槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2016/12/04 23:47:42|旅日記
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7) D1(11/1=火)上海経由重慶へ、重慶Haifu社訪問 重慶宿泊

◆D1(11/1=火)上海経由重慶へ、重慶Haifu社訪問 重慶宿泊

 今回利用する航空便は、東京成田08:55発上海経由重慶15:35着の中国国際航空CA158便である。

 今回も又PC持参で、その為中国専用のワイヤレスルータをグローバルWiFIに予約して、成田の第一ターミナル4F南ウィングで受け取ることになっていた。

 その為、手順として、京成成田⇒成田第一ターミナル下車⇒成田第一ターミナル4F⇒グローバルWiFI受取所⇒中国国際航空カウンターにてチケット入手⇒手荷物安全チェック⇒出国検査⇒デューティフリーで土産購入⇒搭乗ゲートロビーへ、と予定していた。

 ところが、グローバルWiFI受取所のオープンが7:30で搭乗予定時刻8:15まで45分しかなく、土産を買う時間があるか心配になってきた。結局土産を選んでいる時間がなく、同じもの5箱+他の同じものとした。それと家内のお母さん作のハンドクラフトの小物10個程となった。

 今回の旅行では、直前に、重慶にあるHaifu Medical Technology社を訪問することになり、土産を沢山購入することになったのだ。搭乗時刻が少し遅れたので、少し余裕が出来、空港の外の様子を見て、写真を撮った。あいにくの雨で路面は濡れていた(写真11.1-1-1)。

 搭乗してから離陸までは順調で、早起きしたため間もなく睡魔に襲われ飲み物いかが?の巡回に気が付かなかった様で、いきなり機内食という感じだった。

 窓外を見下ろしても、雲海のみで山や海は全く見えなかった。無論上空は快晴であった。食事は最近利用する機会の多いANAに比較すると落ちる(写真11.1-1-2)。食後暫くして、あと30分ほどで経由地の上海浦東空港に到着するというアナウンスがあった。

 間もなく上海浦東空港(写真11.1-1-3)に着陸した。雨は降っていない(写真11.1-1-4)。一度全員荷物をすべて持って降りるのだ。重慶まで行く人はワッペンをつけることになっていて、降機したらすぐのところに係員がいて、そこに一時集合し、点呼をとり、別の航空券をもらい重慶行きの同じ航空機に案内されるのだ。

  その間入国手続きや危険物チェックもあり、途中トイレに行く以外はまったく余裕がなかった。搭乗口が分かっているからトイレに行けるのであって、分かっていなければ係員を見失うことになりパニックになるのが推測された。

  機内に入ると、すでに上海から重慶に行く乗客が乗り込んでいて、成田―上海間の乗客より多い様だ。上海は晴れであるが、快晴とは言えない天気だ(写真11.1-2-1)。待機時間は殆ど無く、間もなく離陸し、一路重慶に向かった。

 離陸後まもなく窓外を見下ろすと、長江と思える大河が流れている(写真11.1-2-2)。長江の蛇行によって眼下に見えなくなることもあるが平均的には長江に沿って、川上の方向に向かう筈である。

  現地時間で14:00を少し回った頃、機内食(昼食)があった(写真11.1-2-3)。機内食(朝食)と似たりよったりであった。ANAに比較すると落ちる、というのが正直な感想である。運賃が低価格なので仕方がないのだろうか。

  そして約20分遅れの15:50に重慶国際空港(写真11.1-2-4)に到着した。なんとなくどんよりした重い雰囲気の空港であった。駐機ターミナルの屋根には重慶の文字が浮かび上がっていたが、全体に褐色がかった雰囲気がした。

  あとで分かったことだが、四川省や接する重慶市は空には深い霧または靄、地には赤土が象徴的な特徴なのだそうだ。入国手続きは既に上海で済ましているので、ここでの入国手続きは簡単で、混雑もしてなかったので、短時間で到着ゲートの出迎え口に至ることが出来た。

  すぐ駱さんの笑顔と運転手の姿を確認できた。運転手の蒋さんは若干28歳。今回の旅のスルー運転手であり、約1000kmの移動を駱さんとともにすべて付き合ってくれるのだ。すぐ手荷物を持ってくれて、専用車へ案内してくれた。

 先ず向かう先は、Haifu Medical Technology社であり、そこの技術者に面談することになっていた。面談することになった経緯は省略するが、旅の疲れが蓄積する前に訪問し、なるべくすっきりした気分で面談したい気持ちがあり、重慶到着日の最初に訪問することにしたのだ。約束は、この日の17:00と決めさせてもらっていた。

 この会社はHIFU治療の医療技術では世界でも先端を行く会社で、胡錦濤や習近平さんも視察に来たことがある企業で、専門病院が同じ敷地内にあり、「中国国立超音波医療研究センター」も同社内にある中国でも先端の医療機器会社なのだそうだ。
 URL:http://www.haifumedical.com/

 受付に面談相手のまずMs. Jenny Zhang(張玲)さんを呼んでもらった。彼女は面談に先立って会社案内をしてもらうことにしていた。入り口ロビーの壁面には壁いっぱいに電光画が模様されていて(写真11.1-番外-1)、「これは何かわかるか?」と聞かれたが、「生命誕生の瞬間」との正解をすぐ思い浮かべることが出来た。

 ちなみにここの社長がこの電光画の前で、何やら話している(写真11.1-番外-2)のも、この電光画が起業コンセプトに関連していると言える。

 ここで製造販売している治療装置は前立腺癌、子宮癌、乳癌の治療を経皮(体を切り開くことなく)非侵襲で治療できる装置なのだ。

 慢性鼻炎(写真11.1-番外-3)や骨髄癌、他の臓器の治療にも有効で、英国やロシアなどの国々でも癌の先端治療装置として導入されているのだそうだ。
  英国BBC放送ビデオURL:   http://www.haifumedical.com/Press%20Release/Video/2013-08-29/104.html

 そして、同社のvice president in charge of technology development and innovation,の林涛さんと約1時間面談し、最後に張玲さん、林涛さんと自分の3名で、スリーショット写真を撮り(写真11.1-番外-4)、別れを告げ、宿泊予定のホテルに向かった。

