槐(えんじゅ)の気持ち

仏教伝来の頃に渡来。 中国では昔から尊貴の木としてあがめられており、学問のシンボルとされた。また止血・鎮痛や血圧降下剤ルチンの製造原料ともなる このサイトのキーワードは仏教、中国、私物語、健康つくり、先端科学技術、超音波、旅行など
 
2022/07/08 18:17:17|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(最終回)
             倭国(日本)への仏教伝来の道程(最終回)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第十回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】

 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
第七回:
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
第八回:
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物(その1)
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】

第九回:
37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷。浄土思想
A)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
 
第十回:
 38)末法思想 による民衆の動揺を抑える浄土思想
@)末法思想とは
A)浄土思想
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥】
【良源:比叡山延暦寺の中興の祖】
【平安時代中期】
【空也:踊念仏の創始】
【源信:浄土教の祖】
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【良忍:融通念仏】
【鎌倉時代】
【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
そして今回は最終回ですが、倭国(日本)のことを取り上げた中国の古史書についてレビューしたいと思います。
39) 倭国(日本)を取り上げている海外の史書
@) 概要                                          A)『論衡』
B)『山海経』
C)『漢書』
D)『後漢書』
【『北史』倭国伝】
【『隋書』倭国伝】
【『旧唐書』倭国・日本国伝】
【】倭国大乱について【】
【『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)】
【『後漢書』卷85 東夷列傳第75】
【『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭】
【『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國】
【『北史』卷94 列傳第82 倭國】
E)『魏志』倭人伝』『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
F)『晋書』
G)『宋書』
H)『南斉書』
I)『梁職貢図』
【】I.1倭国についての記述【】
【】I.2斯羅国(新羅)についての記述【】
ⅺ)『梁書』
ⅻ)『陳書』
IB)『北史』
【IB.1『北史』倭国伝】
IC)『南史』
ID)『隋書』
【ID.1『隋書』東夷傳】
【ID.2『隋書』タイ国伝】
IE)『旧唐書』
IF)『新唐書』
 
39)倭国(日本)を取り上げている海外の史書
以下仏教伝来とは直接関係ありませんが、海外、特に中国は時々の歴史において倭国(日本)をどの様な国とみていたかについて、Wikipediaから抜粋転記して紹介したいと思います。倭国を日本と呼び方を変えた史書もあります。
@)概要
倭の文字の初出は、正史は後漢初頭に書かれた『漢書』地理志(班固)であり、正史以外では『論衡』(王充)がある。『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海の中にあると書いており、『論衡』では、越常と倭が併記され、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連があると推定しているようである。.『晋書』や『梁書』などでは「太伯之後」と記し、倭人が呉の祖である太伯の子孫と自称していたことを記録している。

A)『論衡』
中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書、評論書。実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判した。 以下倭国に関する記載にういてレビューしたいと思います。
 『周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、周の成王の在位は前1042年〜前1021年とされるが、『論衡』自体はかなり後の前漢の時代の1世紀 に書かれたものである。白雉は食用、暢草(そう)は服用と記されているので、周代には暢草は倭でしか採れない、酒に浸す薬草とされていたと推定される。なお、暢草には、霊芝、ウコン、香花草、等の説がある。』

B)『山海経』
中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『倭は燕に朝貢していたと考えられていたことがわかる。ただし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっており、「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。
『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。この黒歯国と倭が関連付けられている記載として、以下のものがある。
参考 扶桑:古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。太陽や天地にまつわる巨木としては若木や建木などが共に記述として残されている。古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬萊山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。
「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという。

C)『漢書』
中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『中国正史で倭人の文字の初出は『漢書』地理志である。倭人について有の文字で記されるのは『漢書』が初にして唯一であり、その後の全ての正史では「在」の文字が用いられるので、有の文字は「発見」の意味で用いられ、「在」の文字は所在の意味で用いられたことが示唆される。』
【地理志燕地条】東夷は性質が柔順であり、他の三方(西戎・南蛮・北狄)と異なる。そのため、孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。それは理にかなっている! 楽浪郡の先の海の中に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。               【地理志呉地条】會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云 会稽の海の外に東鯷人有り。分ちて二十余国を為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。会稽の海の外に東鯷人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。
 
D)『後漢書』
『後漢書』東夷列伝の中に倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされている。
「魏志倭人伝」にない記述として、建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。また、安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱(魏志は「倭国乱」とする)についても桓帝・霊帝の間(147年 - 189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。
【『北史』倭国伝】安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国と.                                           【『隋書』倭国伝】安帝の時(106−125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という               
【『旧唐書』倭国・日本国伝】倭国とは、古の「倭奴国」なり
この後は倭国大乱と卑弥呼の記事があり、『三国志』の『魏書』東夷伝の倭人条(魏志倭人伝)に似ているが、大乱の時期を「桓霊間」(桓帝と霊帝の時代)と具体的に記すなど相違点もある。東夷伝にはこの他、『漢書』地理志から引用したと見られる「東鯷人」の記事、『三国志』の『呉書』孫権伝から引用したと見られる夷洲と亶洲(「澶洲」と誤記)の記事もある。
【】倭国大乱について【】
  中国の正史、『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)、『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭などに、倭大乱
(『後漢書』「東夷伝」)または倭国乱(『三国志』(魏志倭人伝)、『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭)として、概要次の通り記述されている。 
   
『倭国はもともと男子を王としていた(57年に後漢の都洛陽に遣使して漢委奴国王印を贈られた委奴国王、107年に後漢に遣使した倭面土国王帥升等)。70〜80年を経て、倭国内で大乱(国王の座を争う内乱)が発生した。争乱は暦年(中国正史で歴年とは平均して8年±数年)続いた。邪馬壹国が勝利し、邪馬壹国の一女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。

【『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)】
『其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国乱(倭国王の座を争う内乱。王位争奪は良く有る事だが、外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)。8年±数年間も相互に攻め合った。そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎ(中国史書では35歳に達すると年長大と表現される)、夫は無かった。』とある。また、

【『後漢書』卷85 東夷列傳第75】
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国大乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、さらに互いに攻め合い、8年±数年も主無き状態となった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共立し、王にした。
 
【『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭】
(後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱(倭国王の座を争う内乱。外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)、8年±数年も相互に攻め合った。そこで、一人の女子卑弥呼を共立して王にした。』 以下の2正史の記述は上記3書の引き写しである。

【『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國】
【『北史』卷94 列傳第82 倭國】


E)『魏志』倭人伝』『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
 中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑倭人条の略称。東夷伝には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。
東夷伝の韓伝冒頭にも倭という記載がある。                                   韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。

F)『晋書』
武帝紀 太康10年(289年)条  この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。倭人については東夷伝と武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人や卑弥呼については書かれている。また266年の「倭人」の朝貢は日本書紀の神功皇后紀に『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致するので、この女王は台与と考えられている。266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したと解釈した一説が提示されている。

G)『宋書』
倭国伝 『昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。』
『時の順帝は、上表に応え、詔を以て武を、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍とした。』
 
H)『南斉書』
列伝 第三十九 蛮 東南夷 『倭国関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく抄録したもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。
479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号を鎮東大将軍に昇格した』
 
I)『梁職貢図』
『梁職貢図』に記された皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子の中に、倭国の記載がある。
【】I.1倭国についての記述【】 
倭国は南斉の建元(479年〜482年)に、上表した。
【】I.2斯羅国(新羅)についての記述【】
斯羅國は元は東夷の辰韓諸国の中の一小国であった。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に服属し、あるときは倭に服属していたため、国王は使者を派遣できなかったとしている。普通二年(521年)に、募秦王(法興王)が、初めて、百済に随伴し朝貢する使節を派遣した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

ⅺ)『梁書』                                      『梁書』によると、僧慧深(けいしん)が普通年間 (520年–527年)に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑国は日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。慧深は、扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里(3000km余、漢代の里 ≒ 434m、以下換算にはこの値を使う)に文身国が、その東5000余里(2200km余)に大漢国があり、大漢国の東2万余里(8700km余)に扶桑がある。日本の別称として用いた例としては、1094年の史書『扶桑略記』のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年(859)の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名でよぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。
ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した。

ⅻ)『陳書』
陳書』(ちんしょ)は、唐の史学家である姚思廉が636年に編纂した史書であり、二十四史のうちの一つである。中国南北朝時代(439年 - 589年)の南朝最後の王朝である陳の断代史である。皇帝・王を中心に記した本紀6巻と、国に仕える家臣や周辺異民族のエピソードが記された列伝30巻からの構成となっており、表や志を持たない。
11世紀ごろ、北宋の史館修撰であった曾鞏らの手によって刊行された。

IB)『北史』
【ⅻ.1『北史』倭国伝】
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。

IC)『南史』
、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。

【IC-『南史』倭国伝】
南史倭国伝では、「倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。」に始まり、「倭国の風俗」、「倭の五王」、「侏儒国・黒歯国・裸国」、「文身国」、「大漢国」、「扶桑国」について記述されている。
『倭国、その先祖の出た場所や所在については北史が詳しい。そこの官には伊支馬があり、次を彌馬獲支といい、その次を奴往鞮という。人々は水稲、紵麻の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。薑、桂、橘、椒、蘇がある。黒雉、真珠、青玉を産出する。牛の如き獣がおり、名は山鼠、また、この獣(山鼠)を呑み込む大蛇がいる。その蛇皮は堅く、叩き切れない。大蛇の上部に孔があり、開いたり閉じたりして、時には光を放つが、その孔の中を射れば蛇は死ぬ。物産はほぼ儋耳や朱崖と同じ。風土気候は温暖、風俗は淫乱ではない。男女は皆、頭に何も被らないが、富貴な者は錦に様々な彩りを縫い付けて帽子とする、中国の胡公頭に似ている。飲食には御膳を用いる。そこの死者には棺はあるが槨はなく、土を封じて塚を作る。人々の性質は皆が酒を嗜む。習俗は正歳(歴)を知らず、多くが長寿で、あるいは八〜九十歳、あるいは百歳に届く。そこの風俗は女が多く男は少ないので、高貴な者は四〜五人の妻、賎しい者でも二〜三人の妻がいる。婦人は嫉妬をせず、窃盗はなく、争訟は少ない。もし法を犯せば、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその宗族を滅する。晋の安帝の時(396−418年)、倭王讃がおり、遣使を以て朝貢した。 宋の武帝の永初二年(421年)に、詔に曰く「倭の讃、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべし」。 文帝の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬曹達を遣わし、奉表して方物を献上した。』

【ID『隋書』】
 本紀5巻・志30巻・列伝50巻からなる。特に「経籍志」が名高い。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて勅撰を行った。編纂には顔師古や孔穎達らが参加した。636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻・列伝50巻が完成し、第3代高宗に代替わりした後の656年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成、編入された。
 
【ID.1『隋書』東夷傳】
『隋書』の「東夷伝」は、第81巻列伝46にあたる。この書の中では、当時の俀國(倭国ヤマト政権)と、その王多利思北孤や朝鮮半島にあった高句麗・新羅・百済と琉求について記述されている。記述の順番は高句麗・百済・新羅・靺鞨・琉求・倭国である。
俀(倭)に関する記述では、腕へ刺青を行っていたという風俗に関するもの、また聖徳太子が仏法僧を隋へ留学させたことなどが言及されている。

【ID.2『隋書』タイ国伝】
「隋書」では、他の書に見られる「倭国」のことを「タイ国」(タイ=にんべん+妥)と書いている。これは「壹=倭」、「大倭=臺=タイ」ということである。
同書に「日出ずる処の天子、云々」の「対等外交」の記事があるのに、「日本書紀」の聖徳太子の記事には「東天皇、敬みて西皇帝に白す」とある。これは両方の記事が同一でないことの何よりの証拠である。またこの書は、その記述からして、後漢の光武帝の金印、卑弥呼、倭の五王、そして「日出ずる処の天子」が、全て同一の国の歴史であることを証明する史料でもある。つまり1つでも九州のことであれば全て九州ということなのだ...
以下、この史書に対する解釈の仕方を詳細に記した記載を見つけたが、長文であり、「仏教の伝播」には関係ないので、割愛します。
                                         
