず、”空を写す鏡の様な湖面”との表現が的を得ている。

その湖面の色は、見る位置によって色が分かる。朝日新聞刊「シルクロード紀行No.6天山北路」ではレポーター(作家角田光代さん)は、「湖は青白く澄んで、ピタリと動かないから、まるで巨大な鏡のようだ。」と表現している。雪が舞う季節に行くとそうなるのかも知れない。

 駱さんからは高地(標高2000m以上)にあるので、真夏でも寒いかも知れないので上着を持ってきた方が良いといわれていたが、忘れてしまった。しかし、他の観光客やご主人の張さんや弟さん夫婦だれを見ても半袖の人ばかり、寒いといった感覚はまったく無かった。
 
この池が神秘の湖と言われるのは西王母伝説があるからであろう。西王母は本来崑崙山に住む最高位の女仙(にょせん)で、絶世の美女といい、周の穆王を美しい瑶池でもてなしたその池が、天池であると伝えられている(「穆天子伝」)。

湖を囲む山の斜面に西王母を祀る廟が容易に見つかる(上写真2)。崑崙山は西方にそびえる霊山のことで、崑崙山脈のことではないので、崑崙山=天山であっても良いわけだ。

 「西遊記」では、西王母は天界の仙桃を管理していて、そこに孫悟空が桃を盗みに行くところに登場する。また別名「瑶池金母」とか、親しみを込めて「王母娘々=ワンムーニャンニャン」と呼ばれるとのこと。そんな話を思い出すと、益々神秘的な湖の貫禄が出てくる(写真上3)。そして周囲の山も神々しくなってくるから不思議だ。(写真上4)
 
【D4-3:ウルムチ・天池3(西王母3)】ブログ「槐の気持ち」<以下に記載の写真番号は左記URLを参照のこと>
西王母は道教神に分類されている。そして民間信仰に関する色々な物語の中では、天界に関わる全ての神を統括する最も位の高い玉帝と共に登場することが多い。と紹介している。

この本に「絵図列仙全図」に掲載されている西王母を見ると、温和な中年婦人で、隣の侍女が桃を持っている。しかし、中国最古の地理書で、中国各地の神話を伝えている「山海経」では、西王母は豹の尾に虎の歯にザンバラ髪という半人半獣という恐ろしい姿で登場するのだそうである。

 湖面から、天山ゴボタ峰を見やると先程よりは冠雪した部分が大きく見えている。そしてその手前に見える山の斜面には尖った岩が沢山あり、その岩の無いところはびっしり隙間無く、緑の絨毯が敷き詰められているのが分かる(写真上3)この緑の絨緞(草木)に花が咲くことがあれば、さぞかし壮観であろう。
 
我々クルーの乗ったモーター・ボートは湖面にひっかき傷を残し、鏡に傷をつけてしまったようで(写真上3)、申し訳ない気持ちを持ちつつ短時間で、モーター・ボート遊覧は終了した。
 
【D4-4:ウルムチ・天地4聖水祭壇】ブログ「槐の気持ち」 <以下に記載の写真番号は左記URLを参照のこと>
モーター・ボートから降り、湖畔を眺め回すと、いたるところに記念写真を撮るポイントがあり、貸し衣装なども備わっている。ウィグル族の女性はカラフルで特徴ある服を着る。その服の色がたくさんあり、観光客が選ぶ選択肢を増やすため、多くの貸衣装が陳列されるハメになる。その様子もまた風情を感じる(写真上1)。

そして、少し歩くと「聖水祭壇」と書かれた碑が目に入り、そこで記念写真を撮った(写真上2)。更に少し斜面を登るように歩くと、やっと天池と赤く記された石碑が現れ、ここでは、多くの観光客が記念写真を撮っているので、少し順番待ちをしてやっと写真を撮ることが出来た(写真上3)。

 時刻は北京時間で16:30、新疆時間で14:30.本日のハイライトの五彩湾の夕陽をとることを楽しみにしていた張さん兄弟にとって遅すぎてもそれに間に合わないし、早すぎても手持ち無沙汰に夕陽が拝めるまで待たねばならない。天池の観光をしながらも、頭ではその時間調整をしていたに違いない。

そろそろ良いころだと思ったのであろう。「では帰りましょう」の張さんの一声で、駐車場まで降りてゆくマイクロバスの停留所方面に向かった。名残惜しげに天池で撮った最後の写真が写真上4である。この写真には極めて偶然にもトンボが画面にアクセントをつけてくれているかの様に、遊泳している姿が写っている。・・・後略
 
 【D4-5ウルムチ・天池5(ウィグル人・パオ)】ブログ「槐の気持ち」<以下に記載の写真番号は左記URLを参照のこと>
湖の周り歩き、ほぼ景色については堪能できたところで、北京時間で既に14:00を過ぎていて昼食時であり、多分駱さんか、ご主人がフィックスしてくれていたのだろう。パオの中で昼食をとることになった。

パオの住人は少数民族、多分ウィグル人。湖の周りには多くのパオがあり、宿泊も可能ということなので、そのウィグル人はパオの持ち主かも知れないが、普段ここに住んでいるわけではなかろう。

 パオの中に入ってみると、色鮮やかな寝具やら座布団、帽子が目に飛び込んだ。そして採光の為か、一部が開放状態となっている。ここで駱さんのご主人とのツー・ショット(写真上1)
 
そして多分パオの住人のうちの長老か、主人が多分座るであろう位置にどっかと腰を下ろし、頭には帽子をかぶりチーズ!では無くて中国の人は一、二、三(イー、アル、サン)と唇を動かし写真を撮ってもらった。(写真上2)
 
 パオの中では、馬乳茶を飲んだ。熱い馬乳にお茶の葉が浮かべられているが、乾いた喉には非常にうまく、たちまち三杯ほど飲んでしまった。

 そして、間もなく運ばれてきた料理はチャーハン、ポロ、シシカバブ、パン、ナツメのドライフルーツ、干ししいたけ(写真上3)。 このうちポロはラグメンと並ぶ代表的なウィグル料理で、どの様な食べ方をしたら良いのか分からず、だれか食べるのを待っていたが、誰も箸をつけず、食事を終了してしまった。 
パオを出ると、すぐ側でしいたけを白い粉末の上で干していた(写真上4)。
 
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】 ブログ「槐の気持ち」 <以下に記載の写真番号は左記URLを参照のこと>
パオでの遅い昼食を済ませ、先程のパオの管理人主人(先程まで相手をしてくれたのは奥さんか)の運転する小型バンで元の場所に戻る。そして湖面の方に降りて行き、湖面から天池や、取り囲む山々や冠雪したボゴタ峰を眺め写真を撮ることになった。湖面に舟を浮かべるというのがその端的な方法である。