 ホテルは、重庆市北部新区にある重慶颐和幸福酒店である。受付ロビーには大きな書棚と沢山の書籍が配架されていた(写真11.1-3-1)。何を意味しているのだろうか?チェックイン手続きを駱さんに全て任せ、ソファーに浅くかけてチェックインが終わるのを待った。

 そして、一度部屋に荷物を置き、ホテル内レストランで夕食を駱さんとともにすることになった。雲吞を食べたいと駱さんに希望していたので、他に客の姿が見えないレストランのウェイトレスに有無を聞いたところ、幸い有るとのことだったので、そこで夕食を摂ることにした。

 既に20:30近くであり、丁度良い腹具合だったので、美味しく食べた。写真(写真11.1-3-2)は、駱さんとの二人分を一堂に並べたところである。メニューは最近の中国旅行の定番の雲吞+本場のマーボ豆腐であり、極上のおいしさだった。駱さんは更に香辛料を必要とした。

 そして、部屋に戻り、部屋を点検した。浴槽は無いが洒落て落ち着いた雰囲気の部屋であった(写真11.1-3-3、写真11.1-3-4)。
 本稿完  つづく







2016/12/01 19:28:00|旅日記
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7) ◆はじめに
四川省と重慶市の旅物語(2016.11.1〜2016.11.7)
◆はじめに
今回の中国旅行の目玉は三星碓遺跡であり、成田からの直行便のある成都市を拠点に、都江堰や三国志ゆかりの地、白帝城を訪問できればと思っていた。

しかし、白帝城は成都から遥かに遠く、武漢に近いことがわかり、車で移動するとしたら、殆ど車漬けの旅行となってしまう。また、重慶市はここ数年、中国旅行で連続してガイドを依頼している駱さんの実家があるところであり、お父さんが今でも暮らしている地であること。表敬して挨拶したかった。
 
 更には、永年研究開発分野の仕事をしてきて、興味を持つ医療機器の企業が重慶市にあることが分かり、そこを訪問するアポが取れたこともあり、更には経由便であるが、成田⇔重慶直行便があることが分かったのである。そこで、今回の旅行の拠点を重慶市とし、重慶市と三星堆遺跡の間にある観光地を訪問することにしたのである。

【旅程】
 D0(10/31=月) 成田にて前泊
 D1(11/1=火) 成田⇒重慶、着後Haifu Medical Technology社訪問 重慶市泊
 D2(11/2=水) 重慶から楽山市へ(約3時間40分) 楽山大仏見学 楽山市泊
 D3(11/4=木) 楽山市⇒三星碓(約2時間30分) 広漢市泊
 D4(11/5=金) 広漢市⇒遂寧市(約2時間25分) 中国宋瓷博物館、霊泉寺 遂寧市泊
 D5(11/6=土) 遂寧市⇒大足(約2時間22分) 大足石刻⇒重慶市 重慶散策 重慶泊
 D6 (11/7=日) 重慶市⇒上海経由成田へ
(濃霧で上海空港から離陸できず、上海で一泊、成田へは11/8=月の着となった。)







2016/09/20 9:41:51|旅日記
龍泉青磁の旅  10.D6(5月29日) 杭州市から帰国の途へ

10.D6(5月29日) 杭州市から帰国の途へ

 まずは、前日の稿で、書ききれなかった分について記載する。
予定通り杭州東駅に到着し、前回同様地下鉄で、西湖近傍の駅で降車して、ホテル「杭州華僑飯店」に行き着く前に、駱さんに付き合ってもらって、夕食をとることにした。ワンタンが食べたいと言ったら、ワンタン専門店に案内してくれた。

 日本では漢字で“雲吞”と書くが、その店では、“錕鈍”という漢字を用いていた。店(「周素珍」)の入り口には「湖州大錕鈍、南潯鹵煮錕鈍」と表示され(写真5.28-4-2)、店内の壁面メニュー(写真5.28-4-1)には計12種の錕鈍料理名が掲示してあった。値段は12元から19元で、平均では14元、日本円で250円足らずの安さであった。

 反対側の壁面にはメ―ニュー記載の一品、一品の写真が貼られていた(写真5.28-4-3)が、どれも同じように見えてしまった。

 また他の壁面には、「珍鮮錕鈍」と右から筆書きされた紙片が貼られていた(写真5.28-4-4)。本稿をかくに当たり、“周素珍湖州錕鈍店”でホームページ検索したところ、インスタグラムに一件だけ投稿されていた。錕鈍の写真と、次の様な紹介がされていた。

 https://www.instagram.com/p/BBUGEjVPMmY/
 「火腿乾貝餛飩這家餛飩店雖是連鎖店,但水準不錯,而且寫明現包現煮,經我觀察,的確言行合一。這裏的餛飩是湖州南潯水鄉口味,不放麻油與糖,只求鮮味。餛飩有十幾種,鮮味最突出的要數火腿乾貝餛飩,以七成五花肉,三成前腿瘦肉為餡,混入火腿碎和乾貝絲,為一粒普通的餛飩搗N不少。這裏的餛飩皮也與眾不同,較厚較韌,口感一流」。

 旅の途中に立ち寄った客の感想だろうが、最後の「口感一流」なる一文は意味が分かった。同感である。

 食べたのは写真5.28-4-5の写真のもので、メニューのどれに該当しているのかは覚えていないが、値段にしては、極上のおいしさだった。
 日本では最近は単独のワンタンというのは無く、ワンタン麺になってしまい、ワンタンだけというのは殆ど食べることが出来ない。中国のワンタンが病みつきになりそうである。

 少し前日分の書き残し分が長くなってしまったが、ここから旅の最終日、即ち帰国日ついての稿とする。

 最終泊したホテルは、杭州を起点とした中国旅行の時には毎度利用する「杭州華僑飯店」であった。ホテルロビーの佇まい(写真5.29-1-1)や、部屋からの景色(写真5.29-1-2)はおなじみになった。