【IE 旧唐書】「日本」の名称を最初に記載した史書
旧唐書には日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があったりした。
そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する。大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。
     
【IF『新唐書』】
670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述があります
『新唐書』巻二二〇、東夷日本伝に『咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名、更号日本』とあり、咸亨元年すなわち670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述がある『旧唐書』では倭と日本が並立した状態で書かれているが、『新唐書』では「日本伝」としてまとめられている。
 
隋の開皇末に天皇家の目多利思比孤が初めて中国と通じたと書かれている。そして、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている。出典は示されていないが、宋史日本伝の記事から、東大寺の僧侶「然が宋の太宗に献上した『王年代紀』を参照したと考えられている。以上のとおり天御中主から彥瀲までの32世、天皇は神武天皇以下皇極天皇まで列挙されている。またその後には光孝天皇までが詳述されている。
 
ただし、天御中主から彥瀲までの世数は宋史日本伝では「二十三世」であり、全ての名前が列挙されて数も合っているため、「三十二世」は二と三を取り違えた可能性が高い。『古事記』や『日本書紀』と異なる記事で注目される。また遣唐使に加わった橘逸勢や空海等の名が見える。最後に「邪古 波邪 多尼三小王」について触れられ(時代は明らかでない)、これらは屋久島、隼人、種子島のことともいわれる。なお、唐書を読んだフビライ・ハンは、「日本には金銀を豊富に産出するとある」と書かれていたことから日本に興味をもち、親交を結ぼうとしたが、当時の執権である北条時宗にすげなく断られたことがフビライの逆鱗にふれて、元寇につながったとされる。更に次のような記述もあるとのこと。「古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏。
 
官には十二等を設けている。習俗は文字があり、佛法を敬う。椎髻で冠と帯はない。隋の煬帝がこれに衣冠を賜う。今、錦綵を以て冠を飾る。衣服の作り方は大変新羅に類似している。腰に金製の花を佩びる。長さ八寸。左右に各数枚。これを以て貴賎や等級を明らかにする。」
 
中国の代表的史誌(二十四史)とその内容(Wikipedia情報)
司馬遷『史記』
班固『漢書』

范曄『後漢書
房玄齢等『晋書
沈約『宋書

陳寿『三国志
蕭子顕『南斉書
姚思廉『梁書

姚思廉『陳書
魏収『魏書
李百薬『北斉書

令狐徳棻等『周書
魏徴・長孫無忌等『隋書
李延寿『南史

李延寿『北史
劉昫等『旧唐書
張廷玉等『明史

欧陽脩・宋祁『新唐書
薛居正等『旧五代史
欧陽脩『新五代史

脱脱等『宋史
脱脱等『遼史
脱脱等『金史

宋濂等『元史
二十四史は清の乾隆帝によって定められた。
中華民国期に至って、元史を改めた『新元史』が編纂され、政府によって正史に加えられて二十五史となった。しかし、『新元史』のかわりに、同じく民国期の編纂による『清史稿』を数えて「二十五史」とする場合もあり、一定しない。『新元史』『清史稿』をともに含めた「二十六史」という呼び方もされている。

また、第二次世界大戦後の1961年に台湾国民政府の手によって『清史稿』を改訂して正史としての『清史』が編纂されたが、北京の中華人民共和国政府は、同書が中国国民党の史観によって『清史稿』を改悪したものであるとしてその存在価値を認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期するため、何度か先送りされている。2019年現在、当年中の完成を見込んでいる。

                          第十一回(最終回) 完







2022/07/05 18:08:53|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その10)
         倭国(日本)への仏教伝来の道程(その10)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第八回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
 第六回
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
第七回:
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
第八回:
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物(その1)
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】
第九回
37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷。浄土思想
A)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
 
そして、今回第十回は、以下の項目について紹介させていただきます。
38)末法思想 による民衆の動揺を抑える浄土思想
@)末法思想とは
A)浄土思想
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥】
【良源:比叡山延暦寺の中興の祖】
【平安時代中期】
【空也:踊念仏の創始】
【源信:浄土教の祖】
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【良忍:融通念仏】
【鎌倉時代】
【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
39)まとめ

38)末法思想による民衆の動揺を抑える浄土思想
 
@)末法思想とは
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著した。そして、その後、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)などが著される。

この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして、下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられます。浄土往生の浄土については前回説明していますので、今回は”往生”の意味についてWikipedia情報を用いて掘り下げてみたいと思います。

『往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。
現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。

化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。

1.   胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
2.   卵生 鳥類のように卵から生まれる事
3.   湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
4.   化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。

天人など極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味』とあります。
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれる事は成仏する事である。

そこから意味が派生して、往生とは仏になる事と考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。中でも老衰やそれに伴う多臓器不全などの自然死による他界を大往生と呼ぶことが多い。

それでは次に末法思想とセットで考えられることの多い浄土思想について、再度振り返えっておきたいと思います。
 
A)浄土思想
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
『浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り、本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。そしてそれぞれの浄土には主宰する仏がいて、その関係は以下の様になっていると考えられている。』(Wikipediaより)
 
・阿弥陀仏---西方極楽浄土、
・弥勒菩薩---東方兜率天、
・大日如来---密厳浄土、
・観音菩薩---補陀落浄土、
・久遠実成の釈迦牟尼仏---霊山浄土(日蓮宗)

C)日本の各時代における浄土信仰
前回(第九回)、日本への仏教伝来以降、仏教の拡散で後世に名を残した名僧をとりあげましたが、以下では、時代順に現れた名僧を、Wikipedia情報を参考にレビューしてみました。ダブって示した名僧もありますが、子弟の関係も分かるので、再記して紹介したいと思います。

【飛鳥時代・奈良時代】
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られました。
          
【平安時代】
比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。

貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされました。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まったのです。

平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。
 
【平安時代初期】
【円仁:天台浄土教の発祥、「観想念仏行」】
承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。
 
【良源:観相念仏の伝播】
良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。
こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。
         
【平安時代中期】
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。
【空也:踊念仏の創始、社会事業に従事、あ阿弥陀聖】
空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。

【源信:『往生要集』=「称名念仏」】
源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。

『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。
 
986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。
源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。
 
【慶滋保胤:『日本往生極楽記』、大衆仏教への転換】
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。
後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。

この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。

こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。

B)日本の各時代における末法思想

【平安時代末期】
【「末法」の到来】
「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く、中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
 
【末法:世界の滅亡に恐怖⇒浄土教の急速な拡散 宇治平等院阿弥陀堂建立】
本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。
 
さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は、本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微については、ともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。
 
末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。前に記したYouTube番組の「西方極楽浄土」みたいなものか。但し外観だけではなく内観も宮殿のような建物で、鐘楼も全自動鐘撞装置という感じであったが。
 
この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。
 
【良忍:融通念仏】
良忍(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。
天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。

この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。

【鎌倉時代】
平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)

また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。

【法然(源空):「専修念仏」浄土宗】
法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
 
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
 
また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
 
【親鸞:『教行信証』、浄土真宗】
親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
1181年に比叡山に登る。
 
1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。

阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し、必ず滅度に至らしめられると説く。
宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。
 
【一遍:時宗の開祖、踊念仏】
一遍は(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。
 
その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すら不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。
 
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
 
【室町時代以降】
【蓮如:一向宗、吉崎御坊、門徒宗】
本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
 
寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。
文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。
 
信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。
 
一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。
 
蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
 
しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)
その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。(詳細は、本願寺の歴史を参照。)
 
以上で「倭国(日本)への仏教伝来の道程」については勉強し尽くした感じがしていますが、ここで、これまでのまとめをしてみたいと思います。
 
39).まとめ

❶東アフリカ発祥の二本足歩行人類の祖先は日出ずる方向に安寧の地があることを感じ、そこを理想の地として移動して行く気概がDNAに刷り込まれ、それを羅針盤として今よりもマシな世界の東方を目指す人たちがいた。「今よりもマシな世界を」という願望が、それをかなえる手段として信仰が芽生え、人々のDNAに埋めこまれた。

❷その一つの具体例が古代イスラエル人(ユダヤ人)で、迫害され、国を失った彼らは、彼らのDNAに刷り込まれ、それを羅針盤として、今よりもマシな世界の東方を目指す人達であった。

彼らが立ち寄った中央アジアの大月氏国は姜族の発祥の地であり、周公旦ともども周王朝の建国に寄与した姜子牙(=太公望)や、秦の始皇帝のルーツとなった地であり、中央アジアの大月氏国で、かれらは混血しあったが、彼らのDNAには、日出る地を求めるDNAに、建国や独立思想の精神を高揚させるDNAが組み込まれた弓月君(ユズキノキミ)や東漢人(ヒガシノアヤウジ)と言った、倭国に多大な影響を及ぼすことになる混血種族が形成されました。
 
❸大月氏国は、インドで発祥した仏教がバーミアンやガンダーラを経て、更にシルクロードに沿って中国北方地域に伝播した中継点となっただけでなく、ガンダーラは仏像美術を最初に開花させた国でもあった。

そして、北伝仏教としては、大乗仏教としての色彩を明確にして、時には、土着信仰である太平道や五斗米道、更にはそれらから発展した道教と言った土着信仰や儒教が時の皇帝と結託した勢力によって、仏教は迫害を受けました。

しかし、これらの抵抗勢力に立ち向かうことのできるアイデンティティをもった仏教は、やがて景教徒やマニ教徒をも吸収しながら、更に東方を目指し、やがて倭国を目指す学僧の増加につながりました。

 ぞして、彼らの内の先駆者は倭国への仏教公伝よりも早く倭国に渡って、仏陀の教えを水面下で倭国の一般大衆に伝えていました。一般大衆の中には周公旦や呉の太伯の後裔たちも混ざっていました。
 
❹中国三国志時代には魏の曹操が、大月氏国王の使者伊存が、『浮屠教』と言う経典を景蘆という人物に口伝したことを聞きかじり、それを契機に、『浮屠教』の流布を魏の勢力拡大に貢献させることを条件に許しました。

魏の後に西晋を建国した司馬懿仲達は卑弥呼の配下の使者と面会し、倭国の国情を聞き、この国こそが以前から聞き及んでいた蓬莱の国に違いないと思い込み、倭国に一種の憧れを持つようになり、その気持ちが彼のDNAに刷り込まれ、彼の後裔である東晋の皇帝一族(全員が司馬姓)にもそのDNAは受け継がれ、さらに司馬一族か否かは推測の域を出ないが、倭国への仏教公伝前に、倭国に非公式に招かれていた司馬達等が倭国の重臣として仏教の受容のお膳立てをしていた。
          
❺一方、西晋時代以降は五胡十六国時代に突入し、胡族の拓跋氏による北魏が栄えたあと、北朝を統一した前秦の苻堅(ふけん)が、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築き、彼も曹操と同様信仰が国をまとめ版図の拡大に役立つツールということを知っていて、当時高僧と知られた仏図澄や釈道安を参謀に迎え、更には鳩摩羅什までを参謀に召喚し、その勢力を拡大しようとしていた苻堅は前秦の版図を更に東へ広げる為、自ら朝鮮半島で最も中国に近い高句麗を伺い、仏教を版図拡大のツールとして、倭国から依頼されていた聖徳太子の仏教の師としての招来依頼に応える形で苻堅の配下の仏図澄の弟子である高僧慧慈を送り出した。