丁度観光用モーターボートを貸し出していたので、それに乗り込むことにした。湖面には舟が通った後の幾筋かの水面の波痕が見え(写真上1)、また小さな漣のような白波が見える。これも観光遊覧船か、モーターボートのスクリューが造りだしたものだろう。

 西王母廟の方向にボートが向かったので、再びカメラに収める。陸から摂った写真に比べ、他の近くにある建造物が良く見える。(写真上2)

D)儒教 ブログ「槐の気持ち」
以下は、孔子のふるさと孔廟や、春秋戦国時代の魯国にある魯国故城を訪れた時の話題です。ここでは儒教が主題のようですが、道教についてもかなり詳しく記載しています。
 
春秋時代(紀元前)に信仰の原型を倭国にもたらし、八百万の神や神道に影響を及ぼした人たち

【魯国故城、泰安 周公旦77代目子孫望月氏 北の聖人孔子・南の聖人季札、太伯伝説】 ブログ「槐の気持ち」 <以下に記載の写真番号は左記URLを参照のこと>
前日、曲阜の三孔を全て見学したので、この日は、魯国故城を見学し、泰安の岱庙に向かう予定であった。しかし、朝、孔廟の入り口で、古代歌舞などのイベントがあることが分かり、ホテルでの朝食を摂らずにそのイベントの見学に出かけた。

ホテルから距離的には車で10分ほどもない近いところであったが、タクシーで向かうことにした。タクシーには、恰幅の良い黄金色をした弥勒菩薩の置物がフロントガラス下の台にセットされていた(写真9/5-1-1)。バックミラーにぶらさげられる飾りよりもよほど良い。
 
タクシーを下車し、孔廟入り口で昨日通過した「萬仭宮牆」と書かれた入場門を目指した。・・・、中略・・・、途中、つい先ほどまでの降雨で濡れた橋と川の両岸に植えられた大きく枝垂れた柳の光景(写真9/5-1-2)や、川岸の人けのない、濡れて鏡面となった道路(写真9/5-1-3)が映えていた。それらの光景を横目に更に進むと記憶に新しい曲阜と朱彫りされた石碑や「萬仭宮牆」と書かれた入場門についた。

我々と同様に早朝の歌舞イベントを目当てにした観光客が大勢集まっていた(写真9/5-1-4)が、まだ歌舞イベントは始まっていない。観光客の顔ぶれを観察すると、ほとんどが中高年、高齢者でイベントの開始を待ちわびている風情であった。ところが間もなく放送があり、「今朝は雨模様のためイベントを中止にする」となった。
・・・中略・・・、
街路樹は槐(えんじゅ)が多く(写真9/5-1-7)、花と実が混じりあって咲いている槐(写真9/5-1-8)や既に豆状の実だけになっている槐の樹(写真9/5-1-9)があった。街路樹は槐だけでなく、葉が紫色になっている樹もあったが、樹の名前は分からない(写真9/5-1-10)。
・・・中略・・・、 
更にどのくらい歩いたであろうか、孔子を主人公にした「孔子六芸城、孔子故里園」という出来立てのテーマパークの入場門が現れた(写真9/5-1-14)。

そんな疑問が湧くなか、孔子に関して、『史記:孔子世家編』には、次の様なエピソードが記されているらしい。

孔子が一芸に名を成していないのは、世に用いられず、様々な芸を習い、多芸の身となってしまったからであり、このことを達巷の村人に、「(孔子は)一芸で名を成していない」といわれた。それを聞いた孔子は、「御(馬術)でも名を成そうか」といってみせた。
とWIKIPEDIAに紹介されている。ダヴィンチが束になって問答を挑んでも敵わない大天才だったのだろう。
・・・中略・・・、
更に、これらの教義を習得する前に、大切なことは、「道に志し、徳に拠り、仁に依り、その上で游芸・豊かな教養を身につけよ」と云う教えが論語述而第七 156にある。
 和訳すると、「孔子云う、『人として正しい道を踏み行なうよう心掛けなさい。そして人格(徳)を磨きなさい。徳の実践はすべて仁をより所としなさい。その上で豊かな教養を身につけ悠々と生きる。これが人生の王道だ』」ということらしい。
・・・中略・・・、
そしてこのテーマパーク見学の途中に直接孔子とは関係なさそうだが、「工聖魯班文化展」(写真9/5-1-21)というコーナーが眼に入った。それを横眼に見て移動し、最後に電動カートに乗って孔子の魯国から他国への脱出の様子を立体的に描いたパビリオンに入った。
 
【工聖魯班】
 ところで、「工聖魯班」というのが気になり、後で、webで調べたところ、魯班(ルーハン)は紀元前500年頃に活躍した工匠で、ルーハンは、多くの土木工事に参加するために家族に従って育って徐々に労働スキルの生産を習得し、豊かな実践経験を蓄積してきた人物であり、彼が発明した道具は、後世、土木工事で使用されるツールや、これらのツールを作成するために使用されている。
・・・中略・・・、
以上、魯班に関しては中国web「史海鉤沉」の日本語への機械翻訳を参考にした。 後の諸葛孔明は琅邪陽都(山東省沂水(ぎすい)県)の出身と言われ、兵器等の発明家としても有名であるが、この魯班と同じDNAを持っているのかもしれないとの思いに至った。
 
そして最後に目に入ったのは、知者楽水 仁者楽山 知者動、仁者静。 知者楽、仁者寿」。と書かれた額で、この意味を後日web検索したところ、子曰く、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」と読み、その意味は、「知者は水を愛し、仁者は山を愛する。知者は動的であり、仁者は静的である。(また)知者は人生を楽しみ、仁者は長生きする」。(『論語』・旺文社)ということらしい。
 
果たして知者と仁者とどちらが良いのだろうか。人はだれでも高齢化とともに知者から仁者へと遷移してゆくのではないだろうか。
 
【季札  南方の儒学大家の第一人者、「南方の第一聖人」】
孔子に関しては以上であるが、孔子に関して分からないことが一つ残った。季札という人物の存在である。レンタルビデオの「孔子物語」では季札という人物が孔子の幼少期に時折現れ影響を及ぼしている。ところが、この季札のことをガイドの高さんや駱さんに聞いても知らないというのである。中国語での読み方が全く違うのかも知れない。
 
生きた時代は孔子:紀元前552年9月28日〜紀元前479年3月9日)、季札:紀元前576年一前484年なので、季札の方が生まれたのも亡くなったのも早いが、紀元前552年9月28日〜前484年は重なっているので同時代の人物同士と言える。季札の方が24才ほど高齢なので、孔子にとっては見上げる存在であったのだろう。
 
呉の季札は、呉王寿夢の末子だった。孔子と名声を等しくする聖人、同時に孔子の最も敬慕する聖人とされた。「南の季、北の孔」と称して、歴史の上で南方の儒学大家の第一人者、「南方の第一聖人」とも称される。
 