 いつも通り朝食を摂った後。駱さんが迎えに来てくれるまでの間、ホテルの外にある西湖の小雨降る光景を写真に撮ろうとしたが、少し先は雨に煙ってよく見えなかった(写真5.29-1-3、5.29-1-4)。

 そして、約束の時刻AM11:00に、ご主人の張さんともども迎えに来てくれた。杭州市職員の張さんは、最近の平日は、9月はじめに杭州市で開催予定のG20首脳会議の準備で休む暇もないが、日曜日なので空港まで、車の運転の労をとってくれたのだ。

 明るく開放的な張さんは、ともに血液型がB型ということもあるかも知れないが、年齢の差を越えて。一緒にいると楽しい存在である。空港までの車の中で多少でも会話が出来たのは良かった。

 空港に着き、彼らと再会を約し、別れ、所定の搭乗手続きをしてANA NH930(杭州13:40発)の機上の人間となった。東京成田17:50着の予定である。

 杭州空港は、北京空港や上海空港等に比較して喧騒さがなく落ち着いた搭乗が出来るので気持ちが良い。復路は、17Aあたりの座席なので、夕陽に浮かぶ富士山が拝めるはずである。

 離陸すると、あっという間に空港と周辺の家並みは乳白色のベールのかなたに去り(写真5.29-1-5)、間もなく水平飛行に変わり、ベルト着用のサインも解除された。

 なんとなくウトウトし始めた頃、おしぼり、軽いスナック、飲み物の順で出され始め、ついで機内食が運ばれてきた。機内食(写真5.29-1-6)は往きの便と同じ、糖尿病食である。
糖尿病食は特別食で、全てのディッシュに”DBml”とメモされた紙片がつけられている。無論Diabetic mealの略である。隣席は空席なので、通常食との比較はできなかったが、往便の時の比較では大きな差異は無かったように記憶している。

 特別食だからと言って、運賃が高くなるわけではなく、スチュワーデスに特別に親切にされている様で、なんとなく心地よいのである。

 窓の外には高密度の雲海の上をすべるようにして飛行する航空機の翼が見えた。航空機の上空に雲は皆無であり、紺碧の空が心地よく目を刺激する。この飛行高度であれば、到着にはまだ時間はかかると思うと、またウトウトする気分になってきた。

 眼がさめたのは、あと30分ほどで、着陸態勢に入るというアナウンスが耳に入ってきた時で、窓外には高密度の雲海ははるか上空となり、また天気も悪く、残念ながら雲海に浮かぶ富士山の影を目にすることはできなかった。

 その代わり夕陽に染まる、三浦半島あたりや房総半島あたりの景色、あるいは海面を行く舟の姿を見ることが出来た。(写真5.29-1-9〜5.29-1-12)

 そして、間もなく着陸態勢に入り、成田空港に無事着陸した。。

  全編 完







2016/08/31 13:20:39|旅日記
龍泉青磁の旅 D5(5月28日) 景寧県へ中国畲族の村を観光、杭州市へ戻る

9.D5(5月28日) 景寧県へ中国畲族の村を観光、杭州市へ

最初に、前日の分の書き残しについて記す。

 前日最後の龍泉観光は、現在施工中で来年(2017年)オープン予定の「龍泉青瓷文化園」と呼ばれる陶芸技術センターである。

 ここには、中国各地にある著名な青磁窯を、その窯場の代表的技術者ともども招聘し、青磁の拠点とするのだそうだ。見学中、浙江省の役人の視察に行き交った。

 「龍泉青瓷文化園」には、すでに作陶実地体験できるところ(写真5.27-7-1)があり、その入り口には、“青磁体験区”とか、“質量教育社会実践基地”とか、“標準化服務示意○(○は口構えの中に冬の文字)”と、物々しい名称が表示され、そこはすでに先行オープンしているようで、陳さんの案内で、覗いた時は一部の観光客や、おそらく正式オープン後、一般観光客に作陶を手ほどきするインストラクター養成中(写真5.27-7-2)の様だった。

 駱さんから、「やってみたら!」と言われたが、まだ陶芸を始めたばかりの自分にとってはうまくできないだろうと思い、遠慮した。

 この遠慮は後で後悔することになった。青磁用の土だけでも自分の手で触っておけばよかった。

 青磁土は海外持ち出し禁止なのである。青磁用の土を触ってみることなどここでしか、できないのである。

 ところで、日本の窯場は、清水焼、有田焼、益子焼、備前焼、九谷焼、伊賀焼、瀬戸焼など、殆どが地名で表わされるが、中国窯は、青磁、白磁、唐三彩などと陶磁器の製法や特徴別(例:王朝ご用達で“官窯”)いう種別で呼ばれることが多い。

 勿論中国窯のなかにも、越州窯、景徳鎮。天目窯という様に、生産地で表される窯もあるが、地名で表されるのは少ないように思う。この様に地名で表すと、拠点化した時の呼び名に困る。

 したがって日本にその様な拠点づくりをするには、“須恵器系”、“土師器系”とでも呼んで集約するしか無さそうである。

 見学中、目についた箇所を写真に撮った(写真5.27-7-3〜5.27-7-5)。

 壁のてっぺんの縁に陶磁器を並べて配置している光景(写真5.27-7-5)は陶磁器の製作所でよく見かける。このように塀のてっぺんに据えられる陶磁器は壺、花器等の場合より、このようなオブジェの場合の方が多い様に感じる。

 中国の寺院等の屋根の稜線に、天災からの守護神としての神獣を配置した光景を見かけることが多々あるが、それと同じ感覚が入っているように感じた。塀の外からの被災を防ぐ意味合いがあるのだろうか。

 そして、振り返ると大きな煙突が一本(写真5.27-7-6)、そして大きな水車(写真5.27-7-7)が一基「龍泉青瓷文化園」内にあった。水車の動力を何に使うのであろうか?