慧慈は聖徳太子の理解力と研究能力才能に驚き、聖徳太子の著わした『三経義疏』の質の高さに驚き、仏教の師として招いた高句麗の高僧慧慈は任務を果たした帰国時、『三経義疏』の写しを持ち帰り、その内容のレベルに感心し、聖徳太子の資質を高く評価し、「日本に将来国王となる聖人がいる」と報告したとのエピソードがあり、「日本に聖人あり」、との情報流布は中国本土にも伝わり、鑑真の日本行きの動機の一つになったとも言われたのです。

その発端は仏教を版図拡大のツールとするという前秦の苻堅による仏教を版図拡大のツールとする策から生じたと言えます。因みに朝鮮半島では一番最初に高句麗が仏教を受容して、次に百済が高句麗から受容し、最後に新羅も高句麗から受容したことになっています。

❻その他、倭国への仏教伝来ルートとして無視できないのは、大乗仏教に属するチベット仏教や、タイ、ミャンマー、スリランカ等の東南アジア諸国によって受容された南伝仏教が雲南省の一地域で伝播・受容された南伝仏教(=上座部仏教)、そして中国北部より伝播した大乗仏教が混交した雲南省特有の仏教信仰の文化が出来上がり、それが、信仰心旺盛な民による衣食住を支える様々な習慣や技術を包含する文化と共に雲南省を源として長江を下って東シナ海沿岸の港湾都市である蘇州に至り、更には

海路により雲南人がそれらの文化とともに倭国に至り、独自の文化や信仰を展開した、と考えることも自然だと思うのです。
 
❼そしてもう一つの中国からの仏教伝搬経路として可能性があるのは、雲南省に上陸した南伝仏教が少数民族住地(現在の広西チワン族自治区)、広東省(広州)から福建省(福州)に至り台湾、琉球列島経由で海路倭国に至る経路が考えられるが、そのルートについての情報は見出せませんでした。
 
❽最後に考えられる仏教伝来のル―トは、❻に記載の東南アジア諸国経由で、雲南省に上陸せず、そのまま南シナ海、東シナ海の海路を経て倭国に至るルートですが、この海路は雨期による豪雨、また台風発生や台風の進路になるので、安全な航海は難しく、そのルートよりは❼のコース、更に好ましくは❻のコースが利用されることが多くなったものと思われます。
 
❾本回筆頭に掲げた図の様に、以上の中国から倭国に至る仏教の伝播ルートを図に表すと、以下の様になると思います。前記した図に、「春秋時代の周公旦一族や呉の太伯一族の倭国への移住と戦国時代の始皇帝一族と徐福らによる不老長寿薬の探索」についても付記してあります。
 
❿そして、倭国が「八百万の神」や「神道」といった土着信仰をもちながらも、外来信仰に対し柔軟な体制で受容する風土をも醸成できた要因として、紀元前に倭国に渡来していた、春秋戦国時代の姜子牙(=太公望)の手の者、さらには周公旦の一族の者が、自ら海路倭国へ赴き、黄河文明の産物、例えば「周礼」に記載された儒教の精神を伝え、意図ぜずに、倭国の風土になじませていたことが大きいのだと思います。
 
⓫恐らく、呉の太伯にも日出る国と見做せる蓬莱の国、扶桑国に対するあこがれの精神をDNAの中にもち続けていたのだと思います。その様な伝承を秦の始皇帝は聞き及んでいて、自分もいつかは日出る国と見做せる蓬莱の国へゆき、不老長寿の薬に出会い、死を恐れずに生き伸びることを夢見たのであろう。
 
⓬始皇帝は、日出る国と見做せる蓬莱の国に海路で辿りつくには、呉の太伯と同じ経路で行くことが好ましいと考え、北京から呉の蘇州まで舟で行ける「大運河」の造成を、秦国の版図を拡大するという名目で計画したのだろうと思います。

この大運河は空海ら、遣隋使、遣唐使が長安や洛陽に赴くのにも都合の良い水路であり、また逆に中国の仏教僧が、時の皇帝による迫害を受けた時に、迫害地から逃げ延びる水路としても使われたものと思います。そして仏教公伝よりもかなり以前から倭国へ移住した中国人仏教僧がいたと思われます。
                      第十回 完   第十一回へ続く

 

 







2022/07/04 17:25:12|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)
   倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第七回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
前回第七回は、
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
そして、今回、第八回は以下について記したいと思います。
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】

       倭国(日本)への仏教伝来の道程(その8)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第七回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】
 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
前回第七回は、
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
そして、今回第八回は
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】

36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所
次に仏教が日本に渡来して以降、どの様に変遷したかを、担った人物と、歴史的名所について触れたいと思います。人物に関してはすでに天智天皇、天武天皇、斎明天皇を取り上げているので、聖徳太子、空海、最澄、良弁、親鸞聖人、空也上人を取り上げ、歴史的名所については、法隆寺、東大寺、薬師寺、興福寺、の寺院を取り上げたいと思います。

@)聖徳太子
苻堅が五胡十六国時代を代表するほど仏教に対する関心があった王であり、中国仏教史上、重要な人物である道安(312または314〜385年)を 自分のもとに迎えたほか、訳経僧として有名な鳩摩羅什(350?〜400?年)を獲得するため西域に兵を派遣していた。

その苻堅から仏教を伝えられた高句麗でも仏教が盛んになり、中国に数多くの留学僧を派遣したほか、聖徳太子の師となった慧慈(?〜623年)をはじめとして、多くの僧侶が日本に来て活躍した。と伝えられている。

慧慈と聖徳太子との関係について、「推古天皇23年(615年)、聖徳太子が著した仏教の経典である(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国し、『三経義疏』を高句麗に伝え、広める。」とある。

推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて慧慈は大いに悲しみ、「高麗僧恵慈…誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳太子)有り、…玄聖の徳を以て日本の国に生まる」といい、来年の命日に死ぬと予言し、その誓いどおりに入滅したので、高句麗人は恵慈もまた聖なりと評したという。」と伝えている。

仏教の東アジアでの伝播に大きな寄与をした苻堅の係累の恵慈によってそれほどまでに称えられたということは、聖徳太子が単に時の風雲児ではなく、地に着いた研究者の側面を持っていたことを著わしていたのです。聖徳太子は中国の註釈書を踏まえながらも、独自の意見を出すなど、仏教に関する高い知識を示している。今でいうなら仏教学博士と言っても過言ではないのです。

また、鑑真が唐の玄宗皇帝の妨害をはねのけて倭国に聖人がいることが訪日の動機の一つになっていたというのは聖徳太子のことに違いないのです。

もう一つ、聖徳太子に関する仏教受容に関して次の様なことが知られています。
日本では、仏教伝来以前から古来の神々が信仰されていました。仏教が伝えられると、仏教を積極的に受け入れようとする側と受け入れに反対する側とに分かれます。 仏教を受け入れようとする側の代表は、中国・朝鮮から渡ってきた渡来人系の蘇我氏で、受け入れに反対する側の代表は、物部氏でした。

仏教の受容を巡る問題は、豪族間の権力争いと共に激化しますが、蘇我氏の勝利により一段落します。 崇仏派の蘇我氏が勝利したことで、仏教は急速に普及していきます。推古(すいこ)天皇は、「三宝興隆の詔」を発布し、聖徳太子は「十七条の憲法」を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。

また、豪族の間では、各自の寺院が建立されます。これらの寺院は、それぞれの氏族の祖先を祀る目的で建てられ、「氏寺」と呼ばれます。 このように従来の祖先崇拝の延長として仏教が信仰される一方で、中国や朝鮮の最新の仏教学の影響も見られます。

以上の記載から、聖徳太子は、最初は一方的に仏教のみを特別扱いして受容したのではなく。儒教や道教、さらには祖先崇拝の神道や八百万の神の思想さえにも目を配った上で、日本人の民族性、風土や資質をも総合的に判断した上で仏教を国教にしたに違いありません。

北魏の皇帝のような、私的所有物の仏教ではなく、一般民衆によって広く、深く支持される仏教を目指していたものと思われます。

これほどの聖人であれば、信仰の対象にもなっている筈です。聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立していました。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていったのです。

太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもあり、聖徳太子の存在は倭国だけでなく、朝鮮半島や、中国本土にも伝えられていたようです。

また、室町時代の終わり頃からは、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。

さらに江戸時代には大工らの他に、左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになったようです。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称されるようになっていて、現在でも継続して実施されている地もあるようです。

現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。その法隆寺を訪れた時のことを筆者のブログ「槐の気持ち」に取り上げているので、そこから抜粋転記して以下に紹介します。尚、本欄に記載している写真番号はそのブログに記載した写真番号と同じです。

『ここからみた五重塔と金堂のセットも記憶がある。ただあの頃は五重塔の意味も、金堂の意味も知らなかったのである。しかし、そんなこととは関係なく、同じ場所に建ち続けていた全く同じものを40年の時を経て向いあっている不思議な気分である。 同じ40年でも、人間にとっては、ほぼ50%ものエージングであっても、病の用明天皇のため、推古天皇と聖徳太子が建立した607年から現在までの1404年に対しては3%足らずのエージングであり、相対的には空間的にも、時間的にも普遍のものに接したという気持ちになった。

 法隆寺の五重塔は薬師寺の五重塔と異なり“裳階”というのがないので、屋根の数は単純に五層である。ただし最下層のみは内陣があり、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅(涅槃)、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されていると法隆寺のサイトに説明されている。
・・・中略・・・、
最下層だけはそのためか“裳階”がついているので、屋根の総層数は六層となる。しかし五重塔である。五重塔と並び建つのが金堂である(写真3a)。内部は見ることは出来なかったが、パンフレットには、「聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)、

その左右には太子の父である用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、母である穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、それを守護するように樟で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、邪鬼の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像・毘沙門天立像(平安時代)の諸像が安置されています。また天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在は再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。」と紹介されています。

ここまでくると、雲崗石窟寺院3号窟を皇室の私的信仰と馬鹿にできなくなる。結局は造窟者にとって敬うべき大切な人を祀る為に建立するということに相違があるとは言えなくなります。

・・・中略・・・、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。

この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。」と説明されていました。

A)良弁(ろうべん)
奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。持統3年(689年)、相武国造後裔の漆部氏の出身である漆部直足人の子として生まれる。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、又は、若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。良弁に関しては筆者のブログ「槐の気持ち」に詳しく紹介しているので、そこから抜粋転記して以下に紹介します。
 
 【飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)
・・・前略・・・、次に本堂を参観した。正面に如意輪観音菩薩像が鎮座し、右手を鉛直に立て(施無畏印)、左手を膝の上に乗せ、手のひらを広げて天に向けている(与願印)(写真1)。
 如意輪観音菩薩像は奈良時代中期の頃、東大寺の良弁や実忠による大規模な如意輪観音造像活動に促されて造立されたものらしい。
 
良弁、実忠については司馬遼太郎著「街道をゆく:24奈良散歩」に多くのページが割かれ、予備知識があったが、こんな所にある寺の由緒にも登場するとは思いも寄らなかった。ついでながら岡寺の開祖は義淵であり、その義淵像は国宝となっている。義淵は白鳳時代後期から奈良時代にかけて仏教界で指導的な役割を果たした高僧で、奈良仏教の逸材で彼の指導を受けなかったものはいないと言われている。その中に良弁、行基がいた。

良弁は聖武天皇に強い影響力を持ち、東大寺の開山であり、華厳宗の導入に力を尽くした。義淵は法相宗の確立に力を尽くしたと言われるので、良弁は法相宗から華厳宗に改宗したことになるが、塑像と同じ様に、心棒を法相宗とし、まわりに盛りつける粘土に相当するのが華厳宗の教義だったのかも知れない。・・・後略・・・。
 