孔子にこう評価されている。「太伯(季札の祖先は呉太伯)は道徳の聖人で、三回も天下を譲り、人民には貴重な君主だと語る」とある。したがって、直接の交流は無かったかもしれないが、季札の好評判の風評が若き孔子に影響を与えたのは確かであろう。

ということで、一件落着である。以上については「呉の太伯が倭人の祖」のところで記しました。
 
【自称、周公旦の77代目の末裔】ブログ「槐の気持ち」写真番号はそのブログに記載の番号に対応しています。

 そして、次に曲阜の中心地(写真9/5-2-1)を抜けて魯国故城に向かった。故城の外壁を貫く入場門(写真9/5-2-2)を通り抜け、しばらく行くと、擩星門という朱塗りの門(写真9/5-2-3)がかなたに現れた。デジカメをズームアップして撮る。

 駱さんが入場券を買いに行っているうちに、小太りで青いシャツとジーパンのラフな姿で自転車に乗った人とすれ違った。後で分かったことだが、この人こそが、自称ではあるが、周公旦の77代目の末裔で、現在は姓が変わり望月という日本人に近い二文字姓となっている人であった。駱さんが現地ガイドとして手配してくれていたのだろう。有難いことだ。
 
魯国故城は、周代の国都の遺跡である。紀元前1045年、周が商を滅ぼして天下を治め、武王の弟・周公姫旦が曲阜に封ぜられて、魯国となった。周公は天子を補佐したため、その子の伯禽が代理として封ぜられ、25世代にわたり34人の君主が続いた後、紀元前249年、楚に滅ぼされたというのがこの地の歴史である。・・・中略・・・、
 
そして擩星門(写真9/5-2-6)をくぐると、更に中門(写真9/5-2-7)があり、更に、元圣殿(写真9/5-2-8)という建造物が現れた。その説明碑(写真9/5-2-9)には、「周公届の主体となる建築物で、間口23.7m、奥行き12.26m、高さ11.81mの平屋の建物で、屋根は緑瑠璃瓦からなり、内部には周公の塑像(写真9/5-2-10)が祀られている」とあった
・・・中略・・・、

帰り際に周公旦子孫氏から、「自宅に家系図があるので見に来ないか」と誘われたが、まだ先の予定があるのと、何か高価なものを買わされるのでは無いかという思いで、断り、「曲阜魯国故城」を後にし、泰山のふもとの岱廟に向かった。  後日、このことを振り返り、これが大失敗で、誘いに応じるべきだったと反省した。今誘われれば、第一に「何故望月という名前にしたのですか?」第二に「大月氏または弓月君と何か関係がありますか?」と聞いていたものを。
・・・中略・・・。 
そしてそこを後にして更に先に歩を進めた。すると石舞台の上に仁安門と金色の文字で額の中に縦書きされた楼門(写真9/5-4-3)が現れた。門には、同時に天下帰仁と横書きされた文字も表示されていた。中国によくある赤青黄に彩色された楼門であった。「天下帰仁」で後日ウェブ検索したら、「論語」に出てくる顔淵と孔子とのQ&Aの場面で、口語訳すると次の様になる。
 
孔子:「自分に打ち勝って礼に立ち返ろうとすることが仁である。一日自分に打ち勝って礼に立ち返ることをすれば、世の中はその人の人徳に帰伏するであろう。仁を実践することは自分(の振る舞い)によるのであって、どうして他人に頼るものであろうか、いやそうではない。」と。
 ・・・中略・・・、
更に進むと、二層の全く反り返りの無い屋根を持ち、一層目と二層目の屋根の間に縦書きの額が架けられた間口の広い殿舎(写真9/5-4-5)が現れた。その額には「宋天貺殿」(写真9/5-4-6)とあった。天貺殿の屋根に反りかえりがないのは明清時代前の建立の証拠であろう。

 この「宋天貺殿」は岱廟内の最奥にあり、ここに於いて秦の始皇帝が封禅の儀を行い、以後、歴代皇帝の見習うところとなったものとのことである。

  この建物自体は今から丁度1000年前の北宋時代の天貺節(てんきょうせつ)を記念して建てられたものである。間の九五様式は皇宮正殿のみに許された建て方でもあった。近くまでくるとその巨大さが分かる。間口9間、奥行き5間の九五様式の建造物で、九五様式は皇宮正殿のみに許された建て方であった。

考えてみると、北宋の都である開封(東京=トンキン)は洛陽、長安などと比較すると、山東省から最も近い古都であり、北宋の影響の強い史跡が多いのであろう。

天貺殿は現在も信仰の対象として拝殿する中国人がいると見えて、大きな蝋燭立と線香立てがポツ然と設置されていた。殿舎の配色はやはり漢民族のものではなく、女真族や満州族が好む黄土色ということは北宋時代から南宋時代の過度期の建立で、北方異民族の支配がはじまった頃の建造物か。一体建立した民族は漢民族か女真族などの北方異民族か興味あるところである。
 
E)道教(2) ブログ「槐の気持ち」 写真番号は左のブログに記載した写真番号と同じ
ここからが、道教に関連したもう一つの記述である。――。魯国故城を訪問した時の自分にとって、道教に関する新たな知見であり、中国女性のしたたかさは信仰という点でしっかりした同姓の道教神という力強い味方を身近に持っているからと想到した。以下は、魯国故城訪問記を筆者のブログ「槐の気持ち」に投稿した記事から抜粋転記して記します。

  天貺殿の小さな入り口から内部を覗き見ると、その最奥の薄暗い光明の中、黄色いマントを纏った泰山の主神である碧霞元君(女神)の立像(写真9/5-4-7)があったが、仏教や儒教よりも道教の神の様な雰囲気を漂わせていた。

 ウェブで検索してみると、その通り、道教の女神で別名天仙聖母碧霞玄君、泰山老母、泰山玉女、天仙娘々、天仙玉女碧霞元君などとも呼ばれ、この地では西王母よりも人気のある女神とのことである(Wikipediaより抜粋)。

更にWikipediaには、「碧霞元君は、どんなに信心薄い者の願いでも聞いてくれる、神々の中でも、もっとも優しい女神であるとされる。その神格も商売繁盛・子宝祈願・夫婦円満・病気治療の祈願や人々にお告げをもたらしてくれるなど、非常に幅広いご利益があるとされ、多くの信仰を集めている。」と紹介されている。
・・・後略・・・。

以上の様に、道教関係の神は女神が大勢土地神として慕われている。仏教の場合は、女神は滅多にお目にかからないが、道教の場合は、多勢いる。この違いは仏教で最初に仏像がつくられたのが、ガンダーラであり、その後世に造立された仏像(石造)もそれを模造するという方法で伝播したのに対し、道教では塑像であり、造り易く土地神の位置づけという意味づけが強く、像も女神も造り易いからだったのではないだろうか、と考えています。
 
さて、ところで道教は、日本に伝播したのだろうか。儒教の伝播は?