 「龍泉青瓷文化園」の見学後、陳さんの店で夕食(写真5.27-7-8)を摂り、ホテルに戻った。汗だくだくで、服も汗で湿っていたので、ホテルの部屋に設置されていた大きな扇風機の風を送り、最も湿ったランニングヤツとハンケチを乾かすことにした。

 そして以降はD5(5月28日)の分であり、龍泉市の観光最終日である。宿泊ホテルは朝食つきであったが、そこでは摂らず、駱さんと一緒に町なか(街道沿い)にある食堂で摂ることにした。

 陳さんは青磁の工場を持っている(青磁加工)だけでなく、奥さんの頼朝媚さんと餐炊(食堂)、住宿(旅館)、青磁販売、もやっている。要は、陳さんは街道沿いの宿場町の将来有望な若手事業家と言ったところだろうか。

 ホテルを後にして(写真5.28-1-1、5.28-1-2)、最初に向かったのは、街道(岱垟路)に面した餐炊(食堂)で、そこで駱さんともども朝食を摂ることになった。

 朝食として食した麺(写真5.28-1-3)は中華麺というよりは“うどん”に近いものだった。中国料理、とくに、四川料理や雲南料理に特有な、いまだになじめない風味もなく、おいしく食べることができた。

 そして最後の目標観光地、景寧県にある中国畲族の村に向かう、乗り物は黄さん運転のVW車である。

 途中、往きに通りがかった竹藪の異様な光景が見られるところで、車を止めてもらい、じっくり静止写真を撮らしてもらった(写真5.28-1-4〜5.28-1-7)。

 これほど広範にビニール袋が被されているのは、何か具体的な目的がある筈である。その答えとなるような写真(写真5.28-1-5)が偶然にも撮れていた。ビニール袋に蝗と思われるバッタがまとわりついているのである。

 このビニール袋がなければ、成長中の竹の先端の若葉は柔らかく、しかも味が良いので蝗の絶好のえさとなるのであろう。駱さんも盛んにスマホ写真を撮っていたので、中国でも珍しい光景と言えるのかも知れない。

 再び車に戻り、景寧県にある中国畲族(シェー族)の村に向かう。相変わらず前述の奇景は続いた(写真5.28-1-6、5.28-1-7)。

 途中、いかにも里山風の村(写真5.28-1-8)や、少しばかり街っぽい地点(写真5.28-1-9)も通過し、いかにも山間(やまあい)ののどかな光景(写真5.28-1-10、5.28-1-11)を車窓から見上げながら、なおも先に進む。

 車窓から見上げた光景は、満天の青空とは言えないが、青空に千切れ雲が浮かんだ光景で、いかにも気が休まる光景であった。

 そして竹を見るために小休止してから1.5時間ほど経った、10時半少し前に、目的地の景寧県にある畲族(シェー族)の村のゲート(写真5.28-2-1)にたどり着いた。

 8本の朱塗りの支柱の上に瓦屋根が載っただけのゲートで、壁とか塀という感じが全くない開放感溢れるゲートであった。このような意匠の建造物を現代の少数民族は好むようだ。風雨橋を連想させる。

 ゲートをくぐると、広庭が現れ、その中央に何かを縫っている、あるいは何かを織っている女性のブロンズ像が現れた(写真5.28-2-2)。

 眼を左手に移すと立派な水洗トイレが目に入った。以前の中国では考えられない光景である。大小一対の水洗便座が一つのトイレ室に収まっている(写真5.28-2-3)。

 これでは、大勢が一度に用が足せない。欧米観光客用で、滅多に来ないので、一室で問題ない、と言いたげのトイレ室の佇まいであった。

 そして、今度は、入園チケットを販売している受付口のあるゲートがあり、その前に村内の案内図が表記されている案内看板(写真5.28-2-4)が目に入った。

 よく見ると、中国語の他、英語と日本語(写真5.28-2-5)で説明書きされている。日本文は、以下の通りである。

 『「畲郷の窓」の観光地区は、景寧県大均村、県都まで12kmのところにある。
 景寧唯一のショオ族自治県は、浙江省畲民発祥の地で、古来“浙江省のシーサンバンナ”とか、“華東のシャングリラ”と呼ばれた。
 「畲郷の窓」の観光地区は、大きな均古村と欧江小川を母体として、ショオ族風情を中心に、畲郷に入っては山水、ショオ族風情を体験するのが最良の窓口である。
 観光地区の主要な三つのプレートがある。
 一つ目は参加、鑑賞、ショオ族風情演技、
 二つ目は、たくさんの展覧、ラオカイ風貌を味わって、千年の古樟、龍崗区叠翠浮山祠、ショオ族風情館などの人文の景観を感じる風情演技。
 三つめは「浙江第一流」と呼ばれた浮き傘漂流、その中には「ショオ族風情演技」、最の具特色は、「畲賽受付大」、「畲山火の神祭り」、「畲族の伝統」、「洗濯し水かけ祭り」や「キャンプファイヤ」の五つの項目で構成されて、昼夜通して開催される。』

 この日本語翻訳は意味が分かりにくいところもあるが、大体分かる。

 最初のゲートに戻って、案内看板のあった建屋の全景を背景に駱さんの写真(写真5.28-2-6)と、青空が雲間から覗いた空を入れた全景写真(写真5.28-2-7)を撮った。

 白壁の大きな建物は何かわからなかった。そして少し歩くと大きな樟樹(写真5.28-2-8)が見えた。

 樟は大きく成長するので、少数民族の郷においてはシンボル的な樹になることが多い。この樹もそうだろうか、枝から縄が放射状に垂れ下がって取り付けられているのは何のおまじないだろうか。

 反対側に視線を移動させると、階段状のステージ(写真5.28-2-9)が見えた。多分畲族の民族舞踏でもやるのだろう。残念ながら、何もやっていなかった。

 階段には様々な模様や文言が描かれているが、特に目を引いたのは、鳳凰の絵(写真5.28-2-10)であり、色彩が綺麗だった。鳳凰の絵は異なるスタイルでも描かれている(写真5.28-2-11)ので、畲族の伝説に鳳凰が現れることがしばしばあるのかも知れない。