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる。

天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や、『元亨釈書』にくわしい。
 
B)空海
空海に関し、これまで自分のブログ「槐の気持ち」に取り上げたことのある部分を抜粋転記してみます。
 
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
・・・前略・・・、寧波は唐の時代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、空海、最澄らの留学僧、遣隋使、遣唐使が最初に着陸した中国の地であり、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学したと言われた地である・・・後略
 
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
・・・前略・・・、尚、夢枕 獏著の「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」は一種の歴史怪奇小説と言えようが、それには、唐の長安に遣唐使としてやってきた若き天才・空海と、盟友・橘逸勢、更には、白楽天(白居易)や、安倍仲麻呂(中国名:晁衡)、李白、玄宗皇帝、安禄山、楊貴妃、韓愈など多くの歴史上の人物が登場 する。そして人物以外では猫と牡丹が重要な役割をしていて妖気漂う小説となっている。また、唐を衰退させる原因と見なされ、玄宗皇帝が楊貴妃を処刑せざるを得ない状況に陥った際、道士・黄鶴の提案に従って尸解の法を用い、楊貴妃を仮死状態にして、埋葬し、後に掘り起こして復活させようとした際に、晁衡(安倍仲麻呂)の手引きで倭国(日本)に難を逃れようとしたが、あえなく失敗したというくだりがある。・・・後略。

【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
この時代、即ち日本では天平、奈良時代、中国では唐の時代、に仏教の進展に貢献したのは、日本人では空海、中国人では玄奘、そして両国の架け橋になったのが鑑真と言える、というのが自分の認識であるが、それは後世の著作物(小説)に影響されているところ大である。玄奘はご存知「西遊記」、空海は「空海の風景」司馬遼太郎著や、最近では「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」夢枕 獏著など、そして鑑真は「天平の甍」井上 靖著である。
 
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】写真番号はブログ「槐の気持ち」に用いたものです。
・・・前略・・・、ホテルの朝食を済ませ、最初に向かったのは、空海も訪れたと言われている大相国寺であった。・・・中略・・・、大師堂には空海の銅像が建てられている(写真3C1)。蔵経楼には玉仏のうつくしい観音像が安置されている(写真3a)。そして寺庭には開封大相国寺と京都相国寺との友好の記念碑が建てられている(写真3C2)。そして、他の寺庭には、先に触れている魯智深の像があった(写真3d)。・・・中略・・・、ところで、日本の鎌倉仏教、臨済宗、曹洞宗に大きな影響を与えたのが唐、宋時代の中国仏教と言われている。その中国宋代の禅には、看話禅と黙照禅がある。
 
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】写真番号はブログ「槐の気持ち」に用いたものです。
・・・前略・・・、そして更に先に進み円形の出入り口をくぐり少し行くと空海の像(写真3a)が眼に入った。像の台の側壁には「中日友好25周年」と記されていた。空海も遣唐使の一員として中国の地を踏み、この白馬寺を訪れたことが事実ということであろう。・・・中略・・・、少し前に、武澤秀一著「空海 塔のコスモロジー」を読んでいて、そこにサーンチー第一塔東門のレリーフの写真が掲載されていたのを記憶していたのだ。・・・以下略。
 
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
・・・前略・・・、ここ智積院と前日雪の中を訪れた東寺との共通点はともに真言宗の古刹で、ともに創建に空海が関わっていることであろう。その割りに仏教色は薄く、見せる非公開文化財は庭園と長谷川等伯の襖絵であった。

【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
・・・前略・・・、また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という説もある。
一方、弘法大師と乙訓寺との関係は、以下のようなものだった。
弘法大師は、乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に嵯峨天皇から任命され、この寺に在住した。大師在任中、弘法大師と同時に入唐、大師よりかなり早くに帰国していた最澄は空海をこの寺に訪れ、真言の法を教えてほしいと頼んだ。大師は親切丁寧にその法を伝授した。
 
在唐期間の短かった最澄はその後も再三空海との交流を深め、二人はそれぞれ日本真言宗(弘法大師)、日本天台宗(伝教大師)を確立、それまでの日本仏教の流れに大きな変革を与えた。
 
弘法大師が中国から持ち帰った仏典は、最澄も驚くほど、これまで日本にないものばかりであった。嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備した。・・・以下略。

【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
・・・前略・・・、金剛という言葉の意味を晃一はよく知らなかった。
空海が開いた金剛峰寺は歴史で学んで知っていたが、その本当の意味は、この時期の晃一にとってどうでも良いことであり、また、この寺を含めた近隣の寺々が、同じ叡山一派ということで、信長の焼き討ちに遭ったということも、脳梗塞を患って以降、精神の置き場所を探し続けるようになってから空海に興味を持った結果知りえたことであった。それはかなり先のことである。・・・以下略。

【西方流雲(4) <<< 6.神護寺 >>>】
・・・前略・・・、楼門でもらった入場券の裏にはその様な神護寺の由緒が書かれていたが。その中に弘法大師の宗教即ち真言密教について簡単に紹介されていた。「真言陀羅尼には神秘の力が有り、その一字一句には百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって災いを避け、福を招くことができるし、凡夫の身でも速やかに仏になることが出来る。」と書かれていた。
 
この頃の晃一には何を言っているのかさっぱり分からなかったが三十年後、この空海に魅かれて空海に関する色々な書物を読むことになるとは当の本人にもまったく想像ができないことで有り、人生の伏線を感じる能力を、もし晃一が持っていたら、この時何かを感じなくてはいけないのだったが、晃一は、この日付の日記に、この宗義に対する感想として、この宗義は仏道に限らず、現在における努力をすれば必ず報われる。古今東西を問わず人間界に通ずる一つの道理となる考え方であろうと、とんちんかんなことを書いている。・・・以下略。
 
C)最澄
筆者は、若い時に司馬遼太郎の「空海の風景」を読み、すごい日本人がいたものだ、ということで関心を持ち、空海ものを読みふけり、かつ空海にとって重要な寺院の乙訓寺の近くの会社に勤務していたこともあり、空海に関しては関心が高かったが、最澄に対する関心は空海に比較して低かったと思います。

しかし、中学時代の修学旅行で訪れた比叡山延暦寺の伽藍と厳かな修行僧の佇まいを見て、大いに感銘をうけたことは今でも覚えています。

空海は、多少の道を外れても物事を達成して行く人間性を持っているのに対して、最澄は仏教の隅々まで、とことん理解しつくして行く努力派で、密教/顕教という使い方をするなら、空海の密教派に対して最澄は顕教派であったのではないかと思っています。どちらが良いかは、浅学な自分には分かりませんが、優秀な後継者づくりには顕教が有利だったのではないかと思っています。

空海は最澄の優秀さを認めていたので、密教の本質を最澄によって理解された挙句に、最澄が中国から持ち帰った天台宗に包含される一宗と体系付けされてしまうことを恐れたのではないかと思っています。

ここで、密教と顕教の違いについて以下に記したいとおもいますが、筆者は良くは理解出来ていません。
・・・以下省略・・・。

【顕教と密教】Wikipedia より
顕教とは、仏教の中で、秘密にせず、公然に(明らかに)説かれた教えのこと。密教の反対語。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の観点から分類した教相判釈の一つである。空海は、顕教と密教を次のように区別した。
顕教:衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。
密教:真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え。空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけた。

顕教の経典 - 『華厳経』・『法華経』・『般若経』(一部を除く)・『涅槃経』など。
密教の経典 - 『大日経』・『金剛頂経』・『理趣経』など。

最澄や弟子円仁らは、中国の天台宗とは趣を異にした日本独自の天台教学の確立を目ざし、『法華経』を核にし、他の仏教の経典を包摂しようと試みた四宗兼学という立場から、円密一致を説いている。

この2つの教典は密教内の別のグループにより 独立して作られたと考えられています。 大日経は、インドから中国へやって来た善無畏と、 その弟子の一行によって8世紀に漢訳されました。 金剛頂経は、インド出身の金剛智と、 その弟子で、インドまたは西域出身の不空によって漢訳されました。 これら2つの異なる系統の密教を1つにまとめて、 真言宗の体系を作り上げたのは不空です。 不空の弟子が恵果、恵果の弟子が空海です。
 
一方、天台宗は6世紀の智によって開かれた宗で、 まだ密教がない時代であり、顕教です。 法華経を根本教典としており、修行の中心である止観は 禅に近いものです。 最澄は唐で天台宗を学びますが、同時に密教も取り入れようとして それも学んできます。
 
比叡山延暦寺を開いた天台宗の開祖として著名な最澄は、エリート僧として出発する。その地位を捨て、比叡山中で12年間修行した彼は、弟子たちにも孤絶した状態での勉強を求める。そのような最澄の残した最大の成果は「二百五十戒」の伝統を捨て「大乗戒」を確立したことだと言われています。
 
今言われたように、例えば法然や親鸞も比叡山で「天台浄土教」という天台宗の中で発達した浄土教を勉強していますし、道元も最初は比叡山で勉強して、山を下りてから禅宗のほうに入っていくわけです。
 
日蓮にしても、最初は比叡山で勉強している時期がありました。そのようなことから、やはり比叡山延暦寺の持つ、学問や修行をする場としての意味は、非常に大きなものがあったと考えられます。人によっては、当時の「総合大学のトップ」と見なされると言う方もおられ、多くの僧侶が比叡山で学びました。尚、空海との関係については既に空海のところで紹介しましたので省略します。
 
D)親鸞聖人
以下は「浄土真宗親鸞会」ホームページより」

【ご出家】
親鸞聖人は約850年前、京都にお生まれになりました。4歳で父を、8歳で母を亡くされ、「次に死ぬのは自分だ」と死の影に驚き、9歳で出家。比叡山天台宗の僧侶となったのです。「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」の歌は、出家の時に詠まれたものと伝えられています。「人は死ねばどうなるのか」。この暗い心の解決一つを求めて、親鸞聖人は比叡の山で猛烈な修行に打ち込まれます。

【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
時は流れて20年。親鸞聖人の修行は他の追随を許さない壮絶なものでしたが、いまだ暗い心の解決は成し難く、比叡山の教えに絶望。ついに下山を決意されます。「煩悩に染まりきった親鸞の救われる道はないのだろうか。導いてくださる高僧はどこに……」。京都の街をさまよい歩く中、四条大橋で旧友と思わぬ再会を果たし、その縁で「どんな人も本当の幸せになれる道」を説かれる法然上人に出会います。そして阿弥陀如来の本願を聞き、たちどころに絶対の幸福に救われたのです。

【破天荒のご結婚】 本稿省略させていただきます。

【弾圧により流刑】
高木、風にねたまれる。それは、いつの時代も変わらない。法然上人の信奉者が急増すると、他の仏教宗派のねたみから日本仏教史上かつてない大弾圧が引き起こりました。念仏は禁止、法然上人は土佐(高知)へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ流刑となったのです。しかし親鸞聖人は、越後で仏教を広められます。
 
【関東での20年間】 本稿省略させていただきます。

【著作に励まれる】 本稿省略させていただきます。
 
E.空也上人(903年 - 972年)
前回も取り上げたので、今回は省略させていただきます

     第八回 完   第九階へ続く
    
 







2022/07/03 12:55:00|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その9)
        倭国(日本)への仏教伝来の道程(その9)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝播経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、   項目番号 項目タイトル(18pts)、で 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)、で 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)で表しました。
  
前回までの第一回〜第八回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)トルファン・高昌故城
A)トルファン・アスターナ古墓群
B)トルファン・ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)トルファン・火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳(しょうとく)天皇による神護景雲(じんごけいうん)4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業(ひゃくまんとうだらにぞうりゅうじぎょう)エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御(ぎおんにょうご)、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼(ころ
   う)と鐘楼(しょうろう)の併設】