        第六回 完 第七回につづく


 







2022/06/19 22:18:37|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その5)


           倭国(日本)への仏教伝来の道程(その5)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、33項、  項目番号 項目タイトル   で表し、
大項目内に中項目を    中項目番号 中項目タイトル で表し、
更に中項目内に小項目を  【小項目番号 小項目タイトル】 表しました.

  
前回までの第一回と第二回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。
第一回は以下を取り上げました。
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回は以下を取り上げました。
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

更に、第三回で取り上げた項目は以下の通りです。
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
そして、前回第四回では以下の項目について取り上げました。
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
そして、今回第五回は以下の項目を取り上げるました。
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】

 
 


30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>   以下文中写真番号は上記URLをご参照のこと
 
 この朝も,これまでと同様ホテルで朝食を済ませ、8:30にホテルを出発した。15分ほどで高速道路G60に入り、一路大足(だいそく)を目指す。運転手の蒋(しょう)さんは若干28歳であり、若さ溢れる好青年である。今回の旅の最初から最後までのスルーの運転手である。
 これだけ長距離を走ってもミス(道の間違え)が無いのは、結構予習をしてくれているのかも知れない。有難いことだ。そういう運転手を見つけてくれた駱(らく)さんにも感謝しなくてはならない。
 
9:56にG60から分岐して大足方向へ。次第に地面の色は赤さを増し、道路の造成によって現れた断層は赤茶というより赤色であった(写真11.5 -1-1)。途中、車を停めやすいところへ停車してもらい、赤土を採取させてもらった。 そして更に15分ほどして、目的地一帯に到着し、車から降り、園内に向かった。「世界遺産大足石刻世界文化遺産博覧園遊覧図」と書かれた案内図が目に入った。 案内図では、現在地から最初の橋を渡ると、先ず旅客センター地区が現れ、更に二つ目の橋を渡ったところから大足石刻寺院域に入り、広大寺や、圣寿寺及びそれらの焚香所が現れるようだ。石刻像が現れるのは圣寿寺側となっている。

旅客センター地区の一番北端の正面に寺の山門と思える建造物が現れた。20段ほどの石段を登りつめたところに、底部を象や獅子が支えた格好の8本の石柱に支えられた大きな屋根が現れた。 屋根の4稜線は中国風の反り返りを見せているが、彩色はけばけばしさがなく落ち着いたたたずまいを見せている。観光客の服装の方がはるかに彩色豊かだ。門の額には天下大足と右から書かれていた。いわば、この建造物は山門というより観光ゾーンの呼び込み口なのだろう。

そして第二の川に架かる幅広で100m程の長さの石橋を渡ると、寺院が現れた。これが広大寺なのだろう。境内にあるすべての建造物が中国には珍しい入母屋づくりの屋根構造をしていて、色彩も派手ではなく、落ち着いた感じである。屋根の四稜線は特徴的な反りはないが、中国寺社建造物の屋根の稜線に鎮座する小動物の姿は見られる。これら建造物の歴史は浅そうであった。

その寺院の一角から抜け出すあたりで進行方向右手を見ると、なんの像も彫られていない岸壁(写真11.5 -1-5)が見えた。大きな石が堆積しただけで、地層は現れていない。この大きな岩の凹凸を利用して昔の人たちは像を掘ったのであろう。

そしてさらに行くと、竹林の向こう数10m先に、岩石からなる庇の下に三層からなる石刻像群(写真11.5 -1-6)が現われた。最上層には10体以上の鎮座する仏像群が整然と並び、次の層は更に二層に分かれ、市井の町人や役人風情の人物像が立ち並ぶ、そして最下層には、何やら怖い面持で何かを手にしている人物像が見られた。
 
以下には、仏教の、特に死後の世界観について、展示された石刻像を通して受けた印象や意味について記すことにします。

@)仏教で言う“三界”とは 
 <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>以下文中写真番号は左記URLをご参照のこと
 
「三界(さんがい)とは欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つの総称で凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。

欲界とは、仏教における世界観のなかで欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界。三界の一つで、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天上(神)が住む世界のこと。

色界とは欲望を離れた清浄な物質の世界。無色界の下にあり、欲界の上にある。この色界には四禅の四地の初禅(しぜんのしちのういぜん)、第二禅、第三禅、第四禅があり、これを過ぎると無色界に入る。天界28天に属す。色は物質の義、あるいは変礙の義。

無色界は、天部の最高部に位置し、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定(ぜんじょう)に住している世界。上から非想非非想処(ひそうひひそうじょ)・無所有処(むしょゆうじょ)・識無辺処(しき
むへんじょ)・空無辺処(くうむへんじょ)の4つがある。」とWikipediaに紹介されている。

更にもう少し歩くと、「大足石刻分布図」なる石壁に彫られた案内図(写真11.5 -1-7)が現れた。そこには、潼南県(どうなんけん)、銅梁(どうりょう)県、永川県(えいせんけん)、〇(草冠に宋)昌県、安岳県に囲まれた大足県には宝頂山石刻、北山石刻、等、計5か所あることが書かれている。

以上の内、宝頂山石刻、北山石刻を見学することにした。

最初に現れたのが先ほど竹林の向こうに見えた石刻像群(写真11.5 -1-8)であり、岩石からなる庇の裏には「唐瑜伽部主揔持王((とう・ゆがぶしゅ・そうじおう」なる文字が彫られていた。「瑜伽(ゆが)」とはヨーガのことらしいが、文字の意味は分からなかった。

また、最上層(無色界)と第二層の色界に属する仏像、人像は空色と青色の顔料が服や冠に施されているが、最下層の欲界に属する像には色彩が施されていない。

各石刻像には、説明書きが石板に彫られているが、その解明はしないが、三界それぞれに於いて、遭遇する様々な場面を想定しているものと思われた(写真11.5 -1-9〜11.5 -2-9))。

そして更に進むと、釈迦涅槃像が現れたが、あいにく工事中だった。中国で涅槃像は何度か見たが、これほど大きいのは初めてであった。この涅槃像を過ぎると少し趣が変わる。

A)「六道輪廻」の世界とは <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真は左記URLをご参照のこと
「華厳三経像(けごんさんきょうぞう)」(写真11.5 -2-11、11.5 -2-12)の次は「六道輪廻」の世界(写真11.5 -2-14、11.5 -2-15、11.5 -2-16)であった。「六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天という六つの冥界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。

人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。

大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう」とWikipediaに紹介されている。

ここの「六道輪廻図(石刻)の大きさは、高さ、780cm、幅480cm、奥ゆき260cmという巨大な石刻像であり、90の人物像、24の動物像が、そして輪の中央にはアニッカ(無常)の長い手で支持されている。