 そして、この郷内の主な建物の配置図と案内が、中国語、英語、日本語で書かれている(写真5.28-2-12)。その日本語では、以下の様に記されていた。

 『畲族は山の傍に住んで、狩猟、采薪、焼畑農法で生活している民族であり、主に福建、浙江、広東、江西、安徽等の省に分布している。
 景寧県は畲族が浙江省に最初に滞在した地であり、唐代の永泰2年(766年)に雷進裕は族人を連れて福建省の羅源から景寧県に移住してきて以来1200年の歴史を持っている。
 景寧県は中国唯一の畲族自治県で、民族文化は豊富で、多彩である。師から伝承することを通じて、畲族民謡、畲族の三月三日、畲族医薬は、国家級非物質文化遺産と、評定され、畲族の彩帯編み工法、畲族の結婚風俗、畲族服装は、省級非物質文化遺産と評定されている。
 陳列館は、畲族服装区、織物彩帯区、畲族居住区、しいたけと茶の葉区、農耕展示区、生活文化区等の六つの文化展示区に分けられていて、多視点から畲族の文化を展示している。』

 この陳列館(写真5.28-2-13)は“うだつ”で分けられていて、畲族の女性用の色彩豊かな民族衣装(写真5.28-2-14、5.28-2-15)や、織機(写真5.28-2-16)や、農機具(写真5-28-2-17)等の展示を写真に収めている。

 そして、生活文化区と思われる家並(写真5.28-3-1)が目に入った。白壁の上に載っている屋根は中国独特の大きな反りのある屋根ではなく、日本の民家で一般的な、反りのない灰色瓦でできている。

 少数民族には、この形式が多い。そして、干されているのはシイタケであろう。敷面一面に展開されている。

 そして、更に、先に進むと、現在の畲族が生活していると思われる住居が、狭い通路を挟んで高い壁で向かい合って建っている。この家屋と通路の形式は、最近訪問した中国、特に浙江省杭州市近辺の観光地で多く見かけられる。

 その形式に従うとすると、これらの細い通路は、いづれ、小石が敷き詰められた通路に改修されるはずである。

 その一帯から抜き出ると、眼前に川の流れが飛び込んできた。川の色は青緑であり、背面には小高い山が控えている。山間の川にしては、流れが緩やかで、水量も十分で滔々と流れる感じだった(写真5.28-3-8〜5.28-3-10)。

 川の向こうの山を川面に映し出せるほど、川面には波が立っていず、穏やかである。まるで湖沼のようであった。

 少し、奥に進むと、やはり風雨橋(写真5.28-3-11)が現れた。まだ建造したばかりの様な新しさで、生活臭が全くしない。地元住民の両岸をつなぐ通行の利便性や、社交/憩いの場、商いの場ではなさそうである。

 橋を利用している人の姿は、地元民というより、観光客目当ての設備という感じがした。屋根は三層の瓦葺きで、橋には屋根を支える支柱と橋の両端部に欄干と椅子があるだけで、風をしのぐ壁や塀は見当たらなかった(写真5.28-3-13、5.28-3-14)。

 自分の様な風雨橋好みは、風雨橋という設備だけでなく、そこに漂う生活臭をセットで触れ合いたいのだ。この橋から、写真5.28-3-9と同じ方角の写真を撮った(写真5.28-3-12)。少し遠望になったので、川面には山の稜線までがくっきりと映っていた。

 風雨橋の屋根を支える梁に“輂”の文字がブラさがっていた。この文字は陳列館(写真5.28-3-13)の2階の窓枠にも見られた漢字であり、気になっていたのだ。

 読みと意味を調べてみたら、読みは“じゅ”で、意味は、「古代の地球の移動装置」とある。確かに両岸の間を移動するための装置と言えなくないが、もっと深い意味があるように思って止まない。

 橋から反対側の景色を見ると、山並みと住居の様な建物(写真5.28-3-15)がチラっと見えた。この地は山に囲まれた盆地なのだ。確かに夏は暑く、冬は寒くなりそうな地形である。現に6月前なのに夏の様に暑い。

 風雨橋を渡り、少し歩くと自動車道になり、自動車道をまたぐ風雨橋の様な建造物(写真5.28-3-16、5.28-3-17)が現れた。川の上だろうが、道路の上だろうが、そこに佇める屋根を作りたくなるのは畲族の、あるいは畲族にとどまらず中国の少数民族の、あるいは少数民族にとどまらず、中国人全般の潜在的な欲望かも知れない。

 筆者の自宅近くの国道299号線バイパスを跨ぐ橋“あおぞら橋”の下を通行する車の走行を見るとき、この橋に屋根があるとしたらどの様な気分になるだろう。

 特に嬉しい気分になるとは思えない。しかし、橋の下を川が流れているとしたら、屋根付きの橋から一日中川面を眺めていても飽きないかも知れない。

 時刻は昼を過ぎていたので昼食を摂ることにした。最初に歩いた高い塀に挟まれた細い路地に食堂があることを駱さんは調べていたのだろう。その路地に面していた食堂のうち、比較的清潔そうで、料理もなじめそうな店に入り、メニューは駱さんに任せた。

 料理は4品で、おかずはすべて野菜で、トマト、インゲン豆、ホウレンソウを刻んだもの、主食は粥であった(写真5.28-3-18)。

 そして、再び大きな樟樹の前(写真5.28-3-19)に戻り、黄さんと落合い、一路、高鐵の“麗水駅”に向かった。その途中、立派な構えの風雨橋(写真5.28-3-20)があったので、車を止めてもらい写真を撮らせてもらった。地元民用というより観光目当てであることが明確である。

 麗水駅に着き黄さんに別れを告げ、ホームに着いたが、列車は若干遅れているということだったので、待合室(写真5.28-3-21)でしばらく待つことになった。

 しばらく時間があるということで、駱さんがおもむろにリュックから取り出したのは、駱さんに、「中国語で書かれている畲族の民話「天眼重開」に書かれていることを教えて欲しい。」と頼んでいたコピーであった。

 原典は。かつて(前々回の杭州旅行の時)、杭州市の本屋で購入した中国語で書かれた「世界少年文学経典文庫―中国民間故事」のp172〜p180に掲載されたもので、スキャナーでコピーしたものをPDFに変換し、駱さんに添付送信していたものである。

 駱さんは忙しい人なので、この宿題は覚えていないに違いないと期待していなかったのだが、そのコピーを見ながら日本語に分かりやすく意訳してくれた。さすがに義理堅い駱さんである。