 第六回:
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
第七回
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩の経典]
[弥勒菩薩像の姿勢]
[弥勒菩薩像の由来]
[弥勒菩薩像の成立]
 
第八回
36)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物
@).聖徳太子
A)良弁
 [飛鳥路 岡寺(芙蓉)(2)】
B)空海
【河姆渡遺跡と、貴州省の自然と少数民族に触れ合う旅】
【洛陽牡丹園「神州牡丹園」】
【万葉の夢 奈良 西の京 唐招提寺 *** 鑑真の執念 ***】
【空海も訪れたJ大相国寺、(9/25)】
【中国中原五古都をゆく 5.中国最古の仏教寺、白馬寺(9/22)】
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜1〜)】
【西方流雲(34) <<< 35. 幻覚・乙訓焼成炉 >>>】
【 西方流雲(29) <<< 30. 金剛輪寺 >>>】
C)最澄
【顕教と密教】
D)親鸞聖人
【ご出家】
【法然上人との出会い。絶対の幸福に】
【破天荒のご結婚】
【弾圧により流刑】
【関東での20年間】
【著作に励まれる】
E)空也上人(903年 - 972年)
【京都 冬の旅(その2:二月十日〜2〜)】                     
【彫像】
そして今回第九回は。
37)日本への仏教伝来後の時代的変遷と、担った人物(2)
@)日本渡来後の仏教の時代的変遷と、担った人物(続)
A)日本渡来後の仏教の時代的変遷と、変遷の舞台となった地(寺院)
B)死後の世界、極楽浄土、浄土信仰、末法思想
C)日本の各時代における浄土信仰
【飛鳥時代・奈良時代】
【平安時代】
【平安時代初期】
【】円仁【】
【】良源【】
【平安時代中期】
【】空也【】
【】源信【】
【】慶滋保胤【】
【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
【】良忍【】
【鎌倉時代】
【】法然(源空)【】
【】親鸞【】
【】一遍【】
について紹介します。 
 

37)日本渡来後の仏教の変遷と、担った人物及び歴史的名所(2)
次に仏教が日本に渡来して以降、どの様に変遷したかを、担った人物と、歴史的名所について再度触れたいと思います。人物に関してはすでに、聖武天皇、天武天皇、斉明天皇、聖徳太子、空海、最澄、良弁、親鸞聖人、空也上人を取り上げましたが、今回は更に、時代ごとに現れた聖人を、飛鳥時代から室町時代までと、歴史的名所となった、法隆寺、東大寺、薬師寺、興福寺、の寺院を取り上げてレビューしたいと思います。また、時代が進むとともに、仏教は国を治める治世者から一般庶民まで広範な階層の人々に信仰され、浸透し、一般民衆にも広がることになり、信仰にたいするニーズも多様化する中で、それまで教義の中に現れなかった浄土思想や、末法思想について人の生死と対応付けて信仰に取り込まれるようになってきした。も調べてみましたで、それについても。レビューしたいと思います。
 
@)浄土思想
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
『浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り、本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。そしてそれぞれの浄土には主宰する仏がいて、その関係は以下の様になっていると考えられている。』(Wikipediaより)
 
・阿弥陀仏---西方極楽浄土、
・弥勒菩薩---東方兜率天、
・大日如来---密厳浄土、
・観音菩薩---補陀落浄土、
・久遠実成の釈迦牟尼仏---霊山浄土(日蓮宗)
以上の内、
「西方極楽浄土」というタイトルでYouTube検索したら、ヒットした番組があり、見ていると、大変豪勢で近代的な建物と内装。ゴミ一つない部屋べや。それと出される食事メニューまであるのには驚きました。物質世界、または胎蔵界を著わしている様で、「少し違うのではないの?」と、違和感を感じました。

浄土というのは、精神世界、観念の世界、または仏教用語で言うなら金剛界であると筆者は思っているので、かなりの違和感を感じました。もっとも映像化できる対象は全て物であり、映像化できる世界ではありません。それを人々に
説くというのは、並大抵のことではありません。

ただ、音や光であれば、精神世界、観念の世界、に近いのではないかと思うし、ある状態から他の状態に遷移させる力、例えば治水を良くしたり、人の病を治すというのは、極楽浄土世界に存在する”場”の様に思っても良いのではないかと思います。
 
また「西方極楽浄土」での生活空間の殆どが、読経や仏典等の勉強で、時を過ごし、阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)を前にきちんと整列して読経をしたり、経典を読み耽るという生活の様で、これでは、窮屈で、すぐ疲れてしまうように感じ、自分があのような時空の中で毎日過ごすというのでは極楽とは言えないと思いました。
 
また、そのYouTube番組に現れる映像の中に空中に浮く無数の浮遊体が見えるのですが、あれは一体何なのだろうと答えが得られないのです。
 
筆者は脳梗塞を罹病したことがあり、救急車で運ばれたその日の夜に見た夢は、その話をすると。聞いた人の殆どが「それって、臨死体験ではないの?」との感想が多く返ってきましたが、それはまるで夢のようなものであり。あの世というのは、それとも異なり、全く意識がなく、暗黒で、時間も空間も意識させない世界ではないかと想像しています。その夢の内容を筆者のブログ「槐の気持」にメモとして書きおろしていますので、読んでいただければ、と思います。
 
また、気を失って救急車で運ばれた経験のある人の話では、「転倒して気を失ってしまった瞬間のこと、意識を失っている最中のことは全く記憶になく、暗黒で時間も空間もないところを漂っていたという感じであった。」と聞いたことがあります。
 
A)日本の各時代における浄土信仰
以上の項で、日本への仏教伝来以降、仏教の拡散で後世に名を残した名僧をとりあげましたが、以下では、時代順に現れた名僧を、Wikipedia情報を参考にレビューしてみました。ダブって示した名僧もありますが、子弟の関係も分かるので、再記して紹介したいと思います。

【飛鳥時代・奈良時代】
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られました。
          
【平安時代】
比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされました。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まったのです。
平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。 

【平安時代初期】
【】円仁【】
承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。
 
【】良源【】
良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。
こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。 
        
【平安時代中期】
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。
【】空也【】
空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。
【】源信【】
源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。
『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。
 
986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。
源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。
 
【】慶滋保胤【】
平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。
後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。
この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。
こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。

【平安時代末期】
【】「末法」の到来【】
「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く、中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
 
【末法】
本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。
 
さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は、本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微については、ともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。
 
末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。前に記したYouTube番組の「西方極楽浄土」みたいなものか。但し外観だけではなく内観も宮殿のような建物で、鐘楼も全自動鐘撞装置という感じであったが。
 
この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。
 
【】良忍【】
良忍(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。
天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。
この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。

【鎌倉時代】
平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)

また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。

【】法然(源空)【】
法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
 
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
 
また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
 
【】親鸞【】
親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる。
1181年に比叡山に登る。親鸞の生涯は第8回に特に取り上げて紹介した。
 
1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し、必ず滅度に至らしめられると説く。
宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。

【】一遍【】
一遍は(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。
 
その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すら不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。
 
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
 
【室町時代以降】
【】蓮如【】
本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
 
寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。
文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。
 
信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。
 
一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。
 
蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
 
しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)
その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。(詳細は、本願寺の歴史を参照。)



      第九回 完  第十回へ続く










 







2022/06/28 20:56:00|日本への仏教伝来の道程
倭国(日本)への仏教伝来の道程(その7)
         倭国(日本)への仏教伝来の道程(その7)

序文(その1と同文)
 「仏教伝来の道程」をもう少し丁寧な言い方をすると、「日本へ仏教が伝播するまでの道筋」ということになります。
 ただ宗教という文化は、一波で終わるのではなく、途中の伝搬経路や受容された地域において新たな解釈が加わり、地域によっては、その新しい解釈の方が定着する、という特性を持っている場合が多く、第一波の伝播以上に影響が大きくなるように思われます。
 
 そういう意味では、最初に日本に伝播した仏教以上に、後に伝搬してきた教義の方が分かり易く受容しやすく多くの人に支持されることになるのだと思っています。

 また、ある地域で信仰という文化が受容されるのは、その地域に受容される風土が醸成されているからであり、その醸成に意図せずに一役買ってくれた人物が実在した可能性もあり、その時代は、仏教公伝とされる時点に比べ、とてつもない昔かも知れません。

 そう考えると、新しい解釈が加わる後世だけではなく。時代を大幅に遡って仏教が受容される風土を醸成した起点となる出来事にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

 従って、仏教が初めて日本に伝来したと言われている年代のみを見るのではなく、それ以前にも歴史の表に現れていない人達による伝播、そしてこれまでの公伝とは違う伝播経路や担い手達による伝播があった可能性があり、それを総合的に見ないと真の仏教伝来とは言えない様に思うのです。それらは以下の4つの条件に集約されるのではないでしょうか。
 
1.教義が多くの人によって支持されること。
2.伝播経路は陸路、海路あるいは両者のハイブリッド。場合によっては海路と同じ水路である運河が伝播経路の一部を担うこともあろう。インドと日本との間には様々な連絡路があります。
3.伝播の担い手(場合によっては迫害によって伝搬を阻止する負の担い手)がいて、新天地を求め、開拓精神が旺盛な担い人がいたこと。
4.伝播先にもともとあった信仰との競合、融合といった相互作用の末に真の仏教伝来があった。
 
 と考えられます。これらの要素がインドを発祥の地として、日本に伝播するまでに、上記1〜4がどの様に作用してきたか、入手しえた情報をもとにまとめてみたいと思っているのです。

 入手しえた情報とは、自分が中国やインド、更には国内の奈良、京都等の仏教関連寺院や神社を拝観し、感じたことで、これらについて、ブログに記載した文章から抜粋転記したり、詳細情報については、Wikipedia を参考にさせていただいたりしました。
以下に大項目を、  大項目番号 項目タイトル(18pts)で. 
大項目内に中項目を  中項目番号 中項目タイトル(16pts)で、 
更に中項目内に小項目を【小項目番号 小項目タイトル】(14pts)
表しました。
  
前回までの第一回〜第六回は、以下の項目について、筆者の思いついたことについて紹介させていただきました。

第一回:
1)仏教発祥の地インドでの釈迦、阿育王(あしょかおう)、カニシカ王とヒンズー教
2)最初の伝搬地中央アジアのガンダーラ、大月氏(だいげっし)
3)日ユ同祖論、『浮屠教(ふときょう)』口伝、始皇帝や太公望のルーツは姜族
4)大月氏の月、弓月君の月、望月姓 そして高句麗若光の子孫、
5)シルクロード(カシュガル、亀茲(きじ)国、高昌(こうしょう)国、トルファン、敦煌(とんこう)
6)雲南省(うんなんしょう)の信仰 長江(ちょうこう)伝播経路
7)司馬懿(しばい)による西晋(せいしん)樹立。司馬懿と邪馬台国(やまたいこく)
8)北方三国志に登場した曹操の配下石岐について、そして白馬寺
9)北京と杭州を結ぶ京抗大運河

第二回:
10)仏教発祥の地インド、@釈迦(しゃか)、Aアショカ王、Bカニシカ王、              11)鳩摩羅什(くまらじゅう)、仏図澄(ぶつとちょう)、その弟子道安(どうあん)、法顕(ほうけん)、玄奘(げんじょう)
12) 鑑真(がんじん)
13)  仏教迫害・弾圧
14)  高句麗、新羅、百済への仏教伝来
15)  飛鳥寺建立の援助、建造技術は百済、経費援助は高句麗
16)  前秦の苻堅
17)  中国南朝、東晋、南宋、梁、陳(ちん)
18)  梁の皇帝(こうてい)菩薩(ぼさつ)、武帝、水面下での倭国との接触
19) 高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争のくり返し、百済は538年遷都など大変な時期
20) 倭国(日本)への仏教伝来
  【参考.538年(戊午)説(以下Wikipediaより)】
    仏教伝来、公伝、私的な信仰としての伝来】
    【阿育王山石塔寺】