輪は60度づつ6つに分割されていて、各分割枠内には神が創造した生き物や物体が彫り込まれ、霊魂が隣接した分割枠の間を移動する様を石刻していて、仏教の教義である“六趣唯心”、“因果応報”、“十二因縁”を表している」と石標に刻み込まれている。
 
【六趣唯心】
とは、六道(仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。”唯心とはすべての現象は心によって産出されたもので,本質的に実在するものではなく,心のみが一切の根源であり最高の実在であることを示す語である。

【十二因縁】ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>
以下文中写真は左記URLをご参照のこと
 
苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法とWikipediaに紹介されている。“因果応報”は言わずと知れた人間の業であるので省略する。

生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であるといわれる。 まだ続きがあり、武器と甲冑に身をかためた強面の神将像(立像)が12体ほど横並びで石刻されている(写真11.5 -2-17)。

十二因縁をそれぞれ退治する神将達か、それとも因果応報を実施するエージェンシーか。よくわからないが、これらの神将像の前に佇んでいる観光客が多かったのが印象的であった。きっと自分の場合はどれに対応するか、自分の胸に手を置きながら石刻像を覗き込んでいるに違いない。

そして岩肌を大きくくり抜き入り口に大きな獅子の石刻像が横たわった石窟が現れた(写真11.5 -2-19)。中には多くの石刻仏像が安置されていた(写真11.5 -2-20〜11.5 -2-23)。

石窟には外からの光が適度に入り込み、ストロボなしで、写真を撮ることが出来た。いずれも柔和な顔立ちをした仏像であった。直前まで、三界、六道、強面の神将像など、恐ろしい場面や像を見て来たためかも知れない。
 
石窟から出ると、すぐのところに、それぞれ虎と牛に半跏の姿で乗っている山君と道祖神(写真11.5 -2-24)が現れた。山君は手が3対あり、2対で物を持ち、一対で合掌している姿であった。さしずめ、宝頂山の守り神というところか。
 
ここで、これまで中国語で現地ガイドをしてきてくれた中国人女性(写真11.5-2-25)とは別れであったが、駱さんの巧妙な日本語への通訳によって、この世界遺産の価値が分かった様な気がした。

宝頂山を下山する途中、珍しい八角(または六角)四重の塔(写真11.5-2-26)及び聖壽寺(せいじゅじ)と書かれた二層のお堂(写真11.5-2-27)及び帝釈殿、そして線香の煙がたちこめる聖壽禅院(せいじゅぜんいん)と書かれたお堂(写真11.5-2-28)を目にした。・・・中略・・・、
 
B)北山石刻  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>写真番号は左記URLをご参照下さい
 そして、駐車場に戻り、車で北山石刻(ほくざんせきこく)に向かい、現地時間14:00頃到着した。駐車場で車を下りるとすぐに観光案内図(写真11.5-3-1)が目に入った。ほぼ南北に細く伸びた北山石刻景区を南端から北上してゆくコースに向かった。最初に目に入ったのはどこかの国の国王とその家族、更には背後に2体の仁王像が配置した石窟(写真11.5-3-2)でありました。

そして、次に現れたのが、千体仏が壁面全体に彫り込まれた石窟(写真11.5-3-3)であり、これまで見たことのある石窟寺院の形式と同じであった。 石窟寺院の場合、石窟内にも入ることができ、内部から、像の背面を含めて仏像や飛天像を拝観できる場合が多いが、ここのは、それほどの広さは無く、窟の前面から窟内を眺めるだけであった。

“石刻”と“石窟”との差異はどの様なものか、宝頂山以上に差異が少ない様に感じた。 中央に天蓋と光背を備えた本尊としての仏像、それを囲む様に配置した飛天や脇を守る諸仏が一つの単位となった窟(写真11.5-3-4、11.5-3-6)が現れた。
 
そして青い彩色が残っている窟(写真11.5-3-5)は千手観音を中心に飛天像や、羅漢像が精緻に彫られていた。青い彩色は既に多くの部分が剥げ落ちているが、剥げ落ちる前のこの石刻像を見て、どのような気持ちで拝仏したのだろうか。青い彩色用材料はラビスラズリかも知れない。


C)仏の佇まい、仏教の教え  <ブログ「槐の気持ち」より抜粋転記>写真番号は上記URLをご参照下さい
 
いずれにしても、ここ北山石刻は、宝頂山の“三界“、六道“と言った人の所業に対する戒めを表したものではなく、仏の佇まいを丁寧に刻んでいるようであり、安心して拝観できるのでありました。

そして次に現れた石碑(写真11.5-3-7)は、仏教の教えを刻していることが、いくつかの知っている漢字から読み取れました。

小さな単位の石窟には、本尊仏があり、その脇を固める脇侍仏、そしてさらにその周囲の天蓋近くに飛天、石窟壁に地方神という構図が多いと感じていたら、そうではなく、本尊はなく、同じような複数の菩薩像が並設された単位の窟(写真11.5-3-8)や、本尊が二体という単位の窟(写真11.5-3-9)もあったと思います。

恐らく窟を寄進した人物の仏への想いの違いが出ているのだろう。自分自身を、夫婦を、子、親等の家族全体を、一族をと、安寧を祈り、祀る単位の違いによって窟内の景色も変わってくるのでしょう。

それと、寄進者の財産力の違いも勿論あったに違いありません。天蓋にも、石窟壁にも飾り佛(かざりぶつ)はなく、本尊には光背の代わりに椅子という極めてシンプルな窟(写真11.5-3-10)もいくつかありました。 

そして後半の窟はほとんどが最初の窟同様、本尊がいて、それを周囲で守る脇侍としての仁王像、本尊の生活道具を持った召使仏など、天蓋、石窟壁とも隙間なく大小の仏像が石刻像として並んでいました。
 
窟内に入って拝仏することも可能なほど大きな窟(写真11.5-3-11〜11.5-3-20)もいくつかあった。無論、観光客がその様な空間に入って拝観することはできない。最後に180度振り返り、観光客用通路の写真(写真11.5-3-20)を撮った。
 
そして、北山石刻景区の北辺に至り、景区内の小さな池の南畔を東の方向に歩き駐車場に至った。現地時間PM3:30頃でしたが、今回の旅行の最終泊の地、重慶市内に向かいました。先ほどまで、観光していた大足石刻も同じ重慶市にあり、その中心部までは車で一時間程度でありました。

以上、石窟と石刻は異なるものの、ともに、仏教または仏教の教えを後世に伝えるための文化財について、筆者が探訪したことのある石窟寺院や石刻寺院について紹介しました。

中国では、仏教の他に道教、儒教、そして現在は殆ど形跡がないが、道教へと変身した太平道、五斗米道と、歴史に残る地元宗教もあり、それぞれ中国の歴史の過度期に登場してきている、と言いますか、中国歴史を動かした、と言えます。
 