 そして、間もなく入線のアナウンスがありホームに向かった(写真5.28-3-22)。そして間もなく高鐵(中国版新幹線)が入線し(写真5.28-3-23)、乗り込んだ。本稿では写真をこれ以上掲載できないので、この続きは、帰国日5月29日の稿の最初に記述することにする。
  本稿 完    次の稿(中国旅行最終日)につづく







2016/08/05 0:02:36|旅日記
龍泉青磁の旅 8.D4(5月27日)中国青磁小鎮観光

8.D4(5月27日)中国青磁小鎮観光

 黄さん運転で、駱さんを助手席、自分を後部座席に乗せた車は、午前10時前後に、龍泉市内の龍泉宝剣博物館を出発し、舗装はされているが、かなりの田舎道を中国青磁小鎮に向かって走行している。空は、雲ひとつ無いとは言えないが、良い天気で、車窓からであるが、緑が映える(写真5.27-4-1、5.27-4-2)。

 山には竹林が多く見られ、窯を炊くときに使う燃料として竹を使うこともあるのかという妙な疑問が湧いてきた。「窯の燃料としての薪に使われるのは、松、杉、栗、クヌギ、楢、桜等であり、竹を使うという話は聞いたことがないなあ、」などと、ひとりごちていると、竹林に白いものが、見え隠れし始めた(写真5.27-4-3)。

 竹のてっぺんに白い袋のようなものが被せられているのだ。すべての竹にではなく、一部の竹に点々と被せられているのである。竹林が続く限り、そのような光景が延々と続いた。

 「何を目的に? またどのように?」というのがひらめいた疑問であった。帰りにも同じ道を通ると思われたので、この疑問は帰りに晴らそう、車を止めてもらいじっくり見せてもらおう、ということにして先を急いだ。

 そして、更に先に進み、宝剣博物館を出て約1時間後に、この日宿泊する予定のホテルのあるゾーンに到着した。ホテルのチェックインロビー(写真5.27-4-4、5.27-4-5)はおよそロビーらしくなかったが、椅子に座って少し待ってほしいとのこと。後で分かったのだが、駱さんの旦那の弟さんの娘さん(刘 思芬さん)の知り合いという人とはここで待ち合わせることになっていたらしい。

 広い空間に巨大な樟(くすのき)の枯木が展示されていた、この枯木は芯の方が空洞状態になっていて人が2、3人は入れるくらいの太い枯木である。この枯木の説明(写真5.27-4-6)があった。英語、ハングルにも訳されているので、英語の部分から、以下のような説明となる。

 「この木、随樟(または香樟)は。もともとは江西省のとある景区にあった。それが落雷の被害を受け倒木し、1800年の間、地中に埋もれて化石化していたが、披雲会社机縁巧合が貴重で珍しい遺物と考え、地中から掘り起こし、当地へ移設した。倒木前は、樹齢1100年以上で、直径2.5m、高さ50mの大木だった、地中に埋もれている間に、木の中心部は朽ち果て、3〜5cmの厚さの樹皮のみが残った。」

 『この樟(クスノキ)は全体から樟脳の香りがする。なので、別称“香樟”。樟脳とはすなわちクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことで、防虫剤や医薬品等に使用される。』とWikipediaに紹介されている。

 もともとこの木は大木になりやすく、幹周りが20m(直径換算で、6.37m)を越える大木は日本、台湾、中国の各地に多く知られていて、神社仏閣にある樟の大木は神樹とされ、人々から崇愛されている。尚、“楠”と書くクスノキは中国では異なる樹のことである。

 暫くして、刘 思芬さんの知り合いで、龍泉小鎮で龍泉青磁を製造販売している陳越青さんという人が現れた。まだ40歳台の若い人(写真は後出)だった。

 名刺交換をした後、改札口の様なゲートを通り抜け、宿舎(ホテルという雰囲気ではないぞ!)に案内してもらった。途中いろいろな建物があり、青磁の陳列館などいくつかの展示館があった。おそらく先ほどの改札口の様なゲートはこれらの展示館見学者にとっての入り口ゲートだったのであろう。

 部屋は小ぎれいで、水回りも良く、またベランダに出ることもでき、目の前に見える山(写真5.27-4-8)からの風も心地良かった。快適なホテルと言える(写真5.27-4-7)。服が汗でびしょびしょだが、すぐ乾きそうである。30分ほど休憩したら、また呼びに来るとのことだった。

 陳さんの販売店や製造工場は、ここから歩いても行ける距離にあるらしい。ちなみにこの一帯は通称“青磁小鎮”、正式には龍泉市上垟鎮岱垟路という地名である。

 30分の休憩の間、ベッドに横たわる代りに、ベランダに出て、心地よい微風にあたりながら、外の様子を眺めた。先ほどから鳥の大きな鳴き声が聞こえていたので、その鳥の写真を撮ろうと思ってベランダに出てみたが、姿は見えなかった。

 しかし、目の前を飛び交う鳥はひっきり無しで、黒と白のツートーンカラーの鳥(多分カケス)が多かった。そしてTVのアンテナに留まっている鳥(写真5.27-4-9)と、民家の屋根に留まっている二羽の鳥(写真5.27-4-10)の写真が撮れたが、地元に住む運転手の黄さんにも鳥の名前は分からなかった。

 間もなく、駱さんが、運転手の黄さんとともに迎えにきた。僅かな距離だが車で陳さんの店に向かうが、その前に、現在も使われている登り窯の正面(写真5.27-5-1)と、両側通路(写真5.27-5-2、写真5.27-5-3)の写真を撮った。

 正面には、この窯の名称の「龍泉伝統焼成龍窯」の表示があった。窯の手前には、テーブルが置かれ、その上には、ほぼ同じ大きさのリンゴ、オレンジ、桃が行儀よく並べられていた。また、正面の通風口の左上には小さな磁器づくりの祠が供えられ、その中に青磁が一つ収められていた。