第三回:
22)五台山
23)外国から見た倭国
24) 呉の太白、徐福伝説、始皇帝死後の平和俑
25)弓月君、阿智使主
26)  中国の石窟寺院
@)敦煌 莫高窟
A)雲崗石窟寺院
B)石窟に棲む現代版仙人
C)雲崗石窟寺院第三窟の続き
D)民族融和の歴史
E)石窟寺院の造窟方法 
F)皇帝一族の争いの歴史
G)華厳三聖について
H)仏教の伝播経路(仏図澄と道安)
 
第四回:
27) 洛陽の地史と歴史、九朝古都
@) 洛陽 白馬寺
A)龍門石窟寺院
28)響堂山石窟寺院 
29)トルファン
@)高昌故城
A)アスターナ古墓群
B)ゼベクリク千仏洞  マニ教
C)火焔山 
 
第五回:
30)大足石刻寺院(仏教の世界観)
@)仏教で言う“三界”とは
A)「六道輪廻」の世界とは
   【六趣唯心】
   【十二因縁】
B)北山石刻
C)仏の佇まい、仏教の教え 
31)種々の信仰と仏教の伝播ルート(チャート図)
【その1】
【その2】
【その3】
【その4】
32)異なる信仰(宗教)間の習合
@)マニ教(※7)
A)ヒンズー教と仏教の関り(※0)
B)長江(雲南)仏教
C)仏舎利信仰
  【称徳天皇による神護景雲4年(770)の百万
 塔陀羅尼造立事業エピソード】
  【東近江市石塔寺エピソード】
  【咸平6年(1003)延暦寺エピソード】
  【重源、阿育王寺舎利殿再建の材木エピソード】
  【祇園女御、平清盛伝承エピソード】
  【平重盛/源実朝エピソード】
  【道元阿育王寺行エピソード】
  【阿育王寺の日本の寺院と大きく異なる点:東塔と西塔の対称性、鼓楼と鐘楼の併設】
 第六回(前回):
33)倭国(日本)の信仰(八百万の神、神道)に大きな影響を及ぼした信仰
@)ユダヤ教 日ユ同祖論
A)大月氏-弓月君-姜族-周公旦・太公望-太伯・虞仲-倭人=「呉の太伯の子孫」-神武天皇
B)姜族(きょうぞく)と羌族(きょうぞく)、羌族(ちゃんぞく)
C)道教1
【道教が説く日常倫理】 
【D4-1:ウルムチ:天池1 (西王母1)】
【D4-2:ウルムチ:天池2 (西王母2)】
【D4-3:ウルムチ:天池3 (西王母3)】
【D4-4:ウルムチ:天池4 (西王母4) 】
【D4-5:ウルムチ・天池5(ウィグル人、パオ)】
【D4-6:ウルムチ・天池6(ボゴタ峰)】
D)儒教 
E)道教2
F) 儒教、道教の倭国(日本)への伝播
【飛鳥時代 - 平安時代】
【談山神社】
【天智天皇】
【天武天皇】
【斉明天皇】
 
そして今回第七回は、以下の項目について、紹介したいと思います。
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
【于吉仙人vs孫策】 
【左慈仙人vs曹操】
35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@).拝礼の仕方
【大乗仏教とは】
【小乗(上座部)仏教とは】
A)境内のどこに居てもわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】
B) 道教石窟寺院
【中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門” 】
C).神仏習合
【万葉の夢 奈良 多武峰談山神社 *** 談合のはじまり ***]】【SAIKAI2010 厳島神社】
D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
【上生信仰 ―未来仏】
【下生信仰 】
【弥勒菩薩信仰】
 [弥勒菩薩像の姿勢]
 [弥勒菩薩像の由来]
 [弥勒菩薩像の成立]
 
34)中国仏教史に名を残しはしたが、三国志時代に呉で名を残した笮融
中国後漢時代末期の武将。揚州丹陽郡(現江蘇省)に笮融という武将がいました。はじめ徐州の陶謙に仕え、広陵や彭城で兵糧輸送などの監督官を務めていました。しかし、やがて兵糧などの物資を奪って自立するようになります。
 
この頃の笮融は、領内に壮麗な楼閣を備え、3,000人もの人々を収容できるような伽藍を建立した。また、毎年の仏誕節である4月8日には、盛大な法会を執り行ない、寺に至る者は5,000人に達したとされました。後の中国大陸における仏教が広まる基礎を作り出した布教者であり、中国の仏教にとっては功労者であると言える一面もあったようです。
 
興平元年(194年)に、陶謙が曹操に攻められて徐州が混乱すると、下邳国の相となっていた笮融は、彭城国の相であった薛礼と共に、揚州刺史の劉繇を盟主として仰ぐようになった。また、ほぼ時を同じくして、混乱を避けるために広陵太守の趙cを頼った。趙cが笮融を賓客として持て成したが、笮融は広陵が豊かな土地であると見ると、趙cを謀殺して、広陵で略奪の限りを尽くしている。
笮融は後漢末期に仏教を布教した極悪非道の野心家、残虐で無節操な面と、仏教寺院を建立したという二面性を持つ人物だったのです。
笮融は、横領によって蓄えた資金を使って大々的に浮屠寺(仏教寺院)を造営し、錦や彩り鮮やかな布で作った着物を着せました。黄金の塗料が施された銅製の仏像を安置します。
また笮融は、人々に仏経を読むことを義務づけ、その郡内や近隣の郡に「仏道に心を向ける者には出家を許す」との命令を出し、一般の賦役などを免除して人を集めたので、遠近からやって来た者は合わせて5千余戸にものぼりました。
笮融は、毎年4月8日が来るたびにおびただしい量の酒や食事を準備し、道路に敷かれた蓆は何十里にも連なるような盛大な浴仏会を開きました。様々な人々が見物や食事に訪れて、その数は1万人近くにも及び、その費用は巨億にのぼりました。
 
初平4年(193年)秋、曹操が徐州に攻め込むと、下邳相(徐州・下邳国の太守)であった笮融は、男女1万人と馬3千頭を引き連れて広陵郡に逃げ込みました。すると、広陵太守の趙cは彼を賓客として礼遇します。ですが、広陵郡は、いつも人が多く出て賑わっていることに目をつけた笮融は、酒宴が酣となったのに乗じて趙cを殺害すると、兵を放って徹底的に略奪を行い、奪ったものを車に積んでそのまま広陵郡を去りました。ちなみに笮融が王国相をつとめた徐州・下邳国は、曹操が大量虐殺を行った地域です。
 
その後、笮融は薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)の南に駐屯した。劉繇が孫策に攻められると、笮融は薛礼と共に劉繇を支援して戦い、一進一退の攻防の中で、孫策に矢傷を負わせている。しかし笮融が、孫策が死んだとの偽情報を信じて策にはまり大敗すると、劉繇陣営全体も敗北を喫した。笮融は劉繇に従って逃亡し、彭沢に駐屯した。笮融は劉繇の命令を受けて、諸葛玄と豫章太守の座を争っていた朱皓を救援し、建安2年(197年)正月に諸葛玄を戦死させた。
 
ところが笮融は自立の野心を抱き、朱皓や盟友の薛礼までをも殺し、豫章の支配権を奪い取った。その後、攻め込んできた劉繇と激戦を繰り広げたが、ついに敗北して逃走し、最後は付近の住民に捕らえられ殺されてしまった。「聖人と悪人は紙一重」という人生を駆け抜けた人物だったのだろう。しかし、仏教史で聖人と見做された、アショカ王。鳩摩羅什は前半生にこともなげに人を大量に殺害し、後半生は聖人と言える人生、魏の曹操は石岐に仏教(浮屠)の布教を認めたものの、上記の様に徐州・下邳国(こく)で大量虐殺を行っている。また、南朝の梁の武帝の様に仏教を自分の玩具のごとく私物化し、それによって国の疲弊に繋がっても、反省もしない様な皇帝も居たりします
 
尚、孫策が狩の最中に襲われ、瀕死の重傷を負ったが回復する経過については、いずれの三国志に於いても、呉の黎明期のエピソードで、重症であっても、結局は助かったということもあり、この場面の真因については殆どの読者は記憶に残るほど覚えていないだろう。それと、後には本当に死に至る矢キズを負い、結局はその傷が元で死することになるエピソードの方が有名であるが、そこにも笮融の名前は出てきません。

【于吉仙人vs孫権】 
孫策にはどうしても超えることのできない存在がいて、それを超えることを無理して模索すればするほど、その存在に輝きを与えてしまい、結局はその存在に、いわれなき罪をかぶせて処刑することになります。こんなことをすれば、民衆が離反することは当たり前なのですが、それをやってしまった、というのが孫策の敗因とも言えるのです。
その存在とは、「于吉仙人」という、諸葛孔明の如く、干ばつ時に雨を降らせたり、「人々の病を治すありがたい仙人で、孫策の母までも信奉する存在となるのです。
【左慈仙人vs曹操
この様な主従関係はいつの世にもどこの国にもあって、例えば魏の曹操にも同じ様な存在があったと言われています。この場合は、左慈仙人と呼ばれる人物で、結局、三国志縁起に登場する武将、魏の曹操には、左慈仙人、蜀の劉備には諸葛孔明、そして呉の孫権には于吉仙人となり、この内で最も好ましい主従関係を築けたのは、劉備と諸葛孔明との関係だったことは誰もが認めることだと思います。

以上仏教伝来と直接関係ない話をしてしまいましたが、そう思っているだけで、実は仏教等の信仰を三国志の制覇に利用していた策士が居たかも知れません。

35)倭国(日本)への仏教伝来の過程で、失われた慣習、新たに加わった慣習
@)拝礼の仕方

中国旅行をして中国仏教寺院を訪問すると、観光でその寺院を拝礼している人を見ると床にはいつくばって両手の手のヒラを上にしながら頭を上げ下げしているイスラム教信者と同じように礼拝している姿をよく見る事があります。堂内には、その拝礼に対し、床に座ブトンが敷かれています。
しかし日本では、観光時の時は勿論、葬儀等の法事の時でもその様な拝礼を見たことがありません。日本に伝播した途端に何故拝礼のしかたが変化したのでしょうか?それとも日本では伝播時は同じだったものの、時代とともに現在の拝礼のしかたに変わってきたのでしょうか? 一方寺院における拝礼は観光の時でも、神社を法事で拝礼する場合でも柏手を打つ回数など、形式があるようです。

そこで調べてみると、「礼拝とは神仏に拝む行為のことであり、仏教では特に手を合わせて拝む 合掌礼拝 を指す言葉です。 他の宗教では「れいはい」と読むのに対し、仏教の場合のみ、日本で古くから使用されている仏教用語の読みに則って 「らいはい」 と読みます。 右手は仏様、左手は自分自身を象徴し、手を合わせることで「 仏様と一体になる 」という意味合いがあることを覚えておく必要があります。

礼拝は、インドの古い言語である、サンスクリット語の「ナマスカーラ」を和訳した言葉です。 葬式において合掌礼拝は非常に重要な儀式です。 作法を守って正しく行うことで、故人を滞りなく見送ることができます。」とありました。それなら、両手の掌(ひら)を上に向けて、手を上げ下げして拝礼する場合の左手と右手の意味は?と疑問に感じます。

一方“DoYa!!Chinaブログ”には、日本仏教と中国仏教の違いを、以下の様に紹介しています。「中国メディアの今日頭条はこのほど、日本と中国の仏教はさまざまな点で異なっていることを強調しつつ、「寺院」そのものにも大きな違いがあることを伝えています。