更には、外来宗教として、イスラム教、景教、マニ教、ユダヤ教はシルクロードという文化の交叉路を伝って、東へ東へと伝播して伝播の途中の地や、中国東端の地に伝播し、更には日本にも古代より様々な形で影響を及ぼしてきています。

またインド発祥の仏教においても、いわゆる南伝仏教(上座部仏教又は小乗仏教)、そして北伝仏教(=大乗仏教、密教)、更には雲南省から長江に沿って東シナ海沿岸都市へ伝播した雲南仏教や同じ大乗仏教に属するチベット仏教があり、チベット仏教は、雲南仏教とも相互に影響を及ぼしたと考えられます。
 
筆者は雲南省昆明や大理、麗江などを二度に亘って、訪問していますが、その地の田畑を耕作する時の身のこなしを観たり、人々が話す時のイントネーションや咳払いの音を耳にしたり、自然の風景を見たりすると、ありえないことなのに。 自分が生まれる前の、日本のかつての田園風景を懐かしむ気持ちになったのを思い出します。恐らく自分のDNAにメモライズされているのでしょう。

31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
では、ここで、上記の種々の宗教について触れておくことにします、
図にインド・中国・日本を中心とした発祥信仰・外来信仰・土着信仰・伝播信仰などとしてまとめてみました。この内、長江(雲南)仏教(※5)と武神信仰(※9,※10)は正式な文言ではなく便宜的に付けた呼称です。
※1.インド発祥の仏教(※0)は4つの形態で中国に伝播した。
※+数字 はチャート図に示した伝搬ルート番号を示しています。
 
【その1】
ガンダーラや大月氏国を経て中国北部に伝播し、シルクロードで、中国外来信仰としてのマニ教(※7)、ユダヤ教(※8)、景教、キリスト教、イスラム教、あるいは中国土着信仰の道教(太平道や五斗米道を含む)や儒教と影響しあいながら大乗仏教(北伝仏教)として、中国東部に伝播(※1)して行き、朝鮮半島経由で倭国に伝播したり、京抗大運河を南下したりして東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※4)を及ぼした。
 
【その2】
タイやスリランカ等の南アジア諸国経由の南伝(上座(じょうざ))仏教が雲南省に至り、そこで、それらの信仰に更に隣接したチベット仏教(※3)の影響を受け稲作(いなさく)文化等の衣食住文化とともに、長江を下り、東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※5)を及ぼした。
 
【その3】
南アジアのタイ、スリランカ、ミャンマーを伝搬し、途中中国南シナ海沿岸地域に寄港しながら、東シナ海沿岸都市の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響(※6)を及ぼした。
※2.インド発祥の仏教は、チベットにも伝搬し、大乗仏教に近い独特の蘇州、杭州、福州へ、更には台湾や琉球を経て倭国に影響を及ぼした。
 
【その4】
インド発祥の仏教がチベットにも伝搬(※2)し、大乗仏教に近い独特の信仰を作り上げたが、時代的にはその3までの伝搬に遅れてチベットで独自の信仰として教義の進化を遂げ、独立性を重んじたチベット仏教を形成し、現代に至っているが、倭国へは遠く、影響はほとんどない。
 
32)異なる信仰(宗教)間の習合
 
倭国には土着信仰として八百万神、ユダヤ教の影響をうけたとの見方がある神道、更には坂上田村麻呂に因む田村神社や八幡太郎義家等源氏を祀る武神信仰(※10)、菅原道真等の学問の神を祀る天満神社
等の学問の神信仰神社(※11)、更には海難から守る神を祀る海神信仰神社(※12)(宗像三女神、金毘羅があるが、中国でも武神信仰はあり、三国志での英雄関羽(※9)は中国各地に釈迦や老子とともに祀られているところを見かけることがあったが、明清時代に造られたものが多い。関帝廟が横浜にもあるが、観光価値であり、信仰的価値は少ないと思う。
 
以上の内、自分のブログ「槐の気持ち」に取り上げた「マニ教」(※7)と、ヒンズー教と仏教の関り(※0)について、以下に抜粋転記して紹介します。
 
@)マニ教(※7)
【D3-4:トルファン・ゼベクリク千仏洞】 写真は左記URLをご参照下さい
北京時間11:00少し過ぎ、ゼベクリク千仏洞の入り口の直前のところの光景から火焔山(かえんざん)の麓に位置することが分かる(写真上1)。すぐ近くで見ると火焔山の縦縞や断層、そして火に焼けたような色が眼前に見える。
ゼベクリクというのは、ウィグル語で「装飾された家」の意味らしいが、確かに外観の造形美を感じる(写真上2)。6〜14世紀に造られた83箇所の石窟があり、40箇所に壁画があるとの話であった。そのうちの数箇所を拝観したが、イスラム教徒によって破壊された顔面の無い仏の姿は無残である。・・・中略・・・、また時代を遥かに遡ること7世紀末にはマニ教がこの地トルファンで栄え、この千仏洞にはマニ教石窟も造られたが、マニ教徒がトルファンでの最大勢力の仏教を次第に受け入れ、マニ教石窟は仏教石窟へと造りかえられたとのことである。マニ教は仏教との接点が多く、「叡智を重んずる」、「殺生をしない」、「他者を重んずる」、「自らを省みる」といった共通の教義をもっていたとのこと。

壁画は西ウィグル王国時代(9〜11世紀半ば)のものが多く、花を手にしたウィグル教養人を描いたものが多く、その内容は仏教の大乗経典の因縁物語、経変画、千仏が描かれているとのこと。アスターナ古墓群の壁画に、花鳥図が描かれていたのを思い出した。

 ゼベクリク千仏洞は太陽光線を受けると、黄赤色に染まる(写真上3)。背景の山も赤く焦げ付く。約一時間観覧し、帰途につく(写真上4)。
 
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
「4/28(日)ペナレス ガンジス河(その2)」より。ブログ「釈迦の生涯を訪ねて」の表現を使わせてもらうと、「ガンジス河(ガンガ)は、インドで最も聖なる河で、全ヒンドゥー世界の神聖な水の源流で、母なる女神として崇められています。

ヒンズー教徒が等しく信じている玉条のひとつに「ガンガの聖なる水で沐浴すれば、あらゆる罪業は清められて消滅し、ヴァーラースィーで死んで遺灰を流せば、苦しい輪廻から解脱することができる」があり、年間百万人を超す巡礼者の中には、この地で死ぬことのみを目的とする人も珍しくありません。」となる。

ここは沐浴をする人たちだけでなく、死者を荼毘に伏す場(火葬場)があったり、河に遺灰だけでなく遺体そのものが流れてきたりすることもある、と聞いていただけに、薄気味悪い印象があった。