 このときは、自分と駱さんと、黄さんとで、何の説明もなく、見たのみであったが、後で陳さんの案内で、他の登り窯の内部まで見せてもらうことになる。

 そして、登り窯の傍には失敗作と思われる作品が石碑の足元に置かれていた(写真5.27-5-4)。

 しかし、よく見ると、釉がかけてある所と、かけられていないところがあり、胎と釉の色が明確に分かる。この写真から、胎は2種類あることが分かる。また、匣鉢や、その蓋と思われる磁器も供えられていた。

 そして、時刻が正午ちかくになったので、陳さんの店(写真5.27-5-6)の真ん前にあるレストランで昼食を摂ることにした。最近は、雲吞が口に会うことが分かってきたので、ここでも雲吞(写真5.27-5-5)を所望した。やはりおいしかった。

 食後、真ん前にある陳さんの店に行き、陳さんにはPMの案内を同行してもらうことになっていた。陳越青さんは、名刺には、奥さんの頼朝媚さんと「青磁小鎮農家東」を共同経営して、主営(営業内容):餐飲、住宿、青磁加工、批発(卸売り)、来垟定倣とある。

 行き先は、登り窯と陳さんの工房、そして上垟鎮源底村の予定である。先ず最初は本題の登り窯の見学である。工房の入り口で、陳さんと駱さん(写真5.27-5-7)、陳さんと自分(写真5.27-5-8)の二つのツーショット写真を撮った。

 最初に現れたのは、入り口の石標(写真5.27-5-10)に「浙江省文物保護単位 龍泉窑製瓷作坊 (木岱口 曽芹記古窑坊)」と刻まれたレンガと木造で出来た建物(写真5.27-5-9)であった。

 そして、石段を踏み上がってゆくと、登り窯の正面(写真5.27-5-11)に向かい合う位置に至る。窑の上部には右から群〇〇〇と大きな板に翠書されているが文字が読み取れないし、従って意味が分からない。

 この泉窑登り窯は造られてから100年程度経っていて、現在は年に二回使われ、一回につき昇温から降温まで72時間かけ焼成する。焼成温度は1300℃。今年の第一回目が終わったばかりで、焼成中は炉の周りは大わらわだったが、「今はその直後で、製品を窯出ししたあとなので、窯内部を見てもらっても構わない。

 「運が良いですね。」との陳さんの言葉で、窯門を開けてもらい、内部観察をさせてもらった。

 内部は真っ暗であったが、通風孔からの明かりと、炉壁にはところどころ温度観察用の覗き孔があり、そこからの明かりで、かろうじて写真が撮れた(写真5.27-5-12、5.27-5-13)。

 炉壁はガラス質の釉が気化付着していてツルツルであった。炉底部は地面が露出しているのではなく石段となっていた。窯出しされず、匣鉢ごと残されているものも多かった。恐らく匣鉢同士がくっついてしまい取り出せないのだろう。歩留まりは30%程度とのことで、良いとは言えない。

 温度コントロールをどの様にしているか聞いたが、「長年経験を積んだ職人の視覚と勘に頼っている。その視覚と勘に従って、薪の投入の仕方を決めている」とのことであった。

 窯外の両側には薪が目いっぱい積み上げられていて、これらが、次から次へと職人たちの手で投入される様は、まるで、祭りと同じ賑やかさなのではないだろうか?

 この窯で焼成する製品は中国全土から応募があり、順番待ちだそうだ。なかには焼成のみこの龍窯で行い、他の工程は他でやるという客もいるそうだ。

 焼成する製品数は万のオーダーということであり、セットや取り出し作業だけでも大変である。どれが誰から焼成依頼されたものか、間違える訳に行かない。歩留まりが30%では、うまく焼けなかったものの数の方が多いことになる。依頼者にどの様に詫びるのだろうか。

 この登り窯の周りには、様々な光景が見られた。未使用と思われる匣鉢が山積みされている様子(写真5.27-5-14)。なかには焼成前の製品がところどころに無造作に置かれて様子も見られた(写真5.27-5-15)。

 更に、敷板等の焼成器具の他、何に使うのか竹が置かれていた(写真5.27-5-16)。浙江省は至る処に竹林がある。とりわけ龍泉市には多いように感じていたので、窯焚き用の燃料として使われることはないのか、自問したが、無いというのが自分なりの結論だった。

 竹は割らない限り、燃焼に寄与しない空洞が内部にあるので燃焼効率が悪い。割ったとしても、組織に樹液成分を殆ど持たず、やはり燃焼効率が悪いと思ったからである。ただし、

「木炭と竹炭をミネラル成分で比較すると、いずれの木炭にも Ca および Sr が竹炭より多く含まれていた。とくに紫檀炭および黒檀炭においては Ca の含有率は2%程度であって、スギ炭お よびウバメガシ炭の3倍〜8倍、竹炭の 35 倍〜80 倍と高い値であった。

 また、福井県産および千葉県産の竹炭に おいては共通して K、Mg、Na、Si、MnおよびZn が木炭類より多量に含まれていた。」と京都大学木質化学研究所の研究グルーが報告している。

 これらの成分は、釉に混じりあい微妙な色加減を呈し独特の風合いを醸し出す可能性がある。しかしながら、竹はあったものの燃料に出来るほどの量は見られなかった。

 そして、その後、歩いて数分のところにある陳さんの工房(写真5.27-5-17)を案内してもらった。成型、乾燥後の削り工程(写真5.27-5-18)、素焼き後の製品(写真5.27-5-19)、本焼成電気窯、焼成後開扉したところ(5.27-5-20)、完成品陳列棚(写真5.27-5-21)などの工程を見学させてもらった。

 その後、運よく、「曽芹記古窑坊」第七代当主の曽世平さんと面談出来るチャンスが訪れた。曽さんの店内の片隅にある茶席に誘われ、駱さんの通訳で会見が始まった。

 最初は50歳すぎかと思ったが、話の途中で、“ねずみ歳”というが分かり、陳さんと友達どうし、ということから考えると、若干44歳ということになるが本当だろうか。

 中国の活躍世代は日本に比べ、はるかに若いということは以前から認識していたが、このような伝統工芸分野でも然りということは、予想もしていなかった。

 工房の片隅みにあった椅子席に誘われて。そこに座り、駱さんの通訳で話を始めた。自らお茶を入れてくれて、飲み干すとまた、そそいでくれる、の繰り返しが5サイクルほどあった。