中国の寺院では信仰心の厚い人びとが祈りや願い事をするために詰めかけると紹介したほか、新年になると縁起の良い焼香の煙を求めて「押し合いへし合い」をすることも珍しい光景ではないと指摘し、中国の寺はまるで生鮮市場のように賑やかなのが通常であると強調した、と日本人の仏教信仰と中国人の仏教信仰の違いを書いています。

一方、日本の寺院は中国のように賑やかな場所ではなく、むしろ神聖で静寂に包まれた場所であると指摘。観光地となっている寺院は多くの参拝客で賑わうことはあっても、中国の寺院のように線香を束ねていた紙が散乱することはなく、整然としていると紹介し、「日本と中国では同じお寺であっても、雰囲気はまったく違っている」と伝えている。とのことです。
 
ただ、仏像がかざす手の形(印相)の意味は共通している様です。ただしこれらの印相は仏像から見た印相であって、参拝者の印相ではない。仏からの施しを有難く頂く、という意味の様に思うのです。
“DoYaChinaブログ”に記載の日本仏教と中国仏教の違いは大乗仏教的な中国仏教に対し小乗仏教的な日本仏教の違いにも見えるのです。大乗と小乗という言葉の響きから、大乗の方が重要と思いがちですが、どうなのでしょうか。そこで、大乗仏教と小乗仏教の違いについておさらいしたいと思います。

そして今後は、小乗仏教とは言わず、上座部仏教と呼ぶことにします。
尚、その前に、作法を細々と決め、その通り厳格に行うことにより儀式(法事)に厳かさを醸し出す、というだけの目的の様にも感じてしまうのは自分だけでしょうか。

旅先の中国のホテルでの朝食風景
筆者は、中国旅行が好きで、家内には同行をいつも断られるので、単独行。勿論現地の日本語ガイドはいるが、朝食は宿泊ホテルで済ませるのが常であります。なるべく朝食後の時間を有効に使う為、ホテルの朝食ルームになるべく早めに自由に席を決めてリラックスして食事をしたいが為です。そして、少しづつ中国人が朝食を摂りに現れるのですが、他にも沢山誰も座っていないテーブルがあるにも拘わらず、私の座っているテーブルに座り始めるのです。その時、筆者を同じ団体の仲間とみられたのか、だれが相手かは問わず、朝食の楽しさを共有したいが為のどちらだろう、と思うことがよくあります。

【深圳の地下鉄での出来事】
大学に特任教授として勤務していた頃、出張で深圳にある大学出先事務所に出かけた時のことです。地下鉄に乗車した途端多くの学生が一斉に席を立って席を譲ってくれようとしたのです。こちらが二人連れの白髪の高齢者ということもあったでしょうが、一斉に複数の若者が席を譲るかの様に立ったのです。これはきっと親切心の共有の表れではないか、この若者たちが国を背負う年齢になったころ、同年齢になった日本の若者は、同じ気持ちになって、親切にしてくれるのだろうか。恐れく我先に空席を目指し、たとえ高齢者が近くにいても空席に座るのはその若者の方だろう、と暗い気持ちになったことをおぼえています。
他にも中国人と日本人の性格的な差異についていろいろ感じたこっとがありまあすが、機会を見てまとめてみたいと思っています。
 
【大乗仏教(北伝仏教)とは】
大乗仏教は「自利利他」の精神が大きな特徴です。他人の幸せも自分の幸せであり、他人を幸せにできなければ、自分も幸せではないという考え方です。自分で修行するだけではなく、修行しているお坊さんに托鉢して教えを聞いたりすることも、修行みたいなものということです。とにかく自分でしっかり考えるようにしたら、ゴリゴリ修行しなくてもいいじゃない!という寛容な思想の為、一般受けしやすく人気もあります。インドから中央アジア諸国からシルクロードを経由して朝鮮半島経由で倭国に伝播したとされる仏教や、インドからチベットを伝搬した仏教は大乗仏教とされています。
 
【上座部仏教(南伝仏教とは】
一方、上座部仏教はまず自分で悟りを開かないと何も始まらない、という考え方です。しっかり約束ごとを守って、悟りを求めて熱心に修行するというストイックなイメージです。小乗仏教と呼ばれることもあります。前述の保守的な信徒がメインの思想です。
 
大乗仏教と上座部仏教とどちらが好ましいかは、時代,時代の状況によって異なるのではなかろうか、また、大乗仏教よりも、上座部仏教の方が、日本人の心に近いのではないか、と思わざるを得ません。これは、日本の仏教が、南伝仏教が東シナ海諸国を伝播し、これらの諸国から雲南省に伝播上陸し、一部チベット仏教の影響も受けて、雲南省の衣食住関連技術とともに長江沿いに水路東伝して、東シナ海沿岸の蘇州、杭州、福州といった港湾都市を経て海路倭国へ
直接、又は台湾、琉球を経て伝わったという歴史があったからではないかと思っています。
伝播地域的には南シナ海諸国で、タイ、スリランカ、ミャンマー等の国々で、互いに影響しながら伝播したのだと考えています。

A)境内一杯にわらべ歌の様な心地よい仏歌が聞こえる
筆者が中国雲南省大理にある崇聖三塔寺を訪問した時に気が着いたことです。その時のことを筆者のブログ「槐の気持ち」に記載してあるので、そこから抜粋転記して紹介します。

【雲南省大理 崇聖三塔寺(1〜4)】ブログ「槐の気持ち」 以下の写真番号は前記ブログに用いた写真番号と同じです。
この寺院は大理で最も有名な観光地と言える。大通りに面した崇聖寺正門をくぐると、すぐ右手に配置図と名称が中国語、英語、フランス語、韓国語、日本語で紹介されていた(写真1)。『大理古城の北に位置し、西に蒼山、東に洱海の景色、仏教文化、リゾート地を一体化している中国国内で有名な観光風景区と認められ、ISO9001-14001国際質量/環境管理体系認証に合格して、大理の目印とシンボルとなっている。』と観光案内に紹介されている。

ISO9001-14001の認証をとった寺院は国内外通じて初めて目にした。ISO9001-14001の認証取得の意義、取得の実務、取得後の運用について理解し、実行することは容易なことではない。この寺院が現代に生きていて、仏心の厚い人達にとっての聖地として生々しさを持っているからだろう。

本来、寺というのは観光の対象ではなく、心のよりどころとしての宗教に触れる場(聖地)であるはずで、中国寺院を訪問すると、そういう感じがすることが多い。とりわけ、ここ崇聖三塔寺は、境内が広大で、寺院の建築物も巨大で、しかも景観はダイナミックであり、象徴的な聖地としての条件が揃っていて、その聖地を訪れる意義が増幅されるのではないか。
 
すぐ正面に三塔が聳え立つのが目に飛び込む。
崇聖寺三塔と左から書かれた5枚の額を軒下に備えた門(写真2)をくぐると三塔が眼前に聳え立っていた(写真3)。日本語現地ガイドの葛さんが、「三塔のうち二塔はピサの斜塔と同じ様に傾いているのです。」と説明してくれた。そう言えばそうも見えるが、そうでもない様にも見える。この三塔を西から見たとき、傾いているのが左側(写真では右側)の塔であることが後で分かった。・・・中略・・・、
 
しかしよくよく考えると、遠近感が水平方向にも、垂直方向にも働く場合、遠方にある一対の高〜い建物は、ともに内側に傾いて見える筈だ。この原理を中国人に説明するのは難しいと思い、諦めた。

主塔の裏側の南北に位置する小塔(写真4a)は宋代に建てられ、八角形の密檐式レンガ造り(写真4b)、10層で高さは43m。主塔からの距離はそれぞれ70m。小塔の各層の屋根は上に向かって反り返り、梁や柱、斗組みなどは使っておらず美しいシルエットを作り出している。
 
中は各層違った仏像や蓮華、花瓶などのレリーフ(写真4c)が彫られ、八層目までは空洞になっている。小塔間の距離は97mで、三つの塔の位置関係はきれいな二等辺三角形を作っている。以上はチケットに繁体字で書かれていたことを筆者が日本語に翻訳した。繁体字で記されているのは助かる。
 
偶数階の塔は珍しいナ、とつぶやいていたら、現地日本語ガイドの葛さんは、「中国南部、特に雲南省にある寺院の塔は偶数階が多く、北部では、奇数階が多い」、のだそうだ。「日本は殆どが奇数で、特に五重の塔が多いですよ」と応じた。・・・中略・・・、
 
この三塔は中国の重要文物保護単位に指定され、白族(ペー族)文化のシンボルにもなっている、とのことだった。白族のガイドさん本人が自信をもって言うので間違いないだろう。この二つの小塔の少なくとも一塔は。ピサの斜塔なみに傾いている(写真4d)との葛さんの説明であった。これら三塔は蒼山を背景としたときと、洱海側を背景にするかで(写真4e)、見え方がまるでちがっていた。・・・中略・・・。
 
鐘楼を出て、西に進むと先ず雨銅観音殿(写真5)に至る。雨銅観音殿の外観は灰色の瓦と朱色の柱壁から出来ていて周囲の住宅の屋根瓦に溶け込んでいる。崇聖寺山門は蒼山を背後に従え、翼を広げた様にどっしりと構えていた(写真7a、7b)。山門には門が三つ設置してあるので、「三門」ともいう。
 
仏教の「三解脱門」、すなわち「空門」(仏門)、「無相聞」、「無作門」を象徴し、凡人がいったん仏門に踏み込むと、俗世を解脱し、“四大空に帰す”ことができる。とある。四大とは物質界を構成する四つの元素、すなわち地・水・火・風のことで、物質界にとらわれる気持ちから開放されると言う意味ととれるが、この広大な境内を歩いていると確かにそんな気持ちになれる。・・・中略・・・、
 
更に、その先にも阿嵯耶観音閣や、望海楼といった建造物があるはずだが、Uターンして、来た道を戻ることにした。阿嵯耶観音閣という殿は、まるで多重になった宝箱の一番中の箱に大切にしまわれているかの様であることからも分かる。
 
戻る道すがら、低木の緑陰のあちこちから心地良いメロディーが、絶え間なく聞こえてきた。非常に心地よく、癒されるメロディーで、どこか懐かしい所で聞いたことが有る様な曲である。本当に崇聖三塔寺は視聴覚に訴えた立体感✛1=4次元空間のある寺院と言える。
 
葛さんの話では、「崇聖三塔寺は中国で最も大きな仏教寺院です。」とのことだったが、z軸方向を含めて立体的な大きさ、即ち容積的にその大きさを計り、なおかつ、音のメロディーが時間軸の広がりを持つとすると四次元的には確かに葛さんの言う通りかも知れないと思えてきた。
 
焦点がズレてしまったが、この様に非常に大きな境内一杯に癒されるメロディーが聞ける寺院に日本では出会ったことがない。
何故なのだろう。この答はまだ見つかっていない。この曲名が、「大悲呪」であることは調べて分かった。尚、大理を案内してくれた葛さんは最後に分かったことだが、大理で有名な少数民族白族(ペー族)の娘さんだったのでした。

B)石窟寺院
石窟寺院も中国のどこにもあって日本には無い佇まいであります。中国のどこにもあって日本には無いのは地形の違いと、季節の違い、そして地震、台風、火山噴火被害などの自然災害に対する耐性、そして岩窟内生活に対する違和感の強さ、即ち慣れの有無の差でありましょう。山西省大同市を訪問し、現代版石窟仙人に出会って以来、それは自信を持って言えるようになっています。(以下の通りです。)
 