しかし、ガンジス河の川べりに出た時、その意識は無くなり、むしろ,何故か、厳粛な気持ちになれた。・・・中略・・・。ヒンズー教は信者の数では、キリスト教、イスラム教に次いで多い。仏教はどうしたかというと、始祖(しそ)である釈迦は、ヒンズー教の三大神の一つであるヴィシュヌ神の9番目の化身とされている。

インド憲法25条には、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。そういうことであれば、仏教徒よりもヒンズー教徒の方が圧倒的に信者の数が多くなるのも当然である。

ヒンズー教の三大神というのは、世界維持の神、慈愛の神、鳥神ガルーダに乗るヴィシュヌ神、創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディンのシヴァ神、そして、世界創造の神、水鳥ハンサに乗った老人の姿で表されるブラフマー神である。三大神いずれも化身や分身を持つ。

仏教で吉祥天と称されるラクシュミーは、釈迦と同様、ヴィシュヌ神の化身であり、仏教で、大黒天と称されるマハーカーラは、シヴァ神の化身、弁財天と称されるサラスヴァティーは、ブラフマー神(梵天)の神妃である。

更に、歓喜天(かんきてん)(聖天(しょうてん))は、シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司るガネーシャ、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)と称されるインドラなど、仏教で〇〇天と称される仏は、殆どヒンズー教の三大神やその神妃、および、それらの分身、化身、更には。3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神などに対応している。

また、身体の大きさを自由に変えられ、外見が猿で、ヴィシュヌ神の化身であるラーマを助ける孫悟空の元になったと考えられるハヌマーンもヒンズー神の一員であるが、これに対応する仏教の〇〇天は聞いたことはない。

〇〇天と言うように、“天”の文字のつく仏は、如来や菩薩と異なり、人に直接作用するのではなく、如来や菩薩の活動を助ける存在なのだそうだ。ヒンズ−教に於いて、ヴィシュヌ神の9番目の化身とされている釈迦の活動を邪魔する相手とは戦う必要もある。従って、〇〇天の元祖は多くの場合、鎧(よろい)を
身に着け、手には武器を持っている場合が多いのだろう。
 ・・・以下省略・・・    
 
B)長江(雲南)仏教
雲南省民族は、日本人のルーツという説もあるくらい日本との共通点が多い。司馬遼太郎は「街道を行く、雲南の道」で雲南省の歴史、地史、民族性、風土、信仰などについて。約80頁に亘って、記載しています。筆者は初めての雲南省旅行前に、この著に訳80頁に亘って記載された雲南省の特性に
ついて、気になる項目を、予習のつもりで項目内容や、まとめを抜粋転記して
自分のブログ「槐の気持ち」に記載しているので、ここでその主な項目を再記します。

ページ 司馬遼太郎 「街道を行く 雲南の道」抜粋転記


153 雲南省  山も谷も湖もタイ語系やチベット系の人達の天国であった
155 武帝のころ  貴州省、雲南省一帯を「西南夷」と呼んでいた
魚を食べ、それも刺身で食べる
雲南省 長江の上流 江南まで下って勢力をつくったのが、呉と越
163 漢の使者に対して、滇王嘗羌は「夜郎自大」

177 睡美人(西山) 風景を比喩して文学化することは漢民族文化の特徴
179 南詔文化は稲作と青銅冶金を基底とし、中国文化、中国仏教を摂取しつつ、チベット文化、タイ語系文化、インド文化の影響
唐代、南詔国は「吐蕃」の後押しを受け、唐にそむきかねない
187 西山に道観(道教の寺) 山岳信仰 東アジア古代に共通した信仰が根で、日本の原始神道とも血縁関係?
211 雲南の松茸   松蕈(ソンスン)、松蘑(ソンモ)  キノコ=蘑、菌    松茸菌(スンロンジュン)
214 蒟蒻 雲南省が自生、栽培の本場
217 22の少数民族 日本稲作文化の祖
雲南民族博物館:耳杯 漆器の出土品  漆技術の源流は稲作少数民族か
雲南民族博物館:古い青銅器 石賽山古墳群からの出土 貝殻が通貨、それを貯える貯貝器を争う情景が鋳金されている
222 雲南民族博物館:雑技 蛇を踏まえて踊る二人 蛇信仰 「散楽」、「夷楽」 日本の「猿楽」に展開[奈良時代)
223 跪座(正座):  胡座(あぐら);北方、イラン系民族の座り方 その影響で、土間に椅子、テーブルを置く生活
229 漢民族の素形を作った有力な要素として古代羌族があったのでは
イ族は雲南省だけで300万人 その中にサメ族
「牧畜系のチベット族を除いては、ほとんど稲作民族であり、いまもそうありつづけている。かつ魚を食べ、それも刺身で食べる。その民族が日本人に似ていることで、雲南省で稲作する少数民族民が私どもの先祖の一派ではないか、という仮説は、こんにち日本の多くの文化人類学者から魅力をもって唱えられているか、支持されている。」と言われています。

その雲南省から長江を伝って東シナ海沿岸都市例えば蘇州にまで来て、そこからは、東シナ海にそって北東方向に海路移動すれば、日本に来ることは不可能ではない。あるいは、東シナ海沿岸に出る前に少し南にそれて、杭州や福州に至り、そこから、台湾、琉球を経て海路倭国まで渡ってきた雲南人や、他の中国内地から長江へ辿り、そこからは同じ経路で倭国に至った人たちも居たに違いない。

彼らは雲南省の衣食住文化や信仰も一緒に長江経由で倭国にもたらした可能性は大である。信仰は北伝と言うよりは、タイ、ミャンマー、ベトナム等の南アジア諸国経由の南伝仏教に近いと思われます。

従って小乗仏教的な教えが強く伝えられ、古代から、自分に向き合う内省的な教えが伝承された、と考えて良いのだろうと思っています。

中国東シナ海沿岸の寧波市にある阿育王寺を訪れたことが、ありますが、中国中原地域にある寺院に比べなんとなく赤青黄色の原色を使った佇まいというより、原色の程度が弱い配色が使われている様に感じたのを覚えています。

阿育王寺は仏舎利信仰のメッカであり、これに関しての日本との交流のエピソードがあるので以下に紹介します。

C)仏舎利信仰
 阿育(アショカ)王信仰と日本の関係において次の記事が初出としてよく用いられます。

隋の大業年間(605〜17)に倭国の官人会丞(かいじょう)が留学に来ており、内外(仏教以外の学問と仏教)にひろく通じた。貞観5年(631)に本国の道俗7人とともに帰国の際に、都の僧侶が倭国の仏法について尋ねたが、その時に阿育王の八万四千塔が全世界に及んだというが、倭国にも阿育王塔があるかと質問すると、「我が国の文献に記載はないが、土地を開発するたびに往々として古塔の霊盤(れいばん)が出ており、それが光を放って多くの奇瑞があるから、あるのだろう」と答えている(『法苑珠林((ほうえんじゅりん)』巻第38、敬塔篇第(けいとうへんだい)35之2、故塔部(ことうぶ)第6)。
 