 「自分は営業活動があまり好きでない。」という話から始まり、「日本で青磁の販売代理店をやらないか」とか、「後継ぎは既に居る(息子)」の話など、60分近く懇談させてもらった。自分にとっては大変有意義な経験とひと時を持てたのである。

 そして、「曽芹記古窑坊」(写真.27-5-22)を後にして、また陳さんの案内で、次の観光地に向かうことになった。

 「曽芹記古窑坊」の工房入出門から出た大通りには、通行を邪魔しない様に大きな青磁が据えられていた(写真.27-5-23)。本当に焼成したものか、他の方法で作成されたモニュメントかは分からないが、「曽芹記古窑坊」を訪問する時の目印としてもらっているのだろう。

 次の観光地は、車でそれほど遠くない古い歴史のある村であるということである。事前の駱さんからもらった最終の旅日程には、「中国青磁小鎮へ観光、知合いの窯を見学」とだけあり、その詳細については触れられていなかったので、自分としては、想定外が有難かった。

 何故、この地に龍泉青磁を代表するような窯場、特に登り窯が造られて現存しているのかの答えがあるかも知れないと思ったからである。

 これまで黄さんが運転していた車を、今度は陳さんが運転し、そこへ案内してくれるのだ。

 運転している車から薪を大量に運搬している車が見えた(写真.27-6-1)。多分窯炊き用の燃料にする薪であろうと思い、運転中の陳さんに聞いてみたら、「そうではなく、このあたり一帯は、シイタケ栽培が盛んで、シイタケの植菌用の薪にする木材を運んでいるのです。」とのことであった。

 シイタケの植菌用の薪として適しているのは、主にクヌギ、コナラ、ミズナラになる。カシ、シイ類などもOKと一般的に言われている。、これらは、窯炊き用の薪としても使われる木材である。そこにわずかながら接点がありそうだ。

 そして、後日ウェブで調べたところ、植菌用の薪の必要条件として、「乾燥が不十分だと、しいたけ菌糸の成長が抑えられてしまう。その後、管理しやすいように約1mの長さに切断(玉切り)し、約1ヶ月程植菌場所で直射日光を当てないように注意して管理することが必要」らしいので、窯炊き用の木材の条件にも近い。

 場合によったら、青磁の焼成に余った木材を転用することも可能であろう。しかし、決定的な接点は見つからなかった。龍泉宝剣と龍泉青磁の接点は、高温の火の管理と鉄である。

 暫くして、案内してくれる予定の古い村落の入り口と思われるところに到着した。そこに立っているお堂の白壁には、見出しが「源底賦」と長々とした文章が記載されている(写真5.27-6-2)。

 五言絶句でも七言絶句でもない四文字熟語である。おそらく、この古い村落の特徴のいくつかをPRするキャッチフレーズを端的に四文字熟語に託そうとしているのだろう。

 お堂の傍らを通って、中に入って行くと、最初に出くわしたのは、路上にうずくまった6羽前後のアヒルの群れ(写真5.27-6-3)であった。

 おそらくはまだ雛であろう。涼んでいるのか、温まっているのか、天敵から身を守るために身を寄せ合い大きく見せかけているのか、よく分からない。

 そして、朽ちかけた屋根、壁からなる家屋の合間の路地(写真5.27-6-4)を陳さんに先導してもらい入ってゆくことになった。

 白い漆喰壁が剥げ落ち、下地の泥壁が露出している(写真5.27-6-5)。補修してしまうと観光資源の価値が減殺し、そのままだと、さらに朽ちて崩壊の運命を辿ることは明らかだ。

 後で聞いた話では、この源底村は細い路地通路を観光用に小石を敷き詰めた通路に改修される予定とのことだった。

 更に進むと、往時の繁栄を想わせる黒い瓦屋根を載せた土塀に囲まれた路地(写真5.27-6-5)が現れた。「源底賦」に、この村には陳姓の人が多いというようなことが書かれていた。

 案内をしてくれている陳さん(写真5.27-6-5)も同姓である。中国では玄奘三蔵の本名が陳江流であるように、陳姓は古代から名門である、と亡き小説家陳舜臣氏が言っていた。

 本人が陳姓なので怪しいと思っていたが、調べてみると、確かに周の時代からあったらしい。ちなみにアグネス・チャンも陳美齢が本名である。

 そして間もなく風格のある木造家屋が現れた(写真5.27-6-6)。土塀ではなく格子模様の外壁を両側に配した木造の門である。そこから中に入り進んでゆくと祠堂(写真5.27-6-7)が現れた。

 龍泉青磁の始祖を祀っているのであろうか(写真5.27-6-8)。飾られている青磁は、最近の黄緑色をしている青磁とは異なり、本当に青色をした青磁である。祠堂を出ると、ここの住民だろうか、数人が談笑している姿が見られた。洗濯物も干されていた(写真5.27-6-9)。

 白い漆喰が剥げ落ちた下に土塀ではなく、レンガ製の壁を持った人家も見受けられ、更にはそのような壁に浮彫されたレリーフがきれいに残っている(写真5.27-6-10)ところもあった。模様は松や鶴が表現されていて、縁起の良いものとなっている。

 村には小川も流れている(写真5.27-6-11)が汚くはない。生活排水は流れ込んでいないようであった。そして更に先に進むと、これぞ古い村と言える景観が次々に現れる。

 先ずは再び祠堂の様な建物である。入り口上部の外壁には、様々なモニュメントが配されていて、「東海〇家」という文字が見える(写真5.27-6-12、5.27-6-13)。

 祠堂の中は特に祀られている人物像はなく、喜と書かれた赤い貼り紙が貼られているだけであった(5.27-6-14)。特にこの村の繁栄に寄与した人物も居なかったのだろうか。

 そして、その後は、これまで全く補修されず、今日まで来てしまった感の漆喰が見事に禿落ち、土が露出した土塀を傍らに配した細い通路で、歴史を感じさせるものだった(写真5.27-6-15〜5.27-6-20)。
   本稿 完  つづく