これらが先ず住環境としてどうか、また寺院建築に必要な木造建築技術が進化していたかどうかが挙げられると思います。またそれらに耐える岩窟が有っても、岩窟内に石像や塑像、壁画を形成する技術が無かったからではないか。住環境の良さを云々するときに、岩窟内での生活に慣れているかということも関係しているのは容易に想像できることで、中国の石窟寺院造立が最も盛んだったのは北魏時代でしたが、北魏の拓跋族は、もとは中国北方異民族であり、岩窟内での生活に慣れていたからという説がありますが、その通りだと思います。日本は山が多く、そこに生える木を加工し材木とし、それを組み立てて寺院にする木造建築技術が進んでいたので、岩窟に寺院を構築することが無かったのでしょう。
 
尚、ここで訪問したことがある中国石窟寺院で、紹介し忘れた石窟寺院があるので、ここで遅ればせながら紹介します。自分のブログ「槐の気持ち」で紹介しているので、そこから抜粋転記する形で以下に紹介することにします。

但し、これまで訪問した石窟寺院とは異なり、石刻寺院と称した方が近いとおもいます。また、これは仏教や儒教、更には関羽を祭った関羽廟ではなく道教を祀っているのでした。写真番号は、ブログ内の写真の番号です。

[中国 雲南の旅 昆明(18)“登龍門”、道教石窟寺院 ] ブログ
 司馬遼太郎の「街道をゆく−雲南のみち」には、女性が仰向けに寝そべっていて、その人の髪の毛がなびいたまま滇池(テンチ)に浸っている姿に見えると紹介している。その西山が昆明のあちらこちらから観ることが出来、雲南民族村からもそのシルエットを拝むことが出来ている(写真上1)。その西山の山肌には、修験の為の道がつくられていて、いくつかの石窟が掘られていたり、堂宇(道教だから観(かん)というべきか)が建てられたりしている。

2200m余りある山を登って行くのは、年齢的に厳しいだろうという配慮をしてくれて、登りはケーブルカーを使い、帰りは歩くというコース設定にしてくれた。ケーブルカーはかなり長く、途中左手に目を遣れば昆明池(滇池)が一望出来、右手には斜面に尖った石が飛び出して、チョッとした石林という光景、小さな鳥がさえずりながら右往左往して時々姿を見せるが写真を撮らせてくれる程じっとしていない。・・・中略・・・、
      
ケーブルカーを降りて少し行くと、西山で最高地点の標識に出会う(写真上9)。ここから下山である。岸壁に細く削り込んだウネウネした通路を下って行くが、所々に龍門と書かれた狭き門が現れたり(写真10)、石窟のトンネル(写真11)をくぐったりする。くぐり抜ける龍門には道教風の反り返った屋根がついていて、その色は金殿同様、くすんだ山吹色で、岸壁等に掘られた文字に付与された色は赤、青、緑のいずれかの場合が殆どである。
 
“登龍門”の語源である龍門は、門の一部を触ると科挙に合格するとか、出世すると言われているらしく、その門をくぐり抜ける人がこぞって、触ってゆくので、自分も触ってみた(写真上10)。とっくに人生のピークを過ぎ、せいぜい山道を安全に下って行こうという心境の自分にとって、ご利益など何も期待していないし、合格を目指す試験も無い。

 通路のところどころに道教石窟寺院がつくられていて、誰を祀っているのか分からないが、カラフルな聖像が立ち並んでいるところに遭遇する。日本の仏教寺院には有り得ないカラフルさで、配色の豊かさを見ているだけで楽しめる。・・・以下省略・・・。

C).神仏習合
中国には神道が無いので.神仏習合はあり得ないが、”神”というのが武神の場合は関羽と坂上田村麻呂の関係の様に互いに対応する神がいるので、神仏習合という言葉は無いが、同じところに釈迦と老子と関羽が並んで祀られている場面を何度か目にしたことがあります。また、マニ教の様に、勝手に仏教や道教と混交し、吸収合併の様な形で単身の仏教となってゆく形は中国の至るところにあったと思います。この言葉に関しては、筆者のブログ「槐の気持ち」の二編について嘉指してありますので、それらから、抜粋転記して紹介したいと思います。一つは前にも引用した談山神社のところで、もう一つは筆者が友人らと厳島神社を訪れた時の話題です。

 [万葉の夢 奈良 多武峰(とうのみね)談山(たんざん)神社 *** 談合のはじまり ***] 筆者のブログ「槐の気持ち」
・・・前略・・・、−多武峰(談山神社のこと)は観(道教寺院)か、神社か、寺かという項があった。それによると、 「談山神社という殺風景な名になったのは、明治時代の『廃仏毀釈』によってであり、社僧たちは還俗させられ、その翌年の『神仏判然令』によって仏教色が除かれたのだそうである。 それまでは社僧と呼ばれる天台宗の仏僧によって護持された。しかし、その以前は、平安期以来、多武峰(談山神社のこと)の祭神は「談峰(たんぶ)権現」であった。「権現」というのは、「仏が権(仮)に日本の神として現れる」という意味で、10世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。
[SAIKAI2010 厳島神社] Saikai20104)厳島神社 |  SAIKAI2010 4)厳島神社 | 槐(えんじゅ)の気持ち (easymyweb.jp)

・・・前略・・・、厳島神社ばかりが有名な宮島であるが、案内図を見ると、他にも様々な神社仏閣が混在していることがわかる。わが国では仏教の伝来以降、日本古来の神々と仏を結びつけ、仏や菩薩が人々を救うために様ざまな神の姿をかりて現われるという本地垂迹説が広まり、神仏習合が進展。神の島・宮島でも明治元年の神仏分離令までは、神社と寺院が密接に結びつき、独自の文化を築き上げてきた。この様に宮島の地が紹介されている。
・・・中略・・・、
 ところで、この厳島神社の名前の由来は何であろうか、最初に文献に現れたのは、811年「日本後記」においてであり、但し、“伊都岐島名神”の名で記されたのらしい。先記した宗像三女神の一神である市杵島姫との関係が深そうである。

伊都岐とは斎く、心身を清め神に仕える、の意で、伊都岐島とは神の斎き祭られる島の意であるという。宗像三女神は、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の総称である。・・・中略・・・、
以上、宮島(厳島)はついでに観光したとは言え、世界遺産に恥じない名所旧跡がふんだんにあるロマン豊かな地と感じられた。今回は、厳島神社を中心に、その近傍の多宝塔、五重塔、千畳閣(豊国神社)といった神仏混交の名所のみを回ったが、再度宮島を訪問し、弥山に登り、東西南北を見回してみたいものだ。

D)弥勒菩薩信仰と体形・姿勢
弥勒菩薩と言えば、広隆寺と中宮寺の弥勒半跏像が有名ですが、何故か、中宮寺の弥勒菩薩像はしなやかな体形の立像と思い込んできました。そして中国寺院でも多くの弥勒菩薩像を拝観したが、全てが半跏像だったか、更に行儀の悪い姿勢だった様に記憶しているのです。しかも体形はでっぷりと、半跏というより、胡坐をかいていたりしていて、よく言えば貫禄があり、よく言えば頼りがいのある体形の像を見て来た様に思います。
 
立像は日本製、又は日本向けに製作された弥勒菩薩像は立像が多いという印象を持っていましたが、何故か? という疑問を持っていました。そしてその理由は、もともと、古くから、体形は腹が出た体形をしている、恰幅の良いおじいさんという印象であり、立像では腹が出て恰幅が良いが、立っている姿勢ではつかれて仕方が無い、腹をへこませると貫禄がなくなるが、他の仏像と並ばせることが出来る。ということで半跏像または胡坐増になったと思っていました
 
弥勒菩薩に関する話題になりましたが、中国各地の寺院で弥勒菩薩像を拝観し、これだけ人々の心に浸透してきている弥勒菩薩信仰とはどの様なものかを概観してみたいと思います。
 
先ず最初にブロブ「槐の気持ち」を弥勒菩薩でキーワード検索でヒットしたうち、短い行数に最も多数の弥勒菩薩という言葉があった記事を取り上げてみたいと思います。それは、雲崗石窟寺院を訪れた時で、北魏の皇帝一族の弔いをするために、建立された複数の弥勒菩薩像についての話題であります。その部分を抜粋転記して紹介します。(既に一度紹介しているので再掲となり恐縮ですが)
 
窟の地面に突き出た岩の上を田さんに続いて、ぴょんぴょんと飛び移りながら窟の奥の方へ入って行き西の方に歩を進めると、三体の仏像に出くわした。
 
10mの弥勒仏(孝文帝自身)を中心に西側に弥勒菩薩像(息子の皇太子元恂)が、東側には女性と思われる弥勒菩薩像が掘られている。中心の弥勒仏はどっしり構えた表情だが、西側の弥勒菩薩像は怒っているように見え、東側の弥勒菩薩像は西側に向かって、慈しんだ表情をしている。・・・中略・・・。 
 
同著には、孝文帝と、孝文帝の徹底的な漢民族への同化政策に強く反対した皇太子との間の洛陽遷都に伴う骨肉の争いが紹介され、結局、孝文帝が息子を毒殺する破目になり、敬虔な仏教信者だった息子を往生させるために作ったのがこの第三窟とのことであった。
 
更に、孝文帝派(=遷都派=改革派)と皇太子派(=遷都反対派=保守派)との争いは続き、523年に平城北部に六鎮の乱が勃発するに及んで、第三窟仏像彫りが止む無く頓挫した。
 
この窟を掘削したことを通じて、北魏時代の民族融和の歴史をも語っている。鮮卑拓跋氏は北方少数民族として中国北方を制覇し、漢民族を含む各民族との同和、融合が余儀なくされた。この地が後に同じ少数民族の女真族(じょしんぞく)の遼(りょう)時代(じだい)に大同(だいどう)という地名に変えられたことに納得できた。
 
上記は、北魏における皇帝たちの為の弥勒信仰となっているが、一般民衆にとっての弥勒信仰とはどの様なものであったのか、Wikipedia記事を参考に紹介してみます。
いくつかの側面から見てみたいと思います。・・・以下省略。
 
[上生信仰 ―未来仏]
弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天(とそつてん)で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。
 
仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『阿含経』(あごんきょう)に記述が見える。この未来仏の概念は過去七仏から発展して生まれたものと考えられている。弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界に現れて衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされる

【下生信仰】
弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行した。下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰に対し、弥勒如来の下生が(56億7千万年などの)遠い未来ではなく現に「今」なされるからそれに備えなければならないという信仰です。
浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。そのため、反体制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各時代に数多く見られる。北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、その代表である。

【弥勒菩薩信仰】
弥勒菩薩像はインドでは水瓶を手にする像として造形されたが、中国においては、唐までは足を交差させ椅子に座る像として造像され、元・明時代以降は弥勒の化身とされた布袋として肥満形で表された。一方、飛鳥時代の日本では半跏思惟像として造像が行われた。椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて瞑想する姿である。大阪・野中寺の金銅像(重文)が「弥勒菩薩」という銘文をもつ最古の半跏思惟像である。京都の広隆寺の弥勒菩薩像(木像)は特によく知られており、国宝に指定されている(→弥勒菩薩半跏思惟像)。ただし、半跏思惟像の全てが弥勒菩薩像であるとは限らない。平安時代・鎌倉時代には、半跏思惟像は見られなくなり、立像や坐像として表されるようになる。京都・醍醐寺の快慶作の木像などがその作例である。
日本で広く目にされている弥勒菩薩像に、50円切手の図案がある。これは中宮寺の木造菩薩半跏像である。弥勒如来像としては、前述の奈良の東大寺の木像(通称「試みの大仏」)(重文)や、當麻寺金堂の塑像(奈良時代、国宝)、興福寺北円堂の運慶一門作の木像(国宝)などが知られる。

       第7回 完 第八回に続く