弘仁12年(821)5月11日に播磨国で高3尺8寸(114cm)の銅鐸が発掘されているが、これを僧侶が「阿育王塔の鐸である」と述べたといい(『日本紀略』弘仁12年5月丙午条)、また貞観2年(860)8月14日に参河国渥美郡村の松山の中で出土した高さ3尺4寸(102cm)の銅鐸が献上されているが、これも阿育王の宝鐸とされたという(『日本三代実録』巻4、貞観2年8月14日辛卯(しんぼう)条)、
 
このような銅鐸発掘の例は古くから記録があり、崇福寺(そうふくじ)建立に際して銅鐸が発掘されているように(『扶桑略記』第5、天智7年正月17日条)、寺院建立に際して銅鐸の発掘が奇瑞とされた例として、他には石山寺があるが(『石山寺流記』)、阿育王との関連がなされたのは平安時代前紀からのことであり、その発端は奈良時代後期にあった。

 日本において本格的な阿育王舎利信仰の契機となったのが、天平勝宝6年(754)の鑑真の日本行きである。彼の請来した物の中に如来肉舎利が三千粒、阿育王塔様の金銅の塔一基があるが(『唐大和上東征伝』)、前述したように鑑真は阿育王寺に逗留しており、これが阿育王塔様の塔請来に繋がったとみられる。
 
なお。天平3年(731)8月10日に阿育王経五巻の写経が行なわれているが(「写経目録」正倉院文書続々修十二帙三〈大日本古文書編年7〉)、膨大な写経事業の一環とみるべきで、必ずしも阿育王舎利信仰との関連が見出せるものではない。

【称徳天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万塔陀羅尼(だらに)造立事業エピソード】
また称徳天皇による神護景(じんごけい)雲(うん)4年(770)の百万塔陀羅尼造立事業も阿育王八万四千塔との関連が指摘される。

【東近江市石塔寺エピソード】
 阿育王寺を最初に訪れた日本人が誰であったのか不明である。中世の説話であるが、寂照(じゃくしょう)(962頃〜1034)は阿育王寺を巡礼して池の前に至ると、寺僧から日本の近江国蒲生郡の塔が池に光明とともに浮かんでくると言われ、そのことを寂照は書き記し、箱に入れて海に浮かべた。三年後に熊野山那智浦に着岸し、これを源信(942〜1017)が開けたという(『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』石塔寺(いしどうじ)再興事記)。

【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
実際に咸平6年(1003)に、日本国の僧寂照が源信の「天台教門致相違問目二十七条」を延慶寺知礼(960〜1028)のもとに遣わしており(『四明尊者教行録(』巻第1、尊者年譜、咸平6年条)、延慶寺と近かった阿育王寺のもとに赴いた可能性があるが、この説話をもって寂照が阿育王寺に巡礼した証拠とするのは、いささか無理がある。

【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
前述したように、阿育王寺を能忍(のうにん)の弟子が訪れているが、その後日本における阿育王寺信仰に重大な役割を果たしたのが重源(1121〜1206)である。

重源は入宋して阿育王寺を訪れており、帰朝後の寿永2年(1183)正月24日に九条兼実(1149〜1207)に阿育王寺の様相と現地の信仰について述べており(『玉葉』寿永2年正月24日条)、また周防の国の材木を送って阿育王寺舎利殿再建の材としている(『南無阿弥陀仏作善集』)。

【祇園(ぎおん)女御(にょうご)、平清盛(たいらのきよもり)伝承エピソード】
白河法皇が得た仏舎利2,000粒のうち、1,000粒は阿育王寺から得たものであり、以後祇園女御(生没年不明)、平清盛(1118〜81)らに伝承されたという(「仏舎利相承図」胡宮神社)。

【平重盛/源実朝エピソード】
また平重盛(1138〜79)は阿育王寺の拙庵徳光に金1,000両を寄進したといい(『平家物語』巻第3、金渡)、建保4年(1216)6月15日に源実朝(1192〜1219)と面会した陳和卿(生没年不明)が、実朝の前世を阿育王寺の長老(住持)であったと述べている(『吾妻鏡』建保4年6月15日条)。

【道元阿育王寺行エピソード】
道元(1200〜53)は嘉定16年(1223)秋と宝慶元年(1226)夏に阿育王寺に行ったが、西廊の壁間に西天東地三十三祖の変相が描かれているのを見ている(『正法眼蔵』仏性)。

無本覚心1207〜98)も淳祐10年(1250)阿育王山に赴いて2年間滞在しており(『鷲峰開山(しゅうほうかいざん)法灯円明国師(ほうとうえんみょうこくし)行実年譜』淳祐10年庚戌条)、以後中国に渡った禅僧は阿育王寺に滞在する者が多かった。

【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼と鐘楼の併設】
訪れた阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点があることに気がついたので、ブログ「槐の気持ち」から抜粋転記して紹介したいと思います。尚写真番号はブログ記載のものです。

「・・・、しかし、この西塔と東塔のアンバランス感は一体何なのだろう、何かの間違いかも知れない、と思い、ウェブでキーワード検索をしてみた。そうしたら、维基百科なる中国語ウェブに、「至正二十五年(1365年)建的砖塔,高36米,七层六面。东塔七层八角,1995年竣工」とあることが分かった。

即ち、西塔は7層六面、東塔は7層八面でしかも20年ほど前に竣工したばかりなのである。色は西塔がだいだい色、東塔があずき色で最初に見えたのと同じである。

度重なる火災、世を統べる建築主(統治者)の思想によって修復のされ方が異なるのだろう。しかし、異国からの旅行者が統治者の思想を推測することは不可能である、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にあるもう一つの堂宇が羅漢堂(写真10.31-8-1)であり、内部には金ピカに輝く無数の仏像が配置されていた(写真10.31-8-3、8-4)。

 又、堂宇が密集している一角(写真10.31-7-1)にある更にもう一つの堂宇が阿育王寺鼓楼(写真10.31-8-2)であり、鼓楼とは城郭、都市、宗教施設敷地内などに建てられる、太鼓を設置するための建物で、太鼓を鳴らすことによって、時報や、緊急事態発生の伝達などの役割を果たした。

一方鐘楼は寺院内にあって梵鐘を吊し、時を告げる施設であり、時を告げる役割は共通している。この寺院には両楼があり、不思議な印象を受けた。・・・以下略。
       第5回 完 第6回に続く